小林憲正著「アストロバイオロジー」
(ISBN978-4-00-007487-2 C0344)
を読んだ。
生物学が地球生物がであるのに対し、
宇宙生物学が必要だというのは、
同感である。
私も講義や、エッセイでも書いてきたことである。
宇宙生物学とは別の分野があるので、
紛らわしさをなくすために、
アストロバイオロジーという名称で
呼ぼうという。
そのためにこのような書名になったのである。
内容的には、ほぼホローしていたことでったが、
分子合成の現状や
他天体の生命存在の可能性、
また生物防護や宇宙検疫などの考えなどは、
なかなか面白かった。
2009-03-19
EarthEssay 1_79 広い回廊:メッシニアン塩分危機4(2009.03.19)
Time:
0:00
●
Geologist
EarthEssay
1_79 広い回廊:メッシニアン塩分危機4
を発行しました。
地中海と大西洋がつながっているところは、
ジブラルタル海峡と呼ばれています。
この海峡は、狭く、海路交通の要所となっています。
アフリカとヨーロッパの接点でもあります。
そのため、政治、宗教、軍事などの要ともなっています。
このジブラルタル海峡は、
メッシニアン塩分危機以降にできたものでした。
1_79 広い回廊:メッシニアン塩分危機4
を発行しました。
地中海と大西洋がつながっているところは、
ジブラルタル海峡と呼ばれています。
この海峡は、狭く、海路交通の要所となっています。
アフリカとヨーロッパの接点でもあります。
そのため、政治、宗教、軍事などの要ともなっています。
このジブラルタル海峡は、
メッシニアン塩分危機以降にできたものでした。
2009-03-18
●人間関係:No. 2803 2009.03.18
Time:
7:28
●
Geologist
ポプラ。江別市文京台
夜半に雨が降った。
朝にはあがっていたが、
雲の多い朝である。
暖かい日である。
今朝、歩いていると、
よく見かける人が声をかけてきた。
その人は犬の散歩をさせているおじさんで、
いつも顔を合わしているが、
挨拶もしたこともない人である。
聞くと、見たことのない鳥が、
電柱の上に止まっているというのである。
見るとカモメのようであった。
色が黒ではなくまだ灰色ぽっかたので、
若鶏なのだろう。
それを説明した。
知っている名前の鳥だったので、
安心したよう。
それでお互いに分かれた。
なぜここまで飛んできたのはわからないが、
海までそれほど離れてはいないので
飛んできてもいいのだが、珍しいことだ。
それより、朝いつも見かけている人と
接点がなかったが、
これで接点が出来た。
これから目が合えば
挨拶を交わす関係ができたのだ。
他にも、何のきっかけのなし、
何人も挨拶をしている人もいる。
人間関係なんてものは、
ふとしたことをきっかけに
始まることもあるだ。
●超高速右脳読書法:No. 2802 2009.03.18
Time:
7:11
●
Geologist
中谷彰浩著「超高速右脳読書法」
(ISBN4-478-70274-8 C0012)
を読んだ。
軽い内容であり、
右脳読書の利点、
左脳読書の欠点、
本読む人の利点。
読まない人の欠点などを
つぎつぎと羅列されている本である。
流し読み。
(ISBN4-478-70274-8 C0012)
を読んだ。
軽い内容であり、
右脳読書の利点、
左脳読書の欠点、
本読む人の利点。
読まない人の欠点などを
つぎつぎと羅列されている本である。
流し読み。
●地学のツボ:No. 2801 2009.03.18
Time:
7:06
●
Geologist
鎌田浩毅著「地学のツボ」
(ISBN978-4-480-68804-0 C0244)
を読んだ。
鎌田氏が、教養の講義としておこなっている
内容をまとまたそうだ。
ほぼ知っている内容であり、
私にとっては新鮮な部分はなかった。
そのため、走り読みをした。
(ISBN978-4-480-68804-0 C0244)
を読んだ。
鎌田氏が、教養の講義としておこなっている
内容をまとまたそうだ。
ほぼ知っている内容であり、
私にとっては新鮮な部分はなかった。
そのため、走り読みをした。
2009-03-17
●悩みの深さ:No. 2800 2009.03.17
Time:
7:11
●
Geologist
街灯。江別市文京台
今朝は、明け方まで雨が降っていたようである。
道路が濡れていた。
気温も高く暖かい。
手袋を薄手のものしたが、
寒くもなく、ちょうどいいくらいだ。
昨日学生とあった。
将来について決断を下した学生が、
また悩みだしていることがわかった。
人の意見に流され、状況に流され、
だが本位ではないという気持ちがあるようだ。
しかし、そのままの気持ちで進むことは、
自分にとって不利なことになるにちがいない。
自分の道を見極めるべきだと私は思う。
だが、私からそれを強要するわけにはいかない。
自分で決めるしかない。
ただ、寄り添っていくしかない。
人の悩みの深さが、染みてくる。
●ホワイトハウスの記憶速読術:No. 2799 2009.03.17
Time:
6:56
●
Geologist
斎藤英治著「ホワイトハウスの記憶速読術」
(ISBN4-575-15303-6 C0295)
を読んだ。
速読といいながら、
その技術については
どこにも書いてあるようなものが書かれていた。
新規性、独創性がない。
そしで著者自身の速読の実践方法が
あまりほめられたものでもないし、
役に立つものではない。
なんとなく自己満足な内容にみえた。
内容に重複が多、あまりためにならなかった。
しかし、読み流さずに
しっかり読んでしまったのが
残念に思える。
(ISBN4-575-15303-6 C0295)
を読んだ。
速読といいながら、
その技術については
どこにも書いてあるようなものが書かれていた。
新規性、独創性がない。
そしで著者自身の速読の実践方法が
あまりほめられたものでもないし、
役に立つものではない。
なんとなく自己満足な内容にみえた。
内容に重複が多、あまりためにならなかった。
しかし、読み流さずに
しっかり読んでしまったのが
残念に思える。
2009-03-16
●迷えるものたちに:No. 2798 2009.03.16
Time:
8:21
●
Geologist

ハルニレ。江別市文京台
今朝は、どんよりとした雲の多い天気だ。
しかし、気温は高く、暖かい。
0度前後の気温のようで、
雪が解けているところと
凍っているところがある。
昨日積もった雪も
跡形もなく溶けている。
春はもうすぐそこまで来ている。
今日学生の面談することにしている。
これから4年生になる学生だが、
迷いが生じているような学生に対して、
多数の選択肢の中から
なんとか望むものを
選んでもらうように促すためだ。
大学は、2月から3月は授業がないので、
教員と学生の距離が広がり、
コミュニケーションが足りなくなる。
だから迷いが生じたとき
適切なとき手助けを出来ないことである。
それを今回やろうとしている。
ディスクの整理をすることにした。
どれくらいのデータをかかえているのかを
ハードディスクごとに整理するのである。
以前やったのを見たら、昨年の春におこなっている。
ハードディスクがいっぱいになったので、
大幅に整理したためである。
今回もその整理をしていくことにする。
まあ実際には、フォルダーサイズを調べるソフトを起動し、
ディスクごとにチェックしていくだけである。
ただ、容量が多いと時間がかかるが、
その間、ほかの事をしていればいいのだ。
それよりも今後の、ポータブルハードディスクと
パソコンの全体について考えたほうがいい。
その辺を考えながら整理をしていこう。
あと10日ほどで旅行に出かける。
その間の準備をしていく必要がある。
急にはできないので、今から準備をしていく。
その準備とは、メールマガジンの発行である。
週刊を2号分、月刊を1号分を用意して
発行予約をすることになる。
その原稿を書いていくことになる。
2009-03-15
●ポータブルハードディスク:No. 2797 2009.03.15
Time:
6:15
●
Geologist
昨日は夜から大荒れの天気であった。
家が震えるほどの風が吹き、雪も降った。
朝は積雪量はそれほどもでもないが
雪景色となっていた。
気温はそれほど低いわけではない。
昨日は、一日ポータブルハードディスクの
復元に取り組んだ。
最後には再フォーマットまでいった。
それでもエラーが出てきた。
昨夜、いよいよ最後の手段として、
セクターの全面チェックをはじめた。
時間がかかるので、
そのまま作業をさせて寝てしまった。
今朝はチェックが終わり立ち上がったので、
そのまま使用している。
パソコンのハードディスクを
使用して作業しているから、
実際のデータが壊れるような
問題は生じていない。
不幸中の幸いであった。
持ち歩くハードディスクに
余り大量のデータを入れておくのは、
考えものだ。
もしものとき、被害が大きく、
復旧に時間もかかるからだ。
私は、ポータブルハードディスクには、
一番重要なデータである
ワーキングデータ45GBを常に最新状態にして
持ち歩いている。
自宅のパソコンに転送して
研究室の作業をそのまま自宅でも
できるようにするためだ。
過去のデータストックが50GB
電子辞書3GB
地質旅行120GB
地図データ81GB
音楽データ21GB
写真ストック18GB
300GBほどのデータがはいっていた。
もしこれ全部をコピーするとなると
膨大な時間がかかる。
ちなみに昨日50GBほどコピーしたら
1時間以上かかかった。
もう少しコンパクトにして持ち歩いた方が、
何かあったときに被害も少ないという気がする。
これは、早急に対処しなければならない。
家が震えるほどの風が吹き、雪も降った。
朝は積雪量はそれほどもでもないが
雪景色となっていた。
気温はそれほど低いわけではない。
昨日は、一日ポータブルハードディスクの
復元に取り組んだ。
最後には再フォーマットまでいった。
それでもエラーが出てきた。
昨夜、いよいよ最後の手段として、
セクターの全面チェックをはじめた。
時間がかかるので、
そのまま作業をさせて寝てしまった。
今朝はチェックが終わり立ち上がったので、
そのまま使用している。
パソコンのハードディスクを
使用して作業しているから、
実際のデータが壊れるような
問題は生じていない。
不幸中の幸いであった。
持ち歩くハードディスクに
余り大量のデータを入れておくのは、
考えものだ。
もしものとき、被害が大きく、
復旧に時間もかかるからだ。
私は、ポータブルハードディスクには、
一番重要なデータである
ワーキングデータ45GBを常に最新状態にして
持ち歩いている。
自宅のパソコンに転送して
研究室の作業をそのまま自宅でも
できるようにするためだ。
過去のデータストックが50GB
電子辞書3GB
地質旅行120GB
地図データ81GB
音楽データ21GB
写真ストック18GB
300GBほどのデータがはいっていた。
もしこれ全部をコピーするとなると
膨大な時間がかかる。
ちなみに昨日50GBほどコピーしたら
1時間以上かかかった。
もう少しコンパクトにして持ち歩いた方が、
何かあったときに被害も少ないという気がする。
これは、早急に対処しなければならない。
●珊瑚朗先生無頼控:No. 2796 2009.03.15
Time:
5:45
●
Geologist
竹内真著「シチュエーションパズルの攻防
珊瑚朗先生無頼控」
(ISBN978-4-488-02527-4 C0093)
を読んだ。
安楽椅子探偵のパターンの
短編ミステリー集である。
ただし大小説家の珊瑚朗先生は
安楽椅子に座って
謎を解くのではなく
銀座のバーのソファで
女の子をはべらせながら
酒を飲んで謎を解いていく。
そしてその謎解きには、
いくつものドンでん返しがある。
なかなか面白い話であった。
珊瑚朗先生無頼控」
(ISBN978-4-488-02527-4 C0093)
を読んだ。
安楽椅子探偵のパターンの
短編ミステリー集である。
ただし大小説家の珊瑚朗先生は
安楽椅子に座って
謎を解くのではなく
銀座のバーのソファで
女の子をはべらせながら
酒を飲んで謎を解いていく。
そしてその謎解きには、
いくつものドンでん返しがある。
なかなか面白い話であった。
51 増毛:ライマンの見た断崖
Time:
0:00
●
Geologist
札幌からほんの1、2時間ほどのところに、増毛という町があります。今では、海岸沿いに国道ができ、短時間で行けてしまいますが、かつては陸の孤島として近寄りがたい断崖が連なる地域でした。そんな険しい海岸も、昔、アメリカの地質学者が調査をしていました。そんな地質学者の足跡をたどりながら、断崖を眺めましょう。
増毛と書いて、「ましけ」と読みます。北海道の地名です。語源は、アイヌ語の「マシュキニ」や「マシュケ」、「マシケナイ」から由来しているといわれています。「マシュキニ」の意味は、「カモメの多い所」ということで、海に面した増毛の昔の様子を表しています。
増毛に列車で行くためには、札幌から函館本線に乗ります。函館本線は、函館から小樽を回るコースで札幌に出て、さらに旭川に向かう、全長420kmの路線になります。札幌から、北に向かいます。深川で、函館本線から、留萌本線に乗り換えます。留萌本線は、深川から留萌を通り、増毛まで通じる70km弱の路線です。ここより先は線路もなく、増毛が終着駅となります。
そのコースとは逆を通って、大学生時代、増毛から札幌まで帰ったことがあります。暑寒別岳(1491m)に雨龍沼側から登り、縦走して降りたところが増毛だったのです。友人と二人で、暑寒別岳を縦走しましたのは、6月上旬でした。麓には春が来ていたのですが、雨竜沼から上は残雪の中を歩くことになりました。この登山は、マイカーなどない学生時代ですから、行きも列車、帰りも列車でした。
その後、北海道に移住して、車で増毛に行きました。増毛は、今では漁港がある小さな町ですが、かつては多くの人口を抱えた栄えた町でした。留萌が留萌支庁の中心になっていますが、かつては、増毛支庁として増毛がこの地域の中心地となっていました。
増毛では、江戸時代からニシン漁が盛んで、栄えていました。いまでも、その名残の建物が増毛には見られます。ニシンの群れ(群来「くき」と呼ばれていました)が来ると、カモメが餌として捕るために海面に群れていたのです。その様子から、「カモメの多い所」(マシュキニ)という名称がついたのでしょう。「石狩挽歌」という歌にも「ゴメ(ウミネコのこと)が鳴くから、ニシンが来る」という歌詞があります。これは、海鳥がニシンの産卵が始まるの察知して群れている光景を歌ったものです。
明治には、ニシン漁によって栄えた増毛までの交通路として、鉄道が早い時期から整備されました。ニシン漁による賑わいは、昭和初期まで続き、現在もその名残として建築物が残されているのです。だから、留萌の先の増毛まで鉄道が通じているのです。
ところが、増毛より先は、険しい海岸線が続き、通行の難所として古くから恐れられていました。1981年に国道231号が開通して、冬でも往来ができますが、それ以前は、海岸にへばりつくようにしてあった雄冬などの村々は、海の荒れてないときに、船で行くしかない陸の孤島となっていました。
日本の地質学を興した、お雇い外国人として来日したライマンも、調査のために、このルートを通っています。
ライマン(Benjamin Smith Lyman、1835年12月11日-1920年8月30日)は、明治6(1873年)年1月18日に来日し、4月下旬には函館にきています。その後7ヶ月をかけて第一回北海道調査で道南部をおこなっています。その翌年の明治7(1874年)5月20日からは、第二回北海道調査を行っています。その後明治8(1875)年にも、茅沼・空知の炭田を精査しています。
第二回北海道調査は、長距離、そして長期にわるものでした。ライマンが、増毛を訪れたのは、この第二回目の調査のときでした。
函館を5月26日に発ち、室蘭、苫小牧、札幌を経て、石狩川を遡上、そして十勝川の支流の音更川を下り、十勝川河口の大津に8月5日に着きます。その後、休むまもなく、海岸線を、広尾(8月6日)から反時計回りに石狩までたどります。その途中、増毛から厚田にいたる険路を通っています。
北海道の地図を見るとわかりますが、ライマンの通った海岸ルートで、知床とこの増毛が一番険しいルートになります。当時知床の海岸今と同様、道はほとんどなく、訪れる人も少なく、海岸をたどることができず内陸を進みました。ただ知床硫黄山には、海路から苦労をしながらたどりついています。
ライマンが長い調査の途中、増毛に着いたたとき、札幌をたって以来の最高の宿と感心しています。また、学校をみて、教育と文化の高さに驚いています。このようなライマンの驚きからも、増毛の繁栄ぶりがうかがわれます。
増毛から先は、今回の調査では、海岸ルートとして最大の難所を行くことになります。迂回路の山道が雪で通れなくなるのを恐れて、先を急いでいます。増毛から海岸を避けて、山越えの山道から浜益(ライマンは浜増毛と呼んだ)に、必死の思いで一日かけて到着しています。さらに次の難所の濃昼(こきびる)の海岸も苦労して夜半にやっと厚田に通り抜けています。この難所を、天候悪化のため、浜益で一日足止めをさせられていますが、実質2日間でたどっています。しかしフィールドノートの記述からは、その苦労のほどが伺われます。
増毛から厚田までの間は、道もはっきりせず、海岸沿いは危険なところも多かったようです。現地の案内人を雇っていっても、苦労する難所でした。そのような人を寄せ付けないような険しい海岸が、増毛と厚田の間には、昭和の終わり頃まで立ちはだかっていたのです。今では国道ができ、車であっという間に通過できます。しかし、その国道もトンネルが多く、険しいが道が続いています。今でも、海岸線沿いの道路は、崩落危険箇所で、雪や雨、風が強いと通行止めになってしまうところです。
険しい切り立った海岸線があるのは、暑寒別岳を主峰とする山塊が、海岸までせり出しているからです。その暑寒別岳一帯の山塊は、火山でできています。海岸線の露頭では、マグマがつくった構造や、マグマが海に入ったときできる構造などが見ることができます。
マグマの構造としては、節理(せつり)がいろいろみられます。マグマが固まるとき体積が少し減ります。すると溶岩は縮むときに割れ目ができます。このような割れ目を節理と呼んでいます。節理は、溶岩のかたちや冷え方によって、さまざまなものができます。溶岩が固まるときにできる割れ目が柱のようになっている柱状節理、放射状になっている放射状節理などがみられます。
切り立った断崖絶壁は、地質学者には、岩石や地層が良く見える、なかなか見ごたえがある景色となります。
北海道の海岸線を眺めていると、海岸に断崖として切り立っている場所は大抵、新しい火山体が海にまで達しているところです。そんな火山の荒々しさが、長く人や交通を拒絶してきました。
荒々しい絶壁の露頭は、地質学者には、ぜひ見てみたい場所となります。ライマンも、北海道の海岸を巡ったのは、海岸の露頭を見たいという思いだったのかもしれません。増毛では、そんな荒々しい自然に昔から戦ってきた人々の営みを、海岸の限られた平地に造られた小さな集落に感じることができます。
・ニシン・
3月上旬、小樽の海岸で、
ニシンの大群が産卵しているという
ニュースが放送されました。
このような産卵は今年で5回目だそうです。
その映像をみると、
確かに海岸付近が白っぽくなっていました。
ニシンは、今では鰊と書きますが、
かつては「春告魚」と書かれ、
春の到来を告げる風物詩でもありました。
北海道の人には春が待ち通しのですが、
昔のニシン漁を知る人には、
昔の栄華が頭をよぎったのではないでしょうか。
ニシンの産卵が今年になって小樽周辺で
何度か目撃されているそうです。
こんなことは、55年ぶりだそうです。
今では「春告魚」が、死語となっているようですが、
「春告魚」という言葉も復活するかもという
淡い期待を持たせてくれます。
・ライマン雑記・
今回、ライマンの調査を書くに当たって、
副見恭子さんが地質ニュースに連載されている
「ライマン雑記」を参照させていただきました。
副見さんはマサチューセッツ大学図書館の
ライマンコレクション委員をなされている方です。
「ライマン雑記」は1990年から今(?)も
連載されています。
ホームページで閲覧できるのは、
2006年1月に掲載された「雑記」の21回までです。
その中の10回と11回が1874年の調査の様子を
フィールドノートの記述から紹介されています。
この「雑記」がどこまで続くのかは知りませんが、
日本の地質学としては重要な史料となります。
これからも継続することを願っています。
そして、完成の暁には出版していただきたいものです。
増毛と書いて、「ましけ」と読みます。北海道の地名です。語源は、アイヌ語の「マシュキニ」や「マシュケ」、「マシケナイ」から由来しているといわれています。「マシュキニ」の意味は、「カモメの多い所」ということで、海に面した増毛の昔の様子を表しています。
増毛に列車で行くためには、札幌から函館本線に乗ります。函館本線は、函館から小樽を回るコースで札幌に出て、さらに旭川に向かう、全長420kmの路線になります。札幌から、北に向かいます。深川で、函館本線から、留萌本線に乗り換えます。留萌本線は、深川から留萌を通り、増毛まで通じる70km弱の路線です。ここより先は線路もなく、増毛が終着駅となります。
そのコースとは逆を通って、大学生時代、増毛から札幌まで帰ったことがあります。暑寒別岳(1491m)に雨龍沼側から登り、縦走して降りたところが増毛だったのです。友人と二人で、暑寒別岳を縦走しましたのは、6月上旬でした。麓には春が来ていたのですが、雨竜沼から上は残雪の中を歩くことになりました。この登山は、マイカーなどない学生時代ですから、行きも列車、帰りも列車でした。
その後、北海道に移住して、車で増毛に行きました。増毛は、今では漁港がある小さな町ですが、かつては多くの人口を抱えた栄えた町でした。留萌が留萌支庁の中心になっていますが、かつては、増毛支庁として増毛がこの地域の中心地となっていました。
増毛では、江戸時代からニシン漁が盛んで、栄えていました。いまでも、その名残の建物が増毛には見られます。ニシンの群れ(群来「くき」と呼ばれていました)が来ると、カモメが餌として捕るために海面に群れていたのです。その様子から、「カモメの多い所」(マシュキニ)という名称がついたのでしょう。「石狩挽歌」という歌にも「ゴメ(ウミネコのこと)が鳴くから、ニシンが来る」という歌詞があります。これは、海鳥がニシンの産卵が始まるの察知して群れている光景を歌ったものです。
明治には、ニシン漁によって栄えた増毛までの交通路として、鉄道が早い時期から整備されました。ニシン漁による賑わいは、昭和初期まで続き、現在もその名残として建築物が残されているのです。だから、留萌の先の増毛まで鉄道が通じているのです。
ところが、増毛より先は、険しい海岸線が続き、通行の難所として古くから恐れられていました。1981年に国道231号が開通して、冬でも往来ができますが、それ以前は、海岸にへばりつくようにしてあった雄冬などの村々は、海の荒れてないときに、船で行くしかない陸の孤島となっていました。
日本の地質学を興した、お雇い外国人として来日したライマンも、調査のために、このルートを通っています。
ライマン(Benjamin Smith Lyman、1835年12月11日-1920年8月30日)は、明治6(1873年)年1月18日に来日し、4月下旬には函館にきています。その後7ヶ月をかけて第一回北海道調査で道南部をおこなっています。その翌年の明治7(1874年)5月20日からは、第二回北海道調査を行っています。その後明治8(1875)年にも、茅沼・空知の炭田を精査しています。
第二回北海道調査は、長距離、そして長期にわるものでした。ライマンが、増毛を訪れたのは、この第二回目の調査のときでした。
函館を5月26日に発ち、室蘭、苫小牧、札幌を経て、石狩川を遡上、そして十勝川の支流の音更川を下り、十勝川河口の大津に8月5日に着きます。その後、休むまもなく、海岸線を、広尾(8月6日)から反時計回りに石狩までたどります。その途中、増毛から厚田にいたる険路を通っています。
北海道の地図を見るとわかりますが、ライマンの通った海岸ルートで、知床とこの増毛が一番険しいルートになります。当時知床の海岸今と同様、道はほとんどなく、訪れる人も少なく、海岸をたどることができず内陸を進みました。ただ知床硫黄山には、海路から苦労をしながらたどりついています。
ライマンが長い調査の途中、増毛に着いたたとき、札幌をたって以来の最高の宿と感心しています。また、学校をみて、教育と文化の高さに驚いています。このようなライマンの驚きからも、増毛の繁栄ぶりがうかがわれます。
増毛から先は、今回の調査では、海岸ルートとして最大の難所を行くことになります。迂回路の山道が雪で通れなくなるのを恐れて、先を急いでいます。増毛から海岸を避けて、山越えの山道から浜益(ライマンは浜増毛と呼んだ)に、必死の思いで一日かけて到着しています。さらに次の難所の濃昼(こきびる)の海岸も苦労して夜半にやっと厚田に通り抜けています。この難所を、天候悪化のため、浜益で一日足止めをさせられていますが、実質2日間でたどっています。しかしフィールドノートの記述からは、その苦労のほどが伺われます。
増毛から厚田までの間は、道もはっきりせず、海岸沿いは危険なところも多かったようです。現地の案内人を雇っていっても、苦労する難所でした。そのような人を寄せ付けないような険しい海岸が、増毛と厚田の間には、昭和の終わり頃まで立ちはだかっていたのです。今では国道ができ、車であっという間に通過できます。しかし、その国道もトンネルが多く、険しいが道が続いています。今でも、海岸線沿いの道路は、崩落危険箇所で、雪や雨、風が強いと通行止めになってしまうところです。
険しい切り立った海岸線があるのは、暑寒別岳を主峰とする山塊が、海岸までせり出しているからです。その暑寒別岳一帯の山塊は、火山でできています。海岸線の露頭では、マグマがつくった構造や、マグマが海に入ったときできる構造などが見ることができます。
マグマの構造としては、節理(せつり)がいろいろみられます。マグマが固まるとき体積が少し減ります。すると溶岩は縮むときに割れ目ができます。このような割れ目を節理と呼んでいます。節理は、溶岩のかたちや冷え方によって、さまざまなものができます。溶岩が固まるときにできる割れ目が柱のようになっている柱状節理、放射状になっている放射状節理などがみられます。
切り立った断崖絶壁は、地質学者には、岩石や地層が良く見える、なかなか見ごたえがある景色となります。
北海道の海岸線を眺めていると、海岸に断崖として切り立っている場所は大抵、新しい火山体が海にまで達しているところです。そんな火山の荒々しさが、長く人や交通を拒絶してきました。
荒々しい絶壁の露頭は、地質学者には、ぜひ見てみたい場所となります。ライマンも、北海道の海岸を巡ったのは、海岸の露頭を見たいという思いだったのかもしれません。増毛では、そんな荒々しい自然に昔から戦ってきた人々の営みを、海岸の限られた平地に造られた小さな集落に感じることができます。
・ニシン・
3月上旬、小樽の海岸で、
ニシンの大群が産卵しているという
ニュースが放送されました。
このような産卵は今年で5回目だそうです。
その映像をみると、
確かに海岸付近が白っぽくなっていました。
ニシンは、今では鰊と書きますが、
かつては「春告魚」と書かれ、
春の到来を告げる風物詩でもありました。
北海道の人には春が待ち通しのですが、
昔のニシン漁を知る人には、
昔の栄華が頭をよぎったのではないでしょうか。
ニシンの産卵が今年になって小樽周辺で
何度か目撃されているそうです。
こんなことは、55年ぶりだそうです。
今では「春告魚」が、死語となっているようですが、
「春告魚」という言葉も復活するかもという
淡い期待を持たせてくれます。
・ライマン雑記・
今回、ライマンの調査を書くに当たって、
副見恭子さんが地質ニュースに連載されている
「ライマン雑記」を参照させていただきました。
副見さんはマサチューセッツ大学図書館の
ライマンコレクション委員をなされている方です。
「ライマン雑記」は1990年から今(?)も
連載されています。
ホームページで閲覧できるのは、
2006年1月に掲載された「雑記」の21回までです。
その中の10回と11回が1874年の調査の様子を
フィールドノートの記述から紹介されています。
この「雑記」がどこまで続くのかは知りませんが、
日本の地質学としては重要な史料となります。
これからも継続することを願っています。
そして、完成の暁には出版していただきたいものです。
GeoEssay 51 増毛:ライマンの見た断崖(2009.03.15)
Time:
0:00
●
Geologist
「地球の眺める」を発行しました。
GeoEssay 51 増毛:ライマンの見た断崖(2009.03.15)
札幌からほんの1、2時間ほどのところに、増毛という町があります。
今では、海岸沿いに国道ができ、短時間で行けてしまいますが、
かつては陸の孤島として近寄りがたい断崖が連なる地域でした。
そんな険しい海岸も、昔、アメリカの地質学者が調査をしていました。
そんな地質学者の足跡をたどりながら、断崖を眺めましょう。
GeoEssay 51 増毛:ライマンの見た断崖(2009.03.15)
札幌からほんの1、2時間ほどのところに、増毛という町があります。
今では、海岸沿いに国道ができ、短時間で行けてしまいますが、
かつては陸の孤島として近寄りがたい断崖が連なる地域でした。
そんな険しい海岸も、昔、アメリカの地質学者が調査をしていました。
そんな地質学者の足跡をたどりながら、断崖を眺めましょう。
2009-03-14
●ディスクエラー:No. 2795 2009.03.14
Time:
6:30
●
Geologist
データをポータブルハードディスクに入れて
土日曜日など、自宅で仕事をするといに
持って帰ることがある。
だから、トラブルを起こす可能性がある。
昨日朝、デスクトップパソコンにセットしたまま
立ち上げると、
チェックしますかという表示ができた。
まあ、これがでてもいつも問題ないので、
無視して使用していた。
夕方、そこに1週間分のバックをしようとしたら、
ディスクエラーが出た。
あるフォルダー以外は認識しない。
ちょっと気になったが、送別会の時間だから、
そのままもって研究室を出た。
そして今朝、自宅で読み込もうとしたらエラーである。
あるフォルダーは、いつも作業中のデータを
入れておくところだから、
なんとか自宅のノートパソコンに
必要なデータだけは移せたが、
あとは、見えない。
復旧しようとしたが、
時間がかかりそうなので、
今は取り合えずで使用している。
時間だできたらディスクチェックして
復旧を試みよう。
土日曜日など、自宅で仕事をするといに
持って帰ることがある。
だから、トラブルを起こす可能性がある。
昨日朝、デスクトップパソコンにセットしたまま
立ち上げると、
チェックしますかという表示ができた。
まあ、これがでてもいつも問題ないので、
無視して使用していた。
夕方、そこに1週間分のバックをしようとしたら、
ディスクエラーが出た。
あるフォルダー以外は認識しない。
ちょっと気になったが、送別会の時間だから、
そのままもって研究室を出た。
そして今朝、自宅で読み込もうとしたらエラーである。
あるフォルダーは、いつも作業中のデータを
入れておくところだから、
なんとか自宅のノートパソコンに
必要なデータだけは移せたが、
あとは、見えない。
復旧しようとしたが、
時間がかかりそうなので、
今は取り合えずで使用している。
時間だできたらディスクチェックして
復旧を試みよう。
●こだわりの人々:No. 2794 2009.03.14
Time:
6:21
●
Geologist
昨夕、送別会があった。
長年勤めておられた方々の話や
その人と身近に接しておられた方の
思い出話を聞くことができた。
そんな話を聞くと、面白い。
大学教員という一風変わった職種を
長年にわたってやってこられた人、
一つのことにこだわり続けてなされてきた人、
たとえ世間に受け入れられなくとも
信念をもって取り組んでこられた人、
そんな人だからこそ
面白い人生と見えるのではないか。
昨日は、そんなことを思いながら
送別会に参加していた。
長年勤めておられた方々の話や
その人と身近に接しておられた方の
思い出話を聞くことができた。
そんな話を聞くと、面白い。
大学教員という一風変わった職種を
長年にわたってやってこられた人、
一つのことにこだわり続けてなされてきた人、
たとえ世間に受け入れられなくとも
信念をもって取り組んでこられた人、
そんな人だからこそ
面白い人生と見えるのではないか。
昨日は、そんなことを思いながら
送別会に参加していた。
2009-03-13
●送別会:No. 2793 2009.03.13
Time:
8:24
●
Geologist
並木。江別市文京台
今朝は、曇りである。
冷え込んたようで、
昨日溶けた雪が凍り、
つるつるの道であった。
つるつるのところ避けて、
がりがりのところを歩く。
がりがりの場所は心地よい音がし、
足の裏も感触もいい。
ただし、でこぼこの激しいところは、歩きにくい。
そんなことも味わいながら歩いてきた。
昨日、学部の教授会で
定年退職される3名の方が、
紹介され、挨拶された。
いずれも長年勤められた方々で、
この大学の設立の頃から
勤められた方もおられる。
その人たちは、
この大学の設立時の苦労、
発展の時期、
そして今の厳しい時代
も経験されてきたことになる。
彼らは、一つの組織における
さまざまな歴史の局面に
立ち会ってこられた。
人生の大半を
この組織ささげられてきた。
だからこそ、組織としては
彼らに感謝しなければならない。
そんな彼らへの送別会が今日催される。
2009-03-12
●地質学者の伝記:No. 2792 2009.03.12
Time:
7:45
●
Geologist
ハルニレ。江別市文京台
今朝は横殴りの吹雪であった。
夜半に降った雪があり、
それが強い風で吹き溜まりができる。
夜や明け方に除雪が入ったが、
入ってない場所や吹き溜まりがあると
歩けないほどの雪がたまっている。
春も近いと思っていたが、
雪がまた積もった。
ただし、吹雪の冷たさは
明らかに厳冬期のものではない。
今日は午後から会議である。
その前にある組織の長の選挙、
その後に研究会がある。
どれくらい時間がかかるかわからない。
私が提出した議案があるので、
少々緊張する。
地層のことをいろいろ考えていると、
どうしても地質学の歴史に興味がでてくる。
そして地質学者にも興味ができてくる。
もともと地質学者について書いた本は少ない。
目に付いたものは読んでいたが、
いくつか読んでいたが、手元にあった本で、
地質学者に関する伝記本があったので、
それを読んでみようかと思った。
●真夏の島の夢:No. 2791 2009.03.12
Time:
7:17
●
Geologist
竹内真著「真夏の島の夢」
(ISBN4-7584-1026-7 C0093)
を読んだ。
瀬戸内海の小さな島を舞台にした、
缶詰作家と従兄弟の秘書、
コメディ劇団の4名の若者、
島の老人たちが織り成す物語である。
いくつもストーリが絡み合いながら
進行する。
そして島の産廃問題で収斂していく。
なかなか面白い話である。
(ISBN4-7584-1026-7 C0093)
を読んだ。
瀬戸内海の小さな島を舞台にした、
缶詰作家と従兄弟の秘書、
コメディ劇団の4名の若者、
島の老人たちが織り成す物語である。
いくつもストーリが絡み合いながら
進行する。
そして島の産廃問題で収斂していく。
なかなか面白い話である。
EarthEssay1_78 地中海誕生:メッシニアン塩分危機3(2009.03.12)
Time:
0:00
●
Geologist
メールマガジン「地球のささやき」を発行しました。
EarthEssay 1_78 地中海誕生:メッシニアン塩分危機3
メッシニアン塩分危機は、地中海の成因と深い関係があるという話を前回して、終わりました。今回は、その地中海の誕生にまつわる物語を紹介します。
EarthEssay 1_78 地中海誕生:メッシニアン塩分危機3
メッシニアン塩分危機は、地中海の成因と深い関係があるという話を前回して、終わりました。今回は、その地中海の誕生にまつわる物語を紹介します。
2009-03-11
●卒業式:No. 2790 2009.03.11
Time:
8:39
●
Geologist
牧舎。江別市文京台
昨日は昼前から雨で、
昼過ぎから雪に変わった。
今朝は、雪景色になっていた。
雪が溶け始めたと思っていたら、
また雪景色になった。
今朝、いつものように、
別の大学の中を歩いてきた。
その時、紺袴の女学生が
大学の中を歩いていた。
その大学は今日が卒業式なのだ。
自分の大学の体育館で卒業式が行われるのだ。
わが大学の卒業式は、19日である。
そのときには私も出席をする予定だが、
大きな会場を借りて行う。
わが大学では、1000名前後の卒業生を
送り出すことになる。
大人数すぎて、大学の体育館では出来ないのだろう。
まあ、やるとしたら、2回に分けるとか、
きゅうきゅう詰めするとか、
大変なことになるだろう。
自分の大学で卒業式ができないもの
少々もったいない気がする。
大学が自前の行事をするのなら、
自前の施設でできるのが理想だ。
全校生を集めるのは大変だろうが、
一学年を一同に会することは、
必要性はあることではないだろうか。
まあ、大きな組織では無理なことだ。
何もわが大学のことだけではないのだが。
●大人の時間はなぜ短いのか:No. 2789 2009.03.11
Time:
8:17
●
Geologist
一川誠著「大人の時間はなぜ短いのか」
(ISBN978-4-08-720460-5 C0240)
を読んだ。
表題の通り、大人は時間の経過を短く感じる。
その原因を、認知心理学に基づいて検討したものだ。
本書では、いくつかの原因を挙げていたが、
決定的なものがまだ見つかっていないようだ。
私は、現在時間に興味を持っているが、
そのヒントがありそうだ。
(ISBN978-4-08-720460-5 C0240)
を読んだ。
表題の通り、大人は時間の経過を短く感じる。
その原因を、認知心理学に基づいて検討したものだ。
本書では、いくつかの原因を挙げていたが、
決定的なものがまだ見つかっていないようだ。
私は、現在時間に興味を持っているが、
そのヒントがありそうだ。
2009-03-09
●思案中:No. 2788 2009.03.09
Time:
8:17
●
Geologist
VISTAと現状のメインとデスクトップに不満を感じている。
まずは、容量不足である。
値段の制限で、250GBのハードディスクにした。
これが一つ目の間違い。
またVISTA対応のAdobeのソフトをいくつか使ったが、
遅すぎて使い物にならず、
古いバージョンに戻したこと。
また、ハングアップすることはないが、
いつもエラーを出しているので、
不安感がある。
だから、XPにバージョンダウンしたデスクトップに
ようかと考えている。
価格の関係で最低機能にものを選んだが、
それが敗因であったような気がする。
まだ、半年しか使っていないが、
こんなに早く不満が出るとは思わなかった。
今、思案中である。
まずは、容量不足である。
値段の制限で、250GBのハードディスクにした。
これが一つ目の間違い。
またVISTA対応のAdobeのソフトをいくつか使ったが、
遅すぎて使い物にならず、
古いバージョンに戻したこと。
また、ハングアップすることはないが、
いつもエラーを出しているので、
不安感がある。
だから、XPにバージョンダウンしたデスクトップに
ようかと考えている。
価格の関係で最低機能にものを選んだが、
それが敗因であったような気がする。
まだ、半年しか使っていないが、
こんなに早く不満が出るとは思わなかった。
今、思案中である。
●確定申告:No. 2787 2009.03.09
Time:
7:58
●
Geologist
足跡。江別市文京台
朝自宅を出るときは曇っていたが、
大学ついてしばらくした晴れてきた。
朝は結構冷え込んだが、
昼は晴れてくるのだろうか。
今年の確定申告だ。
我が家は、医療費が多額になっているので、
それを申告して還付してもらうことになる。
インターネットのe-Taxでの申告を
昨年に引き続いてやることにした。
確定申告で、予想通りトラぶった。
昨年も同じ苦労をしたのだ。
個人認証のためのICカードが
使用回数制限を越えたという表示がでた。
昨年も最後の認証がうまくいかずに電話をした。
もう二度とやりたくないようなシステムだ。
だれがこんなばかげたシステムを歓迎しているのだろうか。
はやく滅びればいい。
きょう税務署に連絡してみることなっている。
もしかすると、市役所に住基登録の再認証を
受けなければならない。
この労力をだれが保障するのだろうか。
簡便化するためなのに、
手間を取らせるとはどういうことなのか。
何度やってもいらいらすること、この上ない。
●賢者のデジタル:No. 2786 2009.03.09
Time:
7:44
●
Geologist
山根一眞著「賢者のデジタル」
(ISBN978-4-8387-1742-2 C2055)
を読んだ。
考えると、久しぶりの山根氏の本だ。
数日前に、そういえばメタルカラーシリーズが
どうなっているかというのを思いついて
アマゾンでみてみた。
すると何冊かのシリーズが
出版されているのがわかり注文した。
その他にも、この本を見つけたので、購入した。
2007年に出版された本で、
記事としては、1997年ころのものもある。
しかし、山根氏が新陳代謝の早いデジタル情報で
古くても残す価値がありとしたものである。
懐かしい思いをしながら、私は読んだ。
私は、山根氏のように最新装置に飛びつけないし、
技術が枯れて落ち着くまでじっくり待つタイプである。
また、落ち着くと価格も安くなる。
そんな自分との違いにも思いを馳せた。
(ISBN978-4-8387-1742-2 C2055)
を読んだ。
考えると、久しぶりの山根氏の本だ。
数日前に、そういえばメタルカラーシリーズが
どうなっているかというのを思いついて
アマゾンでみてみた。
すると何冊かのシリーズが
出版されているのがわかり注文した。
その他にも、この本を見つけたので、購入した。
2007年に出版された本で、
記事としては、1997年ころのものもある。
しかし、山根氏が新陳代謝の早いデジタル情報で
古くても残す価値がありとしたものである。
懐かしい思いをしながら、私は読んだ。
私は、山根氏のように最新装置に飛びつけないし、
技術が枯れて落ち着くまでじっくり待つタイプである。
また、落ち着くと価格も安くなる。
そんな自分との違いにも思いを馳せた。
2009-03-08
●Firefox:No. 2785 2009.03.08
Time:
6:13
●
Geologist
昨日Firefoxを試してみた。
ちょっと前までGoogleのChromeを使っていたが、
いくつかの不便な点があって、Exlporeにもどしていた。
今度は、Firefoxを試している。
Chromeと同等以上の能力を持っている。
なによりいいのは、
アドオンでいろいろな機能を
付け加えることができることであろう。
もちろん、Chromeと同様無料のブラウザーだ。
まあ、どこまで気に入るかは、
しばらく使ってみることだ。
ちょっと前までGoogleのChromeを使っていたが、
いくつかの不便な点があって、Exlporeにもどしていた。
今度は、Firefoxを試している。
Chromeと同等以上の能力を持っている。
なによりいいのは、
アドオンでいろいろな機能を
付け加えることができることであろう。
もちろん、Chromeと同様無料のブラウザーだ。
まあ、どこまで気に入るかは、
しばらく使ってみることだ。
●Gmailの効用:No. 2784 2009.03.08
Time:
5:36
●
Geologist
2月19日よりGmailを使い始めた。
その感想を書こう。
Gmaiにメールが残っていれば、
メーラーに残すメールは、
本当に重要なものだけですむ。
そこでGmailと自分メーラーを見た。
Gmailを見たら、16日ほどの間に、
迷惑メールが200通ほど、
それ以外の必要な情報や連絡は、370通ほどである。
メーラーに残したメールは、100通ほどである。
たぶん100通以外の270通は
二度と参照することがないだろう。
しかし、何かのために残しておきたいものだ。
また100通のうち、記録として残してあるが
二度と参照しないようなものが半分以上ある。
それでも、手元に残しておくべきメールが
一気に減ったのは助かる。
そしてバックアップしていたメーラーのメールも
Gmailでの検索した方が早く見つかるかもしれない。
だた、Gmailの容量制限があるので、
いずれはいっぱいになるかもしれない。
でも、現状で考えると、全容量7.3GBの
まだ1%にも達していないので、
しばらくは、容量不足は起こらないだろう。
その感想を書こう。
Gmaiにメールが残っていれば、
メーラーに残すメールは、
本当に重要なものだけですむ。
そこでGmailと自分メーラーを見た。
Gmailを見たら、16日ほどの間に、
迷惑メールが200通ほど、
それ以外の必要な情報や連絡は、370通ほどである。
メーラーに残したメールは、100通ほどである。
たぶん100通以外の270通は
二度と参照することがないだろう。
しかし、何かのために残しておきたいものだ。
また100通のうち、記録として残してあるが
二度と参照しないようなものが半分以上ある。
それでも、手元に残しておくべきメールが
一気に減ったのは助かる。
そしてバックアップしていたメーラーのメールも
Gmailでの検索した方が早く見つかるかもしれない。
だた、Gmailの容量制限があるので、
いずれはいっぱいになるかもしれない。
でも、現状で考えると、全容量7.3GBの
まだ1%にも達していないので、
しばらくは、容量不足は起こらないだろう。
●バックアップのブログ:No. 2783 2009.03.08
Time:
5:19
●
Geologist
昨日は曇って時々粉雪が舞っていた。
子供たちが午前中医者に行ったので、
留守番で、昨日は自宅にいた。
その間、休み休み、
私が管理をしているホームページの
バックアップを兼ねて、
ブログでデータを移していた。
4、50個以上投稿すると
手入力でセキュリティのための文字を
入力しなければならなくなるため、
面倒なので、そこまででやめることにしている。
だからなかなかはかどらない。
でも、ブログごとにその制限がつくので、
いくつかのブログを並行して登録できる。
でも、画像は面倒なので、
画像の多いサイトは文章だけにしている。
いつ終わるかわからないが、
秋時間を見つけながら、やっていこう。
子供たちが午前中医者に行ったので、
留守番で、昨日は自宅にいた。
その間、休み休み、
私が管理をしているホームページの
バックアップを兼ねて、
ブログでデータを移していた。
4、50個以上投稿すると
手入力でセキュリティのための文字を
入力しなければならなくなるため、
面倒なので、そこまででやめることにしている。
だからなかなかはかどらない。
でも、ブログごとにその制限がつくので、
いくつかのブログを並行して登録できる。
でも、画像は面倒なので、
画像の多いサイトは文章だけにしている。
いつ終わるかわからないが、
秋時間を見つけながら、やっていこう。
●仮説力:No. 2782 2009.03.08
Time:
5:08
●
Geologist
竹内薫著「仮説力」
(ISBN978-4-534-04177-7 C0040)
を読んだ。
科学における仮説の役割を書き、
それをビジネスにも適応できるという趣旨の本である。
少々無理がある。
竹内氏は仮説に関する書籍でヒットを出したが、
少々似たものを狙いすぎたようだ。
(ISBN978-4-534-04177-7 C0040)
を読んだ。
科学における仮説の役割を書き、
それをビジネスにも適応できるという趣旨の本である。
少々無理がある。
竹内氏は仮説に関する書籍でヒットを出したが、
少々似たものを狙いすぎたようだ。
2009-03-06
●レバレッジ・シンキング:No. 2781 2009.03.06
Time:
9:40
●
Geologist
本田直之著「レバレッジ・シンキング」
(ISBN978-4-492-04280-9 C0034)を読んだ。
前著レバレッジ・リーディングに通じるものである。
要約した内容で、すらすら読める。
逆に言うと深みがない。
ビジネス書とはこんなものだろうか。
いっていることは重要なことだが、
ビジネスマン以外の職種には通じないこともある気がする。
(ISBN978-4-492-04280-9 C0034)を読んだ。
前著レバレッジ・リーディングに通じるものである。
要約した内容で、すらすら読める。
逆に言うと深みがない。
ビジネス書とはこんなものだろうか。
いっていることは重要なことだが、
ビジネスマン以外の職種には通じないこともある気がする。
●ミスをなくす努力:No. 2780 2009.03.06
Time:
8:22
●
Geologist
ハルニレ。江別市文京台
今朝も快晴である。
やはり歩いていると足が冷えてきて、
朝の寒さがこたえる。
しかし、風もなく、放射冷却の寒さだけである。
でも、寒くても快晴の朝は心地より。
昨日は研究費の申請書類を仕上げて提出した。
一段落した気がする。
来年度1年間目指すべき
一つのテーマが設定できた。
先日成績発表があり、
学生から問い合わせがいくつか続いている。
そこには、もちらのミスもある。
もちろん、ミスのないときもある。
いずれにしても、
後には、お互いに心苦しさが残される。
私のミスなら、謝って修正するしかない。
私のミスではなく、
学生が単位を取れたと思っているのに、
単位が認定されてないのは、
少々気にかかるところである。
彼らが努力をしていたのに、
その努力が認められないということである。
努力している学生を
教員が見抜けないというのは残念である。
大人数の授業ではそのようなことが
起こることかもしれないが、
本当は起こってはいけないことである。
ミスをなくことは出来ないが、
ミスをなくす努力はできる。
教員はそれをするしなかいのだろう。
●破局噴火:No. 2779 2009.03.06
Time:
7:47
●
Geologist
高橋正樹著「破局噴火-秒読みに入った人類壊滅の日-」
(ISBN978-4-396-11126-7 C0244)
を読んだ。
火山噴火には、通常の噴火のほかに、
破局的噴火がある。
そのような破局噴火を人類は経験しているはずだが、
記録に残すような時代には起こらなかった。
しかし、地質学的研究から、
そのような噴火は、
日本では7000年に一度ほど起こる。
世界では頻度は少ないが、
それより大規模な噴火が起こる。
そんな危険性を火山学者の立場から
指摘したものである。
破局のシナリオがいくつか記述されているが、
少々フィクションに過ぎるような気がする。
そこが少し残念であった。
(ISBN978-4-396-11126-7 C0244)
を読んだ。
火山噴火には、通常の噴火のほかに、
破局的噴火がある。
そのような破局噴火を人類は経験しているはずだが、
記録に残すような時代には起こらなかった。
しかし、地質学的研究から、
そのような噴火は、
日本では7000年に一度ほど起こる。
世界では頻度は少ないが、
それより大規模な噴火が起こる。
そんな危険性を火山学者の立場から
指摘したものである。
破局のシナリオがいくつか記述されているが、
少々フィクションに過ぎるような気がする。
そこが少し残念であった。
2009-03-05
●外部サーバ:No. 2778 2009.03.05
Time:
7:34
●
Geologist
朝焼け。江別市文京台
今朝は、雲があったが、東の空は晴れていた。
今日はいつもより30分ほど早く自宅を出たので、
歩き出したころは、日はまだ昇っておらず、
東の空は明らんでいた。
冷え込みはそれほど強くなかった。
放射冷却は、まだはじまっておらず、
歩き出してしばらくしてから冷え込んできた。
研究費の申請書を昨日だいぶ仕上げた。
考えながら、書いてきて、だいぶ定まってきた。
文部科学省の科学研究費や学内の奨励研究などの
研究費の申請書類を書いているときは、
翌年度や数年間の研究計画も考えながら書いていくことになる。
これは非常に頭の整理にはいい行為である。
ブログと外部サーバの存在について考えた。
自前サーバは大学の内部の計算機センターの
無停電装置で保管されている。
でもいつ破損するかわからない。
外部の有料サーバも2つ利用している。
これは、破損には最大限の注意を払っているはずだ。
ハードが破損しなくても、企業であれば倒産もありうる。
そうなれば、破損しなくても、サーバはなくなる。
だったら、外部サーバも何箇所も
バックアップとして利用することも必要かもしれない。
現在ホームページとして定期的に更新しているものを
外部の無料サーバ(ブログ)として保存しようかと考えている。
ただし、手間がかかるので、
時期も考えながら、どうしようか判断していこうと思っている。
今朝は、雲があったが、東の空は晴れていた。
今日はいつもより30分ほど早く自宅を出たので、
歩き出したころは、日はまだ昇っておらず、
東の空は明らんでいた。
冷え込みはそれほど強くなかった。
放射冷却は、まだはじまっておらず、
歩き出してしばらくしてから冷え込んできた。
研究費の申請書を昨日だいぶ仕上げた。
考えながら、書いてきて、だいぶ定まってきた。
文部科学省の科学研究費や学内の奨励研究などの
研究費の申請書類を書いているときは、
翌年度や数年間の研究計画も考えながら書いていくことになる。
これは非常に頭の整理にはいい行為である。
ブログと外部サーバの存在について考えた。
自前サーバは大学の内部の計算機センターの
無停電装置で保管されている。
でもいつ破損するかわからない。
外部の有料サーバも2つ利用している。
これは、破損には最大限の注意を払っているはずだ。
ハードが破損しなくても、企業であれば倒産もありうる。
そうなれば、破損しなくても、サーバはなくなる。
だったら、外部サーバも何箇所も
バックアップとして利用することも必要かもしれない。
現在ホームページとして定期的に更新しているものを
外部の無料サーバ(ブログ)として保存しようかと考えている。
ただし、手間がかかるので、
時期も考えながら、どうしようか判断していこうと思っている。
●iPodをつくった男:No. 2777 2009.03.05
Time:
7:09
●
Geologist
大谷和利著「iPodをつくった男」
(ISBN978-4-7561-5096-7 C1234)を読んだ。
久々に大谷氏の文章を読んだ。
以前は、パソコン雑誌、特にアップルやマックに関する記事を
多数読んだ記憶がある。
私もマックを持っていたこともあるが、
いまではWindowsのユーザーである。
スティーブン・ジョブスの逸話が書かれている。
この本を読んでいると、AppleやMacに魅力を感じてしまう。
今では、Windowsでしか使えないソフトがあり、
それが仕事の上で重要な役割をはたしている。
そのため、Macにはどんなに魅力があっても、
移行できない事情もある。
ただし、iTunesやiPodを所有している。
他のMP3のプレイヤーには移れない。
(ISBN978-4-7561-5096-7 C1234)を読んだ。
久々に大谷氏の文章を読んだ。
以前は、パソコン雑誌、特にアップルやマックに関する記事を
多数読んだ記憶がある。
私もマックを持っていたこともあるが、
いまではWindowsのユーザーである。
スティーブン・ジョブスの逸話が書かれている。
この本を読んでいると、AppleやMacに魅力を感じてしまう。
今では、Windowsでしか使えないソフトがあり、
それが仕事の上で重要な役割をはたしている。
そのため、Macにはどんなに魅力があっても、
移行できない事情もある。
ただし、iTunesやiPodを所有している。
他のMP3のプレイヤーには移れない。
2009-03-04
EarthEssay1_77 異変の履歴:メッシニアン塩分危機2
Time:
10:34
●
Geologist
メールマガジン「地球のささやき」を発行しました。
1_77 異変の履歴:メッシニアン塩分危機2(2009.03.05)
地中海の海水が干上がるというメッシニアン塩分危機が、
中新世末期に起こりました。
その時、今の穏やかな地中海から
想像もできないほどの激変が起こりました。
多くの海洋の生物は絶滅したはずです。
沿岸地域の環境にも大きな影響を与えたはずです。
その影響の全貌はまだ解明されていませんが、
概要はわかってきました。
異変の履歴を紹介していきましょう。
1_77 異変の履歴:メッシニアン塩分危機2(2009.03.05)
地中海の海水が干上がるというメッシニアン塩分危機が、
中新世末期に起こりました。
その時、今の穏やかな地中海から
想像もできないほどの激変が起こりました。
多くの海洋の生物は絶滅したはずです。
沿岸地域の環境にも大きな影響を与えたはずです。
その影響の全貌はまだ解明されていませんが、
概要はわかってきました。
異変の履歴を紹介していきましょう。
●監視カメラ:No. 2776 2009.03.04
Time:
7:35
●
Geologist
山並み。江別市文京台
今朝は東の空に少し雲があったが、
晴れてきた。
昨日のように暖かい日になるだろうか。
今朝、いつもの道を歩いていると、
電柱にカメラが設置されているのに気づいた。
長年同じ道をあるいていたが、
今日、はじめて気づいた。
装置自体は最近のもではなさそうであるが、
いつ付いたのがまったく知らなかった。
また、監視の目的なのかどうかも不明である。
しかし、このようなものがあるのに気づくと、
複雑な気分になってしまう。
学内の研究奨励金の締め切りが迫っている。
予算削減で厳しい競争が予想されるが、
できれば、獲得したいものだ。
ここしばらくそればかりをずっと考えている。
野外調査とそこで集めた素材のデータベースを作成し、
公開する計画である。
できれば、今日中にその骨子を固めたいものだ。
今朝は東の空に少し雲があったが、
晴れてきた。
昨日のように暖かい日になるだろうか。
今朝、いつもの道を歩いていると、
電柱にカメラが設置されているのに気づいた。
長年同じ道をあるいていたが、
今日、はじめて気づいた。
装置自体は最近のもではなさそうであるが、
いつ付いたのがまったく知らなかった。
また、監視の目的なのかどうかも不明である。
しかし、このようなものがあるのに気づくと、
複雑な気分になってしまう。
学内の研究奨励金の締め切りが迫っている。
予算削減で厳しい競争が予想されるが、
できれば、獲得したいものだ。
ここしばらくそればかりをずっと考えている。
野外調査とそこで集めた素材のデータベースを作成し、
公開する計画である。
できれば、今日中にその骨子を固めたいものだ。
●レバレッジ・リーディング:No. 2775 2009.03.04
Time:
7:22
●
Geologist
本田直之著「レバレッジ・リーディング」
(ISBN4-492-04269-5 C0034)
を読んだ。
必要な箇所だけを見つけ出して短時間に読み取ること、
そしてそこから学ぶべきことをメモして、
自分の日常生活に反映させることが主眼である。
内容にかなり重複があり、読みづらくなっている。
しかし、いいたいことは単純である。
(ISBN4-492-04269-5 C0034)
を読んだ。
必要な箇所だけを見つけ出して短時間に読み取ること、
そしてそこから学ぶべきことをメモして、
自分の日常生活に反映させることが主眼である。
内容にかなり重複があり、読みづらくなっている。
しかし、いいたいことは単純である。
2009-03-03
●動的平衡:No. 2774 2009.03.03
Time:
13:15
●
Geologist
福岡伸一著「動的平衡」(ISBN978 4 86324 012 4 C0045)を読んだ。
福岡氏一流の書き方である。
そして一貫して主張している
動的平衡が生命の根源であるという内容である。
雑誌に連載していたコラムをまとめたようで、
内容としては、今までの著書と重複がある。
でも、いわんとしていることは伝わった。
福岡氏一流の書き方である。
そして一貫して主張している
動的平衡が生命の根源であるという内容である。
雑誌に連載していたコラムをまとめたようで、
内容としては、今までの著書と重複がある。
でも、いわんとしていることは伝わった。
●評価:No. 2773 2009.03.03
Time:
8:34
●
Geologist
ハルニレ。江別市文京台
今朝は晴れである。
自宅を出たときは、少々雲があったが、
大学について、しばらくしたら晴れてきた。
今日は久しぶりに快晴になりそうだ。
今朝は晴れである。
自宅を出たときは、少々雲があったが、
大学について、しばらくしたら晴れてきた。
今日は久しぶりに快晴になりそうだ。
在校の成績の発表が間近である。
卒業生について認定の会議が今日ある。
その結果は、悲喜こもごもがつきまとう。
私の学科では、まだ完成年度を迎えていない。
4月にやっと4年生が誕生する。
進級の評定が今週末に下る。
それと単位認定に基づいて
教員志望のものには教育実習の可否も決定される。
今までの努力の成果が評価されるのである。
人生における重要な決定が下されるのは、
不安なことであろう。
多分、多くのものは、落ち着かないことになるであろう。
卒業生について認定の会議が今日ある。
その結果は、悲喜こもごもがつきまとう。
私の学科では、まだ完成年度を迎えていない。
4月にやっと4年生が誕生する。
進級の評定が今週末に下る。
それと単位認定に基づいて
教員志望のものには教育実習の可否も決定される。
今までの努力の成果が評価されるのである。
人生における重要な決定が下されるのは、
不安なことであろう。
多分、多くのものは、落ち着かないことになるであろう。
決定を下す側は、
多数の中の何名かが憂き目をみることを心せねばならない。
教員が単位を出す手続きは、
いまやコンピュータに入力するだけで簡単だ。
しかし、 そこに至るプロセスはいくつもチェックポイントがあり、
それなりに厳密に公正に公開されておこなわれている。
まじめに学習に取り組んだものが正当な評価を受けるべきだ。
少人数であれば目配りができるが、多人数であれば、
顔と名前がほとんど一致しない中で評価をすることになる。
ただ、それぞれの事情を理解しながら、
公平に、なおかつ学生側に立って考えていきたいと願っている。
でも、人間だからどうしてもミスや誤解がある。
それを補いながら真摯に誠意を持って取り組むしかない。
多数の中の何名かが憂き目をみることを心せねばならない。
教員が単位を出す手続きは、
いまやコンピュータに入力するだけで簡単だ。
しかし、 そこに至るプロセスはいくつもチェックポイントがあり、
それなりに厳密に公正に公開されておこなわれている。
まじめに学習に取り組んだものが正当な評価を受けるべきだ。
少人数であれば目配りができるが、多人数であれば、
顔と名前がほとんど一致しない中で評価をすることになる。
ただ、それぞれの事情を理解しながら、
公平に、なおかつ学生側に立って考えていきたいと願っている。
でも、人間だからどうしてもミスや誤解がある。
それを補いながら真摯に誠意を持って取り組むしかない。
2009-03-02
●自分の都合:No. 2772 2009.03.02
Time:
8:13
●
Geologist
ハルニレ。江別市文京台
今朝は雲がかかっていたが、
今朝は雲がかかっていたが、
晴れ間が見えたり、
激しい雪が降ったり変わりやすい天気ある。
GoogleのChromというブラウザーを利用していたが、
やはり不便を感じた。
URLをすべてのパソコンで一致させれない。
GoogleのInternet Exploreのためのサービスが
利用できないものがあるという、不便さがある。
もしかすると、それも利用できるのかもしれないが、
ぱっとみたところわからない。
だから、Internet Exploreにもどした。
不思議なものだ。
GoogleがMicrosoftに対しておこなったサービスが、
Googleの本体に移ったとき、
そのサービスがフォローされていないので、
不便さを感じるということがおきた。
どうしたことだろう。
本当は、母屋を乗っ取るための手が、
自分の母屋にしたとき、
その手が自分には施されていないということだ。
まあ、ぐだぐだいってもしょうがない。
自分にあったものを自分の都合で利用すればいいのだ。
自分の都合を、相手にあわす必要がない。
2009-03-01
●確定申告:No. 2771 2009.03.01
Time:
6:18
●
Geologist
昨日は自宅でごろごろしていた。
午後は子供たちは公民館で
北海道の下の句カルタをやっているので、
そちらに出かけた。
地元の子供たちが15名ほどきていたようだ。
午後、私は、家内と共に
確定申告の計算と入力をしていた。
昨年度は、他の給与所得や印税はない。
ただし、私や家内手術があったため、
医療費が多くなった。
そのため、集計が面倒であったが、
結構還付されるようである。
ただし、入力はおわったのだが、
登録までの手続きがなかなか面倒である。
昨年はそれでいらいらした。
今年は二度目だが何も覚えていたので、
同じ繰り返しがありそうで面倒である。
その入力を、今日か来週する予定である。
●無理なく続けられる年収10倍アップ勉強法:No. 2770 2009.03.01
Time:
5:50
●
Geologist
勝間和代著「無理なく続けられる年収10倍アップ勉強法」
(ISBN978-4-88759-544-6 C0030)
を読んだ。
一昨日ついた本を昨日一日で読めた。
分量がそれほどないため、
すんなりと読めた。
勉強の目標を定め、
それに向かって投資と
努力の方法を示したものだ。
前に読んだ本と基本的に同じ主張であった。
Monolog86 バウマ・シーケンス:本質から眺める多様性
Time:
0:00
●
Geologist
メールマガジン「地球のつぶやき」の
86 バウマ・シーケンス:本質から眺める多様性
86 バウマ・シーケンス:本質から眺める多様性
を発行しました。
自然の営みでできた地層は、
一見整然と同じものが
積み重なっているようにみえます。
でも、個々の地層をよくみていくと、
二つとして同じものはありません。
地層の中に見えた多様性は、
実は単純な本質によって
形成されていることがわかってきました。
多様に見える自然も、本質から眺めると、
違った景色にみえてくるかもしれません。
一見整然と同じものが
積み重なっているようにみえます。
でも、個々の地層をよくみていくと、
二つとして同じものはありません。
地層の中に見えた多様性は、
実は単純な本質によって
形成されていることがわかってきました。
多様に見える自然も、本質から眺めると、
違った景色にみえてくるかもしれません。
2009-02-28
●データバックアップ:No. 2769 2009.02.28
Time:
6:17
●
Geologist
今日は曇り。
自宅で休日を過ごす予定だ。
といっても、早朝、家族が置きだすまでは、
食堂のテーブルでノートパソコンを出して、
片手間でできる仕事をやる。
まず最初にすることは、
最新のデータが入ったポータブルハードディスクと
ノートパソコンのハードディスクを
同期させることである。
もちろん同期させるための
ソフトを利用して、自動的に行う。
その間、コーヒーでも入れたり、
本を読んで待っている。
同期が終わったら、作業をする。
日曜日に仕事終わったときに、
ポータブルハードディスクに対して
逆のことをして、
研究室のデスクトップパソコンの
ハードディスクと同期させる。
常にメインで使っているパソコンのハードディスクを
最新情報にしておくを心がけている。
研究室では、曜日ごとに
バックアップするハードディスクを決めて、
自動でデータをバックアップをしている。
メールや公開データはインターネットの外部記憶である
他のサーバに保管している。
もし何かあっても問題が発生しないようなデータは、
メールの添付ファイルで自分宛に送るようにしている。
そうすれば、最悪の場合でも
なんとか少しのデータは
救えるのではないかと考えている。
デジタルのデータは一瞬の操作ミスで
すべてのデータがあっという間に消え去る。
私が現在のデータ保管の方法にいたるまでは、
何度も痛い目にあっている。
試行錯誤の末に出てきた方法である。
もし何かっても、一日、もしくは数時間の
ロスですむことになる。
しかし、もしもというのは、
予想外のことなので、 何が起こるかはわからない。
予想外のことを想定して行動するのは難しい。
現象の対策はこれがベストではないかと考えている。
●ビールボーイズ:No. 2768 2009.02.28
Time:
5:56
●
Geologist
竹内真著「ビールボーイズ」
(ISBN978-4-488-02399-7 C0093)
を読んだ。
北海道出身の4名(実際には5名)の主人公が
12歳から30歳までに10回に及ぶ
ビール祭りを開催しているとして話が展開される。
5名が登場するのは最後の1回だけである。
主人公の4名がそろうのは、
第1回と第10回のときだけであるが、
それぞれの近況は語り合いながら紹介されていく。
それぞれの希望、社会での生き方、
どこで暮らすかなどが変化しながら、
ビール祭りは繰り広げられる。
これを読んでいると、
冷えたうまいビールが飲みたくなる。
2009-02-27
●マインドマップ:No. 2767 2009.02.27
Time:
7:54
●
Geologist
ハルニレ。江別市文京台
今朝は曇りで、肌寒かった。
相変わらずの天気である。
昨日は原稿を書いていた。
ほぼでき、今日完成させる。
また、今日は研究費の概要をまとめることにしている。
来週には完成させて提出しなければならない。
すでに、3つほどのテーマが浮かんでいる。
どれにするのか。
どれかを融合するのか。
どう内容を膨らせていくのか。
そのあたりを考えていかなければならない。
研究に関してまとめておきたいことを
マインドマップにしている。
以前からフリーソフトのFreeMindを使っていたのが、
不満があった。
また、βバージョンにはバグがあり、不安定であった。
だから製品版が望ましい。
まだ試している最中だが、
ソフトは、MindMangerにすることにした。
理由はいくつかある。
1ヶ月間試せる期間があること、
アカデミック割引があるのと、
3月11日にはニューバージョンがでること
が主な理由だ。
●日本の自然3 日本の川:No. 2766 2009.02.27
Time:
7:34
●
Geologist
坂口豊、高橋裕、大森博雄著「日本の自然3 日本の川」
(ISBN4-00-007673-6 C0344)
を読んだ。
日本の川を概観したものである。
各地の川の代表てきなものの記載がされている。
私は、日本の川の概論と
石狩川について拾い読みをした。
マインドマップを書いてみた。
2009-02-26
●自前サーバが必要:No. 2765 2009.02.26
Time:
7:24
●
Geologist
街灯。江別市文京台
今朝は相変わらず曇っている。
風はなかったが、少々肌寒かった。
今朝は、いつもより30分ほど早く起きた。
ゆっくりと朝の支度をして自宅を出てきた。
6時前に自宅を出ようとしたら、
次男が起きてきていたので驚いた。
その時、家内はまだ寝ていた。
次男は自分のすることがあっり
それをはじめたのでそのままにしてでてきた。
めったにこんなことはないが、まれにある。
それは行事があるときに緊張して起きるときだ。
多分、今日は学校で歩くスキーで
タイムトライアルとして競技大会があるので、
緊張しているせいかもしれない。
私のメールやホームページやブログとの関係が
整理されてきたので、落ち着いてきた。
写真については、
まだやり方は決着がついていない。
多数の写真を自分の管理できないところで
公開する気はないので、
まだどうするか結論は出していない。
自分の管理できるサーバで行うのが
一番いいような気がする。
●スピード読書術:No. 2765 2009.02.26
Time:
7:03
●
Geologist
宇都出雅辰巳著「スピード読書術」
(978-4-492-04313-4 C0034)
を読んだ。
1時間少々で読める程度の本であった。
速読の話より、
なぜ本を読むかということであった。
あまり参考にならないものであった。
EarthEssay1_76 海の蒸発の記録:メッシニアン塩分危機1
Time:
0:00
●
Geologist
「地球のささやき」を更新しました。
1_76 海の蒸発の記録:メッシニアン塩分危機1
メッシニアン塩分危機という地質学的事件が、
新生代中新世末期に起こりました。
それは、地中海の海水が干上がるという事件でした。
この事件が意味することとは、なんでしょうか。
数回のシリーズで紹介していきます。
1_76 海の蒸発の記録:メッシニアン塩分危機1
メッシニアン塩分危機という地質学的事件が、
新生代中新世末期に起こりました。
それは、地中海の海水が干上がるという事件でした。
この事件が意味することとは、なんでしょうか。
数回のシリーズで紹介していきます。
2009-02-25
●国立大学入試:No. 2764 2009.02.25
Time:
7:55
●
Geologist
坂道。江別市文京台
今朝は曇っている。
風はなかく冷え込みもそれほどではない。
今日は我が大学を会場として
弘前大学の大学入試がある。
昨日の夕方帰るとき、
高校生や見かけない大人の人がいたので
不思議な気がしたのだが
玄関の看板をみてその意味がわかった。
今日、国立大学の入試が行われるのだ。
我が大学では一般入試の
A日程の合格発表が行われている。
ブログの位置づけをなんとなくできてきた。
このホームページを同じものプラスアルファを
ブログで展開する。
そしてLibraryをブログとして公開することにした。
ブログの一番の無力は
携帯電話でのアップロードできることである。
まあ長続きできるかどうかは
しばらくやってみるしかない。
●粗忽拳銃:No. 2763 2009.02.25
Time:
7:34
●
Geologist
竹内真著「粗忽拳銃」
(ISBN4-08-774449-3 C0093)
を読んだ。
落語家とその仲間の物語である。
映画監督を目指す若者、
俳優を目指す若者、
ノンフィクションライターを目指す女性
彼ら4人が、拳銃を拾ったことから物語がはじまる。
なかなか設定が変わっているが
リアリティがある物語だ。
落語の話の展開に関わっているところが面白い。
2009-02-24
●ブログ:No. 2762 2009.02.24
Time:
7:55
●
Geologist
並木。江別市文京台
今朝は冷え込んだ。
雲がかかっていたが、
大学につくころには晴れてきた。
今日も昼間は暖かくなるのだろうか。
昨日から以前からストップしていた、
Blogを再検討した。
Bloggerを候補にしている。
容量にどうも制限がないようだ。
ただし、画像はPICASAと共有して
1GBが限界だそうだ。
私は、このホームペ-ジのバックアップと
携帯電話での投稿用としたい考えている。
また、メールマガジンの更新連絡も
入れたいと考えている。
ただし、手間にならないようにしておきたい。
またいろいろ試している最中である。
2009-02-23
●速読:No. 2761 2009.02.23
Time:
8:37
●
Geologist
ハルニレと朝日。江別市文京台
朝は激しい雪であった。
明け方から降りだしたようで
除雪が入っていない。
そのため、ふかふかの新雪のなかを
雪に埋もれながら歩いてきた。
現在、地層の形成について
いろいろ文献を読んでいる。
内容を整理し、ノートをとりながらだから、
なかなか進まない。
学んでいる最中だから
しかたがないともいえるのだが、
それがまどろっこしくてしかたがない。
速読が気になって関連資料を目を通していた。
フォトリーディングが有名だが、
どうも胡散臭さを感じる。
佐々木氏の科学的に解説してる
速読の手法が納得できる。
そして読んだ本にはその方法も示されていた。
もしその効能が本当なら、
読書に関してすばらしい効果が上がる。
ダメもと試してみようかと考えている。
講習に行くには現状では不可能だが、
とりあえず本で書いていることを
試してみてもいいかもしれないと考えている。
2009-02-20
●Gmail:No. 2756 2009.02.20
Time:
13:55
●
Geologist

坂道。江別市文京台
今朝は、雲って雪がちらついていた。
さらさらした積雪である。
冬らしい天気である。
現在大学のメールボックスを整理している。
300MBほどの量しかないのだが、 遅い。
半年後とにメールボックスを整理しているのだが、
遅くていらいらしてしまう。
それに業を煮やして、Gmailを試した。
メールを転送して、どれくらいの能力を
持っているか試すためだ。
まだ、メールの数が少ないため、
その能力がわからない。
私がもっているメーラーと
併用するつもりであるが、
大学のWEBメールよは、
かなり早いことは確かだ。
Gmailを使ってまもないから、
その能力は不明だ。
現在、無料のメールボックスの容量が7GBである。
そこでスピードがあるのであれば、
私の不満は解消できる。
ただ、メールが重要な情報だから、
メーラーに必要なものは保存するのは基本としたい。
2009-02-15
50 浅間山:噴火の予知と対処
Time:
9:31
●
Geologist
浅間山は、現在、活発な火山活動をしています。先日は東京や横浜でも火山灰が降りました。浅間山は、古くから何度も噴火してきました。そこには、悲劇が繰り返し起こっていました。そんな悲劇を二度と繰り返すことのないように、私たちは過去や今回の噴火から学ばなければなりません。
2月2日夕方、自宅に帰ったとたん、テレビのニュースを見ていた家内が「浅間山が噴火したのを知ってる?」と聞きました。「知らない」といって、ニュースの映像を見ました。噴煙を上げている浅間山が見えた直後に画面が変わり、横浜での降灰の様子が示されました。車のボディーにうっすらと積もった火山灰が放映されていました。
私は、浅間山が、以前から要注意の活発な火山であることを知っていました。また、昨年の夏の小噴火は知っていたのですが、今回は噴火の兆候があったことは知りませんでした。ですから、浅間山が噴火と聞いたとき、少々驚きました。
浅間山の噴火は、2月2日の深夜1時51分頃に起こりました。噴火としては小規模でしたが、大きな火山弾が、山頂の火口から、1~1.2kmまで飛び散りました。噴煙は、上空2000mまでも達しました。そのときの風向きが南東方向だったので、浅間山から、埼玉県、東京都、神奈川県の一部に火山灰を降らしました。降灰は、房総半島の鴨川市内でも確認されました。この降灰の様子を2日の夕方のニュースは伝えていたのです。
浅間山は、2月9日7時46分ころにも小さな噴火が起こり、その後しばらく断続的に噴火をしています。9日の噴火はあまり大きくはなく、周辺地域で降灰が少しあった程度でした。噴気や小規模な噴火は、現在も継続中です。
浅間山の噴火の兆候は、火山観測網が捉えていました。傾斜計や地震計、GPS、空震計、望遠カメラによる観測によって捕らえた兆候に基づいて、気象庁地震火山部は、2月1日午後1時、「火口から4キロメートルの範囲に影響を及ぼす噴火が切迫していると予想」して、「噴火予報・警報 第1号」を発表しました。
火口周辺警報として、噴火警戒レベルがそれまでレベル2であったのが、レベル3に変更されました。レベル2とは火口周辺規制、つまり火口周辺への立入の禁止ですが、レベル3になると、入山規制、つまり山への立ち入り禁止と、状況に応じては災害時要援護者(重度の障害者やひとり暮らし高齢者など日常においても支援を必要とする人)の避難準備がおこなわれます。
また、2月3日には、「噴火予報・警報 第2号」が出されました。噴火したのですが、今後も噴火の危険性があるので、噴火警戒レベル3を継続することが、周辺地域の自治体に通知されました。
浅間山は、群馬県と長野県の境にある標高2568mの山頂の火口を持つ活火山です。火山のある場所は、地質学的に複雑な位置になります。
本州を2分するフォッサマグナとよばれる大断層の中ほどで、断層の東側にあたります。フォッサマグナは、ユーラシアプレートと北アメリカプレートの境界になります。また、北から続いている東北の火山フロントと、南の伊豆マリアの火山フロントがぶつかり、そして屈曲しているところになります。浅間山がある地帯は、南南西から北北東にのびる40kmx30kmにおよぶ低地帯があり、この低地はプレートの運動による構造的な窪地となっています。浅間山は、プレート境界で屈曲する火山帯という複雑な地質になっている場所なのです。
浅間山は、数10万年前から火山活動が活発に起こっています。浅間山は日本でも火山活動は、現在の残されている3つの火山に代表される3つの時期に分けられています。古いほうから黒斑(くろふ)火山による黒斑期、仏岩(ほとけいわ)火山の仏岩期、そして前掛(まえかけ)山の前掛期です。
東に開いた馬蹄形カルデラを持つ黒斑火山は、9万年前には活動を開始したと考えられています。標高2800mにも達した成層火山でしたが、2万3000年前ころに大規模な山体崩壊が起こります。この崩壊によって岩屑なだれが起こりました。その痕跡は泥流としてとして、周辺の流山地形や前橋台地などに残されています。黒斑期の活動は、2万1000年前ころには終了します。
仏岩火山は、現在の火山である前掛山の東側に隠れてはっきりとしません。しかし、その活動は周辺の地質調査から解明されています。仏岩火山は、黒斑火山の活動後の2万1000年から1万1000年前まで活動をしました。何度も噴火を繰り返しながら、1万3000年前に大噴火が起こります。この噴火は大規模なもので、長野県と群馬県の火山周辺500平方kmを、火山灰が平均10~30m、最大で50mの厚さで覆ったと考えられます。また南東の軽井沢にある離山は、仏岩期の初期活動で、デイサイトから流紋岩のマグマが火山ドームを形成したものです。仏岩火山の活動も、1万1000年前ころには終わります。
仏山火山と同じ場所で1万年前ころから前掛火山が活動をはじめ、現在も継続しています。大規模な噴火活動をしたは、8000年前、5000年前、685年(天武天皇14年:飛鳥時代)、1108年(嘉承3年、天仁元年:平安時代)、1783年(天明3年8月5日)が知られています。685年以降の活動は、人が記録を残している時代のものです。小規模な活動も活発で、何度も噴火を繰り返して、今回の噴火に至っています。日本でももっとも活動的な火山の一つです。
浅間山には、だいぶ以前になりますが、2001年9月にいったことがあります。そのときは、浅間山周辺をめぐり、鬼押し出し公園や浅間火山博物館、嬬恋郷土資料館など浅間の噴火に関わる場所をめぐりました。
天明の大噴火は、溶岩が流れ(現在の鬼押し出しの溶岩)と火砕流(浅間焼泥押)があり、1500人もの死者が出ました。そのときの様子は、嬬恋(つまごい)郷土資料館や鬼押出し園にある浅間火山博物館で紹介されています。
嬬恋郷土資料館のすぐ隣に鎌原(かんばら)観音堂があります。観音堂までは、15段の石段を登っていきます。しかし、この石段はもともとはもっと長いものだとされていました。下にあったはずの石段は、天明の大噴火による火砕流と岩屑なだれが埋もれてしまいました。
天明の大噴火は5月8日に始まりました。しばらく休止した後、6月25日に噴火し、また小康状態になりました。そして、7月17日に大きな噴火があり、8月4日から5日の未明にかけて最大の噴火が起こります。この噴火によって飛びだした火山灰によって、関東中部でも、昼なのに夜のように暗くなったと記録にあります。5日の午前10時ころ、鎌原火砕流が発生します。火砕流は地面削りながら、岩屑なだれとなり15kmも離れた鎌原村を直撃しました。岩屑なだれは、鎌原村の住民597名のうち、一瞬にして477名の命を飲み込みました。
昭和54年に埋もれている石段の発掘が行われました。岩屑なだれの厚さは、6mにも達し、35段の石段が埋もれていました。そこから、生き埋めになっていた2名の女性の遺骨も一緒に発掘されました。2名の女性は、老婆を背負った若い女性の遺体でした。そこにどのような物語があったかは、想像するしかありません。老いた母を背負って逃げるつもりの嫁だったのでしょうか。でも、彼女らは、あと数分、いやあと数十秒早く非難していたら、生き延びられたでしょう。
日本のある地域に限定してみると、火山噴火はそうそう起こるものではないといえます。ですから、多くの日本人にとって、火山は温泉や景観などの恵みを与えてくれるものです。特に、平野にある、一見火山とは無縁にみえる東京や横浜のような大都会の人にとっては、火山は恵みをもたらすものに映るかもしれません。しかし、今回の浅間の噴火のように、平野の真ん中の大都会でも火山灰が降ることもあるのです。
日本は火山列島なのです。その証拠に、日本の大地をどこを掘っても、必ずといっていいほど火山灰層がでてきます。それは、日本列島が火山列島であることを物語っています。
自然は、荒々しさを時に人に向けることがあります。ですから、自然現象には謙虚に臨まなければなりません。ただし、自然に恐れおののくだけではいけません。自然にどう立ち向かうべきかを、今回の噴火は教えてくれます。
現在の科学でも、火山の噴火を止めることはできません。しかし、今回の浅間の噴火のように十分な観測体制を整えれば、ある程度噴火を予知することは可能になってきました。そして、その予知に基づいて、防災のための行動をすれば、多くの命は救われるはずです。そのような知恵を私たちは持てるようになってきました。二度と親孝行の嫁をみすみす亡くすことがないように、心しなければなりません。
・火山見学・
浅間山にいったのは、2001年の9月でした。
そのころ私は、神奈川の博物館に勤務していました。
次男が生まれて1年半ほどたったころに、浅間山にでかけました。
浅間は、2001年の1月から4月にかけて
噴煙をだしていたのですが、
その後は活動が収まっていた時期でした。
新幹線を使えば、かなり気軽にいける距離でした。
そのときは、浅間山だけでなく、
近くにある白根山、榛名山も一緒に見てきました。
もちろん温泉に泊まりながらです。
そのときは、火山の恵みを味わっていました。
・暖冬・
今年の北海道は、雪も少なく、暖かい冬となっています。
ここ数年の雪の多い時期と比べると
除雪もあまりすることもなく、楽な冬を過ごしています。
雪が降ってもあまり多く降ることはなく、
休日には子供たちが除雪をしてくれます。
私が除雪をしたのは、数えるほどしかありません。
排雪場所に困るほどの量もありません。
昨年の夏に、大雪に備えて、屋根に雪庇対策を施しました。
今年は、その効果を確かめることができないようです。
2月2日夕方、自宅に帰ったとたん、テレビのニュースを見ていた家内が「浅間山が噴火したのを知ってる?」と聞きました。「知らない」といって、ニュースの映像を見ました。噴煙を上げている浅間山が見えた直後に画面が変わり、横浜での降灰の様子が示されました。車のボディーにうっすらと積もった火山灰が放映されていました。
私は、浅間山が、以前から要注意の活発な火山であることを知っていました。また、昨年の夏の小噴火は知っていたのですが、今回は噴火の兆候があったことは知りませんでした。ですから、浅間山が噴火と聞いたとき、少々驚きました。
浅間山の噴火は、2月2日の深夜1時51分頃に起こりました。噴火としては小規模でしたが、大きな火山弾が、山頂の火口から、1~1.2kmまで飛び散りました。噴煙は、上空2000mまでも達しました。そのときの風向きが南東方向だったので、浅間山から、埼玉県、東京都、神奈川県の一部に火山灰を降らしました。降灰は、房総半島の鴨川市内でも確認されました。この降灰の様子を2日の夕方のニュースは伝えていたのです。
浅間山は、2月9日7時46分ころにも小さな噴火が起こり、その後しばらく断続的に噴火をしています。9日の噴火はあまり大きくはなく、周辺地域で降灰が少しあった程度でした。噴気や小規模な噴火は、現在も継続中です。
浅間山の噴火の兆候は、火山観測網が捉えていました。傾斜計や地震計、GPS、空震計、望遠カメラによる観測によって捕らえた兆候に基づいて、気象庁地震火山部は、2月1日午後1時、「火口から4キロメートルの範囲に影響を及ぼす噴火が切迫していると予想」して、「噴火予報・警報 第1号」を発表しました。
火口周辺警報として、噴火警戒レベルがそれまでレベル2であったのが、レベル3に変更されました。レベル2とは火口周辺規制、つまり火口周辺への立入の禁止ですが、レベル3になると、入山規制、つまり山への立ち入り禁止と、状況に応じては災害時要援護者(重度の障害者やひとり暮らし高齢者など日常においても支援を必要とする人)の避難準備がおこなわれます。
また、2月3日には、「噴火予報・警報 第2号」が出されました。噴火したのですが、今後も噴火の危険性があるので、噴火警戒レベル3を継続することが、周辺地域の自治体に通知されました。
浅間山は、群馬県と長野県の境にある標高2568mの山頂の火口を持つ活火山です。火山のある場所は、地質学的に複雑な位置になります。
本州を2分するフォッサマグナとよばれる大断層の中ほどで、断層の東側にあたります。フォッサマグナは、ユーラシアプレートと北アメリカプレートの境界になります。また、北から続いている東北の火山フロントと、南の伊豆マリアの火山フロントがぶつかり、そして屈曲しているところになります。浅間山がある地帯は、南南西から北北東にのびる40kmx30kmにおよぶ低地帯があり、この低地はプレートの運動による構造的な窪地となっています。浅間山は、プレート境界で屈曲する火山帯という複雑な地質になっている場所なのです。
浅間山は、数10万年前から火山活動が活発に起こっています。浅間山は日本でも火山活動は、現在の残されている3つの火山に代表される3つの時期に分けられています。古いほうから黒斑(くろふ)火山による黒斑期、仏岩(ほとけいわ)火山の仏岩期、そして前掛(まえかけ)山の前掛期です。
東に開いた馬蹄形カルデラを持つ黒斑火山は、9万年前には活動を開始したと考えられています。標高2800mにも達した成層火山でしたが、2万3000年前ころに大規模な山体崩壊が起こります。この崩壊によって岩屑なだれが起こりました。その痕跡は泥流としてとして、周辺の流山地形や前橋台地などに残されています。黒斑期の活動は、2万1000年前ころには終了します。
仏岩火山は、現在の火山である前掛山の東側に隠れてはっきりとしません。しかし、その活動は周辺の地質調査から解明されています。仏岩火山は、黒斑火山の活動後の2万1000年から1万1000年前まで活動をしました。何度も噴火を繰り返しながら、1万3000年前に大噴火が起こります。この噴火は大規模なもので、長野県と群馬県の火山周辺500平方kmを、火山灰が平均10~30m、最大で50mの厚さで覆ったと考えられます。また南東の軽井沢にある離山は、仏岩期の初期活動で、デイサイトから流紋岩のマグマが火山ドームを形成したものです。仏岩火山の活動も、1万1000年前ころには終わります。
仏山火山と同じ場所で1万年前ころから前掛火山が活動をはじめ、現在も継続しています。大規模な噴火活動をしたは、8000年前、5000年前、685年(天武天皇14年:飛鳥時代)、1108年(嘉承3年、天仁元年:平安時代)、1783年(天明3年8月5日)が知られています。685年以降の活動は、人が記録を残している時代のものです。小規模な活動も活発で、何度も噴火を繰り返して、今回の噴火に至っています。日本でももっとも活動的な火山の一つです。
浅間山には、だいぶ以前になりますが、2001年9月にいったことがあります。そのときは、浅間山周辺をめぐり、鬼押し出し公園や浅間火山博物館、嬬恋郷土資料館など浅間の噴火に関わる場所をめぐりました。
天明の大噴火は、溶岩が流れ(現在の鬼押し出しの溶岩)と火砕流(浅間焼泥押)があり、1500人もの死者が出ました。そのときの様子は、嬬恋(つまごい)郷土資料館や鬼押出し園にある浅間火山博物館で紹介されています。
嬬恋郷土資料館のすぐ隣に鎌原(かんばら)観音堂があります。観音堂までは、15段の石段を登っていきます。しかし、この石段はもともとはもっと長いものだとされていました。下にあったはずの石段は、天明の大噴火による火砕流と岩屑なだれが埋もれてしまいました。
天明の大噴火は5月8日に始まりました。しばらく休止した後、6月25日に噴火し、また小康状態になりました。そして、7月17日に大きな噴火があり、8月4日から5日の未明にかけて最大の噴火が起こります。この噴火によって飛びだした火山灰によって、関東中部でも、昼なのに夜のように暗くなったと記録にあります。5日の午前10時ころ、鎌原火砕流が発生します。火砕流は地面削りながら、岩屑なだれとなり15kmも離れた鎌原村を直撃しました。岩屑なだれは、鎌原村の住民597名のうち、一瞬にして477名の命を飲み込みました。
昭和54年に埋もれている石段の発掘が行われました。岩屑なだれの厚さは、6mにも達し、35段の石段が埋もれていました。そこから、生き埋めになっていた2名の女性の遺骨も一緒に発掘されました。2名の女性は、老婆を背負った若い女性の遺体でした。そこにどのような物語があったかは、想像するしかありません。老いた母を背負って逃げるつもりの嫁だったのでしょうか。でも、彼女らは、あと数分、いやあと数十秒早く非難していたら、生き延びられたでしょう。
日本のある地域に限定してみると、火山噴火はそうそう起こるものではないといえます。ですから、多くの日本人にとって、火山は温泉や景観などの恵みを与えてくれるものです。特に、平野にある、一見火山とは無縁にみえる東京や横浜のような大都会の人にとっては、火山は恵みをもたらすものに映るかもしれません。しかし、今回の浅間の噴火のように、平野の真ん中の大都会でも火山灰が降ることもあるのです。
日本は火山列島なのです。その証拠に、日本の大地をどこを掘っても、必ずといっていいほど火山灰層がでてきます。それは、日本列島が火山列島であることを物語っています。
自然は、荒々しさを時に人に向けることがあります。ですから、自然現象には謙虚に臨まなければなりません。ただし、自然に恐れおののくだけではいけません。自然にどう立ち向かうべきかを、今回の噴火は教えてくれます。
現在の科学でも、火山の噴火を止めることはできません。しかし、今回の浅間の噴火のように十分な観測体制を整えれば、ある程度噴火を予知することは可能になってきました。そして、その予知に基づいて、防災のための行動をすれば、多くの命は救われるはずです。そのような知恵を私たちは持てるようになってきました。二度と親孝行の嫁をみすみす亡くすことがないように、心しなければなりません。
・火山見学・
浅間山にいったのは、2001年の9月でした。
そのころ私は、神奈川の博物館に勤務していました。
次男が生まれて1年半ほどたったころに、浅間山にでかけました。
浅間は、2001年の1月から4月にかけて
噴煙をだしていたのですが、
その後は活動が収まっていた時期でした。
新幹線を使えば、かなり気軽にいける距離でした。
そのときは、浅間山だけでなく、
近くにある白根山、榛名山も一緒に見てきました。
もちろん温泉に泊まりながらです。
そのときは、火山の恵みを味わっていました。
・暖冬・
今年の北海道は、雪も少なく、暖かい冬となっています。
ここ数年の雪の多い時期と比べると
除雪もあまりすることもなく、楽な冬を過ごしています。
雪が降ってもあまり多く降ることはなく、
休日には子供たちが除雪をしてくれます。
私が除雪をしたのは、数えるほどしかありません。
排雪場所に困るほどの量もありません。
昨年の夏に、大雪に備えて、屋根に雪庇対策を施しました。
今年は、その効果を確かめることができないようです。
2009-01-15
49 天橋立:水面下にもある橋
Time:
9:31
●
Geologist
2009年の最初のエッセイとして、日本三景の一つの天橋立を紹介しましょう。天橋立は、砂州のなす形だけでなく、白砂と松の緑、海の青が織り成すコントラストが、景勝地と見ごたえのあるものにしています。
息子たちが通っている小学校では、冬には百人一首をやることになっています。私は北海道に来てはじめてその存在を知ったのですが、取り札が木でできているものを使って行われています。木の札には、読めそうもない崩した草書のような字体で下の句が書かれています。昔ながらの札を使っているのではなく、現在も店で売っていっています。我が家でも一セット購入しました。
ゲームは3人ずつの団体戦で行われます。下の句だけを読んで取り合うもので、源平合戦と呼ばれる北海道固有の競技のようです。我が家でも、冬になるとやっています。
百人一首には、よく日本各地の景勝地も詠まれています。残念ながら北海道の景勝地は入っていませんが。私も高校時代に百人一首を覚えたものですが、いまだにいくつも記憶に残っています。
その一つに、和泉式部(いずみしきぶ)の娘、小式部内侍(こしきぶのないし)の詠んだ
大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみもみず 天橋立
という歌があります。
その歌が心に残っているのは、大江山(カンラン岩でできていることで有名)も生野(生野銀山として古くから有名)も、いずれも地質学では有名なところです。地質学でその地名を聞くたびに、ついついこの歌を思い出してしまいます。いずれの地も、私が大学院時代に、地質調査に出かけた記憶に残るところです。
天橋立も大学院時代にいったのですが、調査をしたことはありませんでした。昨年の春、再度訪れました。今回は、家族連れでの観光なので、天橋立を徒歩で歩くということもやってみました。のんびりと歩いても、1時間ほども歩けば渡れる距離でもあります。帰りは、船で天橋立を眺めながら帰ってきました。
天橋立は景勝地として有名ですが、地質学的に興味深いところでもあります。
天橋立は、北の江尻から、南の文殊にかけて、延長は約3.6kmあり、幅は20~150mもある砂洲です。この砂州は、野田川が運んだ土砂や日本海沿岸から海流によって運ばれた砂礫によって形成されてたものです。
砂州は、南北に伸びた宮津湾の南側に形成されています。宮津湾の西南に膨らんだ入り江の部分を、南北に区切るようにあります。砂州の内側の海は、阿蘇海(あそかい)と呼ばれています。
阿蘇海は、砂州の内側になった海跡湖とよばれるもので、日本海では、海跡湖としては、面積に比べて深い深度を持つことが特徴となります。阿蘇海は、2箇所で宮津湾で海につながっています。つまり、天橋立は、海を完全に閉ざしている砂州ではなく、南側で海につながる水路があります。阿蘇海は、砂州が切れて宮津湾へとつながっていますが、狭い水路なので海水の循環が悪く、富栄養化が起こり問題となっています。
天橋立には、他の砂州にあまり見られない固有の特徴があります。
まず、天橋立の両側の海底へ向かう斜面は、宮津湾側で20m、阿蘇海でも12mの水深があり、急斜面となっています。天橋立は、深い海に20m以上の厚さで堆積した、そして急傾斜の砂州という特徴を持っています。つまり、深い海底に唐突つけられた一筋の陸路のようになっています。
天橋立では、松の緑が白砂に映えています。このクロマツの松林は、その数、5000本とも8000本ともいわれるほどあります。海の中に形成された砂州に松林があるのは、少々不思議です。なぜなら、海の中の砂州で掘れば海水が出てくるはずなのですが、地下に淡水があるということです。
淡水は海から運べませんから、陸から地下水が流れていることになります。砂州の南側には、「磯清水」とよばれる淡水の井戸があります。実は、天橋立は、砂州全体にわたって、60cmから1.2mほどの深さで地下水脈があります。このような地下水脈は北側の江尻側から流れ込んできているものと思われます。天橋立は、淡水の地下水が流れる砂州という特徴があります。
砂州の中なのに真水の出る「磯清水」があるのをみた和泉式部(いづみしきぶ)は、その不思議さに、
橋立の 松の下なる 磯清水 都なりせば 君も汲ままし
と詠みました。
さて、天橋立と呼ばれる砂州は、いつどのようにしてできたのでしょうか。
阿蘇海に流れ込む野田川があります。この野田川は、断層に沿って流れている川です。その断層は、山田断層とよばれ、非常に大きなものです。山田断層は、北東から南西に33kmほどの長さ延びていることが確認されています。この断層は、北西側が隆起し、北東に移動する(右にずれ断層)という動きをしています。山田断層は、1927年の北丹後地震で活動しています。
約2万年前の最終氷河期には、海水準は100mほど今より低かったと考えられています。氷河期が終わり、海水準が高くなり、6000年前の縄文海進のころには、現在より2mほど海水準が上がったと考えられています。野田川沿いに堆積した地層との対比から、縄文海進のころから、砂州の形成がはじまったと考えれています。
砂州は、海流や沿岸流、河川の状態、土砂の流量など、さまざまな要因で変動を受けて変化します。ですから、砂州は、安定したものではなく、要因が変化すれば、その形状も変形するものです。現在、天橋立は、阿蘇海を閉ざすほどの長さがありますが、第二次世界大戦以降、砂州の侵食が起こっています。それは、治水のために作られた河川のダムによって、海に流れ込む堆積物が減ったためだと考えられます。1987年からは砂州を守るために、サンドバイパスを設け人工的に砂州の地形の維持しようと努力されています。
室町時代に活躍した水墨画家で禅僧でもある雪舟も、天橋立にきて描いています。その絵は現存しており、国宝「天橋立図」として、京都国立博物館に所蔵されています。
この「天橋立図」は、雪舟が晩年の1501~1506頃に書いたことがわかっています。雪舟観(せっしゅうかん)と呼ばるところとから見たもので、東側から天橋立を見下ろす構図になっています。その絵を見ますと、天橋立は南の文殊側が、広く開いた形状となっています。ですから、砂州は今よりずっと短かったことがわかります。
日本三景は、古くから日本でも有数の名勝地となっています。Wikipediaによれば、江戸時代前期(17世紀)、儒学者・林春斎という儒学者が書いた「日本国事跡考」の中で「丹後天橋立、陸奥松島、安芸厳島、三処を奇観と為す」と書き、それ以降日本三景がはじまったとあります。
陸奥松島とは、現在の宮城県宮城郡松島町の沿岸の多島海の景観です。安芸厳島とは、広島県廿日市市にある厳島神社を中心とした宮島のことです。今では、「安芸の宮島」のほうがよく聞かれます。海上の赤の大鳥居と海の上に建てられた社殿が有名で、国宝にも指定されています。
日本三景のうち、「安芸の宮島」の厳島神社は1996年に世界遺産に登録されました。天橋立も世界遺産への登録の努力はされていますが、いまだに実現されていません。その理由は、夏の海水浴客がたくさん来て、観光地化して自然が保護されづらいこと、また砂防のために人工物が多数設置されていることもハンディになるかもしれません。
景勝を守るために、自然を大きく改変するのは主客転倒かもしれません。やむにやまれぬ、それなり理由があるのでしょうが、自然に人間が関与するのもほどほどにしておくほうがいいでしょう。まして、砂州とは地質学的は短時間で変動するものです。そこに砂防をしても、自然の変化を押し込めることはできないでしょう。それにそのような対策を施された自然景観は本当の自然景観といえるのでしょうか。今回の旅で、その不自然さを強く感じました。
天橋立は、自然が時間をかけて、深い海底にできた分厚い堆積物の架け橋です。その橋の中には、地下水が流れています。地下水によって、多数の松が育ちました。この架け橋は、まるで生きているかのように、変移し続けています。自然の変化を止めることは、自然を守る正しいやり方でしょうか。自然の変化をも受け入れられる精神が必要ではないでしょうか。あるがままの自然を受け入れた上で、愛(め)で慈(いつく)しむ気持ちこそ、大切ではないでしょうか。
・砂州から砂嘴へ・
天橋立は、地形の上では砂州と呼ぶべきです。
砂州とは、離れた二つの陸地がつながるほど延びたもので、
つながらず離れていたり、海に突き出ているものを
砂嘴(さし)と呼んでいます。
砂州と砂嘴は、その形成のプロセスは似ていますが、
その状態が陸続きのようになっているかどうかが違いといえます。
ですから、砂州が侵食され離れていけば、
砂嘴と呼ぶべきものになります。
雪舟のみた天橋立は、砂嘴というべきものかもしれません。
もし、侵食で天橋立が砂州から砂嘴になったら、
そこは景勝地ではなくなるでしょうか。
少なくとも、500年前には景勝地でした。
変わることを拒んではいけません。
変わることを受け入れるべきでしょう。
・ネタ不足・
今回のメールマガジンは、発行が少し遅れました。
私の怠慢のせいです。
申し訳ありませんでした。
その背景には、少々ネタ不足になってきました。
最近、でかける余裕がなくなってきたためです。
もっといろいろなところに出かけたいのですが、
なかなかそうもいかなくなってきました。
少なくなったとはいえ、
昨年も春休みと夏休みに1週間ずつ出かけています。
それでも、はやり少ないようです。
本当はもっと出かけたいのですが、
現実的には段々難しくなってきます。
来年度は、講義日程ももっときつくなります。
次回以降、このエッセイも
やりかたを少々考えなければならないかもしれませんね。
息子たちが通っている小学校では、冬には百人一首をやることになっています。私は北海道に来てはじめてその存在を知ったのですが、取り札が木でできているものを使って行われています。木の札には、読めそうもない崩した草書のような字体で下の句が書かれています。昔ながらの札を使っているのではなく、現在も店で売っていっています。我が家でも一セット購入しました。
ゲームは3人ずつの団体戦で行われます。下の句だけを読んで取り合うもので、源平合戦と呼ばれる北海道固有の競技のようです。我が家でも、冬になるとやっています。
百人一首には、よく日本各地の景勝地も詠まれています。残念ながら北海道の景勝地は入っていませんが。私も高校時代に百人一首を覚えたものですが、いまだにいくつも記憶に残っています。
その一つに、和泉式部(いずみしきぶ)の娘、小式部内侍(こしきぶのないし)の詠んだ
大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみもみず 天橋立
という歌があります。
その歌が心に残っているのは、大江山(カンラン岩でできていることで有名)も生野(生野銀山として古くから有名)も、いずれも地質学では有名なところです。地質学でその地名を聞くたびに、ついついこの歌を思い出してしまいます。いずれの地も、私が大学院時代に、地質調査に出かけた記憶に残るところです。
天橋立も大学院時代にいったのですが、調査をしたことはありませんでした。昨年の春、再度訪れました。今回は、家族連れでの観光なので、天橋立を徒歩で歩くということもやってみました。のんびりと歩いても、1時間ほども歩けば渡れる距離でもあります。帰りは、船で天橋立を眺めながら帰ってきました。
天橋立は景勝地として有名ですが、地質学的に興味深いところでもあります。
天橋立は、北の江尻から、南の文殊にかけて、延長は約3.6kmあり、幅は20~150mもある砂洲です。この砂州は、野田川が運んだ土砂や日本海沿岸から海流によって運ばれた砂礫によって形成されてたものです。
砂州は、南北に伸びた宮津湾の南側に形成されています。宮津湾の西南に膨らんだ入り江の部分を、南北に区切るようにあります。砂州の内側の海は、阿蘇海(あそかい)と呼ばれています。
阿蘇海は、砂州の内側になった海跡湖とよばれるもので、日本海では、海跡湖としては、面積に比べて深い深度を持つことが特徴となります。阿蘇海は、2箇所で宮津湾で海につながっています。つまり、天橋立は、海を完全に閉ざしている砂州ではなく、南側で海につながる水路があります。阿蘇海は、砂州が切れて宮津湾へとつながっていますが、狭い水路なので海水の循環が悪く、富栄養化が起こり問題となっています。
天橋立には、他の砂州にあまり見られない固有の特徴があります。
まず、天橋立の両側の海底へ向かう斜面は、宮津湾側で20m、阿蘇海でも12mの水深があり、急斜面となっています。天橋立は、深い海に20m以上の厚さで堆積した、そして急傾斜の砂州という特徴を持っています。つまり、深い海底に唐突つけられた一筋の陸路のようになっています。
天橋立では、松の緑が白砂に映えています。このクロマツの松林は、その数、5000本とも8000本ともいわれるほどあります。海の中に形成された砂州に松林があるのは、少々不思議です。なぜなら、海の中の砂州で掘れば海水が出てくるはずなのですが、地下に淡水があるということです。
淡水は海から運べませんから、陸から地下水が流れていることになります。砂州の南側には、「磯清水」とよばれる淡水の井戸があります。実は、天橋立は、砂州全体にわたって、60cmから1.2mほどの深さで地下水脈があります。このような地下水脈は北側の江尻側から流れ込んできているものと思われます。天橋立は、淡水の地下水が流れる砂州という特徴があります。
砂州の中なのに真水の出る「磯清水」があるのをみた和泉式部(いづみしきぶ)は、その不思議さに、
橋立の 松の下なる 磯清水 都なりせば 君も汲ままし
と詠みました。
さて、天橋立と呼ばれる砂州は、いつどのようにしてできたのでしょうか。
阿蘇海に流れ込む野田川があります。この野田川は、断層に沿って流れている川です。その断層は、山田断層とよばれ、非常に大きなものです。山田断層は、北東から南西に33kmほどの長さ延びていることが確認されています。この断層は、北西側が隆起し、北東に移動する(右にずれ断層)という動きをしています。山田断層は、1927年の北丹後地震で活動しています。
約2万年前の最終氷河期には、海水準は100mほど今より低かったと考えられています。氷河期が終わり、海水準が高くなり、6000年前の縄文海進のころには、現在より2mほど海水準が上がったと考えられています。野田川沿いに堆積した地層との対比から、縄文海進のころから、砂州の形成がはじまったと考えれています。
砂州は、海流や沿岸流、河川の状態、土砂の流量など、さまざまな要因で変動を受けて変化します。ですから、砂州は、安定したものではなく、要因が変化すれば、その形状も変形するものです。現在、天橋立は、阿蘇海を閉ざすほどの長さがありますが、第二次世界大戦以降、砂州の侵食が起こっています。それは、治水のために作られた河川のダムによって、海に流れ込む堆積物が減ったためだと考えられます。1987年からは砂州を守るために、サンドバイパスを設け人工的に砂州の地形の維持しようと努力されています。
室町時代に活躍した水墨画家で禅僧でもある雪舟も、天橋立にきて描いています。その絵は現存しており、国宝「天橋立図」として、京都国立博物館に所蔵されています。
この「天橋立図」は、雪舟が晩年の1501~1506頃に書いたことがわかっています。雪舟観(せっしゅうかん)と呼ばるところとから見たもので、東側から天橋立を見下ろす構図になっています。その絵を見ますと、天橋立は南の文殊側が、広く開いた形状となっています。ですから、砂州は今よりずっと短かったことがわかります。
日本三景は、古くから日本でも有数の名勝地となっています。Wikipediaによれば、江戸時代前期(17世紀)、儒学者・林春斎という儒学者が書いた「日本国事跡考」の中で「丹後天橋立、陸奥松島、安芸厳島、三処を奇観と為す」と書き、それ以降日本三景がはじまったとあります。
陸奥松島とは、現在の宮城県宮城郡松島町の沿岸の多島海の景観です。安芸厳島とは、広島県廿日市市にある厳島神社を中心とした宮島のことです。今では、「安芸の宮島」のほうがよく聞かれます。海上の赤の大鳥居と海の上に建てられた社殿が有名で、国宝にも指定されています。
日本三景のうち、「安芸の宮島」の厳島神社は1996年に世界遺産に登録されました。天橋立も世界遺産への登録の努力はされていますが、いまだに実現されていません。その理由は、夏の海水浴客がたくさん来て、観光地化して自然が保護されづらいこと、また砂防のために人工物が多数設置されていることもハンディになるかもしれません。
景勝を守るために、自然を大きく改変するのは主客転倒かもしれません。やむにやまれぬ、それなり理由があるのでしょうが、自然に人間が関与するのもほどほどにしておくほうがいいでしょう。まして、砂州とは地質学的は短時間で変動するものです。そこに砂防をしても、自然の変化を押し込めることはできないでしょう。それにそのような対策を施された自然景観は本当の自然景観といえるのでしょうか。今回の旅で、その不自然さを強く感じました。
天橋立は、自然が時間をかけて、深い海底にできた分厚い堆積物の架け橋です。その橋の中には、地下水が流れています。地下水によって、多数の松が育ちました。この架け橋は、まるで生きているかのように、変移し続けています。自然の変化を止めることは、自然を守る正しいやり方でしょうか。自然の変化をも受け入れられる精神が必要ではないでしょうか。あるがままの自然を受け入れた上で、愛(め)で慈(いつく)しむ気持ちこそ、大切ではないでしょうか。
・砂州から砂嘴へ・
天橋立は、地形の上では砂州と呼ぶべきです。
砂州とは、離れた二つの陸地がつながるほど延びたもので、
つながらず離れていたり、海に突き出ているものを
砂嘴(さし)と呼んでいます。
砂州と砂嘴は、その形成のプロセスは似ていますが、
その状態が陸続きのようになっているかどうかが違いといえます。
ですから、砂州が侵食され離れていけば、
砂嘴と呼ぶべきものになります。
雪舟のみた天橋立は、砂嘴というべきものかもしれません。
もし、侵食で天橋立が砂州から砂嘴になったら、
そこは景勝地ではなくなるでしょうか。
少なくとも、500年前には景勝地でした。
変わることを拒んではいけません。
変わることを受け入れるべきでしょう。
・ネタ不足・
今回のメールマガジンは、発行が少し遅れました。
私の怠慢のせいです。
申し訳ありませんでした。
その背景には、少々ネタ不足になってきました。
最近、でかける余裕がなくなってきたためです。
もっといろいろなところに出かけたいのですが、
なかなかそうもいかなくなってきました。
少なくなったとはいえ、
昨年も春休みと夏休みに1週間ずつ出かけています。
それでも、はやり少ないようです。
本当はもっと出かけたいのですが、
現実的には段々難しくなってきます。
来年度は、講義日程ももっときつくなります。
次回以降、このエッセイも
やりかたを少々考えなければならないかもしれませんね。
2008-12-15
48 中央構造線の土砂災害:記憶と記録(2008.12.15)
Time:
9:30
●
Geologist
12月ともなれば、その年のことをいろいろ思い返してしまいます。今年は社会では、政治や経済がいろいろ話題になりましたが、私は自然災害が少ない年だったように感じました。人は、平穏な日々を過ごすと、その平穏さのありがたさを感じることがあまりありません。一方、特別なこと、異常や危険なことなどがあれば、記憶に残ります。ですから、平穏な時期は、たとえ異常が潜んでいても、気づかないことがあります。この記憶は、記録と一致するわけであはりません。もちろん。自然災害に襲われた地域や人は、今年は特別な年であったと記憶するでしょうが。
気象庁の記録によれば、今年の台風の上陸はゼロです(正確には12月末を過ぎるまで決定ではありませんが)。確かに記憶をたどっても、大雨や集中豪雨のニュースはあったのですが、台風による被害のニュースは聞きませんでした。
統計をみると、平年(1971年~2000年の30年間の平均)の台風は、発生数が26.7個、接近数は10.8個、上陸数は2.6個となっています。平年と比べると、今年は0個で上陸数が少なかったことになります。台風の発生数を見ても、21個と平年よりやや少なくなっています。台風の上陸がゼロという数は、1984年、1986年、そして2000年にもありましたが、はやり異常な記録といえます。しかし、記憶にはまったく残らない記録です。
一方、2004年は記録的な数の台風が日本を襲いました。発生数は例年比べて29個とやや多いだけですが、過去の記録を見ると、もっと多い年がいくつもあります。最多は1967年の39個にも達します。ところが2004年は、接近数も19個、上陸数も10個となり、史上最多となっています。まだ記憶されている方も多いと思いますが、そのいくつかは、日本各地に大きな被害を与えました。
2004年の前後の2003年(発生数21個、上陸数2個)と2005年(発生数23個、上陸数3個)は、通常の台風の数となっています。これは、気象庁が残している記録です。人の記憶にも、2004年の台風は残っていることでしょう。しかし、記憶は、記録と必ずしも一致するわけではありません。
2004年は、多く台風が上陸したので、各域で被害がありましたが、たぶん多くの人も台風の被害を記憶しているでしょう。私は本州でその被害を目の当たりにしました。ですから、この年の台風は記憶に焼きついたものとなっています。
私は夏過ぎにたいてい四国の愛媛県西予市城川町に調査に出かけます。2004年の9月にも城川に出かけていました。私が行った9月のはじめまでに、四国を襲った台風は、すでに5個にも達していて、多くの被害を出していました。
なかでも台風16号は、四国に大きな被害を与えました。この台風は大型で、しかもゆっくりと移動していたため、大量の雨による洪水、風による被害も大きくなりました。私が訪れる直前に、この台風16号が四国西部を襲いました。台風16号は大量の雨が降ったので、予想外の土石流の発生が各地で起こりました。四国の瀬戸内海側の山間部で大きな土砂災害を出しました。城川周辺各地でも、土砂災害の被害を出していました。
土砂災害には、地すべり、崖崩れ、土石流があります。中でも、土石流は土砂災害の約75%を占めます。台風時には、海岸では洪水や強風、高波を注意をするのですが、傾斜地や山地では土砂災害に注意が必要です。傾斜の急な沢ぞいにたまった岩石や土砂、砂礫が、豪雨、地震、融雪などによって、周辺の木などをまきこんで、一気に流がれ下るのが土石流です。水の中にさまざまな大きさの岩石や木を含んでいるので、単なる水害と比べて被害が大きくなります。
土石流は非常に危険なので、国土交通省の河川局が、土石流の危険性がある地域を「土石流危険渓流」として指定しています。全国で18万カ所以上にもなります。野外調査をしていると、急な河川でが「土石流危険渓流」と書いた看板を見かけることがあります。
2004年の台風16号による土石流の被害を、土木の専門家が調査しました。その報告では、もともと四国の瀬戸内側の山岳地帯は、表土が薄く土石流の発生の危険性が高いということを伝えてました。なぜ、この地域で表土が薄く土石流の発生しやすいのかを、地質学的に見ていきましょう。
まず、表土についてです。表土は、硬い岩盤の上を覆う固まっていない層のことをいいます。表土は、砂礫だけのこともありますが、多くの場合は、岩盤が壊れた砂礫の層の上に、植物が分解された層(土壌)が形成され、両者が表土を構成しています。
表土の厚さは、その地の岩盤となっている岩石の種類、岩盤の傾斜、風化を受けていた期間、その地域の気候・風土など、さまざま条件が複雑に関係しています。しかし、岩盤の性質が、表土の厚さを決める一番大きい要素だと考えられます。
岩盤が固い岩石だと、岩石が壊れにくくなり、表土は形成されにくく薄くなります。また、硬いが崩れやすい岩盤でも、表土ができてもすぐ崩れてしまうので、厚くなることなく、薄いままになります。
四国の地質を考えていくと、四国山地の太平洋側には、四万十層群と呼ばれる堆積岩からできている地層が発達しています。硬い岩石ですが、日本列島にプレートテクトニクスによって、海側から付け加わった付加体と呼ばれるもので、海に向かって傾斜しています。
四国の中央山地から瀬戸内側にかけては、南から秩父(ちちぶ)帯、三波川(さんばがわ)帯、和泉(いずみ)層群という地質帯が、東西に伸びて並んでいます。和泉層群の中には領家帯の花崗岩や変成岩が入り込んでいます。
それぞれの帯の境界には、大きな断層があります。四万十層群と秩父帯の境界は、仏像構造線という大断層があります。秩父帯の中には、やはり東西に伸びる黒瀬川構造帯という断層運動でつくられた地帯があります。秩父帯は黒瀬川構造帯より南側を、三宝山帯と呼ぶことがあります。秩父帯と三波川帯の間には、御荷鉾構造線という大断層があります。三波川帯と和泉層群あるいは領家帯の間には、有名な中央構造線があります。
それぞれの断層は日本でも第一級の断層で、断層周辺の地層は、変形を受けて、壊れやすくなっています。また、四国の瀬戸内海の山側には、三波川帯が分布しています。三波川帯は変成岩からできています。高い圧力によってできたタイプの変成岩で、ぺらぺらとはがれやすい結晶片岩とよばれる岩石を主としています。そこに断層によって、より崩れやすい岩石になっている考えられます。結晶片岩が表層に出ている地域は、表土が崩れやすく薄い地域になっていると考えられます。
三波川帯では、一般的に表土とその下の岩盤とでは、物質の性質がかなり違います。表土の底には、砂礫があり、雨が降るとそこまでは水がしみ込みますが、岩盤は硬い岩石なのではなかなかしみ込みません。そのため表土中に水が溜め込まれることになりますが、表土が薄い地域に大量の雨が降ると、水は表土の底を流れ始めます。すると、表土自体が不安定になり、土砂崩れや土石流などの土砂災害となります。
台風によって短時間に大量の雨が降りました。その結果、四国の瀬戸内海の山側で、各地で土石流がおこり、各地で被害を出したのでしょう。被害は、このような地質の背景によるものだと考えられます。
私の四国滞在中にも、台風18号の襲われました。激しい雨と風の中を車で移動した記憶が鮮明に残っています。この台風18号は、北海道にも上陸し、北海道大学のポプラ並木が倒れたり、積丹半島でも高潮によって大きな危害がありました。積丹半島には、被災直後に訪れました。この体験を、本エッセイの「07 積丹半島:シャコタン・ブルーの海に抱かれて」
http://terra.sgu.ac.jp/geo_essay/2005/07.html
で紹介しました。参考にしていただければと思います。
2004年は台風の最多上陸数ですが、その記録は、私にとっても、多くの被害の記憶となって重なっています。ところが私には、2004年だけでなく、2003年も台風に対する強い記憶があります。それは、2003年にも、台風の被害をいくつか身近に感じたためです。
2003年の9月、台風10号が四国を襲う直前まで、私はやはり城川にいて、台風に追われるように北海道に戻ったことがありました。その台風10号によって、城川では2人の死者を出しました。そのうちの1人は、城川に住んでいる友人の同級生でした。帰宅後その連絡を聞いて、自分の身近なところで、台風の犠牲者がでたことに驚きました。
さらに2003年には、台風が北海道を上陸し、各地で被害を出しました。しばらく後に、私は台風の被災地である鵡川に行きましたが、その感想は「地球のつぶやき」の「22 災害と倫理:北海道の被災地を調査して」
http://terra.sgu.ac.jp/monolog/2003/22.html
で紹介しました。
2003年と2004年は、私にとっては、台風の被害が強く記憶されている年です。2004年の台風の被害は全国に及ぶのですが、2003年のものは北海道や、四国の限られた地域で起こり、たまたま経験したものでした。大きな台風、多数の台風は、多くの地域で被害を出します。被災地では、その台風は強く人の記憶に残されます。少なければ、限られて人にだけにしか記憶されません。私は、その両者が2年にわたって記憶されています。
台風だけでなく一般に自然現象は、人に与えた影響の程度と回数によって記憶になっていくのでしょう。記憶は、数や統計とは必ずしも一致しません。さらにいえば、幸運にも自然災害がないという記録は、たとえ歴史的に珍しいものであったとしても、記憶には残らないのです。
でも、「平穏の記録は記憶に残らない」ということは、記憶しておくべきなのかもしれません。なぜなら、自然が与えてくるれ平穏は、自然災害より圧倒的に多くの時間と豊かさを与えてくれるからです。自然の平穏さなしには、私たちの生活が成り立たないからです。自然の恵みの感謝して、今年最後のエッセイを終えましょう。
・故郷・
私は、城川に、毎年のように通っていて、
1992年にはじめていって以来、もう16年目になります。
今年は、別のところに出かける予定があったので
城川にはいけませんでした。
家族で訪ねたことがあります。
2010年4月からは、大学の留学制度をつかって、
1年間、城川で暮らす予定です。
城川とは付き合いが、ますます深まっていきそうです。
私には、城川は第2の故郷のような気がします。
いつも来るたびにほっとした気持ちになります。
もしかすると私の本当の生まれ故郷が、
故郷らしくなくなったせいかもしれません。
私が生まれ育った京都は、開発が進んで、
子供のころに過ごした風物や自然は、
ほとんどなくなり宅地なってしまいました。
今でも、京都には母や弟が住んでいますが、
故郷に帰ったとしても、彼らに会うことが目的で、
周りの自然を懐かしく思うことはなくなりました。
城川は、私が生まれた町よりもっと山里で自然が残っています。
それが私の記憶の故郷と似ているのかもしれません。
・やり残し・
いよいよ今年も残すところあと少しです。
年末になると、今年を振り返ってしまいます。
今回のエッセイもそのようなものになりました。
私は、やり残したことがいろいろあります。
もちろんいくつかできたこともあります。
しかし、年の瀬には、なぜかできたことより
遣り残したことが頭に浮かびます。
これは、遣り残していることが
頭に常に付きまとっているからでしょうか。
でも、その多くは、自分の怠惰さや
努力の足りなさに由来するものです。
まあ、自業自得というものです。
でも、まだ、今年が終わったわけではありません。
まだ残された日々があります。
その日々を有効に使うためにも、
やり残しを少しでも片付けましょうか。
気象庁の記録によれば、今年の台風の上陸はゼロです(正確には12月末を過ぎるまで決定ではありませんが)。確かに記憶をたどっても、大雨や集中豪雨のニュースはあったのですが、台風による被害のニュースは聞きませんでした。
統計をみると、平年(1971年~2000年の30年間の平均)の台風は、発生数が26.7個、接近数は10.8個、上陸数は2.6個となっています。平年と比べると、今年は0個で上陸数が少なかったことになります。台風の発生数を見ても、21個と平年よりやや少なくなっています。台風の上陸がゼロという数は、1984年、1986年、そして2000年にもありましたが、はやり異常な記録といえます。しかし、記憶にはまったく残らない記録です。
一方、2004年は記録的な数の台風が日本を襲いました。発生数は例年比べて29個とやや多いだけですが、過去の記録を見ると、もっと多い年がいくつもあります。最多は1967年の39個にも達します。ところが2004年は、接近数も19個、上陸数も10個となり、史上最多となっています。まだ記憶されている方も多いと思いますが、そのいくつかは、日本各地に大きな被害を与えました。
2004年の前後の2003年(発生数21個、上陸数2個)と2005年(発生数23個、上陸数3個)は、通常の台風の数となっています。これは、気象庁が残している記録です。人の記憶にも、2004年の台風は残っていることでしょう。しかし、記憶は、記録と必ずしも一致するわけではありません。
2004年は、多く台風が上陸したので、各域で被害がありましたが、たぶん多くの人も台風の被害を記憶しているでしょう。私は本州でその被害を目の当たりにしました。ですから、この年の台風は記憶に焼きついたものとなっています。
私は夏過ぎにたいてい四国の愛媛県西予市城川町に調査に出かけます。2004年の9月にも城川に出かけていました。私が行った9月のはじめまでに、四国を襲った台風は、すでに5個にも達していて、多くの被害を出していました。
なかでも台風16号は、四国に大きな被害を与えました。この台風は大型で、しかもゆっくりと移動していたため、大量の雨による洪水、風による被害も大きくなりました。私が訪れる直前に、この台風16号が四国西部を襲いました。台風16号は大量の雨が降ったので、予想外の土石流の発生が各地で起こりました。四国の瀬戸内海側の山間部で大きな土砂災害を出しました。城川周辺各地でも、土砂災害の被害を出していました。
土砂災害には、地すべり、崖崩れ、土石流があります。中でも、土石流は土砂災害の約75%を占めます。台風時には、海岸では洪水や強風、高波を注意をするのですが、傾斜地や山地では土砂災害に注意が必要です。傾斜の急な沢ぞいにたまった岩石や土砂、砂礫が、豪雨、地震、融雪などによって、周辺の木などをまきこんで、一気に流がれ下るのが土石流です。水の中にさまざまな大きさの岩石や木を含んでいるので、単なる水害と比べて被害が大きくなります。
土石流は非常に危険なので、国土交通省の河川局が、土石流の危険性がある地域を「土石流危険渓流」として指定しています。全国で18万カ所以上にもなります。野外調査をしていると、急な河川でが「土石流危険渓流」と書いた看板を見かけることがあります。
2004年の台風16号による土石流の被害を、土木の専門家が調査しました。その報告では、もともと四国の瀬戸内側の山岳地帯は、表土が薄く土石流の発生の危険性が高いということを伝えてました。なぜ、この地域で表土が薄く土石流の発生しやすいのかを、地質学的に見ていきましょう。
まず、表土についてです。表土は、硬い岩盤の上を覆う固まっていない層のことをいいます。表土は、砂礫だけのこともありますが、多くの場合は、岩盤が壊れた砂礫の層の上に、植物が分解された層(土壌)が形成され、両者が表土を構成しています。
表土の厚さは、その地の岩盤となっている岩石の種類、岩盤の傾斜、風化を受けていた期間、その地域の気候・風土など、さまざま条件が複雑に関係しています。しかし、岩盤の性質が、表土の厚さを決める一番大きい要素だと考えられます。
岩盤が固い岩石だと、岩石が壊れにくくなり、表土は形成されにくく薄くなります。また、硬いが崩れやすい岩盤でも、表土ができてもすぐ崩れてしまうので、厚くなることなく、薄いままになります。
四国の地質を考えていくと、四国山地の太平洋側には、四万十層群と呼ばれる堆積岩からできている地層が発達しています。硬い岩石ですが、日本列島にプレートテクトニクスによって、海側から付け加わった付加体と呼ばれるもので、海に向かって傾斜しています。
四国の中央山地から瀬戸内側にかけては、南から秩父(ちちぶ)帯、三波川(さんばがわ)帯、和泉(いずみ)層群という地質帯が、東西に伸びて並んでいます。和泉層群の中には領家帯の花崗岩や変成岩が入り込んでいます。
それぞれの帯の境界には、大きな断層があります。四万十層群と秩父帯の境界は、仏像構造線という大断層があります。秩父帯の中には、やはり東西に伸びる黒瀬川構造帯という断層運動でつくられた地帯があります。秩父帯は黒瀬川構造帯より南側を、三宝山帯と呼ぶことがあります。秩父帯と三波川帯の間には、御荷鉾構造線という大断層があります。三波川帯と和泉層群あるいは領家帯の間には、有名な中央構造線があります。
それぞれの断層は日本でも第一級の断層で、断層周辺の地層は、変形を受けて、壊れやすくなっています。また、四国の瀬戸内海の山側には、三波川帯が分布しています。三波川帯は変成岩からできています。高い圧力によってできたタイプの変成岩で、ぺらぺらとはがれやすい結晶片岩とよばれる岩石を主としています。そこに断層によって、より崩れやすい岩石になっている考えられます。結晶片岩が表層に出ている地域は、表土が崩れやすく薄い地域になっていると考えられます。
三波川帯では、一般的に表土とその下の岩盤とでは、物質の性質がかなり違います。表土の底には、砂礫があり、雨が降るとそこまでは水がしみ込みますが、岩盤は硬い岩石なのではなかなかしみ込みません。そのため表土中に水が溜め込まれることになりますが、表土が薄い地域に大量の雨が降ると、水は表土の底を流れ始めます。すると、表土自体が不安定になり、土砂崩れや土石流などの土砂災害となります。
台風によって短時間に大量の雨が降りました。その結果、四国の瀬戸内海の山側で、各地で土石流がおこり、各地で被害を出したのでしょう。被害は、このような地質の背景によるものだと考えられます。
私の四国滞在中にも、台風18号の襲われました。激しい雨と風の中を車で移動した記憶が鮮明に残っています。この台風18号は、北海道にも上陸し、北海道大学のポプラ並木が倒れたり、積丹半島でも高潮によって大きな危害がありました。積丹半島には、被災直後に訪れました。この体験を、本エッセイの「07 積丹半島:シャコタン・ブルーの海に抱かれて」
http://terra.sgu.ac.jp/geo_essay/2005/07.html
で紹介しました。参考にしていただければと思います。
2004年は台風の最多上陸数ですが、その記録は、私にとっても、多くの被害の記憶となって重なっています。ところが私には、2004年だけでなく、2003年も台風に対する強い記憶があります。それは、2003年にも、台風の被害をいくつか身近に感じたためです。
2003年の9月、台風10号が四国を襲う直前まで、私はやはり城川にいて、台風に追われるように北海道に戻ったことがありました。その台風10号によって、城川では2人の死者を出しました。そのうちの1人は、城川に住んでいる友人の同級生でした。帰宅後その連絡を聞いて、自分の身近なところで、台風の犠牲者がでたことに驚きました。
さらに2003年には、台風が北海道を上陸し、各地で被害を出しました。しばらく後に、私は台風の被災地である鵡川に行きましたが、その感想は「地球のつぶやき」の「22 災害と倫理:北海道の被災地を調査して」
http://terra.sgu.ac.jp/monolog/2003/22.html
で紹介しました。
2003年と2004年は、私にとっては、台風の被害が強く記憶されている年です。2004年の台風の被害は全国に及ぶのですが、2003年のものは北海道や、四国の限られた地域で起こり、たまたま経験したものでした。大きな台風、多数の台風は、多くの地域で被害を出します。被災地では、その台風は強く人の記憶に残されます。少なければ、限られて人にだけにしか記憶されません。私は、その両者が2年にわたって記憶されています。
台風だけでなく一般に自然現象は、人に与えた影響の程度と回数によって記憶になっていくのでしょう。記憶は、数や統計とは必ずしも一致しません。さらにいえば、幸運にも自然災害がないという記録は、たとえ歴史的に珍しいものであったとしても、記憶には残らないのです。
でも、「平穏の記録は記憶に残らない」ということは、記憶しておくべきなのかもしれません。なぜなら、自然が与えてくるれ平穏は、自然災害より圧倒的に多くの時間と豊かさを与えてくれるからです。自然の平穏さなしには、私たちの生活が成り立たないからです。自然の恵みの感謝して、今年最後のエッセイを終えましょう。
・故郷・
私は、城川に、毎年のように通っていて、
1992年にはじめていって以来、もう16年目になります。
今年は、別のところに出かける予定があったので
城川にはいけませんでした。
家族で訪ねたことがあります。
2010年4月からは、大学の留学制度をつかって、
1年間、城川で暮らす予定です。
城川とは付き合いが、ますます深まっていきそうです。
私には、城川は第2の故郷のような気がします。
いつも来るたびにほっとした気持ちになります。
もしかすると私の本当の生まれ故郷が、
故郷らしくなくなったせいかもしれません。
私が生まれ育った京都は、開発が進んで、
子供のころに過ごした風物や自然は、
ほとんどなくなり宅地なってしまいました。
今でも、京都には母や弟が住んでいますが、
故郷に帰ったとしても、彼らに会うことが目的で、
周りの自然を懐かしく思うことはなくなりました。
城川は、私が生まれた町よりもっと山里で自然が残っています。
それが私の記憶の故郷と似ているのかもしれません。
・やり残し・
いよいよ今年も残すところあと少しです。
年末になると、今年を振り返ってしまいます。
今回のエッセイもそのようなものになりました。
私は、やり残したことがいろいろあります。
もちろんいくつかできたこともあります。
しかし、年の瀬には、なぜかできたことより
遣り残したことが頭に浮かびます。
これは、遣り残していることが
頭に常に付きまとっているからでしょうか。
でも、その多くは、自分の怠惰さや
努力の足りなさに由来するものです。
まあ、自業自得というものです。
でも、まだ、今年が終わったわけではありません。
まだ残された日々があります。
その日々を有効に使うためにも、
やり残しを少しでも片付けましょうか。
2008-11-15
47 飛騨の変動:荘川桜(2008.11.15)
Time:
9:30
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Geologist
夏過ぎに能登と飛騨の調査をしました。荘川を日本海側から源流まで遡るという旅でしたので、飛騨をめぐることもなく、地質を詳しく見ることもありませんでした。飛騨の地質は、日本でもここでしか産しないユニークなものがあります。それを紹介しましょう。
富山県は、北側に富山湾があり、南側には両白山地、飛騨高地、飛騨山脈(一般には北アルプスと呼ばれている)という日本でも有数の山岳地帯が横たわっています。そのような山岳地帯を源流とする水量豊かな川がいくつもあり、富山湾に流れ込みます。富山湾に注ぐ一級河川だけでも、西から小矢部川、庄川、神通川、常願寺川、黒部川という名だたる急流があります。中でも庄川と神通川は、富山県の県境を越えて、南側の岐阜県にその源流があります。
今回の能登と飛騨の旅では、庄川の源流を車で一気に遡ることが、目的のひとつでした。幸い快晴に恵まれて、川沿いを走破することができました。
私が訪れる数日前まで、大雨による土砂崩れで国道が通行止めになり、自動車専用道路しか通れない状況でした。しかし、幸いなことに、私が行く直前に、国道が復旧して通行できるようになっていました。
富山県と岐阜県の山岳地帯を中心とする地域は、地質学的には、日本でも最も古い岩石類が分布しているところです。地下にはそのような古い岩石が広がっていると考えられますが、地上で実際に見ることができるのは、局所的で、限られた分布しかありません。それでも、古い岩石は、飛騨周辺地域に比較的広く分布しています。そのほかには、西に向かって点々と同様の古い岩石が、山陰や隠岐まで出いますが、いずれも小規模な岩体としてあるだけです。
日本列島でも古い岩石類は、飛騨変成岩や飛騨帯などと呼ばれるもので、その構成や履歴は複雑なものになっています。ここでは、その概略を紹介しましょう。
5億年前にできた大陸(ゴンドワナ大陸)が、3億3000万年前に分裂し、いくつかの大陸に分かれました。分裂したころにできた岩石が、飛騨片麻岩や古い花崗岩として見つかります。
分かれた大陸が、2億3000万年前頃(三畳紀末)に衝突合体をして、東アジア大陸ができました。衝突する前の2つの大陸の間には海がありました。その海でたまった地層が、現在、宇奈月(うなづき)結晶片岩と呼ばれているものです。宇奈月結晶片岩は、もともと石灰岩、凝灰岩、泥岩、砂岩などの海で形成された堆積岩が、変成作用を受けてできたものです。
衝突する大陸(衝突帯と呼ばれています)の地下深部では、高温高圧の条件で変成作用が起こりました、そのような変成作用によってできた岩石が、飛騨変成岩と呼ばれているものです。その後、1億8000万年前頃に活動した花崗岩が、当時の地殻上部を構成していた古い岩石類を貫いて(貫入(かんにゅう)といいます)います。
ここまで紹介した飛騨の岩石類の歴史は、古生代から中生代までの古い時期のものだけです。飛騨の岩石は、その後も複雑な変動を受けています。たとえば、日本海の形成に伴う日本列島の大陸から分離、フォッサマグナの形成、丹どもの火成作用など、さまざまな時代にさまざまなタイプの地質学的変動を、飛騨地域は受け続けています。そしてそのような変動は、今も続いています。
飛騨山地が急激に持ち上げられて山脈となったのは、約50万年前だと考えられています。飛騨で見つかる古い岩石の歴史からすれば、50万年前は、地質学的にはつい最近の出来事というべきものです。短時間に急に上昇した地帯は、激しい侵食にさらされることになります。そのため、侵食によって急峻な山岳地形が形成されることになります。
富山県内の河川は、そのような急激に上昇した山岳地帯に水源を持つものです。侵食や削剥が激しい山岳地帯があると、大量の土砂が川によって運ばれます。山地から海までの距離が短いために、土砂は途中でたまることなく、海まで一気に流れ込みます。富山県の河川は流域が短く、中流域や下流域と呼べる部分は短く、上流域から一気に河口に流れ込むような急流となっています。
黒部川では、急峻な山から中流に出てできる扇状地が、そのまま海に達しています。富山平野は、主に庄川と神通川が運んできた土砂によって、短い時間に形成されました。また、富山湾には深い海底谷がありますが、それを富山の河川堆積物が埋め立てています。
日本海に面した山岳地帯には、冬になると季節風によって大量の雪が降ります。冬に積もった雪は、水資源として重要な役割を果たします。特に、急峻な山岳地帯は、急流で高低差があり、水力発電には適しています。
日本が終戦後の復興が進みだしたころ、今まで石炭に頼っていたエネルギーが、供給不足になります。特に電力の不足は深刻な問題となりました。そのとき目をつけられたのが、水量豊かな水資源です。1952(昭和27)年、電源開発促進法が成立して、電源開発株式会社が国家的使命として設立されました。最初の電源開発計画として打ち出されたものが、北上川の胆沢や天竜川の佐久間とともに、庄川上流の御母衣(みぼろ)のダム建設がありました。
御母衣ダムの建築予定地には、当時1200人以上の住民が暮らしていました。彼らの生活の場がダムの水底に水没するため、住民は立ち退きを余儀なくされました。住民との立ち退き交渉は困難を極めましたが、電源開発株式会社の高碕達之助総裁は、なんとか住民との信頼関係を築き、交渉を成立させました。
彼が水没の決まった地区を訪れたとき、2つの寺の境内にそれぞれ桜の大きな老木があるのを見つけました。この見事な桜が水没するのは忍びないと、なんとか移植できなかと考え、対策を考え、実行に移しました。
桜の老木の移植は不可能だとされたのですが、多くの人の協力と努力によって成功しました。今も2つの桜の巨木は、御母衣ダム湖のほとりに生き続けています。2本の老木は、春になると花を咲かせています。春には、桜の名称としてメディアにもよく登場します。この2本の桜は荘川桜と呼ばれ、岐阜県指定の天然記念物となっています。荘川桜は、今もダムを訪れる人を和ませ、かつての住民の心のふるさととなっています。
私は、荘川桜をテレビで見ていましたが、いきさつの詳しい話をダムの電力館のビデオではじめて知りました。多くの人が、この桜にかかわり、そして思いを寄せていることがわかりました。
私が訪れたのは、9月のはじめでした。ですから御母衣の冬の豪雪や花の時期は想像だにできません。しかし、そのような豪雪に耐えた抜いた桜の巨木は、その厳しさ、そして人の思い、この地の変化を、500年以上にわたって見てきたのでしょう。500年は、人間の寿命から言えば、何世代も経なければならない長さです。それを荘川桜は一世代で過ごしてきたわけです。
青々とした葉を茂らせている桜の老木を眺めながら、彼らが見てきたであろう500年の御母衣の変化と、私が知識として知っている日本でもっとも古い地層の5億年の変化とを対比しながら、その隔たりと悠久さに思いを馳せていました。
・凛とした朝・
北国は里にも何度か雪が降りました。
冷え込む朝には、大地は霜で白くなります。
手稲の山並みは、雪が消えることにがないほど
雪が何度も降っています。
朝夕や曇りの日には、ストーブをつけています。
天候不順が続いていたのですが、
先日やっと快晴の日を迎えました。
早朝は放射冷却で凛とした身の引き締まる寒さでした。
足元の大地が霜で真っ白になり、
遠くに見える山並みも白くなっていました。
北国はいよいよ冬到来です。
・新しいOS・
夏に5年ぶりに新しいデスクトップパソコンを買い替え
今ではそれをメインのパソコンとして使っています。
WindowsVISTAをOSとしています。
このVISTAが曲者で、パワーポイントが不安定で
動画のオブジェクトを設定して再生すると、
不正終了になることがよくあります。
講義ではノートパソコンを使っていますので、
そちらではちゃんと再生できるので、
一応実用上問題がありません。
また、地形データを処理するKashmirも
ある操作をすると停止します。
ですから、それは、以前使っていたデスクトップで
地形画像を処理するようにしています。
新しいからいいと限りません。
長い目で見たとき、新しいOSは、
新しいバージョンのソフトではやがて必要になると思います。
ですから、飛びつくことはありませんが、
検証を兼ねて、以降していくつもりです。
もちろんただし、ノートパソコンはWindowsXPです。
富山県は、北側に富山湾があり、南側には両白山地、飛騨高地、飛騨山脈(一般には北アルプスと呼ばれている)という日本でも有数の山岳地帯が横たわっています。そのような山岳地帯を源流とする水量豊かな川がいくつもあり、富山湾に流れ込みます。富山湾に注ぐ一級河川だけでも、西から小矢部川、庄川、神通川、常願寺川、黒部川という名だたる急流があります。中でも庄川と神通川は、富山県の県境を越えて、南側の岐阜県にその源流があります。
今回の能登と飛騨の旅では、庄川の源流を車で一気に遡ることが、目的のひとつでした。幸い快晴に恵まれて、川沿いを走破することができました。
私が訪れる数日前まで、大雨による土砂崩れで国道が通行止めになり、自動車専用道路しか通れない状況でした。しかし、幸いなことに、私が行く直前に、国道が復旧して通行できるようになっていました。
富山県と岐阜県の山岳地帯を中心とする地域は、地質学的には、日本でも最も古い岩石類が分布しているところです。地下にはそのような古い岩石が広がっていると考えられますが、地上で実際に見ることができるのは、局所的で、限られた分布しかありません。それでも、古い岩石は、飛騨周辺地域に比較的広く分布しています。そのほかには、西に向かって点々と同様の古い岩石が、山陰や隠岐まで出いますが、いずれも小規模な岩体としてあるだけです。
日本列島でも古い岩石類は、飛騨変成岩や飛騨帯などと呼ばれるもので、その構成や履歴は複雑なものになっています。ここでは、その概略を紹介しましょう。
5億年前にできた大陸(ゴンドワナ大陸)が、3億3000万年前に分裂し、いくつかの大陸に分かれました。分裂したころにできた岩石が、飛騨片麻岩や古い花崗岩として見つかります。
分かれた大陸が、2億3000万年前頃(三畳紀末)に衝突合体をして、東アジア大陸ができました。衝突する前の2つの大陸の間には海がありました。その海でたまった地層が、現在、宇奈月(うなづき)結晶片岩と呼ばれているものです。宇奈月結晶片岩は、もともと石灰岩、凝灰岩、泥岩、砂岩などの海で形成された堆積岩が、変成作用を受けてできたものです。
衝突する大陸(衝突帯と呼ばれています)の地下深部では、高温高圧の条件で変成作用が起こりました、そのような変成作用によってできた岩石が、飛騨変成岩と呼ばれているものです。その後、1億8000万年前頃に活動した花崗岩が、当時の地殻上部を構成していた古い岩石類を貫いて(貫入(かんにゅう)といいます)います。
ここまで紹介した飛騨の岩石類の歴史は、古生代から中生代までの古い時期のものだけです。飛騨の岩石は、その後も複雑な変動を受けています。たとえば、日本海の形成に伴う日本列島の大陸から分離、フォッサマグナの形成、丹どもの火成作用など、さまざまな時代にさまざまなタイプの地質学的変動を、飛騨地域は受け続けています。そしてそのような変動は、今も続いています。
飛騨山地が急激に持ち上げられて山脈となったのは、約50万年前だと考えられています。飛騨で見つかる古い岩石の歴史からすれば、50万年前は、地質学的にはつい最近の出来事というべきものです。短時間に急に上昇した地帯は、激しい侵食にさらされることになります。そのため、侵食によって急峻な山岳地形が形成されることになります。
富山県内の河川は、そのような急激に上昇した山岳地帯に水源を持つものです。侵食や削剥が激しい山岳地帯があると、大量の土砂が川によって運ばれます。山地から海までの距離が短いために、土砂は途中でたまることなく、海まで一気に流れ込みます。富山県の河川は流域が短く、中流域や下流域と呼べる部分は短く、上流域から一気に河口に流れ込むような急流となっています。
黒部川では、急峻な山から中流に出てできる扇状地が、そのまま海に達しています。富山平野は、主に庄川と神通川が運んできた土砂によって、短い時間に形成されました。また、富山湾には深い海底谷がありますが、それを富山の河川堆積物が埋め立てています。
日本海に面した山岳地帯には、冬になると季節風によって大量の雪が降ります。冬に積もった雪は、水資源として重要な役割を果たします。特に、急峻な山岳地帯は、急流で高低差があり、水力発電には適しています。
日本が終戦後の復興が進みだしたころ、今まで石炭に頼っていたエネルギーが、供給不足になります。特に電力の不足は深刻な問題となりました。そのとき目をつけられたのが、水量豊かな水資源です。1952(昭和27)年、電源開発促進法が成立して、電源開発株式会社が国家的使命として設立されました。最初の電源開発計画として打ち出されたものが、北上川の胆沢や天竜川の佐久間とともに、庄川上流の御母衣(みぼろ)のダム建設がありました。
御母衣ダムの建築予定地には、当時1200人以上の住民が暮らしていました。彼らの生活の場がダムの水底に水没するため、住民は立ち退きを余儀なくされました。住民との立ち退き交渉は困難を極めましたが、電源開発株式会社の高碕達之助総裁は、なんとか住民との信頼関係を築き、交渉を成立させました。
彼が水没の決まった地区を訪れたとき、2つの寺の境内にそれぞれ桜の大きな老木があるのを見つけました。この見事な桜が水没するのは忍びないと、なんとか移植できなかと考え、対策を考え、実行に移しました。
桜の老木の移植は不可能だとされたのですが、多くの人の協力と努力によって成功しました。今も2つの桜の巨木は、御母衣ダム湖のほとりに生き続けています。2本の老木は、春になると花を咲かせています。春には、桜の名称としてメディアにもよく登場します。この2本の桜は荘川桜と呼ばれ、岐阜県指定の天然記念物となっています。荘川桜は、今もダムを訪れる人を和ませ、かつての住民の心のふるさととなっています。
私は、荘川桜をテレビで見ていましたが、いきさつの詳しい話をダムの電力館のビデオではじめて知りました。多くの人が、この桜にかかわり、そして思いを寄せていることがわかりました。
私が訪れたのは、9月のはじめでした。ですから御母衣の冬の豪雪や花の時期は想像だにできません。しかし、そのような豪雪に耐えた抜いた桜の巨木は、その厳しさ、そして人の思い、この地の変化を、500年以上にわたって見てきたのでしょう。500年は、人間の寿命から言えば、何世代も経なければならない長さです。それを荘川桜は一世代で過ごしてきたわけです。
青々とした葉を茂らせている桜の老木を眺めながら、彼らが見てきたであろう500年の御母衣の変化と、私が知識として知っている日本でもっとも古い地層の5億年の変化とを対比しながら、その隔たりと悠久さに思いを馳せていました。
・凛とした朝・
北国は里にも何度か雪が降りました。
冷え込む朝には、大地は霜で白くなります。
手稲の山並みは、雪が消えることにがないほど
雪が何度も降っています。
朝夕や曇りの日には、ストーブをつけています。
天候不順が続いていたのですが、
先日やっと快晴の日を迎えました。
早朝は放射冷却で凛とした身の引き締まる寒さでした。
足元の大地が霜で真っ白になり、
遠くに見える山並みも白くなっていました。
北国はいよいよ冬到来です。
・新しいOS・
夏に5年ぶりに新しいデスクトップパソコンを買い替え
今ではそれをメインのパソコンとして使っています。
WindowsVISTAをOSとしています。
このVISTAが曲者で、パワーポイントが不安定で
動画のオブジェクトを設定して再生すると、
不正終了になることがよくあります。
講義ではノートパソコンを使っていますので、
そちらではちゃんと再生できるので、
一応実用上問題がありません。
また、地形データを処理するKashmirも
ある操作をすると停止します。
ですから、それは、以前使っていたデスクトップで
地形画像を処理するようにしています。
新しいからいいと限りません。
長い目で見たとき、新しいOSは、
新しいバージョンのソフトではやがて必要になると思います。
ですから、飛びつくことはありませんが、
検証を兼ねて、以降していくつもりです。
もちろんただし、ノートパソコンはWindowsXPです。
2008-10-15
46 恐山:異界で生まれる金鉱石(2008.10.15)
Time:
9:29
●
Geologist
本州の最北に、下北半島はあります。その最北の地に霊場として有名な恐山があります。恐山は霊場としてだけでなく、地質学者の注目も集めているところです。地質学者が注目する霊場を紹介しましょう。
私は、8月上旬の蒸し暑く、時々雨が降る日に恐山(おそれざん)を訪れました。恐山は、青森県、下北半島のほぼ中央に位置します。慈覚大師円仁が開いた恐山菩提寺の周囲には、多数の死者を弔った遺族が残していったと思われる、積みあげた石や風車が、いたるところにあります。また、いろいろな時代につくられたと思われる石仏があります。そんな地を巡り歩いていると、異界に迷い込んだような気分になりました。
人為的な石積みや風車、石仏がなかったとしても、周りの緑の山の中に、忽然と現れる火山の噴気、そして異臭の漂う不毛の地にぽつんと置かれると、人は異界にいる気分になってしまうのではないでしょうか。恐山は、そのような景観を持っているためでしょうか、高野山、比叡山とともに、日本三大霊場の一つになっています。
下北地方では恐山は、古くから信仰の地されていて、人が死ぬと魂は恐山にいくといわれていたそうです。その信仰は、今も残っています。かつては、盲目や弱視の女性が修行を行った後に、イタコと呼ばれる巫女(みこ)になって、「口寄せ」で語ることが行われています。「口寄せ」とは、死者の霊をイタコ自身に乗り移らせて語ることで、イタコの口を通じて死者の声を遺族が聞くことになります。
今風にいえば、心理カウンセリングになるのでしょうか。今でも、恐山大祭や恐山秋詣りに、イタコによる口寄せが盛んに行われているそうです。ただ、障害者の生活が改善してことや、イタコになるための修行が厳しいことから、新たにイタコになる人は減り、高齢化が進んでいるようです。
そのような霊場として、恐山は多くの人が知る有名なところです。しかし、実は「恐山」という山はありません。地質学では、恐山とは、東西17km、南北25kmの範囲にいくつもある火山の総称となっています。外輪山とその中にある宇曽利湖(うそりこ)、そして湖の周辺にある小さいな火山からなる、一連の火山活動の集合体です。活動時期の違う火山群が、カルデラの外と中にあるため二重式火山と呼ばれています。このような火山全体を恐山と呼んでいます。
外輪山は、蓮華八葉と呼ばれている剣山、地蔵山、鶏頭山、円山、大尽山、小尽山、北国山、屏風山の8つの火山からなります。外輪山の東の外側斜面には釜臥(かまふせ)山(標高879m)が、西側斜面には朝比奈岳(874m)がありますが、いずれも寄生火山で、恐山の一部です。
宇曽利湖は、直径約2kmの噴火後できたカルデラ湖です。宇曽利湖の水は、強い酸性なので、特殊な動植物プランクトンや、酸性水に強いウグイが生息しているだけです。宇曽利山湖の北東には正津川があり、湖の水が津軽海峡まで流れていきます。火山湖の水が流出して谷ができ(火口瀬と呼びます)、水面が12mほど下がりました。そのため湖の周辺には、湖岸段丘ができています。
宇曽利山湖の周辺には、噴気が立ち上っているところや、熱水が沸いているところなどがいくつもあります。これらは、カルデラ形成の後にできたいくつかの火山円頂丘が、その熱源となっています。火山円頂丘をつくったマグマが今も活動して、熱水や蒸気を噴出しているのです。このような噴気活動がある地は、地獄と呼ばれています。
恐山は記録に残っている噴火はなく、最後の噴火は地質調査から1万年前より古いと考えられています。噴気を盛んに上げているために、活火山になっていますが、噴火の危険性は少ないと考えられています。
恐山は、地質学者の間では、活火山ということとともに、生きている金鉱床として有名です。噴出する熱水が、現在も金鉱石を形成しているのです。
金鉱床は、爆裂火口の中にできた浅い熱水湖の底に沈殿物の中に見つかっています。金を含む沈殿物の地層が、ヘドロ状に形成されています。このようなメカニズムでできる金鉱床は、1989年にはじめて報告され、恐山型金鉱床と呼ばれる大変珍しいものと考えられています。
金の総量は多くないと思われますが、そのでき方に注目されています。
温泉には、量は少ないのですが金を含んでおり(30ppb、3/1億の濃度のこと)、その金が流れさることなく沈殿するメカニズムがあります。ヘドロには7ppm(7/100万の濃度)の金が含まれています。金の濃集しているところでは、400ppm(4/1万の濃度)もあるところが見つかっています。
金鉱石は、その貴重さから、存在がわかるとすぐ採掘されたのですが、恐山は霊場でもあったため、誰も鉱業の場として着目していませんでした。ですから、鉱業としては手付かずの未開拓の場でした。もちろん現在も霊場ですから、採掘をすることはできません。
金は、今まで誰にも知られることなく溜まったものです。地質学者が知るところとなりましたが、経済的な鉱山とするような規模ではないようなので、このまま大切に保存すべきものでしょう。できれは、その起源やメカニズムが解明されることが望まれます。ただ、心無い人に荒らされなければいいのですが。
宇曽利湖の水は、エメラルドグリーンのきれいな色をしています。また湖畔は、白い砂浜が広がっていることから、極楽浜と呼ばれています。しかし、極楽浜のすぐ横には、現在も噴気を出している地獄があります。恐山は、極楽と地獄の景観が混在しています。極楽浜から地獄を眺めると、まさに今、自分は異界の地に立っていることを感じさせます。ある蒸し暑い夏の日に、そんな不思議な体験をしました。
・霊山・
恐山をめぐるルートでは、噴気があちこちで見られます。
危ないところは、柵がしてあります。
そんな噴気にコインを置く人がいっぱいいるようです。
私には理解できませんが、
日本人にはどうもそのようなことする風習があるようです。
そこには、変色した多数のコインが見つかります。
温泉には、毒々しい赤をしたものがあります。
血の池と呼ばれています。
また黄色の沈殿をためた熱水の川もあります。
そのような見慣れない水の色、景観に、
恐れや畏敬などの不思議な気持ちが湧いてきます。
はやりここ恐山は、霊山なのでしょう。
・金品位・
金の含有量は、鉱業的な意味もあり、
岩石1トン(t)当たり、金が何グラム(g)含まれているか
という表示法が用いられています。
g/tという単位で表記されます。
金の含有量を金品位と呼びます。
g/tとは、ppmと同じ意味になります。
恐山の平均的な金の含有量は7ppm、
多いところで400ppmとなります。
金鉱床の品位は、採算が取れるかどうか
採掘方法と埋蔵量によりますが、
露天掘りであれば、数ppmあれば採掘可能だといわれています。
その中で400ppmの高濃度の部分もあるというのは、
非常に有望な鉱床といえます。
ただ、恐山の金鉱床の規模は
それほど大きくはないと考えられるので、
埋蔵量は少ないはずです。
ですから、恐山の金は、鉱業的な意味より、
学術的意味が大きいのです。
ちなにみ、世界でも有数の品位を誇るのが
鹿児島県の菱刈鉱山です。
平均品位80ppm、濃集部では4%に達する
常識破りの金品位をもっています。
私は、8月上旬の蒸し暑く、時々雨が降る日に恐山(おそれざん)を訪れました。恐山は、青森県、下北半島のほぼ中央に位置します。慈覚大師円仁が開いた恐山菩提寺の周囲には、多数の死者を弔った遺族が残していったと思われる、積みあげた石や風車が、いたるところにあります。また、いろいろな時代につくられたと思われる石仏があります。そんな地を巡り歩いていると、異界に迷い込んだような気分になりました。
人為的な石積みや風車、石仏がなかったとしても、周りの緑の山の中に、忽然と現れる火山の噴気、そして異臭の漂う不毛の地にぽつんと置かれると、人は異界にいる気分になってしまうのではないでしょうか。恐山は、そのような景観を持っているためでしょうか、高野山、比叡山とともに、日本三大霊場の一つになっています。
下北地方では恐山は、古くから信仰の地されていて、人が死ぬと魂は恐山にいくといわれていたそうです。その信仰は、今も残っています。かつては、盲目や弱視の女性が修行を行った後に、イタコと呼ばれる巫女(みこ)になって、「口寄せ」で語ることが行われています。「口寄せ」とは、死者の霊をイタコ自身に乗り移らせて語ることで、イタコの口を通じて死者の声を遺族が聞くことになります。
今風にいえば、心理カウンセリングになるのでしょうか。今でも、恐山大祭や恐山秋詣りに、イタコによる口寄せが盛んに行われているそうです。ただ、障害者の生活が改善してことや、イタコになるための修行が厳しいことから、新たにイタコになる人は減り、高齢化が進んでいるようです。
そのような霊場として、恐山は多くの人が知る有名なところです。しかし、実は「恐山」という山はありません。地質学では、恐山とは、東西17km、南北25kmの範囲にいくつもある火山の総称となっています。外輪山とその中にある宇曽利湖(うそりこ)、そして湖の周辺にある小さいな火山からなる、一連の火山活動の集合体です。活動時期の違う火山群が、カルデラの外と中にあるため二重式火山と呼ばれています。このような火山全体を恐山と呼んでいます。
外輪山は、蓮華八葉と呼ばれている剣山、地蔵山、鶏頭山、円山、大尽山、小尽山、北国山、屏風山の8つの火山からなります。外輪山の東の外側斜面には釜臥(かまふせ)山(標高879m)が、西側斜面には朝比奈岳(874m)がありますが、いずれも寄生火山で、恐山の一部です。
宇曽利湖は、直径約2kmの噴火後できたカルデラ湖です。宇曽利湖の水は、強い酸性なので、特殊な動植物プランクトンや、酸性水に強いウグイが生息しているだけです。宇曽利山湖の北東には正津川があり、湖の水が津軽海峡まで流れていきます。火山湖の水が流出して谷ができ(火口瀬と呼びます)、水面が12mほど下がりました。そのため湖の周辺には、湖岸段丘ができています。
宇曽利山湖の周辺には、噴気が立ち上っているところや、熱水が沸いているところなどがいくつもあります。これらは、カルデラ形成の後にできたいくつかの火山円頂丘が、その熱源となっています。火山円頂丘をつくったマグマが今も活動して、熱水や蒸気を噴出しているのです。このような噴気活動がある地は、地獄と呼ばれています。
恐山は記録に残っている噴火はなく、最後の噴火は地質調査から1万年前より古いと考えられています。噴気を盛んに上げているために、活火山になっていますが、噴火の危険性は少ないと考えられています。
恐山は、地質学者の間では、活火山ということとともに、生きている金鉱床として有名です。噴出する熱水が、現在も金鉱石を形成しているのです。
金鉱床は、爆裂火口の中にできた浅い熱水湖の底に沈殿物の中に見つかっています。金を含む沈殿物の地層が、ヘドロ状に形成されています。このようなメカニズムでできる金鉱床は、1989年にはじめて報告され、恐山型金鉱床と呼ばれる大変珍しいものと考えられています。
金の総量は多くないと思われますが、そのでき方に注目されています。
温泉には、量は少ないのですが金を含んでおり(30ppb、3/1億の濃度のこと)、その金が流れさることなく沈殿するメカニズムがあります。ヘドロには7ppm(7/100万の濃度)の金が含まれています。金の濃集しているところでは、400ppm(4/1万の濃度)もあるところが見つかっています。
金鉱石は、その貴重さから、存在がわかるとすぐ採掘されたのですが、恐山は霊場でもあったため、誰も鉱業の場として着目していませんでした。ですから、鉱業としては手付かずの未開拓の場でした。もちろん現在も霊場ですから、採掘をすることはできません。
金は、今まで誰にも知られることなく溜まったものです。地質学者が知るところとなりましたが、経済的な鉱山とするような規模ではないようなので、このまま大切に保存すべきものでしょう。できれは、その起源やメカニズムが解明されることが望まれます。ただ、心無い人に荒らされなければいいのですが。
宇曽利湖の水は、エメラルドグリーンのきれいな色をしています。また湖畔は、白い砂浜が広がっていることから、極楽浜と呼ばれています。しかし、極楽浜のすぐ横には、現在も噴気を出している地獄があります。恐山は、極楽と地獄の景観が混在しています。極楽浜から地獄を眺めると、まさに今、自分は異界の地に立っていることを感じさせます。ある蒸し暑い夏の日に、そんな不思議な体験をしました。
・霊山・
恐山をめぐるルートでは、噴気があちこちで見られます。
危ないところは、柵がしてあります。
そんな噴気にコインを置く人がいっぱいいるようです。
私には理解できませんが、
日本人にはどうもそのようなことする風習があるようです。
そこには、変色した多数のコインが見つかります。
温泉には、毒々しい赤をしたものがあります。
血の池と呼ばれています。
また黄色の沈殿をためた熱水の川もあります。
そのような見慣れない水の色、景観に、
恐れや畏敬などの不思議な気持ちが湧いてきます。
はやりここ恐山は、霊山なのでしょう。
・金品位・
金の含有量は、鉱業的な意味もあり、
岩石1トン(t)当たり、金が何グラム(g)含まれているか
という表示法が用いられています。
g/tという単位で表記されます。
金の含有量を金品位と呼びます。
g/tとは、ppmと同じ意味になります。
恐山の平均的な金の含有量は7ppm、
多いところで400ppmとなります。
金鉱床の品位は、採算が取れるかどうか
採掘方法と埋蔵量によりますが、
露天掘りであれば、数ppmあれば採掘可能だといわれています。
その中で400ppmの高濃度の部分もあるというのは、
非常に有望な鉱床といえます。
ただ、恐山の金鉱床の規模は
それほど大きくはないと考えられるので、
埋蔵量は少ないはずです。
ですから、恐山の金は、鉱業的な意味より、
学術的意味が大きいのです。
ちなにみ、世界でも有数の品位を誇るのが
鹿児島県の菱刈鉱山です。
平均品位80ppm、濃集部では4%に達する
常識破りの金品位をもっています。
2008-09-15
45 能登半島:砂から見る大地の営み(2008.09.15)
Time:
9:29
●
Geologist
能登半島に調査にいきました。石川県には何度も行っているのですが、能登は、はじめて訪れるところでした。能登半島の砂を見て、大地の営み、そして人の営みを考えました。
9月5日から11日まで、一人で調査に出ていました。コースは、小松空港を出発して、能登半島を回り、富山県の庄川を遡り、岐阜県の長良川を下り、途中から福井県に入り、九頭竜川を下って河口のある三国までいき、小松へもどりました。今年の春に、若狭湾から越前、三国まで調査していますので、今回は、その連続を調査しました。
能登半島の西の付け根あたりに、千里浜なぎさドライブウェイというものがあります。石川県羽咋(はくい)郡宝達志水町今浜から羽咋市千里浜町にかけて、約8kmも続く海岸があります。この海岸は、自動車や観光バスも波打ち際を走ることができる「道路」となっています。日本で、車が走れる海岸は、ここだけだそうです。私も、実際に車で走って、爽快なドライブをしました。
自動車が砂浜を走れるのは、砂がしまっているためです。砂の粒度はよくあるサイズのもので、特別なものではありません。ですから、砂に適度な湿り気があるのでしまってるのと、水混じりの砂が力がかかると一種のゲルとして固体のような振る舞いをするのではないでしょうか。
千里浜から能登半島の西側の海岸沿いを走りました。羽咋市を過ぎると、海岸の様相が大きく変ります。穏やかであった海岸線が、険しいものへと一変します。能登金剛とよばれるような切り立った断崖の海岸となります。
能登半島の海岸沿いを一周して、北半分にあたる奥能登と南側の地域を見て、海岸の様相がかなり違うと感じました。
私は砂を試料として収集しているので、海岸の様子には注意しています。半島の南側の海岸ではたくさん砂浜がありましたが、北側の海岸では、砂を採集できるところが非常に少なかったのです。砂浜があっても、小規模なものでした。その違いは、どうも大地の生い立ちに原因がありそうです。
海岸に砂が集まったり、なかったりするのは、いろいろな要因が考えられますが、重要なものは、地形砂の供給源と運搬する海流の作用、そして海岸の地形です。
砂浜があったとしても、長い時間がたてば、砂浜は消えていしまいます。それは、砂が、波の作用で、砕かれ小さくなって、やがては波に運び去られていきます。ですから、砂浜があるということは、その砂浜に常に砂が供給される場所でなければなりません。
砂の供給源は、海岸の崖が崩れることや貝殻が砕かれることもあります。しかし、砂は、主に川から運ばれてきます。近くに川があると、上流から運ばれてきた土砂が、周辺の海岸に砂を供給することができます。川の流れは定常的なものですから、砂をいつも供給することができます。
次に、川から供給された砂が、海岸に運搬され続けなければなりません。それが沿岸流とよばれている潮の流れです。沿岸流は、複雑な動きをしますが、大局的に見れは、海流の影響を受けます。日本海では、対馬海流が、東から西に向かって流れています。能登半島の西側は、強い対馬海流にさらされているという点では、北も南も同じ条件となります。また能登半島の東側は、半島が対馬海流を影響を和らげます。この点でも能登の北も南も同じです。
ですから能登半島の場合、海岸に砂浜ができるかどうかは、砂の供給源、つまり大きな川が潮の流れの上流側にあるかどうかが大きな違いとなってきます。能登半島の付け根には、大きな川がいくつもあります。西側では、手取川、東側には庄川、神通川、常願寺川など白山や飛騨の山並みに源流をもつ大河があります。一方、奥能登は奥能登丘陵と呼ばれる山地はありますが、河川はどれも急で短いものです。そのため、砂の供給源としては、不十分です。このような砂の供給源として、大きな川の有無が、砂浜のできるか、できないかの大きな原因となっていると考えられます。
3つめの原因として、海岸の地形にも砂浜の成因と、密接な関係があります。つまり、奥能登には砂浜ができにくい理由があります。それは、奥能登が大地が上昇する(隆起といいます)という地殻変動を続けているためです。
能登半島の隆起は、数十万年前からはじまり、現在も続いています。大地の隆起は、海岸段丘というものから推定することができます。海岸段丘とは、海岸沿いにできた階段状の地形です。つまり、もともと海の海岸線であったところ(汀線といいます)が、段丘の平らな面(段丘面)となます。その後、陸が急に隆起したり、海面が下がると、今までの平らな面が海水の作用で侵食され崖(海食崖)になります。それが、段丘の崖(段丘崖)となります。隆起が続いている地域では、高い位置にある段丘面ほど古い時代に形成されたものになります。
12万5000年前の地球の温暖期に当たり、現在より3から6mほど海面が上昇していました。そのときに形成された段丘面は、能登半島の北端の折戸では、現在、なんと標高109mのところにあります。また、東海岸の九十九(つくも)湾では、標高49mのところになります。その後も能登半島は上昇を続けています。
ただし、この隆起よりすごい変動が起こっています。1万3000年から1万8000年前の氷河期(リス氷期)には、130mも海面が下がりました。その後、氷期(ヴュルム氷期)が訪れ、そして現在の間氷期になります。ヴュルム氷期でも現在の海面より120mほど下がりました。その海面上昇は急激で、奥能登が隆起しているのにかかわらず、海面上昇が隆起を追い越してしまいました。そのため、山間部の地形である谷や尾根が、そのまま海岸線となってしまいした。このような海岸線を、リアス式海岸と呼んでいます。九十九湾はリアス式海岸の典型的な場所です。
奥能登では、砂の供給が少ないとともに、このような隆起や海面変動によって砂浜の海岸ができるような平地がないため、より砂浜が少なく小さかったのです。
近年、日本各地で、海岸の砂の流出が問題になっています。その原因のひとつは、河川の護岸によって砂が海に運ばれることが少なくなっているためです。実は、千里浜でも、砂の供給が少なくなって、侵食されはじめていることが問題になっているそうです。治水として川を護岸することが、実は思わぬところで、影響を与えていることになります。一方を守るために手を加えたことによって、別のところに被害を与えることがあります。自然は奥深いです。そのことを知ったからには、場当たり的な処置は注意が必要です。砂がなくなったから、別のところから持ってくるなどという愚かな対処をしないことを祈ります。能登では見かけませんでしたが、人工砂浜を見ると虚しくなるのは、私だけでしょうか。
・リフレッシュ・
北海道では、9月になっても、暑い日が続いています。
しかし、朝夕は涼しく秋を感じさせます。
私の大学は、まだ夏季休暇中ですので、
9月のこの時期が、一番仕事のできるときとなります。
私は、9月上旬には、いつも調査に出ることにしています。
そして、9月後半は論文をまとめるというパターンです。
ですから、これからは、論文を書くことに専念したいと思っています。
調査で頭はリフレッシュしたのですが、
本州の暑い中を調査したので、少々ばてています。
まあ、連休明けからがんばりましょうか。
・豪雨・
能登半島をめぐっているとき、激しい雨に会いました。
調査に出る直前に、集中豪雨のため、
本州各地で水害や土砂災害を起こしていました。
その二の舞かと思うほどの激しい雨でした。
車を走らせていると、前が見えなくなるような雨でした。
ですから、能登半島の調査は、
なかなか思うようにできませんでしたが、
雨は降り続けることなく、休み休み降っていたので、
その合間に調査を続けました。
もちろん断念した場所も何箇所もありますが、
雨ばかりはどうしようもありません。
9月5日から11日まで、一人で調査に出ていました。コースは、小松空港を出発して、能登半島を回り、富山県の庄川を遡り、岐阜県の長良川を下り、途中から福井県に入り、九頭竜川を下って河口のある三国までいき、小松へもどりました。今年の春に、若狭湾から越前、三国まで調査していますので、今回は、その連続を調査しました。
能登半島の西の付け根あたりに、千里浜なぎさドライブウェイというものがあります。石川県羽咋(はくい)郡宝達志水町今浜から羽咋市千里浜町にかけて、約8kmも続く海岸があります。この海岸は、自動車や観光バスも波打ち際を走ることができる「道路」となっています。日本で、車が走れる海岸は、ここだけだそうです。私も、実際に車で走って、爽快なドライブをしました。
自動車が砂浜を走れるのは、砂がしまっているためです。砂の粒度はよくあるサイズのもので、特別なものではありません。ですから、砂に適度な湿り気があるのでしまってるのと、水混じりの砂が力がかかると一種のゲルとして固体のような振る舞いをするのではないでしょうか。
千里浜から能登半島の西側の海岸沿いを走りました。羽咋市を過ぎると、海岸の様相が大きく変ります。穏やかであった海岸線が、険しいものへと一変します。能登金剛とよばれるような切り立った断崖の海岸となります。
能登半島の海岸沿いを一周して、北半分にあたる奥能登と南側の地域を見て、海岸の様相がかなり違うと感じました。
私は砂を試料として収集しているので、海岸の様子には注意しています。半島の南側の海岸ではたくさん砂浜がありましたが、北側の海岸では、砂を採集できるところが非常に少なかったのです。砂浜があっても、小規模なものでした。その違いは、どうも大地の生い立ちに原因がありそうです。
海岸に砂が集まったり、なかったりするのは、いろいろな要因が考えられますが、重要なものは、地形砂の供給源と運搬する海流の作用、そして海岸の地形です。
砂浜があったとしても、長い時間がたてば、砂浜は消えていしまいます。それは、砂が、波の作用で、砕かれ小さくなって、やがては波に運び去られていきます。ですから、砂浜があるということは、その砂浜に常に砂が供給される場所でなければなりません。
砂の供給源は、海岸の崖が崩れることや貝殻が砕かれることもあります。しかし、砂は、主に川から運ばれてきます。近くに川があると、上流から運ばれてきた土砂が、周辺の海岸に砂を供給することができます。川の流れは定常的なものですから、砂をいつも供給することができます。
次に、川から供給された砂が、海岸に運搬され続けなければなりません。それが沿岸流とよばれている潮の流れです。沿岸流は、複雑な動きをしますが、大局的に見れは、海流の影響を受けます。日本海では、対馬海流が、東から西に向かって流れています。能登半島の西側は、強い対馬海流にさらされているという点では、北も南も同じ条件となります。また能登半島の東側は、半島が対馬海流を影響を和らげます。この点でも能登の北も南も同じです。
ですから能登半島の場合、海岸に砂浜ができるかどうかは、砂の供給源、つまり大きな川が潮の流れの上流側にあるかどうかが大きな違いとなってきます。能登半島の付け根には、大きな川がいくつもあります。西側では、手取川、東側には庄川、神通川、常願寺川など白山や飛騨の山並みに源流をもつ大河があります。一方、奥能登は奥能登丘陵と呼ばれる山地はありますが、河川はどれも急で短いものです。そのため、砂の供給源としては、不十分です。このような砂の供給源として、大きな川の有無が、砂浜のできるか、できないかの大きな原因となっていると考えられます。
3つめの原因として、海岸の地形にも砂浜の成因と、密接な関係があります。つまり、奥能登には砂浜ができにくい理由があります。それは、奥能登が大地が上昇する(隆起といいます)という地殻変動を続けているためです。
能登半島の隆起は、数十万年前からはじまり、現在も続いています。大地の隆起は、海岸段丘というものから推定することができます。海岸段丘とは、海岸沿いにできた階段状の地形です。つまり、もともと海の海岸線であったところ(汀線といいます)が、段丘の平らな面(段丘面)となます。その後、陸が急に隆起したり、海面が下がると、今までの平らな面が海水の作用で侵食され崖(海食崖)になります。それが、段丘の崖(段丘崖)となります。隆起が続いている地域では、高い位置にある段丘面ほど古い時代に形成されたものになります。
12万5000年前の地球の温暖期に当たり、現在より3から6mほど海面が上昇していました。そのときに形成された段丘面は、能登半島の北端の折戸では、現在、なんと標高109mのところにあります。また、東海岸の九十九(つくも)湾では、標高49mのところになります。その後も能登半島は上昇を続けています。
ただし、この隆起よりすごい変動が起こっています。1万3000年から1万8000年前の氷河期(リス氷期)には、130mも海面が下がりました。その後、氷期(ヴュルム氷期)が訪れ、そして現在の間氷期になります。ヴュルム氷期でも現在の海面より120mほど下がりました。その海面上昇は急激で、奥能登が隆起しているのにかかわらず、海面上昇が隆起を追い越してしまいました。そのため、山間部の地形である谷や尾根が、そのまま海岸線となってしまいした。このような海岸線を、リアス式海岸と呼んでいます。九十九湾はリアス式海岸の典型的な場所です。
奥能登では、砂の供給が少ないとともに、このような隆起や海面変動によって砂浜の海岸ができるような平地がないため、より砂浜が少なく小さかったのです。
近年、日本各地で、海岸の砂の流出が問題になっています。その原因のひとつは、河川の護岸によって砂が海に運ばれることが少なくなっているためです。実は、千里浜でも、砂の供給が少なくなって、侵食されはじめていることが問題になっているそうです。治水として川を護岸することが、実は思わぬところで、影響を与えていることになります。一方を守るために手を加えたことによって、別のところに被害を与えることがあります。自然は奥深いです。そのことを知ったからには、場当たり的な処置は注意が必要です。砂がなくなったから、別のところから持ってくるなどという愚かな対処をしないことを祈ります。能登では見かけませんでしたが、人工砂浜を見ると虚しくなるのは、私だけでしょうか。
・リフレッシュ・
北海道では、9月になっても、暑い日が続いています。
しかし、朝夕は涼しく秋を感じさせます。
私の大学は、まだ夏季休暇中ですので、
9月のこの時期が、一番仕事のできるときとなります。
私は、9月上旬には、いつも調査に出ることにしています。
そして、9月後半は論文をまとめるというパターンです。
ですから、これからは、論文を書くことに専念したいと思っています。
調査で頭はリフレッシュしたのですが、
本州の暑い中を調査したので、少々ばてています。
まあ、連休明けからがんばりましょうか。
・豪雨・
能登半島をめぐっているとき、激しい雨に会いました。
調査に出る直前に、集中豪雨のため、
本州各地で水害や土砂災害を起こしていました。
その二の舞かと思うほどの激しい雨でした。
車を走らせていると、前が見えなくなるような雨でした。
ですから、能登半島の調査は、
なかなか思うようにできませんでしたが、
雨は降り続けることなく、休み休み降っていたので、
その合間に調査を続けました。
もちろん断念した場所も何箇所もありますが、
雨ばかりはどうしようもありません。
2008-09-12
2008-09-07
2008-08-15
44 然別湖:思い出と悠久の思い(2008.08.15)
Time:
9:28
●
Geologist
夏休みに北海道の十勝平野の北はずれの然別周辺を回りました。然別は、十勝平野を見下ろす火山でした。その山頂から、若かりし頃の思いに浸りました。
今年の夏休みは、8月上旬に北海道の十勝に出かけました。今年の夏の北海道は快晴に恵まれ、抜けるような青空の中を旅行することができました。十勝平野の奥にあたる十勝川やその支流沿いを、うろうろと巡りました。
家族は、避暑を兼ねて山間の温泉に浸り、名物を食事して、陶芸や熱気球、ベアマウンテンなど、夏を満喫するようなレジャーを楽しむのが目的でした。
私には、二つの目的がありました。ひとつは、東ヌプカウシヌプリ(1252)か天望山(1174m)、白雲山(1186m)のいずれかに登りたいと思っていました。登山がダメでも、然別湖の湖畔の奥にある東雲湖まで歩きたいと考えていました。もし山に登ることができれば、南側に広がる十勝平野と北側に広がる然別湖、そして北側に広がる然別湖から石狩岳山系の山並みを見ることができるこしれません。
もうひとつの目的は、大学生の時代に山小屋設立委員会という組織に参加して寄付を集めや山小屋建築に加わっていました。その山小屋が、東ヌプカウシヌプリの南東山麓にありました。大学1年生の時に、士幌町から提供を受けていた候補地から、最終的に山小屋を立てる位置を決定するために、その地を訪れました。その後、仲間とやぶこぎをして白雲山の頂上に立ったことを覚えています。2年生の夏には、山小屋建築の手伝いをしたあと、キャンプをして然別湖の東岸を歩いて回りました。
然別は、私の学生時代の思い出の地ともいえます。2年生の秋に山小屋は完成したのですが、3年生の冬に友人と宿泊に行ったきり、その後は山小屋に行くこともなく、記憶から完全に抜けていました。今年は設立30周年にあたり、山小屋がどうなっているかを、チャンスがあれば見てみたいと思っていました。
北海道の新しい時代(第四紀)の火山は、2つのグループに分けることができます。ひとつは、東北日本からつながる道南の西南北海道火山地帯です。道南の火山は、東北日本弧と呼ばれる地帯に属することになります。
もうひとつは、千島列島からつらなる阿寒-知床火山地帯と、その延長で大雪山を中心とする大雪-十勝-然別火山地帯があります。火山のない地帯は、常呂帯が分布しています。こちらの火山は、千島弧と呼ばれる地帯に属します。
西南北海道火山地帯と大雪-十勝-然別火山地帯の間の火山のない地帯には、礼文・樺戸帯と空知・エゾ帯があります。
北海道の火山の分布の特徴は、日本列島の大きな地質構造を反映しています。日本列島の太平洋側の海底には、日本海溝と千島海溝があります。実はこれら2つの海溝は、襟裳岬の南東沖で折れ曲がっています。海溝とは、海洋プレートが沈み込む場所です。その沈み込む場所が折れ曲がっていれば、当然、陸地側にも影響があります。
まず、北海道の火山の並びをよくみると、地帯ごとに火山の並びができています。その火山の並びは、海溝の伸びる方向と斜交しています。このような斜交している状態を、雁行(がんこう)状と呼びます。雁行とは、雁が飛んでいく時のできる編隊の形に似ていることです。このような雁行状の火山は、沈み込むプレートが、陸地に対して折れ曲がっているためにできた割れ目に、対応していると考えられています。
また、火山地帯内の個々の火山は、海溝からの距離に応じて、化学組成(二酸化珪素SiO2に対する酸化カリウムK2Oや酸化鉄FeOなど)が変化していることもわかっています。
これらのデータは、火山の位置やマグマの性質が、地下深部の地質構造を反映していることを意味します。
さて、然別湖の周辺の山々ですが、その多くは、新しい時代の火山からできています。新しい時代の火山は、然別火山群と呼ばれ、大雪-十勝-然別火山地帯の最南端に当たります。東ヌプカウシヌプリ(標高1252m)、白雲山(1187m)、天望山(1174m)が然別火山群に属し、他にも、北ペトウトル山、南ペトウトル山、西ヌプカウシヌプリ(1256m)などもあります。
然別火山群の火山をつくったマグマは、安山岩質で、溶岩ドームを形成してます。大小10個の溶岩ドームが見つかっています。東雲湖や東ヌプカウシヌプリと西ヌプカウシヌプリの間にある駒止湖、白雲山の南から西の切れ込んだ斜面は、爆裂火口の跡です。然別火山群の南のなだらかな麓は、古い溶岩ドームが崩れた火砕流堆積物や岩屑なだれ堆積物が広がっています。また岩砕なだれ特有の流れ山の地形もみられます。
活動の時代は、南ペトウトル山(31万年前から)や北ペトウトル山(22万年前から)などの然別湖の西側にある火山が活動をはじめ、南側の火山に活動が移ります。南側の火山活動をはじめる前に活動した瓜幕軽石流堆積物の年代測定(14Cによる放射年代)は、3万1920年前より古いことがわかっています。その後、ドームを形成する火山活動が起こります。そして、白雲山がもっとも最近の火山活動となります。
然別湖は、これらの火山活動によって、然別川の支流のヤンベツ川がせき止められてできた堰止湖になります。然別湖の西岸を巡る道路は、然別湖から下るときは、ヤンベツ川から離れ、西ヌプカウシヌプリの山腹をめぐるように進みます。その道路わきに、展望台があります。そこから眺める扇ヶ原のなだらかな斜面、そしてその先には十勝平野が広がっています。このなだらかな斜面が、激しい火山活動によってできたものです。
東ヌプカウシヌプリの麓には、士幌高原ヌプカの里という施設ができていました。そこを見学するために、車で斜面を登っていきました。その途中にチセフレップという看板を見つけました。
チセフレップとは、私が学生時代に設立に参加した山小屋の名前でした。今も大学の恵廸寮の後輩たちが守って、利用していました。ヌプカの里にいった帰りに、チセフレップの山小屋に立ち寄りました。改装中で足場が組まれていましたが、見覚えのある赤い三角屋根を見ることができました。もう帰る時間だったので、長居はできませんでしたが、懐かしい思いに浸ることできました。
然別の山の頂上から、若かりし頃の思い出と、大地の悠久の思いを感じてしまいました。
・裾野・
十勝平野と火山の堆積物の交わる付近に
瓜幕の町があります。
自衛隊の駐屯地があり、
扇ヶ原は自衛隊の演習場となっています。
私が訪れた時は演習は行われていませんでしたが、
周辺の道を走っていると、
自衛隊の車両にたくさんあいました。
演習場があるため、
山の裾野を巡る道路は分断されています。
そのため、大きく迂回をしなければなりませんでした。
時間に余裕があったので、
然別の周辺をいろいろ巡ることができました。
・白雲山・
白雲山に最終的に登ったのですが、
当初は東雲湖まで湖畔沿いの平坦な散策道を
歩く予定でいました。
ところが、生い茂る木で展望もよくなく、
あまり面白くない散策で少々私は飽きていました。
途中で、白雲山に登る分かれ道があり、
そこで休息していました。
ちょうど、その時、白雲山から下山してきた夫婦がいました。
まだ、朝10時頃だったので、簡単に登れそうだと思い、
急遽登山をすることにしました。
ところが、この登山道は、踏み後ははっきりしているのですが、
手入れがあまりされておらず、
クマザサが覆いかぶさるように茂っていました。
家内はバテ、次男がクマザサに悩まされながらも、
いまさらこんな道を戻るのはいやだという思いで、
皆頂上に立つことができました。
苦労の末の登頂だったので、その感激は皆ひとしおだったようで、
疲れてはいましたが、眺望を楽しみました。
子どもたちは、山頂が岩山だったので、
疲れも忘れて岩登りをして遊んでいました。
元気なものです。
どれくらいかかるか分からなかったので、
昼食できるような軽食と十分な水や飴玉を
用意していたので、無事下山してきました。
帰りは、正規の整備された登山道を降りてきました。
今年の夏休みは、8月上旬に北海道の十勝に出かけました。今年の夏の北海道は快晴に恵まれ、抜けるような青空の中を旅行することができました。十勝平野の奥にあたる十勝川やその支流沿いを、うろうろと巡りました。
家族は、避暑を兼ねて山間の温泉に浸り、名物を食事して、陶芸や熱気球、ベアマウンテンなど、夏を満喫するようなレジャーを楽しむのが目的でした。
私には、二つの目的がありました。ひとつは、東ヌプカウシヌプリ(1252)か天望山(1174m)、白雲山(1186m)のいずれかに登りたいと思っていました。登山がダメでも、然別湖の湖畔の奥にある東雲湖まで歩きたいと考えていました。もし山に登ることができれば、南側に広がる十勝平野と北側に広がる然別湖、そして北側に広がる然別湖から石狩岳山系の山並みを見ることができるこしれません。
もうひとつの目的は、大学生の時代に山小屋設立委員会という組織に参加して寄付を集めや山小屋建築に加わっていました。その山小屋が、東ヌプカウシヌプリの南東山麓にありました。大学1年生の時に、士幌町から提供を受けていた候補地から、最終的に山小屋を立てる位置を決定するために、その地を訪れました。その後、仲間とやぶこぎをして白雲山の頂上に立ったことを覚えています。2年生の夏には、山小屋建築の手伝いをしたあと、キャンプをして然別湖の東岸を歩いて回りました。
然別は、私の学生時代の思い出の地ともいえます。2年生の秋に山小屋は完成したのですが、3年生の冬に友人と宿泊に行ったきり、その後は山小屋に行くこともなく、記憶から完全に抜けていました。今年は設立30周年にあたり、山小屋がどうなっているかを、チャンスがあれば見てみたいと思っていました。
北海道の新しい時代(第四紀)の火山は、2つのグループに分けることができます。ひとつは、東北日本からつながる道南の西南北海道火山地帯です。道南の火山は、東北日本弧と呼ばれる地帯に属することになります。
もうひとつは、千島列島からつらなる阿寒-知床火山地帯と、その延長で大雪山を中心とする大雪-十勝-然別火山地帯があります。火山のない地帯は、常呂帯が分布しています。こちらの火山は、千島弧と呼ばれる地帯に属します。
西南北海道火山地帯と大雪-十勝-然別火山地帯の間の火山のない地帯には、礼文・樺戸帯と空知・エゾ帯があります。
北海道の火山の分布の特徴は、日本列島の大きな地質構造を反映しています。日本列島の太平洋側の海底には、日本海溝と千島海溝があります。実はこれら2つの海溝は、襟裳岬の南東沖で折れ曲がっています。海溝とは、海洋プレートが沈み込む場所です。その沈み込む場所が折れ曲がっていれば、当然、陸地側にも影響があります。
まず、北海道の火山の並びをよくみると、地帯ごとに火山の並びができています。その火山の並びは、海溝の伸びる方向と斜交しています。このような斜交している状態を、雁行(がんこう)状と呼びます。雁行とは、雁が飛んでいく時のできる編隊の形に似ていることです。このような雁行状の火山は、沈み込むプレートが、陸地に対して折れ曲がっているためにできた割れ目に、対応していると考えられています。
また、火山地帯内の個々の火山は、海溝からの距離に応じて、化学組成(二酸化珪素SiO2に対する酸化カリウムK2Oや酸化鉄FeOなど)が変化していることもわかっています。
これらのデータは、火山の位置やマグマの性質が、地下深部の地質構造を反映していることを意味します。
さて、然別湖の周辺の山々ですが、その多くは、新しい時代の火山からできています。新しい時代の火山は、然別火山群と呼ばれ、大雪-十勝-然別火山地帯の最南端に当たります。東ヌプカウシヌプリ(標高1252m)、白雲山(1187m)、天望山(1174m)が然別火山群に属し、他にも、北ペトウトル山、南ペトウトル山、西ヌプカウシヌプリ(1256m)などもあります。
然別火山群の火山をつくったマグマは、安山岩質で、溶岩ドームを形成してます。大小10個の溶岩ドームが見つかっています。東雲湖や東ヌプカウシヌプリと西ヌプカウシヌプリの間にある駒止湖、白雲山の南から西の切れ込んだ斜面は、爆裂火口の跡です。然別火山群の南のなだらかな麓は、古い溶岩ドームが崩れた火砕流堆積物や岩屑なだれ堆積物が広がっています。また岩砕なだれ特有の流れ山の地形もみられます。
活動の時代は、南ペトウトル山(31万年前から)や北ペトウトル山(22万年前から)などの然別湖の西側にある火山が活動をはじめ、南側の火山に活動が移ります。南側の火山活動をはじめる前に活動した瓜幕軽石流堆積物の年代測定(14Cによる放射年代)は、3万1920年前より古いことがわかっています。その後、ドームを形成する火山活動が起こります。そして、白雲山がもっとも最近の火山活動となります。
然別湖は、これらの火山活動によって、然別川の支流のヤンベツ川がせき止められてできた堰止湖になります。然別湖の西岸を巡る道路は、然別湖から下るときは、ヤンベツ川から離れ、西ヌプカウシヌプリの山腹をめぐるように進みます。その道路わきに、展望台があります。そこから眺める扇ヶ原のなだらかな斜面、そしてその先には十勝平野が広がっています。このなだらかな斜面が、激しい火山活動によってできたものです。
東ヌプカウシヌプリの麓には、士幌高原ヌプカの里という施設ができていました。そこを見学するために、車で斜面を登っていきました。その途中にチセフレップという看板を見つけました。
チセフレップとは、私が学生時代に設立に参加した山小屋の名前でした。今も大学の恵廸寮の後輩たちが守って、利用していました。ヌプカの里にいった帰りに、チセフレップの山小屋に立ち寄りました。改装中で足場が組まれていましたが、見覚えのある赤い三角屋根を見ることができました。もう帰る時間だったので、長居はできませんでしたが、懐かしい思いに浸ることできました。
然別の山の頂上から、若かりし頃の思い出と、大地の悠久の思いを感じてしまいました。
・裾野・
十勝平野と火山の堆積物の交わる付近に
瓜幕の町があります。
自衛隊の駐屯地があり、
扇ヶ原は自衛隊の演習場となっています。
私が訪れた時は演習は行われていませんでしたが、
周辺の道を走っていると、
自衛隊の車両にたくさんあいました。
演習場があるため、
山の裾野を巡る道路は分断されています。
そのため、大きく迂回をしなければなりませんでした。
時間に余裕があったので、
然別の周辺をいろいろ巡ることができました。
・白雲山・
白雲山に最終的に登ったのですが、
当初は東雲湖まで湖畔沿いの平坦な散策道を
歩く予定でいました。
ところが、生い茂る木で展望もよくなく、
あまり面白くない散策で少々私は飽きていました。
途中で、白雲山に登る分かれ道があり、
そこで休息していました。
ちょうど、その時、白雲山から下山してきた夫婦がいました。
まだ、朝10時頃だったので、簡単に登れそうだと思い、
急遽登山をすることにしました。
ところが、この登山道は、踏み後ははっきりしているのですが、
手入れがあまりされておらず、
クマザサが覆いかぶさるように茂っていました。
家内はバテ、次男がクマザサに悩まされながらも、
いまさらこんな道を戻るのはいやだという思いで、
皆頂上に立つことができました。
苦労の末の登頂だったので、その感激は皆ひとしおだったようで、
疲れてはいましたが、眺望を楽しみました。
子どもたちは、山頂が岩山だったので、
疲れも忘れて岩登りをして遊んでいました。
元気なものです。
どれくらいかかるか分からなかったので、
昼食できるような軽食と十分な水や飴玉を
用意していたので、無事下山してきました。
帰りは、正規の整備された登山道を降りてきました。
2008-07-15
43 三方五湖:年縞の記録(2008.07.15)
Time:
9:28
●
Geologist
三方五湖は、福井県の中央に位置しています。若狭湾国定公園の一部ともなっています。静かな湖底の堆積物には、長い環境の記録が残されていました。
今年の春休みに、福井県に行きました。その時、三方五湖を訪れました。私は京都生まれなのですが、小さい頃に日本海側にいった記憶ありません。その後、日本海側をみる機会がいくつかありました。一つは、大学院と研究員のときに鳥取に5年間住んでいたことから、日本海側の山陰はいろいろ見て回っていました。また、博士課程での研究テーマに関係する野外調査で、京都府から福井の西側の一部は、歩き回っていました。しかし、福井県の中部から東部にかけては、いった記憶がありせん。もちろん、北陸へあるいは敦賀港(フェリーを良く利用したため)から移動するためために通過したことがありますが、じっくりと見て回ったことがありませんでした。そこで今回の旅で、福井県を見て回ることしました。
見たいところとしては、大島半島と若狭蘇洞門(そとも)、三方五湖がありました。大島半島ではオフィオライト(地球のささやきというエッセイで紹介しました)を、蘇洞門では花崗岩とその柱状節理を見るつもりでした。しかし、大島半島は激しい雨でみることができず、蘇洞門も天候不良(フェリ欠航)と冬季間の通行止めで、いずれも見学することができませんでした。
残されたものは、三方五湖です。天気は、風が強く肌寒かったのですが、周辺とレインボーラインを巡ることができ、5つの湖を見ることができました。
三方五湖とは、三方地域にある5つの湖という意味です。三方とは、三潟とも書かれていて、三つの潟のあるという意味でつけられました。古くからこの地域は、三方郷として知られていました。万葉集の7巻にも、
若狭なる 三方の海の 浜清み
い往き還らひ 見れど飽かぬかも(作者不明)
という歌が残されています。三方は、古くから知られた有名な所だったのです。
三方郡三方町は、2005年3月31日に、三方郡三方町と遠敷郡上中町が合併して若狭町となりました。三方町はなくなりましたが、三方上中郡を新設され、三方の名称は残りました。
5つの湖とは、三方湖、水月湖、菅(すが)湖、久々子(くぐし)湖、日向(ひるが)湖です。配置は、日本海に面して、東に久々子湖(周囲7.0km、最大水深3.0m、面積2.25km2)、西に小ぶりの日向湖(周囲3.6km、最大水深38m、面積0.92km2)があります。その南側に水月湖(周囲9.85km、最大水深38m、面積4.06km2)、それに小さく東に寄り添うように菅湖(周囲4.2km、最大水深14.5m、面積0.95km2)があります。水月湖のさらに南側に三方湖(周囲9.6km、最大水深2.5m、面積3.45km2)があります。三方湖、水月湖、菅湖の3つは、もともとつながっています。
久々子湖と日向湖は、海と細い水路でつながっています。久々子湖の水路は満潮のときだけ、海水が逆流するため、汽水(海水と淡水が混じった状態)となっています。日向湖は完全な海水です。
その以外の3つの湖は、海からは完全に切り離されていました。しかし古くからこの地域の人々は、治水や耕作のために、この湖に手を加えていました。1662年から開削された浦見川によって、水月湖と久々子湖はつながりました。1751年には、嵯峨隧道の開通によって水月湖と日向湖がつながりました。また、1860年に、菅湖と三方湖とは「堀切」で人工的につながれています。そのため水月湖と菅湖は、汽水になりました。いくつかの水路と湖を経ていますが、海とつながっているはずの三方湖ですが、現在でも淡水のままで、コイやフナ、ワカサギなどとが獲れるそうです。
古くから人が、手を加えてきた三方五湖ですが、その自然は破壊されることなく、人々が暮らしの中で守ってきました。その結果、北西に伸びる常神半島と三方五湖周辺地域は、1937年6月15日に名勝「三方五湖」として国の指定を受け、1955年6月1日には若狭湾国定公園に指定され、2005年11月8日にラムサール条約指定湿地に登録されています。
三方五湖は、地球の環境変化を記録していることがわかってきました。その記録は、湖底の堆積物の中にありました。三方湖と水月湖が、重要な役割を果たしています。
1980年に三方湖の湖底にたまった堆積物をボーリングして調べることが行われました。三方湖には、はす川という比較的大きな川があります。その川が堆積物を運んでくるため、堆積物がたまって三方湖は比較的浅くなっています。水月湖の最大水深38mもあるのに対し、三方湖の最大水深は2.5mしかありません。これは、河川の囲んでくる堆積物の量を反映しています。他の湖には小さな川があるのですが、大きなものはなく、堆積物を運んでくる機構がないので、湖底にたまる堆積物が少ないのです。
水月湖は、湖水の上部(水深0~6m)が淡水となり、下部(水深7~40m)汽水となっています。しかし、下部の汽水には生物がほとんど棲んでいません。それは、下部の水が無酸素状態になっているためです。
水月湖には、大きな川のある三方湖からは淡水が入ってきます。一方、水路によって久々子湖からは汽水が流れ込みます。淡水に比べ海水を含む汽水は密度が大きく、底にたまるようになります。密度の違う水が2層に分かれた状態では、表層の淡水が風などで波立ったとしても、表層だけが混ざり、湖底の汽水の部分はたまったまま、混ざることがありません。そのような状態が長く続くと、空気に触れることなく、有機物が分解していき湖水中の酸素をすべて使ってしまいます。そのため、生物がほとんど棲めない無酸素の水となります。2006年時点で、下部の湖水は、硫化水素を含む無酸素状態となっているそうです。
周りの影響を受けずに、湖の環境だけを調べるためには、三方湖より水月湖の方が、適しています。それは、土砂の流入が少ないので、ひとつひとつは薄い堆積物になりますが、短いボーリングでより多くの時代の堆積物を得ることができるからです。また、無酸素で生物が棲めないために、薄い堆積物が、乱されることなく保存されます。
そのような穏やかで土砂の流入が少ないところでは、湖の四季の変化が、堆積物に記録されていきます。春から夏まで、湖の表層にすむプランクトン(珪藻)が繁殖して、その遺骸が湖底にたまり、白っぽい堆積物が形成されます。秋から冬には、プランクトンの活動は衰え、細かい黒っぽい堆積物(粘土鉱物)が堆積します。白と黒で1年分となります。長年同じ状態が続くと、白黒の縞模様が堆積物が形成されていきます。これは、木の年輪のように、縞模様から年を数えることができます。このような年毎の縞模様を、年縞(ねんこう)と呼んでいます。
1991年と2006年に、水月湖の湖底でもボーリングがおこなわれました。その結果、三方湖のボーリングで5万年間の記録だったのですが、水月湖では世界で最も長い年縞の記録である15万年分の堆積物が得られました。これらの年縞を詳しく調べることによって、地球の環境変化が読み取ることが可能となります。現在研究が進められています。
地道な調査研究から、三方五湖のでき方がわかってきました。
古い時代から、そして現在も活動している三方断層が、三方五湖の東縁にあります。この断層がいつできたかは分かりませんが、30万年前には、今より海水面が20mほど高くなり、断層の沈降部に海水が張り込み湾となりました。そして少なくとも15万年前には、水月湖の湖底に堆積物がたまり始めました。
約2万年前の氷河期に、日本海の海面が100m以上も低くなり、断層のくぼ地に淡水がたまり湖となりました。これが三方五湖と始まりです。当時の三方五湖は、海岸から遠く離れた内陸の湖でした。5000年前くらいの縄文時代前期には、海面が現在より3~5mほど高くなり、三方湖は、水月湖と菅湖がくっついて一つとなった大きな湖で、北の湖の部分は湾として海とつながっていました。
その後海面が下がりましたが、久々子湖はまだ大きな入江でした。三方五湖の東で海に注ぐ耳川が運ぶ土砂が、海流で運ばれて入江にたまり、入口がほとんどふさがれました。1500年前には、今と同じように久々子湖は、細い水路で海とつながっている状態になりました。そのような長い時間の経過を経て、現在の三方五湖ができてきました。
三方五湖には、少ないながらも堆積物が、今も、川から運ばれ続けています。ですからこれからも、湖には堆積物はたまり続けることでしょう。時間の差はあるでしょうが、三方五湖が浅くなり続けることを意味します。それが周辺にどのような環境変化をもたらすかは、まだ分かりません。今の環境も、ある時間での環境の一断面に過ぎないのです。
・夏風邪・
発行が少し遅れました。
それは、体調不良のためです。
先々週の末に、夏風邪をひいてしまいました。
だんだん病状は悪化し、ひどく咳き込むようになりました。
あまりひどい咳で夜も寝れないほどです。
咳止めも種類を換えたのですが、あまり効果がありませんでした。
今週になって風邪の方は治まったのですが、
ひどい咳のために、筋肉痛から腰痛に発展して、
身動きが不自由になりました。
今まだ不調なのですが、授業あるので、
なんとかがんばって出てしました。
授業が終わったら、昨日に続いてマッサージに出かけます。
今年の春休みに、福井県に行きました。その時、三方五湖を訪れました。私は京都生まれなのですが、小さい頃に日本海側にいった記憶ありません。その後、日本海側をみる機会がいくつかありました。一つは、大学院と研究員のときに鳥取に5年間住んでいたことから、日本海側の山陰はいろいろ見て回っていました。また、博士課程での研究テーマに関係する野外調査で、京都府から福井の西側の一部は、歩き回っていました。しかし、福井県の中部から東部にかけては、いった記憶がありせん。もちろん、北陸へあるいは敦賀港(フェリーを良く利用したため)から移動するためために通過したことがありますが、じっくりと見て回ったことがありませんでした。そこで今回の旅で、福井県を見て回ることしました。
見たいところとしては、大島半島と若狭蘇洞門(そとも)、三方五湖がありました。大島半島ではオフィオライト(地球のささやきというエッセイで紹介しました)を、蘇洞門では花崗岩とその柱状節理を見るつもりでした。しかし、大島半島は激しい雨でみることができず、蘇洞門も天候不良(フェリ欠航)と冬季間の通行止めで、いずれも見学することができませんでした。
残されたものは、三方五湖です。天気は、風が強く肌寒かったのですが、周辺とレインボーラインを巡ることができ、5つの湖を見ることができました。
三方五湖とは、三方地域にある5つの湖という意味です。三方とは、三潟とも書かれていて、三つの潟のあるという意味でつけられました。古くからこの地域は、三方郷として知られていました。万葉集の7巻にも、
若狭なる 三方の海の 浜清み
い往き還らひ 見れど飽かぬかも(作者不明)
という歌が残されています。三方は、古くから知られた有名な所だったのです。
三方郡三方町は、2005年3月31日に、三方郡三方町と遠敷郡上中町が合併して若狭町となりました。三方町はなくなりましたが、三方上中郡を新設され、三方の名称は残りました。
5つの湖とは、三方湖、水月湖、菅(すが)湖、久々子(くぐし)湖、日向(ひるが)湖です。配置は、日本海に面して、東に久々子湖(周囲7.0km、最大水深3.0m、面積2.25km2)、西に小ぶりの日向湖(周囲3.6km、最大水深38m、面積0.92km2)があります。その南側に水月湖(周囲9.85km、最大水深38m、面積4.06km2)、それに小さく東に寄り添うように菅湖(周囲4.2km、最大水深14.5m、面積0.95km2)があります。水月湖のさらに南側に三方湖(周囲9.6km、最大水深2.5m、面積3.45km2)があります。三方湖、水月湖、菅湖の3つは、もともとつながっています。
久々子湖と日向湖は、海と細い水路でつながっています。久々子湖の水路は満潮のときだけ、海水が逆流するため、汽水(海水と淡水が混じった状態)となっています。日向湖は完全な海水です。
その以外の3つの湖は、海からは完全に切り離されていました。しかし古くからこの地域の人々は、治水や耕作のために、この湖に手を加えていました。1662年から開削された浦見川によって、水月湖と久々子湖はつながりました。1751年には、嵯峨隧道の開通によって水月湖と日向湖がつながりました。また、1860年に、菅湖と三方湖とは「堀切」で人工的につながれています。そのため水月湖と菅湖は、汽水になりました。いくつかの水路と湖を経ていますが、海とつながっているはずの三方湖ですが、現在でも淡水のままで、コイやフナ、ワカサギなどとが獲れるそうです。
古くから人が、手を加えてきた三方五湖ですが、その自然は破壊されることなく、人々が暮らしの中で守ってきました。その結果、北西に伸びる常神半島と三方五湖周辺地域は、1937年6月15日に名勝「三方五湖」として国の指定を受け、1955年6月1日には若狭湾国定公園に指定され、2005年11月8日にラムサール条約指定湿地に登録されています。
三方五湖は、地球の環境変化を記録していることがわかってきました。その記録は、湖底の堆積物の中にありました。三方湖と水月湖が、重要な役割を果たしています。
1980年に三方湖の湖底にたまった堆積物をボーリングして調べることが行われました。三方湖には、はす川という比較的大きな川があります。その川が堆積物を運んでくるため、堆積物がたまって三方湖は比較的浅くなっています。水月湖の最大水深38mもあるのに対し、三方湖の最大水深は2.5mしかありません。これは、河川の囲んでくる堆積物の量を反映しています。他の湖には小さな川があるのですが、大きなものはなく、堆積物を運んでくる機構がないので、湖底にたまる堆積物が少ないのです。
水月湖は、湖水の上部(水深0~6m)が淡水となり、下部(水深7~40m)汽水となっています。しかし、下部の汽水には生物がほとんど棲んでいません。それは、下部の水が無酸素状態になっているためです。
水月湖には、大きな川のある三方湖からは淡水が入ってきます。一方、水路によって久々子湖からは汽水が流れ込みます。淡水に比べ海水を含む汽水は密度が大きく、底にたまるようになります。密度の違う水が2層に分かれた状態では、表層の淡水が風などで波立ったとしても、表層だけが混ざり、湖底の汽水の部分はたまったまま、混ざることがありません。そのような状態が長く続くと、空気に触れることなく、有機物が分解していき湖水中の酸素をすべて使ってしまいます。そのため、生物がほとんど棲めない無酸素の水となります。2006年時点で、下部の湖水は、硫化水素を含む無酸素状態となっているそうです。
周りの影響を受けずに、湖の環境だけを調べるためには、三方湖より水月湖の方が、適しています。それは、土砂の流入が少ないので、ひとつひとつは薄い堆積物になりますが、短いボーリングでより多くの時代の堆積物を得ることができるからです。また、無酸素で生物が棲めないために、薄い堆積物が、乱されることなく保存されます。
そのような穏やかで土砂の流入が少ないところでは、湖の四季の変化が、堆積物に記録されていきます。春から夏まで、湖の表層にすむプランクトン(珪藻)が繁殖して、その遺骸が湖底にたまり、白っぽい堆積物が形成されます。秋から冬には、プランクトンの活動は衰え、細かい黒っぽい堆積物(粘土鉱物)が堆積します。白と黒で1年分となります。長年同じ状態が続くと、白黒の縞模様が堆積物が形成されていきます。これは、木の年輪のように、縞模様から年を数えることができます。このような年毎の縞模様を、年縞(ねんこう)と呼んでいます。
1991年と2006年に、水月湖の湖底でもボーリングがおこなわれました。その結果、三方湖のボーリングで5万年間の記録だったのですが、水月湖では世界で最も長い年縞の記録である15万年分の堆積物が得られました。これらの年縞を詳しく調べることによって、地球の環境変化が読み取ることが可能となります。現在研究が進められています。
地道な調査研究から、三方五湖のでき方がわかってきました。
古い時代から、そして現在も活動している三方断層が、三方五湖の東縁にあります。この断層がいつできたかは分かりませんが、30万年前には、今より海水面が20mほど高くなり、断層の沈降部に海水が張り込み湾となりました。そして少なくとも15万年前には、水月湖の湖底に堆積物がたまり始めました。
約2万年前の氷河期に、日本海の海面が100m以上も低くなり、断層のくぼ地に淡水がたまり湖となりました。これが三方五湖と始まりです。当時の三方五湖は、海岸から遠く離れた内陸の湖でした。5000年前くらいの縄文時代前期には、海面が現在より3~5mほど高くなり、三方湖は、水月湖と菅湖がくっついて一つとなった大きな湖で、北の湖の部分は湾として海とつながっていました。
その後海面が下がりましたが、久々子湖はまだ大きな入江でした。三方五湖の東で海に注ぐ耳川が運ぶ土砂が、海流で運ばれて入江にたまり、入口がほとんどふさがれました。1500年前には、今と同じように久々子湖は、細い水路で海とつながっている状態になりました。そのような長い時間の経過を経て、現在の三方五湖ができてきました。
三方五湖には、少ないながらも堆積物が、今も、川から運ばれ続けています。ですからこれからも、湖には堆積物はたまり続けることでしょう。時間の差はあるでしょうが、三方五湖が浅くなり続けることを意味します。それが周辺にどのような環境変化をもたらすかは、まだ分かりません。今の環境も、ある時間での環境の一断面に過ぎないのです。
・夏風邪・
発行が少し遅れました。
それは、体調不良のためです。
先々週の末に、夏風邪をひいてしまいました。
だんだん病状は悪化し、ひどく咳き込むようになりました。
あまりひどい咳で夜も寝れないほどです。
咳止めも種類を換えたのですが、あまり効果がありませんでした。
今週になって風邪の方は治まったのですが、
ひどい咳のために、筋肉痛から腰痛に発展して、
身動きが不自由になりました。
今まだ不調なのですが、授業あるので、
なんとかがんばって出てしました。
授業が終わったら、昨日に続いてマッサージに出かけます。
2008-06-15
42 仏ヶ浦:青と白と緑の絡み合い(2008.06.15)
Time:
9:27
●
Geologist
下北半島の西はずれの海岸に、奇岩が続く海岸があります。仏ヶ浦と呼ばれ、景勝地として名高いところです。しかし、思ったほど観光化されていませんでした。そんな仏ヶ浦で考えました。
青森県、下北半島の西はずれに、断崖絶壁がつづく海岸があります。断崖の海岸にも、少しばかりの浜辺があります。しかし、人家はありません。そんな海岸線なら日本のいたるところにあるのですが、仏ヶ浦は少々変わっています。その景観が、この世のものとも思えないような、不思議な光景でした。仏が住むようなあの世を思わせるような景観です。狭い浜辺の断崖に紛れるように神社が造られています。この光景には昔の人も見せられたらしく、詣でる人がいるわけです。しかし、かつては、地形が急峻なこと、交通がないこと、地元の人しかしらないような秘境のようなところでした。
1922(大正11)年9月に、この地を訪れた文人で紀行家の大町桂月は、
「神のわざ 鬼の手つくり仏宇陀 人の世ならぬ処なりけり」
という歌を残しました。仏宇陀とは、仏ヶ浦のことです。大町桂月がこのように仏ヶ浦を紹介したことによって、全国に有名になりました。今では、大町桂月のこの歌が歌碑として仏ヶ浦に建てられています。
仏ヶ浦は、1934年には青森県天然記念物に、1941年4月23日には国名勝および天然記念物に、1968年には下北半島国定公園に、1975年には周辺の海域が仏ヶ浦海中公園に指定されています。2007年に、仏ヶ浦は日本の地質百選に選定されました。ですから、この景観は人々の注目を集めていたのでしょう。
これほど有名な観光地でありながら、仏ヶ浦へのアプローチが不便で、思ったほど観光客が多くありませんでした。陸路は、車で直接いける道がなく、断崖の上にある道路から急な階段を下りていくしか(もちろん返りは登りになります)ありません。しかし、1991年に、観光船が接岸するための小さな桟橋(仏ヶ浦港)が仏ヶ浦に建設されました。この仏ヶ浦港によって、北側の佐井港か、南側の牛滝漁港から観光船によるルートができました。観光バスが横付けできないので、仏ヶ浦を見学するには、時間がかかることになります。そのせいもあって、有名なわりには観光客が少ないのかもしれません。
私は、昨年夏、家族でこの地に出かけました。むつ市内から車で来たので、一番近い牛滝から行くことにしました。地図を見ると、佐井港は仏ヶ浦から遠く、牛滝漁港はすぐ近くにあります。ですから、迷うことなく、牛滝漁港から船で仏ヶ浦へ向かうことにしました。行く時の船は、私たちの家族だけの貸しきり状態で、快適な船旅でした。海路は快適で、2kmほどに渡って続く白っぽい侵食された岩石の断崖が見ながら、15分ほどで仏ヶ浦に着くことができました。
仏ヶ浦の不思議な光景は、海岸の切り立った崖が、波や流水によって浸食を受けた結果です。雲の形のように侵食されたタフォニとよばれるものや、流水によると思われる縦にすじがたくさん入った侵食地形、海の波の浸食による崖(海食崖ととよばれます)など、さまざまな侵食地形がみることができます。
浸食され切り立った地層になるのは、地層を構成する岩石が脆いことを示しています。岩石は、白から緑白色で、場所によっては緑色を帯びることから、グリーンタフ(green tuff、緑色の凝灰岩という意味)と呼ばれているもので、もろい岩石となっています。
下北半島の西部は起伏の多い山地の地形となっています。この山地は、奥羽山地の北方延長に位置しています。新生代以前の古い地層や花崗岩類が基盤としてあり、その上を新生代のネオジン(新第三紀と呼ばれている時代)の地層があります。さらにその上に第四紀に活動した火山岩や火山砕屑岩が覆います。
仏ヶ浦周辺の地層は、中新世古期から中期の檜川層と呼ばれるもので、その上に中新世中期から新期にかけて活動した中性から酸性マグマ(安山岩からデイサイトマグマ)に由来するの火山砕屑岩が分布しています。これらの火山砕屑岩がグリーンタフと呼ばれ、仏ヶ浦の海岸線をつくっているものです。
下北半島の中新世の火山活動は、日本列島の日本海沿岸の広域に起こった一連のもので、グリーンタフ変動と呼ばれているものです。グリーンタフ変動は、本エッセイでも、一ノ目潟(33回)や東尋坊(40回)などで出てきたものです。新生代後期の日本海側の地質の特徴を語る時に、避けては通れない重要な地質の営みです。グリーンタフの火山活動の多くは、陸上だけでなく海中で起こり、火山岩やその水中の火山砕屑岩などとともに、堆積岩も出ることがあります。
仏ヶ浦の奇岩類も、日本列島を特徴付ける活動の一つだったのです。
むつ市内からの仏ガ浦までルートとして、国道338号から県道46号を経て川内湖をへて再度国道338号をいきました。しかし、この国道338号は、アップダウンが激しく、くねくね道で、一車線のところも多く、非常に時間がかかる道でした。多くの観光客は、アプローチのいい佐井港から高速観光船でいくようです。それを私は事前に知りませんでした。
悪いことばかりでなく、時間がかかりましたが、人のあまり使わないルートでした。多分、交通が今ほどよくなかったときは、観光客もこのルートで来たのでしょう。その同じコースで見学することになったのです。いくら時間がかかるとはいえ、半日で見ることができるのです。また、小さな漁船が定期的に運航しているので、好きなだけ仏ヶ浦に滞在することができました。返りたい時に、もし船が来ていなければ、連絡すれば来てくれます。帰りは、もう一組の老夫婦と一緒になりましたが、それでもガラガラの状態でした。
私が仏ヶ浦に行ったときは、曇っていましたが、仏ヶ浦の断崖とともに、海の色がすごいでした。そして、仏ヶ浦の景観をより際立たせているのは、海の青さではないかと思いました。さまざまに濃淡を変える海のブルーが、白ややや緑を帯びた崖をより一層映えさせていました。仏ヶ浦は、青と白と緑が絡み合っているところでした。
・強烈な思い出・
下北半島には、むつ市で2泊しました。
実質は一日半ほどて見学することになっていました。
初日に半日かけて恐山を見学したので、
2日目は、下北半島を一周する予定でした。
時計回りに可能な限り海岸沿いを見学しながら行くつもりでいました。
仏ヶ浦、大間(昼食でマグロを食べる)、尻矢崎など見て、
一周できればと思っていました。
ところが、大間に着いたのは、1時をかなり回っていました。
子どもたちは、大間でマグロ食べるのを楽しみにしていたので、
探し回って、大間のマグロを食べさてくれるところを見つけて
何とか昼食にありつけました。
今回は、地図と現実の交通とは一致しないので、予定が狂いました。
しかし、おかげで仏ヶ浦は強烈な思い出となりました。
・実習・
北海道も初夏になって来ました。
本州は梅雨にはいっているようですが、
蒸し暑い日が続いているのでしょうか。
北海道は梅雨がなく心地よい爽快な日々が続いています。
もちろん雨の日もありますが、蒸し暑いことはありません。
この時期、大学では淡々とした授業が続くのですが、
その授業の中に近所の子どもたちを集めて、
行事を企画するという実習があります。
その実習のリハーサルが今週土曜にあり、来週が本番となります。
40名ほどの子どもがきて、その子どもたちが楽しみながら、
学ぶことができるかどうかが、重要なところです。
さてさて上手くいくのでしょうか。
青森県、下北半島の西はずれに、断崖絶壁がつづく海岸があります。断崖の海岸にも、少しばかりの浜辺があります。しかし、人家はありません。そんな海岸線なら日本のいたるところにあるのですが、仏ヶ浦は少々変わっています。その景観が、この世のものとも思えないような、不思議な光景でした。仏が住むようなあの世を思わせるような景観です。狭い浜辺の断崖に紛れるように神社が造られています。この光景には昔の人も見せられたらしく、詣でる人がいるわけです。しかし、かつては、地形が急峻なこと、交通がないこと、地元の人しかしらないような秘境のようなところでした。
1922(大正11)年9月に、この地を訪れた文人で紀行家の大町桂月は、
「神のわざ 鬼の手つくり仏宇陀 人の世ならぬ処なりけり」
という歌を残しました。仏宇陀とは、仏ヶ浦のことです。大町桂月がこのように仏ヶ浦を紹介したことによって、全国に有名になりました。今では、大町桂月のこの歌が歌碑として仏ヶ浦に建てられています。
仏ヶ浦は、1934年には青森県天然記念物に、1941年4月23日には国名勝および天然記念物に、1968年には下北半島国定公園に、1975年には周辺の海域が仏ヶ浦海中公園に指定されています。2007年に、仏ヶ浦は日本の地質百選に選定されました。ですから、この景観は人々の注目を集めていたのでしょう。
これほど有名な観光地でありながら、仏ヶ浦へのアプローチが不便で、思ったほど観光客が多くありませんでした。陸路は、車で直接いける道がなく、断崖の上にある道路から急な階段を下りていくしか(もちろん返りは登りになります)ありません。しかし、1991年に、観光船が接岸するための小さな桟橋(仏ヶ浦港)が仏ヶ浦に建設されました。この仏ヶ浦港によって、北側の佐井港か、南側の牛滝漁港から観光船によるルートができました。観光バスが横付けできないので、仏ヶ浦を見学するには、時間がかかることになります。そのせいもあって、有名なわりには観光客が少ないのかもしれません。
私は、昨年夏、家族でこの地に出かけました。むつ市内から車で来たので、一番近い牛滝から行くことにしました。地図を見ると、佐井港は仏ヶ浦から遠く、牛滝漁港はすぐ近くにあります。ですから、迷うことなく、牛滝漁港から船で仏ヶ浦へ向かうことにしました。行く時の船は、私たちの家族だけの貸しきり状態で、快適な船旅でした。海路は快適で、2kmほどに渡って続く白っぽい侵食された岩石の断崖が見ながら、15分ほどで仏ヶ浦に着くことができました。
仏ヶ浦の不思議な光景は、海岸の切り立った崖が、波や流水によって浸食を受けた結果です。雲の形のように侵食されたタフォニとよばれるものや、流水によると思われる縦にすじがたくさん入った侵食地形、海の波の浸食による崖(海食崖ととよばれます)など、さまざまな侵食地形がみることができます。
浸食され切り立った地層になるのは、地層を構成する岩石が脆いことを示しています。岩石は、白から緑白色で、場所によっては緑色を帯びることから、グリーンタフ(green tuff、緑色の凝灰岩という意味)と呼ばれているもので、もろい岩石となっています。
下北半島の西部は起伏の多い山地の地形となっています。この山地は、奥羽山地の北方延長に位置しています。新生代以前の古い地層や花崗岩類が基盤としてあり、その上を新生代のネオジン(新第三紀と呼ばれている時代)の地層があります。さらにその上に第四紀に活動した火山岩や火山砕屑岩が覆います。
仏ヶ浦周辺の地層は、中新世古期から中期の檜川層と呼ばれるもので、その上に中新世中期から新期にかけて活動した中性から酸性マグマ(安山岩からデイサイトマグマ)に由来するの火山砕屑岩が分布しています。これらの火山砕屑岩がグリーンタフと呼ばれ、仏ヶ浦の海岸線をつくっているものです。
下北半島の中新世の火山活動は、日本列島の日本海沿岸の広域に起こった一連のもので、グリーンタフ変動と呼ばれているものです。グリーンタフ変動は、本エッセイでも、一ノ目潟(33回)や東尋坊(40回)などで出てきたものです。新生代後期の日本海側の地質の特徴を語る時に、避けては通れない重要な地質の営みです。グリーンタフの火山活動の多くは、陸上だけでなく海中で起こり、火山岩やその水中の火山砕屑岩などとともに、堆積岩も出ることがあります。
仏ヶ浦の奇岩類も、日本列島を特徴付ける活動の一つだったのです。
むつ市内からの仏ガ浦までルートとして、国道338号から県道46号を経て川内湖をへて再度国道338号をいきました。しかし、この国道338号は、アップダウンが激しく、くねくね道で、一車線のところも多く、非常に時間がかかる道でした。多くの観光客は、アプローチのいい佐井港から高速観光船でいくようです。それを私は事前に知りませんでした。
悪いことばかりでなく、時間がかかりましたが、人のあまり使わないルートでした。多分、交通が今ほどよくなかったときは、観光客もこのルートで来たのでしょう。その同じコースで見学することになったのです。いくら時間がかかるとはいえ、半日で見ることができるのです。また、小さな漁船が定期的に運航しているので、好きなだけ仏ヶ浦に滞在することができました。返りたい時に、もし船が来ていなければ、連絡すれば来てくれます。帰りは、もう一組の老夫婦と一緒になりましたが、それでもガラガラの状態でした。
私が仏ヶ浦に行ったときは、曇っていましたが、仏ヶ浦の断崖とともに、海の色がすごいでした。そして、仏ヶ浦の景観をより際立たせているのは、海の青さではないかと思いました。さまざまに濃淡を変える海のブルーが、白ややや緑を帯びた崖をより一層映えさせていました。仏ヶ浦は、青と白と緑が絡み合っているところでした。
・強烈な思い出・
下北半島には、むつ市で2泊しました。
実質は一日半ほどて見学することになっていました。
初日に半日かけて恐山を見学したので、
2日目は、下北半島を一周する予定でした。
時計回りに可能な限り海岸沿いを見学しながら行くつもりでいました。
仏ヶ浦、大間(昼食でマグロを食べる)、尻矢崎など見て、
一周できればと思っていました。
ところが、大間に着いたのは、1時をかなり回っていました。
子どもたちは、大間でマグロ食べるのを楽しみにしていたので、
探し回って、大間のマグロを食べさてくれるところを見つけて
何とか昼食にありつけました。
今回は、地図と現実の交通とは一致しないので、予定が狂いました。
しかし、おかげで仏ヶ浦は強烈な思い出となりました。
・実習・
北海道も初夏になって来ました。
本州は梅雨にはいっているようですが、
蒸し暑い日が続いているのでしょうか。
北海道は梅雨がなく心地よい爽快な日々が続いています。
もちろん雨の日もありますが、蒸し暑いことはありません。
この時期、大学では淡々とした授業が続くのですが、
その授業の中に近所の子どもたちを集めて、
行事を企画するという実習があります。
その実習のリハーサルが今週土曜にあり、来週が本番となります。
40名ほどの子どもがきて、その子どもたちが楽しみながら、
学ぶことができるかどうかが、重要なところです。
さてさて上手くいくのでしょうか。
2008-05-15
41 ニセコ:冬と夏の共存(2008.05.15)
Time:
9:27
●
Geologist
ニセコは、今や外国人観光客で賑わいをみせています。そのため、ペンションがあちこちにあり、ゴールデンウィークの直前でも、探せば空きが見つかりました。そこで家族でニセコにでかけました。
皆様は、ゴールデンウィークをどう過ごされたでしょうか。自宅で過ごされた方、街に出られた方、旅行に出られた方もおられることでしょう。私は、ニセコに家族で旅行にでかけました。
ニセコは、海外の方、特にオーストラリアからの観光客が多数来られるようになりました。ニセコは「ニセコ積丹小樽海岸国定公園」に指定されているため、観光が主要な産業です。特に冬は、良質のパウダースノーを売り物にしたスキー場がニセコの山に裾にいくつもあります。日本人のスキー離れが進む中、外国からのスキー客を誘致に成功しました。
平成20年4月末現在、ニセコの人口4671人(世帯数2100)のうち、外国人の方は54名(世帯数39)で、1%ほどの比率になります。北海道の小さな町で、外国人の占める比率が、かなり多いように感じます。外国人観光客の増加によって、観光産業自体の国際化で、ネイティブスピーカーの現地ガイドの重要が増してきているためではないでしょうか。
ニセコに外国人が定住するということは、ニセコでは夏もレジャーに関わる仕事があるということです。豊富な水量ときれいな水をもつ尻別川を利用したラフティングやカヌーのような川遊びや、登山、トレッキングなども人気があるようです。特に雪解け水で増水した川でのラフティングは人気があるようです。
海外からの観光ブームのためでしょうか、日本人観光客もかなり増えているように思えます。観光スポットは非常に多くの観光客があふれています。有名なところは、広い駐車場が満杯になるほどの混雑でした。ペンションも多数あります。ペンションの過度競争なのでしょうか、ゴールデンウィークでも空き室ができるほど空いてました。
さて、私がニセコに行った理由ですが、家族サービスという目的はあったのですが、火山としてのニセコを見ることでした。今回のエッセイで取り上げるつもりでいたのです。ニセコには、何度も来ていますが、春のニセコには来たことがありませんでした。そこで、今回、ゴールデンウィークに出かけることにしました。
スキー場としてニセコは有名で、山自体の姿は、それほど取りざたされることはありません。すぐ隣にある羊蹄山が、富士山のようにきれいな姿を見せているかたらかもしれません。しかし、私は、秋に来た時の紅葉のすばらしさと、温泉のイオウの匂いと共にニセコが記憶に残っています。
ニセコはいくつもの火山からできています。成層火山の羊蹄山より、規模が大きく、東西に延びています。東西25km、南北15kmに広がります。東には、ニセコ火山群で主峰であるニセコアンヌプリ(1308m)があり、西は日本海に突き出すようになっています。
非常に古くから活動してた火山で、雷電山、ワイスホルン、目国内岳(めくんないだけ)、岩内岳(いわないだけ)は、侵食によって火山の地形が不明瞭になっています。最初に雷電山、続いてワイスホルンが、200万~150万年前に活動を始めました。これ以降、西から東へ、火山活動が移動していきます。目国内と岩内岳が、150万~100万年前に活動していきます。白樺山、シャクナゲ岳が100万~50万年前に、そしてニセコアンヌプリが活動します。
はじまった順に、火山活動も停止していきます。雷電山は100万年前に、岩内岳は50万年前、白樺山とシャクナゲ岳は30万~20万年前に、ニセコアンヌプリは20万年前に活動を停止します。
その後、10万年ほど火山活動の記録は見当たらず、約10万年前に、再びチセヌプリが活動を始めます。そして、イワオヌプリがいちばん新しい火山で、2万~1万年前に活動を始めます。イワオヌプリでは、溶岩ドームを形成して、一部が崩壊して火砕流を発生したこともあります。
最後の溶岩ドームの活動によって形成された火山噴出物(降下スコリア)直下の土壌で約6000年前の噴火年代が得られ、羊蹄火山灰層に覆われています。そのことから、約6000年前にイワオヌプリでマグマが噴火したのが最後の活動とされています。しかし、北海道大学の中川光弘教授によれば、マグマ噴火の6000年前より新しい時代の溶岩ドームがあるかもしれないという指摘がなされています。
その理由は、新しい複数の爆裂火口があること、そして現在も噴気活動が続いていることから、まだ火山の活動は終了していないと考えられています。現在ニセコは、活火山に指定されています。活火山の定義は、1万年以内に噴火の記録のあるものですが、イワオヌプリはそれに相当します。
ニセコの火山は、どうも休み休み、ゆっくりとした活動を繰り返してきたようです。そして複数の火山が同時進行で噴火をしてきたようでもあります。しかし、今のところ噴火の兆候はみられませんが、活火山として注意はしておく必要があります。
5月初旬のニセコは、麓では春の花が咲き始めていました。ニセコアンヌプリのような高い山の頂部には、まだ雪がいっぱい残っています。ですから、高い山のスキー場はまだオープンしていたようで、春スキーを楽しんでいるスキーヤーがいました。スキー場のリフト乗り場の駐車場は車で、一杯でした。
ニセコは、活火山ですので、温泉もあちこちにあります。私たちはペンションに2泊しましたが、1泊目はニセコ駅前にある温泉に出かけました。ニセコの温泉は、火山の恵みです。旅行に出かけて、いろいろな温泉に入るのは、大いなる楽しみになります。
天気は良く、暖かい日でしたが、かげると肌寒いし、とても川に入る気のしない気候です。ニセコを廻っている途中に尻別川を何度か渡ったのですが、ラフティングのボートを何艘もみました。かなりの水量の中を翻弄されたボートが進んでいきました。皆ウエットスーツを着ていましたが、大勢の人たちが、川くだりを楽しんでいました。私は、尻別川に入るよりは、温泉に入りたいものです。
山頂は雪が残っていますが、麓は花の季節を迎え、川遊びがはじまっていました。ニセコの春は、冬と夏が共存していました。
・開通・
最初、ニセコに出かけると決めた時、
家内の友人は、スキーですかとたずねたそうです。
この時期にスキーができるのは、
雪の量の多い、高い山で、ニセコがそれに当たっていました。
私は、五色温泉を通り抜ける道を行きたいと考えていました。
スキーがまだできるようなら、そのコースは無理かなと思っていました。
そのコースは、道路マップによると、冬季閉鎖となっていました。
しかし、ペンションの主人に聞いたら、
もう開通しているというので、ほっとしました。
その結果、ニセコアンヌプリを一周することができました。
・家族サービス・
ニセコへは、札幌から小樽経由で行きました。
渋滞はしていませんでしたが、
連休の初日でしたので、多くの車があり、
北海道の郊外ではめずらしく車が数珠つなぎで走っていました。
まして、ニセコは観光地ですから、
観光の名所には、多くの観光客が詰め掛けています。
特にアイスクリームとケーキで有名なところは、
駐車場が満杯の盛況でした。
私たちも、そこに半日いました。
子供たちと妻が、ガラスのトンボ玉を作ることと
アイスクリームを食べることにしていたので、
昼食をはさんで半日いました。
本当はアイスクリーム作りもしようかと思ったのですが、
屋外でおこなうので、風が肌寒かったので、あきらめました。
帰りは渋滞避けるために、美笛峠から支笏湖に抜ける道にしました。
その日は雨でしたが、移動日だったので、事なきを得ました。
滞在中は、天気はよかったので、家族サービスとしては
いい旅行となりました。
皆様は、ゴールデンウィークをどう過ごされたでしょうか。自宅で過ごされた方、街に出られた方、旅行に出られた方もおられることでしょう。私は、ニセコに家族で旅行にでかけました。
ニセコは、海外の方、特にオーストラリアからの観光客が多数来られるようになりました。ニセコは「ニセコ積丹小樽海岸国定公園」に指定されているため、観光が主要な産業です。特に冬は、良質のパウダースノーを売り物にしたスキー場がニセコの山に裾にいくつもあります。日本人のスキー離れが進む中、外国からのスキー客を誘致に成功しました。
平成20年4月末現在、ニセコの人口4671人(世帯数2100)のうち、外国人の方は54名(世帯数39)で、1%ほどの比率になります。北海道の小さな町で、外国人の占める比率が、かなり多いように感じます。外国人観光客の増加によって、観光産業自体の国際化で、ネイティブスピーカーの現地ガイドの重要が増してきているためではないでしょうか。
ニセコに外国人が定住するということは、ニセコでは夏もレジャーに関わる仕事があるということです。豊富な水量ときれいな水をもつ尻別川を利用したラフティングやカヌーのような川遊びや、登山、トレッキングなども人気があるようです。特に雪解け水で増水した川でのラフティングは人気があるようです。
海外からの観光ブームのためでしょうか、日本人観光客もかなり増えているように思えます。観光スポットは非常に多くの観光客があふれています。有名なところは、広い駐車場が満杯になるほどの混雑でした。ペンションも多数あります。ペンションの過度競争なのでしょうか、ゴールデンウィークでも空き室ができるほど空いてました。
さて、私がニセコに行った理由ですが、家族サービスという目的はあったのですが、火山としてのニセコを見ることでした。今回のエッセイで取り上げるつもりでいたのです。ニセコには、何度も来ていますが、春のニセコには来たことがありませんでした。そこで、今回、ゴールデンウィークに出かけることにしました。
スキー場としてニセコは有名で、山自体の姿は、それほど取りざたされることはありません。すぐ隣にある羊蹄山が、富士山のようにきれいな姿を見せているかたらかもしれません。しかし、私は、秋に来た時の紅葉のすばらしさと、温泉のイオウの匂いと共にニセコが記憶に残っています。
ニセコはいくつもの火山からできています。成層火山の羊蹄山より、規模が大きく、東西に延びています。東西25km、南北15kmに広がります。東には、ニセコ火山群で主峰であるニセコアンヌプリ(1308m)があり、西は日本海に突き出すようになっています。
非常に古くから活動してた火山で、雷電山、ワイスホルン、目国内岳(めくんないだけ)、岩内岳(いわないだけ)は、侵食によって火山の地形が不明瞭になっています。最初に雷電山、続いてワイスホルンが、200万~150万年前に活動を始めました。これ以降、西から東へ、火山活動が移動していきます。目国内と岩内岳が、150万~100万年前に活動していきます。白樺山、シャクナゲ岳が100万~50万年前に、そしてニセコアンヌプリが活動します。
はじまった順に、火山活動も停止していきます。雷電山は100万年前に、岩内岳は50万年前、白樺山とシャクナゲ岳は30万~20万年前に、ニセコアンヌプリは20万年前に活動を停止します。
その後、10万年ほど火山活動の記録は見当たらず、約10万年前に、再びチセヌプリが活動を始めます。そして、イワオヌプリがいちばん新しい火山で、2万~1万年前に活動を始めます。イワオヌプリでは、溶岩ドームを形成して、一部が崩壊して火砕流を発生したこともあります。
最後の溶岩ドームの活動によって形成された火山噴出物(降下スコリア)直下の土壌で約6000年前の噴火年代が得られ、羊蹄火山灰層に覆われています。そのことから、約6000年前にイワオヌプリでマグマが噴火したのが最後の活動とされています。しかし、北海道大学の中川光弘教授によれば、マグマ噴火の6000年前より新しい時代の溶岩ドームがあるかもしれないという指摘がなされています。
その理由は、新しい複数の爆裂火口があること、そして現在も噴気活動が続いていることから、まだ火山の活動は終了していないと考えられています。現在ニセコは、活火山に指定されています。活火山の定義は、1万年以内に噴火の記録のあるものですが、イワオヌプリはそれに相当します。
ニセコの火山は、どうも休み休み、ゆっくりとした活動を繰り返してきたようです。そして複数の火山が同時進行で噴火をしてきたようでもあります。しかし、今のところ噴火の兆候はみられませんが、活火山として注意はしておく必要があります。
5月初旬のニセコは、麓では春の花が咲き始めていました。ニセコアンヌプリのような高い山の頂部には、まだ雪がいっぱい残っています。ですから、高い山のスキー場はまだオープンしていたようで、春スキーを楽しんでいるスキーヤーがいました。スキー場のリフト乗り場の駐車場は車で、一杯でした。
ニセコは、活火山ですので、温泉もあちこちにあります。私たちはペンションに2泊しましたが、1泊目はニセコ駅前にある温泉に出かけました。ニセコの温泉は、火山の恵みです。旅行に出かけて、いろいろな温泉に入るのは、大いなる楽しみになります。
天気は良く、暖かい日でしたが、かげると肌寒いし、とても川に入る気のしない気候です。ニセコを廻っている途中に尻別川を何度か渡ったのですが、ラフティングのボートを何艘もみました。かなりの水量の中を翻弄されたボートが進んでいきました。皆ウエットスーツを着ていましたが、大勢の人たちが、川くだりを楽しんでいました。私は、尻別川に入るよりは、温泉に入りたいものです。
山頂は雪が残っていますが、麓は花の季節を迎え、川遊びがはじまっていました。ニセコの春は、冬と夏が共存していました。
・開通・
最初、ニセコに出かけると決めた時、
家内の友人は、スキーですかとたずねたそうです。
この時期にスキーができるのは、
雪の量の多い、高い山で、ニセコがそれに当たっていました。
私は、五色温泉を通り抜ける道を行きたいと考えていました。
スキーがまだできるようなら、そのコースは無理かなと思っていました。
そのコースは、道路マップによると、冬季閉鎖となっていました。
しかし、ペンションの主人に聞いたら、
もう開通しているというので、ほっとしました。
その結果、ニセコアンヌプリを一周することができました。
・家族サービス・
ニセコへは、札幌から小樽経由で行きました。
渋滞はしていませんでしたが、
連休の初日でしたので、多くの車があり、
北海道の郊外ではめずらしく車が数珠つなぎで走っていました。
まして、ニセコは観光地ですから、
観光の名所には、多くの観光客が詰め掛けています。
特にアイスクリームとケーキで有名なところは、
駐車場が満杯の盛況でした。
私たちも、そこに半日いました。
子供たちと妻が、ガラスのトンボ玉を作ることと
アイスクリームを食べることにしていたので、
昼食をはさんで半日いました。
本当はアイスクリーム作りもしようかと思ったのですが、
屋外でおこなうので、風が肌寒かったので、あきらめました。
帰りは渋滞避けるために、美笛峠から支笏湖に抜ける道にしました。
その日は雨でしたが、移動日だったので、事なきを得ました。
滞在中は、天気はよかったので、家族サービスとしては
いい旅行となりました。
2008-04-15
40 東尋坊:節理の隙間から(2008.04.15)
Time:
9:26
●
Geologist
福井県の東尋坊は、日本でも有数の観光地のひとつです。海に面した断崖絶壁をつくる節理が、見事なことから、多くの観光客を集めています。そんな節理の隙間から、想いを巡らしました。
春休みに、京都から福井の日本海沿いを訪れました。その目的地の一つとして東尋坊がありました。東尋坊は、越前加賀海岸国定公園の一部です。また、東尋坊周辺は、国の天然記念物及び名勝にも指定され、2007年には日本の地質百選に選定されました。非常に有名な観光地なので、訪れたことがある方もおられるかもしれません。海岸に切り立った断崖絶壁として、テレビのサスペンスドラマのロケ地によく使われるので、画面で目にされている方も多いかもしれません。
同じような海岸の景勝地は、東尋坊だけでなく、周辺にも点々と見かけられます。そのいくつかは、柱状の岩石が不思議な景観をつくっています。今回は、この不思議な岩石の割れ目である節理を見ていきましょう。
日本は火山の多い国です。現在活動中の活火山は100座以上あり、どの都道府県にも、活火山がありそうですが、活火山の分布をよくみると、福井県には活火山はありません。それは、幸いなことなのか残念なことなのかはわかりませんが。
福井県の近くには白山という活火山がありますが、石川県と岐阜県の県境にあり、福井県内ではありません。新時代(第四紀)の火山としては大日山(福井・石川県境)がありますが、日本でも珍しく、火山が活発な地域ではありません。
しかし、福井県内には古い時代の火山があります。過去の火山は、火山岩があるかどうかで調べることができます。福井県では、あちこちで火山岩が見つかっています。時代を問わなければ、日本で火山と関係していない都道府県はないのではないでしょうか。
東尋坊は、見事な柱状節理が海岸に面して林立しています。その節理の面が、断崖絶壁となっています。柱状節理は、マグマが固まる時にできる岩石のつくりの一種です。ですから、東尋坊の柱状節理は、マグマに由来していることになります。東尋坊も、過去の火山活動によるものです。
柱状節理のできかたですが、マグマが固まる時に液体から固体に変わるとき体積が減ります。マグマが冷える方向に対して垂直に割れ目ができ、多くは六角柱状、時には五角柱状の割れ方(節理のこと)になります。なぜ、六角柱状になるのかは、まだはっきりしていませんが、冷える時の熱の流れが関係していると推定されています。節理のできる方向は、マグマの冷え方を反映していることは確かです。節理の方向を丹念にたどると、マグマが流れた方向を推定することができます。
東尋坊のつくったマグマは、安山岩質のマグマで、東尋坊安山岩と呼ばれています。この安山岩をよく見ると、何種類かの大きな結晶(斑晶(はんしょう)と呼ばれています)と、顕微鏡でかろうじて確認でできるほど小さな結晶が集まった部分(石基(せっき))があります。石基は、肉眼では淡い緑色から暗い灰色に見えます。斑晶は斜長石と輝石(紫蘇輝石と普通輝石)がらできています。斑晶の斜長石は白っぽく、輝石は濃緑色にみえます。全体として灰色の岩石に、白黒のごま塩状のつぶつぶが見えます。学術的には、紫蘇輝石・普通輝石安山岩と呼ばれています。この安山岩は特別なものではなく、日本ではごく普通にみられる火山岩です。
東尋坊のマグマは、新生代の中新世中期(放射性年代測定では1270万年前)に活動したもので、先に海底にたまっていた地層(米ヶ脇層(こめがわきそう)と呼ばれています)に貫入しました。貫入してきたマグマは、鏡餅のような形でたまり、そのまま冷え固まりました。現在は、その鏡餅の半分が波で侵食されて、柱状節理がむき出しになり、東尋坊の見事な景観を形成しています。
さて、この中新世という時代ですが、日本海沿岸で、多くの地域にわたって火山活動が起こった時期になります。火山活動の多くは、海中で起こり、火山岩とともに堆積岩も見つかることがあります。この時代のこれら地域の火山岩やその砕屑物の多くが、緑っぽい色をしていることから、グリーンタフ(green tuff、緑色の凝灰岩という意味)と呼ばれています。時代と地域を限定されているため、それらの岩石を生み出した活動を総称して、グリーンタフ変動と呼ばれることがあります。
グリーンタフ変動とは、何を意味しているのでしょうか。実は、日本列島の形成において、重要な役割を果たしていることがわかってきました。
日本列島は、昔からずっと列島として存在したのではなく、中新世以前は、大陸の端にくっついて存在していました。中新世になって、大陸の縁に巨大な裂け目(リフトと呼ばれます)ができました。その裂け目は現在アフリカ大陸に見られる大地溝帯のようなものだと考えられています。その割れ目に沿って、激しい火山活動が起こりました。
割れ目の拡大と共に、海水が浸入してきました。それが今の日本海の始まりです。完全に大陸から切り離された陸地は、日本列島の始まりとなります。東北日本は、激しい火山活動をしていましたが、中新世にはまだ陸化しておらず、ほとんど海底での活動でした。鮮新世になると、陸化しはじめてきました。
西南日本では東北日本ほど激しい活動ではありませんでしたが、日本海周辺での火山活動が多くの場所でみれます。東尋坊の火山活動も、グリーンタフ変動の日本海形成に伴う火山活動だと考えられています。比較的穏やかな火山活動とはいっても、人間にとっては、日本でも有数の雄大な景観を思わせるのです。
私が、東尋坊を訪れたのは、時々小雨の降る、風の強い、肌寒い日でした。絶壁の端っこに立つと、足がすくむような思いがします。それでも怖いもの見たさでしょうか、多くの観光客が、断崖の端に立っていました。私は、もしそのとき風が吹いたら、もし足が滑ったら、もしバランスを崩したらなどと考えると、とても端に立つことなどできませんでした。
私のそのような「恐れ」の気持ちは、小さな人間が持っている取るに足らないものかもしれません。地球の時間の流れからすれば、東尋坊の断崖絶壁もやがては、移ろい変化するものです。しかし、節理という何もない隙間から読み取れるマグマの物語があるように、小さな人間の「恐れ」の気持ちは、大地の偉大さを無意識に読み取ってものかもしれません。そんな見えない物語を、私は、節理の隙間から眺めていたのかもしれません。
・候補地選び・
この月刊のエッセイは、今まで、北海道と
それ以外の地域(北海道の人は内地と呼びます)を
交互に繰り返しながら書いてきました。
私が、北海道に住んでいるから、それが適切なやり方だと思っていました。
しかし、今回から、その順番を守らないことにしました。
その理由は、北海道内は、出かけることも多いのですが、
ワンポイントである地域を見に出かけます。
ですから、一回のエッセイのネタにはなりますが、
6回分書くには、長期に旅行をするか、何度も旅行するかになります。
近くなら何度もいけますが、遠くとなるたとえ北海道内とはいえ、
多くの日数を費やします。
ところが内地なら、長期の旅で、何箇所も見学することになります。
主に海岸沿いですが、現在研究の一環として、
長期計画ですが、日本列島の多くの地域を訪れる計画をしています。
そのため、年に1度か2度は、長期の内地旅行にでかけています。
ですから、内地のネタであれば、それを何回かに分けて書けます。
今回の京都から北陸の旅も、あと2回書く予定をしています。
以上のようなわけで、今後このようなパターンで
エッセイを続けていきますので、ご了承ください。
・グリーンタフ・
グリーンタフというのは、地質学者が野外で岩石を呼ぶときに用いた
一種のニックネーム(フィールドネームといいます)から由来しています。
ですから、グリーンタフ変動に含まれる岩石が
すべて緑色っぽいかというと必ずしもそうではありません。
グリーンが少ないものだってあります。
東尋坊の安山岩も緑色ではなく、灰色です。
グリーンタフの岩石は、もともと緑色の岩石であったのではありません。
岩石を構成している輝石や角閃石などの鉱物が、
海底で熱水による変質のため粘土鉱物(緑泥石などの緑色の鉱物)に
変化したものです。
今では、グリーンタフが海底火山として誕生したこと、
さらにそれが日本列島の誕生に深く関わっていたことがわかってきて
その重要性は増してきました。
春休みに、京都から福井の日本海沿いを訪れました。その目的地の一つとして東尋坊がありました。東尋坊は、越前加賀海岸国定公園の一部です。また、東尋坊周辺は、国の天然記念物及び名勝にも指定され、2007年には日本の地質百選に選定されました。非常に有名な観光地なので、訪れたことがある方もおられるかもしれません。海岸に切り立った断崖絶壁として、テレビのサスペンスドラマのロケ地によく使われるので、画面で目にされている方も多いかもしれません。
同じような海岸の景勝地は、東尋坊だけでなく、周辺にも点々と見かけられます。そのいくつかは、柱状の岩石が不思議な景観をつくっています。今回は、この不思議な岩石の割れ目である節理を見ていきましょう。
日本は火山の多い国です。現在活動中の活火山は100座以上あり、どの都道府県にも、活火山がありそうですが、活火山の分布をよくみると、福井県には活火山はありません。それは、幸いなことなのか残念なことなのかはわかりませんが。
福井県の近くには白山という活火山がありますが、石川県と岐阜県の県境にあり、福井県内ではありません。新時代(第四紀)の火山としては大日山(福井・石川県境)がありますが、日本でも珍しく、火山が活発な地域ではありません。
しかし、福井県内には古い時代の火山があります。過去の火山は、火山岩があるかどうかで調べることができます。福井県では、あちこちで火山岩が見つかっています。時代を問わなければ、日本で火山と関係していない都道府県はないのではないでしょうか。
東尋坊は、見事な柱状節理が海岸に面して林立しています。その節理の面が、断崖絶壁となっています。柱状節理は、マグマが固まる時にできる岩石のつくりの一種です。ですから、東尋坊の柱状節理は、マグマに由来していることになります。東尋坊も、過去の火山活動によるものです。
柱状節理のできかたですが、マグマが固まる時に液体から固体に変わるとき体積が減ります。マグマが冷える方向に対して垂直に割れ目ができ、多くは六角柱状、時には五角柱状の割れ方(節理のこと)になります。なぜ、六角柱状になるのかは、まだはっきりしていませんが、冷える時の熱の流れが関係していると推定されています。節理のできる方向は、マグマの冷え方を反映していることは確かです。節理の方向を丹念にたどると、マグマが流れた方向を推定することができます。
東尋坊のつくったマグマは、安山岩質のマグマで、東尋坊安山岩と呼ばれています。この安山岩をよく見ると、何種類かの大きな結晶(斑晶(はんしょう)と呼ばれています)と、顕微鏡でかろうじて確認でできるほど小さな結晶が集まった部分(石基(せっき))があります。石基は、肉眼では淡い緑色から暗い灰色に見えます。斑晶は斜長石と輝石(紫蘇輝石と普通輝石)がらできています。斑晶の斜長石は白っぽく、輝石は濃緑色にみえます。全体として灰色の岩石に、白黒のごま塩状のつぶつぶが見えます。学術的には、紫蘇輝石・普通輝石安山岩と呼ばれています。この安山岩は特別なものではなく、日本ではごく普通にみられる火山岩です。
東尋坊のマグマは、新生代の中新世中期(放射性年代測定では1270万年前)に活動したもので、先に海底にたまっていた地層(米ヶ脇層(こめがわきそう)と呼ばれています)に貫入しました。貫入してきたマグマは、鏡餅のような形でたまり、そのまま冷え固まりました。現在は、その鏡餅の半分が波で侵食されて、柱状節理がむき出しになり、東尋坊の見事な景観を形成しています。
さて、この中新世という時代ですが、日本海沿岸で、多くの地域にわたって火山活動が起こった時期になります。火山活動の多くは、海中で起こり、火山岩とともに堆積岩も見つかることがあります。この時代のこれら地域の火山岩やその砕屑物の多くが、緑っぽい色をしていることから、グリーンタフ(green tuff、緑色の凝灰岩という意味)と呼ばれています。時代と地域を限定されているため、それらの岩石を生み出した活動を総称して、グリーンタフ変動と呼ばれることがあります。
グリーンタフ変動とは、何を意味しているのでしょうか。実は、日本列島の形成において、重要な役割を果たしていることがわかってきました。
日本列島は、昔からずっと列島として存在したのではなく、中新世以前は、大陸の端にくっついて存在していました。中新世になって、大陸の縁に巨大な裂け目(リフトと呼ばれます)ができました。その裂け目は現在アフリカ大陸に見られる大地溝帯のようなものだと考えられています。その割れ目に沿って、激しい火山活動が起こりました。
割れ目の拡大と共に、海水が浸入してきました。それが今の日本海の始まりです。完全に大陸から切り離された陸地は、日本列島の始まりとなります。東北日本は、激しい火山活動をしていましたが、中新世にはまだ陸化しておらず、ほとんど海底での活動でした。鮮新世になると、陸化しはじめてきました。
西南日本では東北日本ほど激しい活動ではありませんでしたが、日本海周辺での火山活動が多くの場所でみれます。東尋坊の火山活動も、グリーンタフ変動の日本海形成に伴う火山活動だと考えられています。比較的穏やかな火山活動とはいっても、人間にとっては、日本でも有数の雄大な景観を思わせるのです。
私が、東尋坊を訪れたのは、時々小雨の降る、風の強い、肌寒い日でした。絶壁の端っこに立つと、足がすくむような思いがします。それでも怖いもの見たさでしょうか、多くの観光客が、断崖の端に立っていました。私は、もしそのとき風が吹いたら、もし足が滑ったら、もしバランスを崩したらなどと考えると、とても端に立つことなどできませんでした。
私のそのような「恐れ」の気持ちは、小さな人間が持っている取るに足らないものかもしれません。地球の時間の流れからすれば、東尋坊の断崖絶壁もやがては、移ろい変化するものです。しかし、節理という何もない隙間から読み取れるマグマの物語があるように、小さな人間の「恐れ」の気持ちは、大地の偉大さを無意識に読み取ってものかもしれません。そんな見えない物語を、私は、節理の隙間から眺めていたのかもしれません。
・候補地選び・
この月刊のエッセイは、今まで、北海道と
それ以外の地域(北海道の人は内地と呼びます)を
交互に繰り返しながら書いてきました。
私が、北海道に住んでいるから、それが適切なやり方だと思っていました。
しかし、今回から、その順番を守らないことにしました。
その理由は、北海道内は、出かけることも多いのですが、
ワンポイントである地域を見に出かけます。
ですから、一回のエッセイのネタにはなりますが、
6回分書くには、長期に旅行をするか、何度も旅行するかになります。
近くなら何度もいけますが、遠くとなるたとえ北海道内とはいえ、
多くの日数を費やします。
ところが内地なら、長期の旅で、何箇所も見学することになります。
主に海岸沿いですが、現在研究の一環として、
長期計画ですが、日本列島の多くの地域を訪れる計画をしています。
そのため、年に1度か2度は、長期の内地旅行にでかけています。
ですから、内地のネタであれば、それを何回かに分けて書けます。
今回の京都から北陸の旅も、あと2回書く予定をしています。
以上のようなわけで、今後このようなパターンで
エッセイを続けていきますので、ご了承ください。
・グリーンタフ・
グリーンタフというのは、地質学者が野外で岩石を呼ぶときに用いた
一種のニックネーム(フィールドネームといいます)から由来しています。
ですから、グリーンタフ変動に含まれる岩石が
すべて緑色っぽいかというと必ずしもそうではありません。
グリーンが少ないものだってあります。
東尋坊の安山岩も緑色ではなく、灰色です。
グリーンタフの岩石は、もともと緑色の岩石であったのではありません。
岩石を構成している輝石や角閃石などの鉱物が、
海底で熱水による変質のため粘土鉱物(緑泥石などの緑色の鉱物)に
変化したものです。
今では、グリーンタフが海底火山として誕生したこと、
さらにそれが日本列島の誕生に深く関わっていたことがわかってきて
その重要性は増してきました。
2008-03-15
39 竜串:地層の串刺しを目指して(2008.03.15)
Time:
9:26
●
Geologist
黒潮に洗われる四国西南端の足摺岬の付け根に竜串ということろがあります。竜串では、隆起した海食台があり、地層をよくみることができます。そんな地層を串刺しにするつもりで調査にいきました。
2007年9月に四国の南西にある竜串というところに行きました。竜串の近くの「見残し」というところとともに、奇岩からなる海岸として、観光地になっています。竜串の名称は、地層の並びが竜を串差しにしたように見えるためだという説があります。私は、航空写真も見ているのですが、そうは見えません。
海岸の地層は、非常に整然ときれいに露出しています。北東-南西に伸びて(北から東へ約60度)、西に約60度の傾斜した地層となっています。それが、竜のうろこのように見えるのかもしれません。
竜串や見残しは、このような整然とした地層がさまざまな形態を持っているので、名所となっているのす。竜串は、高知県の足摺岬の付け根付近にあたり、土佐清水市にあります。
竜串は、駐車場から歩いていけますが、見残しは竜串から船を利用するか、半島の尾根からかなり歩いて降りるしかありません。年間80万人も観光客が訪れている足摺岬と比べると、竜串はその5分の1ほどの観光客しか訪れません。まして、アクセスの悪い見残しは、さらに少なくなります。しかし、観光客が訪れないから、面白くないかというとそうではなく、私にとっては足摺岬より竜串や見残しのほうがずっと興味深いものでした。
そもそも私が竜串を訪れたのは、地層調査をするためでした。とはいっても、一般的な地質調査ではなく、調査法の開発を目的としていました。デジタル画像でもれなく詳細に地層を記録する方法を考案して、それを検証するためでした。そのために典型的な地層の出ている場所を探していました。愛媛県西予市城川町の地質館でおこなっている仕事もあったので、四国西部で探していたところ、竜串が候補に上がったのです。
竜串や見残しは、足摺宇和海国立公園に1972年11月10日に指定されています。海中公園とは、海中に美しい景観や貴重な自然があるために指定されたものです。この付近の海は黒潮の影響を受けているため、サンゴや熱帯魚などがみられます。グラスボートや海中展望塔などもあるため、海中も見ることができます。
調査の候補地として国立公園は最適でした。なぜなら、試料を採取することはありませんから、アクセスが良く、環境が整備され、宿泊施設が近くにあるためです。
足摺岬から竜串にかけては、海岸が隆起した地形で、海岸段丘が発達しています。海岸線は海の波によって侵食(海食と呼ばれています)を受けて、断崖がつらなる険しい地形となっています。竜串や見残しは、海食台が海面上に顔を出し、不思議な景観を見ることができます。このような景観を見るべき価値があるのですが、弘法大師がこのような素晴らしいところを見残したということにちなんで、地名がつけられたそうです。ただ、史実がどうかはわかりませんが。
このような隆起は、地球の営みであるプレートテクトニクスによっておこっています。四国の太平洋側の南海トラフでは、フィリピン海プレートが沈みこんでいます。このような場所は、海洋プレートの沈み込みによって南から北におされて圧力を受けます。そのため、陸側は大地が圧縮される所になり、場所によって上昇したり下降したりすることになりますが、全体としては上昇していきます。また、沈み込むプレートに引きずりこまれた岩石が、その引きずりの力を変形によって吸収しきれないとき、岩石は壊れながら跳ね返り(弾性跳ね返りと呼ばれます)が起こります。それが、海溝タイプの地震となります。
これらの作用が四国の太平洋側では継続的に働いています。1946年に起こった南海地震では、足摺岬周辺は1mほど隆起しました。広域で平均すると1000年で2~5mほどの隆起していると推定されます。竜串や見残し海岸は、2000から3000年前に隆起したと考えらています。
四国の南西部は、足摺岬や沖の島で花崗岩などの火成岩がところどころにみられますが、それ以外の地域は、中生代から新生代の地層が広く分布しています。このような堆積岩の分布する地帯を、川の名称から四万十帯と呼んでいます。
四万十帯は、北から白亜紀前期(1億2000万~1億年前)、白亜紀後期(1億~6500万年年前)、新生代始新世から漸新世前期(5000万~4000万年前)、漸新世後期から中新世(3000万~2000万年前)の地層が東西に帯状に分布しています。北ほど古く、南ほど新しい地層がでています。これはフィリピン海プレートの沈み込みによって、大陸棚にたまった地層が長い時間をかけて持ち上げられた結果です。四万十帯の地層は、大地の営みの歴史が、残されているところなのです。
竜串は、四万十帯の中で一番南方に位置していますから、最も新しい漸新世後期から中新世に形成された地層となります。岩石としては、砂岩と泥岩が交互に繰り返している地層(互層と呼びます)からできています。このような互層が繰り返しているものは、陸地から大陸棚に向かって、何度も土石流(乱泥流あるいはタービタイトと呼ばれています)が流れ込んだ場所になります。
大局的見ると地層が整然と並んでいますが、ひとつひとつの地層をよく見ると、それぞれに個性があります。
地層の中に細いすじが多数見られることがあります。すじが斜交するものを斜交葉理(クロスラミナ)、平行なものを平行葉理(パラレルラミナ)と呼んでいます。葉理は、地層がたまるときの流れの様子を現しています。斜交葉理は乱れた流れを反映したもので、平行葉理は静かにたまったり、一定した流れでできます。
地層内で土砂がたまるときに、堆積状態が乱れる(乱堆積と呼ばれる)と、さまざまな変わった形態の地層ができていきます。まだ固っていない泥の中に、地震で液状化現象で砂が移動して、地層の中で縞模様が褶曲したりします。このような渦巻き構造は、コンボリューションとよばれ、竜串で「しぼり幕」や「らんま岩」とよばれているものがその典型的な例となります。
また、下の地層から水が噴出したときに通過された地層には、竹の節目のような構造ができます。これも竜串では「大竹小竹」と呼ばれているものです。
地層の中に石灰質や珪質などの球状の沈殿物が形成されることがあります。このようなものは団塊(ノジュール)と呼ばれ、ある地層に多数形成されることがあります。竜串では、「蛙の千匹づれ」があります。
海底の表面に波に形成された、規則正しく繰り返された波模様(漣痕:リップルマック)ができます。それを乱すことなく地層が覆うことよって地層の中に化石のように漣痕が残されることがあります。流れの方向と直交するようにリップルマークはできますが、緩やかな傾斜で非対称な波形は河口付近で、左右対称なものは浅海の海底で形成されたと考えられています。もちろんこのようなリップルマークも竜串でみることができます。
海底や海底の堆積物の中に住んでいた生物が残した、足跡・ハイ跡・巣穴・排泄物などが化石になることがあります。このような化石を生痕化石と呼んでいます。竜串・見残し海岸では、コブ状突起がある管状の生痕化石(アナジャコ類の住まいの跡)、管状のもの(カニやアナジャコ類などの巣穴や食べ歩き痕)などを多数みることができます。
これらの堆積物の特徴から、竜串の地層は、浅い(水深50m以下)の海底砂州でたまったと推定されています。
今回の調査は、このような地質を調べるのが目的ではなく、その記録をどうすれば効率的に、もれなくできるかを考えるものでした。そのために新しい調査用道具の試行も兼ねていました。
丸一日を詳細な調査に当てることができました。しかし、半日かけて長さで30m弱ほどの地層を連続的に詳細に記録したのですが、このペースでは到底終わりそうもないので、本当は竜串海岸の地層全体を対象にしたかったのですが、他に40m弱ほどの地層を簡易的に記録しました。合わせて66mの長さの地層を記録したことになります。それでも、竜串全体からすれば3分の1程度の地層しか記録したにすぎません。残念ですが、限られた時間でおこなった調査なのであきらめるしかありません。竜串の海岸線を串刺しにするような調査はやり切れませんでしたが、検討用のデータは十分取れたと思っています。その成果は、現在まとめている最中です。
・想定外・
竜串での調査は、丸3日間を予定しました。
本当は詳細な調査を2日、あとは道具の検証として、
周辺の地層の調査を1日かけて調査をやる予定をしていました。
できるだけ長く調査測線をとるため、
初日は一番端の地層からはじめることにしました。
朝、海岸に行くと、潮が満ちているときは、
海面にはでていない地層がかなりでていました。
これ幸いと調査をはじめたのですが、
乾いていない地層は非常に滑りやすく、
注意をしていたのですが、すべってころびました。
その時、あちこちすりむき、メガネも壊してしまいました。
擦り傷の治療とメガネの修理のために、
1日を台無しにしてしまいました。
カメラなどの機材は大丈夫だったので、
調査を継続することができました。
翌日、まだ傷はいえていませんが、
調査をしないと帰れませんから、かんばって始めたのですが、
こんどは暑さにやられて効率が上がりませんでした。
今回の竜串の調査では、なかなか大変の思いをしました。
・恒例の台風・
愛媛県西予市に私は毎年のように通っています。
昨年9月にもその予定があったので、
日程を調整して、竜串の調査を加えました。
しかし、千歳から出発のときに、台風が北海道を通過して、
予約していた飛行機の便が欠航になりました。
やむなく1日遅れで出発することになりました。
毎年、9月前半に出かけることが多いので、台風の影響を受けます。
昨年も例外ではなかったのです。
2007年9月に四国の南西にある竜串というところに行きました。竜串の近くの「見残し」というところとともに、奇岩からなる海岸として、観光地になっています。竜串の名称は、地層の並びが竜を串差しにしたように見えるためだという説があります。私は、航空写真も見ているのですが、そうは見えません。
海岸の地層は、非常に整然ときれいに露出しています。北東-南西に伸びて(北から東へ約60度)、西に約60度の傾斜した地層となっています。それが、竜のうろこのように見えるのかもしれません。
竜串や見残しは、このような整然とした地層がさまざまな形態を持っているので、名所となっているのす。竜串は、高知県の足摺岬の付け根付近にあたり、土佐清水市にあります。
竜串は、駐車場から歩いていけますが、見残しは竜串から船を利用するか、半島の尾根からかなり歩いて降りるしかありません。年間80万人も観光客が訪れている足摺岬と比べると、竜串はその5分の1ほどの観光客しか訪れません。まして、アクセスの悪い見残しは、さらに少なくなります。しかし、観光客が訪れないから、面白くないかというとそうではなく、私にとっては足摺岬より竜串や見残しのほうがずっと興味深いものでした。
そもそも私が竜串を訪れたのは、地層調査をするためでした。とはいっても、一般的な地質調査ではなく、調査法の開発を目的としていました。デジタル画像でもれなく詳細に地層を記録する方法を考案して、それを検証するためでした。そのために典型的な地層の出ている場所を探していました。愛媛県西予市城川町の地質館でおこなっている仕事もあったので、四国西部で探していたところ、竜串が候補に上がったのです。
竜串や見残しは、足摺宇和海国立公園に1972年11月10日に指定されています。海中公園とは、海中に美しい景観や貴重な自然があるために指定されたものです。この付近の海は黒潮の影響を受けているため、サンゴや熱帯魚などがみられます。グラスボートや海中展望塔などもあるため、海中も見ることができます。
調査の候補地として国立公園は最適でした。なぜなら、試料を採取することはありませんから、アクセスが良く、環境が整備され、宿泊施設が近くにあるためです。
足摺岬から竜串にかけては、海岸が隆起した地形で、海岸段丘が発達しています。海岸線は海の波によって侵食(海食と呼ばれています)を受けて、断崖がつらなる険しい地形となっています。竜串や見残しは、海食台が海面上に顔を出し、不思議な景観を見ることができます。このような景観を見るべき価値があるのですが、弘法大師がこのような素晴らしいところを見残したということにちなんで、地名がつけられたそうです。ただ、史実がどうかはわかりませんが。
このような隆起は、地球の営みであるプレートテクトニクスによっておこっています。四国の太平洋側の南海トラフでは、フィリピン海プレートが沈みこんでいます。このような場所は、海洋プレートの沈み込みによって南から北におされて圧力を受けます。そのため、陸側は大地が圧縮される所になり、場所によって上昇したり下降したりすることになりますが、全体としては上昇していきます。また、沈み込むプレートに引きずりこまれた岩石が、その引きずりの力を変形によって吸収しきれないとき、岩石は壊れながら跳ね返り(弾性跳ね返りと呼ばれます)が起こります。それが、海溝タイプの地震となります。
これらの作用が四国の太平洋側では継続的に働いています。1946年に起こった南海地震では、足摺岬周辺は1mほど隆起しました。広域で平均すると1000年で2~5mほどの隆起していると推定されます。竜串や見残し海岸は、2000から3000年前に隆起したと考えらています。
四国の南西部は、足摺岬や沖の島で花崗岩などの火成岩がところどころにみられますが、それ以外の地域は、中生代から新生代の地層が広く分布しています。このような堆積岩の分布する地帯を、川の名称から四万十帯と呼んでいます。
四万十帯は、北から白亜紀前期(1億2000万~1億年前)、白亜紀後期(1億~6500万年年前)、新生代始新世から漸新世前期(5000万~4000万年前)、漸新世後期から中新世(3000万~2000万年前)の地層が東西に帯状に分布しています。北ほど古く、南ほど新しい地層がでています。これはフィリピン海プレートの沈み込みによって、大陸棚にたまった地層が長い時間をかけて持ち上げられた結果です。四万十帯の地層は、大地の営みの歴史が、残されているところなのです。
竜串は、四万十帯の中で一番南方に位置していますから、最も新しい漸新世後期から中新世に形成された地層となります。岩石としては、砂岩と泥岩が交互に繰り返している地層(互層と呼びます)からできています。このような互層が繰り返しているものは、陸地から大陸棚に向かって、何度も土石流(乱泥流あるいはタービタイトと呼ばれています)が流れ込んだ場所になります。
大局的見ると地層が整然と並んでいますが、ひとつひとつの地層をよく見ると、それぞれに個性があります。
地層の中に細いすじが多数見られることがあります。すじが斜交するものを斜交葉理(クロスラミナ)、平行なものを平行葉理(パラレルラミナ)と呼んでいます。葉理は、地層がたまるときの流れの様子を現しています。斜交葉理は乱れた流れを反映したもので、平行葉理は静かにたまったり、一定した流れでできます。
地層内で土砂がたまるときに、堆積状態が乱れる(乱堆積と呼ばれる)と、さまざまな変わった形態の地層ができていきます。まだ固っていない泥の中に、地震で液状化現象で砂が移動して、地層の中で縞模様が褶曲したりします。このような渦巻き構造は、コンボリューションとよばれ、竜串で「しぼり幕」や「らんま岩」とよばれているものがその典型的な例となります。
また、下の地層から水が噴出したときに通過された地層には、竹の節目のような構造ができます。これも竜串では「大竹小竹」と呼ばれているものです。
地層の中に石灰質や珪質などの球状の沈殿物が形成されることがあります。このようなものは団塊(ノジュール)と呼ばれ、ある地層に多数形成されることがあります。竜串では、「蛙の千匹づれ」があります。
海底の表面に波に形成された、規則正しく繰り返された波模様(漣痕:リップルマック)ができます。それを乱すことなく地層が覆うことよって地層の中に化石のように漣痕が残されることがあります。流れの方向と直交するようにリップルマークはできますが、緩やかな傾斜で非対称な波形は河口付近で、左右対称なものは浅海の海底で形成されたと考えられています。もちろんこのようなリップルマークも竜串でみることができます。
海底や海底の堆積物の中に住んでいた生物が残した、足跡・ハイ跡・巣穴・排泄物などが化石になることがあります。このような化石を生痕化石と呼んでいます。竜串・見残し海岸では、コブ状突起がある管状の生痕化石(アナジャコ類の住まいの跡)、管状のもの(カニやアナジャコ類などの巣穴や食べ歩き痕)などを多数みることができます。
これらの堆積物の特徴から、竜串の地層は、浅い(水深50m以下)の海底砂州でたまったと推定されています。
今回の調査は、このような地質を調べるのが目的ではなく、その記録をどうすれば効率的に、もれなくできるかを考えるものでした。そのために新しい調査用道具の試行も兼ねていました。
丸一日を詳細な調査に当てることができました。しかし、半日かけて長さで30m弱ほどの地層を連続的に詳細に記録したのですが、このペースでは到底終わりそうもないので、本当は竜串海岸の地層全体を対象にしたかったのですが、他に40m弱ほどの地層を簡易的に記録しました。合わせて66mの長さの地層を記録したことになります。それでも、竜串全体からすれば3分の1程度の地層しか記録したにすぎません。残念ですが、限られた時間でおこなった調査なのであきらめるしかありません。竜串の海岸線を串刺しにするような調査はやり切れませんでしたが、検討用のデータは十分取れたと思っています。その成果は、現在まとめている最中です。
・想定外・
竜串での調査は、丸3日間を予定しました。
本当は詳細な調査を2日、あとは道具の検証として、
周辺の地層の調査を1日かけて調査をやる予定をしていました。
できるだけ長く調査測線をとるため、
初日は一番端の地層からはじめることにしました。
朝、海岸に行くと、潮が満ちているときは、
海面にはでていない地層がかなりでていました。
これ幸いと調査をはじめたのですが、
乾いていない地層は非常に滑りやすく、
注意をしていたのですが、すべってころびました。
その時、あちこちすりむき、メガネも壊してしまいました。
擦り傷の治療とメガネの修理のために、
1日を台無しにしてしまいました。
カメラなどの機材は大丈夫だったので、
調査を継続することができました。
翌日、まだ傷はいえていませんが、
調査をしないと帰れませんから、かんばって始めたのですが、
こんどは暑さにやられて効率が上がりませんでした。
今回の竜串の調査では、なかなか大変の思いをしました。
・恒例の台風・
愛媛県西予市に私は毎年のように通っています。
昨年9月にもその予定があったので、
日程を調整して、竜串の調査を加えました。
しかし、千歳から出発のときに、台風が北海道を通過して、
予約していた飛行機の便が欠航になりました。
やむなく1日遅れで出発することになりました。
毎年、9月前半に出かけることが多いので、台風の影響を受けます。
昨年も例外ではなかったのです。
2008-02-15
38 支笏湖:穏やかさと激しさ(2008.02.15)
Time:
9:26
●
Geologist
支笏湖には、自然が残されています。しかし、その自然の中には、穏やかな人を癒してくれるものだけでなく、激しい異変や破壊を伴うものもあります。それも含めて、自然と見る必要があるのかもしれません。
北海道の千歳空港のある千歳市の西側に支笏湖があり。我が家から支笏湖までは、車で2時間足らずで行けますので、時々家族で出かけます。2007年の年末に母が来た時も、一緒に支笏湖に出かけました。1949(昭和24)年に、支笏湖から洞爺湖にかけて支笏洞爺国立公園が指定されました。支笏湖を周回する道路がありますが、西側のオコタンから美笛間は狭い道で冬季は通れません。それ以外の周回道路は国道として冬季も通行できます。
私が支笏湖を訪れるのは、その静さに惹かれるためです。有名な観光地でありながら、大きな建物がほとんどなく、観光地らしくありません。温泉地でもあるのですが、けばけばしさはなく静けさの漂う町並みとなっています。湖の周囲を大きな山が囲んでいるため、よけいに人里を離れた情緒があります。幹線道路が周囲を囲んでいるのに、静けさが保たれているのは、やはり急峻な山に囲まれているため、開発の手がそれほど入らなかったためでしょう。
北から時計回りに、恵庭岳(標高1319m)、イチャンコッペ山(828m)、紋別岳(866m)、キムンモラップ山(478m)、モラップ山(507m)、風不死岳(1103m)、多峰古峰山(たっぷこっぷ、661m)、無名峰(742m)、丹鳴岳(になる、1039m)と高さは様々ですが、嶮しい山並みが、支笏湖周辺の自然を守護してきました。
支笏湖周辺はネオジン(かつては新第三紀と呼ばれていた時代)から火山活動が盛んで、モラップ山や、紋別岳、多峰古峰山が形成されていました。そこに約4万年前から、激しい火山活動が支笏湖では起こりました。その結果、直径12kmにもなるカルデラができ、湖を取り巻く嶮しい山並みが、カルデラ壁ができました。カルデラ形成後も火山活動が続き、風不死岳、恵庭岳、樽前山ができました。樽前山ではまだ噴気が続いている活火山です。このような火山によって支笏湖周辺には険しい地形ができました。
明治時代には、支笏湖から樽前山周辺の森林が御料林に1889(明治22)年に指定されました。御料林とは、皇室の経済基盤を固めるために財産として、旧憲法の施行を前に創設されたものです。
北海道内に工場適地を探していた王子製紙は、支笏湖周辺の木材資源と支笏湖の水資源を発電に利用することを考え、明治37年に苫小牧への進出を計画し、着工にはりました。
その工事のなさかの1909(明治42)年3月30日に、樽前山が噴火しました。現在あるドームは、17日から19日くらいの間に出現したものです。実は樽前山のドームはそれ以前にもありましたが、1874(明治7)年の爆発で消滅しています。それが、1909年に再度形成されました。
この噴火の時期に、アメリカの米国マサチューセッツ州高等工業学校の火山学者であったジャッカーが樽前山を調査しました。その調査の結果、「近く、再び大噴火があるから注意せよ」と、ドーム形成後にも大噴火があると日時まで予測し警告を発しました。そのため、工事関係者や地域住民はパニックになったのですが、幸いにも、当日は朝から上天気で、予測は外れました。
明治43年に王子製紙の工場が完成し、千歳川には発電所が建設されました。支笏湖の水位は、堰堤が設けられて、人工的に調節されるようになりました。
支笏湖を水源として目をつけられたのは、その貯水量と日本最北端の不凍湖であったためです。洞爺湖と共に支笏湖は、冬季でもほとんど凍ることがありません。また、支笏湖は面積は広くありませんが、カルデラの特徴で最大水深が363m、平均水深が264mもあり、コップのような形態をした湖です。そのため、支笏湖は、そほど大きな湖ではありませんが、琵琶湖(27.5立方km)に匹敵するほどの貯水量(21立方km)を持っています。ですから、発電用の貯水地としては、有望だったのです。
王子製紙は、苫小牧から支笏湖まで軽便鉄道(山線と呼ばれていた)をしきました。山線はかつては、物資運搬用でしたが、1922(大正11)年から観光客に利用されていました。しかし、もともと物資運搬用なので切符には、「人命の危険は保証されず」と書いてあったそうです。その名残として、支笏湖から流れ出る千歳川には山線鉄橋が残っています。
王子製紙が操業をはじめ、支笏湖周辺で多くのエゾマツやトドマツが伐採されました。しかし、支笏湖の自然は広く雄大で、伐採の影響はそれほどひどくなかったようです。
北海道や地元住民は、自然を守るために、国立公園の候補地として、支笏湖周辺を圧しました。1921(大正10)年に全国から16箇所が国立公園に指定され、そのうち北海道では、阿寒、登別、大沼が選ばれましたが、支笏湖は選かも漏れました。その時に道庁が調べたところ、支笏湖には数棟の建物があるだけで、まだまだ自然は残されていました。その後、1934(昭和9)年に阿寒と大雪山、が国立公園に指定されたものの、戦争が激しくなり、運動どころではなくなりました。そして、戦後4年目にして、支笏湖と洞爺湖周辺は、国立公園に指定されました。
もともと国有地であったため、土地利用の規制がきびしく新規企業の参入がないので、支笏湖周辺は開発がそれほど進むこともなく、現在に至っています。それでも、自然災害や人為による影響は避けることはできません。
火山による破壊も自然の営みで避けることができませんが、稀に襲う台風は、強風にさらされることの少ない北海道の森林には脅威となります。1954(昭和29)年の洞爺丸台風では、大量の風倒木が発生しました。その後、一部は植林ですが、自然自身の回復力で森林は復活しました。
1972(昭和47)年には、人為による破壊が再び起こります。札幌での冬季オリンピックの滑降競技のコースに、恵庭岳の斜面が選ばれました。もともとオリンピックのコースや施設のために、一時的な利用ですが、広範囲の樹木が伐採されました。しかし、オリンピック終了後は、施設は撤去され、植林もされたため、今ではその傷跡はかなり回復しています。
しかし、この「オリンピックによる自然破壊」は、のちのちまで影響を与えました。1998年2月の長野オリンピックで、手付かずの自然が残っている志賀高原の岩菅山が滑降競技の施設の予定になっていました。しかし、自然を保護するために、開発を断念されました。そこには恵庭岳の経験も活かされていました。
記憶にも新しい2004年9月の台風18号で、再び多くの風倒木がでました。その傷跡は現在も残されています。これらの風倒木を処理して、より災害に強い森林を目指して植林事業が取り組まれています。
自然は、自分自身で回復力をもっています。以前と、同じものではないですが、似た自然に戻ります。それには、何十年のスケールの長い時間が必要です。手出しをせずに長い時間見守りさえすれば、自然はもとの姿をとり戻します。その忍耐力が、人間の側にあるかどうかが問題なのかもしれません。破壊の原因である風雪や火山の営みも、自然の一環です。自然とは、人間にとって都合の良い奇麗事だけではないのです。穏やかさと激しさの両面を持った存在なのです。
一番寒い時期には、寒さを売りものにしたイベントが支笏湖ではあります。札幌の雪祭りと同じ頃になりますが、支笏湖では1月25日から2月17日まで「第30回千歳・支笏湖氷濤まつり」が行われています。湖畔には、多数の氷のオブジェがつくられて、いろいろなイベントが行われています。氷は湖水の水をスプリンクラーでかけて凍らせたものです。オブジェは、昼間は支笏湖ブルーに輝き、夜はライトアップされ幻想的な世界となります。私が訪れた年末には、厳冬期の祭りにそなえて、準備が進んでいました。見るほうはいいのですが、作る人たちは、寒い中、水をかけて作業をしていくことになります。
そんな作業風景を横目に、支笏湖畔の道路を走って、凍っていない湖面を眺めました。そして、自然の中の穏やかさと激しさについて考えました。
・新陳代謝・
一見原始に見えるの森も、見かけだけかもしれません。
原始の森を構成する木々の多くは、
火山や風雪などで何度も倒れては、蘇ってきた子孫たちです。
そうでなくては、原始林は樹齢何千年の木ばかりになります。
森林は、新陳代謝をするかのように、世代交代をしています。
古い大木もあれば、新しい若木や芽吹いたばかりの苗木もあります。
このような多様性が自然の摂理にかなったものです。
自然とは、新陳代謝が正常に機能していることなのでしょう。
・国民休暇村・
支笏湖畔に、「国民休暇村 支笏湖」があります。
その休暇村は、天然温泉があり、湖畔の温泉街からはずれた
キムンモラップ山の北側山麓に、ぽつんと佇んでいます。
その建物の周囲の自然が、私には好ましく思え、
支笏湖の定宿としています。
私は国民休暇村が好きで、出かける時に近くにあれば、
そこに泊まるようにしています。
でも、残念ながら、北海道では支笏湖が唯一つの国民休暇村です。
北海道の千歳空港のある千歳市の西側に支笏湖があり。我が家から支笏湖までは、車で2時間足らずで行けますので、時々家族で出かけます。2007年の年末に母が来た時も、一緒に支笏湖に出かけました。1949(昭和24)年に、支笏湖から洞爺湖にかけて支笏洞爺国立公園が指定されました。支笏湖を周回する道路がありますが、西側のオコタンから美笛間は狭い道で冬季は通れません。それ以外の周回道路は国道として冬季も通行できます。
私が支笏湖を訪れるのは、その静さに惹かれるためです。有名な観光地でありながら、大きな建物がほとんどなく、観光地らしくありません。温泉地でもあるのですが、けばけばしさはなく静けさの漂う町並みとなっています。湖の周囲を大きな山が囲んでいるため、よけいに人里を離れた情緒があります。幹線道路が周囲を囲んでいるのに、静けさが保たれているのは、やはり急峻な山に囲まれているため、開発の手がそれほど入らなかったためでしょう。
北から時計回りに、恵庭岳(標高1319m)、イチャンコッペ山(828m)、紋別岳(866m)、キムンモラップ山(478m)、モラップ山(507m)、風不死岳(1103m)、多峰古峰山(たっぷこっぷ、661m)、無名峰(742m)、丹鳴岳(になる、1039m)と高さは様々ですが、嶮しい山並みが、支笏湖周辺の自然を守護してきました。
支笏湖周辺はネオジン(かつては新第三紀と呼ばれていた時代)から火山活動が盛んで、モラップ山や、紋別岳、多峰古峰山が形成されていました。そこに約4万年前から、激しい火山活動が支笏湖では起こりました。その結果、直径12kmにもなるカルデラができ、湖を取り巻く嶮しい山並みが、カルデラ壁ができました。カルデラ形成後も火山活動が続き、風不死岳、恵庭岳、樽前山ができました。樽前山ではまだ噴気が続いている活火山です。このような火山によって支笏湖周辺には険しい地形ができました。
明治時代には、支笏湖から樽前山周辺の森林が御料林に1889(明治22)年に指定されました。御料林とは、皇室の経済基盤を固めるために財産として、旧憲法の施行を前に創設されたものです。
北海道内に工場適地を探していた王子製紙は、支笏湖周辺の木材資源と支笏湖の水資源を発電に利用することを考え、明治37年に苫小牧への進出を計画し、着工にはりました。
その工事のなさかの1909(明治42)年3月30日に、樽前山が噴火しました。現在あるドームは、17日から19日くらいの間に出現したものです。実は樽前山のドームはそれ以前にもありましたが、1874(明治7)年の爆発で消滅しています。それが、1909年に再度形成されました。
この噴火の時期に、アメリカの米国マサチューセッツ州高等工業学校の火山学者であったジャッカーが樽前山を調査しました。その調査の結果、「近く、再び大噴火があるから注意せよ」と、ドーム形成後にも大噴火があると日時まで予測し警告を発しました。そのため、工事関係者や地域住民はパニックになったのですが、幸いにも、当日は朝から上天気で、予測は外れました。
明治43年に王子製紙の工場が完成し、千歳川には発電所が建設されました。支笏湖の水位は、堰堤が設けられて、人工的に調節されるようになりました。
支笏湖を水源として目をつけられたのは、その貯水量と日本最北端の不凍湖であったためです。洞爺湖と共に支笏湖は、冬季でもほとんど凍ることがありません。また、支笏湖は面積は広くありませんが、カルデラの特徴で最大水深が363m、平均水深が264mもあり、コップのような形態をした湖です。そのため、支笏湖は、そほど大きな湖ではありませんが、琵琶湖(27.5立方km)に匹敵するほどの貯水量(21立方km)を持っています。ですから、発電用の貯水地としては、有望だったのです。
王子製紙は、苫小牧から支笏湖まで軽便鉄道(山線と呼ばれていた)をしきました。山線はかつては、物資運搬用でしたが、1922(大正11)年から観光客に利用されていました。しかし、もともと物資運搬用なので切符には、「人命の危険は保証されず」と書いてあったそうです。その名残として、支笏湖から流れ出る千歳川には山線鉄橋が残っています。
王子製紙が操業をはじめ、支笏湖周辺で多くのエゾマツやトドマツが伐採されました。しかし、支笏湖の自然は広く雄大で、伐採の影響はそれほどひどくなかったようです。
北海道や地元住民は、自然を守るために、国立公園の候補地として、支笏湖周辺を圧しました。1921(大正10)年に全国から16箇所が国立公園に指定され、そのうち北海道では、阿寒、登別、大沼が選ばれましたが、支笏湖は選かも漏れました。その時に道庁が調べたところ、支笏湖には数棟の建物があるだけで、まだまだ自然は残されていました。その後、1934(昭和9)年に阿寒と大雪山、が国立公園に指定されたものの、戦争が激しくなり、運動どころではなくなりました。そして、戦後4年目にして、支笏湖と洞爺湖周辺は、国立公園に指定されました。
もともと国有地であったため、土地利用の規制がきびしく新規企業の参入がないので、支笏湖周辺は開発がそれほど進むこともなく、現在に至っています。それでも、自然災害や人為による影響は避けることはできません。
火山による破壊も自然の営みで避けることができませんが、稀に襲う台風は、強風にさらされることの少ない北海道の森林には脅威となります。1954(昭和29)年の洞爺丸台風では、大量の風倒木が発生しました。その後、一部は植林ですが、自然自身の回復力で森林は復活しました。
1972(昭和47)年には、人為による破壊が再び起こります。札幌での冬季オリンピックの滑降競技のコースに、恵庭岳の斜面が選ばれました。もともとオリンピックのコースや施設のために、一時的な利用ですが、広範囲の樹木が伐採されました。しかし、オリンピック終了後は、施設は撤去され、植林もされたため、今ではその傷跡はかなり回復しています。
しかし、この「オリンピックによる自然破壊」は、のちのちまで影響を与えました。1998年2月の長野オリンピックで、手付かずの自然が残っている志賀高原の岩菅山が滑降競技の施設の予定になっていました。しかし、自然を保護するために、開発を断念されました。そこには恵庭岳の経験も活かされていました。
記憶にも新しい2004年9月の台風18号で、再び多くの風倒木がでました。その傷跡は現在も残されています。これらの風倒木を処理して、より災害に強い森林を目指して植林事業が取り組まれています。
自然は、自分自身で回復力をもっています。以前と、同じものではないですが、似た自然に戻ります。それには、何十年のスケールの長い時間が必要です。手出しをせずに長い時間見守りさえすれば、自然はもとの姿をとり戻します。その忍耐力が、人間の側にあるかどうかが問題なのかもしれません。破壊の原因である風雪や火山の営みも、自然の一環です。自然とは、人間にとって都合の良い奇麗事だけではないのです。穏やかさと激しさの両面を持った存在なのです。
一番寒い時期には、寒さを売りものにしたイベントが支笏湖ではあります。札幌の雪祭りと同じ頃になりますが、支笏湖では1月25日から2月17日まで「第30回千歳・支笏湖氷濤まつり」が行われています。湖畔には、多数の氷のオブジェがつくられて、いろいろなイベントが行われています。氷は湖水の水をスプリンクラーでかけて凍らせたものです。オブジェは、昼間は支笏湖ブルーに輝き、夜はライトアップされ幻想的な世界となります。私が訪れた年末には、厳冬期の祭りにそなえて、準備が進んでいました。見るほうはいいのですが、作る人たちは、寒い中、水をかけて作業をしていくことになります。
そんな作業風景を横目に、支笏湖畔の道路を走って、凍っていない湖面を眺めました。そして、自然の中の穏やかさと激しさについて考えました。
・新陳代謝・
一見原始に見えるの森も、見かけだけかもしれません。
原始の森を構成する木々の多くは、
火山や風雪などで何度も倒れては、蘇ってきた子孫たちです。
そうでなくては、原始林は樹齢何千年の木ばかりになります。
森林は、新陳代謝をするかのように、世代交代をしています。
古い大木もあれば、新しい若木や芽吹いたばかりの苗木もあります。
このような多様性が自然の摂理にかなったものです。
自然とは、新陳代謝が正常に機能していることなのでしょう。
・国民休暇村・
支笏湖畔に、「国民休暇村 支笏湖」があります。
その休暇村は、天然温泉があり、湖畔の温泉街からはずれた
キムンモラップ山の北側山麓に、ぽつんと佇んでいます。
その建物の周囲の自然が、私には好ましく思え、
支笏湖の定宿としています。
私は国民休暇村が好きで、出かける時に近くにあれば、
そこに泊まるようにしています。
でも、残念ながら、北海道では支笏湖が唯一つの国民休暇村です。
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