2007-05-15

29 伊豆半島:時間スケール 2007.05.15

 伊豆は、関東の人からすると、手ごろな観光地です。がんばれば日帰りだってできます。観光地だけでなく、海の幸、山の幸、そして温泉もあります。そんな観光地の伊豆をみていきましょう。

 私は、伊豆半島の付け根とも言うべき、湯河原(ゆがわら)に、1999年12月から2002年3月までの2年3ヶ月間、住んでいました。それ以前は、伊豆半島より少し北になりますが、小田原市の足柄(あしがら)平野の中に、4年間住んでいました。ですから。私は、6年間も、伊豆半島の近くに暮らしていたことになります。
 伊豆半島の大部分は、静岡県に属しています。湯河原は神奈川県ですが、街の中を千歳川という川が流れています。その川向こうは静岡県熱海市になっています。ですから、静岡県の伊豆半島は非常に身近な存在でした。
 湯河原は箱根の裏側にあたりますので、私にとって箱根はもちろん身近な存在ですが、箱根だけでなく、伊豆半島にも、身近なものでした。伊豆半島は、いろいろ見所があり、よく出かけたものです。
 私は、伊豆半島でも地質学的に興味のあるところを見に行きました。伊豆半島は、地質学的な見所だけでなく、温泉や観光でもいろいろ見所があるのをご存知の方も多いと思います。ところが、地質の見所と観光名所は、別々のところではなく、共通していることが多いのです。言い換えると、地質学的に面白い現象がみられるところは、観光地としても人気があるところだということです。
 伊豆半島には、いくつもの観光地がありますが、自然の景観が見所となっているところが多数あります。例えば、下田の爪木崎(つめきざき)では亀の甲羅のような不思議な岩場が、奥石廊崎や波勝岬、城ヶ岬海岸では嶮しい断崖絶壁、堂ヶ島では不思議なガケの模様や洞窟、天城の浄蓮の滝や河津の七滝(ななだる)では柱が並んだような岩からできた滝、達磨山や大室山ではなだらかで丸い山、天城山や矢筈山(やはずやま)は険しい山、一碧湖では丸い形の湖などなど、さまざまな景観があり、それぞれが観光地となっています。
 伊豆半島の観光地は、山あり、川あり、海ありで、非常に多彩で、いろいろなタイプの自然の景観を見ることができます。伊豆半島を単に観光地として巡るとあまり気づかないのですが、地質学を学んだことがある人や石に詳しい人には、ある共通点があることに気づきます。
 観光地の多く景観は、溶岩や火山噴出物、水中火山砕屑物がつくるものであったり、火山体自体や噴火口などのマグマの火山活動によってできたものなのです。もちろん、伊豆半島は、火山活動だけでなく、堆積岩からできている地層もあり、その中には化石が見つかることもあります。しかし、伊豆半島では多くの火山活動の痕跡を見ることができます。そして、伊豆半島は、今も活動中の火山地帯なのです。
 伊豆半島周辺をみていくと、活火山は、伊豆半島より北側の富士山と箱根にあり、伊豆半島を飛ばして、伊豆大島にあります。伊豆半島に活火山というのは、ぴんと来ないかも知れません。しかし、かつてニュースにもなって記憶にも残っているかもしれませんが、手石海丘という海底での噴火がありました。
 1989年7月13日、伊東市の沖3kmの海底で起こったこの噴火は、伊豆半島での2700年ぶりの火山噴火なのです。つまり、有史以来、初めての噴火となったのです。ですから、伊豆半島が火山地帯であるのを気づかなかったのも無理はないことなのです。
 伊東周辺には大室山や小室山の丸い山があり、それは小さな火山であることがわかっています。地形図をみると、伊東周辺には、このような小さな火山がたくさんあることがわかります。気象庁は、手石海丘の噴火後、伊東周辺の小さな火山を総称して、伊豆東部火山群と呼びました。
 地質学者は、伊豆東部には、60個ほどの火山があることを知っていましたので、東伊豆火山群と呼んでいました。また、火山は半島の陸上部だけでなく、手石海丘のように、伊豆半島と伊豆大島の間の海底にも40個ほどの火山があることがわかっていました。これらの海底火山は、東伊豆沖海底火山群と呼ばれています。
 気象庁は、陸地と海底の火山を総称して、伊豆東部火山群と呼びました。つまり、伊豆東部火山群は、伊豆半島の東半分と伊豆大島まで続くほどの直径30kmにも達する広い範囲に及ぶ火山地帯だったのです。その規模は伊豆大島や箱根より広く、富士山に匹敵するほどだったのです。
 伊豆東部火山群は、活動地域が富士山や箱根、伊豆大島と肩を並べるほどですが、火山の形や活動様式には大きな違いがあることがわかります。
 富士山や箱根、伊豆大島は同じような場所で何度も火山活動を起こしています。ですから、火山自体が非常に大きく高い山となります。このような火山は、一度の活動で終わるのではなく、何度も繰り返し活動しています。ですから複成火山と呼ばれています。
 一方、伊豆東部火山群は、大室山や小室山のように比較的小さい火山がほとんどです。古い時代の火山の形は、風化侵食で変わっていたり、マグマの種類によって形の様々ですが、小規模で一度の火山活動でできた火山であることがわかっています。このような火山を単成火山と呼んでいます。ですから、伊豆東部火山群を、地質学者は東伊豆単成火山群と呼んでいました。
 手石海丘の噴火は有史以来はじめての記録でしたが、東伊豆単成火山群は、15万年前ころから活動をはじめました。
 知られている最初の火山活動は、天城高原近くの遠笠山でした。13万年前には高塚山、長者原、巣雲山の3つの火山が活動しました。10万年前には伊東市南部でいくつもの火山が噴火し、一碧湖が噴火口として残っています。4万年前に鉢ノ山が、2万5000年前に登り尾南が噴火し河津七滝をつくる溶岩が出ました。1万7000年前に鉢窪山と丸山が噴火し、浄蓮の滝をつくっている溶岩が流れました。1万4000年前には小室山が噴火、4000年前には大室山が噴火し、城ヶ崎の溶岩をつくりました。3200年前に、天城山が噴火し、何度も軽石の噴出や火砕流が発生しました。2700年前に、天城山の北東斜面でいくつもの火山噴火が起こり、それ以降しばらく火山活動がおさまっていました。
 そして、1989年の手石海丘の噴火になったのです。ほんの2700年ほど休止期間があっただけでの活動です。それ以前の火山活動には、もっと長い休止期がありました。
 東伊豆単成火山群は、このような噴火の歴史をもっているのですが、人間の歴史には火山活動の記録は残されていませんでした。仕方がありません。地質学などない時代ですから、過去の火山活動を知ることはできませんでした。しかし現在では、火山活動が活発に起こっている地域であることがわかっています。ですから、伊豆東部火山群は、活火山に分類されています。
 人間にとっては、手石海丘の噴火は、有史以来はじめての経験だったのですが、地質学的はたまたまここしばらく活動がなかっただけの時期にすぎなかったのです。人間の残した記録は、大地や自然の記録とは、時間スケールが違っています。ですから、大地や自然の見方も、大地や自然の時間スケールで見ていく必要があります。そんなことが、伊豆の観光地から垣間見ることができます。

・心の目・
北海道の私が住む町では、暖かくなり、今が桜の盛りです。
このような気候や花の変化が、季節の巡り教えてくれます。
季節の巡りは、もちろん自然の時間の流れです。
しかし、今回のエッセイでも示したように
非常にゆっくりとした万年、億年の時間の流れも自然にはあります。
自然はあまりに壮大です。
時間という見方をしても、
風の動きや天気の移り変わりのような秒や分、時の時間スケール
太陽や月の動きのような日や月の時間スケール
季節の星座の変化のよな月や年の時間スケール
火山活動のような100年や万年の時間スケール
大地の変動のような億年の時間スケール
など、あまりに多様です。
このような自然の多様なスケールを見るには
人ももっと多様なスケールをみる心の目が必要なのでしょうね。

2007-04-15

28 神居古潭:人が行き交う渓谷 2007.04.15

 渓谷は、急流があり、交通にとっては障害となります。しかし、交通の要所となる渓谷には、古くから人が行き交ってきた歴史があります。岩に穿たれた穴から、そんな歴史を、垣間見ることができます。

 北海道の石狩川は、日本海に注ぐ、日本でも有数の大河です。石狩川は、河口から石狩平野を東に向かい、次に北に向きを変えます。本流からは、豊平川、千歳川、夕張川、空知川、雨竜川などの支流が分かれていきます。河口の石狩から江別、岩見沢、滝川、深川の町をへて、平野から渓谷に入ります。渓谷の先は、旭川がある広い上川盆地に抜けます。
 旭川は大きな町ですし、北見やオホーツクに向かう山越えの交通路にもあたり、渓谷沿いは重要な役割を果たしています。この深川と旭川の間にある渓谷は、神居古潭(かむいこたん)渓谷と呼ばれています。
 漢字で書かれていますが、アイヌ語に漢字をあてて地名としています。神居古潭のカムイとは「神」を意味し、コタンは「いるところ」という意味です。非常にうまく漢字をあてていると感心します。
 アイヌ語の地名があるということは、古くから神居古潭周辺にはアイヌの人が住んでいたこということになります。神居古潭の近辺には、竪穴式住居跡やストーンサークルなどの遺跡があり、縄文時代から人が住んでいたことがわかります。
 神居古潭は3kmほどの渓谷で、狭く急峻な地形です。そのため、重要な交通路でありながら、難所となっています。水上交通を利用していたアイヌの人だけでなく、鉄道や自動車を利用する現代人にとっても、神居古潭渓谷は、難所となっています。
 現在でも渓谷の嶮しさは変わりませんが、トンネルを使って、この難所を通り抜けています。私は、自動車で高速道路や国道、JRでも神居古潭を通りぬけていますが、トンネルを通ることになります。ですから、難所と感じることなく通過しています。多分、多くの人もそうだろうと思います。
 トンネルを通っている時は、岩石をみることはできませんが、旧道に入れば、渓谷を味わうことができます。旧道のドライブインのあるところから、石狩川にかかったつり橋を渡ることができます。このつり橋から、渓谷を眺めることができます。
 つり橋を渡った対岸には、函館本線の旧線にあった神居古潭駅があります。現在は駅としては使われてませんが、公園として整備されていて、駅舎も休息所として利用でき、SLも展示されています。
 神居古潭が渓谷となっているのは、固い岩石が出ているためです。どのような岩石がでているかというと、これがまた、なかなか面白い岩石なのです。
 北海道の地形を見ると、南北に伸びる山脈が走っています。日高山脈から大雪山にいたる山脈が主稜線をつくっています。しかし、よく見ると、その西側に、見え隠れしながらもうひとつの山脈が平行してあることがわかります。日高山脈の西側では、わかりにくいのですが、山並みがあります。そして北には、夕張山地から手塩山地へと続く明瞭な山並みがあります。夕張山地と天塩山地のつなぎ目が、神居古潭渓谷にあたります。
 日高山脈は変成岩や火成岩と堆積岩からできています。その西側は、神居古潭帯と呼ばれ、蛇紋岩と変成岩を主体とする岩石からできます。北海道の地殻変動は、プレートが東西方向にぶつかることでおこったため、大地の割れ目は、南北に伸びる方向に形成され、現在のような南北に伸びる山脈となったのです。これが日高山脈や神居古潭帯のでき方の概略です。
 日高山脈や神居古潭帯の山並みをつくる岩石でありながら、その性質は両者では大きく異なっています。
 神居古潭帯を構成する代表的な岩石は、蛇紋岩です。この蛇紋岩は、変わった岩石なのです。蛇紋岩は、濃い緑でテカテカとして、まだら模様となることがあり、文字通りヘビの紋のような見かけを示すことがある岩石です。
 蛇紋岩は、もともとマントルを構成していた岩石(カンラン岩と呼ばれています)が、地殻変動により、水を含み蛇紋岩となり密度が小さくなり、上昇してきたものです。蛇紋岩は、水の含む程度によって岩石の性質や見かけが変わり、含まれる水が少なければ比較的しっかりとした岩石になります。しかし、水をたくさん含むと、すべすべとして滑りやすく、侵食されやすい岩石となります。
 地下深部で蛇紋岩となった岩石が上昇する時、周囲にあった変成岩を取り込んで上がってくることがよくあります。これが神居古潭帯をつっている岩石の生い立ちです。
 神居古潭帯の南部で明瞭な山脈をなさなかったのは、水をたくさん含む蛇紋岩となっているためです。手塩山地にかけて明瞭な山地があるのは、水が少なく比較的しっかりした蛇紋岩(塊状蛇紋岩とよばれています)であるためです。また、夕張山地は、柔らかい蛇紋岩からできているのですが、蛇紋岩に取り込まれた固い変成岩を多く含み、それが高まりになっているです。
 水を含む蛇紋岩が出ているところは、崩れやすくトンネルも作りにくく、道路造成において、困難な工事となります。特に神居古潭帯南部や日高山脈では、北海道の東西の交通路をつくるとき、神居古潭帯の弱い蛇紋岩と日高山脈の高い山並みが、工事を困難にしています。
 神居古潭は今も昔も交通の要所ですが、固い岩石がでているためにトンネルができ、スムースに通行することができるようになりました。しかし、旧道にでて、渓谷を眺めてみると、昔のままの石狩川がそこにあります。
 つり橋や河岸から、川岸の石をよく見ると甌穴(おうけつ)と呼ばれるものが、たくさん見えます。甌穴とは、岩にあいた穴のことです。もともとは岩のくぼみであったのが、小さな石が水流のなかで回り、穴を深く掘りこんでいきます。このような現象が、長い時間かけて繰り返し起こると、固い岩でも深い穴が形成されていきます。
 甌穴の起源について、アイヌの伝承(ユーカラ)として、つぎのようなものが残されています。
 神居古潭には、ニッネカムイ(悪い神様という意味)が住んでいました。ニッネカムイは、ここを通るアイヌをおぼれさせようしてと、大きな岩を投げ込みました。いい神様であるヌプリカムイ(山の神様という意味)が、岩をよけようとして、ニッネカムイと争いになりました。その時、英雄サマイクルが、ヌプリカムイに加勢しました。形勢が悪くなったニッネカムイは逃げようとしたのですが、川岸の泥に埋まり、身動きができなくなりました。その時を逃さず、サマイクルがニッネカムイを切り殺しました。ニッネカムイが足を取られた跡が甌穴になったと伝えられています。周辺にはニッネカムイの首やサマイクルの砦とされる奇岩もあります。
 このようなユーカラができるもの、神居古潭渓谷が、古くから交通の要所でもあり、難所でもあったため、よく観察さていたためでしょう。現在でも、トンネル工事では、岩石が詳しく調べられます。そして安全性を確認されます。しかし、そのを通行する人々は、多くの人が苦労して確保した安全な交通によって、その嶮しさを気づかずに通り過ぎていきます。

・昔ながらの景観・
このメールマガジンためのホームページを作成するために、
共同研究をしている北海道地図株式会社は、
旭川に本社があります。
神居古潭渓谷を抜けたすぐのところに、本社があります。
私は、何度か出かけているのですが、
そのたびに、国道のトンネルを通り抜けています。
交通の要所なのですが、トンネルのため、
トンネルの切れ目からちらりと渓谷が眺められるだけです。
トンネルができたおかげで、
渓谷自体には開発が入らず、昔のままの自然を残しています。
アイヌの人たちが見たのと同じような季節の移ろいを
今でも見ることができます。
そして、カムイのユーカラに思いはせてみるのもいいのではないでしょうか。
北海道は、これから春を迎えて、いい季節となります。

・新学期・
新学期です。春です。
私の職場(大学)も家庭(次男)でも、入学の季節となりました。
北海道は、桜にはまだ早いのですが、
フキノトウや春に咲く木の新芽などが見えてきました。
道路の雪やすべてとけ、雪捨て場や軒下などで、
ところどろこに雪が残るだけとなりました。
今年は大学で、新入生のゼミを担当することになりました。
2年間の担任も含んでいます。
創設2年目の新学科ですので、
初めてのことばかりも多く、
戸惑いもあります。
希望に燃えた若者と接するのは楽しいです。
それなりに気も使いますが。

2007-03-15

27 大山:火山と人間の休止期の差 2007.03.15

 火山、長い休止期を経た後、活動することがあります。それは、人間には、なかなかマネのできないことです。今回は、長い休止期をもっている火山を紹介しましょう。

 鳥取県中央部の山合いに三朝(みささ)温泉があります。三朝温泉は、倉吉市で海にそそぐ天神(てんじん)川の支流の三徳(みとく)川の上流域の三朝町にあります。そんな三朝町に、私は5年間住んでいました。
 当時、大学の研究所が三朝温泉の少し下流側にあったのです。その研究所に、修士課程の学生として2年、しばらく間を置いて、博士課程終了後の研究生として1年、続けて学術振興会特別研究員の2年、あわせて5年いたことになります。後半の3年間は、特に集中して研究しました。
 その後私は、転々と移転を繰り返していたのですが、移転と共に、研究テーマも変わっていきました。公務員でもあったので、研究所に行くことがなく、興味も移ってきました。その後、研究所は、改組や建物の増改築などもあり、大きく変わりしてしまいました。当時のスタッフたちは、まだ何人もおられますが、大きく変わったようです。
 三朝に住んでいた時、大きな町は倉吉市でしたので、よく出かけていました。そんな時、町や日本海沿いでは、西の方に雄大で大きな山が見えました。大山でした。
 大山と書いて、「だいせん」と読みます。大山周辺の山には、「山」を「せん」と読む地名があります。扇ノ山(おおぎのせん)、氷ノ山(ひょうのせん)、蒜山(ひるぜん、上・中・下の3つの頂上があります)、須賀ノ山(すがのせん)、那岐山(なぎせん)などがあります。
 「せん」という読み方は、めずらしく感じますが、音読みとして、「さん」は漢音ですが、「せん」いう読み方が呉音としてあります。山岳宗教の影響もあると考えられていますが、中国地方に「せん」という山の名前が残っているのは不思議です。
 大山は、出雲国風土記では「大神岳(おおかみのたけ)」と呼ばれ、奈良時代以降、山岳信仰の対象の山となっています。大山は、明治の廃仏毀釈までは、大山寺の寺領なっており、一般人の登山が禁止されていました。
 大山は、富士山のような形をしている非常に雄大な山です。富士山のように見えることから、古くから、伯耆富士(ほうきふじ)、あるいは出雲富士(いずもふじ)と呼ばれています。
 大山は、火山です。大山は、北側に広い裾野を持っている風格のある成層火山です。大山の北の裾野は日本海に達しています。国道も鉄道も、大山の裾野を通っています。ですから、これらの場所から、雄大な大山を眺めることができます。
 成層火山は、溶岩や火山灰などの多様な火山噴出物からできます。裾野がなだらかなのは、火山噴出物が繰り返し堆積したためです。また、火山灰は、風化されば、肥沃な土壌になり、大山の裾野は、農耕地帯として田園風景が広がっています。
 車窓から眺める大山の裾野には、田畑の中に、深く削られた谷筋を多数見ることができます。その谷は、大山の山頂に向かっているように見えます。
 谷となっている深い溝は、侵食によるものです。溶岩は固いですが、火山灰などは、柔らかく侵食を受けやすいものです。新しい火山で現在も活動をしていれば、侵食されても火山噴出で堆積を繰り返すので、穏やかな裾野のままでいます。しかし、成層火山でも、活動を長くして休止しているものは、侵食だけが進みます。大山も、そのような火山です。
 大山は、約180万年前から活動をはじめています。その間に数1000年から数万年の休止期をはさみながら、50万年前ころまでに、巨大なカルデラができたと考えられています。このようなカルデラをつくった活動を古期とされています。
 そこに5万年から1万年前にかけて、新期の活動が起こります。新期の火山活動は、現在の山頂を構成している溶岩ドームと呼ばれるものを形成しました。大山をつくったマグマは、安山岩からデイサイトの性質を持つものがほとんどで、時には激しい噴火をしました。
 5万年前のプリニー式とよばれる激しい噴火は、大量の火山噴出物を放出しました。このときの火山灰は、大山倉吉軽石(大山火山灰層とも呼ばれることがあります)とよばれており、大山周辺では数mほどの厚さがあり、鳥取県東部では1mから数10cmほどの厚さとなります。大山倉吉軽石は、遠くまで風にとって運ばれました。北陸、信州、北関東、遠くは福島まで確認されています。このような広域に広がっているの火山灰で時代のはっきりしているものは、広域テフラと呼ばれ、地層の時代区分に利用されています。大山倉吉軽石も広域テフラです。
 2万年前に、激しい火山活動があり、大量の火砕流が流れ、溶岩ドームなどが形成されました。このときにできたのが、弥山(みせん、1709m)、三鈷峰(さんこほう、1516m)、烏ヶ山(からすがせん、1448m)の3つの溶岩ドームです。
 弥山と三鈷峰は隣接していて、これら2つのドームが現在の大山の主稜線をつくっています。烏ヶ山は弥山からみると南東側にあたります。弥山の北東側に三鈷峰はあります。弥山から東に続く稜線は、一等三角点(1710.5m)を通り、最高点の剣ヶ峰(けんがみね、1729m)にいたり、そこから北に曲がって、三鈷峰に至ります。
 大山の火山活動は、約1万年前で終わりました。それ以降、噴火記録の記録はありません。1万年前以降、火山活動をしていないため、大山は侵食を受け続けています。裾野では、柔らかな火山灰を、流水が侵食していったのです。裾野の深い谷は、そのような侵食の証拠なのです。
 大山の主稜線を形づくっている弥山と三鈷峰の溶岩ドームでも侵食は進んでいます。その北側の裾野から、弥山の山頂までは、登山可能す。しかし、弥山から三鈷峰にいたる稜線は、急峻で侵食が激しく崩れやすく、現在、縦走が禁止されています。
 稜線は特に南と北向き斜面での浸食が激しく、ふもとからみるとまるで切り立った壁のように見え、それぞれ南壁と北壁と呼ばれています。北壁の下は、元谷と呼ばれ、元谷の下流側には大神山神社の奥宮や大山寺があります。
 地表のでっぱりが、侵食を受けるのは、自然の節理でもあります。特に、日本海側に面する山陰地方は、季節風や風雪により、浸食を受けやすい環境です。まして、1万年前から活動をしていない火山ですから、大山は激しく浸食を受けています。
 大山は、遠目で見ると穏やかな山容にみえますが、山頂周辺の稜線が嶮しいのは、激しい侵食という理由があったのです。
 ただ、1980年代から、大山への登山者の急増によって、登山ルート周辺が踏み荒らされ、緑がなくなり、雨水による浸食が激しくなりました。これらは、人為による自然破壊が起こっていると考えられています。そのため、「一木一石運動」が、官民協同して取り組まれました。その運動によって、登山者は、一つの石を持って登って浸食溝をうめたり、植物の苗を植えたり、木道を整備したりして、徐々にでありますが、自然が回復つつあるようです。
 大山全体の侵食は、1万年間、活動をしていないためです。しかし、上でも述べましたように、大山は、数万年以上の長い休止期間の後に、再度火山活動を行ったことが知られています。ですから、大山がもう活動をやめた火山と見なすのは、危険なことです。
 私が三朝の研究所にいた時は、ある元素の分析(鉛の同位体)を中心に研究をおこなっていました。その元素を、非常の微量でも化学的に抽出する手法や装置で分析する方法などを、いろいろ試行錯誤しながら、3年間で完成させていきました。今もその手法は、研究所で改善されて利用されています。
 私は、三朝で行っていた研究は、転職後も続けるつもりでいました。しばらくは、環境が整わないので、その研究テーマは休止のつもりでいました。私は、別のことに興味を持ち出すと、そちらにのめり込んでしまうタイプです。ですから、現在ではその研究テーマは、休止から中止になってきました。
 研究所を離れて早16年もたちました。しかし、研究所時代のことは、今も思い出します。当時は、若さにまかせて、強い目的意識に突き動かされながら、夜昼なく研究に没頭していました。その結果、非常に苦労して目的を達成したことは、その後の人生を送っていく時に、大きな自信を与えてくれました。
 現在の私には、そのような分析から離れて、長い時間が過ぎ去りました。昨年秋、近くの大学にいる先輩から、当時私がやっていた元素の分析について話をしたいという連絡を受けました。私は、関連する資料を携えて先輩のいる大学に出かけました。彼も、ある故人の先輩から、その分析をすることが頼まれていたので、なんとか叶えたいということでした。大学院生が、その元素の分析ができるように、手助けをしてくれと頼まれました。私は引き受けたのですが、彼らも私も、どうも気力が湧かないようなので、分析はうやむやになってしまいました。
 人間は、一度中止という気持ちを持つと、以前のような気持ちに再度高めるのはなかなか困難なようです。まして、今別のことに興味をもっているとなおさらです。私は、今の興味に活動中なのです。

・露天風呂・
三朝温泉街の三徳川に三朝大橋があります。
その橋の袂の川原には、「河原風呂」と呼ばれている
無料の露天風呂があります。
脱衣所は男女別にありますが、湯船は混浴です。
メインストリートのある橋から丸見えの露天風呂なので、
入るのにはなかなか勇気が要ります。
三朝に住んでいた時は、何度か入ったことがありますが、
数えるほどしかありません。
それは研究所内に職員用の温泉があったからです。

・甲子園の土・
甲子園球場のあるとことは、もともと砂地で、土も白っぽいところでした。
そのため、ボールが見にくいという問題がありました。
ボールを見やすくするために、
黒っぽい色の土を混ぜるということが考えられました。
当初は淡路島の土を混ぜていたのですが、
現在では、白砂は中国福建省のものを
黒土は、大山の火山灰を混ぜて使われています。
大山の火山灰の最上位層にあたる「黒ぼく」と呼ばれる土です。
季節の雨量と日差しの違いで、
春には砂を多く、夏には黒土を多くしているそうです。

2007-02-15

26 羊蹄山:富士は数あれど 2007.02.15

 富士山が日本を象徴する山であるように、羊蹄山は北海道を象徴する山です。そんな羊蹄山を詳しく見ていくと、そこには代替ではない固有のモノがありました。

 羊蹄山(ようていざん)は、北海道の南部にあります。成層火山です。周りの山から独立しているためた、より雄雄しく、そして気高く見えます。羊蹄山は、富士山と同じように、円錐形の非常にきれいな形をしています。そのため、蝦夷富士とも呼ばれています。北西にあるニセコの山並みがごつごつした山並みであるのと、羊蹄山は比べると非常に「たおやか」な山容に見えます。
 私は羊蹄山に登ったことはないのですが、何度も見たことがあります。北海道の人が羊蹄山に対して抱く気持ちは、関東や東海、中部地方の人が富士山を見たときのものと同じです。私は、以前神奈川県の富士山が見えるところに住んでいたので、両方を見て感じたことです。
 北海道で羊蹄山をみても、同じように感動します。富士山と同様に、羊蹄山も眺める対象として非常に優雅であります。それは、独立して存在する成層火山に共通するものかもしれません。
 大きな成層火山の麓には、湧き水がいたるところにあります。羊蹄山の麓にも、名水として有名な京極の「ふきだし」公園をはじめてとして多数の湧水があります。湧水は年中枯れることなく湧き出しています。
 また、羊蹄山の山麓には、畑が広がっています。それは、羊蹄山の火山噴出物が風化をして肥沃な土壌になっているからです。これも成層火山では役見られるものです。
 同じ成層火山である羊蹄山と富士山は、一見すると似ていますが、よく見ると違いもあります。羊蹄山より富士山の方が、より「たおやか」に見えます。それは、気のせいでしょうか。多分それは、羊蹄山の方が傾斜が急で、険しいからです。富士山の高さに比べて裾野の広がりが広く、羊蹄山は裾野が狭くなっています。そのため、富士山の方が、たおやかにみえるのでしょう。
 このような形は、火山をつくったマグマの性質を反映しています。富士山は玄武岩質のマグマでできているのですが、羊蹄山は安山岩質のマグマでできています。その違いが、このような山容の違いを生んでいます。
 マグマの岩質の違いは、温度や化学成分の違いを表しています。そして、溶岩などのマグマに由来する噴出物の物理的な性質の違いを生みます。
 マグマの温度が高いと流れやすくなります。物質の流れやすさを粘性と呼びます。粘性は、物質に力を加えてときに生じる物質内部の摩擦力の大きさで、新しいSI単位系ではパスカル秒(Pa・s)ですが、昔はポアズという単位が使われていました。1パスカル秒は10ポアズとなります。水でも0℃の時(0.018ポアズ)と100℃の時(0.003ポアズ)を比べますと、100℃の時の方が6分の1くらいの粘性しかありません。
 また粘性は、化学組成によっても変化します。マグマの主要成分である珪酸(SiO2)は、普通のマグマでは重量で半分以上を占めます。この珪酸が少ないと粘性は小さく、多くなると粘性が大きくなります。これは珪素(Si)の酸素(O)の結びつきが多いほど粘性が大きくなるということです。珪酸が少ないと、他の元素(主に金属元素)が増え、珪素と酸素の結合を拒んでいるということになります。
 さてこのような一般論をもとに、富士山と羊蹄山のマグマを考えていきましょう。富士山は玄武岩質マグマからできていました。一方羊蹄山は安山岩質マグマでした。温度で見ると、玄武岩質マグマは約1200℃、安山岩質マグマは1100℃ほどです。ですから、温度からすると玄武岩質マグマの方が粘性が低くなります。また、玄武岩の珪酸の含有量は、重量で50%程度で、安山岩では60%程度です。化学成分から見ても玄武岩の粘性は小さくなります。
 以上のことから、富士山のマグマは粘性が小さく流れやすく、羊蹄山のマグマは粘性が大きく流れにくくなります。流れやすいマグマからできた富士山はなだらかな山容となり、富士山のマグマと比べれば流れにくいマグマからできた羊蹄山は、険しく見えます。このようなマグマの性質の違いが、山の姿の違いとして現われています。
 考えてみると、非常に基本的な違いですが、マグマの化学成分や温度の違いが、火山の姿に個性を与えていることがわかります。さらに火山に個性を与えているのは、活動の履歴の違いです。羊蹄山には羊蹄山の個性があります。
 その個性の一つとして、山麓の景観があります。その景観には、今まで知られていなかった火山の存在を解き明かす証拠がありました。
 羊蹄山の山麓の地形図をみていると、ニセコ側、つまり西側にごつごつした地形が特徴的に見られます。数10mから数100m程度の小高い高まりが、不規則に散らばっています。これは、流山(ながれやま)地形と呼ばれているものです。
 かつて羊蹄山が大噴火したときに、火山体を壊れたものが雪崩のように流れ下った(岩屑なだれと呼ばれています)と考えられています。この流山の高まりをつくっている岩石は、現在の羊蹄山をつくっている火山岩(ソレアイト質)とは、だいぶ違った性質のもの(カルクアルカリ質)であることが分かってきました。そのため、現在の羊蹄山より前に、タイプの違う火山活動によってできた火山があったと考えられています。
 この古い火山は、「古羊蹄山」と呼ばれています。10万年前~5万年前に活動をして、今の羊蹄山よりやや小ぶりの火山をつくっていたと考えられています。そして、約4万5000年前に、古羊蹄山の西部が、噴火によって大規模に崩壊しました。それが、現在、西の山麓に広く分布している流山となっていると考えられています。
 しかし、4万5000年前から1万年前にかけて、現在の羊蹄山(新羊蹄火山と呼ばれています)が活動を開始して、古羊蹄火山を完全に覆い隠してしまいました。ですから、現在では流山以外に、古羊蹄山の露頭はどこにも見ることができません。
 1万年前以降は、山頂だけでなく、北側山麓でも噴火(側火山と呼ばれます)が起こりました。半月湖から巽(たつみ)にかけていくつかの火砕丘が見られます。一番最近の活動は、巽火砕丘で約6000年前のものです。それ以降、羊蹄山の活動は知られていません。
 でも、火山学者たちは、一般的な火山の一生からみて、羊蹄山はまだ完全に成長しきっていない火山だと考えています。ですから、現在は活動は休止していますが、将来、新たに活動時期が訪れると考えています。
 日本各地には、成層火山があり、○○富士と呼ばれています。それぞれの富士には、その富士固有の性質があります。その個性は、火山の姿や周囲の地形、岩石などから探ることができます。そして個性から、火山の生い立ちや履歴が解明されていきます。蝦夷富士には、蝦夷富士の生い立ちがあることがわかってきました。

・代替ではない・
実は羊蹄山は、今年の正月の話題にしようと考えていました。
ですが、連載の順番が北海道ではなく、本州の番だったので、
しかたなく、2月にまわしました。
私が本州から離れてもう5年近くたちます。
ですから、富士山を見る機会が少なくなりました。
かわりに蝦夷富士を見る機会が多くなりました。
でも考えれば、羊蹄山は富士山の代替品ではありません。
固有の生い立ちを持ち、固有の特徴をもっています。
だから、羊蹄山そのものを愛でるべきでしょう。
富士山には富士山のよさ、羊蹄山には羊蹄山のよさがあるはずです。
その個性を重んじて、個性を愛でるべきでしょう。
これは、人を見る時、人が生み出したものを評価する時に
持っているべき視点でしょうか。

・模様替え・
大学は一般入試も終わり、卒論発表会も終わり一段落です。
私は、来週には研究室の模様替えをしようと考えています。
今まで、不便だと考えていたことを解消しようというのが
今回の模様替えの目的です。
しかし、荷物が増えているために、すぐにはできません。
また、ロッカーなどは中身をすべて抜いても、
一人では動かせないものもあります。
ですから家内に応援を頼んで、半日がかりでやろうと考えています。
来週の早い時でないとだめです。
今週は予定がつまっているため、来週でないとだめです。
また、下旬や翌週になると3月早々締め切りの申請書があります。
ですから、来週早々でないとだめです。
その時はサーバーなどもすべての電源を切って
配線もしなおすつもりです。
早めに予定を入れて、大々的にやろうと考えています。

2007-01-15

25 隠岐:新旧の歴史の連結 2007.01.15

 日本海に浮かぶ隠岐は、古くから人が住みつき、長い歴史をもち、今も人々は歴史を刻み続けています。地質学的にもみても、隠岐は古い記録と新しい記録が残されている島です。それらの新旧の歴史が隠岐では連結して見えます。

 隠岐は、日本海に浮かぶ大きな島です。さすがに佐渡や対馬と比べると、見劣りがしますが、隠岐の島後(どうご)の中にいると、そこが島であるということを忘れてしまうほどの大きさがあります。それは、海の見えない内陸で、田畑や山、森林などの日本の里山の景色があるためかもしれません。
 私は1980年に一度訪れたのですが、その後、機会がなくいっていません。チャンスがあれば、また行きたいものです。
 私が隠岐を訪れたのは、大学の修士課程の1年生の6月下旬でした。私の指導教官であるT先生が、隠岐で産出する捕獲岩(後述)の試料を採取するというので、そのお供として勉強のためについていきました。
 当時、私は学生のいない大学院(当時は2年間で修了する修士課程だけしありませんでした)と研究者(教員)だけしかいない大学の研究所にいました。その研究所には、3つの専攻があったのですが、大学院生も少なく、総勢6名(内1名は研究生)しかいませんでした。そして同じ専攻には3人の修士課程1年生だけがしかいませんでした。T先生を指導教官としていたのは、私だけで、他の2人は違う先生を指導教官としていました。
 そのころ私は、T先生と相談して修士論文のテーマを決めて、野外調査をする地域も選んで基礎的なデータを集めたり、論文を読んでいるところでした。7月になったら、長期の予定で野外調査に出かけるつもりでした。そんなころ、隠岐に出かけました。それは、T先生が一人で調査にいくのは大変だし、調査の準備や手伝をする必要があったからです。自分の修士論文のテーマとは違うのですが、別の地域で地質学的に有名な隠岐の地質を見聞することは勉強になります。そして、2泊3日の調査で、出会って間もないT先生と、親睦を深めることも重要な目的でした。
 隠岐の島後は、日本列島でも非常に古い岩石が出ていることで有名です。その石は、隠岐片麻岩と呼ばれるものです。隠岐に見られる岩石は、約20億年前に地下深部で形成された非常に古いものであることがわかっています。中には30億年前にできた鉱物(ジルコンと呼ばれているものです)も見つかっています。片麻岩は変成岩の一種で、元になっている岩石は堆積岩や火成岩などいろいろな種類があります。片麻岩以外にも、一部溶けてできたミグマタイトと呼ばれる岩石もあります。
 同じような一連の岩石は、中部地方の飛騨地域と韓半島で見つかっています。ですから、片麻岩のもととなった岩石ができた頃は、日本列島と韓半島、つまりユーラシア大陸とがつながっていたことになります。当時、日本海も日本列島もなく、そこはユーラシア大陸の東端にだったのです。
 4000万年前から2000万年前にかけて、マグマの激しい活動によって、隠岐島後には直径12、3kmほどの環状のカルデラが形成されます。激しい火山活動とともに、大陸の東端に大きな亀裂が形成され海が進入しました。西南日本の研究から、1500万年前に、亀裂で切り離された大陸の切れ端(日本列島の原型)は、回転をはじめ、1300万年前にはほぼ現在の位置へたどり着いたと考えれられています。もしこの研究の結果が正しければ、日本海の形成は、200万年ほどの間に起こったことになります。
 ところが、対馬海峡は第四紀まではユーラシア大陸とつながっていて、氷期と間氷期の繰り返しによって、浅い海峡は閉じたり開いたりを繰り返しながら現在のように開いていったと考えられています。
 それは、火山が活動していた中新世(2500万~1100万年前)にたまった地層からわかります。地層には、火山灰含むものもありますが、珪藻土(海のプランクトンが集まってできたもの)や、海の生物(サメや魚)や淡水の生物(海や陸上植物)などの化石を含んでいます。このことから隠岐は、海水が入り込んだ時代(海進)や海水が引いて淡水だけの湖の時代(海退)が繰り返していたことがわかります。
 これが隠岐の石が語る日本列島形成前後の歴史です。
 隠岐には、その後の新しい時代に起こった激しい火山活動も記録されています。火山活動は、600万年前から300万年間にわたって続きました。その火山岩の中に捕獲岩が見つかります。
 T先生のお供で捕獲岩をとりに行ったといいましたが、捕獲岩とはいったいどういうものでしょうか。捕獲岩とは、文字通り、捕獲されてきた岩石です。何に捕獲されてきたかというと、マグマです。マグマが上昇してきて地表に達したものが火山となります。火山の溶岩や噴出物の中には、マグマが上昇中に通り道にあった岩石を、取り込んで持ってくることがあります。そのため、マグマが固まった火山岩の中に捕獲岩が見つかることがあるのです。
 もし、マントルのような深いところで形成されたマグマであれば、マントルを構成している岩石が捕獲岩として手に入れることができます。地上にいながらにして、マントルの岩石を手にできるのです。マントルの岩石は非常に貴重で重要です。
 マントルまで岩石を掘りに抜くことは、まだできていません。ですから、マントルの岩石を直接調べることはまだ人類はできないのです。マントルの岩石がまくれ上がって出ている地域はありますが、それはもはや現在のマントルではなく、昔のマントルであったものです。現在あるマントルの岩石を手に入れることは、今のところ捕獲岩でしかできません。ですから、マントルの捕獲岩は非常に貴重な試料といえます。
 マントルを構成する岩石は、カンラン岩と呼ばれています。カンラン岩は、名前の通り、カンラン石をたくさん含んでいます。他にも輝石や長石、スピネルなどを含むことがあります。このような捕獲岩からマントルの様子を詳しく探ることができます。
 カンラン岩を調べた結果、そのカンラン岩のあった場所は深度30kmくらいいのことろだと考えられています。これは、地震波で調べた結果とも一致しています。ですから、その捕獲岩を取り込んできたマグマはもっと深いところで形成されたものであることになります。
 どこでできたマグマでも、すべて地下の岩石の中を通り抜けてくるのですから、すべてのマグマで捕獲岩があってもいいのですが、必ずしもそうではありません。なぜなら、マグマに取り込まれた岩石も、長い時間マグマの中にあると溶けてしまったり、重ければマグマの底に沈んでしまいます。マグマだまりなどをつくって長く液体のままマグマとしてとどまると、岩石が沈んでしまいます。取り込まれた岩石がマグマの中で岩石のまま残っているためには、ある程度速いスピードで、地下にほとんど止まることなくマグマが上がってこなければなりません。一気に地表に噴出する必要があります。
 マグマの上昇スピードが速くなるためには、マグマが大きな浮力を持っていなければなりません。その浮力は、ガスの多いマグマであれば得ることができます。マグマができたときにガスの成分が多いものあれば、ガスの浮力によって、マグマは速く地下を通り抜けていきます。そのまま地表に出てくれば、捕獲岩が溶けたり、沈むことなくマグマと一緒に上がってきます。
 隠岐の玄武岩は、アルカリ玄武岩と呼ばれるもので、ガスの成分をたくさん含んでいるものです。
 隠岐の島後は、島の半分ほどを火山岩に覆われています。新生代の中新世(600万年前)頃から、何度かの活動によって起こった多様な火山活動がありました。完全に隠岐が陸化して島となった後、最初に流紋岩や粗面岩と呼ばれるアルカリ岩質のマグマが活動します。その後、捕獲岩をともなう玄武岩のマグマの活動(西郷玄武岩と呼ばれます)に変化していきます。これらの玄武岩はアルカリ玄武岩と呼ばれるもので、日本海に面する山陰地方に多く見られるものです。
 隠岐で見つかる流紋岩のなかには、黒曜石をたくさん含んでいます。その黒曜石は石器に利用され、山陰地方の縄文時代の遺跡からたくさん見つかっています。隠岐の黒曜石による石器は、東は能登半島、西は韓半島にまで見つかっています。縄文の人がそのころ広く交流していたことをうかがわせます。そして、大地の恵みの黒曜石が、当時の重要の道具の材料となっていました。
 人間の歴史から見て、隠岐は古くから重要な役割を果たしていたことになります。しかし、隠岐の20億年以上におよぶ大地の歴史から見ると、黒曜石は新しい時代のできことです。地球の歴史の新旧と、人間の歴史の新旧が隠岐では連結しているように感じます。

・国境の島・
隠岐は、人の歴史によれば、
縄文や弥生時代から人が暮らしていた証拠があります。
大化の改新以前には億伎国造が、
すでに設置されと考えられています。
また、隠岐は、対馬と並んで、
韓半島の渤海や新羅との交渉の記録があります。
ですから、日本と韓半島との関係が緊張すると
隠岐にも影響があり、日本の前線基地がおかれたこともありました。
その緊張は今もたえることなく、
隠岐の北西にある竹島もその象徴となっています。
このような緊張感は、国境近くにある島の宿命なのかもしれません。
しかし、そのような激動の地にあることが、
隠岐の歴史の多様さを生み出しているのでしょう。
それはこれからも国家が存続し、
国境のある限り続くことなのかもしれません。

・知恵・
北海道は正月明けから冬らしくなってきました。
冷え込みも強くなり、雪も降るようになりました。
雪が少なく思っていましたが、
これのまま春といくとは誰も思っていないでのでしょうが、
やはり雪は北国の生活に不便と苦労を強いります。
でも、この雪こそが北海道や北国の個性であります。
そこに住み暮らす以上
それを風土、自然として受け入れなければなりません。
できればハンディをプラスにする工夫が必要ですが、
雪の夏の冷房への利用なども考えられています。
しかし、昔の知恵はなかったのでしょうか。
古くから北国で暮らしている人たちの知恵、
アイヌの人たち、縄文人達の生活から学ぶことがないでしょうか。
あるいは、遠くイヌイットやラップランドの人の暮らしからでも
他の生き物からでもいいかもしれません。
もしそのような知恵が見つかれば、
今の技術力をもってすれば、よりいいものにできると思います。
私は、いの一番に雪道で滑らない靴を早く開発していほしいものです。
でも、これだけ多くの人が苦労をしているのに、
いまだに万能のものはないです。
私たちの知恵は、まだまだなのですかね。

2006-12-15

24 サロベツ原野:時間以上になくしたもの 2006.12.15

 湿原は、人が利用しづらい環境です。利用するために、いろいろ手を入れなければなりません。まして、北海道の北方の湿原ではなおさら困難です。そんな条件が、厳しくも美しい自然を、今に残すこととなったのです。

 私は、サロベツ原野には2度行っています。一度目は30年近く前の大学生の頃です。6月初旬の花盛り頃にいきました。学生時代はお金がなったので、札幌から半日かけて鈍行列車で最寄の駅までいき、無人の駅舎で野宿をし、翌日徒歩でサロベツ原野に向かいました。徒歩のために、サロベツ原野の大きさや自然を身を持って感じました。2度目は、2004年の春に、海岸沿いを自家用車で走りぬけました。何箇所か止まりましたが、その止まったところだけが、サロベツ原野の点として、記憶に残ります。
 若い頃は、口では「忙しい」といいながら、暇を見ては旅行に出かけました。今思い起こすと、よく旅に出てたものだと思います。授業をだいぶサボったのでしょう。それに、夏休みの冬休みのたくさんの時間がありました。それに今と比べれば、時間と体力はずっとあったので、強行軍で肉体的な旅行もできたのでしょう。もちろんお金はなかったので、安上がりに旅することが最優先すべきことでした。お金を節約するために、野宿やヒッチハイクをしながら旅行したものです。その頃は、目的地にたどり着くために、まさに旅行をしていたような気がします。
 仕事に就き家族ができると、今度は時間に追われる生活となりました。金銭的に余裕があるのに、本当に「忙しく」て、自由に旅行ができなくなってしまったのです。最近の私の旅行は、目的地にいかに早くたどり着くか、そしていかに少ない時間で目的を遂げるか、というものになってきました。旅行とは、プロセスではなく、目的を満たすために時間と有効に使って行って帰ってくるのが最優先すべきこととなりました。それでも、今の私とっては、大切な旅行なのです。
 道北の一級河川である天塩川は、天塩町で日本海に注ぎます。天塩川の河口近くで合流するサロベツ川は、天塩川の北側に広い湿原となった氾濫原をもちます。これが、サロベツ原野です。サロベツ原野は、東西5~8km、南北27kmの大きさを持ちます。東と西に丘陵が境となっています。
 サロベツ原野の東側は、大曲断層の西に鮮新世の勇知(ゆうち)層と更新世の更別(さらべつ)層からなる丘陵があります。これらの地層は、海から内湾そして潟へと環境が変わりながらできたものです。現在のサロベツ原野は、かつて海が入り込んでいたことが地層からわかります。やがて、海から潟、そして淡水のサロベツ川の氾濫源となり、湿原へと変化していきます。
 サロベツ原野の西側は、直接海になるではなく、砂丘があり、そこが湿原の境界となります。天塩から稚咲内(わっかさかない)の海岸は、日本海に沿って、まっすぐな海岸線となっています。海岸線に沿って南北に伸びる砂丘(完新世)が、何列かあります。砂丘の延長は35km、最大幅は2kmに達します。その砂丘群が、サロベツ原野の西端にあたります。砂丘と砂丘の間には、湿地や沼地が点在しています。一番奥まった砂丘との間にも、湿原があり、小さな沼があります。その砂丘を東に越えると、サロベツ川の湿原となります。湿原には、南から、パンケ沼、ペンケ沼、そしてサロベツ原野の一番北側には兜沼などがあります。
 サロベツ原野が盆地状の地形になったのは、第三紀から第四紀にかけです。河川の堆積物の流入によって、堆積盆地は埋まっていきますが、盆地が沈降していたので、厚い堆積物が溜まることになります。ウルム氷期の海退の後、間氷期で暖かくなり、海水面が上昇し、海水の進入(海進)します。この頃(約1.2万年前)から今のような湿原となったことがわかります。7000~6000年前には海進が最大になり、大きな潟湖ができました。やがて、堆積物の堆積と海退によって、陸地化し、泥炭層の形成され、現在のサロベツ原野になったと考えられています。
 サロベツ原野の湿原には、泥炭層が分布します。そのため泥炭地固有の植生が形成されています。水鳥たちも多数見られ、繁殖地や渡りの中継地となっています。湿原は開発に手間と費用がかかるため、自然状態のままあまり開発されれことがありませんでした。そのために本来の自然がよく保存されています。1974年9月20日に、利尻礼文サロベツ国立公園に指定されました。また、2005年11月には、サロベツ原野がラムサール条約に登録されています。
 最初のサロベツ原野への旅行は、友人と2人でいきました。夕方駅にたどりつき、夕日を見に山の展望台まで歩いて登って時間をつぶしました。早い時間に最終電車が出た後、駅舎でラーメンつくり、焼酎を飲んで、ベンチで寝袋に包まって寝ました。翌日早朝、パンをほおばり、サロベツ湿原に向かって歩いていきました。初夏とはいえ、朝霧の中を歩く長い道のりは寒く、友人との会話も言葉少なくなってきました。そんな頃、ある牧場の前を通りかかると、一仕事終えたようで、その家の方から話しかけられました。立ち話をしていると、これから朝食だから、たいしたものはないが、食べて暖まっていきなさいといわれました。軽く朝食済ませていたのですが、暖かさに惹かれて言葉に甘えることにしました。かじかんでいた体には、ストーブの炊かれた暖かい部屋はありがたいものでした。出していたただいたのは、大き目に切ったバターをのせた白いご飯に、どんぶり一杯の味噌汁であった。当時の北海道では一般的に朝ご飯でした。大学の寮の朝食も似たようなものでした。そして絞りたての暖められた牛乳。どれもが、かじかんだ体を溶してしまいそうな暖かさでした。こんな過酷な自然の中で生き物を相手に生計を立ておられる方が、見知らない自分たちに親切にしてくさいました。その親切が、なによりも暖かく思えました。朝食頂いたあと別れを告げ、霧が薄らいだ湿原の中を、私たちはまた歩き出しました。
 私たちは、当時の若者としては当たり前の旅行の仕方でした。その時間をかけて歩くという旅行をしたおかげで、こんな人の暖かさに触れる出会いがあったのです。その記憶は、何十年たった今でも、暖かいものとして忘れることなく、思い出されます。もしかすると、旅行の本当の醍醐味とは、こんな人との触れ合いなのではないでしょうか。
 若いとき、お金がなく時間だけが自由に使えた時代は、じっくり時間かけて歩くことで、その地の人たちと同じ目線で、その地の自然に肌で触れることができました。そして時には、人とのふれあいが生まれます。これは、何事にも変えがたい経験、そして思い出となります。
 今は、お金があるのに、時間がありません。するとどうしても、目的地まで速くて便利な移動手段を利用します。北海道では車を使えば、目的地まで速く楽に行けるようになりました。その代わり、人の暖かさに触れる機会もなくしたように思えます。仕事や家庭を持つようになって、時間なくなり、旅行も目的を満たすため、お金をかけるるようになりました。どうも私は、時間以上に旅行するという本質を見失ってしまったのかましません。

・湿原の回復・
サロベツとは、アイヌ語の「サル・オ・ペツ」から由来しています。
葦原を流れる川という意味です。
葦とは、低層湿原に群生している植物で、
まさににサロベツ湿原を表しています。
北海道には、釧路湿原がありますが、
サロベツ湿原北海道の最北端に広がる2万3000haにもなる湿原です。
広大な泥炭地は、酪農には不向きですが、
各地で大規模な農地開発が行われ、
泥炭地の排水やサロベツ川のショートカットなどで
湿原の水位が次第に低下しました。
しかし、これは、自然を変えることにつながりました。
国立公園内でも、泥炭地の乾燥化が起こり、西側にはササが侵入してきました。
公園の自然を復元するために1983年から
環境庁はサロベツ湿原保全事業をはじめれています。
さまざまな調査研究を通じて、湿原の回復を目指しています。

・記憶のサロベツ・
ここで述べた記憶は、だいぶ昔ことです。
しかし当時の写真をみると、当時の様子を、断片的ですが、
鮮明に思い出してしまいます。
石炭ストーブ匂い、夏だというの寒い駅舎。
暖かいタマネギとジャガイモの味噌汁、
駅舎で食べたインスタントラーメンの味。
バターの塩味、朝食の食パンにマヨネーズをかけて食べた味。
節くれだった牧夫の指、長髪でなまっちょろい自分。
貧しくても心豊かな人々、野望でぎろぎろした目の自分。
湿原の厳しさに耐えて咲く花々、寮の5人部屋の雑然さ。
すべてが過去のことです。
過去の記憶ですから、美化されているかもしれません。
しかし、そんな時代を生きてきた人、
そしてその人と関わった自分が記憶の中にはいます。
私の記憶のサロベツの湿原と数十年後車から眺めた湿原は、
同じようでもあり、違っているようにも見えました。
豊富、手塩中川、羽幌、近くには何度かいってますが、
サロベツ原野は、ここで紹介した2回だけしか訪れていません。
でも、今も30年前のサロベツ原野が私の記憶に生き続けています。

2006-11-15

23 木津川:剛より柔を 2006.11.15

 自然に対して人間は、剛で接しているように思います。しかし、私の故郷にある流れ橋から、柔の接し方があること教えてくれます。そんな私の思い出の川と橋の話です。

 このメールマガジンの読者の方々は、故郷から離れて暮らしておられるのでしょうか。私は、19歳で故郷を出てから、日本各地を点々して、今では北海道に居を構えています。私の故郷は、京都府城陽市というところですが、そこには、今も母や弟そして親戚が住んでいます。北海道に住むようになってから、なかなか帰省することができなくなりました。
 自宅を出て大学生として、ひとりで暮らしているころは、帰省すると京都や奈良など、今では観光地となっている歴史を持つ神社仏閣などの名跡をいろいろめぐっていました。その理由は、学生で時間があったこともさることながら、故郷をめぐる私の心情の変化があったためです。
 私は京都で生まれ育ったのですが、その風土、風習が住んでいるときはあまり好きなれなかったのです。遠くの大学を選んだのも、故郷の呪縛から逃れたいということも、理由の一部となっていました。ところが故郷を離れて、自分の生まれ育った風土を冷静に見ることができ、嫌なことばかりではなく、いいところもたくさんあることが分かってきました。そのいいこと探しの最初として、故郷の歴史に注目したのでした。
 ところが、仕事を持ち、家族ができてからは、私も忙しくなってきたので、なかなか時間がとれず、帰省しても親戚や知り合いに会って、出歩くことはなく、急いで帰ることが常となりました。最近、故郷の山野を見たいという気持ちがでてきました。それは、北海道の自然と私の故郷の自然の違いによるためだという気がします。
 北海道の自然は、科学を志した後に接したもので、科学を通じて身近になってきたものです。そして現在は、その自然の中に暮らしています。北海道の自然を見るとき、ついつい自分の故郷の自然と比べている自分によく気づきます。故郷で子供時代を過ごし、故郷の自然が私にとって自然の原点となっています。
 ところが、その故郷の自然は、子供頃から高校までの30年以上も前の記憶だけなのです。記憶の中の自然は、現実離れしているような気もするし、まだどこかにそのような自然が残されている気もします。現在の故郷の自然を直接感じたいという気がしています。原点が故郷の自然あるのに、長らく接していないという焦燥感の現われかもしれません。
 私の故郷には、木津川という大きな川がありました。木津川の流域付近は農耕地が広がっていてました。現在は調整区域を除くと、宅地化が進んでいて、農耕地も私が育った頃と比べるとだいぶ減りました。
 私が小学校低学年くらいの頃には、木津川で夏にだけオープンする水泳場があり、近鉄も臨時の駅ができ停車しました。両親に連れられて、そこで泳いだこと、水が冷たかったこと、昼食のカレーライスなどを覚えています。小学校の頃になると、自転車で木津川に遊びいきました。親戚いとこが木津川の堤防の脇に住んでいましたので、流れ橋付近ではよく遊びました。思えばこの頃の木津川が、私の川の原風景として、今も残されているようです。
 流れ橋は、現在もあり、テレビと時々見かけるので、木津川はあまり変わりはないなと知ることができます。なぜテレビで見かけるかというと、時代劇の撮影場所として、流れ橋がよく利用されているからです。時代劇に大きな川と長い木橋は、大抵この流れ橋が使われています。京都の大覚寺と並んで時代劇のロケ地として有名です。
 さてこの流れ橋ですが、川と人との付き合い方の一つの象徴ともいうべきものだと、昔も今も感じています。
 木津川は、淀川の支流のひとつです。琵琶湖周辺の山々から集まった水が、琵琶湖になり、琵琶湖から瀬田川を経て宇治川になり、桂川と木津川が合流したとこから、淀川と呼ばれます。日本の河川と特徴として、急流であることがあげられますが、淀川はさらに特殊な状況があります。
 琵琶湖の湖面の標高は84mありますが、宇治の平等院あたりで平野部に入りますが、標高は15mまで下がります。宇治川には、琵琶湖があり、平野部になる直前に天瀬ダムという大きなダムがあり、洪水を防いでいます。ところが、木津川には山奥の標高150mあたりにダムがありますが、そのより下流にはダムがありません。大雨が降ると、山地からの雨水は一気に木津川に流れ込むことになります。
 淀川となって京都盆地を抜けるところに、天王山があります。天王山は枚方になり、南北から山地が狭まっていることろです。その天王山を抜けると、生駒山地の西側に広がる河内平野へとでます。河内平野は、縄文海進があった7000年前頃には、海が入り込み、河内湾となっていました。その後、海退と河川からの土砂の流入で埋まり、1600年前の弥生時代には河内湖となり、やがて湿地から平野へと変化してきました。
 宇治川と木津川の間には、巨椋池(おぐらいけ)がありました。巨椋池は、周囲16km、面積7.94平方kmほどありましたが、水深は浅く90~120cmくらいしかなく、湿原のようなものでした。そして、地形から分かるように、しょっちゅう氾濫する地域であり、長らく湿地のままにされていました。
 淀川の本流である宇治川の明治時代に治水が進み、巨椋池には宇治川からの水の流入が減ってきました。そのため、藻が多くなり、水質が悪化し、漁獲量が減少し、またマラリアも発生し、米不足による食料増産が求められていました。
 そのような社会情勢から、1931(昭和6)年に干拓事業が承認され、1933年着工、1941年に完成しました。その時、多くの韓国朝鮮人労働者が強制的に動員されました。今でも付近には在日コリアンがたくさん住んでいます。私が子供の頃にも在日コリアンの家族が近所におられ、一緒に遊んだ記憶があります。
 淀川流域には、京都や大阪の市街地が平野部にあります。ですから、治水には古くから取り組まれてきました。しかし、約30年の間に10回もの大出水を記録するなど、つねに洪水の危険にさらされてきました。1953年の台風13号では淀川水系に大洪水をもたらし、最近では1972(昭和47)年の台風20号で、私の町でも洪水がありました。現在では、木津川と宇治川の合流からの下流域では、スーパー堤防をつくり、洪水から町を守ろうときう事業が進められています。
 さて、流れ橋です。流れ橋は、八幡の石清水八幡宮に参拝する人たちや地域の住民のために渡し舟があったのですが、1953(昭和28)年に橋がかけられました。延長356.5m、幅3.3mの木造橋です。戦後のことなので予算がなく、安くするために、木で流れ橋がつくらました。木津川は洪水が頻繁にあり、木の橋では、洪水なるたびに、すぐに流されてしまいます。そこで考案されたのが、流れ橋でした。
 流れ橋とは、橋が流れるということですが、この橋はもともと、川が氾濫したときに流れてもいいように設計されています。どういうことかといいますと、橋が洪水で流されるのは、次のような状況があるためです。
 橋脚は、川の流れと平行になり、水流によってもそれほどの抵抗は受けません。ところが、橋板まで水位が上がると、流れに対して抵抗が強くなり、流木などが絡まると、さらに抵抗を増し、やがては壊れてしまいます。
 流れ橋は、橋脚も橋板も木で出ています。そして、橋板は、ワイヤで結ばれていますが、橋脚の上に載せられいるだけです。橋板は幅20cmほどの板が、全長を8分割されてワイヤで連結され、そのワイヤの端はそれぞれ橋脚につながれています。なぜこのような安易が構造なのかというと、流れうるのが前提として作られているためです。
 洪水が橋板までくると、木の橋板は水にい浮きます。そして流れていきます。しかし、ワイヤでつながれ、その端が橋脚につながれていますから、洪水の中を橋板が浮いているわけです。このような構造で、橋板も流出することなく、回収可能となっています。
 流れ橋は、平成になってからも6回以上流されていますが、そのたびごとに、復旧されています。流れ橋は、苦肉の策だったのかもしれませんが、智恵が絞られています。そして、柔よく剛を制すということわざがぴったりかもしれません。西洋風のコンクリートの「剛」で自然に抵抗する方法と、まったく違った方向性をもっています。それも、地域の川の性質をよく知った上での対処です。自然の力に対して、「剛」ではなく、「柔」という対処があることを教えて組くれます。
 私の少年時代の木津川は、高度成長期には、川砂利の採取が盛んになりました。採取跡には深い水溜りが各所にでき、そこで水難事故がありました。そのために、学校から、木津川では遊ばないようにいわれ、かわりに近所の小川や山が、私の遊び場となりました。
 それ以降、私の木津川の記憶の糸がそこで切れています。もちろん、電車や車から木津川を眺めることありましたが、自然を感じることができません。新たな記憶を取り戻すために、木津川にいってみたいものです。そして柔の橋、流れ橋を渡ってみたいものです。

・子供と川・
私の子供たちは、神奈川で生まれているのですが、
その地の記憶は、ほとんどのないようです。
彼らの自然の原点は、北海道の自然になるでしょう。
彼らの川の原点は、どんな川になるのでしょうか。
私は自然の川に接してあげたいと、思っているのですが、
大きな川への立ち入りが難しく、
自然の川原がなかなかみつかりません。
近くになる石狩川で、自然の川原のあるところへは
長年探してきたのですが、まったく近づけません。
せっかく近く石狩川があるのに、
コンクリートの川原しか子供たちは知りません。
そんな川しか知らない息子たちは、大きくなったとき、
川とはどのようなものだと思うでしょうか。
川遊びなど知らない子供にはしたくないと、
せっせと自然の川原を探しては出かけています。
多くの川では、剛の管理がされています。
しかし、子供と川とは、柔での接し方があっていいのではないでしょうか。

・母・
母は、今、畑に精を出しています。
もともと我が家は農家なのですが、
祖父が主に農業をしていました。
そして両親は自宅で下請けの仕事をしていました。
しかし、父が死んでから、母は隠居だといって、なぜか農業を始めました。
それが、今では、まさに生きがいとなっています。
年々その意気は上がり、冬場でないと、長い休みは取れないようです。
私たち家族が北海道に来たばかりのころは、
呼べばいつでもきていました。
そして1週間から10日ほど滞在してました。
ところが、最近では、畑が忙しい春から秋にかけては、
1週間も明けられないといって、来なくなりました。
ですから、最近では、一番暇になる、
年の暮れに来て、1月1日に帰ります。
今年もそのスケジュールです。
我が家で、簡素の正月して、飛行場へ送っていきます。
そして故郷で、弟夫婦となど親戚が来る正月をしています。
母が来たら、温泉を毎日のように、行くことにしています。
こんな関係が長く続くことを願っています。

2006-10-15

22 根室半島:昔の火山列がつく半島 2006.10.15

 納沙布(ノッサプ)岬は、北方四島を望む北海道の東端にあります。その納沙布岬を有する根室半島の起源をみていきましょう。

 北海道はいくつかの半島があります。半島の先端には岬があります。岬にはそれぞれの個性があります。その個性は、気象や天候などの日々変わるものから、大地自身の起源に端を発するものもあります。
 北海道の最東端は、根室半島の納沙布(のさっぷ)岬です。納沙布岬は、北方四島返還の最前線として、「北方館」や「平和の塔」などがあり、強い個性を持っています。
 道東は霧がよく出るところです。私は、今年のゴールデンウィークに出かけましたが、天気が悪く小雨と霧の寒い日でした。これが道東の天気だというかのような日でした。私には納沙布岬は「霧の岬」という印象があります。
 知床半島は世界遺産に選ばれたことから、現在も多くの観光客を集めています。納沙布岬も有名な観光地ですから、ゴールデンウィークで多くの観光客がいるかと思いきや、予想外に少なく、驚きました。道東の知床以外の観光地も、さびしく感じたの気のせいでしょうか。
 納沙布岬に以前にも訪れていますが、そのときは晩秋の、風の強い寒い日でした。ですから、私の納沙布岬の印象は、残念ながら、冷たく暗いものです。しかし、土産屋の中ではストーブが炊かれ、そこですするラーメンの暖かさは、一層おいしく感じました。
 さて、納沙布岬あるいは根室半島は、なぜ出っ張っているのでしょうか。こんな素朴な疑問を探ることが、大地の生い立ちを教えてくれます。大地をつくっている石をみれば、その答えが分かります。
 先ほども述べましたが知床半島にはたくさんの活火山があります。ですから、知床半島は、現在活動中の火山列が半島をつくっているわけです。ところが、根室半島には活火山はありません。しかし、根室半島には、マグマの活動でできた火成岩がたくさんあります。そのマグマは海底で堆積していた地層の中や海底で活動しました。マグマの活動は現在は終わっています。つまり、根室半島は、昔の火山列だったのです。
 マグマの活動時代は、地層の中から見つかる化石や放射性元素の年代測定から知ることができます。マグマの活動時期は、白亜紀後期だと考えられています。溜まっていた地層は、白亜紀後期から古第三紀に形成された根室層群と呼ばれるものです。根室層群の堆積初期の地層の中に、マグマが上昇してきました。
 マグマが海底まで噴出すると、海水にふれて急激に冷却されます。しかし、後からもまだマグマが続いて上がってきます。すると固まった表面を破ってマグマが海水中に噴出します。ねり歯磨きを押し出したようにマグマが出てきます。マグマは、やはり海水に触れて急冷されすぐに固まります。繰り返し起きます。その結果、枕を並べたようなマグマの積み重なりができていきます。このような状態の岩石を、枕状溶岩と呼びます。
 枕状溶岩の断面がみえるところでは、自転車のスポークのように放射状の割れ目が形成されています。納沙布岬の少し東南東の花咲では、直径1mから3mほどの枕状溶岩がたくさん海岸に出ています。大きなものでは、7.5mにも達します。花咲では、枕状溶岩が特に目立つので、車石と呼ばれて、天然記念物になっています。このような枕状溶岩が根室半島のいたるところにあります。
 マグマが海底に噴出せずに、地層の間に分け入ることもあります。貫入と呼びます。地層中に貫入したマグマは、地層の触れた部分はすぐに冷えますが、中のマグマは急激に冷えることはなく、ゆっくりと冷えてきます。すると大きな結晶へと成長する岩石ができます。根室半島の貫入岩には、厚さ150mもあるものが見つかっています。
 マグマがゆっくり冷えると、結晶ができて成長していきます。結晶はマグマとの密度の差によって浮いたり沈んだりします。結晶の移動に伴ってマグマの組成が変化していきます。すると新たな組成のマグマになり、違った性質の結晶が出てきます。冷えながらマグマが成分を変化させ、溜まった結晶が岩石として、層状に重なっていきます。最終的には、層状の貫入岩となっていきます。このような火成岩を、層状分化岩体と呼んでいます。
 結晶の違いや、岩石の化学成分の違いによって、層状分化岩体にはいろいろな岩石が形成されます。急激に冷えた上下の部分は、貫入してきたマグマがそのまま急に冷えた玄武岩になり、内部には重力の影響で、下から上に向かって黒っぽい岩石から白っぽい岩石(アルカリドレライトからモンゾニ岩、閃長岩)へと変化していきます。
 本来であれば、このような層状貫入岩体は地下深部にしかありません。しかし、根室半島では、マグマが深部でどのようにして変化し、多様な岩石が形成されるかが、地表で見ることとができるのです。非常に面白い岩石です。層状分化岩体は、根室半島では8ヶ所知られています。また、層状分化岩体は、根室半島より先の歯舞諸島にも連続していることが知られています。
 知床半島の火山活動と根室半島の火山活動は、時代の違いと、陸上か海中かの環境の違いだけではありません。他にも、マグマの性質が違っています。
 知床半島の火山は、日本列島でみられる典型的なマグマ(カルクアルカリ・マグマと呼ばれています)の活動でできています。しかし、根室半島のマグマは、アルカリ玄武岩と呼ばれているものです。少々変わったマグマです。海洋の真ん中にある海山や海洋島を形成するマグマに見られるタイプです。それが、陸の堆積物がたくさん流れ込んでくるような場で、活動しているのです。
 古い時代の地層とマグマからできた火成岩が、根室半島から千島四島まで延びる火山列をつくったのです。そんな過去の列島が、現在も残されているのです。
 根室半島を構成しているアルカリ玄武岩という不思議なマグマの成因は、まだ完全には解明されていません。このようなアルカリ玄武岩マグマの活動は、根室半島より先の歯舞諸島にも連続しています。マグマの活動には、もちろん国境などないのです。

・納沙布岬・
私は7年ほど前の秋にも納沙布岬を訪れました。
そのときも寒く霧が出ていました。
いずれも冷たく、暗い天気だったので、
どうしても納沙布岬は暗い印象が残っています。
天気いい日に行けば、印象は違ったのでしょうが、
根室半島は冷たく、霧のかかったところの印象が強かったです。
層状分化岩体とじっくり見たかったのですが、
天気に恵まれず、海岸も一箇所しか降りれなくって、
十分な調査ができませんでした。
また別の機会としましょうか。

・紅葉・
北海道は、日本ハムファイターズのリーグ優勝に沸いています。
野球の話題で盛り上がっています。
我が家では、次男が野球のルールも分からないのに、
ファイターズの応援をしています。
でも、熱いのは北海道の野球周辺だけで、
北海道はここ数日で一気に寒くなってきました。
冬の訪れを感じさせる日ですが、
我が家も朝夕は暖房も炊くようになりました。
コートも着て、手袋もつけました。
ただ心残りは、北海道らしい紅葉をまだ見てないことです。
紅葉越しに見る突き抜けた青空は格別です。
できれば、雪が降る前に紅葉を見ておきたいものです。

2006-09-15

21 足摺岬:岬の先端に不思議な石がある 2006.09.15

 昨年秋に足摺岬に調査に行きました。変わった石が出るのですが、その起源はまだ謎のままなのです。

 四国は、長方形のそれぞれの角が、南北にでっぱったような形をしています。南西側のでっぱりが、足摺岬になり、南東側が室戸岬です。私は、足摺岬には2度行ったことがあります。しかし、残念ながら室戸岬にはいったことがありません。一度目の足摺岬は30年近く前の春であまり記憶にありません。2度目は1年前の9月でした。いずれも急ぎ足での見学となりました。
 足摺岬を訪れたのは、観光ではありません。地質学的に面白い石が見られるからです。
 足摺岬と室戸岬にある石は、花崗岩や斑れい岩と呼ばれるものです。花崗岩や斑れい岩は、マグマが地下深部でゆっくりと冷え固まったものです。花崗岩と斑れい岩の違いは、マグマの性質の違いにより、花崗岩は白っぽい岩石で斑れい岩は黒っぽい岩石です。室戸岬は斑れい岩を主としています。足摺岬は花崗岩と斑れい岩が混在してあります。
 花崗岩や斑れい岩は、特別な岩石ではなく、どこにでもある、ありふれた岩石です。しかし、ある場所が問題なのです。足摺岬や室戸岬では、南過ぎるのです。その理由を説明しましょう。
 現在の日本列島でマグマが活動しているのは、火山フロント(前線)と呼ばれるところです。東日本では、北海道千島列島から知床半島、大雪から、道南の渡島半島、下北半島、奥羽山地、関東山地、富士山、伊豆半島、伊豆諸島から小笠原諸島へと続く東日本火山列があります。一方西日本では、大山などの中国地方の日本海側の火山から、九州の九重、阿蘇、霧島、桜島からトカラ列島に続く西日本火山帯があります。
 この火山帯では、マグマの活動が盛んです。火山だけでなく、地下にはマグマがゆっくりと冷え固まった深成岩も形成されているはずです。このような深成岩が見えるようになるためには、長い時間かかって風化侵食を受けてた地下深部の岩石が見えるようにならなければなりません。
 これらの火山列は、東日本では、太平洋プレートの沈み込みによって形成されています。西日本では、フィリピン海プレートの沈み込みによるものです。
 沈み込みによるマグマの形成とは、沈み込んだ海洋プレートからしぼりだされた水分が、列島の下のマントルに供給されてできます。水分がしぼりだされる深さが、プレートの沈み込む状態で決まっています。それに対応して火山のできる位置も海溝(西日本ではトラフと呼ばれます)からある一定の距離が離れたところに決まってきます。ですから、火山フロントより海側では、マグマの活動が起こることはありません。
 ところが、足摺岬にはマグマの活動でできた花崗岩があります。不思議です。
 もちろん、この花崗岩は最近活動したマグマによるものではなく、1400万年前ころ(新生代中新世中期)に活動したものです。そのころ、足摺岬のあたりに火山フロントがあったのでしょうか。どうもそうではなさそうです。
 日本は、もともと大陸のふちにあり、常に海洋プレートの沈み込みに伴う堆積物(付加体と呼ばれています)が集積をしているところでした。ところが、中新世には、大陸の縁から日本海が開き始めて、列島となっていく時期にあたっています。付加体の位置ではあるのですが、日本海の拡大に伴って、日本列島が海側に押し出される時期になります。
 さらに、この中新世には、フィリピン海プレートの一部である四国海盆が沈みこんでいく時期に当たっています。四国海盆は海嶺をもっているできたての小さい海洋地殻(縁海と呼ばれています)であったと考えられています。この四国海盆は中新世(前期から中期にかけて)に海底が拡大してすぐに、西日本に沈み込んでいきました。
 西日本を広く見ると、1400万年前頃に起こったマグマ活動の痕跡が、フロントより海側のいたるところにみられます。紀伊半島の潮岬、熊野地域、四国の室戸岬に足摺岬、沖ノ島、少し海から離れますが高月山、九州でも大崩山、屋久島などに、火山岩や深成岩がまとまって分布しています。
 中新世の頃の西日本が普通の列島と違う点は、沈み込む海洋プレートができたての若くて暖かいものだったことです。このような地質学的特異な状況では、どのようなマグマのでき方をし、どのようなマグマの性質になるでしょうか。
 マグマの性質には、いろいろなものがあることがわかっています。そのようないろいろなマグマを作るには、いろいろ材料物質やいろいろな融けるメカニズムが必要になります。それにはいろいろな起源がり、その起源に関する説もいろいろあり、また研究中のテーマとなっています。
 一つは、海嶺の活動していたマグマが、そのまま付加体の中に噴出したものがあります。室戸岬や潮岬の玄武岩類がこれに相当します。
 海嶺から離れた活動ですが、海洋でのマグマの活動(オフ・リッジ火山活動と呼ばれています)によってできたものがあります。それは、紀伊半島の高草山など見つかっている玄武岩です。
 沈み込む海洋地殻が融けて(スラブ・メルティングと呼ばれています)できたマグマがあります。このような仕組みでできた岩石は、紀伊半島から四国東部の瀬戸内地方にある火山岩(瀬戸内火山岩と呼ばれています)です。ただしこれには異説があり、沈み込む海洋プレートの上に溜まっている堆積物が融けてできる可能性も指摘されています。
 また、四国海盆の海嶺できたいマグマが、付加体を融かしてできた大量の花崗岩マグマもあります。熊野地域に広がる大量の花崗岩質マグマによる火成岩類が、その典型だと考えられています。
 では、足摺岬の火成岩は、どのようにしてできたのでしょうか。本当のところは、まだ定説がありません。とにかく足摺岬の岩石は変わっています。
 足摺岬には、アルカリ花崗岩、閃長岩などカリ長石に富む花崗岩類があります。この花崗岩の中に、日本では非常に珍しいものがあるのです。
 アルカリ長石(淡いピン色に見える鉱物)が斜長石(白い鉱物)によって取り囲まれているものです。長石が丸み(ピタライトと呼ばれます)を持っています。このような花崗岩は、珍しいもので、ラパキビ花崗岩と呼ばれています。石材として日本ではよく見かけますが、13~17億年前に形成された大陸地域の岩石にラパキビ花崗岩があります。ラパキビ花崗岩は、日本では足摺岬にしかありません。本家のラパキビ花崗岩の起源も、よくわかっていません。
 足摺岬の道は、風化した花崗岩がつくるのっぺりとした地形の道でした。岬へ向かう道は尾根にあるのに、どことなく山奥の尾根道のように感じました。これは、花崗岩は、日本では列島の古い岩石のある脊梁山脈地帯によくみられる岩石だからでしょうか。花崗岩が風化すると、のっぺりとして、ところどこの丸みのある花崗岩が残されたような地形となります。足摺岬では、唐人駄馬巨石群と呼ばれるところがあります。そこは、風化で残された花崗岩がつくる景観です。そんな地形が岬に向かう尾根で見れるのです。
 そんなことをつらつらと考えながら、観光はせずに急いで帰途に着きました。

・ラパキビ花崗岩・
ラパキビ花崗岩は、スカンジナビア半島、ロシア、北アメリカなどの
大陸地域に広く分布する岩石です。
赤っぽい石材として日本各地で見ることができます。
ラパキビ花崗岩は、13~17億年前という非常に古い時代に形成されたものです。
足摺岬花崗岩類のように1400万年前ほどの若いものは非常に珍しいものです。
足摺岬の岩石だけでなく、
西日本の火山フロントより海側の火成岩類は
まとめてその成因が解明されつつあります。
ですから、本家のラパキビ花崗岩の起源も
日本で明らかにされるかもしれません。
ちなみにラパキビとは、フィンランド語です。
ラパは「もろくて崩れやすい」、キビは「石」という意味です。
地質学のラパキビ花崗岩の特徴より、
花崗岩そのものの性質をあわしている言葉です。

・ジレンマ・
足摺岬は、室戸岬と共に、台風情報を聞くときによく耳にする地名です。
観光地でもあるのですが、観光目的でない人間にとっては、
なかなか足を伸ばしにくいところです。
遠方からの訪問者にとっては、ついつい急ぎ足にみてしまうものです。
私は急ぎ足の旅行は苦手です。
年のせいか、疲れやすくなったもの理由の一つです。
興味あるところとだと、もう一度行きたくなります。
ですから、2度手間となることがよくあるからです。
できるだけじっくりとと思っているのですが、
なかなかそうもできなくなりました。
金銭的問題より、時間的問題です。
若いときは、体力も時間もあったのですが、お金がなくて、困っていました。
今では体力と時間がありません。
ですから、体力のいるところは、できるだけ早めに見ておきたいものです。
でも、それをする時間がままならないのです。
ジレンマですね。

2006-08-15

20 アポイ岳:マントル散策 2006.08.15

 日高山脈の南西のはずれに、アポイ岳はあります。1000mに満たない山なのですが、植生や眺望からは高山です。そんなアポイ岳から眺めた景観を紹介しましょう。

 アポイ岳は、北海道の脊梁である日高山脈の南に位置して、脊梁から少し西に外れたところあります。2006年8月3日にアポイ岳に登りました。でも、頂上へは行きませんでした。一番眺めのいい馬の背という7合目まで登りました。
 アポイ岳へは、30年前に登ったきりで、今回が2回目となります。周辺の沢筋にも、何度も来ているのですが、アポイ岳へは登っていませんでした。今回は、このアポイ岳への道で少々変わった地質と、その地質を象徴する自然を見ることが目的でした。
 山頂は眺めが良くなく、馬の背から頂上へと続く尾根が景色がよく見えます。ですから馬の背付近で、じっくりと景色を見ることができればと思っていました。アポイ岳周辺は、国の特別天然記念物の指定を受けているので、登山道からはずれることはできません。登山道からの観察でした。
 当日、頂上には常にガスがかかった状態で、最後まで頂上をくっきりと見ることができませんでした。しかし、頂上以外は、ガスもかかることなく、景色も少々かすみはありましたが、遠くまで眺めることができました。午前中はうす曇の状態で、暑くなく登ることできました。昼過ぎの下山途中に太陽が出てきましたが、そのとたんに暑くなり、これも低山の証拠です。私は、涼しい状態で登れたのは幸運でした。
 さて、前置きはこれくらいにして、アポイ岳の地質を紹介しましょう。
 日高山脈は、南は太平洋に突き出した襟裳岬からはじまり、北の狩勝峠まで、幅50kmで、南北に150kmほどの長さで伸びています。アポイ岳周辺は日高山脈襟裳国定公園に入っています。北部には2052mの幌尻岳やピパイロ岳(1917m)、戸蔦別岳(1959m)など2000m級の山があり、その周囲にはカールなどの氷河地形があります。
 日高山脈の地形は、全体として概観すると、東側で急傾斜で、西に緩い傾斜となっています。
 日高山脈の東側は断層による急な崖になっています。十勝側からみると、日高山脈は、平野に立ち上がって連なる急峻な山並みとして見えます。カールなどの氷河地形は主稜線の東側にはあります。日高山脈の東では、急峻な地形の山地を削りながら流れた川は、平野にでると大きな扇状地を形成します。それが十勝平野で、集まった川が十勝川です。
 一方西側では、河川は広い平野を持つことなく、海に流れ込んでいます。そして、山並みを眺めると、何段かの階段状の断層による山並みを形成しながら海に達します。東側と比べると西側は比較的傾斜が緩やかになっています。
 さて日高山脈の稜線を北から南に追いかけていくと、南端部分で稜線が乱れます。様似の幌満川あたりで西に広がったような地形になります。これは、幌満川周辺の地質が変わっているためです。アポイ岳の南側には幌満川があり、アポイ岳も幌満川流域の地質と同じです。
 アポイ岳周辺はカンラン岩という岩石からできています。カンラン岩とは、地球ではありふれた岩石ですが、地表では稀な岩石です。地球深部のマントルという非常に広大な部分を、このカンラン岩が占めています。ですから地球規模でみると、カンラン岩はありふれた岩石となります。ところが、地表付近の地殻は、マントルとは違う岩石からできています。地殻をつくる岩石は、花崗岩や玄武岩、堆積岩、そしてそれらの変成岩など多様な岩石からできています。その中にはカンラン岩はほとんど含まれていません。ですから、稀な岩石となります。
 稀であってもカンラン岩が地表に出ているところは、アポイ岳周辺でなくてもあります。もちろん日本にもあります。しかし、地表に出ているカンラン岩のほとんどは、蛇紋岩という岩石に変わってしまっています。マントルにあったときのままのカンラン岩が、地表付近で見ることができるのは、非常に珍しいものとなります。アポイ岳周辺では、カンラン岩が蛇紋岩にほとんどなることなく、マントルのあったときのまま、広く分布しています。ですから、世界的にも非常に有名なカンラン岩の産地となっています。アポイ岳周辺のカンラン岩は、「幌満カンラン岩体」と呼ばれて、世界的に有名なものとなっています。
 カンラン岩は、カンラン石という鉱物が主要構成鉱物となっています。カンラン岩には、ほとんどカンラン石からできている岩石もあります。カンラン石はオリーブ色の淡い透明感のあるきれいな鉱物です。カンラン岩には、その他にも、単斜輝石や斜方輝石、スピネルなどの鉱物が、さまざまな割合で含まれています。マントルを構成する鉱物はいずれも密度が大きく、カンラン岩は重みを感じる岩石となります。
 カンラン石は、風化すると黄色から茶色っぽい色になります。カンラン石以外の鉱物は比較的風化に強く、山の崖でカンラン岩が風化を受けると、岩石の中で鉱物のつくる模様が、そのまま風化の模様として現れます。幌満のカンラン岩では、鉱物が縞状なった層構造をもっています。このような縞状構造は、マントルの岩石の構造が、そのまま残されていることになります。
 アポイ岳の登山道沿いでもカンラン岩の層構造をみることができます。マントルの構造が風化面としてよく観察することができます。これは、マントルの中の構造を見ていることになります。アポイ岳は、地表にいながらにして、マントルの中を散策しながら観察できる貴重な場所なのです。
 ではなぜ、このような地下深部の岩石が地表に上がってきたのでしょうか。
 現在の日高山脈の西側には、もともと広い海があったと考えれています。海の両側には陸地があり、東側には大量の堆積物を供給した陸地があり、オホーツク古陸と呼ばれています。一方、西側の古陸から供給された堆積物があることもわかっています。両古陸の間にあった海は、海洋地殻を持ったれっきとした海でした。
 ところがその海は、沈み込みによってすべて消えてしまいました。その沈み込み帯が、日高山脈と平行に南北に伸びる神居古潭帯とよばれる地域です。神居古潭帯は、白亜紀頃に形成されました。一方日高山脈は、神居古潭帯の沈み込みより新しい時代(新生代)にできたもので、海洋地殻が列島の地殻にくっついて、両方ともめくれ上がって形成されたと考えられます。
 中でも幌満カンラン岩体は、列島の地下にあったマントルがめくれ上がったものであると考えられています。この幌満周辺では、列島の地下の岩石が広く分布していることになります。アポイ岳周辺は、列島の地下深部の岩石がめくれ上がっているところを、地表にいながらにして見ることができるわけです。
 アポイ岳に登る前日、幌満川で川原の岩石を少し見ました。きれいな構造を持った岩石がたくさんありました。上流にいけば、水もきれいです。そしてなによりも、日高山脈をつくっている列島の深部の岩石を、眺めることができるのです。川原の石ころも、風化を受けますが、川で常に風化面を削り取られていますから、風化を受けていない新鮮な状態で岩石を見ることができます。
 アポイ岳ではマントルの中を歩き、幌満川では列島の地殻やマントルの標本を眺めることができました。これはもしかしたら、どんな博物館よりすごいものを見ているのではないでしょうか。そんな気がしました。

・マントル・
幌満川の下流沿いにはカンラン岩を
砕石として切り出しているところがあります。
数年前にいったときの砕石場所は、もう閉鎖され、緑化がされていました。
今では、さらに上流側が砕石がされていました。
その砕石所はカンラン岩を採掘しています。
実は、我が家の近くにある石垣がカンラン岩でできます。
50cmから1mほどもある大きな石がたくさん使われています。
これほどの風化をうけていないカンラン岩は幌満のものです。
ですから重い多数のカンラン岩を
幌満からわざわざ運んできたものでしょう。
流通等はすごいものです。
すぐ近くにマントルのかけらがあったのです。
その砕石所では、カンラン岩の加工もしており、
文鎮や花瓶などにして商品化しています。
私も文鎮をひとつ購入しました。
実は、マントルのかけらは今では、私の机にのっているのです。

・マムシ・
登山前日、ビジターセンターにいって登山道の様子を聞きました。
すると熊が出没しているという情報と、マムシの情報を聞きました。
ヒグマは北海道のどこにでもいるのですが、マムシには驚きました。
北海道では道南にしかいないと思っていたからです。
調べてみると北海道に広くいるようです。
アポイ岳周辺にもマムシがいたのです。
ビジターセンターの人が脱皮の皮を確認しているので確実です。
その場所を詳しく聞いて、注意していました。

2006-07-15

19 桜島:益と害 2006.07.15

 火山は、日本人にとっては欠くことのできない存在で、長く付き合ってきました。火山は日本の風土として重要な要素ともなっています。そんな火山との付き合いを、桜島から考えてみました。

 鹿児島県の錦江湾(鹿児島湾ともいいます)にある桜島は、典型的な日本の活火山のひとつです。現在も噴気を上げていて、何度も噴火を繰り返しています。時には、激しい噴火も起こっています。私は、桜島の噴気を4回ほど見ました。桜島からは2度、鹿児島市内から錦江湾ごしに2度、眺めています。そんな都会から間近に眺める桜島は、火山と人の生活の関係を考えさせられます。
 桜島という名前をもっているのに、島でなく大隈半島側の垂水市で陸続きとなっています。ですから、「島」という名称がついていることに、奇異な感じを持ちます。もともと桜島は名前の通り、錦江湾に浮かぶ島だったのです。ところが1914(大正3)年の噴火によって、流れ出た溶岩によって間にあった海峡が埋められたため、陸続きとなりました。
 桜島は、単独の火山のように見えますが、姶良(あいら)カルデラ(南北17km、東西23km)の南端にできた成層火山です。カルデラは錦江湾の北半分の丸みをもった部分です。そのカルデラは巨大な火山の活動によってできたものです。その一連の火山活動の一部として、桜島の火山があります。カルデラの北側に鹿児島の市街地があるのです。
 桜島は、直径10kmほどで東西に延びた楕円形(南北12.2km、東西9.5km)をしています。最高峰は北岳(1117m)、次いで中岳(1060m)があります。いずれも火山活動によってできた山です。その他にも権現山、鍋山、引ノ平などの側火山があり、山腹や海底での火山活動も起こっています。
 現在、噴煙を出しているのは南岳(1040m)で、北岳の山腹にあります。桜島の火山活動は、3つの時期があります。北岳が2万2000年前から2000年ほど活動して最初の成層火山(古期北岳)となりました。その後しばらく活動はなく、1万1000年前から4500年前までの長い期間にわたって、北岳で活動(新期北岳)が起こりました。そして4000年前ころから南岳の活動がおこり、現在に至っています。桜島の活動によって多くの火山灰が東側の大隈半島につもっています。
 南岳の活動時期となってから、噴火の記録が人の手によって残されていくようになります。最古の記録は708(和銅元)年ですが、764(天平宝字8)年、1471(文明3)年、1779(安永8)年、1914(大正3)年、1946(昭和21)年に大規模な噴火が起こっています。現在の火山活動は、1955(昭和30)年10月からはじまった噴火が現在も継続しています。1999年や2000年などに噴火を起こし、噴出物や爆発時の空振、土石流などにより被害を出しています。現在でも、南岳山頂火口から2km以内は立ち入り禁止となっています。
 桜島は、60万人を越す人口が密集する鹿児島市の南、ほんの10kmほどのところにある非常に活発な活火山です。風向きによっては、火山灰が市内に降ることもあります。2004年には、11回の噴火により、市役所での1平方メートル当たり124gの降灰がありました。
 そんな市街地に近接しているため、桜島は、常時厳重な監視体制がとられています。多数の地震計(5地点)や震度計(1地点)、空振系(4地点)、GPS(3地点)傾斜計(1地点)、望遠カメラ(2地点)による観測がなされています。
 私が見たときも桜島は噴気を出していました。噴気の規模は時々によって様々ですが、火山活動を目の当たりにすることができます。その噴気を眺めていると、時々刻々変化していることがわかります。そんな火山噴火をみていると、日本人と火山との共存についつい思い至ります。
 南九州、とくに鹿児島はシラスと呼ばれる白っぽい火山灰や細粒の軽石などで覆われています。その火山灰は、姶良カルデラの大噴火によるとされています。火山灰の起源は、桜島より前の2万5000年前に発生した姶良カルデラの入戸火砕流によるものだと考えられています。その量は約200立方kmに達し、日本全国にも飛んでいます。このような火山灰は広域テフラと呼ばれ(姶良Tn)、約150立方kmと見積もられています。鹿児島周辺ではシラスの厚さは数十mにも達しています。
 シラスは軽くてもろく、水に流れやいため、侵食をうけ、シラス台地という特有の地形をつくっています。シラス台地では、水が浸透しやすく、栄養分も乏しく、稲作にはてきしていません。しかし、シラスのようなところでもよく育つサツマイモや桜島大根などが主要な農産物となっり、全国にその名を知られる名産品となりました。
 人間は、智恵を使って、火山と共存してきたことが、鹿児島をみていると感じます。害と思われるようなことでも、智恵で益となしたのです。
 日本列島とは、古い大地の上に、火山活動が起こるような地質学的位置に常におかれていました。日本列島は火山活動によって常に変化を受けているところといえます。人類が登場してからも、火山活動は続いています。日本人は古くから火山とは付き合ってきたのです。そして日本に住む限り、未来も火山と付き合っていかねばなりません。
 今も昔も、火山は自然災害として、恐怖の存在です。でも、火山は人にとって悪いことばかりではなく、風光明媚な景観や温泉など、現在では重要な観光資源も与えてくれます。また特有の土壌を生かした農業製品をも生み出し、名産品としています。ですから火山は、人にとって益と害の両面を持っているのです。
 活火山とはいえ、被害を与えるような噴火はめったにあることではなく、静穏な状態が長く続きます。激しい火山活動の時間と平穏な時期とを比べると、明らかに平穏が時間の方が長くなります。ですから、観光資源として考えると、一時的な訪問をする人にとっては、火山とは危険性はほとんどなく、恵みだけを与えてくる存在といえます。
 ところが住んでいる人には、数10年に一度の噴火でも、脅威の存在となります。もし、噴火による火山放出物や降灰によって、家財や田畑を奪われるかもしれません。時には命の危険すらあるわけです。
 ですから、噴火に備えて防災というものを常に意識することになります。かつて科学が発達していないときは、いつ起こるとも知れない火山噴火に対処しようがありませんでした。あきらめるしかない自然災害となったのです。火山災害とは、自然災害の中でもっとも諦観がともなうものかもしれもしれません。
 現在では、噴火予知の水準はよくなりました。また予知が不完全でも、防災対策は以前と比べものにならないほどよくなりました。近年では、予知と防災によって、命や財産のすべてを失うようなことは、あまりなくなりました。最悪の事態は免れるようになったのです。
 観光資源として火山を考えると、同じ火山列島に住む日本人は、火山の恐ろしさを熟知しています。ですから、いったん噴火が起こったり、噴火の危険性があるときは、観光客が寄り付かなくなります。しかし、日本人は温泉好きです。火山活動が治まると、火山の恵みである温泉を味わいに戻ってきます。火山の恐ろしさを知っているからこそ、平穏な時期の恵みを味わおうとしているのかもしれません。

・監視カメラ・
気象庁では、活火山を観測網の一つとして、監視カメラを設置しています。
その画像は、インターネットで公開されています。
桜島の画像も公開されています。
URLは次のところです。
http://www.seisvol.kishou.go.jp/vo/32.php?kansokuten=SKRTARvvi&mode=0&cmd=write(改行で切れているところをつないで入力してください)
この画像は、気象庁ではなく、
国土交通省九州地方整備局大隅河川国道事務所による監視カメラ画像です。
このような情報公開によって、
火山活動を自宅から、眺めることができるわけです。
もちろん、インターネットですから、
日本だけでなく世界上からこの画像を見ることは可能です。
世界の火山のライブ映像も見ることができます。
なにも火山だけでなく、
日本も含め、名所や都会にはインターネットで公開されている
ライブ映像が多数あります。
ですから、ライブ映像だけで世界の名所旧跡を巡ることも可能なのです。
そんな時代になったのですね。
でも、温泉は行かなくては味わいません。
これだけは、今も昔も変わらないことでしょう。

・シラス・
シラスとは、南九州の方言で白い砂を意味しています。
姶良カルデラの火山活動は、二酸化ケイ素分が多く(酸性マグマとよばれる)、白っぽく見えるます。
これが、シラスの白い理由です。
シラスのような火山灰は、日本中に似たようなものがありますが、
鹿児島のような大規模なものは少ないです。
それほど鹿児島は、火山と密着していることになります。
シラスでつくられたサツマイモを食べさせて豚は
特有の風味を持つ黒豚として全国的に有名になりました。
実は鹿児島は、肉牛の生産も日本一だそうです。

2006-06-15

18 野付半島:景観に流れる時間 2006.06.15

 北海道の道東にある野付半島と野付湾は、2005年11月8日第9回ラムサール条約締約国会議において、水鳥の生息地として国際的に重要な湿地として登録されました。そんな野付半島を見てきました。

 今年のゴールデンウィークに北海道の東部(道東)を訪れました。観光では以前1度いったことがあるのですが、調査では初めてとなります。北海道でも札幌近郊に住んでいると、道東へは移動距離が長く、なかなか訪れにくいところです。しかし、北海道の海岸線の調査を完成するためには、道東は避けることができません。今回、満を持して出かけることにしました。
 今年のゴールデンウィークは5日間の連休でしたので、行くまでに1日、帰るのに1日かかるので、正味3日間が調査の予定でした。野付半島は、2日目の午後に訪れました。
 以前野付半島を訪れたのは、北海道に住む前のことです。風が強い秋の平日で、外を少し見たら寒くて土産物屋に逃げ込んだ記憶があります。観光客もまったくみかけられず、土産物屋では私たち家族だけがストーブにあたっていたという記憶があります。
 今回は、ラムサール条約の締結後、最初のゴールデンウィークということもあって、多くの観光客が訪れていました。また、ネイチャーセンターも2002年5月にできていて、周辺の案内もされていました。
 私が今回訪れた目的は、砂嘴(さし)というものを、もう一度、見て、歩いて、感じるためでした。砂嘴とは自然が砂で作り上げたものです。砂の楼閣のように、砂嘴も時の流れでたやすく変化してきます。そんな変化を考えてみたかったのです。
 砂嘴の「嘴」とは難しい字ですが、「くちばし」という意味の漢字です。鳥のくちばしのような形をしていることから、砂嘴という名称がつけられています。
 砂嘴は、大きなものとしては、アメリカのフロリダ半島の先端にあるキーウェストが有名ですが、日本では天橋立が有名です。いずれも行ったことがあるのですが、地域ごとにその風情は違ってきます。その風情の違いは、そこに流れている大地の営みのスピードによるもののような気がします。そして、その営みがスピードからかもし出される時間の流れが違うように感じます。その違いは、地形や植生として垣間見ることができると思っています。
 日本最大の砂嘴は、今回訪れた北海道東部にある野付半島です。標津町と別海町にある野付半島は、全長約26kmもある砂の堆積によってできた地形です。
 江戸時代の中頃までは、トドマツ・エゾマツ・ハンノキ・カシワなどの原生林がありました。現在の半島部は、砂浜の草原と湿地帯となっています。それは、半島の地盤沈下によって、砂嘴の中に海水が浸入し、原生林が枯れてしまったからです。
 トドワラというところがあるのですが、もとはトドマツの原生林があったところで、ナラワラはミズナラ・ダケカンバ・ナナカマド・エゾイタヤなどの林があったところです。トドマツやミズナラの枯れ木林が、原生林の面影を残しています。
 砂嘴は、海岸で内湾となったところに、沿岸を流れる海流が堆積物を運んできてできます。湾の先端に当たる海岸や岬に、海流の方向に沿って堆積物がたまることがあります。すると岬が砂浜として延びていきます。波の作用には浸食する作用もあります。ですから、堆積する速度が波の侵食の速度より大きければ、堆積物がたまり、砂嘴が成長してきます。これが砂嘴のでき方です。もちろん、周辺の川から海へ十分な堆積物を運んで来る必要があります。
 野付半島では、内湾に当たるところが野付湾で、別名尾岱沼(おだいとう)とも呼ばれています。摩周湖から斜里岳をへて知床半島にまで連なる火山列に端を発する川が、根室海峡に多数流れ込みんでいます。これらの川が、砂嘴の砂の供給源となります。特に標津川が野付半島の北側付け根にあり、重要な供給源と考えられます。その砂は大部分が安山岩の起源ものです。
 海流のオホーツク海から知床半島と国後島の間の根室海峡を通り抜けてきた海流によって、砂が運ばれて、砂嘴が発達しています。
 海流のいたずらで、野付湾に向かって砂嘴が枝を出したようになっています。まるで、エビの尻尾のような形にいくつかの岬(尖岬と呼びます)ができています。9個の分岐があります。これは、内側のものが古い砂嘴で、外側に向かって新しい砂嘴ができることによって、このようま地形ができたと考えられています。
 そして外海沿っている高い堤上の砂の列(砂堤列と呼びます)があります。現在の外海に面するものと、尖岬のものの2方向あります。このような砂嘴を複合鉤状砂嘴と呼びます。
 野付半島付近では、北から北西の風がよく吹きます。この風が国後島に当たり、南西へ向かう海流を発生させます。この海流が、野付半島より北側の海岸を浸食していきます。しかし、野付半島付近では海流が曲がり流れがゆるくなります。そのため海岸線を削ってきた堆積物を堆積しはじめます。
 砂嘴の堆積物を調べると、内側の尖岬は、3000年前の摩周起源の火山灰が見つかっています。ですから、この砂嘴の一部は、3000年前には形成されていたことがわかります。その後2500年前次の2つの尖岬が、1000年前にさらに3つの尖岬、最後に500年前に一番外側の尖岬が形成され、その成長は現在も続いていると考えられています。1970年代まで砂嘴の東部の海に面してる部分(竜神岬)が50mほど削られ、内側に巻き込まれた部分(ナカシベツ)が50mほど成長しています。現在も野付半島の砂嘴は、変化しているのです。
 海流や砂の供給源に変化があれば、野付半島の砂嘴の姿は、これからも変わっていくでしょう。野付半島の砂嘴は、見れば見るほど、その形が不思議で、自然の妙を感じます。
 砂嘴がエビの尻尾の形をしているといいましたが、野付湾では、6月から7月上旬、そして10月中旬から11月上旬にかけて、ホッカイシマエビ漁がおこなわれています。そのとき、白い三角帆の打瀬舟(うたせぶね)で漁をしますが、これがなかなか風情がある光景となっています。残念ながら、私が行ったときは、漁期ではなく、白い帆の打瀬舟を見ることはできませんでした。
 この野付半島と人間とのかかわりは、かなり古く、擦文時代の堅穴式住居があることから、1000年ほど前から野付半島には、人が生活をしていたことがわかっています。江戸時代後期までは、北方領土や千島列島での交易や漁業の拠点として、集落がありました。現在もそれらの遺跡が残っています。
 標津川の河口流域では、かつては幅5kmほどもある湿原ありました。標津湿原として知られていたのですが、現在では、灌漑による耕作地化によって、湿地が排水されました。野付半島の変化は、砂の重要な供給源である標津川の変化も反映することでしょう。
 砂嘴が発達すると海流が当たる北側の海岸の砂は侵食を受けます。そしてその砂は砂嘴の先端の成長に使われることになります。野付半島の成長によって海流が影響を受けたのでしょうか、標津川の灌漑のためでしょうか、それとも経年変化のたためでしょうか、砂州からの砂の流出が起こり、砂嘴がなくなっていくのではないかと危惧する声もあります。
 自然は変化をします。大地の変化は、一般には、ゆっくりと長い時間をかけて起こります。しかし、時には短い時間で起こることもあります。上で述べたように、砂嘴の変化も短時間で起こります。砂嘴の形成、消失には、海流が重要な働きをします。ですから、海流の変化が起これば、砂嘴の変化はかなり早く起こります。野付半島の砂嘴のように、古くから人間が住んでいるところでも、見慣れていると思っている風景も、実は時と共に変化しているのです。人間の営為なのか、自然の営為なのか分かりませんが、自然は時々刻々変化しています。そんな自然の変化を、野付半島では感じることができました。

・あごかエビか・
野付「のつけ」とは、アイヌ語で「あご」を意味するそうです。
半島の先端が陸地側に向って大きく湾曲しているのが
人のあごに似ているところから名付けられているようです。
しかし、私には、あまりあごには見えませんね。
アイヌの人が見ると、野付半島はアゴに見えたかもしれませんが、
私にはエビの尻尾にみえますが、これは、時間による変化によって、
今私が見ていると野付半島の形と、
アイヌの人たちが見てい名前を付けた時とは
実は違った形をしていたためかもしれませんね。
もしそうなら面白いことになりますね。

・四角い太陽・
野付湾は、冬特に2月頃に「四角い太陽」が見えることで有名です。
四角い太陽は、空気の温度差によってできる蜃気楼の一種です。
地表付近の大気の温度がマイナス20度以下になり、
上空に暖かい空気があることが条件となります。
2月の寒い頃の特別な気象状態になったときだけに見られるものです。
四角い太陽だけでなく、時には六角形や
ワイグラスのよう見えることもあるようです。
私がいったのは春ですから、そのような太陽は見えるはずもないのですが、
泊まった温泉旅館のご主人が写真を撮られているらしく、
館内に置かれたいるアルバムには、
不思議な太陽の写真がたくさん収められていました。
宿を立つときに好きな写真をどうぞと、
不思議な太陽の写真を頂きました。
写真で見ても、不思議なのですから、
現実に見るともっと心打たれるものなのでしょうね。
でも、寒いのが難ですね。

2006-05-15

17 種子島:共通性と地域性 2006.05.15

 種子島はプレート境界で形成される付加体という地質体からできています。その付加体の一般的な性質は日本列島共通のものでありながら、地域ごとの個性を生むものでもありました。そんな共通性と地域性をみていきましょう。

 私は北海道に住んでいますので、冬になると雪が積もり、道が埋もれ、石が埋もれて、川や山に入れなくなり、野外の調査ができなくなります。でも、私は地質を調べたり地形を眺めたりするのが好きなので、冬でも野外調査にでたくなります。でも、やはり冬の北海道ではだめです。そこで冬休みには、本州の雪のないところを調査をすることにしています。
 2005年の冬休みは、種子島に出かけました。効率的に見るために、屋久島から種子島へと順番にみてきました。屋久島については以前(04 屋久島:自然に流れるさまざまな時間(2005.04.15))紹介しましたので参考にしてください。
 面積で見ると屋久島(500平方km)も種子島(453平方km)も同じほどですが、屋久島は周囲約130kmの丸い形をしているのに対して、種子島は細長く南北に伸びた(幅5~12km、長さ72km)形をしています。屋久島の宮之浦岳は標高1936mもあり最高峰で九州でも一番の高さを持ちますが、種子島は最高でも標高282mしかない、のっぺりとした平たい島です。屋久島を先に訪れたせいでしょうか、種子島が異様に平らで長い島だというのが第一印象でした。
 しかし、そんな種子島でもよく見ると起伏があることがわかります。特に海岸へは急な坂を降りるような地形になっています。このような両島の違いは、それぞれの島の地質と大地の営みの違いを反映しているのです。
 屋久島は中央の大部分を花崗岩が占めていて、周辺に堆積岩が少しあるという岩石の構成になっています。一方、種子島の大地は、ほとんど堆積岩からできています。この花崗岩の有無が、両島の地形を違いを生んでいます。
 屋久島の主体を成す花崗岩は、マグマが地下深部でゆっくりと冷え固まったものです。その花崗岩が隆起をし、上にあった地層が侵食されて、地表に顔を出したものです。そのため屋久島では、花崗岩の周辺にもともとあった地層が少し残っているだけで、あとは花崗岩の高い山となりました。そして山が高く雨が多い地域に当たるため、侵食が続き、屋久島は険しい山岳の地形となっています。
 地層は土砂が固まったもので、花崗岩と比べれば軟らかく、浸食を受けやすい岩石です。ですから、堆積岩からできてる種子島は侵食を受け、高まりは削られ平らになっているのです。
 さらに、一般に、堆積岩でも新しい時代にできたものは、古い時代のものに比べて軟らかく、侵食に弱い岩石となります。関東から西に琉球列島まで続く日本列島(西南日本といいます)では、太平洋側の海に近い(外帯と呼びます)ほど、地層の形成された時代は新しくなります。したがって、屋久島より太平洋側に位置する種子島の地層のほうが新しく、軟らかくなるので、侵食も早く進んでいくことになります。
 実際に両島の堆積岩を比べてみますと、両島の地層は四万十層群に属する一連の地層で、似たような性質の岩石からできています。一番古い地層は屋久島も種子島も熊毛層群(古第三紀中期)と呼ばれている地層です。熊毛層群は、頁岩と砂岩からできていて、褶曲やたくさんの断層が形成されています。
 屋久島では熊毛層群だけでしたが、種子島では熊毛層群だけではなく、より新しい時代の地層も出ています。中央から南半部にかけて熊毛層群を不整合という関係でおおう茎永層群があります。茎永層群は、新第三紀中新世と呼ばれるより新しい時代に形成された礫岩、砂岩、シルト岩が繰り返す地層(互層といいます)からできています。
 茎永層群をおおって上中層と呼ばれる鮮新世の地層があり、さらに上には第四紀という一番新しい時代にたまった地層や、ローム層が分布しています。第四紀の地層は、それほど固まっておらず、主に石英砂からできています。そして、その中には砂鉄もたくさん含まれています。
 四万十層群は、西南日本の外帯に連続的に分布する地層で、陸と海溝の間で形成されたものです。海溝とは、海洋プレートが大陸プレートの下に沈み込む場所です。海溝の陸側では、陸から河川などよって運ばれて堆積物が大陸棚にたまっています。その堆積物が、海洋プレートに押されて列島の下に押し込まれます。さらに、海溝に沈みこめなっかた海の岩石の破片も、陸側に付け加わることがあります。このように海溝と大陸棚の間、つまり海洋プレートと大陸プレートも境界でできた堆積物全体を付加体と呼んでいます。四万十層群は、付加体からできています。
 付加体でできる地層には特徴があります。海洋プレートの沈み込みに引きづられて、刺身のようにちぎれた地層が、次から次へと陸側にもぐり込みながら付け加わります。そして、地層の刺身は沈み込みと同じよう角度で、新しいものが下側になって付け加わっていきます。
 紀伊半島、四国、九州には、列島の地殻があり、陸となっています。ところが大隈半島から南の薩摩諸島から琉球列島までは、点々と島はありますが陸地が連続しているわけではありません。この地域には列島の地殻が十分成長していないのです。たとえ四万十層群があっても、まだ完全な陸にはなっていのないのです。
 海底にたまっている地層が陸になるためには、持ち上げる作用が必要となります。屋久島では、花崗岩の上昇がその作用を担いました。では、種子島では、そのような作用が起こっているのでしょうか。
 日本列島の海沿いには、海岸段丘のような海岸特有の地形が形成されます。陸地に残された海岸段丘などを調べることから、その地の隆起の程度を読み取ることができます。日本列島ではこのような調査から、新しい時代の変動の特徴が調べられています。
 西南日本の太平洋岸には、海岸沿いに30~50kmも続く段丘地形よく見られます。そこでは地震に伴う地殻変動がよく起こっていることがわかっています。種子島では、平均すると1000年で1m以上も隆起するような、とっても激しい変動地域に区分されています。これら海洋プレート(フィリピン海プレーと呼ばれています)が大陸プレート(ユーラシアプレートと呼ばれています)を押しながらもぐりこんでいるためだと考えられます。ちなみに屋久島は、1000年で0.5~1mという、種子島より遅い隆起速度の地帯に区分されています。
 隆起が激しく起こっているとこでは、岩石が持ち上げられる時に、壊れるところができます。岩石が壊れるということは、断層ができるということです。最近隆起しているということは、活動的な断層つまり活断層があるということになります。
 種子島には、現在4つの活断層があることがわかっています。いずれも種子島を北西-南東に切るように断層が形成されています。北から順番に、花里崎-田之脇断層、平鍋-中山断層、下田-油久断層、阿高磯断層と名づけられています。これらの断層は、たびたび地震の原因となり、今後も地震が起こる可能性があります。最近では、1996年9月9日に、断層によるマグニチュード5.7の地震が発生しています。
 種子島では、第三紀層を削っている海食台地があることから、段丘の形成は第三紀の終わりからとなります。何段かの段丘の面があることから、現在まで、段丘地形が形成されるような大規模な隆起運動が何度かあったことがわかっています。
 西南日本の外帯では、もともと海底でできた地層が陸地に出ているのは、上昇するための仕組みとして、海洋プレートが沈み込んで大陸プレートを押し上げているのです。ただし、薩摩諸島や琉球列島では、海洋プレートの衝突の方向が斜めでずれているために、上昇させる力が十分でなく、部分的にしか働かないようです。
 種子島で活断層があり海岸段丘がつくる坂道があるのは、プレート境界にできる地質体であるという、西南日本外帯に共通する地質学的性格のためです。しかし、種子島がこのようなのっぺりとした地形としてここに存在するのは、九州の南部の海溝に近い位置にあり、断層の上昇運動のこの地に集中したという種子島がたどった地域固有の歴史のためです。
 海岸へ降りるときの坂道は、のっぺりとした種子島にも、大地の変動の歴史が深く刻まれていることを教えてくれているのです。

・これも種子島・
種子島は、鉄砲伝来の地として有名ですが、
私にはロケットの打ち上げ基地としての印象が強くあります。
種子島を訪れたのは、もちろん地層を見るのが主とした目的ではありますが、
やはり種子島宇宙センターを訪れることも、忘れていませんでした。
残念ながら、打ち上げが近かったので、
センター全体を見学することはできませんでしたが、
巨大なロケットの部品が公道を通るのに出くわしました。
着々と打ち上げ準備が進んでいることを
肌で感じることができました。
このとき準備されたいたのは
H-IIAロケット7号機で、2005年2月26日に、無事打ち上げられました。
このロケットには運輸多目的衛星新1号(MTSAT-1R)という
長ったらしい名前の衛星が搭載されていました。
この衛星は、「ひまわり6号」と名付けられ、現在活躍中です。
1999年11月15日の後継機の打ち上げが失敗のために、
「ひまわり5号」が無理やり寿命を延ばして使っていたのですが、
それも限界すぎました。
アメリカからレンタルで「ゴーズ9号」が使われていました。
しかし、打ち上げ成功で2005年6月28日から
後継衛星である「ひまわり6号」が気象観測を開始し、
日本が晴れて自前の衛星を持つことができたのです。

・砂鉄・
種子島は堆積岩でできているせいでしょうか、
浜辺ごとに砂の様子が違っています。
砂鉄が波の作用で濃集しているようなところがいくつもありました。
鉄浜(かねはま)海岸という地名があり、
そこでは砂鉄をとっていたため、このような名前がついているようです。
種子島では、砂鉄が多いことは昔知られていたのですが
昭和32年の調査で砂鉄資源が多く、200万トン以上あると推定されました。
そのため、九州でも有数の砂鉄を産地となっており、
昭和40年代では、種子島は鹿児島県内でも一番の産出量を誇っていました。
種子島の砂鉄では、鉄だけでなく、
チタンの含有量も多かったため採取していました。
ただ、現在では採鉱はされていません。
採鉱されなくなって時間がたちますから、たくさんの砂鉄が濃集しています。
もちろん、私は、鉄浜海岸で砂鉄を採取しました。

2006-04-15

16 石狩川:ゆく河の流れは絶えずして 2006.04.15

 私にとって身近な大河を紹介しましょう。その大河にも、変化の歴史と、人との歴史もあります。

 私が住む街には、街の中を流れる大河があります。石狩川です。我が町で見る石狩川は、多くの水をたたえながら、とうとうとして流れています。雨が降ると、水かさが増え、茶色くにごりますが、どこかに雄大さが感じられます。まさに大河と呼ぶにふさわしいものだと思います。
 石狩川の源流は、北海道の中央に位置する大雪山系の石狩岳(標高1967m)にあります。大雪山の南東にある石狩岳から、大雪山を反時計回りに、旭川をへて深川まで巡っていきます。川の流れの方向は、大雪山という火山の高まりを迂回するためです。石狩川は、深川から石狩平野を南下します。石狩平野は平坦なため蛇行しながら流れています。そして、江別市で西に流れを変えて、石狩市で日本海の石狩湾に注ぎます。
 しかし、現在見られるこのような石狩川の流れは、昔からこのような流れであったわけではなく、さまざまな変遷をしてきました。洪水で蛇行がまっすぐになるような変化もありました。洪水が起きると、そこには土砂が溜まり、新たな大地として更新されます。また、石狩平野は硬い大地ではなく、湿地帯としての履歴も持ちます。
 現在の石狩平野にあたるところは、もともと低い地域で、石狩低地帯と呼ばれています。日本海側の石狩市から、太平洋側の苫小牧市まで70km以上に渡って20から30kmほどの幅で低地帯は続いています。石狩低地帯の地下をボーリングして調べて見ると、そこには海に住む貝化石を含むような地層が見つかります。そのような海で溜まった地層の厚さは、200m以上になることがあります。この海は、東が夕張山地、西には火山地帯であったので、狭い海で石狩海峡と呼ばれています。
 石狩海峡は、リス氷河期の終わり(約10万年前)ころから急激に浅くなり、リス-ウルム間氷期(約7万年前)にはなくなり、陸化しました。そのため、石狩川は、海峡の跡を通って、今の苫小牧あたりから太平洋に注いでいました。平坦な平野を流れていた石狩川は、蛇行や氾濫を繰り返していました。そのため石狩低地帯は湿地帯となり、泥炭がたまるような場所や河川の氾濫によって土砂が溜まるような環境となりました。最後の氷河期であるウルム氷期が訪れると海が後退して、広い湿地帯が広がりました。
 海の後退と同じ頃、3.2万から2.9万年前に、支笏カルデラをつくった火山は、非常に激しい活動をして、周辺にも大量の火山噴出物を放出しました。千歳から苫小牧かけて、大量の火山堆積物が溜まりました。石狩川はせき止められて、太平洋に流れ込むことができなくなりました。その結果、石狩川は、現在のように日本海へと流れ込むようになりました。
 やがて氷河期が終わると、海水が増加して、海が低い陸地に進出して広がってきました。1万年前から6000年前までの縄文時代の最初のころには、石狩湾が大きく陸地に入り込んできました。そのため、札幌市内からクジラの骨や、海の貝の化石が見つかることがあります。石狩川は、流路を太平洋から日本海へ変えても、氾濫や蛇行を繰り返していました。
 石狩川と人間のかかわりは、本州と同じ縄文時代からでした。本州では縄文時代の後は、農耕文化の弥生時代が始まるのですが、北海道では、続縄文時代と呼ばれる時代(察文時代とも呼ばれます)が続きました。ついでアイヌの先祖の時代となります。
 続縄文時代を継承しつつ、オホーツク文化や本州の文化を吸収して、13世紀には、アイヌ文化が成立しました。アイヌの人たちは、石狩川流域で、狩猟採取の生活をしていた。
 1869(明治2)年7月に蝦夷開拓使が設置され、石狩川と十勝川の沿岸に入殖が進められ、開拓の歴史がはじまります。本州から多くの人が農耕のために入植しました。そして本州では見られないような、大規模な西洋式の農業形態が導入されてきました。石狩平野の農耕は、石狩川の治水が重要な課題として取り組まれてきました。
 そんな人間の営みを無にするような洪水を、自然は時として起こします。1898(明治31)年、1904(明治37)年7月、1932(昭和7)年8月、戦後になっても1961(昭和36)年7月、1962(昭和37)年8月、1975(昭和50)年8月、1981(昭和56)年8月、さらに近年の2001(平成13)年9月にも台風15号による大雨で洪水を起こしています。
 蛇行する河川に大水が流れると、蛇行の外側を削っていきます。つまり堤防があっても削っていきます。そこに増水が加われば、堤防の決壊という事態がおきます。蛇行をなくし流れをまっすぐにすると、水はスムースに流れていきます。
 開拓がはじまって以来、石狩川の治水工事とは、蛇行をなくし、まっすぐにショートカットさせていくものでした。そして川の両側には、大きな堤防が設けられました。増水があっても堤防を越えたり壊したりすることなく、すぐに海に水を流してしまうという方法です。
 このような治水の結果、もともと356kmあった石狩川の長さは、100km近く短くなり、268kmになりました。それでも現在、日本で第2位の長さを誇っています。
 石狩川は平坦な石狩平野を蛇行しながら、何度も流路を変えてきました。その記録は、川の周辺にある三日月湖からもうかがい知ることができます。そもそも、石狩川の語源としては、イ・シカラ・ペツから由来しているという説が有力です。イ・シカラ・ペツとは、曲がりくねった川という意味のアイヌ語です。先住民のアイヌの人も、石狩川が特別に曲がりくねっているということを、よく知っていたのです。
 私は、自然のままの川が好きです。しかし、災害はもちろん起こらないほうがいいに決まっています。現在ももともとあった三日月湖や蛇行をまっすぐにして人工的に作られた三日月湖が、石狩川周辺には点在しています。しかし今後、人間が石狩川を治水している限り、三日月湖は自然にはできないのだろうなと、ふと寂しさを覚えてしまうのは私だけなのでしょうか。

・知恵と堤防・
石狩平野の石狩川の堤防は、他の川の堤防と高さは同じなのですが、
勾配が緩やかで広い裾野を持つ巨大なものになっています。
堤防の断面を見ると、まるで丘陵のように見えます。
このような堤防を、丘陵堤と呼んでいます。
石狩平野の堤防が、このような丘陵堤になっているのは、
石狩平野は泥炭が厚く堆積している湿地帯で、
地盤が非常に軟弱であるためです。
経済的効率を考えて、この工法がとられています。
石狩川の丘陵堤は、今もまだ工事がなされています。
入植から100年以上たっても、まだ川と人の戦いは続いているのです。
もちろん、洪水の被害から人や田畑、財産を守らなければなりません。
ですから治水工事は、必要なことです。
しかし、知恵を使っても、
もう少し自然の川の姿を残した方法は取れないのでしょうか。
今の技術をもってすれば、多分、お金さえかければ、
思うがままのものが作ることができるのでしょう。
自然を守ることと安全をお金に換算して、
安い方を選択するのはいかがなものでしょうか。
いろいろ難しい問題があるのでしょうが、
もう少し、知恵は絞って、いいものを作る方法はないのでしょうかね。

・春の到来・
皆さんの町では、桜や入学式も終わり、春たけなわでしょうか。
札幌では雪解けが宣言されたようですが、
北海道は、まだ花の季節に少し早いようです。
4月に入っても、何度も雪が降りました。
わが町では、まだ雪もあちこちに残っています。
桜はまだまだで5月になりそうですが、
遅いながらも、北国の春は少しずつはじまっています。
平地部の雪解けはほとんど終わり、
田畑の作業も各地ではじまっています。
これからが、一番良い季節となります。
つらい雪の季節を耐えたからこそ味わえる春の到来です。

2006-03-15

15 阿蘇の米塚:激しさの中のたおやかさ 2006.03.15

 阿蘇山は、九州でも有数の観光地です。その阿蘇山の中でも、あまり目立たないのですが、見た人には、きっとその形から強い印象を与える米塚と呼ばれる山があります。今回は、そんな米塚を中心に阿蘇火山をみていきましょう。

 2006年の1月の正月明けに、九州に出かけました。その時、阿蘇山に立ち寄りました。今年は、全国的に雪が多く、九州の調査直前や調査中にも、雪にあいました。そのため、予定の調査のコースを、変更しなければならいないことが何度かありました。
 今回の調査では、九州の火山として、普賢岳と阿蘇山、そして桜島を訪れることが目標でした。普賢岳については、車で雪の中を古湯まで登ったのですが、ノーマルタイヤではスリップして危険でした。また古湯周辺では、濃霧でとても火山や周囲を見る状態でなかったので、すぐに下りてきました。阿蘇山にも雪が積もっていましたが、一日目はダメでしたが、翌日は除雪もされ、道路は雪が融けていましたので、登ることができました。
 阿蘇山には、何度か来たことがありますが、雪の阿蘇山は初めてでした。数年前に訪れたときは、噴気から有毒ガスがでていたので、火口付近には近づけませんでした。今回は、上まで車で上がることができました。前日の雪は残っていましたが、幸いにも快晴の中で中岳の噴気を見学することができました。
 阿蘇山は活火山ですが、カルデラの規模は世界でも有数の大きさを誇っています。東西18km、南北25kmの大きさを持ち、カルデラの壁は、300mから600mの高さの崖を持っています。カルデラは、急な崖となっていますが、広いカルデラの内部は、平地となっています。平野は田畑に、山間部は牧畜に利用されていて、のどかな田園、牧畜の風景を見せていました。また南部の白水村は、湧水で有名なところです。私が行ったときは、阿蘇山はどこも、雪で寒々としていましたが。
 急峻なカルデラ壁があるのですが、唯一、熊本方向(西側)に立野火口瀬が開いていて、そこからカルデラ内の水が、白川として流れ出して、島原湾に注いでいます。
 阿蘇山は、約27万年前から火山活動をはじめて、9万年までに大規模な火砕流を4回(26.6、14.1、12.3、8.9万年前)発生して、現在のカルデラを形成したと考えられています。
 カルデラ内部には、湖ができ、堆積物がたまりました。カルデラの壁は、7万年前から5万年前に立野で開きますが、その後溶岩が流れこんで、カルデラ内に、また湖ができます。その湖に溶岩が流れ込んで水中での火山活動や堆積物が記録として残されています。湖の形成は、その後さらにもう一度起こり、ごく最近までカルデラ内の北側に湖として残っていました。このような歴史は、カルデラ内のボーリングの調査から分かってきました。
 カルデラ形成後、約7万年前(7.3万年より前)から、カルデラの中央部周辺で、火山活動がはじまりました。中央火口丘を形成したマグマの性質は、玄武岩質から安山岩質マグマを主としていますが、デイサイト質から流紋岩質のマグマまでもあり、多様です。
 中央火口丘で現在、活動しているのが中岳です。中岳は、現在も活動していますが、その以前に長く活動しており、古期、新期、最新期の3つに活動時期がありました。古期は6300年前より古いことはわかっているのですが、それ以外の時代はよくわかっていません。である現在の中岳の火山活動の開始時期はよく分かっていませんが、一番新しい火山であります。
 気象庁によりますと、553年(欽明天皇14年)に噴火した可能性があります。それ以降、中岳は古文書にも、そして現在のような観測体制ができた後も、死者を出すような活動を含めて、多数の噴火が記録されています。幸いなことに現在は、平穏な状態になっています。現在の火口は、南北900m、東西400mの大きさがあり、その中に小さな火口が7つあります。でも、現在も噴気を上げていて、私が行ったときも寒さのせいもあるのでしょうが、噴気で火口の中の池が見えなくなることもしばしばでした。
 中岳に次いで新しいのは、米塚とよばれる火山です。米塚の活動時期はよく分かっていませんが、その前に活動した往生岳が1740年前に活動しており、その火山噴出物を、米塚の噴出物が覆っているので、往生岳の火山活動より新しいことがわかっています。
 この米塚は、中岳とはあまりに違っています。
 中岳は大きな成層火山ですが、現在残されているのは東半分で、西半分は新期の火山活動で破壊されています。かつての成層火山の断面が、現在の噴火口の周辺に見えます。破壊されて断面を見せている中岳は、荒々しさを感じます。
 一方、米塚は、たおやかな形をしています。きれいな円錐形で、頂上がくぼんでいます。まるでおわんを伏せたようなような形をしてます。マグマの成分こそ中岳の同じ玄武岩質ですが、規模は小さく、直径380m、高さ80mの大きさで、頂上の火口は10数m程度しかありません。しかし、米塚の活動は、この山体をつくるだけではなく、周辺に溶岩を流出しています。米塚の溶岩は、玄武岩で流れやすく、3km以上も流れて、裾野に広がっています。
 この米塚は、何度見てもかわいく見えます。それは、きれいな円錐形をしているためでしょう。溶岩を流しながらこのようなきれいな円錐形になるのには、どのようなメカニズムがあったのでしょうか。
 米塚の円錐形は、スコリアというものからできています。スコリアとは聞きなれない名前かもしれません。スコリアとは、穴が一杯あいた黒っぽい石です。
 同じように穴が一杯あいて白っぽいものは軽石と呼ばれます。石の色はマグマの性質を反映していて、白っぽいのはデイサイト質から流紋岩質のマグマでガスの成分をたくさん含んでいるものからできます。軽石が固まるときガスの部分が穴があき、固まった後にガスは抜けてしまったものです。一方、スコリアは黒っぽい玄武岩質のマグマからできているのですが、固まるときにガスがたくさんあったものです。
 このようなスコリアがたくさん噴出した火山は、スコリア丘とよばれるきれいな円錐形になります。火口から噴出したスコリアは、大きく重いために、遠くに飛び散ることなく、周辺に落ちていきます。最初は火口を中心にドーナツ状にスコリアの山が形成されていきます。スコリアの量が増えていくと、だんだんこの山は成長していきます。やがて、火口を覆いつくすほどに成長します。その成長は、噴出するマグマの量や火口の規模によって、数週間から数年の間で形成されると考えられています。そして、中心部の火口はスコリアを噴出したところですから、くぼんだまま残されます。
 砂山などと同じようにスコリアの礫が集まってるつくる山も、最大傾斜角が30度で安定します。これが、きれいな円錐形をつくるしくみです。この30度という角度は、スコリア丘の規模と関係なく物理的に決定されるものです。ですから、スコリア丘はどこでも似たようなきれいな円錐形となります。
 米塚では、スコリアだけでなく、玄武岩の溶岩も流しています。この玄武岩の溶岩は、どうもスコリア丘より後から流れ出した可能性があります。それは、スコリア丘の北側には、流れ出した溶岩が盛り上がった地形が見つかっています。
 マグマがスコリアとしてたくさんのガスを放出してしまうと、マグマの中のガスが減少して、溶岩が流れ出ることが知られています。溶岩はスコリアの密度の2倍から3倍ほどありますので、スコリア丘の上まで上がることなく、スコリアの下を潜り抜けることがあります。このような現象は伊豆の大室山でも観察されています。
 ときには、上のスコリアを崩して、破片を浮かべながら流れ出すことも知られています。それのような現象は、山口県むつみ村の伏馬山で観察されています。
 阿蘇山とは、想像絶する巨大で激しく荒々しい火山活動の結果できたものなのですが、その荒々しさの中にも、米塚のようなたおやかさ、カルデラ内の平地ののどかさがあります。そんなコントラストを雪の阿蘇山で見ました。

・米塚・
米塚とは変わった名称です。
阿蘇神社の祭神である健磐龍命(たけいわたつのみこと)が、
収穫した米を積み上げてできたという伝説があります。
これは、神話ですが、スコリアを積み上げてできたという形成史と
妙に一致して面白い伝説です。
また、米塚の頂上のくぼみは、
健磐龍命が貧しい人達にお米を分け与えた名残だとされています。
いい話なのですが、本当のところは、
スコリアが噴出した火口の名残なのです。
どうせなら、米塚から流れ出た溶岩のつくっている
なだらか地形にも伝説が欲しいところでしたね。

・温室イチゴ・
私が訪れたときは、雪で、砂千里ヶ浜も草千里ヶ浜も、
「雪千里ヶ浜」となり、見分けがつきませんでした。
しかし、近くの人たちでしょうか、
ソリやスキーをもってきて、
雪遊びをしている人がたくさんいました。
阿蘇山の初日が、雪で予定していたところがいけなかったので、
その日は、白水村周辺をうろついていました。
すると温室がたくさんあり、寒い中に無人販売がありました。
そこではイチゴが売られていました。
北海道から来た人間には信じられない光景ですが、イチゴを味わいました。
たまたまその農家の方がこられたので聞いたところ、
暖房をしながら温室でイチゴを作っているとのことでした。
少々高いイチゴでしたが、農家の湧き水で洗わせてもらって、
一足早い春を味わうことができました。

2006-02-15

14 十勝岳:田園風景の背景にあるもの 2006.02.15

 北の大地の象徴ともいうべき美瑛の田園風景は、激しい火山活動の結果なのです。田園風景の背景に隠された激しい大地の営みを見ていきましょう。

 もう30年近く前の秋のころでしょうか。はじめて美瑛の田園風景を見て、心を打たれたことを覚えています。その田園風景の背景には雪化粧した十勝岳に噴煙が上がっていたことも一緒に覚えています。
 北海道の美瑛と富良野は、きれいな田園風景が広がっていて、観光が盛んになってきました。30年以上前の学生時代に、空知川流域の調査で富良野より少し下流あたりに何度か調査でいったことがありました。その折に美瑛や富良野によったことがあります。調査の時だけではなく、観光やスキーで行ったこともありました。行くたびに、美瑛の田園風景には見とれてしまいました。
 美瑛と富良野を訪れる多くの人が感じるのは、同じ日本でありながら、日本的でない異国のような景色、あるいは現在では北海道的とされている景観に、心を動かされているのではないでしょうか。
 私は京都の農家の出ですが、私の見慣れている田畑は、平地にあるものでした。山や傾斜の田畑も、平らにされていて、棚田や段々畑になっていました。ですから、耕作地とは平らなものという先入観がありました。それに区画整理がまだ整っていない畦が入り組んだ田畑が、私の原風景でもありました。
 ところがこの美瑛の田園風景は、広大でうねった傾斜地でもどこまでもまっすぐにのびる作物の列がありました。私がそれまで見てきた日本の田畑とは明らかに異なった光景でした。それが、北海道の気候とあいまって、さわやかで心打たれる景色となっています。
 2005年の夏、約20年ぶりに美瑛の丘と十勝岳を見るために訪れました。町はだいぶ様変わりしていましたが、田園風景は昔のまま残っていました。昔と一番違っていたのは、観光に力を入れた結果でしょうか、幹線道路の渋滞とたくさんの観光施設でした。
 十勝岳は、美瑛の東側に位置する活火山です。現在も噴気を上げています。美瑛と富良野の間の上富良野あたりから十勝岳に向かう道路があります。その道は、なだらかな登りで両側には田園風景が延々と続きます。その道の突き当りが十勝岳温泉です。しかし十勝岳に向かうには十勝岳温泉の手前で北に向かう道に入ります。途中、吹上温泉を右に見てさらに進むと、望岳台があります。そこが十勝岳の展望台と登山道のはじまりとなっています。
 十勝岳は、繰り返し噴火してきた成層火山です。北海道でも有数の活火山で、何度も噴火が起こしてきました。十勝岳だけでなく、十勝岳から南東方向、北西方向に延びる山並みは、すべて十勝岳と同じ成層火山からできています。これらの火山を、十勝岳火山群と呼んでいます。
 十勝岳火山群は、長い期間にわたって何度も噴火してきた火山です。十勝岳火山群の火山活動は、古期、中期、新期の3つに区分されています。古期の火山活動の正確な開始時期は分かっていません。地層の地質学的関係から50万年より新しい時代の活動であることは判明しています。古期と中期の間には活動の休止なく活動しています。
 中期と新期の間には、火山活動の休止期がありました。新期の活動が開始した時代も正確にはわかっていませんが、1万年より新しいと考えられています。新期の活動は、美瑛富士と、十勝岳の1kmほど北にある鋸岳からの噴火からはじまりました。3000年前ころには、十勝岳本体での活動が起こりました。
 歴史時代になっても十勝岳の火山活動は続いていて、1857年、1887年、1836年、1962年、1988-89年の火山活動の記録があり、現在も噴気が上がっています。
 中でも1926年(昭和元年)の噴火は大きな被害を出しました。1926年2月から小規模な噴火を繰り返していていたのですが、5月24日正午過ぎ、中央火口丘の北西部から水蒸気爆発が起こり、小規模な泥流が発生しました。泥流は6kmほど下の白金温泉まで流れ下りました。午後2時にも小規模な噴火がありました。
 そして、午後4時18分に、大規模な水蒸気爆発が起こりました。この噴火により熱い岩屑なだれが形成されて、積雪が融けて、大規模な泥流が発生しました。噴火の1分後には2.4km離れた硫黄鉱山事務所を襲い、24分後には25km離れた上富良野や美瑛町を襲いました。死者・行方不明者144名、負傷者約200名におよぶ大災害となりました。この噴火によって北西方向に開いたU字型の火口(450×300m)が形成されました。
 その後も噴火が繰り返され、9月にはさらに行方不明者2名を出す噴火があり、大正火口ができました。1928年(昭和3年)12月に、ようやく一連の噴火がおさまりました。
 十勝岳は、現在も小規模な火山活動が続いています。1998年と2000年には、やや活動が活発化しました。その後も毎年のように小規模な火山活動が繰り返されています。
 十勝岳の山頂周辺を見ると、上で述べた活動の噴火口以外にも、たくさんの丸いくぼ地となった噴火口が見つかります。地形図に名前が出ているだけでも、グランド火口、大正火口、中央火口、62-II火口、昭和火口、スリバチ火口、北向火口などがあります。U字型をした噴火口もたくさんみることができます。
 火山活動でできた地形は、時間が立つと侵食を受け、その形は不明瞭になっていきます。噴火口の地形がきれいに残されているのは、最近まで活発な火山活動があったこと示しています。
 噴火口だけでなく、溶岩が流れれば溶岩固有の地形ができます。泥流が流れれば泥流の堆積物が特有の地形を作ります。火砕流が流れれば火砕流に固有の地形ができます。
 活発な火山であれば、周辺だけでなく広く火山灰などの火山噴出物を飛ばします。火山活動時期にたまった地層の中に、十勝岳からの火山灰を見つけることで、どこまで火山灰が到達し、積もったかを調べることができます。その結果、北海道の中央部には、十勝岳火山群の火山噴出物が広く積もっていることがわかっています。
 十勝岳は、古期から火山活動をはじめ、中期にも続き、中期の最後には溶岩ドームを形成しています。新期にも激しい活動をして、そのたびに、十勝岳は山の形状を変えてきました。そして、火山の裾野も噴火のたびに地形を変えてきました。十勝岳の火山活動は現在も続いています。現在の十勝岳の形状、地形は、何度の改変を受けた結果なのです。しかし、これは、次の大規模な噴火がおこれば、また変わっていくものです。火山の歴史からすれば、現在の火山の形態や地形は、一時的なものにしか過ぎません。
 そんな火山噴火の地に人が住み着き、そして大地の表層を耕し、今の美瑛の田園風景をつくりました。ひとたび噴火があると風景は一変して、火山噴出物や泥流の原野へと変わります。しかし、人は、めげずに再び田園風景へと戻してきたのです。火山活動という自然の営みと、人と営みが、この美瑛の田園風景を作り上げているのです。

・春の兆し・
北海道も三寒四温の季節となりました。
2月上旬までは、寒いだけで暖かい日などほとんどなかったのですが、
雪祭りが終わるころから、暖かく雪の解ける日がはじまりました。
季節の巡りを感じます。
本州から来た人は、冬にしか見えないでしょうが、
住んでいる人間には、雪景色の中に春の訪れを感じます。
今年は冬が厳しかったため、
春の訪れをより強く感じるのかもしれません。
春が待ち遠しいです。
そんな季節になってきました。

・風邪・
春の兆しが見えたというのに、
2月になっても、私と長男は風邪をひいています。
どうもしつこい風邪で、1月にひいた風邪がなかなか治りません。
風邪を押して、だまし、だまし仕事をしているのですが、
なかなか本調子になりません。
今年の冬は、雪の中を歩こうと、家族分のカンジキを用意したのですが、
まだ試し履きだけで、森の中を歩くのに使っていません。
いつ使えることになるのでしょうか。
それとも、来年までしまっておくのでしょうか。
それだけは、なんとか避けたいのですが。

2006-01-15

13 富士山:防災のための分類 2006.01.15

 現在の活火山という分類は、人間が火山災害をできるだけ少なくするために考え出された方法です。まだまだ活火山の研究は途中ですが、現状を紹介しましょう。

 日本の山の象徴として、富士山が挙げられます。葛飾北斎の富岳三十六景の浮世絵はあまりに有名です。太宰治は、「富嶽百景」の中で、あの有名な「富士には月見草がよく似合う」という言葉を残しました。カレンダーにもよく使われています。「一ふじ、二たか、三なすび」というように、初夢のめでたいものの象徴としても、富士山が使われます。富士山は日本人にとっては、非常に馴染み深い山であるといえます。
 その理由の一つは、富士山は、独立した山で、円錐形のきれいな形をしてるからでしょう。そのきれいな形が、多くの人を魅了してきたのでしょう。時には宗教的崇拝の対象となり、ある時には写真や映像の被写体としての魅力もあったでしょう。また、富士山は、日本最高峰という高さをもっています。高い山の登頂は、厳しい条件を乗り越えた後、達成されます。登頂の目的としても、修行の場としても、富士山は美しさの反面でもある厳しさを持っているのです。
 富士山は、ご存知通り、火山活動によってできた山です。日本列島で見ることのできる火山には、いろいろな形がありますが、富士山は、成層火山というタイプの形をしています。成層火山とは、層を成すという字が使われていることでもわかるように、火山噴火が何度もあり、そのたびに噴出物が出て、積み重なって高い山になってきたものです。成層火山は、富士山と似たような形となります。ですから、各地で○○富士という名称の山がありますが、その多くは成層火山です。
 火山とは、富士山のように風光明媚な景観をもたらしてくれます。そして、日本人は大好きな温泉も提供してくれます。しかし、いったん噴火が起こると、火山は近づきがたい危険なものとなります。火山の歴史を見ていくと、激しい噴火を起こすのは一時期で、それ以外は穏やかで、あまり活動的ではありません。火山には人にとって明と闇の両面を持っています。火山とは、ある一時的な活動が災害という闇の部分で、他の大部分の期間は人に益を与える明の部分となります。
 火山の災害は、火山噴火が予知できれば、防災可能となります。かつて、火山の区分として、活火山の他に、休火山、死火山がありましたが、現在では使われていません。それは、防災という観点からみて、休火山、死火山が無用であり、誤解を与えかねないからであります。
 かつての活火山の定義は、「過去およそ2000年以内に噴火した火山及び現在活発な噴気活動のある火山」となっていました。それ以前の火山で、火山活動を休止しているものを休火山、過去に噴火の記録のないものを死火山としてました。かつての分類では、富士山は休火山になっていました。
 しかし、このような定義は、言葉の上ではできても、実際の火山にあてはめると難しくなります。2000年以内に記録がなくても、本当は噴火した火山があります。たまたま昔の人が記録していなかったり、研究がまだ進んでなくて実態が不明なだけなのかもしれません。記録のないのは活動していないと道東ではないのです。
 また、休火山と死火山の境目をどこに引くか、活火山と休火山の境目をどこに引くかは、言葉ではできたとしても、実際の火山の防災を考えると意味をなしません。
 例えば、1979年に死火山に分類されていた木曽御嶽山が、水蒸気爆発を起こしたことから、死火山の分類区分が意味が無く、防災上は弊害となることがわかりました。また、火山の研究が進んで、火山活動の期間は、従来の2000年ほどの単位では収まらず、1万年の単位で火山活動が起こるという見方が必要であることがわかってきました。
 このような背景から、休火山と死火山という用語は使わなくなりました。
 現在では、まず火山という分類があります。火山とは、ある山が火山活動によってできたかどうか、です。火山のなかで、現在噴火中のもの、あるいは過去約1万年間で噴火したものを活火山と定義することになっています。
 このような定義の変遷にともなって、活火山の数は増加してきました。1968年に気象庁がつくったリストでは、日本の活火山として66個挙げられていました。1975年に火山噴火予知連絡会が作成した「日本活火山要覧」では、北方領土の活火山も含めて77個の活火山が掲載されています。1996年には、「日本活火山要覧(第2版)」が出版され83個に、その後1996年には3つの火山が追加され86個の活火山となりました。そして、現在の定義となり、2005年の気象庁編「日本活火山要覧(第3版)」では、108個が活火山として登録されています。
 もちろん富士山は、活火山として分類されています。
 活火山も、過去の活動度によって、3つのランクに分けられています。ランクは、過去100年間の観測データに基づく「100年活動指数」と、過去1万年間の地層に残るような大規模な噴火の記録に基づく「1万年活動度指数」それぞれ数値化して示しされています。その両者を参考にして、活動的な火山から順にA、B、Cの3つのランクをつけました。
 その結果、Aランクは13火山(十勝岳、樽前山、有珠山、北海道駒ヶ岳、浅間山、伊豆大島、三宅島、伊豆鳥島、阿蘇山、雲仙岳、桜島、薩摩硫黄島、諏訪之瀬島)で、Bランクは36火山、Cランクは36火山、ランク外23火山(海底火山、北方領土のため)となっています。富士山はBランクとなっています。
 また、気象庁では、2003年11月4日より火山活動度レベルというものを示しています。火山活動度レベルとは、現在の火山活動の程度と防災対応の必要性の有無を、0~5の6段階の数値で表しています。実際の火山災害に運用にできる情報提供をしています。
 レベル0は長期間火山の活動の兆候がない。レベル1は静穏な火山活動で噴火の兆候はない。レベル2はやや活発な火山活動で、火山活動の状態を見守っていく必要がある。レベル3は小~中規模噴火活動等で、火山活動に十分注意する必要がある。レベル4は中~大規模噴火活動等で、火口から離れた地域にも影響の可能性があり、警戒が必要。レベル5は極めて大規模な噴火活動等で、噴火活動等広域で警戒が必要、となっています。
 まだ、これは、全火山には対応していおらず、12個の火山(浅間山、伊豆大島、阿蘇山、雲仙岳、桜島、吾妻山、草津白根山、九重山、霧島山、薩摩硫黄島、口永良部島、諏訪之瀬島)だけで実施されています。今後、さらに増えていく予定です。このうち、活動レベル3は諏訪之瀬島で、レベル2は、浅間山、霧島山、桜島、薩摩硫黄島、口永良部島の5個で、あとはレベル1です。富士山はまだこのレベルは示されていませんが、レベル1になると考えられます。
 富士山は成層火山ですから、過去から何度も噴火を繰り返してきたことがわかります。火山の形成は、大きく三つの活動に分けられます。古いものが順番に、小御岳(こみたけ)、古富士、新富士と活動しています。
 小御岳の活動は、数十万年前に活動したできた火山です。古富士の活動は、8万年前頃から1万5千年前頃まで火山噴火を起こしました。古富士は、成層火山で、標高3000m近くの高さまで達したと考えられています。古富士の山頂は、現在の宝永火口の北側、1~2kmのところにあったと考えられています。
 新富士の活動は、1万1000年前から8000年前にかけて、古富士の山頂と西側の火口から噴火を起こし、大量の溶岩を出しました。この溶岩によって、現在の富士山の山体である新富士が形成されました。この時には、古富士の山頂と新富士の山頂が東西に並んでいたと考えられます。その後、8000年前から4500年前にかけて、山頂の火口から小規模の噴火を繰り返し、火山灰を出しました。4500年前から3000年前には、再び山頂や火山の脇から大規模な溶岩を流しました。大規模な溶岩の流出は、これ以降起こっていません。
 3000年前から2000年前までは、大規模な噴火が山頂火口からありました。これ以降は山頂からの噴火は無くなり、火山の山体の脇(側火山)からの噴火になります。
 最後の火山噴火は、1707年(宝永4年)の噴火です。この時の噴火で、宝永山ができ、宝永山の西側には巨大な噴火口は残っています。
 最近では、1897年から山頂で噴気活動があり1960年代まで活動は続きましたが、1982年には噴気はなくなっていました。1987年8月20~27日に山頂で最大震度3の有感地震4回が起こっています。2000年10~12月および2001年4~5月にはやや深部低周波地震の多発し、現在は収まっています。
 なお、東京大学地震研究所の2004年4月に行ったボーリング調査によって、小御岳よりさらに古い山体があることがわかり、先小御岳と名付けられています。
 私は、以前、神奈川県の西の端の小田原市と湯河原町に住んでいました。小田原に住んでいたときには、毎日富士山を眺められる環境でした。近かったこともあったので、富士山を眺めることだけでなく、旅行でも、調査でも、富士山には何度も出かけました。しかし、残念ながら山頂へは行きませんでした。いつでもいけるという気持ちでいたからでしょうかね。

・風邪・
今回のメールマガジンの発行が1週間遅れました。
申し訳けありませんでした。
1月5日から12日まで、九州の調査に出かけていました。
帰宅後風邪を引き、数日寝ていました。
風邪を押して授業をして、溜まっていた仕事、
センター試験の監督などをしていたので、
メールマガジンをまとめる時間ができませんでした。
テーマは富士山に決めていたのですが、
きょうやっと時間ができ、急いで発行することできました。
ホームページの図の作成には、少し後になるかもしれません。

・富士・
私が神奈川の西部に住んでいたときは、
箱根と共に富士山は馴染みある火山でした。
特に小田原に住んできるときは、
アパートの窓から毎日見ることができましたし、
駅から自宅までの道からも見ることができました。
また、車でいけるいろいろなルートで富士山に出かけました。
富士山周辺にも出かけています。
大きな山ですので、周辺からもいろいろ眺めるための見所があります。
でも、それは富士山は火山本体がすばらしい成層火山だからでしょう。
私もいろいろなところから富士山を眺めました。
その大きくどっしりとした山体は、
いろいろな方向、いろいろな時刻、いろいろな季節で
さまざまな素顔をみることができます。
それが富士山を被写体にする
プロ、アマの写真家が多い所以でしょう。
北海道に住むようになって、富士山は遠くなりました。
でも北海道には蝦夷富士(羊蹄山)、利尻富士(利尻山)があります。
でも、毎日眺めることはできませんが、
少し足を伸ばせば見ることができます。
日本人は富士山か好きなのですね。

2005-12-15

12 金華山:戦国武将たちが見た山並み 2005.12.15

 長良川が山地から平野に出る位置に、金華山があります。金華山から見ると、濃尾平野が一望の下に見下ろすことができます。戦国武将が見た周辺の山並みには、日本の大地の生い立ちの秘密が隠されています。

 濃尾平野は、中京地方の産業が栄えているところです。濃尾平野は、南が伊勢湾に海に面し、北が岐阜県の岐阜市と各務原、愛知県の犬山市あたりで急な山並みで終わっています。
 鵜飼で有名な長良川を遡っていくと、金華山付近で急に険しい山並みに流れは入っていきます。その山並みは、川をさえぎるようにそびえています。平野を見下ろすような山地は、戦略的に重要な地点となっています。岐阜市には金華山の岐阜城、犬山市には犬山城があります。特に金華山の岐阜城は戦略的に重要で、鎌倉時代には砦が築かれています。金華山の城は、時代小説の題材としてよくでてきます。
 私は、2003年から2005年にかけて、ある研究の集まりで、たびたび岐阜に出かけることがありました。研究会のメンバーは大抵、金華山を長良川越しに見る旅館に泊まっていました。早朝に何度か岐阜城にも登りました。山としては、険しいのですが、それほど高くないので、朝ごはん前に登ることができました。こんな高い山の上に城をつくり、人が常駐していたことを思うと、昔の人の足腰の強さを感じます。
 斉藤道三がこの城を下克上で手に入れ、次には織田信長が道三の孫の龍興を倒して手に入れました。織田信長は、それまで稲葉山城と呼ばれていたこの城を岐阜城と改め、10年間拠点として使っていました。その後、関が原の合戦で、信長の孫の秀信が西軍に加わったため、東軍に攻められ、落城し、以降は廃城となり、城はなくなりました。
 岐阜城は地の利の良さから、難攻不落の名城として知られていますが、歴史上6回の落城にあっています。それに山頂は水も雨水を利用していたので、長期に及ぶ籠城には適さなかったようです。
 現在は、三層の城として1956年に再建され、1997年に改修されたものがあり、観光名所となっています。ロープウェイもつけられ、登りやすくなっています。頂上からの眺めはすばらしく、夜には城がライトアップされ幻想的な雰囲気をかもし出しています。私が登ったときは、早朝でまだロープウェイが営業していない時間帯でしたので、歩いて登り下りしました。
 私が、岐阜城に登っていて気になったのは、金華山をつくっている石です。登山道のいたるところで、非常に特徴的な石を見ることができます。この石は、10cm前後の厚さの板状で、何枚の板が重なって地層となっています。さらに、この地層全体が激しく曲がりくねっています。
 この石はチャートと呼ばれるものです。金華山全体が、チャートを主とする地層からできています。金華山のチャートは、白っぽい色をしています。
 チャートという石は、海に生きていた放散虫などのプランクトンなどが死んで、海底でたまったものが固まって地層となりました。放散虫は珪酸でできた殻を持っていたので、死んだ後、体の有機物は分解されてしまうのですが、殻が残って地層となっていきます。一つ一つは小さな殻なので、チャートのような地層が溜まるには、長い時間が必要になります。
 チャートは、ほとんどが珪酸からできているのですが、少し不純物が入っています。その不純物によってチャートには色が着きます。赤っぽい色は鉄やマンガンの酸化物の色で、黒っぽい色は硫化物や炭化物などの色です。緑のこともありますが、これは少量含まれている粘土鉱物の色です。
 白っぽい色はチャート本来の色で、不純物がもともと少なかったものと、もともと色はあったものが再結晶作用と呼ばれるもので色がなくなっているものがあります。海底から陸地へ持ち上げられる時に受ける変成作用で、鉱物が再度、結晶しなおして、不純物を含まなくなることがあります。
 チャートは、非常に硬い石で、他の石に比べて地上での風化には強く、あまり削剥や侵食を受けません。地層の中にチャートがたくさん混じっているところは、チャートの部分だけが侵食に耐えて残っていきます。つまり、周りが削られて低くなっていくのに、チャートのところだけが高く残っていきます。これが、金華山や周辺の切り立った山並みが、平野に唐突に高くそびえ立っているわけです。
 金華山だけなく、濃尾平野の北側にチャートの多い地層が広がっています。チャートを多く含む地層は、地形にもはっきりと現れており、北西から南東に直線的に延びる山並みが見えます。これは、チャートの多い地層が並んで延びていることを示しています。チャートが海から陸の持ち上げられたとき、その方向に並んで持ち上げられたものです。それが侵食によって残ったのです。
 チャートを含む地層全体は美濃帯と呼ばれています。美濃帯は、チャートのような深海底でできた石だけでなく、日本列島のような沈み込み帯で形成された地層の代表的な石が見られます。石灰岩と呼ばれる海の生物の化石からできた石や、海洋地殻の切れ端も、紛れ込んでいることもあります。石灰岩は、海洋でも島の周辺にできる礁とつくる生物の化石からできています。
 地層に含まれる小さな化石の研究から、美濃帯のチャートや石灰岩は、石炭紀から三畳紀、場所によってはジュラ紀にかけて、海底に堆積したことが分かっています。その後、ジュラ紀後期から白亜紀の最初にかけて、大陸にくっついて陸の一部になりました。
 海底にたまった地層が大陸にくっつくのは、海洋プレートが沈み込むところで起こります。海洋プレートのほとんどは、マントルに沈み込んでしまいますが、海洋地殻の上に溜まった軽いチャートや石灰岩などの堆積岩は、沈み込むことができず、プレートから削り取られて、陸地に持ち上げられます。このようにしてできた部分を付加体といいます。付加体の中には海洋地殻の一部も紛れ込むこともよく起こります。
 美濃帯だけでなく、日本列島はいろいろな時代の付加体があります。そして、時間と共に付加体は付け加わっていきますので、海側にある付加体の時代が新しくなっていきます。日本列島には、つぎつぎと南側から海洋プレートが沈み込んで、付加体が形成されてきたことになります。日本列島は付加体によって骨格が形成されているのです。
 濃尾平野よりさらに奥に、郡上八幡という町があります。その町の周辺にも、美濃帯のチャートや石灰岩が出ています。付加体の古い地層の境界が、郡上八幡の付近にあります。
 私は、郡上八幡の手前の新しい方の付加体と古い付加体の両方をみました。この付近のチャートは、赤っぽいものが多くなっています。また石灰岩が、陸で地下水によって溶けてできた鍾乳洞もありました。川原には、石灰岩や海洋底をつくっていた玄武岩など、多くの海でできた石が転がっていました。そんな石ころを見ながら、古き海洋の姿を思い浮かべました。

・鵜飼の長良川・
夏の夜の金華山付近は、なかなか情緒のあるところです。
夜になると鵜飼が行われ、
それを見るために屋形船が長良川を往来します。
鵜匠の船べりを叩く音、鵜の鳴き声、松明の燃える音、
日本の古くからある夏の光景には、
心和ませるものがあります。
背景に見える金華山の岐阜城はライトアップされ、
夕闇から夜の帳へと変わる空に、
くっきりと浮かび上がります。
なかなか幻想的な光景です。
ただし屋形船の大音響の音楽には興ざめしますが。

・長良川・
郡上八幡を訪れたのは、残念ながら、12月の寒い雨の日でした。
日程がないので、雨の中なかを、
川原に降りて、調査をしました。
長良川は、ダムがなく、雨が降れば、増水します。
ですから、川の増水に気をつけながらの調査でした。
岐阜の方にいたときも、前日に雨が降ったあとは、
長良川の水かさは、堤防近くまで増えていました。
私が泊まった旅館は、増水で水が堤防を越えると、
一階の駐車場は水につかりますが、
2階以上は、柵をして水がこない対策をしています。
そんな柵を本当に使うことがあるのかと思っていたら、
昨年の台風の時には、使ったようです。
自然の川の流れには、川原を更新する作用があり、
川原の石がきれいになります。
しかし、ダムのない川は、災害と隣り合わせでもあります。
濃尾平野の人たちは、川と戦ってきました。
長良川の流域の人は、災害に苦しみながらも
自然のままの長良川を守っているのです。

2005-11-15

11 層雲峡:溶結凝灰岩の柱状節理 2005.11.15

 北海道にはたくさんの火山がありますが、その中でも大雪山は、北海道の中心に位置し、規模も大きいものです。大雪山の入り口の一つ、層雲峡を訪れました。

 大雪山は北海道の中心部に位置する巨大な山です。大雪山の旧地名は「ヌタプ・カ・ム・シュペ」といい、アイヌ語で「川の曲がりめの陸地の上にいつもいるもの」という意味でした。「山の上にいつもいるもの」とはヒグマのことで、曲がった川とたくさんのヒグマがいるところという意味でした。古くから「大雪山」とアイヌ名「ヌタプカムシュウペ山」が併用されていました。しかし、現在では大雪山が定着しました。
 大正時代の文人、大町桂月が、層雲峡から黒岳、旭岳を経て天人峡に下った時の様子を、紀行文として紹介しました。その紀行文は、「富士山に登って山岳の高さを語れ、大雪山に登って山岳の大きさを語れ」で始まる有名なものです。この文章も、大雪山という名称の定着に一役かっていることでしょう。
 大雪山は、アイヌ語で「カムイミンタラ」と呼ばれのを耳にしますが、これは固有名詞ではなく、場所の様子を示す言葉です。北海道には、いくつものカムイミンタラがあります。アイヌ語でカムイは「神」(ヒグマを指すことがよくあります)で、ミンタラは「庭」で、カムイミンタラで「神の庭」という意味になります。山の神聖な祭場やカムイ(ヒグマ)の多いところに使われた地名です。大雪山は今もカムイミンタラです。
 大雪山という名前は有名ですが、大雪山という山頂があるわけでありません。最高峰は、旭岳で標高2290mあります。旭岳の北東には、直径2kmの御鉢平と呼ばれるカルデラがあります。そのカルデラを中心として、カルデラ壁や周辺には2000mを越える山だけでも20座以上あります。多数の山が集まった巨大な山塊を大雪山と総称して呼んでいるわけです。
 大雪山は、国立公園に指定されており、その広さは約23万ヘクタールあり、神奈川県ほどの広さがあります。国立公園としては日本一大きな規模です。
 大雪山が、いかに大きな山かを、私は、大学の研究生の頃、アルバイトで思い知りました。そのときは、7、8名の人がその地質調査に参加しており、環境庁の許可をもらっていたので、腕章をつけて、国立公園の中を、自由に目的のルートや場所をあることができました。そのときは、大雪山を一月近く歩るきまわったのですが、層雲峡にも1週間以上滞在して、何度も黒岳に登っては周辺を調査をしていました。いくら歩いても歩きつくせることはなく、大雪山の広さをつくづく感じました。そのとき以来、層雲峡や天人峡、大雪高原温泉などは、馴染みあるところで、懐かしい場所となりました。
 2005年9月下旬に大雪山の調査に行きました。旭川を通り層雲峡に入りました。大雪山、それも層雲峡には過去に何度来ていたのですが、20年近く前のことです。その記憶では、層雲峡の街は、狭いところに旅館や土産物屋などが立て込んでいた記憶がありました。
 しかし、今回訪れて驚きました。町並みがきれいに整備されていて、建物の色や姿も統一されていました。街の周りを周回道路があり、街の中心を歩道が通り、歩道の両側に店や旅館があるというつくりでした。まるでヨーロッパのように、きれいになっていました。層雲峡も観光の街ですから、来た人がいい思い出ができ、また来たいと思えるようなところにすることが重要なのでしょうか。
 層雲峡に来ると、いつも、その切り立った崖に圧倒されます。崖は、まるで岩石の柱を、何本も直立させ、くっつけたような形をしています。これが層雲峡の道路沿いに、延々と連続してあります。この崖は、柱状節理というものからできています。
 一般に柱状節理というと、マグマが冷却したときにできる柱状の割れ目(節理)のことです。マグマが、液体から固体になるときに、体積が少し小さくなります。その時、冷却する方向と垂直に割れ目ができていきます。例えば、水平な地層の間に、マグマが平行に入り込む(貫入(かんにゅう)と呼びます)と、柱状節理は垂直にできます。その柱状節理の断面は、多角形で4角形から7角形になっています。本来なら6角形が一番効率のよい形状なのですが、自然は、それほど規則的ではないようです。でも、遠目では、きれいに柱が何本も立っているように見えます。
 このような冷却の条件を満たすものは、マグマでなくてもあります。その代表的なものが、層雲峡の柱状節理です。層雲峡の柱状節理は、溶岩ではなく、溶結凝灰岩というものです。
 溶結凝灰岩とは、火山灰などの火山からの噴出物がまだ熱いままたまり、それが熱のために一部溶けて固まったものです。冷めてくるとマグマのときと同じで、体積が減っていき、節理ができます。これが、層雲峡の柱状節理のできかたです。
 層雲峡の柱状節理をつくっている火山噴出物は、約3万年前に活動したものです。大雪山の中央に位置する御鉢平のカルデラを形成した火山活動にでよって、大量の火山噴出物を放出し、溶岩を流しました。それが、北東の層雲峡と南東の天人峡の谷間を埋め、平らな台地にしました。
 層雲峡の溶結凝灰岩は、一度の噴火ではなく、いくつかの噴火によってできたことが、溶結凝灰岩の冷え方からわかっています。火山噴出物の厚さは、最大で200mにもなります。
 層雲峡は、石狩川の源流近くにあたりますが、まだ上流にも石狩川の流れが続いています。ですから、雪解け時には、大量の水が流れます。そのような石狩川の侵食によって、溶結凝灰岩が削られて層雲峡ができたのです。石狩川が長い時間をかけて削ってきた証が、層雲峡の柱状節理です。柱状節理の巨大な岩石が倒れて事故が起きています。3万年たった今でも、この侵食は続いているのです。
 層雲峡に行ったのは9月だというのに、黒岳では、すでに初雪の便りがありました。黒岳を登り始めると、木の葉は色づき、秋の気配が漂います。黒岳の上に近づくと紅葉真っ盛りとなっていました。大雪山の秋は、日本一、早く来ます。

・たいせつざん・
大雪山は、地元の人は、昔から「たいせつざん」と呼んでいます。
今もそう呼んでいます。
1924(大正13)年に国土地理院が5万分の1地形図で
ヌタプシュぺ山(大雪山)として
「だいせつざん」と表記するようになりました。
そのため、「だいせつざん」と読む人が多く、
マスコミなどでも「だいせつざん」を用いていることが多いようです。
私は、北海道生まれでもないのですが、
にごらないで「たいせつざん」と発音しています。
アイヌ語の地名で漢字が当てられたものは残っていますが、
カタカナ書きされたものは、たくさん消えていったようです。
1902年(明治35年)に、師範学校教師から
大雪山のアイヌ語表記の「ヌタプカムシュウペ山」は、
「民間私名」であるので、
北海道の最高峰にふさわしい立派な名前に改めよう
という意見書が道長官あてに出されたそうです。
しかし、大雪山という名称は残りました。

・大雪山の大きさを語る・
大町桂月が大雪山を訪れたのは、1921(大正10)年のことでした。
当時、桂月は、全国をめぐっており、
北海タイムス(現在は北海道新聞)の記者が誘って、山行がかなったようです。
同じ年に、「中央公論」に本文で紹介した有名な紀行文が掲載されました。
「富士山に登って山岳の高さを語れ、大雪山に登って山岳の大きさを語れ」
というものです。
私は、大雪山の大きさはアルバイトの時に思い知らされました。
1988年の夏ことです。
そのアルバイトでは、大学の山岳部の後輩がいたので、
厳しいルートの調査となりました。
ある沢の最上流部を上り詰めて調査を終えました。
帰る登山道に出るために、道のないハイマツの中を歩かなければなりません。
1時間ほどのハイマツのヤブコギをして、へとへとになりました。
ヤブコギの最中は、ここで力尽きたら、どうなるだろうかと、
不安にかられながら、歩いていました。
その翌年の夏のことです。
ある遭難救助活動をしていた北海道警察のヘリコプターから
風倒木を組んで「SOS」の文字をつくっているのが発見されました。
捜索したところ、近くで人骨と見られる白骨と
カセットテープレコーダなどが入った
リュックサックなどの遺留品が見つかりました。
私たちが通ったところではないですが、同じ大雪山の中でした。
多分道に迷って身動きが取れなくなり、そのまま力尽きたのでしょう。
カセットテープなど遺留品から、
その人骨は、1984年に行方不明になっていた愛知県の会社員だと
1991年になってようやく断定されました。
私は、道なきところを歩いていたのですが、
道に迷ってはいませんでした。
ただただ歩けば登山道に出れるので、
道に迷っているという心配はありませんでした。
しかし、その白骨の発見のニュースを聞いて、
あたらめて大雪山の奥深さ、大きさを思い知らされたのを覚えています。

2005-10-15

10 相模川の段丘:関東平野の西に住んで(2005.10.15)

 かつて関東平野の西側の坂の多い街に、私は住んでいました。毎日、その坂を上り下りしながら、その坂道の起源に思いを馳せていました。

 私は、11年間、神奈川県に住んでいました。11年間、ずっと同じところに住んでいたのではなく、その間に4回も転居しました。その理由はさまざまですが、いずれにしても、移りたくて移ったのではなく、しかたなくという消極的な転居でした。この転居は、東から西へと住処を移していきました。そして住環境の変化のたびに、そこにどんな大地の歴史があるのかに思いを馳せました。
 最初は横浜市内の保土ヶ谷というところに、2年間、住んでいました。帷子(かたびら)川沿いに走る相模鉄線の保土ヶ谷駅から降りて、長い坂を上って登って帰途についていました。毎日登ったこの坂は、多摩丘陵が帷子川に侵食されてできたものでした。
 次に転居した先は、海老名市でした。相模鉄道の海老名駅は終着駅です。海老名駅に着く直前に、電車は山並みを抜けて平地に出ます。海老名市は、相模川の流域に広がる平地に発展してきました。私の住んでいたところは、電車が通り抜けてきた山並みの上にありました。ここでも毎日坂を登って帰宅しました。この坂道は、相模川がつくった低地から座間丘陵から相模原台地へと変化するところでした。
 私が身を持って体験していた急な坂には、大地の不思議が隠されていました。
 関東平野は有名な平野です。首都圏は、この関東平野を中心に発展してきました。関東平野は日本でも特別広い平野です。広さでは第2位である北海道の根釧平野と比べても、関東平野は3倍ほどの広さがあります。
 なぜこのような広い平地があるのでしょうか。
 それは、関東平野が、日本の他の平野とは違って、もともと海であったかところが平野になったためです。実際の海底でたまった堆積物が関東平野のいたるところから見つかっていることが証拠となります。ただし、地表に堆積物があちこちにでているのではなく、関東平野の地下をボーリングすると、海底で厚くたまった堆積物が見つかります。
 では、なぜ海が陸になったのでしょうか。3つの理由が考えられています。
 一つ目の理由は、大地の隆起です。
 関東平野のある地域は、ユーラシア大陸プレートに太平洋プレートとフィリピン海プレートの沈み込むとこです。また、丹沢山地や伊豆半島の陸地が衝突してきたところです。関東平野のあるところは、3つのプレートがせめぎあっている非常に複雑な位置にある場所となっています。詳細はまだ良くわかっていませんが、そのようなプレート境界の複雑な大地の運動によって、関東平野は第四紀に隆起してきました。今まで海底であったところが隆起したため陸になってきました。
 もう一つの理由は、海に大量の堆積物がたまり、海を埋めていったことです。
 第四紀になると、関東平野の北にある妙義山、浅間山、榛名山、赤城山、男体山、那須山などの火山と、西側にある伊豆箱根、富士山などで、激しい火山活動がおこります。このような火山活用によって、大量の火山噴出物が、関東平野に飛んできて、たまっていきます。関東ローム層も、これらの火山活動のよって飛んできた火山灰や、それが風で引き飛ばされてたまったものが、もととなっています。大磯丘陵では箱根と富士山の火山噴出物で300m以上の厚さのローム層があります。
 三つ目は、全地球的に起こる海水面の変動です。これは後で詳しく紹介しますが、その前にあらためて、関東平野の地形の概要をみていきましょう。
 関東平野の北側と西側には関東山地があり、北東には阿武隈山地があります。南は房総半島まで続く下総台地から上総丘陵があります。東京湾をはさんで、関東平野の南西部には、武蔵野台地があり、さらに南西に多摩丘陵から三浦半島の三浦丘陵へ連続する高まりがあります。その高まりのさらに西側には、相模原台地と座間丘陵があり、相模川流域の低地があります。
 地形の区分の名称として、山地、丘陵と台地、低地という言葉を使いましたが、それぞれ意味が違っています。
 山地とは、新しい時代の火山と古い時代(中・古生代、第三紀)の地層からできている地形的な高まりで。標高も高く険しい地形となっています。
 丘陵は、第四紀でも一番古い時代にできた、海でたまった地層、湖でたまった地層、扇状地の地層からできています。丘陵は、関東平野を取り囲むようにして山地と平野の間にあります。
 台地は、関東平野の中央に広くある高まりです。台地は、第四紀でも新しい時代にできた、海でたまった地層や、扇状地の堆積物からできます。
 これらの台地が河川によって削られたところが、低地となります。低地は現在の河川がつくった平らな平野です。川の侵食、運搬、堆積作用によってできたもので、現在もその作用は続いています。川が大地の高まりを削り、その削った土砂を運び、川の傾斜がゆるくなったとこで土砂を堆積します。時には、川が氾濫をして流路を変えると、新たな作用がその川の周辺で起こります。こんな繰り返しが、河川流域で低地として広がっていきます。
 河川は、現在も同じ作用を続けているのですが、人間は氾濫があると都会生活が成り立ちませんので、堤防や護岸をつくって、その流路が変わらないようにしています。ですから、都会周辺の河川の変化がなかなか起こらなくなりました。
 さて、今回取り上げた相模川流域では、さらに面白い地形が見られます。
 相模川が丹沢山地と小仏山地の間から城山付近で平野にできてます。山間から平野に出た川は、扇状地や氾濫原をつくります。その相模川の山間部や平野の扇状地付近には、いくつかの平らな面があります。平らな面は、急な崖で、次の平らに面に変わります。これらは段丘(だんきゅう)と呼ばれているものです。
 相模川は古くから段丘の研究がされており、日本でも段丘が典型的に発達する地域(模式地と呼ばれます)となっています。相模川流域では、火山灰の年代測定を利用して、細かく区分されています。段丘が9段あることがわかっています。
 ちなみに段丘の上の面(古い時代)から順に並べると、座間I面(約27万年前)、座間II面(約16万年前)、下末吉(しもすえよし)面(約13万年前)、善行(ぜんぎょう)面(約7万年前)、相模原面(約6万年前)、中津原(なかつはら)面(約3万年前)、田名原(たなはら)面群(群はひとつではないという意味)(約2万年前)、陽原(みなみはら)面群(約1.5万年前)、完新世段丘面群(約1万年前)となっています。
 段丘のでき方には、2通りあります。一つは川の作用によってできる河成段丘(河岸段丘とも呼ばれます)と呼ばれるものと、もう一つは海の作用によってできる海成段丘(海岸段丘とも呼ばれます)と呼ばれるものとがあります。
 河成段丘は、大地の上昇によって、川の浸食作用が再び強くなり、かつての川や谷底の平野部が再び侵食されていくことです。ですから、河成段丘は古いものが高い位置で外側にあり、新しいものが低く川に近い位置にできます。
 海成段丘は、海が侵食でつくった平坦地な地形が、海底が上昇することによって陸化しできた平坦な面です。海底が上昇しなくても、海が後退することでも海成段丘ができます。これは、海水面の上下変化と読み直すことができます。
 地球が温暖化が起き大陸の氷が解けると、海水が増え海が陸に侵入していきます(海進と呼びます)。逆に寒冷化すると、水は氷として大陸にたまり、海水が減り、海が後退していきます(海退と呼びます)。
 海成段丘が地球の気候変動なのか、地域の大地の上下運動なのかは、同時代の他の地域の平野を調べれば判明します。
 地域的大地の変動であれば、その地の大地の歴史を解き明かすことになります。もし、海進や海退が起こったがことがわかれば、地球の気候変動を読み取ることとなります。
 関東平野は、最初に述べましたように、大地の上昇運動が起こりました。しかし、実際には、海進と海退による変化も加わっています。このような複雑な大地の営みが、相模川流域の段丘をつくってきたのです。
 座間I面は、扇状地でたまった礫岩が河川によって浸食された河成段丘です。その上の座間II面は、内湾でたまった地層で海進によってたまったものが海の作用で侵食されたものです。次の下末吉面は、海食台の堆積物と三角州の堆積物からできている地層が海の作用で侵食されたものです。この面あたりから海とは関連がなくなっていきます。海退が起きたことになります
 善行面は、扇状地の堆積物が河川の浸食によってできたものです。相模原面、中津原面、田名原面群、陽原面群は、いずれも火山灰層をたくさん含む礫岩層からなり、川の作用によってできた河成段丘です。
 また、完新世段丘面群は、もっとも海退が起こったときに相模川が運んだ川の堆積物から、だんだん海進が進み、三角州や砂州から現在の川の堆積物になっていきます。しかし、相模湾付近の平野の多く谷や段丘は埋もれています。これは、関東地方の隆起が一様ではなく、かたよっていたことを示しています。
 以上のように、関東地方では、段丘から複雑な川と海、大地の関係や、地球の気候変動まで読み取られています。そんなことに思いを馳せながら、坂道を毎日登っていました。しかし、当たり前のことですが、そんな思いを巡らせても、登りが楽になるわけではありませんでした。

・その後の転居・
その後、私の転居は海老名市から、小田原市、湯河原町へと続きました。
関東平野から箱根の麓へと西へ西へと向かって進んでいったことになります。
小田原では、酒匂川がつくった低地に住んでいました。
湯河原に至っては、箱根の火山の山麓でした。
湯河原では標高190mの火山の中腹に住んでいました。
駅は標高30mでしたから、毎日標高差160mを登り下りしていました。
これは、通勤というより登山といった方がいいかもしれません。
おかげで足腰は強くなりましたが。
こうして神奈川での11年間の生活の場を考えていくと、
関東地方の生い立ちを探るためには、うってつけの場所であったわけです。
そんなことを、離れてから考えています。
現在は、北海道の野幌丘陵に住んでいます。
箱根の箱根の関所を越えることなく、北の地に来ました。
この北の丘陵の生い立ちにも、関東平野と似たところががありますが、
それは別の機会としましょう。

2005-09-15

09 オホーツク海沿岸:丘陵と湖と湿原(2005.09.15)

 北海道のオホーツク海沿岸を車で走っていると、原生花園がたくさんあります。それこそ次々と出てきます。それに原生花園だけでなく、どうも似たような丘陵や湖、湿原が続いているように見えます。そんな景観に隠された謎を探ります。

 北海道のオホーツク沿岸は、流氷で有名です。しかし、それは冬のことです。春から秋にかけてが、やはり一番の行楽シーズンとなり、外での活動も活発になります。そんな時期に、私は北海道の北(道北)からオホーツク海沿岸にかけて調査に出かけました。それは、2004年の春のゴールデンウィークの頃と、秋の10月の渇水期の頃でした。
 そのとき、オホーツク海沿岸走りながら、海岸沿いに転々と湖や湿地、そして海岸に沿う丘陵が非常にたくさんあり、どことなく似た景観だと思いました。
 主だった湖を北から見ていくと、猿骨沼、ポロ湖、モケウニ湖、クッチャロ湖、コムケ湖、シブツナイ湖、サロマ湖、能取湖、網走湖、藻琴湖、涛沸湖、涛釣沼などがあり、知床半島へと続きます。そして湖周辺には湿地があり、原生花園もあります。丘陵も点々とですが、さまざまな高さのものがあります。
 なぜか、枝幸から雄武には丘陵はあるのですが、湖はありません。その他の海岸沿いには、丘陵や湖あります。この地域は、オホーツク海沿岸平野と呼ばれ、サロマ湖周辺はオホーツク海沿岸湖沼群と呼ばれています。
 丘陵には特徴があります。海岸線に沿って丘陵が延びているのですが、丘陵の上の面が平らになっています。そんな平坦面が丘陵には何段かあります。
 オホーツク海沿岸では、サロマ湖は大きくて有名です。サロマ湖は、東隣にある能取湖と共に、海につながった湖です。ですから、塩分を含んだ湖となり、汽水湖とよばれています。サロマ湖は、湖としては北海道では最大で、日本でも、琵琶湖、霞ヶ浦に次いで3番目に大きなものです。
 では、オホーツク海沿岸に、なぜ湖や丘陵が多いのでしょうか。それは、大地を構成する地質と運動、地球に流れる長い時間と関係があります。
 地球の表面には、風が吹き、雨が降り、川ができます。このような作用は、程度の差はありますが、大地全体におよぶ作用です。つまり、大地は常に浸食を受けているます。例えば、大地が変動で盛り上がったとしましょう。そこは丘陵や山地になります。もし、硬い岩石や地層でできていたら、地球時間で見ても、ゆっくりとしか侵食されず、丘陵や山地として長く維持されるでしょう。もし、軟らかい岩石や地層でできていたら、侵食を受けると短い時間で低くなっていくでしょう。
 丘陵や山地をつくる岩石や地層の性質の違い、つまり地質の違いと、長い地球時間によって、地形の違いが生まれていきます。地球の地形とは、このような地質、変動、時間がつくり出したものなのです。もちろんオホーツク海沿岸の湖や湿地も同じ作用でつくられました。
 大地の変動には、実はさまざまな規模のもの、そしていろいろ原因によるものがありますが、今回のような広域的な特徴をつくるには、大規模な変動を考えなければなりません。大規模な変動は、大地自身の変動によるものと、全地球的規模の気候変化によるものに分けられます。
 大地の変動とは、プレートテクトニクスに由来するような地球内部の営力によるもので、広域的な変動が起こります。地下深くに由来する変動なので、岩質の違いや、それまでの地表の状態と関係なく起こる大規模なものです。必ずしも水平に上下運動するとは限りません。大地が傾いて、なだらかな斜面ができることがあります。
 もう一つの全地球的に起こった気候変化とは、どのようなものでしょうか。地球時間では新しい気候変動として、氷河期とその後の温暖な間氷期の変動があります。氷河期には地表の水が氷として陸地に蓄えられます。そのため、海水が減り、海面が下がります。このような状態を陸から見ていると海が退いていくように見えることから、海退と呼びます。今から1万8000年前頃の氷河期の終わり頃には、最も海退が進み、海面は現在よりも100mほど低かったことがわかっています。
 その後、1万4000年前から6000年前にかけて地球は暖かくなり、海面は100mも上昇し、現在と同じような位置に達しました。しかし、一様に海面上昇が起こったのではなく、何度か海面上昇が止まった時期があります。
 1万1200年前から1万年前には現在の海面より45mほど低く、8000年前頃には現在よりも30mほど低い時期が続きました。
 また、日本の縄文時代にあたる6000年前ころには、海面上昇が最大となり、現在よりも4mほど海面が高くなりました。これを、日本では縄文海進と呼んでいます。平野によっては、100kmも海岸線が内陸に進入しました。その後も、海面は数mの範囲で3回上下していることがわかっています。そして現在は、比較的高い海面になっています。関東地方では、海面変動による約40万年前からの段丘面が読み取られています。
 海面の変動が止まっている時期には、海水の量は変わらないので、海岸線沿いでは侵食が起こり、波打ち際では平らな面ができていきます。その後別の海面変動が起これば、平らな地形も侵食されていくでしょう。大地の変動とは違って、海面変動は水平は地形を形成する作用です。
 さて、このような気候変化による海面変動と大地の変動とが組み合わさるとどうなるでしょうか。もし、海底に平坦面ができているときに、大地の変動でその海岸付近が盛り上がったら、そこには平坦な面を持つ丘陵ができます。海水による侵食は起こりませんから、平坦な地形は残されます。
 氷河期以降何度か平坦な面をつくる時期がありました。それと大地の上昇が加わると、何段もの平坦面をもつ丘陵ができます。このような海でできた段を持つ丘陵を海成段丘(海岸段丘ともいいます)と呼んでいます。オホーツク海沿岸は、海成段丘が発達しているところで、それが似た景観をつくっていたようです。
 もし段丘の面が硬い岩石でできていれば、なかなか侵食されません。川はできるでしょうが、海岸線には平野もできず、湖も湿原もできないでしょう。そのような地域が、枝幸から雄武の地域だったのです。
 もし段丘が比較的侵食されやすい岩石でできていたら、平坦面が消されながら、川ができ平野ができます。海に近いとことでは、川は海につながるでしょう。川は海に流れ込み、土砂も一緒に運びます。沿岸には沿岸流と呼ばれる海水の流れがあります。川から海に達した土砂は沿岸流によって海岸沿いに運ばれます。それが海岸に砂浜をつり、時には、湾を囲うように砂浜が延びることがあるでしょう。これが砂嘴(さし)と呼ばれるものです。ときには湾を完全に閉じ込めることもあるでしょう。これを海跡湖といいます。
 このような侵食、堆積の繰り返しが、オホーツク海沿岸の湖や湿原、原生花園をつくってきたのです。地球の気候変動、大地の運動、大地の地質、そして地球に流れる長い時間が、オホーツク海沿岸の景観を似させていたのです。

・サロマ湖・
サロマ湖には、いくつかの川が流れ込んでいます。
川の出口がサロマ湖で、サロマ湖自身は海につながっています。
サロマ湖は、現在は、両側から延びる砂嘴があるように見えます。
しかし、もともとサロマ湖は海跡湖で、
秋の渇水期には砂で海と閉ざされ、冬の間中、その状態が続いていました。
春になると、川の流量が増え、
東端の涛沸(とうふつ)付近で、海とつながるところができました。
人が暮らすようになると、サロマ湖の水面変動は何かとも問題となります。
生活や漁業を考えると、
常に海とつながっているほうがいいことになります。
かつては、地域の人たちは、毎年融雪期になると
砂を掘り、海とつなげていました。
しかし1929年、三里番屋付近を大規模に開けたところ、
これがうまく閉じることなくつながっていました。
その状態が現在にいたっています。
サロマ湖は、人が少し手を加えて、
海跡湖から汽水湖にしたものなのです。
自然と人間が作り出しか、地形なのです。

・サンゴ草・
道北からオホーツク海沿岸にかけて2度、調査に出かけました。
それは、春の調査を失敗したからです。
私の調査の方法は、河川沿いの川原や河口、海岸などで
砂や石の採集をします。
海岸は雪さえなければ調査可能なのですが、
川は条件を満たさなければなりません。
それは、川原があるかどうかです。
川原が見えていて、なおかつそこに行けなければなりません。
ところが、ゴールデンウィークの時期は、
札幌近郊の雪解けによる増水は、
もうだいぶおさまっているのですが、
道北では、雪解けの増水で、河岸いっぱに水がありました。
川原の石ころなど、ほとんど見ることはできません。
つまり、目的の調査をできなかったということです。
しかたがないので、秋の渇水期に再度出かけました。
その調査の最終地点が、サロマ湖でした。
時期はもう終わりに近かったのですが、
サンゴ草の真っ赤な花を見ることができました。

2005-08-15

08 沖縄:列島の縮図(2005.08.15)

 暑い夏ですが、北海道はもう盛りを過ぎたようで、爽快な気候になってきました。観光客も、夏には涼しい高原や北国を目指すのではないでしょうか。しかし、今回は沖縄の話題です。

 私は沖縄には、2度、訪れたことがあります。一度目はずいぶん前ですが3月末に学会発表のためで、二度目は2月末から3月はじめにかけて調査のためでした。いずれも春のシーズンでした。いずれも北海道に住んでいる時のことでしたので、季節が一気に冬から夏へ突然変わったきがしました。北国から来た者にとっては、沖縄は楽園に来たような気がしたものでした。しかし、帰ってくると、春まだ遠い北国の寒さが一層こたえました。
 このような気候変化を見ていると、日本が南北に伸びる長い列島であることが体感できます。これは日本が南北に長いため、風土が多様になっているのでしょう。
 沖縄は、日本という国の一部です。しかし、北海道や本州と比べると、沖縄は明らかに小さな島です。南西諸島としてみると、いくつもの島が連なっていますが、大きな面積を持つ陸地ではありません。ところが、大地のようすを見ていくと、日本列島の持つ特徴と同じであることがわかります。日本列島の地質と沖縄(南西諸島)の地質と共通性をみていきましょう。
 まずは、日本列島の特徴をみていきましょう。日本列島をよくみると、いくつかの弧状の陸や島を連ねた形をしています。そのひとつひとつの弧の中身は、日本列島の大地の形成を物語っています。
 日本列島の代表として、本州を見ていきましょう。本州は大きな2つの弧がくっついています。その接合部は本州の中央部、長野県のあたりになります。長野県内には南北に延びる大断層があります。この大断層はフォッサマグナと呼ばれるもので、北は日本海にから、南は静岡県を通り抜け太平洋に達します。地質学ではフォッサマグナより北東側を東北日本、南西側を南西日本と呼びます。
 西南日本で日本の代表的な大地のつくりをみていきましょう。西南日本は典型的な列島形成のメカニズムでつく上げられています。そのメカニズムとは、海洋プレートが海溝で陸側のプレートの下に沈み込むときにできるものです。海溝とは海洋プレートと大陸プレートが出会い、消滅する地質学的には非常に「活発な場所」であり、「多様な岩石」が集まり形成される場所であります。そのような作用が、何度か起こって、西南日本の大地が形成されてきたのです。
 「活発な活動」とは、海洋プレートの沈み込みによって起こる「地震」や「火山活動」のことです。いすれも、沈み込むプレートによって起こる現象でますから、陸側の地下深部で起こります。
 沈み込むプレートは、年間10数cmで移動する硬い岩石の板のようなものです。硬い岩石が沈む込むときに、その境に強い力が加わります。やがて周囲の岩石やプレートの岩石はこらえ切れなくなって壊れてしまいます。それが地震となります。
 地震は、規模(マグニチュード)が大きくても、深いところで起こったのであれば、地表の揺れ(震度)は小さく、被害が少なくなります。しかし、浅いところでこる地震は、規模が小さくても、地表での揺れは大きく、被害も大きくなります。北海道の釧路から十勝や東北、関東、東海、南海などの太平洋側では大きな地震が起こり、大きな被害を与えます。
 海洋プレートの押す力は、地表へも力を加えます。そのような力に地表付近の岩石が耐え切れないと、断層としてあわられます。地表近くの大きな断層による地震は規模が小さくても大きな被害を与えます。兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)、新潟中越地震は活断層による地震です。
 沈み込む海洋プレートは、海の底にあったので、水をたくさん含んでいます。海洋プレートが沈み込む時、水はしぼり出されます。しぼり出された水分は、軽いので地表に上がっていこうとします。沈み込むプレートは列島の地下深くまで沈み込みます。深いところでしぼり出された水分は、列島の地下のマントルに入り込みます。暖かいマントルに水分が入ってくると、それまで固体であったマントルが溶け始めます。これがマグマとなります。マグマが地表で活動したら火山となります。列島の火山はこのような仕組みでできます。
 「多様な岩石」とは、海で形成された岩石と陸で形成された岩石の両方があります。海からは、海洋プレート自身の岩石(玄武岩や斑レイ岩、かんらん岩)や、海洋プレートの上の深海底にたまった堆積物(チャートと呼ばれる岩石)、海底火山や海洋島の火山活動によってできた岩石(海洋底のものとは少し違った性質の玄武岩)や、それらの島の周辺にできたサンゴ礁などの岩石(石灰岩)が集まります。一方、陸からは、列島をつくっていた岩石が河川によって堆積物として大陸棚に運ばれてきます。時には列島の火山から火山灰などが飛んできて堆積します。
 海と陸の岩石が、海溝の陸側の地下で混じって付け加わっていきます。海と陸の岩石が海溝に沿って次々と付け加わっていきます。このような特徴を持つ岩石でできた地質体を付加体と呼んでいます。付加体が、沈み込み帯で形成される特徴的な地質となります。
 付加体を貫くようにしてマグマの活動が起こります。そのようなマグマの活動の記録は、マグマが地下で固まった深成岩や、マグマが地表に噴出した火山岩からみることができます。
 深成岩は、付加体の深部で固まったものです。ですから、現在の地表で見ることができるようになるには、隆起して、上を覆っていた岩石や地層が侵食によって削剥されなければなりません。列島では深成岩が地表に出て見ることができるので、隆起し、侵食の激しいところとなります。
 古い沈み込み帯には、結果として、付加体と多数の断層や火山が残されていきます。このような古い付加体が西南日本にいくつかあります。付加体を構成する岩石や地層を広域で見ると、大きな時代区分の違いがあり、大断層(構造線と呼ばれています)で境されています。そのような時代や構造の境界を利用して、日本列島の地質構造を区分しています。有名な中央構造線も付加体の境界と位置づけられます。
 日本列島では、中央構造線を境にして、太平洋側を外帯、日本海側を内帯とよんでいます。外帯の中でも重要な境界として、仏像(ぶつぞう)構造線というものがあります。仏像構造線とは、内帯側に傾斜した大きな逆断層で、中央構造線側に古生代後期から中生代中期の付加体(三波川変成帯と秩父帯とよばれる2つの帯があります)があり、海側に中生代後期より新しい付加体(四万十帯とよばれます)があります。
 さて、沖縄の話です。本州、四国、九州から連続した構造をもった地質が、沖縄にもあります。沖縄を含む南西諸島では、太平洋側(正確にはフィリピン海)には、沈み込み帯である琉球海溝があります。その内帯側(西側)には、列島があり、縁海にあたる東シナ海(正確には沖縄トラフといます)という構造をもっています。
 また、南西諸島は、3つの構造帯が列をなしています。東シナ海側、つまりいちばん内帯側に、新しい火山島列があります。硫黄島、口永良部島、中之島、諏訪之瀬島、硫黄鳥島などで、現在も活動中の火山がたくさんあります。
 列島の中央は、古い時代の付加体で、奄美大島、沖縄島北部などと、南西諸島の一番南にあたる石垣島、西表島、与那国島も、古い時代の付加体です。ペルム紀とみられる化石が見つかっていますが、多くはジュラ紀から白亜紀にかけての付加体です。本州でいう三波川変成帯と秩父帯に相当するものです。
 最後に、太平洋側、つまり一番外帯側には、白亜紀から第三紀の堆積岩からなる付加体があり、種子島や隆起サンゴ礁の沖永良部島や宮古島など低平な島が多い。本州でいう四万十帯に相当するものです。
 深成岩の活動も見られます。深成岩は主に花崗岩で、すべて第三紀に活動したものです。北から、屋久島、奄美大島、徳之島、沖永良部島、渡名喜島、沖縄島、石垣島などで、規模はさまざまですがみられます。
 このように見ていくと、南西諸島は、狭い範囲に日本列島の内帯を除く地質の要素と同じようなものが、出ていることになります。沖縄周辺も地質学的は日本列島と同じような構造を持っているのです。

・弧状列島・
なぜ、弧状の地形ができのでしょうか。
不思議に思うことがあります。
しかし、これは、地球が平面ではなく立体であること
それも球体であることが重要な意味があります。
海洋プレートと大陸プレートがぶつかり、
海洋プレートが沈み込むときの形態です。
これは硬い球体に、押し込まれたくぼみができるという現象です。
ピンポン玉を押してへこませたときでききる窪みは、小さな弧状のものです。
これが大規模に地球でも起きているのです。
ピンポン玉の窪みの反対側には、弧状の高まりができます。
これが列島の陸側に隆起が生じます。
日本列島は、今も、いくつもの沈み込み帯があります。
過去にもあったことが知られています。
それぞれが弧状の形態となっています。
日本列島は弧状の地形の集まりでもあるのです。
これは日本列島だけの特徴でなく、
多くの沈み込み帯では、ごく普通にみられる地形的形態です。
日本列島のような島が集まっているところを
弧状列島(島弧ともいいます)と呼ぶことがあります。
南西諸島も立派な島弧なのです。

2005-07-15

07 積丹半島:シャコタン・ブルーの海に抱かれて(2005.07.15)

 断崖から海覗き込むと、海に吸い込まれそうに感じることはありませんか。海の色が深いコバルト・ブルーならなおさらです。夏の積丹半島の海は、特有の鮮やかなブルーとなります。そんな海の色を、シャコタン・ブルーと呼んでいます。積丹半島は、シャコタン・ブルーの海に抱かれているようです。

 積丹半島は、小樽の西部にあり、北海道の南西部にあたります。日本海に対して北西に突き出た半島です。半島の周りは、断崖が多く、交通の難所となっています。でも、そんなところだからこそ、素晴らしい手付かずの自然が残されているのかもしれません。2004年9月に私は積丹半島を一周する調査に出かけました。
 台風18号は、九州をかすめて日本海に出て、2004年9月8日未明、北海道の奥尻島の沖を通過しました。日本海で勢力を強めた台風は、北海道を直撃して、多くの被害をもたらしました。台風18号の影響で、半島を周回する国道229号線が、半島の西に位置する神恵内村の大森から柵内間で、高波によって橋が壊され、途中で通行不能になっていました。この台風18号は、死者7名、行方不明者2名、負傷者120名を超える大きな被害を出しました。
 北海道には台風があまり来ないために、台風が来ると被害が大きくなります。今回は、日本海で成長するという予想に反する台風の挙動が、災害を大きくしたのかもしれません。
 私は、台風通過の直後に積丹半島に出かけました。積丹半島の西側の海岸沿いでは、高波による被害の様子を生々しくみました。この調査の予定は、台風が来る以前に立てていたものです。当初の目的は、海岸沿いで古い火山の地形やマグマが固まるときにつくるさまざまな岩石の形態など見るつもりでした。
 周回道路の通行は、遮断されていますが、そこを迂回すれば予定通り地質を見ることはできます。なにも災害直後に出かけなくてもいいのではないかという気もしましたが、私は、出かけました。それには、理由があったのです。
 災害直後の様子を、自分自身が専門とする地質学の目で見ること、そしてそれらの様子を少しでも記録して、何らかの形でアウトプットすることが必要ではないかと考えたからです。2003年の台風10号のときも、洪水直後の鵡川と沙流川の調査をそのような目的をもって出かけました。
 災害はできれば避けたいものです。でも、どうしても起こる災害もあります。その災害から学ぶことがあるはずです。ですから、私は自分の範囲で、現場の邪魔にならない範囲で、地質学的情報の収集に協力し、貢献したいと考えています。私が被災者、被災地に貢献ができるのは、ボランティアとして働くことよりも、私の身に付けた専門知識や経験、見る目、持っているアウトプットの方法を提供することではないかと考えています。
 私の専門は地質学です。直接、台風災害と関係がないかもしれません。しかし、まったく関係ないこともありません。ですから、地質学者の目で災害の地を見ると、他の分野の専門家とは違った見方や情報収集ができるかもしれません。まして、災害直後しか手に入らない情報であったら、二度と手に入らない情報であったら、という思いがあります。
 このように思うに至ったのは、次のような出来事があったからです。
 2003年の十勝沖地震で、札幌でも液状化現象がおこり、傾いた家がでたことがニュースになりました。誰か専門家が調査しているだろうと、専門家みんなが思っていました。しかし、誰も調査していないことに産業技術総合研究所北海道センターの地質学者のOさんは気づかれました。液状化現象を、Oさんは記録するために、急遽現地に赴き、調査されました。そして緊急調査の内容は、地質学者にメーリングリストとホームページを使って公開されました。
 このメールとホームページを見て、これは、非常に重要なことだと感じました。直後に専門家でないと収集できない情報を、収集して、記録に残すことは大切です。公的機関の人間としてOさんが、それを責務と考え、急遽調査され、報告されたことは、素晴らしいことだと思います。このような情報は、今度の対策に不可欠なデータとなるはずです。
 私もそのような意図で、せっかく出かけるのであれば、許される範囲で、現場を見てこようと考えています。もちろん専門家が、仕事として現地で調査をしているでしょう。しかし、上で述べたように、情報は多くの専門家が、さまざまな視点で収集しておくべきだと考えています。
 もちろん、一市民としていくわけですから、一般の人と同じように制限されているところにはいきませんし、許されている範囲で見ることになります。そんな立場からでも、災害の記録はそれなりにできるかも知れません。そして、その感想を人に話したり、学生に紹介したり、公的な場で意見を述べることもできるでしょう。
 それが私にできる災害地へのボランティア活動だと考えています。
 積丹半島の被災地の様子は、すざましく、生々しいものでした。積丹半島の西側の中央に位置する神恵内村では、大森から柵内間が通行止めで、大森大橋が高波で壊されていました。ここは、事前に通行止めにしていたため、死傷者がなったということも聞いていました。しかし、高波に破壊された家、浸水した家がたくさんありました。私が行ったときは台風後の快晴の日でした。被害受けた住民の方が、復旧に懸命でした。
 2004年12月には、神恵内の復旧道路は開通しました。安全を図るために、今では、新たなトンネルが掘られています。完成はだいぶ先のようですが、より安全な対策がなされてきたわけです。災害の教訓が活かされたのです。
 このような災害が起きたのは、台風による高波が予想以上でもあったのですが、積丹半島の周辺の海岸は険しい崖の多いことが、一番の理由ではないでしょうか。
 そのため道路の整備も遅れ、古い狭くて険しい道も多いのです。トンネルも多く、昔の人が苦労してつくったトンネルが今も使われているようなものも見られます。特に東部の海岸沿いは細い道が多く、夏ともなると交通量が多く、通行が恐ろしい道となります。雨がたくさん降ると通行止めになるところもたくさんあります。積丹半島は、札幌や小樽からも近いのですが、観光地とはいえ、開発が遅れているのです。
 積丹半島の海岸は、険しい海岸地形で切り立った崖が多く、崖崩れがよく起こる場所でもあります。1996年2月の古平町豊浜トンネル付近の大規模な崩落は、今も記憶に残っているものです。激しい降雨による通行規制も、雨による崖崩れの被害を事前に防ぐことが目的です。
 なぜ、積丹半島の地形が、海岸から切り立ったようになっているのでしょうか。同じ北海道の日本海側海岸でも、石狩湾では砂浜が広がるようなところもあります。何がその差を生んでいるのでしょうか。
 北海道の南から見ていくと、熊石町から大成町にかけての海岸、瀬棚町から島牧村の海岸、寿都町の海岸、岩内町の雷電の海岸、雄冬の海岸と、転々と険しい海岸があります。そのどれもが海に突き出るような地形となっています。北海道の日本海側の南西部で切り立った海岸線は、いずれも新第三紀や第四紀に活動した火山でできているということが共通しています。積丹半島でも、全体が新第三紀の火山があり、中央部には余別岳や天狗岳の第四紀ころに活動した新しい火山があます。
 一方、なだらか海岸地域は、新しい時代に形成された堆積岩でできていたり、大きな川の河口周辺に平野部に多く見られます。同じ堆積岩でも、松前の海岸では、古くて硬い地層であるために、険しい崖となっています。もちろん望来海岸のように新しい堆積岩でも切り立ったところがあり、例外があります。まあ、それはそれで理由があるのですが。
 新しい時代の火山は、できてあまり間がありません。もともと現在の海岸付近で活動したものですから、火山自体が侵食を受けやすい地域にあます。海の波の作用で激しく侵食されます。火山では溶岩や貫入岩だけでなく、火山噴出物や砕屑物など軟らかい堆積物も含まれています。すると、軟らかいところと硬いところでは、侵食の程度が違っていきます。軟らかいところは激しく侵食されます。硬いところは侵食を免れて、できたまま切り立った荒々しい状態の地形として残ります。
 積丹半島の先端には、西に神威岬、東に積丹岬があります。いずれも険しい崖ですが、火山噴出がたくさん含まれている地層(野塚層と呼ばれています)があります。この新しい地層は、半島の西部の海岸ではよく見られるものです。堆積岩でできた地域は比較的やわらかいので、海の波による侵食を受けます。その結果、新しいものでは海食崖、古いものでは海岸段丘などの地形ができます。海岸段丘は積丹半島の西側で、海抜50mあたりによく見られ、最後の間氷期のものであることがわかっています。弱いがために侵食を受け、段丘と海食崖で険しい崖となっています。
 このような地質の背景が、積丹半島の海岸の景観をつくっています。険しい崖は交通を困難にしています。しかし、その侵食が生み出した奇岩や荒々しい地形が、素晴らしい景観をつくっています。自然の荒々しさを味わう観光地として人を集めています。
 積丹半島を囲む海は透明感が高く、魅惑的なブルーとなっています。このブルーは、シャコタン・ブルーと呼ばれます。積丹半島は、シャコタン・ブルーの海に抱かれているようです。海と大地の織り成す景観が、神秘さを増します。

・積丹マグロ・
積丹半島は、きれいな海を背景にした漁業が盛んで、
泊まったところは海の幸がいろいろあって
それもおいしかったです。
とりわけマグロの刺身には感動しました。
宿のご主人の話では、積丹沖でとれたもので、
積丹マグロと呼んでいました。
冷凍ではなく生なので、よりおいしく食べました。
たった3切れしかありませんでした。
でも、これくらいがいいのでしょう。
堪能しました。
北海道だけではないのですが、
海沿いの民宿や旅館に泊まると、
海の幸が豊富で素晴らしいです。
しかし、シャコタンブルーの海で獲れたマグロはやはり格別でした。

・サケ・
朝、旅館の前を散歩していると
多くの釣り人が、河口付近の海で釣りをしています。
何をつっているの見ていると
どうもサケを釣っているようです。
川ではサケは禁猟で捕れないのですが、
遡上前の海は、禁猟になっていないようです。
川にかかる橋から見ると、サケが何匹も川の中に見えました。
でも、それはまだ遡上のピークではないのでしょう。
北海道の田舎のきれいな川に秋に出かけると、
多くの場所でサケの遡上を見ることができます。
もちろん積丹半島でも、何箇所でもサケを見ることができました。
サケは台風の影響を受けなかったのでしょうか。

・北海道の自然・
ついつい話題が秋のものになりました。
今は夏ですから、夏の話をしましょう。
今度の連休に私は、富良野を中心に3泊4日で調査をします。
家族も一緒です。
富良野はテレビドラマの舞台ともなっているので、
田園風景が素晴らしいところです。
私の目的は、観光名所よりも、
地質学的に興味のあるところを見ることです。
石狩川支流の空知川と幾春別川の調査と
十勝岳の火山が目的です。
北海道は、なんといっても、春から秋にかけてが、いい季節です。
こんな時期は、北海道に住んでいてよかったとつくづく思います。
もちろん、時には今回紹介したような災害もあります。
それに、冬の寒さや雪も、北海道の自然です。
すべて丸ごと北海道の自然です。
地域の自然とは、いいことも悪いこともすべて含めて考えるべきです。
北海道の冬の厳しさがあるから
より一層夏のありがたさが味わえるのだと思います。
さて、北海道の夏はまだまだ続きます。
もっともっといいところを味わっていきましょう。

2005-06-15

06 仏像構造線:断層と大地の営み(2005.06.15)

 断層によってもともと違ったところになったものが接したり、あるいは今まであった関係がずれることがおこります。そんな断層をみていると、人間の営みと大地の営みは、時間でも大きさでもスケールの違いがありますが、どこか似たようなものを感じます。

 愛媛県西予(せいよ)市は2004年4月1日に、明浜町・宇和町・野村町・城川町・三瓶町の5つの町が合併して、誕生しました。合併したそれぞれの町も、「昭和の大合併」で市町村合併をしたものです。愛媛県はかつては伊予と呼ばれ、この町は伊予の西にあるため、西予市と名づけられました。市町村合併は、今まで別であったものが、ひとつものにまとまっていくということです。そのようなことが、自然界にもよく起こっています。それは断層というもので、断層は私たちがよく知っている地震と密接な関係があります。そんな断層を見ていきましょう。
 市町村合併をした西予市のうち、城川町は私のよく知っている町です。城川町に、私は、1991年以来、毎年のように通っています。城川町には地質館という博物館があります。その設立に協力して以来、博物館の展示だけでなく、インタネットを使った博物館情報の公開、市民教育のための普及講座、博物館のネットワーク化など、さまざまな共同作業をしながら、何度も訪れるようになりました。今では、第二の故郷のように思えるほどです。新しい市長さんにも、2度ほどお目にかかり、私たちの成果や目的を紹介しました。
 愛媛県の山間の小さな町である城川町に地質館ができたのは、この地が地質学的に有名なところだからです。地質学を勉強をした人なら、日本の地質の名称として、黒瀬川構造帯、寺野変成岩、三滝火成岩類などという名称を聞いたことがあるはずです。たとえそれらがどの町にあるかわからなくても、聞き覚えのある名称です。これらは、城川町にある地名から由来しています。ですから、城川町という地名を聞いたことがない地質学者でも、城川町にある地名を知っているのです。
 城川町から西予市になって、一気に面積が広がりました。海から四国脊梁の四国カルストまで、多様な自然をかかえる市となりました。私も新しい市の全域の地質をみるために、いろいろなところを巡りはじめました。そんな調査の折に、仏像構造線が見ることができるということを、知りました。さっそく、その断層が見ることのできる崖(露頭(ろとう)といいます)を訪れました。
 四国には東西方向に延びる大きな断層が、2本あります。ひとつは中央構造線で四国の北側を東西に走り、もうひとつが仏像構造線で四国の中央を東西に走ります。仏像構造線は、北側にある秩父帯が南側の四万十帯に押し上げているような構造の断層(逆断層と呼ばれています)です。仏像構造線は、秩父帯と四万十帯の境界になっています。仏像構造線という名前は、高知県土佐市にある地名にちなんで、小林貞一という地質学者が、1931年に命名したものです。残念ながら、城川由来の地名ではありませんが。
 秩父帯も四万十帯も、南にあった海洋プレートが海溝に沈み込むのに伴って、陸側にいろいろな堆積物が押し付けられ、くっついてできたものです。このようにしてできた地層群を付加体と呼びます。四国では、常に南側に沈み込み帯がありましたので、北から南に向かって新しい地質体が付加しています。
 秩父帯が付加したのはジュラ紀で、四万十帯は白亜紀から第三紀にかけてです。さらに南側にはもっと新しい付加体があります。ここで示した時代は付加体が形成された時代で、付加体の中には、海洋プレートが運んできた石も一緒に出てきます。ですから、付加体ができた時代よりもっと古い石も含まれています。秩父帯には、3億1000万年前(石炭紀後期)~1億5000万年前(ジュラ紀後期)の石がみつかり、四万十帯には1億3000万年前(白亜紀前期)~2200万年前(中新世初期)の石が混じっています。
 秩父帯を構成する石は、砂岩や泥岩を主としますが、海山を構成していた石(玄武岩や石灰岩)や深海底に溜まったチャートと呼ばれる堆積岩などを含んでいます。四万十帯も同様に、砂岩や泥岩を主とした石の中に、海山や海嶺できてた石(玄武岩)やチャートなどが混っています。その秩父帯と四万十帯の一番の違いは、付加した時代です。
 また、秩父帯の中には、黒瀬川構造帯と呼ばれる異質な石をいろいろ含む地帯があります。これも一種の大きな断層帯とみなせます。黒瀬川構造帯は、連続性はよくないのですが、断続的に分布しています。中には、シルル紀からデボン紀の地層や花こう岩類、変成岩が含まれています。シルル紀からデボン紀の地層は、岡成(おかなろ)層群と呼ばれ、この地層名は城川にある地名に由来しています。角閃岩や片麻岩などの変成岩は寺野変成岩と呼ばれ、砕かれた花こう岩類は三滝火成岩とよばれ、いずれも城川にある地名に由来しています。
 仏像構造線は、時代の違った付加体が接しているため、地質学的に見て第一級の大断層になります。ランドサットなどの人工衛星から見ると、中央構造線は、明瞭な大地形としてみることができます。仏像構造線もよく見ると大地形としてその連続を追いかけることができます。四国の東西に延びる山並みは、仏像構造線などの付加体の構造をそのまま反映した地形なのです。
 このような大きな断層は、一本の大きな断層がきれいに地層や岩石を割っているのではありません。多数の大小の断層が複雑に入り混じって、大断層を構成しています。大断層の本体を露頭で近くから見ることはできませんが、人工衛星から遠めで見ると巨大断層はよく見えるのです。
 第一級の大断層を見ようとしても、断層の本体はなかなか見ることができません。見ることのできるのは、いくつもある大断層を構成するひとつの小さな断層になります。同じ意味を持つ断層かどうかは、断層の両側にある地層が、秩父帯と四万十帯の地層であれば、それは仏像構造線の一部をなす断層とみなせます。
 それでも、このような一級の大断層を見ることはなかなか難しいのです。なぜなら、断層とは、地層や岩石が割れた場所のことです。そしてその断層が大きければ大きいほど、断層の幅は大きくなり、中には砕けた石ができます。このような部分を断層破砕帯と呼びます。断層破砕帯は、砕けた石でできているので、まわりの石と比べると弱い部分となります。断層が地表付近にあると、断層破砕帯は弱いですから、風化や浸食を受けやすくなります。破砕帯が大きければ、そこは谷となるでしょう。四国の中央構造線は、大きな川(吉野川)や平野(新居浜平野、松山平野)、海(伊予灘)、半島(佐多岬半島)になっているところがあるほどです。
 大きな断層を露頭で見るのはなかなか大変なのですが、仏像構造線が西予市でみることができるのです。私が見ることのできたのは、海岸沿いの道路の露頭や工事中の露頭でした。第一級の大断層にしてはあまりにも、さりげなく、みすぼらしいような気がします。
 しかし、断層の北側には、秩父帯の特徴的な石である石灰岩があり、断層破砕帯をはさんで南側には、四万十帯の砂岩と泥岩の地層がありました。明らかに、仏像構造線の特徴をもっています。この断層は、かろうじて、露頭として残っています。断層破砕帯があるのですから、崩れやすいところとなっています。もし、道路拡張や落石防止のためにコンクリートを吹きつけられたら、明日にも見ることができなくなります。
 近くに工事中の露頭があり、そこの石を見ると、激しく砕かれた石からなる大きな破砕帯がありました。一部でかろうじて石を見分けることができましたが、大半の石はぐしゃぐしゃに砕かれています。近くにこのような大きな破砕帯があるということは、やはり仏像構造帯がこのあたりを走っていることは確かです。考えてみると、海岸沿いのこの小さい露頭に、断層が残っていることの方が、不思議なぐらいです。
 直接断層を見ることは、なかなか困難なのです。ほんの小さいな露頭で垣間見るだけです。しかし、そんな小さな露頭でも、周囲には大断層の痕跡がたくさん見つかります。
 この海岸の露頭よりさらに東の陸側では、断層がそのまま山の崖をつくっているところが見ることができます。このような断層のずれによってできた崖を、断層崖と呼びます。途中で別の断層に切られて南北にずれていますが、20kmほどにわたって断層崖が連続します。しかし、断層崖で断層を直接見ることはできませんでした。
 さて、今までは、第一級の断層の話でしたが、小さな断層であれば、地層や石ころの中に、身近にみることができます。断層とは、石が破壊されてできる割れ目(断層面といいます)で、ズレ(変位といいます)があることをいいます。断層はその規模を問いません。ですから、小さなものであれば、手軽に断層を見ることができるのです。
 石や地層を見ると、さまざまなサイズの割れ目があり、固まっていることがあります。もしその割れ目で左右の石や地層が別のものだったり、模様がずれていたりとすると、その割れ目は小さいながら断層といえます。石がずれて固まった割れ目は、いってみれば、大地の動いた跡、大地の変動の化石といえます。そのような断層を持つ石や地層は探せばいっぱい見つかります。
 断層は、それほど珍しいものではないのです。しかし、断層が持つ意味を考えると、実は重要なことを、小さいな断層が物語っていることに気づきます。
 断層とは、まず石が割れることから始まります。石が割れるということは、大地に働く力が岩石の強度を上回り、岩石に破壊が起こるということです。そのような破壊がおこると、地表で感じるような振動が起こることがあります。それを、地震と呼んでいます。一度の地震でいくつもの断層ができます。小さな断層は、大きな地震によってできた多数の破壊のひとつにすぎないかもしれません。大きな断層は何度も地震を起こします。ですから、断層の数と地震の数とは、一致するわけではありません。どんな規模のものであっても断層があるということは、規模はわかりませんが、地震が起こったことを示しています。
 地層や石の中にみられる断層とは、地震の化石ともみなせるのです。石に記録された断層がいつの時代に起こったものかを特定するのは、なかなか難しものです。特別な場合を除いて、いつかを特定することはできません。しかし、多数の断層が石や地層に記録されているということは、大地では、いたるところで地震が起こっていることを意味します。
 日本では、いや大地には、いたるところに断層が見つかります。その断層とは、大地の営みといえます。大地の営みとは、断層つまり地震を伴うことなのです。そして大地の営みが継続することによって、その規模は、想像を絶するほどのものとなります。山脈をつくり、海溝をつくり、海と陸など地球表層の構造すべてをつくっていくことが、大地の営みなのです。その営みには、岩石の破壊という断層が不可分な作用として伴います。断層があること、それは地球の営みが、起こっている証でもあるのです。
 小さな今にもなくなりそうな露頭にみらる第一級の大断層から、手のひらに乗る小さな石ころの中の断層まで、大地の営みの記録なのです。

・そうは見えない・
このエッセイでは、断層を見るたびに、
いつも感じていること書きました。
第一級の断層をあちこちで見てきたのですが、
どれを見ても、ついついこれがあの有名な断層なのか、
という気持ちがいつも沸きます。
中央構造線でもフォッサマグナでも同じ気持ちを味わりました。
何箇所も見ています。
それよりも名前もない見事な断層が、
大きな露頭の地層では見ることができます。
名もないけれども断層らしい断層、
有名だけれども見栄えのしない大断層があります。
もちろん大断層とは多数の断層からできていること、
見えている断層は、本体の一部に過ぎないことも知っています。
でも、やはりそんな大断層を見るとがっくりしてしまいます。
理性的にはそれが第一級の大断層であること、
地質学的にはそこに大きな不連続があること、
そしてそこに重要な地質学的意味があること、
すべて理解しています。
でも、見ると、やはりそう感じないのも事実です。
人知れず、ひっそりと目立つことなくあるからでしょうか。
断層とは地震の写し身で、
人にとっては害をなすものだからでしょうか。
どうもそうではなさそうです。
第一級の大断層とは、規模も大きく見えてい欲しいという
願望があるからなのかもしれません。
そんな願望が満たされないから、
みすぼらしく感じるのかもしれません。
論理がないと理性は納得しません。
しかし、人が感動するのは感性です。
感性は見た目や大きさなど、
理屈ではないものから発生するようです。
さてさて人の心とは、断層を解明するより難解なものですね。

・市町村合併・
ここ数年、市町村合併で、新しい町の名称が生まれています。
昭和30年頃にあった「昭和の大合併」以来、
50年を経て、今、新たな市町村合併が起こっています。
国の構造改革の一環で打ち出された政策です。
合併でより大きな行政単位となり、
施設の効率化や人員の合理化、
10年間の交付税の確保、
合併のために補助金、
などなどが大きなメリットがあるため、
多くの市町村で進んでいるようです。
一方で、古い町の名称がなくなることへの抵抗、
地域の伝統が消えること、
過疎化の促進への不安、
補助金亡き後の財政危機、
などなど、問題もいろいろありそうです。
しかし、市町村合併の最終判断は、
そこに住む住民たちが下します。
ある地域では、市町村合併をやめ、
ある地域では市町村合併が進んだり、終わったりしています。
いずれにしても、平成の大合併は進行中です。