2009-02-23

●速読:No. 2761 2009.02.23


ハルニレと朝日。江別市文京台


朝は激しい雪であった。
明け方から降りだしたようで
除雪が入っていない。
そのため、ふかふかの新雪のなかを
雪に埋もれながら歩いてきた。

現在、地層の形成について
いろいろ文献を読んでいる。
内容を整理し、ノートをとりながらだから、
なかなか進まない。
学んでいる最中だから
しかたがないともいえるのだが、
それがまどろっこしくてしかたがない。

速読が気になって関連資料を目を通していた。
フォトリーディングが有名だが、
どうも胡散臭さを感じる。
佐々木氏の科学的に解説してる
速読の手法が納得できる。
そして読んだ本にはその方法も示されていた。
もしその効能が本当なら、
読書に関してすばらしい効果が上がる。
ダメもと試してみようかと考えている。
講習に行くには現状では不可能だが、
とりあえず本で書いていることを
試してみてもいいかもしれないと考えている。

2009-02-20

●Gmail:No. 2756 2009.02.20

坂道。江別市文京台

今朝は、雲って雪がちらついていた。

さらさらした積雪である。
冬らしい天気である。

現在大学のメールボックスを整理している。
300MBほどの量しかないのだが、 遅い。
半年後とにメールボックスを整理しているのだが、
遅くていらいらしてしまう。
それに業を煮やして、Gmailを試した。
メールを転送して、どれくらいの能力を
持っているか試すためだ。
まだ、メールの数が少ないため、
その能力がわからない。
私がもっているメーラーと
併用するつもりであるが、
大学のWEBメールよは、
かなり早いことは確かだ。
Gmailを使ってまもないから、
その能力は不明だ。
現在、無料のメールボックスの容量が7GBである。
そこでスピードがあるのであれば、
私の不満は解消できる。
ただ、メールが重要な情報だから、
メーラーに必要なものは保存するのは基本としたい。

2009-02-15

50 浅間山:噴火の予知と対処

 浅間山は、現在、活発な火山活動をしています。先日は東京や横浜でも火山灰が降りました。浅間山は、古くから何度も噴火してきました。そこには、悲劇が繰り返し起こっていました。そんな悲劇を二度と繰り返すことのないように、私たちは過去や今回の噴火から学ばなければなりません。

 2月2日夕方、自宅に帰ったとたん、テレビのニュースを見ていた家内が「浅間山が噴火したのを知ってる?」と聞きました。「知らない」といって、ニュースの映像を見ました。噴煙を上げている浅間山が見えた直後に画面が変わり、横浜での降灰の様子が示されました。車のボディーにうっすらと積もった火山灰が放映されていました。
 私は、浅間山が、以前から要注意の活発な火山であることを知っていました。また、昨年の夏の小噴火は知っていたのですが、今回は噴火の兆候があったことは知りませんでした。ですから、浅間山が噴火と聞いたとき、少々驚きました。
 浅間山の噴火は、2月2日の深夜1時51分頃に起こりました。噴火としては小規模でしたが、大きな火山弾が、山頂の火口から、1~1.2kmまで飛び散りました。噴煙は、上空2000mまでも達しました。そのときの風向きが南東方向だったので、浅間山から、埼玉県、東京都、神奈川県の一部に火山灰を降らしました。降灰は、房総半島の鴨川市内でも確認されました。この降灰の様子を2日の夕方のニュースは伝えていたのです。
 浅間山は、2月9日7時46分ころにも小さな噴火が起こり、その後しばらく断続的に噴火をしています。9日の噴火はあまり大きくはなく、周辺地域で降灰が少しあった程度でした。噴気や小規模な噴火は、現在も継続中です。
 浅間山の噴火の兆候は、火山観測網が捉えていました。傾斜計や地震計、GPS、空震計、望遠カメラによる観測によって捕らえた兆候に基づいて、気象庁地震火山部は、2月1日午後1時、「火口から4キロメートルの範囲に影響を及ぼす噴火が切迫していると予想」して、「噴火予報・警報 第1号」を発表しました。
 火口周辺警報として、噴火警戒レベルがそれまでレベル2であったのが、レベル3に変更されました。レベル2とは火口周辺規制、つまり火口周辺への立入の禁止ですが、レベル3になると、入山規制、つまり山への立ち入り禁止と、状況に応じては災害時要援護者(重度の障害者やひとり暮らし高齢者など日常においても支援を必要とする人)の避難準備がおこなわれます。
 また、2月3日には、「噴火予報・警報 第2号」が出されました。噴火したのですが、今後も噴火の危険性があるので、噴火警戒レベル3を継続することが、周辺地域の自治体に通知されました。
 浅間山は、群馬県と長野県の境にある標高2568mの山頂の火口を持つ活火山です。火山のある場所は、地質学的に複雑な位置になります。
 本州を2分するフォッサマグナとよばれる大断層の中ほどで、断層の東側にあたります。フォッサマグナは、ユーラシアプレートと北アメリカプレートの境界になります。また、北から続いている東北の火山フロントと、南の伊豆マリアの火山フロントがぶつかり、そして屈曲しているところになります。浅間山がある地帯は、南南西から北北東にのびる40kmx30kmにおよぶ低地帯があり、この低地はプレートの運動による構造的な窪地となっています。浅間山は、プレート境界で屈曲する火山帯という複雑な地質になっている場所なのです。
 浅間山は、数10万年前から火山活動が活発に起こっています。浅間山は日本でも火山活動は、現在の残されている3つの火山に代表される3つの時期に分けられています。古いほうから黒斑(くろふ)火山による黒斑期、仏岩(ほとけいわ)火山の仏岩期、そして前掛(まえかけ)山の前掛期です。
 東に開いた馬蹄形カルデラを持つ黒斑火山は、9万年前には活動を開始したと考えられています。標高2800mにも達した成層火山でしたが、2万3000年前ころに大規模な山体崩壊が起こります。この崩壊によって岩屑なだれが起こりました。その痕跡は泥流としてとして、周辺の流山地形や前橋台地などに残されています。黒斑期の活動は、2万1000年前ころには終了します。
 仏岩火山は、現在の火山である前掛山の東側に隠れてはっきりとしません。しかし、その活動は周辺の地質調査から解明されています。仏岩火山は、黒斑火山の活動後の2万1000年から1万1000年前まで活動をしました。何度も噴火を繰り返しながら、1万3000年前に大噴火が起こります。この噴火は大規模なもので、長野県と群馬県の火山周辺500平方kmを、火山灰が平均10~30m、最大で50mの厚さで覆ったと考えられます。また南東の軽井沢にある離山は、仏岩期の初期活動で、デイサイトから流紋岩のマグマが火山ドームを形成したものです。仏岩火山の活動も、1万1000年前ころには終わります。
 仏山火山と同じ場所で1万年前ころから前掛火山が活動をはじめ、現在も継続しています。大規模な噴火活動をしたは、8000年前、5000年前、685年(天武天皇14年:飛鳥時代)、1108年(嘉承3年、天仁元年:平安時代)、1783年(天明3年8月5日)が知られています。685年以降の活動は、人が記録を残している時代のものです。小規模な活動も活発で、何度も噴火を繰り返して、今回の噴火に至っています。日本でももっとも活動的な火山の一つです。
 浅間山には、だいぶ以前になりますが、2001年9月にいったことがあります。そのときは、浅間山周辺をめぐり、鬼押し出し公園や浅間火山博物館、嬬恋郷土資料館など浅間の噴火に関わる場所をめぐりました。
 天明の大噴火は、溶岩が流れ(現在の鬼押し出しの溶岩)と火砕流(浅間焼泥押)があり、1500人もの死者が出ました。そのときの様子は、嬬恋(つまごい)郷土資料館や鬼押出し園にある浅間火山博物館で紹介されています。
 嬬恋郷土資料館のすぐ隣に鎌原(かんばら)観音堂があります。観音堂までは、15段の石段を登っていきます。しかし、この石段はもともとはもっと長いものだとされていました。下にあったはずの石段は、天明の大噴火による火砕流と岩屑なだれが埋もれてしまいました。
 天明の大噴火は5月8日に始まりました。しばらく休止した後、6月25日に噴火し、また小康状態になりました。そして、7月17日に大きな噴火があり、8月4日から5日の未明にかけて最大の噴火が起こります。この噴火によって飛びだした火山灰によって、関東中部でも、昼なのに夜のように暗くなったと記録にあります。5日の午前10時ころ、鎌原火砕流が発生します。火砕流は地面削りながら、岩屑なだれとなり15kmも離れた鎌原村を直撃しました。岩屑なだれは、鎌原村の住民597名のうち、一瞬にして477名の命を飲み込みました。
 昭和54年に埋もれている石段の発掘が行われました。岩屑なだれの厚さは、6mにも達し、35段の石段が埋もれていました。そこから、生き埋めになっていた2名の女性の遺骨も一緒に発掘されました。2名の女性は、老婆を背負った若い女性の遺体でした。そこにどのような物語があったかは、想像するしかありません。老いた母を背負って逃げるつもりの嫁だったのでしょうか。でも、彼女らは、あと数分、いやあと数十秒早く非難していたら、生き延びられたでしょう。
 日本のある地域に限定してみると、火山噴火はそうそう起こるものではないといえます。ですから、多くの日本人にとって、火山は温泉や景観などの恵みを与えてくれるものです。特に、平野にある、一見火山とは無縁にみえる東京や横浜のような大都会の人にとっては、火山は恵みをもたらすものに映るかもしれません。しかし、今回の浅間の噴火のように、平野の真ん中の大都会でも火山灰が降ることもあるのです。
 日本は火山列島なのです。その証拠に、日本の大地をどこを掘っても、必ずといっていいほど火山灰層がでてきます。それは、日本列島が火山列島であることを物語っています。
 自然は、荒々しさを時に人に向けることがあります。ですから、自然現象には謙虚に臨まなければなりません。ただし、自然に恐れおののくだけではいけません。自然にどう立ち向かうべきかを、今回の噴火は教えてくれます。
 現在の科学でも、火山の噴火を止めることはできません。しかし、今回の浅間の噴火のように十分な観測体制を整えれば、ある程度噴火を予知することは可能になってきました。そして、その予知に基づいて、防災のための行動をすれば、多くの命は救われるはずです。そのような知恵を私たちは持てるようになってきました。二度と親孝行の嫁をみすみす亡くすことがないように、心しなければなりません。

・火山見学・
浅間山にいったのは、2001年の9月でした。
そのころ私は、神奈川の博物館に勤務していました。
次男が生まれて1年半ほどたったころに、浅間山にでかけました。
浅間は、2001年の1月から4月にかけて
噴煙をだしていたのですが、
その後は活動が収まっていた時期でした。
新幹線を使えば、かなり気軽にいける距離でした。
そのときは、浅間山だけでなく、
近くにある白根山、榛名山も一緒に見てきました。
もちろん温泉に泊まりながらです。
そのときは、火山の恵みを味わっていました。

・暖冬・
今年の北海道は、雪も少なく、暖かい冬となっています。
ここ数年の雪の多い時期と比べると
除雪もあまりすることもなく、楽な冬を過ごしています。
雪が降ってもあまり多く降ることはなく、
休日には子供たちが除雪をしてくれます。
私が除雪をしたのは、数えるほどしかありません。
排雪場所に困るほどの量もありません。
昨年の夏に、大雪に備えて、屋根に雪庇対策を施しました。
今年は、その効果を確かめることができないようです。

2009-01-15

49 天橋立:水面下にもある橋

 2009年の最初のエッセイとして、日本三景の一つの天橋立を紹介しましょう。天橋立は、砂州のなす形だけでなく、白砂と松の緑、海の青が織り成すコントラストが、景勝地と見ごたえのあるものにしています。

 息子たちが通っている小学校では、冬には百人一首をやることになっています。私は北海道に来てはじめてその存在を知ったのですが、取り札が木でできているものを使って行われています。木の札には、読めそうもない崩した草書のような字体で下の句が書かれています。昔ながらの札を使っているのではなく、現在も店で売っていっています。我が家でも一セット購入しました。
 ゲームは3人ずつの団体戦で行われます。下の句だけを読んで取り合うもので、源平合戦と呼ばれる北海道固有の競技のようです。我が家でも、冬になるとやっています。
 百人一首には、よく日本各地の景勝地も詠まれています。残念ながら北海道の景勝地は入っていませんが。私も高校時代に百人一首を覚えたものですが、いまだにいくつも記憶に残っています。
 その一つに、和泉式部(いずみしきぶ)の娘、小式部内侍(こしきぶのないし)の詠んだ
  大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみもみず 天橋立
という歌があります。
 その歌が心に残っているのは、大江山(カンラン岩でできていることで有名)も生野(生野銀山として古くから有名)も、いずれも地質学では有名なところです。地質学でその地名を聞くたびに、ついついこの歌を思い出してしまいます。いずれの地も、私が大学院時代に、地質調査に出かけた記憶に残るところです。
 天橋立も大学院時代にいったのですが、調査をしたことはありませんでした。昨年の春、再度訪れました。今回は、家族連れでの観光なので、天橋立を徒歩で歩くということもやってみました。のんびりと歩いても、1時間ほども歩けば渡れる距離でもあります。帰りは、船で天橋立を眺めながら帰ってきました。
 天橋立は景勝地として有名ですが、地質学的に興味深いところでもあります。
 天橋立は、北の江尻から、南の文殊にかけて、延長は約3.6kmあり、幅は20~150mもある砂洲です。この砂州は、野田川が運んだ土砂や日本海沿岸から海流によって運ばれた砂礫によって形成されてたものです。
 砂州は、南北に伸びた宮津湾の南側に形成されています。宮津湾の西南に膨らんだ入り江の部分を、南北に区切るようにあります。砂州の内側の海は、阿蘇海(あそかい)と呼ばれています。
 阿蘇海は、砂州の内側になった海跡湖とよばれるもので、日本海では、海跡湖としては、面積に比べて深い深度を持つことが特徴となります。阿蘇海は、2箇所で宮津湾で海につながっています。つまり、天橋立は、海を完全に閉ざしている砂州ではなく、南側で海につながる水路があります。阿蘇海は、砂州が切れて宮津湾へとつながっていますが、狭い水路なので海水の循環が悪く、富栄養化が起こり問題となっています。
 天橋立には、他の砂州にあまり見られない固有の特徴があります。
 まず、天橋立の両側の海底へ向かう斜面は、宮津湾側で20m、阿蘇海でも12mの水深があり、急斜面となっています。天橋立は、深い海に20m以上の厚さで堆積した、そして急傾斜の砂州という特徴を持っています。つまり、深い海底に唐突つけられた一筋の陸路のようになっています。
 天橋立では、松の緑が白砂に映えています。このクロマツの松林は、その数、5000本とも8000本ともいわれるほどあります。海の中に形成された砂州に松林があるのは、少々不思議です。なぜなら、海の中の砂州で掘れば海水が出てくるはずなのですが、地下に淡水があるということです。
 淡水は海から運べませんから、陸から地下水が流れていることになります。砂州の南側には、「磯清水」とよばれる淡水の井戸があります。実は、天橋立は、砂州全体にわたって、60cmから1.2mほどの深さで地下水脈があります。このような地下水脈は北側の江尻側から流れ込んできているものと思われます。天橋立は、淡水の地下水が流れる砂州という特徴があります。
 砂州の中なのに真水の出る「磯清水」があるのをみた和泉式部(いづみしきぶ)は、その不思議さに、
  橋立の 松の下なる 磯清水 都なりせば 君も汲ままし
と詠みました。
 さて、天橋立と呼ばれる砂州は、いつどのようにしてできたのでしょうか。
 阿蘇海に流れ込む野田川があります。この野田川は、断層に沿って流れている川です。その断層は、山田断層とよばれ、非常に大きなものです。山田断層は、北東から南西に33kmほどの長さ延びていることが確認されています。この断層は、北西側が隆起し、北東に移動する(右にずれ断層)という動きをしています。山田断層は、1927年の北丹後地震で活動しています。
 約2万年前の最終氷河期には、海水準は100mほど今より低かったと考えられています。氷河期が終わり、海水準が高くなり、6000年前の縄文海進のころには、現在より2mほど海水準が上がったと考えられています。野田川沿いに堆積した地層との対比から、縄文海進のころから、砂州の形成がはじまったと考えれています。
 砂州は、海流や沿岸流、河川の状態、土砂の流量など、さまざまな要因で変動を受けて変化します。ですから、砂州は、安定したものではなく、要因が変化すれば、その形状も変形するものです。現在、天橋立は、阿蘇海を閉ざすほどの長さがありますが、第二次世界大戦以降、砂州の侵食が起こっています。それは、治水のために作られた河川のダムによって、海に流れ込む堆積物が減ったためだと考えられます。1987年からは砂州を守るために、サンドバイパスを設け人工的に砂州の地形の維持しようと努力されています。
 室町時代に活躍した水墨画家で禅僧でもある雪舟も、天橋立にきて描いています。その絵は現存しており、国宝「天橋立図」として、京都国立博物館に所蔵されています。
 この「天橋立図」は、雪舟が晩年の1501~1506頃に書いたことがわかっています。雪舟観(せっしゅうかん)と呼ばるところとから見たもので、東側から天橋立を見下ろす構図になっています。その絵を見ますと、天橋立は南の文殊側が、広く開いた形状となっています。ですから、砂州は今よりずっと短かったことがわかります。
 日本三景は、古くから日本でも有数の名勝地となっています。Wikipediaによれば、江戸時代前期(17世紀)、儒学者・林春斎という儒学者が書いた「日本国事跡考」の中で「丹後天橋立、陸奥松島、安芸厳島、三処を奇観と為す」と書き、それ以降日本三景がはじまったとあります。
 陸奥松島とは、現在の宮城県宮城郡松島町の沿岸の多島海の景観です。安芸厳島とは、広島県廿日市市にある厳島神社を中心とした宮島のことです。今では、「安芸の宮島」のほうがよく聞かれます。海上の赤の大鳥居と海の上に建てられた社殿が有名で、国宝にも指定されています。
 日本三景のうち、「安芸の宮島」の厳島神社は1996年に世界遺産に登録されました。天橋立も世界遺産への登録の努力はされていますが、いまだに実現されていません。その理由は、夏の海水浴客がたくさん来て、観光地化して自然が保護されづらいこと、また砂防のために人工物が多数設置されていることもハンディになるかもしれません。
 景勝を守るために、自然を大きく改変するのは主客転倒かもしれません。やむにやまれぬ、それなり理由があるのでしょうが、自然に人間が関与するのもほどほどにしておくほうがいいでしょう。まして、砂州とは地質学的は短時間で変動するものです。そこに砂防をしても、自然の変化を押し込めることはできないでしょう。それにそのような対策を施された自然景観は本当の自然景観といえるのでしょうか。今回の旅で、その不自然さを強く感じました。
 天橋立は、自然が時間をかけて、深い海底にできた分厚い堆積物の架け橋です。その橋の中には、地下水が流れています。地下水によって、多数の松が育ちました。この架け橋は、まるで生きているかのように、変移し続けています。自然の変化を止めることは、自然を守る正しいやり方でしょうか。自然の変化をも受け入れられる精神が必要ではないでしょうか。あるがままの自然を受け入れた上で、愛(め)で慈(いつく)しむ気持ちこそ、大切ではないでしょうか。

・砂州から砂嘴へ・
天橋立は、地形の上では砂州と呼ぶべきです。
砂州とは、離れた二つの陸地がつながるほど延びたもので、
つながらず離れていたり、海に突き出ているものを
砂嘴(さし)と呼んでいます。
砂州と砂嘴は、その形成のプロセスは似ていますが、
その状態が陸続きのようになっているかどうかが違いといえます。
ですから、砂州が侵食され離れていけば、
砂嘴と呼ぶべきものになります。
雪舟のみた天橋立は、砂嘴というべきものかもしれません。
もし、侵食で天橋立が砂州から砂嘴になったら、
そこは景勝地ではなくなるでしょうか。
少なくとも、500年前には景勝地でした。
変わることを拒んではいけません。
変わることを受け入れるべきでしょう。

・ネタ不足・
今回のメールマガジンは、発行が少し遅れました。
私の怠慢のせいです。
申し訳ありませんでした。
その背景には、少々ネタ不足になってきました。
最近、でかける余裕がなくなってきたためです。
もっといろいろなところに出かけたいのですが、
なかなかそうもいかなくなってきました。
少なくなったとはいえ、
昨年も春休みと夏休みに1週間ずつ出かけています。
それでも、はやり少ないようです。
本当はもっと出かけたいのですが、
現実的には段々難しくなってきます。
来年度は、講義日程ももっときつくなります。
次回以降、このエッセイも
やりかたを少々考えなければならないかもしれませんね。

2008-12-15

48 中央構造線の土砂災害:記憶と記録(2008.12.15)

 12月ともなれば、その年のことをいろいろ思い返してしまいます。今年は社会では、政治や経済がいろいろ話題になりましたが、私は自然災害が少ない年だったように感じました。人は、平穏な日々を過ごすと、その平穏さのありがたさを感じることがあまりありません。一方、特別なこと、異常や危険なことなどがあれば、記憶に残ります。ですから、平穏な時期は、たとえ異常が潜んでいても、気づかないことがあります。この記憶は、記録と一致するわけであはりません。もちろん。自然災害に襲われた地域や人は、今年は特別な年であったと記憶するでしょうが。

 気象庁の記録によれば、今年の台風の上陸はゼロです(正確には12月末を過ぎるまで決定ではありませんが)。確かに記憶をたどっても、大雨や集中豪雨のニュースはあったのですが、台風による被害のニュースは聞きませんでした。
 統計をみると、平年(1971年~2000年の30年間の平均)の台風は、発生数が26.7個、接近数は10.8個、上陸数は2.6個となっています。平年と比べると、今年は0個で上陸数が少なかったことになります。台風の発生数を見ても、21個と平年よりやや少なくなっています。台風の上陸がゼロという数は、1984年、1986年、そして2000年にもありましたが、はやり異常な記録といえます。しかし、記憶にはまったく残らない記録です。
 一方、2004年は記録的な数の台風が日本を襲いました。発生数は例年比べて29個とやや多いだけですが、過去の記録を見ると、もっと多い年がいくつもあります。最多は1967年の39個にも達します。ところが2004年は、接近数も19個、上陸数も10個となり、史上最多となっています。まだ記憶されている方も多いと思いますが、そのいくつかは、日本各地に大きな被害を与えました。
 2004年の前後の2003年(発生数21個、上陸数2個)と2005年(発生数23個、上陸数3個)は、通常の台風の数となっています。これは、気象庁が残している記録です。人の記憶にも、2004年の台風は残っていることでしょう。しかし、記憶は、記録と必ずしも一致するわけではありません。
 2004年は、多く台風が上陸したので、各域で被害がありましたが、たぶん多くの人も台風の被害を記憶しているでしょう。私は本州でその被害を目の当たりにしました。ですから、この年の台風は記憶に焼きついたものとなっています。
 私は夏過ぎにたいてい四国の愛媛県西予市城川町に調査に出かけます。2004年の9月にも城川に出かけていました。私が行った9月のはじめまでに、四国を襲った台風は、すでに5個にも達していて、多くの被害を出していました。
 なかでも台風16号は、四国に大きな被害を与えました。この台風は大型で、しかもゆっくりと移動していたため、大量の雨による洪水、風による被害も大きくなりました。私が訪れる直前に、この台風16号が四国西部を襲いました。台風16号は大量の雨が降ったので、予想外の土石流の発生が各地で起こりました。四国の瀬戸内海側の山間部で大きな土砂災害を出しました。城川周辺各地でも、土砂災害の被害を出していました。
 土砂災害には、地すべり、崖崩れ、土石流があります。中でも、土石流は土砂災害の約75%を占めます。台風時には、海岸では洪水や強風、高波を注意をするのですが、傾斜地や山地では土砂災害に注意が必要です。傾斜の急な沢ぞいにたまった岩石や土砂、砂礫が、豪雨、地震、融雪などによって、周辺の木などをまきこんで、一気に流がれ下るのが土石流です。水の中にさまざまな大きさの岩石や木を含んでいるので、単なる水害と比べて被害が大きくなります。
 土石流は非常に危険なので、国土交通省の河川局が、土石流の危険性がある地域を「土石流危険渓流」として指定しています。全国で18万カ所以上にもなります。野外調査をしていると、急な河川でが「土石流危険渓流」と書いた看板を見かけることがあります。
 2004年の台風16号による土石流の被害を、土木の専門家が調査しました。その報告では、もともと四国の瀬戸内側の山岳地帯は、表土が薄く土石流の発生の危険性が高いということを伝えてました。なぜ、この地域で表土が薄く土石流の発生しやすいのかを、地質学的に見ていきましょう。
 まず、表土についてです。表土は、硬い岩盤の上を覆う固まっていない層のことをいいます。表土は、砂礫だけのこともありますが、多くの場合は、岩盤が壊れた砂礫の層の上に、植物が分解された層(土壌)が形成され、両者が表土を構成しています。
 表土の厚さは、その地の岩盤となっている岩石の種類、岩盤の傾斜、風化を受けていた期間、その地域の気候・風土など、さまざま条件が複雑に関係しています。しかし、岩盤の性質が、表土の厚さを決める一番大きい要素だと考えられます。
 岩盤が固い岩石だと、岩石が壊れにくくなり、表土は形成されにくく薄くなります。また、硬いが崩れやすい岩盤でも、表土ができてもすぐ崩れてしまうので、厚くなることなく、薄いままになります。
 四国の地質を考えていくと、四国山地の太平洋側には、四万十層群と呼ばれる堆積岩からできている地層が発達しています。硬い岩石ですが、日本列島にプレートテクトニクスによって、海側から付け加わった付加体と呼ばれるもので、海に向かって傾斜しています。
 四国の中央山地から瀬戸内側にかけては、南から秩父(ちちぶ)帯、三波川(さんばがわ)帯、和泉(いずみ)層群という地質帯が、東西に伸びて並んでいます。和泉層群の中には領家帯の花崗岩や変成岩が入り込んでいます。
 それぞれの帯の境界には、大きな断層があります。四万十層群と秩父帯の境界は、仏像構造線という大断層があります。秩父帯の中には、やはり東西に伸びる黒瀬川構造帯という断層運動でつくられた地帯があります。秩父帯は黒瀬川構造帯より南側を、三宝山帯と呼ぶことがあります。秩父帯と三波川帯の間には、御荷鉾構造線という大断層があります。三波川帯と和泉層群あるいは領家帯の間には、有名な中央構造線があります。
 それぞれの断層は日本でも第一級の断層で、断層周辺の地層は、変形を受けて、壊れやすくなっています。また、四国の瀬戸内海の山側には、三波川帯が分布しています。三波川帯は変成岩からできています。高い圧力によってできたタイプの変成岩で、ぺらぺらとはがれやすい結晶片岩とよばれる岩石を主としています。そこに断層によって、より崩れやすい岩石になっている考えられます。結晶片岩が表層に出ている地域は、表土が崩れやすく薄い地域になっていると考えられます。
 三波川帯では、一般的に表土とその下の岩盤とでは、物質の性質がかなり違います。表土の底には、砂礫があり、雨が降るとそこまでは水がしみ込みますが、岩盤は硬い岩石なのではなかなかしみ込みません。そのため表土中に水が溜め込まれることになりますが、表土が薄い地域に大量の雨が降ると、水は表土の底を流れ始めます。すると、表土自体が不安定になり、土砂崩れや土石流などの土砂災害となります。
 台風によって短時間に大量の雨が降りました。その結果、四国の瀬戸内海の山側で、各地で土石流がおこり、各地で被害を出したのでしょう。被害は、このような地質の背景によるものだと考えられます。
 私の四国滞在中にも、台風18号の襲われました。激しい雨と風の中を車で移動した記憶が鮮明に残っています。この台風18号は、北海道にも上陸し、北海道大学のポプラ並木が倒れたり、積丹半島でも高潮によって大きな危害がありました。積丹半島には、被災直後に訪れました。この体験を、本エッセイの「07 積丹半島:シャコタン・ブルーの海に抱かれて」
http://terra.sgu.ac.jp/geo_essay/2005/07.html
で紹介しました。参考にしていただければと思います。
 2004年は台風の最多上陸数ですが、その記録は、私にとっても、多くの被害の記憶となって重なっています。ところが私には、2004年だけでなく、2003年も台風に対する強い記憶があります。それは、2003年にも、台風の被害をいくつか身近に感じたためです。
 2003年の9月、台風10号が四国を襲う直前まで、私はやはり城川にいて、台風に追われるように北海道に戻ったことがありました。その台風10号によって、城川では2人の死者を出しました。そのうちの1人は、城川に住んでいる友人の同級生でした。帰宅後その連絡を聞いて、自分の身近なところで、台風の犠牲者がでたことに驚きました。
 さらに2003年には、台風が北海道を上陸し、各地で被害を出しました。しばらく後に、私は台風の被災地である鵡川に行きましたが、その感想は「地球のつぶやき」の「22 災害と倫理:北海道の被災地を調査して」
http://terra.sgu.ac.jp/monolog/2003/22.html
で紹介しました。
 2003年と2004年は、私にとっては、台風の被害が強く記憶されている年です。2004年の台風の被害は全国に及ぶのですが、2003年のものは北海道や、四国の限られた地域で起こり、たまたま経験したものでした。大きな台風、多数の台風は、多くの地域で被害を出します。被災地では、その台風は強く人の記憶に残されます。少なければ、限られて人にだけにしか記憶されません。私は、その両者が2年にわたって記憶されています。
 台風だけでなく一般に自然現象は、人に与えた影響の程度と回数によって記憶になっていくのでしょう。記憶は、数や統計とは必ずしも一致しません。さらにいえば、幸運にも自然災害がないという記録は、たとえ歴史的に珍しいものであったとしても、記憶には残らないのです。
 でも、「平穏の記録は記憶に残らない」ということは、記憶しておくべきなのかもしれません。なぜなら、自然が与えてくるれ平穏は、自然災害より圧倒的に多くの時間と豊かさを与えてくれるからです。自然の平穏さなしには、私たちの生活が成り立たないからです。自然の恵みの感謝して、今年最後のエッセイを終えましょう。

・故郷・
私は、城川に、毎年のように通っていて、
1992年にはじめていって以来、もう16年目になります。
今年は、別のところに出かける予定があったので
城川にはいけませんでした。
家族で訪ねたことがあります。
2010年4月からは、大学の留学制度をつかって、
1年間、城川で暮らす予定です。
城川とは付き合いが、ますます深まっていきそうです。
私には、城川は第2の故郷のような気がします。
いつも来るたびにほっとした気持ちになります。
もしかすると私の本当の生まれ故郷が、
故郷らしくなくなったせいかもしれません。
私が生まれ育った京都は、開発が進んで、
子供のころに過ごした風物や自然は、
ほとんどなくなり宅地なってしまいました。
今でも、京都には母や弟が住んでいますが、
故郷に帰ったとしても、彼らに会うことが目的で、
周りの自然を懐かしく思うことはなくなりました。
城川は、私が生まれた町よりもっと山里で自然が残っています。
それが私の記憶の故郷と似ているのかもしれません。

・やり残し・
いよいよ今年も残すところあと少しです。
年末になると、今年を振り返ってしまいます。
今回のエッセイもそのようなものになりました。
私は、やり残したことがいろいろあります。
もちろんいくつかできたこともあります。
しかし、年の瀬には、なぜかできたことより
遣り残したことが頭に浮かびます。
これは、遣り残していることが
頭に常に付きまとっているからでしょうか。
でも、その多くは、自分の怠惰さや
努力の足りなさに由来するものです。
まあ、自業自得というものです。
でも、まだ、今年が終わったわけではありません。
まだ残された日々があります。
その日々を有効に使うためにも、
やり残しを少しでも片付けましょうか。

2008-11-15

47 飛騨の変動:荘川桜(2008.11.15)

 夏過ぎに能登と飛騨の調査をしました。荘川を日本海側から源流まで遡るという旅でしたので、飛騨をめぐることもなく、地質を詳しく見ることもありませんでした。飛騨の地質は、日本でもここでしか産しないユニークなものがあります。それを紹介しましょう。

 富山県は、北側に富山湾があり、南側には両白山地、飛騨高地、飛騨山脈(一般には北アルプスと呼ばれている)という日本でも有数の山岳地帯が横たわっています。そのような山岳地帯を源流とする水量豊かな川がいくつもあり、富山湾に流れ込みます。富山湾に注ぐ一級河川だけでも、西から小矢部川、庄川、神通川、常願寺川、黒部川という名だたる急流があります。中でも庄川と神通川は、富山県の県境を越えて、南側の岐阜県にその源流があります。
 今回の能登と飛騨の旅では、庄川の源流を車で一気に遡ることが、目的のひとつでした。幸い快晴に恵まれて、川沿いを走破することができました。
 私が訪れる数日前まで、大雨による土砂崩れで国道が通行止めになり、自動車専用道路しか通れない状況でした。しかし、幸いなことに、私が行く直前に、国道が復旧して通行できるようになっていました。
 富山県と岐阜県の山岳地帯を中心とする地域は、地質学的には、日本でも最も古い岩石類が分布しているところです。地下にはそのような古い岩石が広がっていると考えられますが、地上で実際に見ることができるのは、局所的で、限られた分布しかありません。それでも、古い岩石は、飛騨周辺地域に比較的広く分布しています。そのほかには、西に向かって点々と同様の古い岩石が、山陰や隠岐まで出いますが、いずれも小規模な岩体としてあるだけです。
 日本列島でも古い岩石類は、飛騨変成岩や飛騨帯などと呼ばれるもので、その構成や履歴は複雑なものになっています。ここでは、その概略を紹介しましょう。
 5億年前にできた大陸(ゴンドワナ大陸)が、3億3000万年前に分裂し、いくつかの大陸に分かれました。分裂したころにできた岩石が、飛騨片麻岩や古い花崗岩として見つかります。
 分かれた大陸が、2億3000万年前頃(三畳紀末)に衝突合体をして、東アジア大陸ができました。衝突する前の2つの大陸の間には海がありました。その海でたまった地層が、現在、宇奈月(うなづき)結晶片岩と呼ばれているものです。宇奈月結晶片岩は、もともと石灰岩、凝灰岩、泥岩、砂岩などの海で形成された堆積岩が、変成作用を受けてできたものです。
 衝突する大陸(衝突帯と呼ばれています)の地下深部では、高温高圧の条件で変成作用が起こりました、そのような変成作用によってできた岩石が、飛騨変成岩と呼ばれているものです。その後、1億8000万年前頃に活動した花崗岩が、当時の地殻上部を構成していた古い岩石類を貫いて(貫入(かんにゅう)といいます)います。
 ここまで紹介した飛騨の岩石類の歴史は、古生代から中生代までの古い時期のものだけです。飛騨の岩石は、その後も複雑な変動を受けています。たとえば、日本海の形成に伴う日本列島の大陸から分離、フォッサマグナの形成、丹どもの火成作用など、さまざまな時代にさまざまなタイプの地質学的変動を、飛騨地域は受け続けています。そしてそのような変動は、今も続いています。
 飛騨山地が急激に持ち上げられて山脈となったのは、約50万年前だと考えられています。飛騨で見つかる古い岩石の歴史からすれば、50万年前は、地質学的にはつい最近の出来事というべきものです。短時間に急に上昇した地帯は、激しい侵食にさらされることになります。そのため、侵食によって急峻な山岳地形が形成されることになります。
 富山県内の河川は、そのような急激に上昇した山岳地帯に水源を持つものです。侵食や削剥が激しい山岳地帯があると、大量の土砂が川によって運ばれます。山地から海までの距離が短いために、土砂は途中でたまることなく、海まで一気に流れ込みます。富山県の河川は流域が短く、中流域や下流域と呼べる部分は短く、上流域から一気に河口に流れ込むような急流となっています。
 黒部川では、急峻な山から中流に出てできる扇状地が、そのまま海に達しています。富山平野は、主に庄川と神通川が運んできた土砂によって、短い時間に形成されました。また、富山湾には深い海底谷がありますが、それを富山の河川堆積物が埋め立てています。
 日本海に面した山岳地帯には、冬になると季節風によって大量の雪が降ります。冬に積もった雪は、水資源として重要な役割を果たします。特に、急峻な山岳地帯は、急流で高低差があり、水力発電には適しています。
 日本が終戦後の復興が進みだしたころ、今まで石炭に頼っていたエネルギーが、供給不足になります。特に電力の不足は深刻な問題となりました。そのとき目をつけられたのが、水量豊かな水資源です。1952(昭和27)年、電源開発促進法が成立して、電源開発株式会社が国家的使命として設立されました。最初の電源開発計画として打ち出されたものが、北上川の胆沢や天竜川の佐久間とともに、庄川上流の御母衣(みぼろ)のダム建設がありました。
 御母衣ダムの建築予定地には、当時1200人以上の住民が暮らしていました。彼らの生活の場がダムの水底に水没するため、住民は立ち退きを余儀なくされました。住民との立ち退き交渉は困難を極めましたが、電源開発株式会社の高碕達之助総裁は、なんとか住民との信頼関係を築き、交渉を成立させました。
 彼が水没の決まった地区を訪れたとき、2つの寺の境内にそれぞれ桜の大きな老木があるのを見つけました。この見事な桜が水没するのは忍びないと、なんとか移植できなかと考え、対策を考え、実行に移しました。
 桜の老木の移植は不可能だとされたのですが、多くの人の協力と努力によって成功しました。今も2つの桜の巨木は、御母衣ダム湖のほとりに生き続けています。2本の老木は、春になると花を咲かせています。春には、桜の名称としてメディアにもよく登場します。この2本の桜は荘川桜と呼ばれ、岐阜県指定の天然記念物となっています。荘川桜は、今もダムを訪れる人を和ませ、かつての住民の心のふるさととなっています。
 私は、荘川桜をテレビで見ていましたが、いきさつの詳しい話をダムの電力館のビデオではじめて知りました。多くの人が、この桜にかかわり、そして思いを寄せていることがわかりました。
 私が訪れたのは、9月のはじめでした。ですから御母衣の冬の豪雪や花の時期は想像だにできません。しかし、そのような豪雪に耐えた抜いた桜の巨木は、その厳しさ、そして人の思い、この地の変化を、500年以上にわたって見てきたのでしょう。500年は、人間の寿命から言えば、何世代も経なければならない長さです。それを荘川桜は一世代で過ごしてきたわけです。
 青々とした葉を茂らせている桜の老木を眺めながら、彼らが見てきたであろう500年の御母衣の変化と、私が知識として知っている日本でもっとも古い地層の5億年の変化とを対比しながら、その隔たりと悠久さに思いを馳せていました。

・凛とした朝・
北国は里にも何度か雪が降りました。
冷え込む朝には、大地は霜で白くなります。
手稲の山並みは、雪が消えることにがないほど
雪が何度も降っています。
朝夕や曇りの日には、ストーブをつけています。
天候不順が続いていたのですが、
先日やっと快晴の日を迎えました。
早朝は放射冷却で凛とした身の引き締まる寒さでした。
足元の大地が霜で真っ白になり、
遠くに見える山並みも白くなっていました。
北国はいよいよ冬到来です。

・新しいOS・
夏に5年ぶりに新しいデスクトップパソコンを買い替え
今ではそれをメインのパソコンとして使っています。
WindowsVISTAをOSとしています。
このVISTAが曲者で、パワーポイントが不安定で
動画のオブジェクトを設定して再生すると、
不正終了になることがよくあります。
講義ではノートパソコンを使っていますので、
そちらではちゃんと再生できるので、
一応実用上問題がありません。
また、地形データを処理するKashmirも
ある操作をすると停止します。
ですから、それは、以前使っていたデスクトップで
地形画像を処理するようにしています。
新しいからいいと限りません。
長い目で見たとき、新しいOSは、
新しいバージョンのソフトではやがて必要になると思います。
ですから、飛びつくことはありませんが、
検証を兼ねて、以降していくつもりです。
もちろんただし、ノートパソコンはWindowsXPです。

2008-10-15

46 恐山:異界で生まれる金鉱石(2008.10.15)

 本州の最北に、下北半島はあります。その最北の地に霊場として有名な恐山があります。恐山は霊場としてだけでなく、地質学者の注目も集めているところです。地質学者が注目する霊場を紹介しましょう。

 私は、8月上旬の蒸し暑く、時々雨が降る日に恐山(おそれざん)を訪れました。恐山は、青森県、下北半島のほぼ中央に位置します。慈覚大師円仁が開いた恐山菩提寺の周囲には、多数の死者を弔った遺族が残していったと思われる、積みあげた石や風車が、いたるところにあります。また、いろいろな時代につくられたと思われる石仏があります。そんな地を巡り歩いていると、異界に迷い込んだような気分になりました。
 人為的な石積みや風車、石仏がなかったとしても、周りの緑の山の中に、忽然と現れる火山の噴気、そして異臭の漂う不毛の地にぽつんと置かれると、人は異界にいる気分になってしまうのではないでしょうか。恐山は、そのような景観を持っているためでしょうか、高野山、比叡山とともに、日本三大霊場の一つになっています。
 下北地方では恐山は、古くから信仰の地されていて、人が死ぬと魂は恐山にいくといわれていたそうです。その信仰は、今も残っています。かつては、盲目や弱視の女性が修行を行った後に、イタコと呼ばれる巫女(みこ)になって、「口寄せ」で語ることが行われています。「口寄せ」とは、死者の霊をイタコ自身に乗り移らせて語ることで、イタコの口を通じて死者の声を遺族が聞くことになります。
 今風にいえば、心理カウンセリングになるのでしょうか。今でも、恐山大祭や恐山秋詣りに、イタコによる口寄せが盛んに行われているそうです。ただ、障害者の生活が改善してことや、イタコになるための修行が厳しいことから、新たにイタコになる人は減り、高齢化が進んでいるようです。
 そのような霊場として、恐山は多くの人が知る有名なところです。しかし、実は「恐山」という山はありません。地質学では、恐山とは、東西17km、南北25kmの範囲にいくつもある火山の総称となっています。外輪山とその中にある宇曽利湖(うそりこ)、そして湖の周辺にある小さいな火山からなる、一連の火山活動の集合体です。活動時期の違う火山群が、カルデラの外と中にあるため二重式火山と呼ばれています。このような火山全体を恐山と呼んでいます。
 外輪山は、蓮華八葉と呼ばれている剣山、地蔵山、鶏頭山、円山、大尽山、小尽山、北国山、屏風山の8つの火山からなります。外輪山の東の外側斜面には釜臥(かまふせ)山(標高879m)が、西側斜面には朝比奈岳(874m)がありますが、いずれも寄生火山で、恐山の一部です。
 宇曽利湖は、直径約2kmの噴火後できたカルデラ湖です。宇曽利湖の水は、強い酸性なので、特殊な動植物プランクトンや、酸性水に強いウグイが生息しているだけです。宇曽利山湖の北東には正津川があり、湖の水が津軽海峡まで流れていきます。火山湖の水が流出して谷ができ(火口瀬と呼びます)、水面が12mほど下がりました。そのため湖の周辺には、湖岸段丘ができています。
 宇曽利山湖の周辺には、噴気が立ち上っているところや、熱水が沸いているところなどがいくつもあります。これらは、カルデラ形成の後にできたいくつかの火山円頂丘が、その熱源となっています。火山円頂丘をつくったマグマが今も活動して、熱水や蒸気を噴出しているのです。このような噴気活動がある地は、地獄と呼ばれています。
 恐山は記録に残っている噴火はなく、最後の噴火は地質調査から1万年前より古いと考えられています。噴気を盛んに上げているために、活火山になっていますが、噴火の危険性は少ないと考えられています。
 恐山は、地質学者の間では、活火山ということとともに、生きている金鉱床として有名です。噴出する熱水が、現在も金鉱石を形成しているのです。
 金鉱床は、爆裂火口の中にできた浅い熱水湖の底に沈殿物の中に見つかっています。金を含む沈殿物の地層が、ヘドロ状に形成されています。このようなメカニズムでできる金鉱床は、1989年にはじめて報告され、恐山型金鉱床と呼ばれる大変珍しいものと考えられています。
 金の総量は多くないと思われますが、そのでき方に注目されています。
 温泉には、量は少ないのですが金を含んでおり(30ppb、3/1億の濃度のこと)、その金が流れさることなく沈殿するメカニズムがあります。ヘドロには7ppm(7/100万の濃度)の金が含まれています。金の濃集しているところでは、400ppm(4/1万の濃度)もあるところが見つかっています。
 金鉱石は、その貴重さから、存在がわかるとすぐ採掘されたのですが、恐山は霊場でもあったため、誰も鉱業の場として着目していませんでした。ですから、鉱業としては手付かずの未開拓の場でした。もちろん現在も霊場ですから、採掘をすることはできません。
 金は、今まで誰にも知られることなく溜まったものです。地質学者が知るところとなりましたが、経済的な鉱山とするような規模ではないようなので、このまま大切に保存すべきものでしょう。できれは、その起源やメカニズムが解明されることが望まれます。ただ、心無い人に荒らされなければいいのですが。
 宇曽利湖の水は、エメラルドグリーンのきれいな色をしています。また湖畔は、白い砂浜が広がっていることから、極楽浜と呼ばれています。しかし、極楽浜のすぐ横には、現在も噴気を出している地獄があります。恐山は、極楽と地獄の景観が混在しています。極楽浜から地獄を眺めると、まさに今、自分は異界の地に立っていることを感じさせます。ある蒸し暑い夏の日に、そんな不思議な体験をしました。

・霊山・
恐山をめぐるルートでは、噴気があちこちで見られます。
危ないところは、柵がしてあります。
そんな噴気にコインを置く人がいっぱいいるようです。
私には理解できませんが、
日本人にはどうもそのようなことする風習があるようです。
そこには、変色した多数のコインが見つかります。
温泉には、毒々しい赤をしたものがあります。
血の池と呼ばれています。
また黄色の沈殿をためた熱水の川もあります。
そのような見慣れない水の色、景観に、
恐れや畏敬などの不思議な気持ちが湧いてきます。
はやりここ恐山は、霊山なのでしょう。

・金品位・
金の含有量は、鉱業的な意味もあり、
岩石1トン(t)当たり、金が何グラム(g)含まれているか
という表示法が用いられています。
g/tという単位で表記されます。
金の含有量を金品位と呼びます。
g/tとは、ppmと同じ意味になります。
恐山の平均的な金の含有量は7ppm、
多いところで400ppmとなります。
金鉱床の品位は、採算が取れるかどうか
採掘方法と埋蔵量によりますが、
露天掘りであれば、数ppmあれば採掘可能だといわれています。
その中で400ppmの高濃度の部分もあるというのは、
非常に有望な鉱床といえます。
ただ、恐山の金鉱床の規模は
それほど大きくはないと考えられるので、
埋蔵量は少ないはずです。
ですから、恐山の金は、鉱業的な意味より、
学術的意味が大きいのです。
ちなにみ、世界でも有数の品位を誇るのが
鹿児島県の菱刈鉱山です。
平均品位80ppm、濃集部では4%に達する
常識破りの金品位をもっています。

2008-09-15

45 能登半島:砂から見る大地の営み(2008.09.15)

 能登半島に調査にいきました。石川県には何度も行っているのですが、能登は、はじめて訪れるところでした。能登半島の砂を見て、大地の営み、そして人の営みを考えました。

 9月5日から11日まで、一人で調査に出ていました。コースは、小松空港を出発して、能登半島を回り、富山県の庄川を遡り、岐阜県の長良川を下り、途中から福井県に入り、九頭竜川を下って河口のある三国までいき、小松へもどりました。今年の春に、若狭湾から越前、三国まで調査していますので、今回は、その連続を調査しました。
 能登半島の西の付け根あたりに、千里浜なぎさドライブウェイというものがあります。石川県羽咋(はくい)郡宝達志水町今浜から羽咋市千里浜町にかけて、約8kmも続く海岸があります。この海岸は、自動車や観光バスも波打ち際を走ることができる「道路」となっています。日本で、車が走れる海岸は、ここだけだそうです。私も、実際に車で走って、爽快なドライブをしました。
 自動車が砂浜を走れるのは、砂がしまっているためです。砂の粒度はよくあるサイズのもので、特別なものではありません。ですから、砂に適度な湿り気があるのでしまってるのと、水混じりの砂が力がかかると一種のゲルとして固体のような振る舞いをするのではないでしょうか。
 千里浜から能登半島の西側の海岸沿いを走りました。羽咋市を過ぎると、海岸の様相が大きく変ります。穏やかであった海岸線が、険しいものへと一変します。能登金剛とよばれるような切り立った断崖の海岸となります。
 能登半島の海岸沿いを一周して、北半分にあたる奥能登と南側の地域を見て、海岸の様相がかなり違うと感じました。
 私は砂を試料として収集しているので、海岸の様子には注意しています。半島の南側の海岸ではたくさん砂浜がありましたが、北側の海岸では、砂を採集できるところが非常に少なかったのです。砂浜があっても、小規模なものでした。その違いは、どうも大地の生い立ちに原因がありそうです。
 海岸に砂が集まったり、なかったりするのは、いろいろな要因が考えられますが、重要なものは、地形砂の供給源と運搬する海流の作用、そして海岸の地形です。
 砂浜があったとしても、長い時間がたてば、砂浜は消えていしまいます。それは、砂が、波の作用で、砕かれ小さくなって、やがては波に運び去られていきます。ですから、砂浜があるということは、その砂浜に常に砂が供給される場所でなければなりません。
 砂の供給源は、海岸の崖が崩れることや貝殻が砕かれることもあります。しかし、砂は、主に川から運ばれてきます。近くに川があると、上流から運ばれてきた土砂が、周辺の海岸に砂を供給することができます。川の流れは定常的なものですから、砂をいつも供給することができます。
 次に、川から供給された砂が、海岸に運搬され続けなければなりません。それが沿岸流とよばれている潮の流れです。沿岸流は、複雑な動きをしますが、大局的に見れは、海流の影響を受けます。日本海では、対馬海流が、東から西に向かって流れています。能登半島の西側は、強い対馬海流にさらされているという点では、北も南も同じ条件となります。また能登半島の東側は、半島が対馬海流を影響を和らげます。この点でも能登の北も南も同じです。
 ですから能登半島の場合、海岸に砂浜ができるかどうかは、砂の供給源、つまり大きな川が潮の流れの上流側にあるかどうかが大きな違いとなってきます。能登半島の付け根には、大きな川がいくつもあります。西側では、手取川、東側には庄川、神通川、常願寺川など白山や飛騨の山並みに源流をもつ大河があります。一方、奥能登は奥能登丘陵と呼ばれる山地はありますが、河川はどれも急で短いものです。そのため、砂の供給源としては、不十分です。このような砂の供給源として、大きな川の有無が、砂浜のできるか、できないかの大きな原因となっていると考えられます。
 3つめの原因として、海岸の地形にも砂浜の成因と、密接な関係があります。つまり、奥能登には砂浜ができにくい理由があります。それは、奥能登が大地が上昇する(隆起といいます)という地殻変動を続けているためです。
 能登半島の隆起は、数十万年前からはじまり、現在も続いています。大地の隆起は、海岸段丘というものから推定することができます。海岸段丘とは、海岸沿いにできた階段状の地形です。つまり、もともと海の海岸線であったところ(汀線といいます)が、段丘の平らな面(段丘面)となます。その後、陸が急に隆起したり、海面が下がると、今までの平らな面が海水の作用で侵食され崖(海食崖)になります。それが、段丘の崖(段丘崖)となります。隆起が続いている地域では、高い位置にある段丘面ほど古い時代に形成されたものになります。
 12万5000年前の地球の温暖期に当たり、現在より3から6mほど海面が上昇していました。そのときに形成された段丘面は、能登半島の北端の折戸では、現在、なんと標高109mのところにあります。また、東海岸の九十九(つくも)湾では、標高49mのところになります。その後も能登半島は上昇を続けています。
 ただし、この隆起よりすごい変動が起こっています。1万3000年から1万8000年前の氷河期(リス氷期)には、130mも海面が下がりました。その後、氷期(ヴュルム氷期)が訪れ、そして現在の間氷期になります。ヴュルム氷期でも現在の海面より120mほど下がりました。その海面上昇は急激で、奥能登が隆起しているのにかかわらず、海面上昇が隆起を追い越してしまいました。そのため、山間部の地形である谷や尾根が、そのまま海岸線となってしまいした。このような海岸線を、リアス式海岸と呼んでいます。九十九湾はリアス式海岸の典型的な場所です。
 奥能登では、砂の供給が少ないとともに、このような隆起や海面変動によって砂浜の海岸ができるような平地がないため、より砂浜が少なく小さかったのです。
 近年、日本各地で、海岸の砂の流出が問題になっています。その原因のひとつは、河川の護岸によって砂が海に運ばれることが少なくなっているためです。実は、千里浜でも、砂の供給が少なくなって、侵食されはじめていることが問題になっているそうです。治水として川を護岸することが、実は思わぬところで、影響を与えていることになります。一方を守るために手を加えたことによって、別のところに被害を与えることがあります。自然は奥深いです。そのことを知ったからには、場当たり的な処置は注意が必要です。砂がなくなったから、別のところから持ってくるなどという愚かな対処をしないことを祈ります。能登では見かけませんでしたが、人工砂浜を見ると虚しくなるのは、私だけでしょうか。

・リフレッシュ・
北海道では、9月になっても、暑い日が続いています。
しかし、朝夕は涼しく秋を感じさせます。
私の大学は、まだ夏季休暇中ですので、
9月のこの時期が、一番仕事のできるときとなります。
私は、9月上旬には、いつも調査に出ることにしています。
そして、9月後半は論文をまとめるというパターンです。
ですから、これからは、論文を書くことに専念したいと思っています。
調査で頭はリフレッシュしたのですが、
本州の暑い中を調査したので、少々ばてています。
まあ、連休明けからがんばりましょうか。

・豪雨・
能登半島をめぐっているとき、激しい雨に会いました。
調査に出る直前に、集中豪雨のため、
本州各地で水害や土砂災害を起こしていました。
その二の舞かと思うほどの激しい雨でした。
車を走らせていると、前が見えなくなるような雨でした。
ですから、能登半島の調査は、
なかなか思うようにできませんでしたが、
雨は降り続けることなく、休み休み降っていたので、
その合間に調査を続けました。
もちろん断念した場所も何箇所もありますが、
雨ばかりはどうしようもありません。

2008-09-12

パノラマ:庄川



庄川中流域のパノラマ写真。

もとの画像は大きすぎてアップロードできませんでした。

パノラマ:永平寺


永平寺のパノラマ写真です。

パノラマ:九頭竜ダム


九頭竜川の九頭竜ダムのパノラマ写真です。

パノラマ:九頭竜湖


九頭竜川のダム湖のパノラマ写真です。

パノラマ:千枚田


石川県の輪島の北に千枚田というところがあります。
そこは、棚田が有名です。

2008-09-07

棚田

また、棚田を見た。
急峻な地域が多いためだろう。
今日は雨。時に、前が見えないほどの降りとなる。
それでも、予定通りのコースを進む。
もちろん、予定通りの調査はできなくて、困る。
天気だけは、如何ともし難い。

2008-08-15

44 然別湖:思い出と悠久の思い(2008.08.15)

 夏休みに北海道の十勝平野の北はずれの然別周辺を回りました。然別は、十勝平野を見下ろす火山でした。その山頂から、若かりし頃の思いに浸りました。

 今年の夏休みは、8月上旬に北海道の十勝に出かけました。今年の夏の北海道は快晴に恵まれ、抜けるような青空の中を旅行することができました。十勝平野の奥にあたる十勝川やその支流沿いを、うろうろと巡りました。
 家族は、避暑を兼ねて山間の温泉に浸り、名物を食事して、陶芸や熱気球、ベアマウンテンなど、夏を満喫するようなレジャーを楽しむのが目的でした。
 私には、二つの目的がありました。ひとつは、東ヌプカウシヌプリ(1252)か天望山(1174m)、白雲山(1186m)のいずれかに登りたいと思っていました。登山がダメでも、然別湖の湖畔の奥にある東雲湖まで歩きたいと考えていました。もし山に登ることができれば、南側に広がる十勝平野と北側に広がる然別湖、そして北側に広がる然別湖から石狩岳山系の山並みを見ることができるこしれません。
 もうひとつの目的は、大学生の時代に山小屋設立委員会という組織に参加して寄付を集めや山小屋建築に加わっていました。その山小屋が、東ヌプカウシヌプリの南東山麓にありました。大学1年生の時に、士幌町から提供を受けていた候補地から、最終的に山小屋を立てる位置を決定するために、その地を訪れました。その後、仲間とやぶこぎをして白雲山の頂上に立ったことを覚えています。2年生の夏には、山小屋建築の手伝いをしたあと、キャンプをして然別湖の東岸を歩いて回りました。
 然別は、私の学生時代の思い出の地ともいえます。2年生の秋に山小屋は完成したのですが、3年生の冬に友人と宿泊に行ったきり、その後は山小屋に行くこともなく、記憶から完全に抜けていました。今年は設立30周年にあたり、山小屋がどうなっているかを、チャンスがあれば見てみたいと思っていました。
 北海道の新しい時代(第四紀)の火山は、2つのグループに分けることができます。ひとつは、東北日本からつながる道南の西南北海道火山地帯です。道南の火山は、東北日本弧と呼ばれる地帯に属することになります。
 もうひとつは、千島列島からつらなる阿寒-知床火山地帯と、その延長で大雪山を中心とする大雪-十勝-然別火山地帯があります。火山のない地帯は、常呂帯が分布しています。こちらの火山は、千島弧と呼ばれる地帯に属します。
 西南北海道火山地帯と大雪-十勝-然別火山地帯の間の火山のない地帯には、礼文・樺戸帯と空知・エゾ帯があります。
 北海道の火山の分布の特徴は、日本列島の大きな地質構造を反映しています。日本列島の太平洋側の海底には、日本海溝と千島海溝があります。実はこれら2つの海溝は、襟裳岬の南東沖で折れ曲がっています。海溝とは、海洋プレートが沈み込む場所です。その沈み込む場所が折れ曲がっていれば、当然、陸地側にも影響があります。
 まず、北海道の火山の並びをよくみると、地帯ごとに火山の並びができています。その火山の並びは、海溝の伸びる方向と斜交しています。このような斜交している状態を、雁行(がんこう)状と呼びます。雁行とは、雁が飛んでいく時のできる編隊の形に似ていることです。このような雁行状の火山は、沈み込むプレートが、陸地に対して折れ曲がっているためにできた割れ目に、対応していると考えられています。
 また、火山地帯内の個々の火山は、海溝からの距離に応じて、化学組成(二酸化珪素SiO2に対する酸化カリウムK2Oや酸化鉄FeOなど)が変化していることもわかっています。
 これらのデータは、火山の位置やマグマの性質が、地下深部の地質構造を反映していることを意味します。
 さて、然別湖の周辺の山々ですが、その多くは、新しい時代の火山からできています。新しい時代の火山は、然別火山群と呼ばれ、大雪-十勝-然別火山地帯の最南端に当たります。東ヌプカウシヌプリ(標高1252m)、白雲山(1187m)、天望山(1174m)が然別火山群に属し、他にも、北ペトウトル山、南ペトウトル山、西ヌプカウシヌプリ(1256m)などもあります。
 然別火山群の火山をつくったマグマは、安山岩質で、溶岩ドームを形成してます。大小10個の溶岩ドームが見つかっています。東雲湖や東ヌプカウシヌプリと西ヌプカウシヌプリの間にある駒止湖、白雲山の南から西の切れ込んだ斜面は、爆裂火口の跡です。然別火山群の南のなだらかな麓は、古い溶岩ドームが崩れた火砕流堆積物や岩屑なだれ堆積物が広がっています。また岩砕なだれ特有の流れ山の地形もみられます。
 活動の時代は、南ペトウトル山(31万年前から)や北ペトウトル山(22万年前から)などの然別湖の西側にある火山が活動をはじめ、南側の火山に活動が移ります。南側の火山活動をはじめる前に活動した瓜幕軽石流堆積物の年代測定(14Cによる放射年代)は、3万1920年前より古いことがわかっています。その後、ドームを形成する火山活動が起こります。そして、白雲山がもっとも最近の火山活動となります。
 然別湖は、これらの火山活動によって、然別川の支流のヤンベツ川がせき止められてできた堰止湖になります。然別湖の西岸を巡る道路は、然別湖から下るときは、ヤンベツ川から離れ、西ヌプカウシヌプリの山腹をめぐるように進みます。その道路わきに、展望台があります。そこから眺める扇ヶ原のなだらかな斜面、そしてその先には十勝平野が広がっています。このなだらかな斜面が、激しい火山活動によってできたものです。
 東ヌプカウシヌプリの麓には、士幌高原ヌプカの里という施設ができていました。そこを見学するために、車で斜面を登っていきました。その途中にチセフレップという看板を見つけました。
 チセフレップとは、私が学生時代に設立に参加した山小屋の名前でした。今も大学の恵廸寮の後輩たちが守って、利用していました。ヌプカの里にいった帰りに、チセフレップの山小屋に立ち寄りました。改装中で足場が組まれていましたが、見覚えのある赤い三角屋根を見ることができました。もう帰る時間だったので、長居はできませんでしたが、懐かしい思いに浸ることできました。
 然別の山の頂上から、若かりし頃の思い出と、大地の悠久の思いを感じてしまいました。

・裾野・
十勝平野と火山の堆積物の交わる付近に
瓜幕の町があります。
自衛隊の駐屯地があり、
扇ヶ原は自衛隊の演習場となっています。
私が訪れた時は演習は行われていませんでしたが、
周辺の道を走っていると、
自衛隊の車両にたくさんあいました。
演習場があるため、
山の裾野を巡る道路は分断されています。
そのため、大きく迂回をしなければなりませんでした。
時間に余裕があったので、
然別の周辺をいろいろ巡ることができました。

・白雲山・
白雲山に最終的に登ったのですが、
当初は東雲湖まで湖畔沿いの平坦な散策道を
歩く予定でいました。
ところが、生い茂る木で展望もよくなく、
あまり面白くない散策で少々私は飽きていました。
途中で、白雲山に登る分かれ道があり、
そこで休息していました。
ちょうど、その時、白雲山から下山してきた夫婦がいました。
まだ、朝10時頃だったので、簡単に登れそうだと思い、
急遽登山をすることにしました。
ところが、この登山道は、踏み後ははっきりしているのですが、
手入れがあまりされておらず、
クマザサが覆いかぶさるように茂っていました。
家内はバテ、次男がクマザサに悩まされながらも、
いまさらこんな道を戻るのはいやだという思いで、
皆頂上に立つことができました。
苦労の末の登頂だったので、その感激は皆ひとしおだったようで、
疲れてはいましたが、眺望を楽しみました。
子どもたちは、山頂が岩山だったので、
疲れも忘れて岩登りをして遊んでいました。
元気なものです。
どれくらいかかるか分からなかったので、
昼食できるような軽食と十分な水や飴玉を
用意していたので、無事下山してきました。
帰りは、正規の整備された登山道を降りてきました。

2008-07-15

43 三方五湖:年縞の記録(2008.07.15)

 三方五湖は、福井県の中央に位置しています。若狭湾国定公園の一部ともなっています。静かな湖底の堆積物には、長い環境の記録が残されていました。

 今年の春休みに、福井県に行きました。その時、三方五湖を訪れました。私は京都生まれなのですが、小さい頃に日本海側にいった記憶ありません。その後、日本海側をみる機会がいくつかありました。一つは、大学院と研究員のときに鳥取に5年間住んでいたことから、日本海側の山陰はいろいろ見て回っていました。また、博士課程での研究テーマに関係する野外調査で、京都府から福井の西側の一部は、歩き回っていました。しかし、福井県の中部から東部にかけては、いった記憶がありせん。もちろん、北陸へあるいは敦賀港(フェリーを良く利用したため)から移動するためために通過したことがありますが、じっくりと見て回ったことがありませんでした。そこで今回の旅で、福井県を見て回ることしました。
 見たいところとしては、大島半島と若狭蘇洞門(そとも)、三方五湖がありました。大島半島ではオフィオライト(地球のささやきというエッセイで紹介しました)を、蘇洞門では花崗岩とその柱状節理を見るつもりでした。しかし、大島半島は激しい雨でみることができず、蘇洞門も天候不良(フェリ欠航)と冬季間の通行止めで、いずれも見学することができませんでした。
 残されたものは、三方五湖です。天気は、風が強く肌寒かったのですが、周辺とレインボーラインを巡ることができ、5つの湖を見ることができました。
 三方五湖とは、三方地域にある5つの湖という意味です。三方とは、三潟とも書かれていて、三つの潟のあるという意味でつけられました。古くからこの地域は、三方郷として知られていました。万葉集の7巻にも、
 若狭なる 三方の海の 浜清み 
 い往き還らひ 見れど飽かぬかも(作者不明)
という歌が残されています。三方は、古くから知られた有名な所だったのです。
 三方郡三方町は、2005年3月31日に、三方郡三方町と遠敷郡上中町が合併して若狭町となりました。三方町はなくなりましたが、三方上中郡を新設され、三方の名称は残りました。
 5つの湖とは、三方湖、水月湖、菅(すが)湖、久々子(くぐし)湖、日向(ひるが)湖です。配置は、日本海に面して、東に久々子湖(周囲7.0km、最大水深3.0m、面積2.25km2)、西に小ぶりの日向湖(周囲3.6km、最大水深38m、面積0.92km2)があります。その南側に水月湖(周囲9.85km、最大水深38m、面積4.06km2)、それに小さく東に寄り添うように菅湖(周囲4.2km、最大水深14.5m、面積0.95km2)があります。水月湖のさらに南側に三方湖(周囲9.6km、最大水深2.5m、面積3.45km2)があります。三方湖、水月湖、菅湖の3つは、もともとつながっています。
 久々子湖と日向湖は、海と細い水路でつながっています。久々子湖の水路は満潮のときだけ、海水が逆流するため、汽水(海水と淡水が混じった状態)となっています。日向湖は完全な海水です。
 その以外の3つの湖は、海からは完全に切り離されていました。しかし古くからこの地域の人々は、治水や耕作のために、この湖に手を加えていました。1662年から開削された浦見川によって、水月湖と久々子湖はつながりました。1751年には、嵯峨隧道の開通によって水月湖と日向湖がつながりました。また、1860年に、菅湖と三方湖とは「堀切」で人工的につながれています。そのため水月湖と菅湖は、汽水になりました。いくつかの水路と湖を経ていますが、海とつながっているはずの三方湖ですが、現在でも淡水のままで、コイやフナ、ワカサギなどとが獲れるそうです。
 古くから人が、手を加えてきた三方五湖ですが、その自然は破壊されることなく、人々が暮らしの中で守ってきました。その結果、北西に伸びる常神半島と三方五湖周辺地域は、1937年6月15日に名勝「三方五湖」として国の指定を受け、1955年6月1日には若狭湾国定公園に指定され、2005年11月8日にラムサール条約指定湿地に登録されています。
 三方五湖は、地球の環境変化を記録していることがわかってきました。その記録は、湖底の堆積物の中にありました。三方湖と水月湖が、重要な役割を果たしています。
 1980年に三方湖の湖底にたまった堆積物をボーリングして調べることが行われました。三方湖には、はす川という比較的大きな川があります。その川が堆積物を運んでくるため、堆積物がたまって三方湖は比較的浅くなっています。水月湖の最大水深38mもあるのに対し、三方湖の最大水深は2.5mしかありません。これは、河川の囲んでくる堆積物の量を反映しています。他の湖には小さな川があるのですが、大きなものはなく、堆積物を運んでくる機構がないので、湖底にたまる堆積物が少ないのです。
 水月湖は、湖水の上部(水深0~6m)が淡水となり、下部(水深7~40m)汽水となっています。しかし、下部の汽水には生物がほとんど棲んでいません。それは、下部の水が無酸素状態になっているためです。
 水月湖には、大きな川のある三方湖からは淡水が入ってきます。一方、水路によって久々子湖からは汽水が流れ込みます。淡水に比べ海水を含む汽水は密度が大きく、底にたまるようになります。密度の違う水が2層に分かれた状態では、表層の淡水が風などで波立ったとしても、表層だけが混ざり、湖底の汽水の部分はたまったまま、混ざることがありません。そのような状態が長く続くと、空気に触れることなく、有機物が分解していき湖水中の酸素をすべて使ってしまいます。そのため、生物がほとんど棲めない無酸素の水となります。2006年時点で、下部の湖水は、硫化水素を含む無酸素状態となっているそうです。
 周りの影響を受けずに、湖の環境だけを調べるためには、三方湖より水月湖の方が、適しています。それは、土砂の流入が少ないので、ひとつひとつは薄い堆積物になりますが、短いボーリングでより多くの時代の堆積物を得ることができるからです。また、無酸素で生物が棲めないために、薄い堆積物が、乱されることなく保存されます。
 そのような穏やかで土砂の流入が少ないところでは、湖の四季の変化が、堆積物に記録されていきます。春から夏まで、湖の表層にすむプランクトン(珪藻)が繁殖して、その遺骸が湖底にたまり、白っぽい堆積物が形成されます。秋から冬には、プランクトンの活動は衰え、細かい黒っぽい堆積物(粘土鉱物)が堆積します。白と黒で1年分となります。長年同じ状態が続くと、白黒の縞模様が堆積物が形成されていきます。これは、木の年輪のように、縞模様から年を数えることができます。このような年毎の縞模様を、年縞(ねんこう)と呼んでいます。
 1991年と2006年に、水月湖の湖底でもボーリングがおこなわれました。その結果、三方湖のボーリングで5万年間の記録だったのですが、水月湖では世界で最も長い年縞の記録である15万年分の堆積物が得られました。これらの年縞を詳しく調べることによって、地球の環境変化が読み取ることが可能となります。現在研究が進められています。
 地道な調査研究から、三方五湖のでき方がわかってきました。
 古い時代から、そして現在も活動している三方断層が、三方五湖の東縁にあります。この断層がいつできたかは分かりませんが、30万年前には、今より海水面が20mほど高くなり、断層の沈降部に海水が張り込み湾となりました。そして少なくとも15万年前には、水月湖の湖底に堆積物がたまり始めました。
 約2万年前の氷河期に、日本海の海面が100m以上も低くなり、断層のくぼ地に淡水がたまり湖となりました。これが三方五湖と始まりです。当時の三方五湖は、海岸から遠く離れた内陸の湖でした。5000年前くらいの縄文時代前期には、海面が現在より3~5mほど高くなり、三方湖は、水月湖と菅湖がくっついて一つとなった大きな湖で、北の湖の部分は湾として海とつながっていました。
 その後海面が下がりましたが、久々子湖はまだ大きな入江でした。三方五湖の東で海に注ぐ耳川が運ぶ土砂が、海流で運ばれて入江にたまり、入口がほとんどふさがれました。1500年前には、今と同じように久々子湖は、細い水路で海とつながっている状態になりました。そのような長い時間の経過を経て、現在の三方五湖ができてきました。
 三方五湖には、少ないながらも堆積物が、今も、川から運ばれ続けています。ですからこれからも、湖には堆積物はたまり続けることでしょう。時間の差はあるでしょうが、三方五湖が浅くなり続けることを意味します。それが周辺にどのような環境変化をもたらすかは、まだ分かりません。今の環境も、ある時間での環境の一断面に過ぎないのです。

・夏風邪・
発行が少し遅れました。
それは、体調不良のためです。
先々週の末に、夏風邪をひいてしまいました。
だんだん病状は悪化し、ひどく咳き込むようになりました。
あまりひどい咳で夜も寝れないほどです。
咳止めも種類を換えたのですが、あまり効果がありませんでした。
今週になって風邪の方は治まったのですが、
ひどい咳のために、筋肉痛から腰痛に発展して、
身動きが不自由になりました。
今まだ不調なのですが、授業あるので、
なんとかがんばって出てしました。
授業が終わったら、昨日に続いてマッサージに出かけます。

2008-06-15

42 仏ヶ浦:青と白と緑の絡み合い(2008.06.15)

 下北半島の西はずれの海岸に、奇岩が続く海岸があります。仏ヶ浦と呼ばれ、景勝地として名高いところです。しかし、思ったほど観光化されていませんでした。そんな仏ヶ浦で考えました。

 青森県、下北半島の西はずれに、断崖絶壁がつづく海岸があります。断崖の海岸にも、少しばかりの浜辺があります。しかし、人家はありません。そんな海岸線なら日本のいたるところにあるのですが、仏ヶ浦は少々変わっています。その景観が、この世のものとも思えないような、不思議な光景でした。仏が住むようなあの世を思わせるような景観です。狭い浜辺の断崖に紛れるように神社が造られています。この光景には昔の人も見せられたらしく、詣でる人がいるわけです。しかし、かつては、地形が急峻なこと、交通がないこと、地元の人しかしらないような秘境のようなところでした。
 1922(大正11)年9月に、この地を訪れた文人で紀行家の大町桂月は、
「神のわざ 鬼の手つくり仏宇陀 人の世ならぬ処なりけり」
という歌を残しました。仏宇陀とは、仏ヶ浦のことです。大町桂月がこのように仏ヶ浦を紹介したことによって、全国に有名になりました。今では、大町桂月のこの歌が歌碑として仏ヶ浦に建てられています。
 仏ヶ浦は、1934年には青森県天然記念物に、1941年4月23日には国名勝および天然記念物に、1968年には下北半島国定公園に、1975年には周辺の海域が仏ヶ浦海中公園に指定されています。2007年に、仏ヶ浦は日本の地質百選に選定されました。ですから、この景観は人々の注目を集めていたのでしょう。
 これほど有名な観光地でありながら、仏ヶ浦へのアプローチが不便で、思ったほど観光客が多くありませんでした。陸路は、車で直接いける道がなく、断崖の上にある道路から急な階段を下りていくしか(もちろん返りは登りになります)ありません。しかし、1991年に、観光船が接岸するための小さな桟橋(仏ヶ浦港)が仏ヶ浦に建設されました。この仏ヶ浦港によって、北側の佐井港か、南側の牛滝漁港から観光船によるルートができました。観光バスが横付けできないので、仏ヶ浦を見学するには、時間がかかることになります。そのせいもあって、有名なわりには観光客が少ないのかもしれません。
 私は、昨年夏、家族でこの地に出かけました。むつ市内から車で来たので、一番近い牛滝から行くことにしました。地図を見ると、佐井港は仏ヶ浦から遠く、牛滝漁港はすぐ近くにあります。ですから、迷うことなく、牛滝漁港から船で仏ヶ浦へ向かうことにしました。行く時の船は、私たちの家族だけの貸しきり状態で、快適な船旅でした。海路は快適で、2kmほどに渡って続く白っぽい侵食された岩石の断崖が見ながら、15分ほどで仏ヶ浦に着くことができました。
 仏ヶ浦の不思議な光景は、海岸の切り立った崖が、波や流水によって浸食を受けた結果です。雲の形のように侵食されたタフォニとよばれるものや、流水によると思われる縦にすじがたくさん入った侵食地形、海の波の浸食による崖(海食崖ととよばれます)など、さまざまな侵食地形がみることができます。
 浸食され切り立った地層になるのは、地層を構成する岩石が脆いことを示しています。岩石は、白から緑白色で、場所によっては緑色を帯びることから、グリーンタフ(green tuff、緑色の凝灰岩という意味)と呼ばれているもので、もろい岩石となっています。
 下北半島の西部は起伏の多い山地の地形となっています。この山地は、奥羽山地の北方延長に位置しています。新生代以前の古い地層や花崗岩類が基盤としてあり、その上を新生代のネオジン(新第三紀と呼ばれている時代)の地層があります。さらにその上に第四紀に活動した火山岩や火山砕屑岩が覆います。
 仏ヶ浦周辺の地層は、中新世古期から中期の檜川層と呼ばれるもので、その上に中新世中期から新期にかけて活動した中性から酸性マグマ(安山岩からデイサイトマグマ)に由来するの火山砕屑岩が分布しています。これらの火山砕屑岩がグリーンタフと呼ばれ、仏ヶ浦の海岸線をつくっているものです。
 下北半島の中新世の火山活動は、日本列島の日本海沿岸の広域に起こった一連のもので、グリーンタフ変動と呼ばれているものです。グリーンタフ変動は、本エッセイでも、一ノ目潟(33回)や東尋坊(40回)などで出てきたものです。新生代後期の日本海側の地質の特徴を語る時に、避けては通れない重要な地質の営みです。グリーンタフの火山活動の多くは、陸上だけでなく海中で起こり、火山岩やその水中の火山砕屑岩などとともに、堆積岩も出ることがあります。
 仏ヶ浦の奇岩類も、日本列島を特徴付ける活動の一つだったのです。
 むつ市内からの仏ガ浦までルートとして、国道338号から県道46号を経て川内湖をへて再度国道338号をいきました。しかし、この国道338号は、アップダウンが激しく、くねくね道で、一車線のところも多く、非常に時間がかかる道でした。多くの観光客は、アプローチのいい佐井港から高速観光船でいくようです。それを私は事前に知りませんでした。
 悪いことばかりでなく、時間がかかりましたが、人のあまり使わないルートでした。多分、交通が今ほどよくなかったときは、観光客もこのルートで来たのでしょう。その同じコースで見学することになったのです。いくら時間がかかるとはいえ、半日で見ることができるのです。また、小さな漁船が定期的に運航しているので、好きなだけ仏ヶ浦に滞在することができました。返りたい時に、もし船が来ていなければ、連絡すれば来てくれます。帰りは、もう一組の老夫婦と一緒になりましたが、それでもガラガラの状態でした。
 私が仏ヶ浦に行ったときは、曇っていましたが、仏ヶ浦の断崖とともに、海の色がすごいでした。そして、仏ヶ浦の景観をより際立たせているのは、海の青さではないかと思いました。さまざまに濃淡を変える海のブルーが、白ややや緑を帯びた崖をより一層映えさせていました。仏ヶ浦は、青と白と緑が絡み合っているところでした。

・強烈な思い出・
下北半島には、むつ市で2泊しました。
実質は一日半ほどて見学することになっていました。
初日に半日かけて恐山を見学したので、
2日目は、下北半島を一周する予定でした。
時計回りに可能な限り海岸沿いを見学しながら行くつもりでいました。
仏ヶ浦、大間(昼食でマグロを食べる)、尻矢崎など見て、
一周できればと思っていました。
ところが、大間に着いたのは、1時をかなり回っていました。
子どもたちは、大間でマグロ食べるのを楽しみにしていたので、
探し回って、大間のマグロを食べさてくれるところを見つけて
何とか昼食にありつけました。
今回は、地図と現実の交通とは一致しないので、予定が狂いました。
しかし、おかげで仏ヶ浦は強烈な思い出となりました。

・実習・
北海道も初夏になって来ました。
本州は梅雨にはいっているようですが、
蒸し暑い日が続いているのでしょうか。
北海道は梅雨がなく心地よい爽快な日々が続いています。
もちろん雨の日もありますが、蒸し暑いことはありません。
この時期、大学では淡々とした授業が続くのですが、
その授業の中に近所の子どもたちを集めて、
行事を企画するという実習があります。
その実習のリハーサルが今週土曜にあり、来週が本番となります。
40名ほどの子どもがきて、その子どもたちが楽しみながら、
学ぶことができるかどうかが、重要なところです。
さてさて上手くいくのでしょうか。

2008-05-15

41 ニセコ:冬と夏の共存(2008.05.15)

 ニセコは、今や外国人観光客で賑わいをみせています。そのため、ペンションがあちこちにあり、ゴールデンウィークの直前でも、探せば空きが見つかりました。そこで家族でニセコにでかけました。

 皆様は、ゴールデンウィークをどう過ごされたでしょうか。自宅で過ごされた方、街に出られた方、旅行に出られた方もおられることでしょう。私は、ニセコに家族で旅行にでかけました。
 ニセコは、海外の方、特にオーストラリアからの観光客が多数来られるようになりました。ニセコは「ニセコ積丹小樽海岸国定公園」に指定されているため、観光が主要な産業です。特に冬は、良質のパウダースノーを売り物にしたスキー場がニセコの山に裾にいくつもあります。日本人のスキー離れが進む中、外国からのスキー客を誘致に成功しました。
 平成20年4月末現在、ニセコの人口4671人(世帯数2100)のうち、外国人の方は54名(世帯数39)で、1%ほどの比率になります。北海道の小さな町で、外国人の占める比率が、かなり多いように感じます。外国人観光客の増加によって、観光産業自体の国際化で、ネイティブスピーカーの現地ガイドの重要が増してきているためではないでしょうか。
 ニセコに外国人が定住するということは、ニセコでは夏もレジャーに関わる仕事があるということです。豊富な水量ときれいな水をもつ尻別川を利用したラフティングやカヌーのような川遊びや、登山、トレッキングなども人気があるようです。特に雪解け水で増水した川でのラフティングは人気があるようです。
 海外からの観光ブームのためでしょうか、日本人観光客もかなり増えているように思えます。観光スポットは非常に多くの観光客があふれています。有名なところは、広い駐車場が満杯になるほどの混雑でした。ペンションも多数あります。ペンションの過度競争なのでしょうか、ゴールデンウィークでも空き室ができるほど空いてました。
 さて、私がニセコに行った理由ですが、家族サービスという目的はあったのですが、火山としてのニセコを見ることでした。今回のエッセイで取り上げるつもりでいたのです。ニセコには、何度も来ていますが、春のニセコには来たことがありませんでした。そこで、今回、ゴールデンウィークに出かけることにしました。
 スキー場としてニセコは有名で、山自体の姿は、それほど取りざたされることはありません。すぐ隣にある羊蹄山が、富士山のようにきれいな姿を見せているかたらかもしれません。しかし、私は、秋に来た時の紅葉のすばらしさと、温泉のイオウの匂いと共にニセコが記憶に残っています。
 ニセコはいくつもの火山からできています。成層火山の羊蹄山より、規模が大きく、東西に延びています。東西25km、南北15kmに広がります。東には、ニセコ火山群で主峰であるニセコアンヌプリ(1308m)があり、西は日本海に突き出すようになっています。
 非常に古くから活動してた火山で、雷電山、ワイスホルン、目国内岳(めくんないだけ)、岩内岳(いわないだけ)は、侵食によって火山の地形が不明瞭になっています。最初に雷電山、続いてワイスホルンが、200万~150万年前に活動を始めました。これ以降、西から東へ、火山活動が移動していきます。目国内と岩内岳が、150万~100万年前に活動していきます。白樺山、シャクナゲ岳が100万~50万年前に、そしてニセコアンヌプリが活動します。
 はじまった順に、火山活動も停止していきます。雷電山は100万年前に、岩内岳は50万年前、白樺山とシャクナゲ岳は30万~20万年前に、ニセコアンヌプリは20万年前に活動を停止します。
 その後、10万年ほど火山活動の記録は見当たらず、約10万年前に、再びチセヌプリが活動を始めます。そして、イワオヌプリがいちばん新しい火山で、2万~1万年前に活動を始めます。イワオヌプリでは、溶岩ドームを形成して、一部が崩壊して火砕流を発生したこともあります。
 最後の溶岩ドームの活動によって形成された火山噴出物(降下スコリア)直下の土壌で約6000年前の噴火年代が得られ、羊蹄火山灰層に覆われています。そのことから、約6000年前にイワオヌプリでマグマが噴火したのが最後の活動とされています。しかし、北海道大学の中川光弘教授によれば、マグマ噴火の6000年前より新しい時代の溶岩ドームがあるかもしれないという指摘がなされています。
 その理由は、新しい複数の爆裂火口があること、そして現在も噴気活動が続いていることから、まだ火山の活動は終了していないと考えられています。現在ニセコは、活火山に指定されています。活火山の定義は、1万年以内に噴火の記録のあるものですが、イワオヌプリはそれに相当します。
 ニセコの火山は、どうも休み休み、ゆっくりとした活動を繰り返してきたようです。そして複数の火山が同時進行で噴火をしてきたようでもあります。しかし、今のところ噴火の兆候はみられませんが、活火山として注意はしておく必要があります。
 5月初旬のニセコは、麓では春の花が咲き始めていました。ニセコアンヌプリのような高い山の頂部には、まだ雪がいっぱい残っています。ですから、高い山のスキー場はまだオープンしていたようで、春スキーを楽しんでいるスキーヤーがいました。スキー場のリフト乗り場の駐車場は車で、一杯でした。
 ニセコは、活火山ですので、温泉もあちこちにあります。私たちはペンションに2泊しましたが、1泊目はニセコ駅前にある温泉に出かけました。ニセコの温泉は、火山の恵みです。旅行に出かけて、いろいろな温泉に入るのは、大いなる楽しみになります。
 天気は良く、暖かい日でしたが、かげると肌寒いし、とても川に入る気のしない気候です。ニセコを廻っている途中に尻別川を何度か渡ったのですが、ラフティングのボートを何艘もみました。かなりの水量の中を翻弄されたボートが進んでいきました。皆ウエットスーツを着ていましたが、大勢の人たちが、川くだりを楽しんでいました。私は、尻別川に入るよりは、温泉に入りたいものです。
 山頂は雪が残っていますが、麓は花の季節を迎え、川遊びがはじまっていました。ニセコの春は、冬と夏が共存していました。

・開通・
最初、ニセコに出かけると決めた時、
家内の友人は、スキーですかとたずねたそうです。
この時期にスキーができるのは、
雪の量の多い、高い山で、ニセコがそれに当たっていました。
私は、五色温泉を通り抜ける道を行きたいと考えていました。
スキーがまだできるようなら、そのコースは無理かなと思っていました。
そのコースは、道路マップによると、冬季閉鎖となっていました。
しかし、ペンションの主人に聞いたら、
もう開通しているというので、ほっとしました。
その結果、ニセコアンヌプリを一周することができました。

・家族サービス・
ニセコへは、札幌から小樽経由で行きました。
渋滞はしていませんでしたが、
連休の初日でしたので、多くの車があり、
北海道の郊外ではめずらしく車が数珠つなぎで走っていました。
まして、ニセコは観光地ですから、
観光の名所には、多くの観光客が詰め掛けています。
特にアイスクリームとケーキで有名なところは、
駐車場が満杯の盛況でした。
私たちも、そこに半日いました。
子供たちと妻が、ガラスのトンボ玉を作ることと
アイスクリームを食べることにしていたので、
昼食をはさんで半日いました。
本当はアイスクリーム作りもしようかと思ったのですが、
屋外でおこなうので、風が肌寒かったので、あきらめました。
帰りは渋滞避けるために、美笛峠から支笏湖に抜ける道にしました。
その日は雨でしたが、移動日だったので、事なきを得ました。
滞在中は、天気はよかったので、家族サービスとしては
いい旅行となりました。

2008-04-15

40 東尋坊:節理の隙間から(2008.04.15)

 福井県の東尋坊は、日本でも有数の観光地のひとつです。海に面した断崖絶壁をつくる節理が、見事なことから、多くの観光客を集めています。そんな節理の隙間から、想いを巡らしました。

 春休みに、京都から福井の日本海沿いを訪れました。その目的地の一つとして東尋坊がありました。東尋坊は、越前加賀海岸国定公園の一部です。また、東尋坊周辺は、国の天然記念物及び名勝にも指定され、2007年には日本の地質百選に選定されました。非常に有名な観光地なので、訪れたことがある方もおられるかもしれません。海岸に切り立った断崖絶壁として、テレビのサスペンスドラマのロケ地によく使われるので、画面で目にされている方も多いかもしれません。
 同じような海岸の景勝地は、東尋坊だけでなく、周辺にも点々と見かけられます。そのいくつかは、柱状の岩石が不思議な景観をつくっています。今回は、この不思議な岩石の割れ目である節理を見ていきましょう。
 日本は火山の多い国です。現在活動中の活火山は100座以上あり、どの都道府県にも、活火山がありそうですが、活火山の分布をよくみると、福井県には活火山はありません。それは、幸いなことなのか残念なことなのかはわかりませんが。
 福井県の近くには白山という活火山がありますが、石川県と岐阜県の県境にあり、福井県内ではありません。新時代(第四紀)の火山としては大日山(福井・石川県境)がありますが、日本でも珍しく、火山が活発な地域ではありません。
 しかし、福井県内には古い時代の火山があります。過去の火山は、火山岩があるかどうかで調べることができます。福井県では、あちこちで火山岩が見つかっています。時代を問わなければ、日本で火山と関係していない都道府県はないのではないでしょうか。
 東尋坊は、見事な柱状節理が海岸に面して林立しています。その節理の面が、断崖絶壁となっています。柱状節理は、マグマが固まる時にできる岩石のつくりの一種です。ですから、東尋坊の柱状節理は、マグマに由来していることになります。東尋坊も、過去の火山活動によるものです。
 柱状節理のできかたですが、マグマが固まる時に液体から固体に変わるとき体積が減ります。マグマが冷える方向に対して垂直に割れ目ができ、多くは六角柱状、時には五角柱状の割れ方(節理のこと)になります。なぜ、六角柱状になるのかは、まだはっきりしていませんが、冷える時の熱の流れが関係していると推定されています。節理のできる方向は、マグマの冷え方を反映していることは確かです。節理の方向を丹念にたどると、マグマが流れた方向を推定することができます。
 東尋坊のつくったマグマは、安山岩質のマグマで、東尋坊安山岩と呼ばれています。この安山岩をよく見ると、何種類かの大きな結晶(斑晶(はんしょう)と呼ばれています)と、顕微鏡でかろうじて確認でできるほど小さな結晶が集まった部分(石基(せっき))があります。石基は、肉眼では淡い緑色から暗い灰色に見えます。斑晶は斜長石と輝石(紫蘇輝石と普通輝石)がらできています。斑晶の斜長石は白っぽく、輝石は濃緑色にみえます。全体として灰色の岩石に、白黒のごま塩状のつぶつぶが見えます。学術的には、紫蘇輝石・普通輝石安山岩と呼ばれています。この安山岩は特別なものではなく、日本ではごく普通にみられる火山岩です。
 東尋坊のマグマは、新生代の中新世中期(放射性年代測定では1270万年前)に活動したもので、先に海底にたまっていた地層(米ヶ脇層(こめがわきそう)と呼ばれています)に貫入しました。貫入してきたマグマは、鏡餅のような形でたまり、そのまま冷え固まりました。現在は、その鏡餅の半分が波で侵食されて、柱状節理がむき出しになり、東尋坊の見事な景観を形成しています。
 さて、この中新世という時代ですが、日本海沿岸で、多くの地域にわたって火山活動が起こった時期になります。火山活動の多くは、海中で起こり、火山岩とともに堆積岩も見つかることがあります。この時代のこれら地域の火山岩やその砕屑物の多くが、緑っぽい色をしていることから、グリーンタフ(green tuff、緑色の凝灰岩という意味)と呼ばれています。時代と地域を限定されているため、それらの岩石を生み出した活動を総称して、グリーンタフ変動と呼ばれることがあります。
 グリーンタフ変動とは、何を意味しているのでしょうか。実は、日本列島の形成において、重要な役割を果たしていることがわかってきました。
 日本列島は、昔からずっと列島として存在したのではなく、中新世以前は、大陸の端にくっついて存在していました。中新世になって、大陸の縁に巨大な裂け目(リフトと呼ばれます)ができました。その裂け目は現在アフリカ大陸に見られる大地溝帯のようなものだと考えられています。その割れ目に沿って、激しい火山活動が起こりました。
 割れ目の拡大と共に、海水が浸入してきました。それが今の日本海の始まりです。完全に大陸から切り離された陸地は、日本列島の始まりとなります。東北日本は、激しい火山活動をしていましたが、中新世にはまだ陸化しておらず、ほとんど海底での活動でした。鮮新世になると、陸化しはじめてきました。
 西南日本では東北日本ほど激しい活動ではありませんでしたが、日本海周辺での火山活動が多くの場所でみれます。東尋坊の火山活動も、グリーンタフ変動の日本海形成に伴う火山活動だと考えられています。比較的穏やかな火山活動とはいっても、人間にとっては、日本でも有数の雄大な景観を思わせるのです。
 私が、東尋坊を訪れたのは、時々小雨の降る、風の強い、肌寒い日でした。絶壁の端っこに立つと、足がすくむような思いがします。それでも怖いもの見たさでしょうか、多くの観光客が、断崖の端に立っていました。私は、もしそのとき風が吹いたら、もし足が滑ったら、もしバランスを崩したらなどと考えると、とても端に立つことなどできませんでした。
 私のそのような「恐れ」の気持ちは、小さな人間が持っている取るに足らないものかもしれません。地球の時間の流れからすれば、東尋坊の断崖絶壁もやがては、移ろい変化するものです。しかし、節理という何もない隙間から読み取れるマグマの物語があるように、小さな人間の「恐れ」の気持ちは、大地の偉大さを無意識に読み取ってものかもしれません。そんな見えない物語を、私は、節理の隙間から眺めていたのかもしれません。

・候補地選び・
この月刊のエッセイは、今まで、北海道と
それ以外の地域(北海道の人は内地と呼びます)を
交互に繰り返しながら書いてきました。
私が、北海道に住んでいるから、それが適切なやり方だと思っていました。
しかし、今回から、その順番を守らないことにしました。
その理由は、北海道内は、出かけることも多いのですが、
ワンポイントである地域を見に出かけます。
ですから、一回のエッセイのネタにはなりますが、
6回分書くには、長期に旅行をするか、何度も旅行するかになります。
近くなら何度もいけますが、遠くとなるたとえ北海道内とはいえ、
多くの日数を費やします。
ところが内地なら、長期の旅で、何箇所も見学することになります。
主に海岸沿いですが、現在研究の一環として、
長期計画ですが、日本列島の多くの地域を訪れる計画をしています。
そのため、年に1度か2度は、長期の内地旅行にでかけています。
ですから、内地のネタであれば、それを何回かに分けて書けます。
今回の京都から北陸の旅も、あと2回書く予定をしています。
以上のようなわけで、今後このようなパターンで
エッセイを続けていきますので、ご了承ください。

・グリーンタフ・
グリーンタフというのは、地質学者が野外で岩石を呼ぶときに用いた
一種のニックネーム(フィールドネームといいます)から由来しています。
ですから、グリーンタフ変動に含まれる岩石が
すべて緑色っぽいかというと必ずしもそうではありません。
グリーンが少ないものだってあります。
東尋坊の安山岩も緑色ではなく、灰色です。
グリーンタフの岩石は、もともと緑色の岩石であったのではありません。
岩石を構成している輝石や角閃石などの鉱物が、
海底で熱水による変質のため粘土鉱物(緑泥石などの緑色の鉱物)に
変化したものです。
今では、グリーンタフが海底火山として誕生したこと、
さらにそれが日本列島の誕生に深く関わっていたことがわかってきて
その重要性は増してきました。

2008-03-15

39 竜串:地層の串刺しを目指して(2008.03.15)

 黒潮に洗われる四国西南端の足摺岬の付け根に竜串ということろがあります。竜串では、隆起した海食台があり、地層をよくみることができます。そんな地層を串刺しにするつもりで調査にいきました。

 2007年9月に四国の南西にある竜串というところに行きました。竜串の近くの「見残し」というところとともに、奇岩からなる海岸として、観光地になっています。竜串の名称は、地層の並びが竜を串差しにしたように見えるためだという説があります。私は、航空写真も見ているのですが、そうは見えません。
 海岸の地層は、非常に整然ときれいに露出しています。北東-南西に伸びて(北から東へ約60度)、西に約60度の傾斜した地層となっています。それが、竜のうろこのように見えるのかもしれません。
 竜串や見残しは、このような整然とした地層がさまざまな形態を持っているので、名所となっているのす。竜串は、高知県の足摺岬の付け根付近にあたり、土佐清水市にあります。
 竜串は、駐車場から歩いていけますが、見残しは竜串から船を利用するか、半島の尾根からかなり歩いて降りるしかありません。年間80万人も観光客が訪れている足摺岬と比べると、竜串はその5分の1ほどの観光客しか訪れません。まして、アクセスの悪い見残しは、さらに少なくなります。しかし、観光客が訪れないから、面白くないかというとそうではなく、私にとっては足摺岬より竜串や見残しのほうがずっと興味深いものでした。
 そもそも私が竜串を訪れたのは、地層調査をするためでした。とはいっても、一般的な地質調査ではなく、調査法の開発を目的としていました。デジタル画像でもれなく詳細に地層を記録する方法を考案して、それを検証するためでした。そのために典型的な地層の出ている場所を探していました。愛媛県西予市城川町の地質館でおこなっている仕事もあったので、四国西部で探していたところ、竜串が候補に上がったのです。
 竜串や見残しは、足摺宇和海国立公園に1972年11月10日に指定されています。海中公園とは、海中に美しい景観や貴重な自然があるために指定されたものです。この付近の海は黒潮の影響を受けているため、サンゴや熱帯魚などがみられます。グラスボートや海中展望塔などもあるため、海中も見ることができます。
 調査の候補地として国立公園は最適でした。なぜなら、試料を採取することはありませんから、アクセスが良く、環境が整備され、宿泊施設が近くにあるためです。
 足摺岬から竜串にかけては、海岸が隆起した地形で、海岸段丘が発達しています。海岸線は海の波によって侵食(海食と呼ばれています)を受けて、断崖がつらなる険しい地形となっています。竜串や見残しは、海食台が海面上に顔を出し、不思議な景観を見ることができます。このような景観を見るべき価値があるのですが、弘法大師がこのような素晴らしいところを見残したということにちなんで、地名がつけられたそうです。ただ、史実がどうかはわかりませんが。
 このような隆起は、地球の営みであるプレートテクトニクスによっておこっています。四国の太平洋側の南海トラフでは、フィリピン海プレートが沈みこんでいます。このような場所は、海洋プレートの沈み込みによって南から北におされて圧力を受けます。そのため、陸側は大地が圧縮される所になり、場所によって上昇したり下降したりすることになりますが、全体としては上昇していきます。また、沈み込むプレートに引きずりこまれた岩石が、その引きずりの力を変形によって吸収しきれないとき、岩石は壊れながら跳ね返り(弾性跳ね返りと呼ばれます)が起こります。それが、海溝タイプの地震となります。
 これらの作用が四国の太平洋側では継続的に働いています。1946年に起こった南海地震では、足摺岬周辺は1mほど隆起しました。広域で平均すると1000年で2~5mほどの隆起していると推定されます。竜串や見残し海岸は、2000から3000年前に隆起したと考えらています。
 四国の南西部は、足摺岬や沖の島で花崗岩などの火成岩がところどころにみられますが、それ以外の地域は、中生代から新生代の地層が広く分布しています。このような堆積岩の分布する地帯を、川の名称から四万十帯と呼んでいます。
 四万十帯は、北から白亜紀前期(1億2000万~1億年前)、白亜紀後期(1億~6500万年年前)、新生代始新世から漸新世前期(5000万~4000万年前)、漸新世後期から中新世(3000万~2000万年前)の地層が東西に帯状に分布しています。北ほど古く、南ほど新しい地層がでています。これはフィリピン海プレートの沈み込みによって、大陸棚にたまった地層が長い時間をかけて持ち上げられた結果です。四万十帯の地層は、大地の営みの歴史が、残されているところなのです。
 竜串は、四万十帯の中で一番南方に位置していますから、最も新しい漸新世後期から中新世に形成された地層となります。岩石としては、砂岩と泥岩が交互に繰り返している地層(互層と呼びます)からできています。このような互層が繰り返しているものは、陸地から大陸棚に向かって、何度も土石流(乱泥流あるいはタービタイトと呼ばれています)が流れ込んだ場所になります。
 大局的見ると地層が整然と並んでいますが、ひとつひとつの地層をよく見ると、それぞれに個性があります。
 地層の中に細いすじが多数見られることがあります。すじが斜交するものを斜交葉理(クロスラミナ)、平行なものを平行葉理(パラレルラミナ)と呼んでいます。葉理は、地層がたまるときの流れの様子を現しています。斜交葉理は乱れた流れを反映したもので、平行葉理は静かにたまったり、一定した流れでできます。
 地層内で土砂がたまるときに、堆積状態が乱れる(乱堆積と呼ばれる)と、さまざまな変わった形態の地層ができていきます。まだ固っていない泥の中に、地震で液状化現象で砂が移動して、地層の中で縞模様が褶曲したりします。このような渦巻き構造は、コンボリューションとよばれ、竜串で「しぼり幕」や「らんま岩」とよばれているものがその典型的な例となります。
 また、下の地層から水が噴出したときに通過された地層には、竹の節目のような構造ができます。これも竜串では「大竹小竹」と呼ばれているものです。
 地層の中に石灰質や珪質などの球状の沈殿物が形成されることがあります。このようなものは団塊(ノジュール)と呼ばれ、ある地層に多数形成されることがあります。竜串では、「蛙の千匹づれ」があります。
 海底の表面に波に形成された、規則正しく繰り返された波模様(漣痕:リップルマック)ができます。それを乱すことなく地層が覆うことよって地層の中に化石のように漣痕が残されることがあります。流れの方向と直交するようにリップルマークはできますが、緩やかな傾斜で非対称な波形は河口付近で、左右対称なものは浅海の海底で形成されたと考えられています。もちろんこのようなリップルマークも竜串でみることができます。
 海底や海底の堆積物の中に住んでいた生物が残した、足跡・ハイ跡・巣穴・排泄物などが化石になることがあります。このような化石を生痕化石と呼んでいます。竜串・見残し海岸では、コブ状突起がある管状の生痕化石(アナジャコ類の住まいの跡)、管状のもの(カニやアナジャコ類などの巣穴や食べ歩き痕)などを多数みることができます。
 これらの堆積物の特徴から、竜串の地層は、浅い(水深50m以下)の海底砂州でたまったと推定されています。
 今回の調査は、このような地質を調べるのが目的ではなく、その記録をどうすれば効率的に、もれなくできるかを考えるものでした。そのために新しい調査用道具の試行も兼ねていました。
 丸一日を詳細な調査に当てることができました。しかし、半日かけて長さで30m弱ほどの地層を連続的に詳細に記録したのですが、このペースでは到底終わりそうもないので、本当は竜串海岸の地層全体を対象にしたかったのですが、他に40m弱ほどの地層を簡易的に記録しました。合わせて66mの長さの地層を記録したことになります。それでも、竜串全体からすれば3分の1程度の地層しか記録したにすぎません。残念ですが、限られた時間でおこなった調査なのであきらめるしかありません。竜串の海岸線を串刺しにするような調査はやり切れませんでしたが、検討用のデータは十分取れたと思っています。その成果は、現在まとめている最中です。

・想定外・
竜串での調査は、丸3日間を予定しました。
本当は詳細な調査を2日、あとは道具の検証として、
周辺の地層の調査を1日かけて調査をやる予定をしていました。
できるだけ長く調査測線をとるため、
初日は一番端の地層からはじめることにしました。
朝、海岸に行くと、潮が満ちているときは、
海面にはでていない地層がかなりでていました。
これ幸いと調査をはじめたのですが、
乾いていない地層は非常に滑りやすく、
注意をしていたのですが、すべってころびました。
その時、あちこちすりむき、メガネも壊してしまいました。
擦り傷の治療とメガネの修理のために、
1日を台無しにしてしまいました。
カメラなどの機材は大丈夫だったので、
調査を継続することができました。
翌日、まだ傷はいえていませんが、
調査をしないと帰れませんから、かんばって始めたのですが、
こんどは暑さにやられて効率が上がりませんでした。
今回の竜串の調査では、なかなか大変の思いをしました。

・恒例の台風・
愛媛県西予市に私は毎年のように通っています。
昨年9月にもその予定があったので、
日程を調整して、竜串の調査を加えました。
しかし、千歳から出発のときに、台風が北海道を通過して、
予約していた飛行機の便が欠航になりました。
やむなく1日遅れで出発することになりました。
毎年、9月前半に出かけることが多いので、台風の影響を受けます。
昨年も例外ではなかったのです。

2008-02-15

38 支笏湖:穏やかさと激しさ(2008.02.15)

 支笏湖には、自然が残されています。しかし、その自然の中には、穏やかな人を癒してくれるものだけでなく、激しい異変や破壊を伴うものもあります。それも含めて、自然と見る必要があるのかもしれません。

 北海道の千歳空港のある千歳市の西側に支笏湖があり。我が家から支笏湖までは、車で2時間足らずで行けますので、時々家族で出かけます。2007年の年末に母が来た時も、一緒に支笏湖に出かけました。1949(昭和24)年に、支笏湖から洞爺湖にかけて支笏洞爺国立公園が指定されました。支笏湖を周回する道路がありますが、西側のオコタンから美笛間は狭い道で冬季は通れません。それ以外の周回道路は国道として冬季も通行できます。
 私が支笏湖を訪れるのは、その静さに惹かれるためです。有名な観光地でありながら、大きな建物がほとんどなく、観光地らしくありません。温泉地でもあるのですが、けばけばしさはなく静けさの漂う町並みとなっています。湖の周囲を大きな山が囲んでいるため、よけいに人里を離れた情緒があります。幹線道路が周囲を囲んでいるのに、静けさが保たれているのは、やはり急峻な山に囲まれているため、開発の手がそれほど入らなかったためでしょう。
 北から時計回りに、恵庭岳(標高1319m)、イチャンコッペ山(828m)、紋別岳(866m)、キムンモラップ山(478m)、モラップ山(507m)、風不死岳(1103m)、多峰古峰山(たっぷこっぷ、661m)、無名峰(742m)、丹鳴岳(になる、1039m)と高さは様々ですが、嶮しい山並みが、支笏湖周辺の自然を守護してきました。
 支笏湖周辺はネオジン(かつては新第三紀と呼ばれていた時代)から火山活動が盛んで、モラップ山や、紋別岳、多峰古峰山が形成されていました。そこに約4万年前から、激しい火山活動が支笏湖では起こりました。その結果、直径12kmにもなるカルデラができ、湖を取り巻く嶮しい山並みが、カルデラ壁ができました。カルデラ形成後も火山活動が続き、風不死岳、恵庭岳、樽前山ができました。樽前山ではまだ噴気が続いている活火山です。このような火山によって支笏湖周辺には険しい地形ができました。
 明治時代には、支笏湖から樽前山周辺の森林が御料林に1889(明治22)年に指定されました。御料林とは、皇室の経済基盤を固めるために財産として、旧憲法の施行を前に創設されたものです。
 北海道内に工場適地を探していた王子製紙は、支笏湖周辺の木材資源と支笏湖の水資源を発電に利用することを考え、明治37年に苫小牧への進出を計画し、着工にはりました。
 その工事のなさかの1909(明治42)年3月30日に、樽前山が噴火しました。現在あるドームは、17日から19日くらいの間に出現したものです。実は樽前山のドームはそれ以前にもありましたが、1874(明治7)年の爆発で消滅しています。それが、1909年に再度形成されました。
 この噴火の時期に、アメリカの米国マサチューセッツ州高等工業学校の火山学者であったジャッカーが樽前山を調査しました。その調査の結果、「近く、再び大噴火があるから注意せよ」と、ドーム形成後にも大噴火があると日時まで予測し警告を発しました。そのため、工事関係者や地域住民はパニックになったのですが、幸いにも、当日は朝から上天気で、予測は外れました。
 明治43年に王子製紙の工場が完成し、千歳川には発電所が建設されました。支笏湖の水位は、堰堤が設けられて、人工的に調節されるようになりました。
 支笏湖を水源として目をつけられたのは、その貯水量と日本最北端の不凍湖であったためです。洞爺湖と共に支笏湖は、冬季でもほとんど凍ることがありません。また、支笏湖は面積は広くありませんが、カルデラの特徴で最大水深が363m、平均水深が264mもあり、コップのような形態をした湖です。そのため、支笏湖は、そほど大きな湖ではありませんが、琵琶湖(27.5立方km)に匹敵するほどの貯水量(21立方km)を持っています。ですから、発電用の貯水地としては、有望だったのです。
 王子製紙は、苫小牧から支笏湖まで軽便鉄道(山線と呼ばれていた)をしきました。山線はかつては、物資運搬用でしたが、1922(大正11)年から観光客に利用されていました。しかし、もともと物資運搬用なので切符には、「人命の危険は保証されず」と書いてあったそうです。その名残として、支笏湖から流れ出る千歳川には山線鉄橋が残っています。
 王子製紙が操業をはじめ、支笏湖周辺で多くのエゾマツやトドマツが伐採されました。しかし、支笏湖の自然は広く雄大で、伐採の影響はそれほどひどくなかったようです。
 北海道や地元住民は、自然を守るために、国立公園の候補地として、支笏湖周辺を圧しました。1921(大正10)年に全国から16箇所が国立公園に指定され、そのうち北海道では、阿寒、登別、大沼が選ばれましたが、支笏湖は選かも漏れました。その時に道庁が調べたところ、支笏湖には数棟の建物があるだけで、まだまだ自然は残されていました。その後、1934(昭和9)年に阿寒と大雪山、が国立公園に指定されたものの、戦争が激しくなり、運動どころではなくなりました。そして、戦後4年目にして、支笏湖と洞爺湖周辺は、国立公園に指定されました。
 もともと国有地であったため、土地利用の規制がきびしく新規企業の参入がないので、支笏湖周辺は開発がそれほど進むこともなく、現在に至っています。それでも、自然災害や人為による影響は避けることはできません。
 火山による破壊も自然の営みで避けることができませんが、稀に襲う台風は、強風にさらされることの少ない北海道の森林には脅威となります。1954(昭和29)年の洞爺丸台風では、大量の風倒木が発生しました。その後、一部は植林ですが、自然自身の回復力で森林は復活しました。
 1972(昭和47)年には、人為による破壊が再び起こります。札幌での冬季オリンピックの滑降競技のコースに、恵庭岳の斜面が選ばれました。もともとオリンピックのコースや施設のために、一時的な利用ですが、広範囲の樹木が伐採されました。しかし、オリンピック終了後は、施設は撤去され、植林もされたため、今ではその傷跡はかなり回復しています。
 しかし、この「オリンピックによる自然破壊」は、のちのちまで影響を与えました。1998年2月の長野オリンピックで、手付かずの自然が残っている志賀高原の岩菅山が滑降競技の施設の予定になっていました。しかし、自然を保護するために、開発を断念されました。そこには恵庭岳の経験も活かされていました。
 記憶にも新しい2004年9月の台風18号で、再び多くの風倒木がでました。その傷跡は現在も残されています。これらの風倒木を処理して、より災害に強い森林を目指して植林事業が取り組まれています。
 自然は、自分自身で回復力をもっています。以前と、同じものではないですが、似た自然に戻ります。それには、何十年のスケールの長い時間が必要です。手出しをせずに長い時間見守りさえすれば、自然はもとの姿をとり戻します。その忍耐力が、人間の側にあるかどうかが問題なのかもしれません。破壊の原因である風雪や火山の営みも、自然の一環です。自然とは、人間にとって都合の良い奇麗事だけではないのです。穏やかさと激しさの両面を持った存在なのです。
 一番寒い時期には、寒さを売りものにしたイベントが支笏湖ではあります。札幌の雪祭りと同じ頃になりますが、支笏湖では1月25日から2月17日まで「第30回千歳・支笏湖氷濤まつり」が行われています。湖畔には、多数の氷のオブジェがつくられて、いろいろなイベントが行われています。氷は湖水の水をスプリンクラーでかけて凍らせたものです。オブジェは、昼間は支笏湖ブルーに輝き、夜はライトアップされ幻想的な世界となります。私が訪れた年末には、厳冬期の祭りにそなえて、準備が進んでいました。見るほうはいいのですが、作る人たちは、寒い中、水をかけて作業をしていくことになります。
 そんな作業風景を横目に、支笏湖畔の道路を走って、凍っていない湖面を眺めました。そして、自然の中の穏やかさと激しさについて考えました。

・新陳代謝・
一見原始に見えるの森も、見かけだけかもしれません。
原始の森を構成する木々の多くは、
火山や風雪などで何度も倒れては、蘇ってきた子孫たちです。
そうでなくては、原始林は樹齢何千年の木ばかりになります。
森林は、新陳代謝をするかのように、世代交代をしています。
古い大木もあれば、新しい若木や芽吹いたばかりの苗木もあります。
このような多様性が自然の摂理にかなったものです。
自然とは、新陳代謝が正常に機能していることなのでしょう。

・国民休暇村・
支笏湖畔に、「国民休暇村 支笏湖」があります。
その休暇村は、天然温泉があり、湖畔の温泉街からはずれた
キムンモラップ山の北側山麓に、ぽつんと佇んでいます。
その建物の周囲の自然が、私には好ましく思え、
支笏湖の定宿としています。
私は国民休暇村が好きで、出かける時に近くにあれば、
そこに泊まるようにしています。
でも、残念ながら、北海道では支笏湖が唯一つの国民休暇村です。

2008-01-15

37 沖縄バン岬:科学が教える大地の悠久(2008.01.15)

 以前にもこのエッセイでは、沖縄を紹介をしたことがあるのですが、もう一度、登場です。今回は、ある小さな岬の地層にこだわって紹介します。その岬は、バン岬と呼ばれ、沖縄中部の太平洋側(南東側)に面した海岸にあります。

 沖縄には、何度が訪れています。それぞれ私なりの目的があったのですが、昨年春に訪れた時の目的は、褶曲した地層を観察することでした。「私なり」といったのは、家族連れで出かけているので、家族サービスをしなければなりません。ですから、私が家族をつれて自由に石をみにいけるのは、せいぜい1日か2日です。
 子供か小さかったときには、私がでかけるところは、どこもで文句をいわずについてきたのですが、それなりに楽しんでいました。しかし、大きくなると、それぞれ行きたいところや、やりたいことがでてきて、そうそう私の自由に行動できるわけではなくなりました。そのような限られた時間で優先順位をつけたとき、一番の目的地が、バン岬の地層の褶曲をみることでした。
 写真では何度も見ていて、ぜひ見てみたと思っていた褶曲でした。日本列島には、同様に褶曲した地層が、あちこちにあります。でも、地質案内で扉の写真でみた褶曲が、なぜか心に残っているのです。
 目的の褶曲は、国頭(くにがみ)層群の中の嘉陽(かよう)層と呼ばれるものに見られます。嘉陽層は、中期始新世の中ごろ(4千数百万年前)にたまった地層です。目的の褶曲は、天仁屋(てにや)川という小さな川の河口から、海岸沿いを2kmほど南西に向かって歩いていったところにあります。少々不便なところにあるうえに、引き潮でないとバン岬までたどり着けません。
 本当は大潮の時にいくのが一番いいはずなのですが、1週間の滞在で一番潮の引く時、そして晴れて海が穏やかな状態にある時でないとたどり着けません。ですから、予備日を見越して余裕をもって、出かける日を狙っていました。
 実は、この海岸に来るのは2度目でした。一度目は、子供がまだ小さかったので、1時間も海岸線を歩くことはできないと思って、海岸に来て見ただけでした。
 人気のない海岸は、快適でした。南国の海の開放感と太陽のまぶしさを感じていました。古い海の家の跡があるのみで、今では草むらと化しています。自然の海岸が、そこには広がっていました。その海岸を見て、次回はぜひ、この海岸の向こうにあるはずの褶曲を見たいと思いながら引き返しました。
 2度目に訪れた時は、褶曲を見ためにバン岬に向かうことにしました。潮がちょうど引く時間帯をねらって出かけました。3月下旬でしたが、快晴の中、海岸を歩き始めました。1時間ほど海岸を歩くと、子供たちは暑さに参ってしまいました。それでも子供たちを、なだめすかしながら歩いて、やっと見覚えのある大褶曲の露頭にたどり着きました。
 大褶曲だけでなく、地層がのた打ち回っているような景観は、奇異で目を惹かれます。単に奇異ではなく、そこには、小さな人間が圧倒される迫力がありました。そんな地層を眺めながら、自分が持っている地層の形成や褶曲の形成の理屈をひねくりまして、どうしてできたかに考えをめぐらせていました。
 地質学者たちが、現段階で得ている知識によれば、以下のような褶曲の形成史が編めます。
 嘉陽層がたまったのは、暖かい海の大陸斜面の深度3500から5500mの海溝近くのだと考えられています。そのようなことがわかるのは、地質学者たちが、海岸を歩きながら詳細に調査した結果です。地層のある面に、生物の這い回った跡が残されています。これも一種の化石で、生痕化石と呼ばれています。このような這い跡のうち、特徴のあるものは、どのような生物が這い回ったからもわかっています。そしてそのような生物の中には、現在にも似たものが生きていて、それらの生息環境と這い跡を比べれば、どのような環境かがわかります。似た這い跡が海溝付近でも見つかっています。這い跡の類似性から、生物の住む海底の深度が推定されています。また、地層に含まれている化石から、暖かい海であることもわかります。
 大褶曲は、砂岩から泥岩への変化している一連の岩石が、一つの地層を構成しています。このような一枚の地層を単層と呼んでいます。単層が何層も繰り返し重なって厚い地層が形成されていきます。
 一見静かな深海底に、砂の成分の多い乱泥流が流れ込みます。乱泥流に襲われた生物は生き埋めになったことでしょう。乱泥流が収まると、再び生物が復活します。もちろん、生物の復活にはそれなりの時間が必要です。しかし、地質現象には充分すぎるほどの時間があります。
 たまたまきれいに均された海底を生物が這いまわり、その上に這い跡を消すことなく、上手く砂が覆いかぶさった時に生痕化石が形成されます。ですから、生痕化石がどの地層面からでも見つかるものではありません。条件がよければ残るということです。しかし、大量にある地層からは、生痕化石が、よく見つかります。ですから、嘉陽層をためた海底は、生痕化石を残すに適した場所だったのでしょう。
 ひとつの地層は、数時間から数日という短時間で形成されますが、次の地層がたまるまで、長い時間が経過します。数十年、数百年、時には数千年間、何も起こらない時期があります。そん不連続な地質現象の繰り返しが、地層には刻まれています。
 海溝とは、海洋プレートが別のプレートの下に沈み込む場所です。そのような海溝近くの大陸斜面の地下では、プレートに押されて、地層には曲がるような力が働きます。その時、地層の状態によって、さまざまな曲がり方をします。
 まだ固まっていないで水をたくさん含んだ地層が圧されると、地層は割れれるこなく、複雑に曲がっていきます。また、砂岩には不規則な洗濯板のようなでこぼこ(ムリオン構造と呼ばれます)ができることもあります。
 砂岩の水分がなくなり、泥岩の水分が残っている場合には、泥岩の部分だけが分厚くなったり、割れた砂岩の中に泥岩が流れて進入したりすることがあります。
 砂岩も泥岩も固まっている時、大量の土石流が新たに流れ込んでくると、もともとあった地層が削られることがあります。削った土石流の中には、化石が見つかることがあります。嘉陽層では、破片になっていますが、貨幣石が見つかりました。貨幣石とは、有孔虫とよばれるプランクトンの一種で、地質時代を区分するに古くから用いられていました。貨幣石から、時代を決めることできました。
 さらに長い時間が経過していくと、すべての地層は硬くなります。プレートの沈み込みが続くと、海溝付近の大陸斜面にはつぎつぎと地層がたまります。そのような地層に圧されて、古い地層が陸上に顔を出します。このようなでき方をした地層を、付加体と呼びます。日本列島のような海洋プレートが沈み込んだ陸側のプレートでは、付加体が海溝と並行にできます。嘉陽層は、沖縄本島ではもっと南東側にあるため、もっとも新しい時代の付加体となります。
 曲がりくねった地層を詳細にみていくと、長い時間に渡って、何段階もの大地の営みが作用していることがわかります。地質学者は、圧倒されそうな大褶曲を前にしても、詳細な調査や研究をぬかることなく続け、褶曲の中に隠されている大地の歴史やメカニズムを解き明かしていきます。褶曲という大地の圧倒的な力による自然の営みを、ささやかな力しか持たない人間が科学によって解明していきます。そんな自然と科学のせめぎあいが、そこにありました。
 私は、崖の前にたたずみ、なぜ無機質の地層がこのような迫力を持つのだろうか、と考えていました。人気のない海岸にただそびえる褶曲した地層の崖に、迫力を感じるのは、単に大きいだけでなく、大地の営みの悠久さを、科学が教えくれ、感じさせてくれるためなのかもしれないと思い至りました。
 私が見た大褶曲の露頭は、いくつかある写真の一部でした。しかし、一番見たかったのは、倒れてくしゃくしゃに曲がっている褶曲でした。大褶曲の露頭の向こう側に、その褶曲があるように思えました。しかし、そのためには、崖を少し登り、まわりこまなければなりません。その時は、子供たちが体力的にそれ以上進むのはムリでした。そのために、残念ながら、この大褶曲が今回の終点となりました。でも、もし次回、沖縄へいく機会があれば、今度はぜひとも、写真の褶曲を見てみたいと考えています。

・ライフワーク・
月刊メールマガジン「大地を眺める」も、
今年で4年前に突入します。
この連載は、北海道地図株式会社さんとの共同で始めた企画です。
私は、自分の興味や研究上のために日本各地をめぐっています。
その研究成果は科学普及のためにも利用しています。
北海道地図さんから数値標高のデータを提供いただいて、
エッセイの内容をよりわかりやすくするために、
データ処理を行い地形や地質を示すようにして公開しています。
できれば、日本全国をもれなく、
地質や地形を紹介していくつもりでいます。
しかし、ホームページを見ていただくとわかるのですが、
全国を網羅することは未だにできていません。
まだまだ、道半ばです。
いつ完成するかわかりませんが、
気長にライフワークとして取り組んでいこうと思っています。

・沖縄行・
昨年春に、沖縄のバン岬に行きました。
沖縄は、私が住んでいる北海道からは遠いところです。
その時は、JALの直行便があったのですが、
いまでは、直行便がなくなり、乗り継がなければなりません。
少々、遠く感じるようになりました。
我が家の長男が乗り物に弱いため、
乗り継ぎでは、時間が余計にかかり
行くのを躊躇してしまいます。
今年の春休みもできれば行きたいのですが、
どうなるかは、まだ未定です。

2007-12-15

36 幌尻岳:石を愛でる楽しみ(2007.12.15)

 地質百選の中に、北海道の幌尻岳の七つ沼カールが選ばれています。今回は、幌尻岳を紹介します。幌尻岳は、私が地質学を目指したときに出会った山でもあります。

 地質百選というものを御存知でしょうか。2007年10月に「日本列島ジオサイト地質百選」(ISBN978-4-274-20460-9 C3051)という本が出版されたので、目にされた方もおられるかもしれません。
 もともとは、NPO地質情報整備・活用機構と(社)全国地質調査業協会連合会が、地質を中心とした自然で、保全、活用、災害防止、観光などの目的で、全国から「地質百選」を募集したものです。
 この本の中で、北海道からは7箇所が選ばれています。知床半島、白滝(黒曜石)、神居古潭渓谷(変成岩)、夕張岳(蛇紋岩メランジェ)、夕張(石炭の大露頭)、有珠山・昭和新山、そして今回紹介する幌尻(ぽろしり)岳(七つ沼カール)です。
 このエッセイは、行ったところを題材にしていますので、神居古潭渓谷と有珠山は、すでに紹介しました。しかし、知床半島、白滝、夕張岳、夕張はまだ行っていないので紹介できません。そのうち、行こうと思っています。
 幌尻岳は、一度は登り、もう一度は近くの山から眺めたことがあります。ずいぶん前のことなので、記憶もはっきりしないので、取り上げることに躊躇していたものです。しかし、これからしばらく行くことはなさそうなので、今回思い切って取り上げることにしました。
 私の幌尻岳への登山は、私自身の地質学や地質調査への目覚めの時期でもあります。私は大学2年生の夏に地質学を始めると決意して、N先生とA先生に連れられて、はじめて日高山脈に入りました。そのときが、私にとっては、はじめて本格的な沢登りによる地質調査でした。キャンプの道具や食料もすべての荷物を自分で背負って、わらじと地下足袋をはいて、新冠(にいかっぷ)川を遡上しながら調査をしていきました。私と同級生の友人が、二人の先生の野外調査に同行させてもらいました。2泊のキャンプをして、調査をしました。今思えば、同行というより、足手まといにすぎなかったでしょう。ただただ付いていくのがやっとでした。しかし、私にとっては、それまでに味わったことのない経験で、強烈に印象に残っています。
 谷の合間から幌尻岳の白い山容が見えました。新冠川がどこまで行っても川は細ることなく、嶮しくなっていくだけでした。新冠川の源流が、日高の主峰ともいうべき幌尻岳でした。
 3年生になって、夏に進級論文で数週間、学科の学生全員が定められた地域で、野外調査をしました。その野外実習の後の9月には、奥新冠ダムで先生の知り合いと先輩が調査に入っていたので、そのグループに、N先生とA先生、例の友人と私が、合流して調査に加わることになりました。一日を、幌尻岳の登山にあててもらいました。その時、はじめて幌尻岳の山頂に立ちました。しかし、もともと登山が目的でなかったため、あれよあれよというまに山頂に立ち、下山してきました。
 新冠川は、幌尻岳の北東に位置する七つ沼カール源流とします。新冠川の支流の幌尻沢沿いに、幌尻岳の南側の登山道があります。そこを利用して、私は山頂に立ったわけです。
 幌尻岳へは、他に北側の登山ルートが二つあります。ひとつは沙流川の支流の額平(ぬかびら)川から直接幌尻岳に登山するルート、もう一つは、同じく沙流川の支流の千呂露(ちろろ)川から戸蔦別(とったべつ)岳を経由する稜線のルートがあります。
 4年生の夏に千呂露川のルートから、北戸蔦別岳から戸蔦別岳にいきました。私はその時期には、卒業論文で、新冠川より南にある静内川に野外調査のために入っていた。調査も一休みして、N先生といつもの同級生、そして下級生2名のチームに合流しました。戸蔦別岳の麓の水場でキャンプをして調査をしました。そのときも、N先生の調査に同行するのが、主な目的でした。
 幌尻岳周辺のいずれの調査も、私自身は、先生や先輩の手伝いで、自分自身が、地質学的な目的をもった野外調査ではありません。ですから、石や石の出かた(産状といいます)を、いろいろ見るだけで、地質学的な研究をしていたわけではありませんでした。しかし、後で思い起こすと、実は重要なことを学んでいたのだと気づきました。
 標高2052mの幌尻岳は、日高山脈の中でも最高峰で、山も奥深く、アプローチが長く、日帰り登山が不可能な山です。登山ルートはあっても、沢登りもしなければなりませんので、なかなか頂上を極めるのが大変な山です。その山を、登山ではなく、道なきところへ分け入り、調査する地質学者もいるわけです。同行したいずれの調査でも、先生や先輩たちは、真剣に野外調査に取り組んでいました。私が、登るのもやっとのような沢でも、彼らは、黙々として、そして喜々として調査をしてました。それをみて、地質調査、地質学、科学というものは、それほど面白く魅力的なのだということを、見せつけられた思いでした。
 その頃からでしょうか。景色や自然をただ愛(め)でる楽しみより、石や地質を愛でる楽しみのほうが強くなったのは。私も、石と地質の魅力に引き込まれました。今では、若い頃のような体力はなく、多分これからは幌尻岳のようなところへは登れないでしょう。かといって、残念でもありません。頂上を目指すことが地質学ではなく、そこに調べたいものがあるから、調査をしにいく通過点にすぎないのです。たまたま頂上にも調べたいものがあるのなら、調査の一環として頂上に向かうでしょう。ただ、それだけのことです。
 もし地質学者が頂上だけを目指すのであれば、それは趣味というべきでしょう。4年生の卒業論文で野外調査をしている時、調査地の近くにあったペテガリ岳や、少々遠いですがアポイ岳に、趣味として登っていました。これは地質調査ではなく、頂上だけを目指すことだけが目的でした。早くたどり着き、すぐに降りてくる。登ったという実績、経験だけが重要でした。まあ、あのころは体力があったので、そんなこともできたのですが。
 最後になりましたが、幌尻岳周辺の地質を紹介しておきましょう。
 日高山脈は、かつては大きな山脈ではなく、海に列島があっただけでした。列島の東側にも海がありました。列島の東側の陸地は、オホーツク古陸と呼ばれ、多くの堆積物を海に流し込んでいました。西側の陸から供給された堆積物も見つかっています。
 海には沈み込み帯があり、今では日高山脈と平行に南北に伸びる白亜紀頃に形成された神居古潭帯と呼ばれる地域にあたります。その後(新生代中新世)、沈み込み帯が東にジャンプし、海洋地殻が列島の地殻にくっついて、両方ともめくれ上がってきました。それが日高山脈を形成したと考えられます。
 日高山脈には、列島をつくっていた岩石(新生代中新世)と海洋底をつくっていた岩石(白亜紀)が見えています。日高山脈の伸びる方向に沿って、両岩石が並んで分布しています。海洋地殻をつくっていた岩石(オフィオライトと呼んでいます)が、現在の幌尻岳では、その様子が良く見えます。そのために、幌尻岳を中心として分布する海洋底の岩石は、ポロシリ・オフィオライトと呼ばれています。
 N先生は、地殻下部からマントルの岩石(斑れい岩やカンラン岩)を、A先生は地殻下部の変成岩を、それぞれ調べておられたのです。今では、その調査の意味もわかっているのですが、当時の私は、日高山脈の雄大さと、初めての経験の連続で、地質学の内容を充分味わうことができませんでした。
 日高山脈は、新しい時代にできた急峻な山並みです。北海道のような高緯度であったため、氷河期には、山岳氷河が山脈に形成されました。今では氷河は残っていませんが、氷河の痕跡が、日高山脈のあちこち残されています。
 幌尻岳が地質百選に選べれた理由は、カールやモレーンなどの氷河地形が幌尻岳の周辺にはいくつもあるためです。戸蔦別岳の南東斜面には、七つ沼カールがあり、幌尻岳の北側には北カールがあります。カールには、どんなに雨が少ない時期でも、水場があり水が枯れることなく確保できます。そのカールに溜まった水を飲んで、私たちはキャンプや調査をしていたのです。

・83箇所・
地質百選には、全国から約400箇所の応募がありました。
今回83箇所が選ばれました。
関係自治体に通知して了承を得た後、
認定書を送付して公表されました。
地質学的な選定基準として
日本の地史として重要なもの、代表的な岩質(堆積岩、火成岩、変成岩)、
特殊な鉱物(ヒスイ)の産地、地質とかかわりの大きい地形、
地殻変動(褶曲や断層)、鉱山や人文遺跡、火山、防災
などから代表的なところが選定されました。
なぜ100箇所でないのか、不思議ですが、
これは、2007年5月現在の第一次選定の結果です。
残りの17箇所は、新たな立候補も受け付け
選定を続けるため余地を残されています。
是非にと考えておられるところがあれば、
応募されたらどうでしょうか。

・師走・
いよいよ今年も押し詰まってきました。
残り半月となりました。
北海道のわが町では、11月に降った雪が消えることなく、
昨日は大雪が降りました。
これで根雪になるのでしょうか。
そろそろ来年のことも考えるようになっていきました。
それより前に、今年にすべきことを、
終わらせるべきことを、
あせる時期になりました。
でも、考えてみると、いつもばたばたしている気がします。
落ち着いて何かをすることが、
最近なかなかできなくなったような気がします。
何かに追われながら、つぎつぎと仕事を
ただただ、こなしているような気がします。
これで、いいのだろうかと、ついつい考えてしまいます。
そんな悩みも、師走は吹き飛ばしてくれます。

2007-11-15

35 白神山地:静寂の湖面に映りこむ動乱(2007.11.15)

 秋田県の白神山地の麓に十二湖というところがあります。多数の湖の中に青池と呼ばれる不思議が色をした池があります。その静寂に包まれた湖面に映る景色には、動乱が映りこんでいました。

 今年の夏に、白神山地の近く出かけました。白神山地へ山登りをしたり、山奥まで入ったわけではありません。白神山地から少し外れた山麓に十二湖というところがあります。そこに出かけました。青森県深浦町にある十二湖に私が訪れた目的は、地滑りでできた湖沼群と日本キャニオンをみることでした。青池と呼ばれる池は、名前の通り青く透き通った不思議な色をしているそうなので、その池もみたいと思っていました。
 地滑りは、1704年に起こったマグニチュード7の能代大地震によって、山が崩壊(山津波とも呼ばれるもの)したためだと起こったとされています。地滑りが、川をせき止め、多数の池を形成したと考えられています。池の数は、33(数え方によっては31)にのぼります。
 日本キャニオンは、1953(昭和28)年、当時の国立公園審議委員で探険家でもあった岸衛が、その景観を見て、アメリカ合衆国にあるコロラド山地のグランドキャニオンに見立てて名づけたものです。これは、少々名前負けしていてスケールははるかに小さいものです。白い酸性凝灰岩(流紋岩から真珠岩質)が侵食されつつある崖が印象的です。この崖は海からも眺めることができ、昔から、海上通行の目標にもされていたようです。
 白神山地には、秋田県と青森県にかけて広がるブナを中心とした原生林があります。1993年に、法隆寺や姫路城、屋久島とともに、白神山地は日本で最初に世界遺産に登録されました。世界遺産の指定地域にあたるのは、7割が青森県にあります。
 世界遺産には、文化遺産と自然遺産、複合遺産(日本にはありません)がありますが、白神山地は屋久島と共に自然遺産に区分されます。白神山地は、世界遺産登録基準の9項の「陸上、淡水、沿岸および海洋生態系と動植物群集の進化と発達において進行しつつある重要な生態学的、生物学的プロセスを示す顕著な見本であるもの」にあたります。
 人手のほとんど入っていないブナの原生林が白神山地の源流域にあます。その広さは、世界最大級といわれています。ブナ林の内には、多様な植物が共存し、それらの植生に依存した多様な動物がいます。ブナは木へんに無と書きます(漢字の第二水準にはありません)。ブナは落葉樹で、寒い地方では低地に、暖かい地方では高地に育ちます。北海道の黒松地方が北限といわれています。このような自然のままの生態系が今も手付かずのままで残っていたのです。
 1万年前の最終氷河期が終わり、8000年前ころには、白神山地にはブナ林が形成されていたことがわってきました。現在の日本で、それも本州でブナの原生林が残っているのは、不思議な気がします。でも調べていくと、原生林が残ったのには、それなりに理由があったようです。
 ブナは、大木になるのですが、シイタケ栽培や食器などの加工には利用されていたのですが、腐りやすく狂いが生じやすいので、建材として用いられることはあまりありませんでした。ですから昔から木なのですが木材として利用できないことから、「木へんに無」という漢字があてられたという説があります。建築用材に適さないことから、ブナは伐採を免れる条件があったのです。
 ブナは寿命が短く200年程度とされています。ですから、ブナの生育に適した山を放置しておけば、比較的短い期間で倒木更新などの世代交代をする原生林となります。ブナの森には、ブナ自身の落ち葉や倒木が栄養となり、他の動植物の養分や住みかなどとして利用し、多様な生態系を生み出します。
 白神山地は、焼く9800~6400万年前(白亜紀)の花崗岩類からできています。1600万年前~500万年前頃(中新世)の堆積岩(凝灰岩、泥岩、砂岩)とそれを貫く火成岩類(流紋岩、石英閃緑岩等)から構成されています。
 このような白神山地の岩石類は、不安定で、そのうえ隆起が続いているため、崖崩れが起こりやすくなっています。伐採用の林道をつくっても、崖崩れのためにすぐに使えなくなってしまいます。また、この地域は冬には半年間も雪に埋もれるため、大規模な林道建設も難しく、開発が進みにくいところでもありました。
 そのようないくつかの要因が組み合わさって、白神山地ではブナの原生林が残ったと考えられています。白神山地は、古来から行われてきた集団で狩猟をおこなうマタギだけが利用するの山となっていたのです。
 十二湖付近は、奥の山地(東側)が中新世の火山岩類(玄武岩から安山岩)ができており、断層に境されて、西側には1000万年前の赤石層と呼ばれる堆積岩があります。主に黒色の泥岩(硬質頁岩と呼ばれています)からできていますが、下部に300mほどの厚さを持つ凝灰岩(十二湖凝灰岩部層と呼ばれています)があります。これら弱い岩石が崩れて、地滑りとなったと考えられます。
 1970年代になると、ブナは楽器の材料として利用されるようになり、白神山地の原生林にも目がつけられました。1978年に白神山地の中央を通る林道が計画され、1982年に秋田県側から工事が開始されました。工事の直後から白神山地でひんぱんに崖崩れが起きはじめ、被害が出てきたため、林道建設反対運動が起こりました。その結果白神山地は、1990年には林野庁が森林生態系保護地域に指定、1993年12月11日には世界遺産に登録、2004年3月31日には国指定白神山地鳥獣保護区となりました。その結果、白神山地のブナの原生林と自然は守られるようになりましたが、この地のマタギの伝統がなくなってしまいました。
 名前の通り青池は、透明で青く澄んだ不思議な色をしていました。湖面に映る木々の反射と、高い透明感で池に沈んでいる木々が見えることが、さらに神秘さを増しています。しかし、その静寂な景観の中には、地滑りという激しい歴史がありました。それの激しさを、静寂の湖面や日本キャニオンから感じている人はいるのでしょうか。

・十二湖・
青森県の津軽半島の青森県五所川原市(旧市浦村)に
十三湖というところがあります。
十二湖とは、文字の上では湖の一つ違いですが
十三湖は十三湊(とさみなと)が語源となっており、
直接の関連はありません。

・サンタランド・
深浦町ではサンタランド白神という施設に泊まりました。
名前の通りサンラクロースにちなんだ施設でした。
なぜ、青森でサンタなのか不思議に思いました。
これは、深浦町(旧岩崎村)が
フィンランド国ラヌア郡と姉妹都市協定を結んだためです。
ラヌア郡はサンタクロースの故郷とされているところなので、
姉妹都市の締結を記念して、サンタランドが建設されました。
私がいったは8月の一番暑い時期でしたが、
施設は運営されていて、コテージに泊まることができました。

2007-10-15

34 旭岳:山頂から謙虚さをみる(2007.10.15)

 9月下旬の3連休に、家族で旭岳に登ってきました。連休の間は、好天に恵まれて、絶好の登山日和となりました。そして北海道の最高峰に立つことができました。

 旭岳は、大雪山の中にある北海道の最高峰(2290m)を誇ります。北海道で一番早く秋が訪れるところでもあります。私たちが登ったときは、もう紅葉が始まっていました。
 旭岳の麓には、旭岳温泉として、ホテルや旅館などの宿泊施設がいくつもあります。旭岳温泉にはロープウエイの乗り場があり、ロープウエイを使えば4合目まで一気に登ることができます。ですから、北海道の最高峰でありながら、5合目あたりまで多くの観光客が訪れるところです。
 私が地質調査をはじめる前は、山登りや山歩きが好きで、近くの山を一人で登っていました。山登りとはいっても、ピークハンターのように頂上を目指すのが目的ではなく、自然の中を歩き回ることがもっぱらでした。もちろん、いくつかの山頂には立ちましたが、それは余禄のようなものでした。
 地質調査をするようになった頃は、山頂を目指すより、地質学の面白さを野外で満喫するようになっていました。調査のために沢に入ることが多く、今まで味わったことのない自然の趣を、沢登りを通じて味わっていました。そして自然の奥深さを感じていました。
 若い頃もそうだったのですが、地質調査を始めてからは特に、頂上を目指すことにあまり意味を見出せませんでした。目的もなしに頂上に行くことは無駄だとすら思っていました。本格的な登山する人の足元にも及びませんが、気がつくと結構あちこちの山頂を極めていました。
 家族で山に出かけるようになってもその考え方は変わらず、登頂は目的の一つにすぎません。子供や家内、自分自身の体力を考え、例え山頂を目指していても、無理はしなくなりました。今回の旭岳の登山も、長男が8合目でバテたので、家内と長男は下山させて、体力がまだ大丈夫であった次男と私が、登山を続けて、頂上に立ちました。
 旭岳を訪れる多くの観光客は、頂上を目指すのではなく、高原の景観を味わうことが目的でしょう。9月の下旬は、旭岳のロープウエイの姿見駅を降りると、まだ森林限界を越えていませんので、紅葉が楽しめます。池越しに見る紅葉は美しいものです。
 しかし、ロープウエイの駅付近でなんといっても目を引くのは、紅葉の向こう側に広がる景観とのコントラストです。山頂から急激に切れ込んだ谷(地獄谷と呼ばれています)は非常に荒々しいものです。
 西側に開いた谷には、噴煙を上げている噴火口が、何箇所も見えます。旭岳が活動して火山であることは、誰の目にも明らかです。風向きによっては、硫化水素の匂いも漂ってきます。
 旭岳を含む大雪山は、100万年間活動を続けている巨大な火山の集合体です。大雪山では、20個以上の火山体が確認されています。大雪山の中央部に直径2kmにもおよぶ大きなカルデラ(御鉢平カルデラと呼ばれています)があります。このカルデラは、約3万年前の大雪山ではもっとも大きな噴火でできたものです。
 旭岳は、御鉢平カルデラの南西のはずれにあたります。2万~1万年前から活動をはじめて、約6500年前まで活発な噴火をしていました。安山岩のマグマが噴火したもので、活動初期には溶岩を何度も流しましたが、その後爆発的な噴火に変化して、降下スコリアや火砕流を出しました。このような火山噴出物が、旭岳の火山体をつくりました。
 3000~2000年前ころに、水蒸気爆発によって山頂から西の山体が崩れて(岩屑なだれ)、現在の地獄谷ができました。この岩屑なだれや泥流の堆積物は、旭岳温泉にまで達しています。
 1000年前以降に、現在、姿見の池と夫婦池になっているところで噴火が起こりました。さらに250年前以降にも、地獄谷で水蒸気爆発が2度にわたり起こりました。その時に、現在も活動中の火口群が形成されました。旭岳は、現在も活発な噴気活動を続けています。
 旭岳の山頂から北東の方向を眺めると、御鉢平カルデラ周辺にある山々が見えます。残念ながら、御鉢平カルデラは、間宮岳が邪魔をしていて全貌を見ることができません。しかし、その巨大なカルデラさえ小さく見えるほど大雪山は大きいのです。
 大雪山からは多くのピークが見えます。それらの多くが火山であることがわかります。旭岳の登山道は火山由来の岩石からできます。山頂から眺めだけで、大雪山が巨大な火山である証拠が、いくつも見つかります。
 山頂から眺めると、大雪山は雄大なだけでなく、多様な自然や、神々しい景観を生み出していることが見えます。そんな雄大さと比べ、一つの山頂を極めただけで満足する人間の小ささを感じました。一つの山頂に達することが大切なのではなく、大雪山の偉大を感じることが大切なのでないでしょうか。自然の偉大さの前には、人は謙虚であるべきではないでしょうか。旭岳の山頂で、そんなことに思いを馳せました。
 登山から帰った翌日の新聞をみると、旭岳のカラー写真が第一面を飾っていました。今年はじめての冠雪が観測されたというニュースでした。その新聞記事を読んで、数日初冠雪が早ければと登頂はできなかったと思います。今回は本当に天候に恵まれたと思えました。
 北海道は、これから短い秋から、一気に冬に向かっていきます。

・ラッシュ・
昨年も同時期に旭岳温泉を登山のために予約をしようとしたら、
満員でどこにも泊まることできませんでした。
今年はなんとか予約をすることができました。
同じホテルに2泊して、丸一日を登山日にしました。
9月下旬は、北海道の高山では紅葉が始まる頃です。
今回の連休は、久しぶりの好天なので、
ロープウエイを使って多くの観光客が訪れていました。
私たちもロープウエイを使って登りました。
私たちが下山した午後2時ごろは、
ちょうどラッシュの真っ最中で、
1時間ほどロープウエイに乗るのに並ばねばなりませんでした。
疲れた体で行列をするのは大変でした。
北海道にいると都会を除いて混雑はほとんどないので、
こんな長蛇の列に並んだのは、珍しい経験でした。

・タフ・
今回の旭岳の登山で、我が家で一番体力のあるのは
小学校1年生の次男であることが判明しました。
次いで私で、小学校4年生の長男、家内と続きます。
本当は長男も体力があるはずなのですが、
すぐにあきらめてしまうところがあります。
長男が1、2年生の頃は、今の次男のように体力がありました。
なぜか、3年生になった頃から、急に体力がなくなりました。
あきらめ癖がついたのかもしれません。
一方、もともと次男は体力がある上に、
負けず嫌いな性格もあいまって、
少々のことでは弱音を吐きません。
登山途中はかなり苦しそうでしたが、
休めば体力はすぐに回復していました。
私は登山後、数日間、筋肉痛に悩まされました。
私の体力も衰えているのでしょうが、
今回の登山では、次男のタフさには驚かされました。

2007-09-15

33 一ノ目潟:地球の覗き穴(2007.09.15)

 一ノ目潟は、地質学的非常に珍しい火山の噴火口です。一ノ目潟の火口は、地球を覗くための穴として重要な役割をもっています。

 2007年8月1日と2日にかけて、男鹿半島にいきました。私は30年ほど前に友人と一緒に来たことがありますが、それ以来です。今回は、家族旅行をかねていましたが、調査も少ししました。
 秋田空港からレンタカーで男鹿半島に向かいました。男鹿半島に向かう途中、付け根にある八郎潟(はちろうがた)を眺めました。八郎潟は、御存知のように干拓地として有名です。干拓は、戦後の食糧増産を目的としておこなわれた事業でした。1957年から干拓工事がはじまり、1977年に終わりました。
 八郎潟は、もともとは琵琶湖について2番目に大きな湖(220km2)だったのですが、干拓後は約50km2の大きさになりました。湖とはいっても、海とつながった汽水でしたが、現在は干拓によって淡水化され、汽水湖時代の主力のシジミなどは採れなくなってきたようです。
 男鹿半島は、もともと半島で陸続きであったのではなく、火山によってできた島でした。米代川と雄物川から運搬される土砂により、北と南で2つの砂洲で本州につながっていました。その砂洲の間にあったのが八郎潟でした。
 もっと過去に遡れば、パレオジン(古第三紀とも呼ばれています)の初期(6200万年前ころ)には、大陸を構成するような花崗岩(正確にはアダメロ岩といいます)があります。この花崗岩は、男鹿半島の北西端の赤島付近の海岸に少しだけ顔を出しています。その後、火山活動が始まります。現在の日本海側では、ネオジン(新第三紀)の中新世を中心とする火山活動が活発に起こります。その多くは海底での火山活動でした。火山岩類やその火山砕屑岩類が、海底の熱水で変質をして、緑色になっていることから、グリーンタフ(緑色凝灰岩という意味です)と呼ばれています。そこから、グリーンタフとは、日本海側のネオジンに起こった一連の火山活動をさして使われています。同じようなグリーンタフの活動は、北海道の東部にも見つかっています。
 火山活動とともに、火山の周囲には、海が繰り返し進入してきて、堆積岩が堆積していきます。それらの地層は、化石によって詳しく調べられ、詳細な時代区分がなされています。そのために、男鹿半島の地層は、日本海側の新生代の模式的な地層とされています。
 一番最近の火山活動は、寒風山(かんぷうざん)と目潟火山です。
 標高354mの寒風山は2万年以前に活動を開始し、大半の溶岩は2万年以降に噴出しました。初期の溶岩流は淡水の湖水に流れこみ、湖成層と複雑に互層しています。火山岩としては、安山岩が主で、少量の玄武岩を伴っています。一番新しい活動は2700年前の火砕流でしたが、これを最後にして、その後の地震や噴気の活動は起こっていません。
 目潟火山は、更新世の最末期に活動しました。その活動は、男鹿半島の西にある丸い形の一ノ目潟(6万~8万年前)、二ノ目潟、三ノ目潟(2万~2万4000年前)という噴火口として残されています。目潟には、水が溜まり、池になっています。
 目潟火山は、マールと呼ばれる火口が特徴です。マールは、マグマが水に接触して、マグマ水蒸気爆発を起こして形成されます。火砕サージが発生して、火口の周囲に低い環状の丘を形成します。
 マールは、大抵は一回の噴火でできることが多いのですが、一ノ目潟は、2つの時期の活動があったとされています。最初の水蒸気爆発によってマールを形成したときに、火山泥流(ラハール)を発生させています。その後、ニノ目潟の形成と同時期に、水蒸気爆発を起こして、軽石を放出しています。
 実は男鹿半島での私の調査の目的は、一ノ目潟に行くことでした。この一ノ目潟は、3つの目潟火山の中でも一番大きなマールとなっています。三ノ目潟は、玄武岩(正確には高アルミナ玄武岩と呼ばれています)のマグマです。一方、一ノ目潟とニノ目潟は、安山岩(正確にはカルクアルカリ安山岩と呼ばれています)のマグマで、三ノ目潟のものとは種類が違っています。
 一ノ目潟では、マグマが通ってきた地下深部の岩石を捕獲して、マグマと一緒に地表に噴出しています。このような岩石を、捕獲岩といいます。一ノ目潟の捕獲岩は、地質学者には非常に有名で、男鹿半島に出かける地質学者の多くは、捕獲岩を採取をしようと考えています。一ノ目潟の捕獲岩には、マントルから上がってきたカンラン岩や、地殻深部にあったと考えられる斑れい岩や花崗岩などもあります。
 捕獲岩をもたらす一ノ目潟のマールは、地球の覗き穴というべきものです。人間の、地下を探る技術は、まだまだ稚拙で、深く掘ろうとすると経費や手間が必要となります。ところが、火山は、地球深部の物質を、自然の力で地表まで持ってきてくれるのです。それが捕獲岩なのです。捕獲岩は、「地球の覗き穴」なのです。
 私も、捕獲岩の採取が目的でした。しかし、それはかないませんでした。男鹿市の水源池というので柵がありましたが、ちょうど取水口の作業中なので、入れてもらって、写真だけをとりました。作業中でしたので、湖岸には下りませんでした。
 もし、湖岸に降りられたとしても、採取をしていはいけなかったのです。なぜなら、2007年7月26日に「男鹿目潟火山群一ノ目潟」として、国の天然記念物に指定されたからです。その指定理由は、「マールの典型として、また単性火山群の典型として」貴重であるためです。これからは、一ノ目潟は、天然記念物として保護されることになりました。
 私が訪れた時は、そのようなこと状況を知らず、掲示もありませんでした。試料を採らなくてよかったです。罪を犯すことになるのです。今後、一ノ目潟に入るには、文化庁もしくは県の許可が必要になるでしょう、地質学者も気軽に調査に入ることも、標本を採取することもできなくなるはずです。現在、地質学者で一ノ目潟の標本をお持ちの方は、大切にされるといいでしょう。もしかすると、これらかは、ほとんど手に入らない貴重な標本かもしれません。
 一ノ目潟の捕獲岩は非常に有名で、男鹿半島を訪れた多くの地質学者が、採取にいったことがあるはずです。人気のあるのは、なんといってもマントルから上がってきたカンラン岩類です。二番人気は斑れい岩類で、次いで花崗岩類なります。その順に捕獲岩は採取されていきます。結果として、一ノ目潟の周囲の捕獲岩は、花崗岩が比較的多くなり、斑れい岩が少なくなり、カンラン岩にいたっては稀なものとなってきます。私が30年前にいったときも、カンラン岩は少なかったのですが、それでもがんばれば、いくつも見つけることはできました。今では、もっと少なくなっていたことでしょう。
 これは、明らかに地質学者(あるいはそのタマゴの学生)による乱獲のためです。持ち帰られた標本の多くは、研究材料とすることなく、どこかに紛失してしまいます。ですから、いくら学生の勉強のためとはいえ、乱獲によって、貴重な試料がなくなるのは、人類にとっての大きな損失です。保護しなければなりません。それを憂えたため、今回の天然記念物への指定となったのでしょう。
 貴重な自然物ですから、保護は必要だと思います。しかし、保護のせいで、研究がしづらくなるのも確かです。これからの地質学者を目指している学生や大学院生は、もう一ノ目潟の捕獲岩を研究テーマにすることは、なかなか難しくなりそうです。
 せっかくの地球の覗き穴が、乱獲のために、閉じられてしまいました。科学発展と保護は、なかなか難しい問題です。

・処罰・
一ノ目潟は、国の史跡名勝 天然記念物になっていますので、
文化庁の管轄になります。
また、「文化財保護法」によって、
さまざまなことが法律で定められています。
もし、誰かが、無断で岩石を持ち帰ったら、
罰則規定が適用されるはずです。
もし私が資料を持ち帰って処分されるとすると、
「第196条 史跡名勝天然記念物の現状を変更し、
又はその保有に影響を及ぼす行為をして、
これを滅失し、き損し、又は衰亡するに至らしめた者」
とみなされたら、5年以下の懲役若しくは禁錮
又は30万円以下の罰金となります。
あるいは、犯罪の程度によって、
さまざまな罰金刑に処されることになります。
私が知らずに、日付入りで標本を採取したことを
このメールマガジンなどで公開したら、
処罰対象となっていことでしょう。
今思えば、少々、冷や汗ものでした。

・湖底堆積物・
目潟の湖底には、堆積物が溜まっています。
その堆積物をコアとして採取すると、
縞状の堆積物を採取することができます。
その堆積物は、花粉や生物の遺骸、化学成分などから、
気候の変動を読み取るための
タイムレコーダーとして利用されています。

・戸賀湾・
男鹿半島の西側に戸賀湾があります。
この戸賀湾の西が切れて海とつながっています。
しかし、もともとは非常に丸い形をしていたことがわかります。
目潟火山と同じようなマールではないかと思えるほどです。
しかし、どうもマールではないようです。
もちろん、火山の火口には違いがありません。
しかし、火山の活動年代が42万年前で、かなり古いものです。
さらに、活動したマグマも流紋岩です。
明らかに目潟の一連の火山とは別の活動によるものです。

2007-08-15

32 京都と札幌:盆地の暑さと異常気象(2007.08.15)

 北海道は猛暑に襲われています。本州並みの暑さといわれていますが、私は故郷の京都を思い出しました。そんな暑さの中でこのエッセイを書いてます。

 暑中お見舞い申し上げます。私は暑さのために少々夏バテ気味です。
 私が住む江別市は、8月上旬は、7月の雨不足を補うかのように、雲りがちで雨の多い天気でした。日照不足が危惧されるほどの曇天でした。ところが8月中旬になると、一転して、30℃を越える、例年にない猛暑と高湿度に襲われました。このエッセイを書いているのも、その暑さの中でです。
 この猛暑は、涼しい北海道の気候になれた人間には、たまらない日々となっています。私はもともと本州の京都の出身で、暑さには馴れているはずですが、北海道にしばらく住むと暑さには弱い体となってしまったようです。
 さらに、北海道の家は、冬の雪対策や寒さへの暖房は完備されているのですが、暑さへの対策はなされていません。エアコンのある家も少なく、もちろん我が家にもありませんので、暑さにはまいっています。寒さ対策だけのはずが、我が家には、なぜか扇風機が2台あります。これは暖房の熱をかき混ぜるために買った冬用ですが、今年は、夏に活用しています。
 特にここ数日は、夜も涼しくなることはなく、寝苦しい天気です。私の寝ている部屋は、風の通りがよくなく、窓を全開にしても蒸し暑さが消えることなく、扇風機で外の空気をいれなければ、寝ることもできないほどの暑さです。私は北海道に来て6年目ですが、こんなに暑い日が続くのは、初めての経験です。
 大学の研究室は、もっとすごい状態です。朝の6時過ぎに来ても、部屋に入るとムットした熱気がよどんでいます。窓を開けても空気が流れません。同じフロアーの廊下の窓をいたるところを開けているのですが、それでも風が流れません。私の研究室は5階建ての5階にあります。南北に伸びる建物で、真ん中の廊下を挟んで両側に研究室があります。私の研究室は西側にあり、窓は西向きにあります。ですから、夏は午前中だけは日も差し込まず、涼しく仕事ができるのはずなのですが、この夏の暑さでは、朝からダメです。前日の西日によって暖められた部屋の熱が、暑い夜に冷やされることなく、そのまま留まっているます。
 さらに、朝から天気がいいと、屋上を照らす太陽の熱が、最上階の研究室を直接暖めています。そして部屋の空気が流れませんので、ぐんぐん研究室の温度が上がっていきます。先ほど8時過ぎに、あまりの暑さにたまらなくなって、1階の自動販売機に冷たい飲み物を買いにいったのですが、1階の涼しさにほっとしました。5階との温度差は歴然としています。
 まして研究室には熱源となる、サーバのパソコンが常時動いています。そのサーバには無停電装置が付いています。研究室に私がいるときは、メインのデスクトップのパソコン1台、それには4台のハードディスクがついています。さらにノートパソコン、プリンターが動いています。これらは、熱を発生し、室温を高めています。
 風の通らない私の研究室は、まさに盆地の夏の暑さと同じです。そして研究室に多数の熱源があるということは、その盆地に都市があるというヒートアイランドと同じ効果が起こっています。
 私が生まれ育った京都も、盆地でした。私の故郷は、京都の南部の城陽市というところです。京都盆地は、南の最奥部で山一つ隔てて奈良盆地へとつながります。その京都盆地の南の底に当たるところに城陽があります。
 京都盆地の南端の城陽市は、空気の流れが悪く、夏は非常に暑いところになります。また交通の要所ともなっており、排気ガスもかなり多く、学生時代は光化学スモッグ注意報がでて、屋外の活動がストッなったこともたびたびありました。そんなところにわが故郷の町は位置していました。城陽市は、南西部の上野盆地からくる木津川の流れの出口でもあります。川の流れは、盆地をあまり涼しくはしてくれません。
 京都盆地は、木津川だけでなく、北東にある琵琶湖から高瀬川として流れでて宇治川へと続く流れ、京都の北山から流れる加茂川、亀岡盆地に集まった流れが保津峡を通り桂川へなったもの、大きな河川がすべて集まるところでもあります。そんな流れの堆積物が埋めて平らになったのが京都盆地です。集まった川は、合流して天王山のある狭いところを出口として淀川となり海に流れていきます。
 木津川の右岸に広がる城陽市は、東の山からの伏流水で地下水も豊富で水不足になることはありませんでした。しかし、山の開発が進み、地下水位も下がり、実家でも地下水の利用はだいぶ以前からできなくなりました。
 木津川周辺は、水利がよく農耕には適した地でした。しかし、木津川は暴れ側で治水のために堤防を長年にわたって築いてきました。天井川とよばれる高い河床を持つところもあります。しかし、川は恵みももたらしてくれました。木津川周辺は肥沃な農耕地ともなっています。農耕地には、砂の多いところもあり、氾濫原であったことをうかがわせます。そのような砂地を利用して、サツマイモなのどの畑作に利用されてきました。
 私は京都を離れて、30年ほどになります。母も兄弟、親族も京都にまだ大勢住んでいます。その間、何度も京都に帰省しています。しかし、法事などの特別な時以外は、夏にはほとんど帰省したことがありません。それは盆地の暑さが身にしみているので避けているからです。ここ数日の暑さは、京都の暑さを思い出させます。
 例年にない気象、たとえば今回の暑さのような日々が続くと、こんな暑さは異常気象だといって騒ぐ人もいます。12日、13日の「日最高気温」は、両日とも札幌で34.0℃となっています。これは、大変異常なことのように思えます。
 しかし、札幌の「日最高気温」の記録を調べてみると、1位が1994(平成6)年8月7日の36.2℃、2位1943(昭和18)年7月21日35.8℃、3位1924(大正13)年7月11日35.5℃、4位1978(昭和53)年8月3日35.2℃、5位1972(昭和47)年8月7日35.1℃となっています。ですから、暑いことに違いはありませんが、記録的ではないようです。3位1924年の例外とすれば、そのほかの記録はすべて昭和以降のものです。ですから、昭和以降、暖かい時期になっているといえます。
 では、札幌の「日最低気温」もついでにみていきましょう。1位が1900(明治33)年7月8日5.2℃、2位1900(明治33)年7月14日5.3℃、3位1902(明治35)年8月27日5.3℃、4位1889年(明治32)8月7日5.6℃、5位1904(明治37)年7月3日5.8℃となっています。記録を見てわかるように、冷夏の時期は、明治後半に集中しています。そのころが寒い時期であったといえます。
 このような地域の暑い寒いなどの変動は、周期性のある変動があることは確かです。ですから異常気象ではなく、自然の変動の幅の一つに過ぎません。
 もしこの暑さが、地球温暖化であれば、周期性はなく一方的な変動となります。さて本当のところはどうでしょうか。江別の暑さの中で、これは最高記録ではないのだといって気休めを言っていますが、一向に涼しくはなりません。

・熱暴走・
今回のエッセイは、予定しているところのデータを
集めることができませんでした。
時間はあったのですが、暑さのためにハードディスクを
認識しないトラブルが何度かありました。
あまりムリをすると熱暴走して、
破損をすると大変なことになるので、
無理をしないことにしています。
ですから、手持ちのデータでささっと今回は書き上げました。
申し訳ありません。

・故郷の自然・
暑くなったら故郷を思い出すというのは、
少々まずい気がします。
もちろん、いろいろなきっかけで故郷を思い出すことがあります。
実家の周辺は帰るたびに変化に気づきます。
私の心の中の故郷の自然は、いずれも30年以上も前のものです。
その後の変化を私はほとんど知りません。
帰省している時に断片的に眺めていはいますが、
きっちりと心に焼き付けていることはありません。
ですから、古いままの自然が
いまだに私の心の故郷となっています。

2007-07-15

31 角島:人と大地の架け橋(2007.07.15)

 山口県で有名な観光地として、カルスト地形の秋吉台があります。しかし、山口には他にもいくつか地質学的に面白い見所があります。山口県の北西の日本海側にある角島もその一つです。

 響灘(島根県から山口県の日本海を指します)にある角島(つのしま)へは、学会の見学旅行で訪れました。それまで私は、この島の存在を知りませんでした。2005年公開された映画「四日間の奇蹟」という映画の舞台になって有名になったそうですが、私はその映画を知りません。私が訪れたのは、2002年の夏のことでしたたから。
 角島は、4km2ほどの小さな島ですが、北長門海岸国定公園内に入っています。1965年に国定公園の指定を受けましたが、1997年に角島一帯が北長門海岸国定公園に編入されました。この国定公園は、響灘に面した複雑な海岸線がウリとなっています。海岸線の複雑さは、大地の生い立ちと、形成後の隆起や沈降、そして波による侵食によって形成されてきました。そのような複雑な生い立ちの縮図ともいうべきものが角島でも見られます。
 鼓のような形をした島で、北西の夢ヶ崎と北東の牧崎の岬が、牛の角に似ていることから、角島と名付けられたそうです。角島は古くから知られており、万葉集にも詠まれています。
 かつては、角島へは下関市豊北町から1.5kmほど離れているため、船で渡らなければなりませんでした。現在では、角島大橋ができ、車で渡れるようになっています。角島大橋は2000年に完成したもので、1780mもあり、離島への一般道にかけられた橋としては、日本でも2番目の長さを誇っています。橋は、きれいな曲線を描いており、長さだけでなくその優雅さもなかなか見事です。
 橋を渡っていく途中に、鳩島という小さな島の脇を通ります。ここもなかなかの地質学的に見どことがあります。鳩島にはきれいな柱状節理を見ることができます。しかし、橋から鳩島は少し離れているので、見るだけで島に上がることはできません。
 柱状節理をつくっているの岩石は火山岩です。残念ながら鳩島では、岩石に近づくことはできませんが、角島の橋の袂や、西部の海岸で手にすることができます。
 角島は、北東側と南西側にふたつの高まりがあり、両地区を結ぶ中央部が低い地帯(本文では地峡部と呼びます)となっています。北東側を元山地区、南西側を尾山地区と呼んでいます。
 角島は、今ではひとつの島ですが、地峡部をはさんで島の両地区の生い立ちが違っています。
 島の大地の歴史は、3500万年前ころの火山の活動からはじまります。この火山活動によって、尾山地区を構成する主要な岩石である火山岩(下部が輝石安山岩で、上部が角閃石流紋岩)ができました。この火山岩は、田万川火山岩類と呼ばれています。
 その後、地峡部に、3000万年前の砂岩や礫岩からなる地層(日置層群峠山累層)がたまります。
 1600万~1500万年前には、元山地区の主な岩石である砂岩や泥岩の地層(油谷湾層群川尻累層)が堆積します。そして、地峡部に大きな断層ができます。断層は今も海岸で見ることができますが、元山地区が下がり尾山地区が上がるような活動をしました。この断層によってめくれ上がった岩石が今も少し顔を覗かせています。少し見える岩石から、尾山地区の、田万川火山岩類の下には、さらに古い(白亜紀)火山岩があることがわかっています。
 1000万~800万年前になると、鳩島や元山地区の角島大橋の袂、尾山地区の西部にみられる玄武岩の火山活動が起こります。この火山でできた火山岩(アルカリカンラン石玄武岩と呼ばれます)は、山陰の周辺地域で広く活動した火山岩類(山陰火山岩類とも呼ばれています)の仲間です。
 40万~10万年前には、尾山地区の中央部だけに、礫岩(チャートと呼ばれる礫を含む)や砂岩からなる地層(尾山礫層と呼ばれています)が堆積します。
 断層によって形成された地峡部は低くなりました。両地区の結合部である地峡部の沿岸には、今では、砂浜があり海水浴場となっています。海岸の砂をよくみると、貝殻の破片をたくさん含んでいることに気づきます。これは、シェルサンドと呼ばれるもので、貝殻の破片を60~70%ほど含んでいます。海岸の一部の地域で貝殻が集まったような海岸は、局所的ならいくらでもあるのですが、これほど広域にシェルサンドがあるとろは、珍しいのではないでしょうか。日本のどこからにあるのかもしれませんが、私は知りません。もちろん、海外では、とんでもなくすごいシェルサンドはありますが。
 このような砂地は、6000年前ころから、氷河期の海水面の変動と季節風によって砂丘として形成されたものです。尾山地区の中央の北岸にも同じような砂丘堆積物が少しみられます。
 島の中央にできた断層は、2つのまったく違った生い立ちの違う大地を生みました。しかし、その断層によってめくれ上がった大地が、島の生い立ちのまったく違うことを教えてくれています。一つの島で、これほど違った地質を持つものは、珍しいのではないでしょうか。
 地峡部の砂が、断層で境された島の両地区の架け橋となっています。さらに、鳩山と同じ火山岩が、尾山地区と元山地区の架け橋となっています。
 火山岩や砂丘などの架け橋は、1000万年前から6000年前にかけて、地球の営みによってできたものです。そして砂の架け橋ができてから約8000年後に、人は、響灘に角島大橋という人のために架け橋を渡したのです。
 角島は、人との大地との2つの架け橋が、みられるところなのです。

・にぎ女・
万葉集の巻16の3871番に、
角嶋之 迫門乃稚海藻者 人之共 荒有之可杼 吾共者和海藻
という歌ががあります。
現代文で書き下すと、
 角島の
 瀬戸(せと)の稚海藻(わかめ)は
 人の共(むた)
 荒かりしかど
 我れとは和海藻(にきめ)
(詠人知らず)
となります。
この歌の最初にでてくるのが角島です。
万葉時代から
ここで「にきめ」とは、
新鮮なワカメの茎とツワブキのつくだ煮のことです。
地元では、にぎ女(にぎめ)と呼ばれていて、
今でも名産品となっています。

・響灘・
響灘(ひびきなだ)は、なかなか情緒のある言葉です。
響灘は、日本海の西の端にあたり、
島根県西部から、関門海峡付近を通り、
福岡県北部の沿岸付近までの海域のことをいいます。
しかし、その字をよく見ると、情緒があるなどと
いってはいれないような言葉です。
響とは、音や振動が、余韻をもって伝わることです。
灘とは、洋とも書かれることがありますが、
波が荒く、潮の流れも速いところのことです。
灘は、サンズイに難という字ですから、
古くから船で行くことが困難なところとされています。
響灘とは、どうも荒れ狂う海という意味合いで
使われていたのではないでしょうか。

2007-06-15

30 恵山:せめぎあいの恵み(2007.06.15)

 自然の中にはいろいろなせめぎあいがあります。火山と植物もせめぎあっています。火山が噴火すれば、植物は死滅します。しかし噴火がおさまれば、また植物が回復します。火山とはそんなせめぎあいの繰り返しがおきています。

 今年2007年のゴールデンウィークは、4月下旬と5月上旬の2つの連休に分かれていました。私は、家族同伴で、後半の連休の3日間を利用して、恵山に出かけました。
 恵山は、北海道の南部(道南)、渡島半島の東部にあたる亀田半島の東端にあります。私の住む江別市から恵山までは、350kmほどあり、高速道路を利用しても、5、6時間かかるところです。目的地に行くまでに1日仕事となります。連休の初日は天気もよく、高速道路の出口の料金所が渋滞していました。私は、今までゴールデンウィークによく出かけていましたが、北海道の郊外で、渋滞にあったのは、これがはじめての経験でした。
 恵山は、活火山で、618mの標高を持ちます。中腹まで道路があり、登山自体は、半日ですんでしまいます。今回出かけたのは、私は恵山の調査だけが目的でした。かなり遠いので、自宅から恵山まで1日かけて行き、1泊して、翌日の午前中に登山をします。午後は周辺を観光します。そしてもう1泊して、またまた1日かけて帰宅するというものです。
 恵山では、ツツジが名物となっています。エゾヤマツツジとサラサドウダンツツジ、エゾイソツツジなど、60万本ものツツジがあるとされています。それらが満開となる5月下旬から6月いにかけては、多くの観光客が集まります。しかし、ゴールデンウィークでは、まだツツジには早い時期なので、比較的すいていました。ですから、4月に突然思い立った調査なのですが、温泉旅館がとれました。
 私が、恵山に行こうと思ったのは、道南の活火山をみるためです。本当は駒ヶ岳に行きたかったのですが、駒ケ岳は噴火の危険性があるので、現在は登山禁止となっています。ですから、恵山に登ることにしたのでした。
 恵山は、現在も噴気を出している活発な火山で、こんもりとした山容(溶岩ドーム)をしています。このドームの西側は、大きくえぐられた形になっています。これは、もともとドーム状であったものが、2500年前の噴火で壊されたもので、その裾野は広く平坦に(火口原とよばれています)なっています。この火口原から火山の裾野にかけて、ツツジなどの植物が多数自生しています。
 恵山の噴火の歴史をみていくと、安山岩マグマによる活動で、同じ活動を繰り返してきました。最初に火砕流をもとなう爆発的な噴火を起こし、その後溶岩ドームを形成するような激しい噴火を起こします。そして、ドームの崩壊を起こすような小噴火に変わっていき、穏やかな静穏期へと移っていきます。これがひとつの噴火サイクルとなっています。
 溶岩ドームを形成するような激しい火山活動は、3~4万年前、2万年前、8000年前の3回が確認されています。その間、数千年から1、2万年ほどの静穏期の後、再度活動にはいるということを繰り返しているようです。現在は、8000年前に起こった活動の静穏期にあたると考えられます。しかし、完全に休止したわけではなく、大規模な噴火は減っていますが、5000年前、3000年前、2500年前、600年前、そして1846年と1874年に小規模な噴火が記録に残っています。
 1846年の噴火では、溶岩ドームで水蒸気爆発を起こして、小さな火口が形成されました。この噴火で、火山による泥流が発生して、数十名の犠牲者がでたという記録が残されています。
 恵山の海側は、ドームが海上に切り立ったようになっているため、急峻な地形となっています。海を巡る道路もありません。ドームの周辺には、集落が近接しています。もし噴火があれば、大きな被害を出す可能性があります。
 しかし、そんな恵山周辺には、火山のおかげでいくつかの温泉があります。それぞれ泉質も趣きも違っているため、観光資源として利用されています。危険と観光のせめぎあいのなかで、人々は暮らしています。
 恵山の火口原の標高300mあたりまで舗装された道路があり、火口原が行き止まりですが、駐車場が完備されています。そこから火口原の散策コースや登山コースが始まります。私の家族は、登山コースがたどり頂上を目指しました。険しいのぼりが続きますが、眺望が開けた景色、小さな噴気口、ドームの断面を眺める展望台、ドームをつくっている火山岩などを見ることができ、いろいろ楽しみながら、登ることができます。
 子供たちは、頂上に行ったら、津軽海峡越しに、本州の青森が見たいといっていました。登山をした日は天気はよかったのですが、霞がかかっていて、空気が澄んでいませんでした。そのため、残念ながら、青森の下北半島は見ることができませんでした。
 登山道の各所に、安山岩の溶岩がみることができました。その溶岩には、ガスが抜けた跡の穴が、マグマが流れた方向に長く伸びた流理模様を見ることができます。マグマの動きを物語る生々しさがありました。
 登っている途中には、小さな噴気孔がいたるところにありました。現在も噴気を出しているところ、昔出していたが今は出していないところ、そこには黄色いイオウの結晶やその他の沈殿物の結晶などが形成されていました。また風向きが変わると、噴気のガスが流れてきて、イオウのにおいもしてきました。蒸気につつまれ熱さを感じることもありました。やはり、ここは活火山なのです。
 恵山は低い山なので、頂上付近にも植生がありました。私が登った時は、まだ時期が早く、花は咲いていませんでしたが、花の季節なれば、さぞかしきれいだろうなと思いました。
 しかし、山の全面が植生に覆われているわけではありません。静穏期に入っているとはいえ、火山の影響がいたるところに、色濃く残っています。噴煙がまだ出ているところや、崩落が続いているところ、土砂が流れているところでは、まだ火山の勢力が残っています。
 恵山の最後の噴火は、1874年です。ですから、もう130年以上たちます。その間に、植生は回復しました。恵山は、北海道でも、道南に位置し、比較的穏やかな地域です。標高も高くないため、植生の回復には適していたのでしょう。130年前と同じかどうかはわかりませんが、今では植物がせめぎあいに勝っています。そして今では、ツツジの名所として、観光客を集めています。火山にはつきものの温泉も、麓にはいくつもあり、観光に一役買っています。
 私たちが登った日は、晴れの暖かい日でした。しかし、風が強く、頂上でも岩陰に入らないと、体感温度が結構低くなっていました。ですから、あまり長居はできませんでした。風に背を圧されるように山頂を後しました。
 登山をしている間、植生と火山のせめぎあいを、恵山では見ることができます。今は火山の活動も静穏期になっているので、火山と植物のせめぎあいも「恵み」となっている山なのでしょう。

・幻の温泉・
椴法華と書いて「とどほっけ」と読みます。
市町村合併以前は亀田郡椴法華村でしたが
現在では函館市椴法華となります。
恵山の北側の椴法華に水無海浜温泉があります。
海岸に湧いている温泉で、
コンクリートで枠が作られて、浴槽らしくなっています。
しかも、無料の温泉で自由に入れます。
私が行った時は、潮が引きはじめている時でした。
温泉に入ることできました。
私は、ただ見学していただけでしたが、
子供たちがは、足だけを温泉に浸かっていました。
私が訪れたときは、ただの海沿いの温泉でしたが、
この水無海浜温泉は、別名「幻の温泉」と呼ばれています。
それは、この温泉は少々変わっているためです。
満潮の時は、海水が温泉の中まで進入して、冷たくて入ることができません。
干潮で、潮が完全に引くと、今度は、
温泉の温度が50度ほどあるので、
熱くて入ることができません。
ですから、満潮と時は、温泉が消え、
干潮には熱くて入れないという温泉です。
入る時間が限られている「幻の温泉」なのです。

・はしか・
隣の大学ではしかの学生3名がでて、
14日から24日まで、キャンパスへの立ち入りは全面禁止となりました。
その間の大学祭は延期、
オープンキャンパスは中止となりました。
大学の教職員は免疫があるので通常通りの勤務するそうです。
もし、10日間の休みともなると、
いろいろなスケジュールも都合がつかないものも出てきます。
もしかすると、もう潜伏期間にはいっている学生がいるかもしれないと
想像すると、我が大学でもいつ感染するか戦々恐々としています。
無事、流行が収まることを祈っています。

2007-05-15

29 伊豆半島:時間スケール 2007.05.15

 伊豆は、関東の人からすると、手ごろな観光地です。がんばれば日帰りだってできます。観光地だけでなく、海の幸、山の幸、そして温泉もあります。そんな観光地の伊豆をみていきましょう。

 私は、伊豆半島の付け根とも言うべき、湯河原(ゆがわら)に、1999年12月から2002年3月までの2年3ヶ月間、住んでいました。それ以前は、伊豆半島より少し北になりますが、小田原市の足柄(あしがら)平野の中に、4年間住んでいました。ですから。私は、6年間も、伊豆半島の近くに暮らしていたことになります。
 伊豆半島の大部分は、静岡県に属しています。湯河原は神奈川県ですが、街の中を千歳川という川が流れています。その川向こうは静岡県熱海市になっています。ですから、静岡県の伊豆半島は非常に身近な存在でした。
 湯河原は箱根の裏側にあたりますので、私にとって箱根はもちろん身近な存在ですが、箱根だけでなく、伊豆半島にも、身近なものでした。伊豆半島は、いろいろ見所があり、よく出かけたものです。
 私は、伊豆半島でも地質学的に興味のあるところを見に行きました。伊豆半島は、地質学的な見所だけでなく、温泉や観光でもいろいろ見所があるのをご存知の方も多いと思います。ところが、地質の見所と観光名所は、別々のところではなく、共通していることが多いのです。言い換えると、地質学的に面白い現象がみられるところは、観光地としても人気があるところだということです。
 伊豆半島には、いくつもの観光地がありますが、自然の景観が見所となっているところが多数あります。例えば、下田の爪木崎(つめきざき)では亀の甲羅のような不思議な岩場が、奥石廊崎や波勝岬、城ヶ岬海岸では嶮しい断崖絶壁、堂ヶ島では不思議なガケの模様や洞窟、天城の浄蓮の滝や河津の七滝(ななだる)では柱が並んだような岩からできた滝、達磨山や大室山ではなだらかで丸い山、天城山や矢筈山(やはずやま)は険しい山、一碧湖では丸い形の湖などなど、さまざまな景観があり、それぞれが観光地となっています。
 伊豆半島の観光地は、山あり、川あり、海ありで、非常に多彩で、いろいろなタイプの自然の景観を見ることができます。伊豆半島を単に観光地として巡るとあまり気づかないのですが、地質学を学んだことがある人や石に詳しい人には、ある共通点があることに気づきます。
 観光地の多く景観は、溶岩や火山噴出物、水中火山砕屑物がつくるものであったり、火山体自体や噴火口などのマグマの火山活動によってできたものなのです。もちろん、伊豆半島は、火山活動だけでなく、堆積岩からできている地層もあり、その中には化石が見つかることもあります。しかし、伊豆半島では多くの火山活動の痕跡を見ることができます。そして、伊豆半島は、今も活動中の火山地帯なのです。
 伊豆半島周辺をみていくと、活火山は、伊豆半島より北側の富士山と箱根にあり、伊豆半島を飛ばして、伊豆大島にあります。伊豆半島に活火山というのは、ぴんと来ないかも知れません。しかし、かつてニュースにもなって記憶にも残っているかもしれませんが、手石海丘という海底での噴火がありました。
 1989年7月13日、伊東市の沖3kmの海底で起こったこの噴火は、伊豆半島での2700年ぶりの火山噴火なのです。つまり、有史以来、初めての噴火となったのです。ですから、伊豆半島が火山地帯であるのを気づかなかったのも無理はないことなのです。
 伊東周辺には大室山や小室山の丸い山があり、それは小さな火山であることがわかっています。地形図をみると、伊東周辺には、このような小さな火山がたくさんあることがわかります。気象庁は、手石海丘の噴火後、伊東周辺の小さな火山を総称して、伊豆東部火山群と呼びました。
 地質学者は、伊豆東部には、60個ほどの火山があることを知っていましたので、東伊豆火山群と呼んでいました。また、火山は半島の陸上部だけでなく、手石海丘のように、伊豆半島と伊豆大島の間の海底にも40個ほどの火山があることがわかっていました。これらの海底火山は、東伊豆沖海底火山群と呼ばれています。
 気象庁は、陸地と海底の火山を総称して、伊豆東部火山群と呼びました。つまり、伊豆東部火山群は、伊豆半島の東半分と伊豆大島まで続くほどの直径30kmにも達する広い範囲に及ぶ火山地帯だったのです。その規模は伊豆大島や箱根より広く、富士山に匹敵するほどだったのです。
 伊豆東部火山群は、活動地域が富士山や箱根、伊豆大島と肩を並べるほどですが、火山の形や活動様式には大きな違いがあることがわかります。
 富士山や箱根、伊豆大島は同じような場所で何度も火山活動を起こしています。ですから、火山自体が非常に大きく高い山となります。このような火山は、一度の活動で終わるのではなく、何度も繰り返し活動しています。ですから複成火山と呼ばれています。
 一方、伊豆東部火山群は、大室山や小室山のように比較的小さい火山がほとんどです。古い時代の火山の形は、風化侵食で変わっていたり、マグマの種類によって形の様々ですが、小規模で一度の火山活動でできた火山であることがわかっています。このような火山を単成火山と呼んでいます。ですから、伊豆東部火山群を、地質学者は東伊豆単成火山群と呼んでいました。
 手石海丘の噴火は有史以来はじめての記録でしたが、東伊豆単成火山群は、15万年前ころから活動をはじめました。
 知られている最初の火山活動は、天城高原近くの遠笠山でした。13万年前には高塚山、長者原、巣雲山の3つの火山が活動しました。10万年前には伊東市南部でいくつもの火山が噴火し、一碧湖が噴火口として残っています。4万年前に鉢ノ山が、2万5000年前に登り尾南が噴火し河津七滝をつくる溶岩が出ました。1万7000年前に鉢窪山と丸山が噴火し、浄蓮の滝をつくっている溶岩が流れました。1万4000年前には小室山が噴火、4000年前には大室山が噴火し、城ヶ崎の溶岩をつくりました。3200年前に、天城山が噴火し、何度も軽石の噴出や火砕流が発生しました。2700年前に、天城山の北東斜面でいくつもの火山噴火が起こり、それ以降しばらく火山活動がおさまっていました。
 そして、1989年の手石海丘の噴火になったのです。ほんの2700年ほど休止期間があっただけでの活動です。それ以前の火山活動には、もっと長い休止期がありました。
 東伊豆単成火山群は、このような噴火の歴史をもっているのですが、人間の歴史には火山活動の記録は残されていませんでした。仕方がありません。地質学などない時代ですから、過去の火山活動を知ることはできませんでした。しかし現在では、火山活動が活発に起こっている地域であることがわかっています。ですから、伊豆東部火山群は、活火山に分類されています。
 人間にとっては、手石海丘の噴火は、有史以来はじめての経験だったのですが、地質学的はたまたまここしばらく活動がなかっただけの時期にすぎなかったのです。人間の残した記録は、大地や自然の記録とは、時間スケールが違っています。ですから、大地や自然の見方も、大地や自然の時間スケールで見ていく必要があります。そんなことが、伊豆の観光地から垣間見ることができます。

・心の目・
北海道の私が住む町では、暖かくなり、今が桜の盛りです。
このような気候や花の変化が、季節の巡り教えてくれます。
季節の巡りは、もちろん自然の時間の流れです。
しかし、今回のエッセイでも示したように
非常にゆっくりとした万年、億年の時間の流れも自然にはあります。
自然はあまりに壮大です。
時間という見方をしても、
風の動きや天気の移り変わりのような秒や分、時の時間スケール
太陽や月の動きのような日や月の時間スケール
季節の星座の変化のよな月や年の時間スケール
火山活動のような100年や万年の時間スケール
大地の変動のような億年の時間スケール
など、あまりに多様です。
このような自然の多様なスケールを見るには
人ももっと多様なスケールをみる心の目が必要なのでしょうね。

2007-04-15

28 神居古潭:人が行き交う渓谷 2007.04.15

 渓谷は、急流があり、交通にとっては障害となります。しかし、交通の要所となる渓谷には、古くから人が行き交ってきた歴史があります。岩に穿たれた穴から、そんな歴史を、垣間見ることができます。

 北海道の石狩川は、日本海に注ぐ、日本でも有数の大河です。石狩川は、河口から石狩平野を東に向かい、次に北に向きを変えます。本流からは、豊平川、千歳川、夕張川、空知川、雨竜川などの支流が分かれていきます。河口の石狩から江別、岩見沢、滝川、深川の町をへて、平野から渓谷に入ります。渓谷の先は、旭川がある広い上川盆地に抜けます。
 旭川は大きな町ですし、北見やオホーツクに向かう山越えの交通路にもあたり、渓谷沿いは重要な役割を果たしています。この深川と旭川の間にある渓谷は、神居古潭(かむいこたん)渓谷と呼ばれています。
 漢字で書かれていますが、アイヌ語に漢字をあてて地名としています。神居古潭のカムイとは「神」を意味し、コタンは「いるところ」という意味です。非常にうまく漢字をあてていると感心します。
 アイヌ語の地名があるということは、古くから神居古潭周辺にはアイヌの人が住んでいたこということになります。神居古潭の近辺には、竪穴式住居跡やストーンサークルなどの遺跡があり、縄文時代から人が住んでいたことがわかります。
 神居古潭は3kmほどの渓谷で、狭く急峻な地形です。そのため、重要な交通路でありながら、難所となっています。水上交通を利用していたアイヌの人だけでなく、鉄道や自動車を利用する現代人にとっても、神居古潭渓谷は、難所となっています。
 現在でも渓谷の嶮しさは変わりませんが、トンネルを使って、この難所を通り抜けています。私は、自動車で高速道路や国道、JRでも神居古潭を通りぬけていますが、トンネルを通ることになります。ですから、難所と感じることなく通過しています。多分、多くの人もそうだろうと思います。
 トンネルを通っている時は、岩石をみることはできませんが、旧道に入れば、渓谷を味わうことができます。旧道のドライブインのあるところから、石狩川にかかったつり橋を渡ることができます。このつり橋から、渓谷を眺めることができます。
 つり橋を渡った対岸には、函館本線の旧線にあった神居古潭駅があります。現在は駅としては使われてませんが、公園として整備されていて、駅舎も休息所として利用でき、SLも展示されています。
 神居古潭が渓谷となっているのは、固い岩石が出ているためです。どのような岩石がでているかというと、これがまた、なかなか面白い岩石なのです。
 北海道の地形を見ると、南北に伸びる山脈が走っています。日高山脈から大雪山にいたる山脈が主稜線をつくっています。しかし、よく見ると、その西側に、見え隠れしながらもうひとつの山脈が平行してあることがわかります。日高山脈の西側では、わかりにくいのですが、山並みがあります。そして北には、夕張山地から手塩山地へと続く明瞭な山並みがあります。夕張山地と天塩山地のつなぎ目が、神居古潭渓谷にあたります。
 日高山脈は変成岩や火成岩と堆積岩からできています。その西側は、神居古潭帯と呼ばれ、蛇紋岩と変成岩を主体とする岩石からできます。北海道の地殻変動は、プレートが東西方向にぶつかることでおこったため、大地の割れ目は、南北に伸びる方向に形成され、現在のような南北に伸びる山脈となったのです。これが日高山脈や神居古潭帯のでき方の概略です。
 日高山脈や神居古潭帯の山並みをつくる岩石でありながら、その性質は両者では大きく異なっています。
 神居古潭帯を構成する代表的な岩石は、蛇紋岩です。この蛇紋岩は、変わった岩石なのです。蛇紋岩は、濃い緑でテカテカとして、まだら模様となることがあり、文字通りヘビの紋のような見かけを示すことがある岩石です。
 蛇紋岩は、もともとマントルを構成していた岩石(カンラン岩と呼ばれています)が、地殻変動により、水を含み蛇紋岩となり密度が小さくなり、上昇してきたものです。蛇紋岩は、水の含む程度によって岩石の性質や見かけが変わり、含まれる水が少なければ比較的しっかりとした岩石になります。しかし、水をたくさん含むと、すべすべとして滑りやすく、侵食されやすい岩石となります。
 地下深部で蛇紋岩となった岩石が上昇する時、周囲にあった変成岩を取り込んで上がってくることがよくあります。これが神居古潭帯をつっている岩石の生い立ちです。
 神居古潭帯の南部で明瞭な山脈をなさなかったのは、水をたくさん含む蛇紋岩となっているためです。手塩山地にかけて明瞭な山地があるのは、水が少なく比較的しっかりした蛇紋岩(塊状蛇紋岩とよばれています)であるためです。また、夕張山地は、柔らかい蛇紋岩からできているのですが、蛇紋岩に取り込まれた固い変成岩を多く含み、それが高まりになっているです。
 水を含む蛇紋岩が出ているところは、崩れやすくトンネルも作りにくく、道路造成において、困難な工事となります。特に神居古潭帯南部や日高山脈では、北海道の東西の交通路をつくるとき、神居古潭帯の弱い蛇紋岩と日高山脈の高い山並みが、工事を困難にしています。
 神居古潭は今も昔も交通の要所ですが、固い岩石がでているためにトンネルができ、スムースに通行することができるようになりました。しかし、旧道にでて、渓谷を眺めてみると、昔のままの石狩川がそこにあります。
 つり橋や河岸から、川岸の石をよく見ると甌穴(おうけつ)と呼ばれるものが、たくさん見えます。甌穴とは、岩にあいた穴のことです。もともとは岩のくぼみであったのが、小さな石が水流のなかで回り、穴を深く掘りこんでいきます。このような現象が、長い時間かけて繰り返し起こると、固い岩でも深い穴が形成されていきます。
 甌穴の起源について、アイヌの伝承(ユーカラ)として、つぎのようなものが残されています。
 神居古潭には、ニッネカムイ(悪い神様という意味)が住んでいました。ニッネカムイは、ここを通るアイヌをおぼれさせようしてと、大きな岩を投げ込みました。いい神様であるヌプリカムイ(山の神様という意味)が、岩をよけようとして、ニッネカムイと争いになりました。その時、英雄サマイクルが、ヌプリカムイに加勢しました。形勢が悪くなったニッネカムイは逃げようとしたのですが、川岸の泥に埋まり、身動きができなくなりました。その時を逃さず、サマイクルがニッネカムイを切り殺しました。ニッネカムイが足を取られた跡が甌穴になったと伝えられています。周辺にはニッネカムイの首やサマイクルの砦とされる奇岩もあります。
 このようなユーカラができるもの、神居古潭渓谷が、古くから交通の要所でもあり、難所でもあったため、よく観察さていたためでしょう。現在でも、トンネル工事では、岩石が詳しく調べられます。そして安全性を確認されます。しかし、そのを通行する人々は、多くの人が苦労して確保した安全な交通によって、その嶮しさを気づかずに通り過ぎていきます。

・昔ながらの景観・
このメールマガジンためのホームページを作成するために、
共同研究をしている北海道地図株式会社は、
旭川に本社があります。
神居古潭渓谷を抜けたすぐのところに、本社があります。
私は、何度か出かけているのですが、
そのたびに、国道のトンネルを通り抜けています。
交通の要所なのですが、トンネルのため、
トンネルの切れ目からちらりと渓谷が眺められるだけです。
トンネルができたおかげで、
渓谷自体には開発が入らず、昔のままの自然を残しています。
アイヌの人たちが見たのと同じような季節の移ろいを
今でも見ることができます。
そして、カムイのユーカラに思いはせてみるのもいいのではないでしょうか。
北海道は、これから春を迎えて、いい季節となります。

・新学期・
新学期です。春です。
私の職場(大学)も家庭(次男)でも、入学の季節となりました。
北海道は、桜にはまだ早いのですが、
フキノトウや春に咲く木の新芽などが見えてきました。
道路の雪やすべてとけ、雪捨て場や軒下などで、
ところどろこに雪が残るだけとなりました。
今年は大学で、新入生のゼミを担当することになりました。
2年間の担任も含んでいます。
創設2年目の新学科ですので、
初めてのことばかりも多く、
戸惑いもあります。
希望に燃えた若者と接するのは楽しいです。
それなりに気も使いますが。

2007-03-15

27 大山:火山と人間の休止期の差 2007.03.15

 火山、長い休止期を経た後、活動することがあります。それは、人間には、なかなかマネのできないことです。今回は、長い休止期をもっている火山を紹介しましょう。

 鳥取県中央部の山合いに三朝(みささ)温泉があります。三朝温泉は、倉吉市で海にそそぐ天神(てんじん)川の支流の三徳(みとく)川の上流域の三朝町にあります。そんな三朝町に、私は5年間住んでいました。
 当時、大学の研究所が三朝温泉の少し下流側にあったのです。その研究所に、修士課程の学生として2年、しばらく間を置いて、博士課程終了後の研究生として1年、続けて学術振興会特別研究員の2年、あわせて5年いたことになります。後半の3年間は、特に集中して研究しました。
 その後私は、転々と移転を繰り返していたのですが、移転と共に、研究テーマも変わっていきました。公務員でもあったので、研究所に行くことがなく、興味も移ってきました。その後、研究所は、改組や建物の増改築などもあり、大きく変わりしてしまいました。当時のスタッフたちは、まだ何人もおられますが、大きく変わったようです。
 三朝に住んでいた時、大きな町は倉吉市でしたので、よく出かけていました。そんな時、町や日本海沿いでは、西の方に雄大で大きな山が見えました。大山でした。
 大山と書いて、「だいせん」と読みます。大山周辺の山には、「山」を「せん」と読む地名があります。扇ノ山(おおぎのせん)、氷ノ山(ひょうのせん)、蒜山(ひるぜん、上・中・下の3つの頂上があります)、須賀ノ山(すがのせん)、那岐山(なぎせん)などがあります。
 「せん」という読み方は、めずらしく感じますが、音読みとして、「さん」は漢音ですが、「せん」いう読み方が呉音としてあります。山岳宗教の影響もあると考えられていますが、中国地方に「せん」という山の名前が残っているのは不思議です。
 大山は、出雲国風土記では「大神岳(おおかみのたけ)」と呼ばれ、奈良時代以降、山岳信仰の対象の山となっています。大山は、明治の廃仏毀釈までは、大山寺の寺領なっており、一般人の登山が禁止されていました。
 大山は、富士山のような形をしている非常に雄大な山です。富士山のように見えることから、古くから、伯耆富士(ほうきふじ)、あるいは出雲富士(いずもふじ)と呼ばれています。
 大山は、火山です。大山は、北側に広い裾野を持っている風格のある成層火山です。大山の北の裾野は日本海に達しています。国道も鉄道も、大山の裾野を通っています。ですから、これらの場所から、雄大な大山を眺めることができます。
 成層火山は、溶岩や火山灰などの多様な火山噴出物からできます。裾野がなだらかなのは、火山噴出物が繰り返し堆積したためです。また、火山灰は、風化されば、肥沃な土壌になり、大山の裾野は、農耕地帯として田園風景が広がっています。
 車窓から眺める大山の裾野には、田畑の中に、深く削られた谷筋を多数見ることができます。その谷は、大山の山頂に向かっているように見えます。
 谷となっている深い溝は、侵食によるものです。溶岩は固いですが、火山灰などは、柔らかく侵食を受けやすいものです。新しい火山で現在も活動をしていれば、侵食されても火山噴出で堆積を繰り返すので、穏やかな裾野のままでいます。しかし、成層火山でも、活動を長くして休止しているものは、侵食だけが進みます。大山も、そのような火山です。
 大山は、約180万年前から活動をはじめています。その間に数1000年から数万年の休止期をはさみながら、50万年前ころまでに、巨大なカルデラができたと考えられています。このようなカルデラをつくった活動を古期とされています。
 そこに5万年から1万年前にかけて、新期の活動が起こります。新期の火山活動は、現在の山頂を構成している溶岩ドームと呼ばれるものを形成しました。大山をつくったマグマは、安山岩からデイサイトの性質を持つものがほとんどで、時には激しい噴火をしました。
 5万年前のプリニー式とよばれる激しい噴火は、大量の火山噴出物を放出しました。このときの火山灰は、大山倉吉軽石(大山火山灰層とも呼ばれることがあります)とよばれており、大山周辺では数mほどの厚さがあり、鳥取県東部では1mから数10cmほどの厚さとなります。大山倉吉軽石は、遠くまで風にとって運ばれました。北陸、信州、北関東、遠くは福島まで確認されています。このような広域に広がっているの火山灰で時代のはっきりしているものは、広域テフラと呼ばれ、地層の時代区分に利用されています。大山倉吉軽石も広域テフラです。
 2万年前に、激しい火山活動があり、大量の火砕流が流れ、溶岩ドームなどが形成されました。このときにできたのが、弥山(みせん、1709m)、三鈷峰(さんこほう、1516m)、烏ヶ山(からすがせん、1448m)の3つの溶岩ドームです。
 弥山と三鈷峰は隣接していて、これら2つのドームが現在の大山の主稜線をつくっています。烏ヶ山は弥山からみると南東側にあたります。弥山の北東側に三鈷峰はあります。弥山から東に続く稜線は、一等三角点(1710.5m)を通り、最高点の剣ヶ峰(けんがみね、1729m)にいたり、そこから北に曲がって、三鈷峰に至ります。
 大山の火山活動は、約1万年前で終わりました。それ以降、噴火記録の記録はありません。1万年前以降、火山活動をしていないため、大山は侵食を受け続けています。裾野では、柔らかな火山灰を、流水が侵食していったのです。裾野の深い谷は、そのような侵食の証拠なのです。
 大山の主稜線を形づくっている弥山と三鈷峰の溶岩ドームでも侵食は進んでいます。その北側の裾野から、弥山の山頂までは、登山可能す。しかし、弥山から三鈷峰にいたる稜線は、急峻で侵食が激しく崩れやすく、現在、縦走が禁止されています。
 稜線は特に南と北向き斜面での浸食が激しく、ふもとからみるとまるで切り立った壁のように見え、それぞれ南壁と北壁と呼ばれています。北壁の下は、元谷と呼ばれ、元谷の下流側には大神山神社の奥宮や大山寺があります。
 地表のでっぱりが、侵食を受けるのは、自然の節理でもあります。特に、日本海側に面する山陰地方は、季節風や風雪により、浸食を受けやすい環境です。まして、1万年前から活動をしていない火山ですから、大山は激しく浸食を受けています。
 大山は、遠目で見ると穏やかな山容にみえますが、山頂周辺の稜線が嶮しいのは、激しい侵食という理由があったのです。
 ただ、1980年代から、大山への登山者の急増によって、登山ルート周辺が踏み荒らされ、緑がなくなり、雨水による浸食が激しくなりました。これらは、人為による自然破壊が起こっていると考えられています。そのため、「一木一石運動」が、官民協同して取り組まれました。その運動によって、登山者は、一つの石を持って登って浸食溝をうめたり、植物の苗を植えたり、木道を整備したりして、徐々にでありますが、自然が回復つつあるようです。
 大山全体の侵食は、1万年間、活動をしていないためです。しかし、上でも述べましたように、大山は、数万年以上の長い休止期間の後に、再度火山活動を行ったことが知られています。ですから、大山がもう活動をやめた火山と見なすのは、危険なことです。
 私が三朝の研究所にいた時は、ある元素の分析(鉛の同位体)を中心に研究をおこなっていました。その元素を、非常の微量でも化学的に抽出する手法や装置で分析する方法などを、いろいろ試行錯誤しながら、3年間で完成させていきました。今もその手法は、研究所で改善されて利用されています。
 私は、三朝で行っていた研究は、転職後も続けるつもりでいました。しばらくは、環境が整わないので、その研究テーマは休止のつもりでいました。私は、別のことに興味を持ち出すと、そちらにのめり込んでしまうタイプです。ですから、現在ではその研究テーマは、休止から中止になってきました。
 研究所を離れて早16年もたちました。しかし、研究所時代のことは、今も思い出します。当時は、若さにまかせて、強い目的意識に突き動かされながら、夜昼なく研究に没頭していました。その結果、非常に苦労して目的を達成したことは、その後の人生を送っていく時に、大きな自信を与えてくれました。
 現在の私には、そのような分析から離れて、長い時間が過ぎ去りました。昨年秋、近くの大学にいる先輩から、当時私がやっていた元素の分析について話をしたいという連絡を受けました。私は、関連する資料を携えて先輩のいる大学に出かけました。彼も、ある故人の先輩から、その分析をすることが頼まれていたので、なんとか叶えたいということでした。大学院生が、その元素の分析ができるように、手助けをしてくれと頼まれました。私は引き受けたのですが、彼らも私も、どうも気力が湧かないようなので、分析はうやむやになってしまいました。
 人間は、一度中止という気持ちを持つと、以前のような気持ちに再度高めるのはなかなか困難なようです。まして、今別のことに興味をもっているとなおさらです。私は、今の興味に活動中なのです。

・露天風呂・
三朝温泉街の三徳川に三朝大橋があります。
その橋の袂の川原には、「河原風呂」と呼ばれている
無料の露天風呂があります。
脱衣所は男女別にありますが、湯船は混浴です。
メインストリートのある橋から丸見えの露天風呂なので、
入るのにはなかなか勇気が要ります。
三朝に住んでいた時は、何度か入ったことがありますが、
数えるほどしかありません。
それは研究所内に職員用の温泉があったからです。

・甲子園の土・
甲子園球場のあるとことは、もともと砂地で、土も白っぽいところでした。
そのため、ボールが見にくいという問題がありました。
ボールを見やすくするために、
黒っぽい色の土を混ぜるということが考えられました。
当初は淡路島の土を混ぜていたのですが、
現在では、白砂は中国福建省のものを
黒土は、大山の火山灰を混ぜて使われています。
大山の火山灰の最上位層にあたる「黒ぼく」と呼ばれる土です。
季節の雨量と日差しの違いで、
春には砂を多く、夏には黒土を多くしているそうです。