納沙布(ノッサプ)岬は、北方四島を望む北海道の東端にあります。その納沙布岬を有する根室半島の起源をみていきましょう。
北海道はいくつかの半島があります。半島の先端には岬があります。岬にはそれぞれの個性があります。その個性は、気象や天候などの日々変わるものから、大地自身の起源に端を発するものもあります。
北海道の最東端は、根室半島の納沙布(のさっぷ)岬です。納沙布岬は、北方四島返還の最前線として、「北方館」や「平和の塔」などがあり、強い個性を持っています。
道東は霧がよく出るところです。私は、今年のゴールデンウィークに出かけましたが、天気が悪く小雨と霧の寒い日でした。これが道東の天気だというかのような日でした。私には納沙布岬は「霧の岬」という印象があります。
知床半島は世界遺産に選ばれたことから、現在も多くの観光客を集めています。納沙布岬も有名な観光地ですから、ゴールデンウィークで多くの観光客がいるかと思いきや、予想外に少なく、驚きました。道東の知床以外の観光地も、さびしく感じたの気のせいでしょうか。
納沙布岬に以前にも訪れていますが、そのときは晩秋の、風の強い寒い日でした。ですから、私の納沙布岬の印象は、残念ながら、冷たく暗いものです。しかし、土産屋の中ではストーブが炊かれ、そこですするラーメンの暖かさは、一層おいしく感じました。
さて、納沙布岬あるいは根室半島は、なぜ出っ張っているのでしょうか。こんな素朴な疑問を探ることが、大地の生い立ちを教えてくれます。大地をつくっている石をみれば、その答えが分かります。
先ほども述べましたが知床半島にはたくさんの活火山があります。ですから、知床半島は、現在活動中の火山列が半島をつくっているわけです。ところが、根室半島には活火山はありません。しかし、根室半島には、マグマの活動でできた火成岩がたくさんあります。そのマグマは海底で堆積していた地層の中や海底で活動しました。マグマの活動は現在は終わっています。つまり、根室半島は、昔の火山列だったのです。
マグマの活動時代は、地層の中から見つかる化石や放射性元素の年代測定から知ることができます。マグマの活動時期は、白亜紀後期だと考えられています。溜まっていた地層は、白亜紀後期から古第三紀に形成された根室層群と呼ばれるものです。根室層群の堆積初期の地層の中に、マグマが上昇してきました。
マグマが海底まで噴出すると、海水にふれて急激に冷却されます。しかし、後からもまだマグマが続いて上がってきます。すると固まった表面を破ってマグマが海水中に噴出します。ねり歯磨きを押し出したようにマグマが出てきます。マグマは、やはり海水に触れて急冷されすぐに固まります。繰り返し起きます。その結果、枕を並べたようなマグマの積み重なりができていきます。このような状態の岩石を、枕状溶岩と呼びます。
枕状溶岩の断面がみえるところでは、自転車のスポークのように放射状の割れ目が形成されています。納沙布岬の少し東南東の花咲では、直径1mから3mほどの枕状溶岩がたくさん海岸に出ています。大きなものでは、7.5mにも達します。花咲では、枕状溶岩が特に目立つので、車石と呼ばれて、天然記念物になっています。このような枕状溶岩が根室半島のいたるところにあります。
マグマが海底に噴出せずに、地層の間に分け入ることもあります。貫入と呼びます。地層中に貫入したマグマは、地層の触れた部分はすぐに冷えますが、中のマグマは急激に冷えることはなく、ゆっくりと冷えてきます。すると大きな結晶へと成長する岩石ができます。根室半島の貫入岩には、厚さ150mもあるものが見つかっています。
マグマがゆっくり冷えると、結晶ができて成長していきます。結晶はマグマとの密度の差によって浮いたり沈んだりします。結晶の移動に伴ってマグマの組成が変化していきます。すると新たな組成のマグマになり、違った性質の結晶が出てきます。冷えながらマグマが成分を変化させ、溜まった結晶が岩石として、層状に重なっていきます。最終的には、層状の貫入岩となっていきます。このような火成岩を、層状分化岩体と呼んでいます。
結晶の違いや、岩石の化学成分の違いによって、層状分化岩体にはいろいろな岩石が形成されます。急激に冷えた上下の部分は、貫入してきたマグマがそのまま急に冷えた玄武岩になり、内部には重力の影響で、下から上に向かって黒っぽい岩石から白っぽい岩石(アルカリドレライトからモンゾニ岩、閃長岩)へと変化していきます。
本来であれば、このような層状貫入岩体は地下深部にしかありません。しかし、根室半島では、マグマが深部でどのようにして変化し、多様な岩石が形成されるかが、地表で見ることとができるのです。非常に面白い岩石です。層状分化岩体は、根室半島では8ヶ所知られています。また、層状分化岩体は、根室半島より先の歯舞諸島にも連続していることが知られています。
知床半島の火山活動と根室半島の火山活動は、時代の違いと、陸上か海中かの環境の違いだけではありません。他にも、マグマの性質が違っています。
知床半島の火山は、日本列島でみられる典型的なマグマ(カルクアルカリ・マグマと呼ばれています)の活動でできています。しかし、根室半島のマグマは、アルカリ玄武岩と呼ばれているものです。少々変わったマグマです。海洋の真ん中にある海山や海洋島を形成するマグマに見られるタイプです。それが、陸の堆積物がたくさん流れ込んでくるような場で、活動しているのです。
古い時代の地層とマグマからできた火成岩が、根室半島から千島四島まで延びる火山列をつくったのです。そんな過去の列島が、現在も残されているのです。
根室半島を構成しているアルカリ玄武岩という不思議なマグマの成因は、まだ完全には解明されていません。このようなアルカリ玄武岩マグマの活動は、根室半島より先の歯舞諸島にも連続しています。マグマの活動には、もちろん国境などないのです。
・納沙布岬・
私は7年ほど前の秋にも納沙布岬を訪れました。
そのときも寒く霧が出ていました。
いずれも冷たく、暗い天気だったので、
どうしても納沙布岬は暗い印象が残っています。
天気いい日に行けば、印象は違ったのでしょうが、
根室半島は冷たく、霧のかかったところの印象が強かったです。
層状分化岩体とじっくり見たかったのですが、
天気に恵まれず、海岸も一箇所しか降りれなくって、
十分な調査ができませんでした。
また別の機会としましょうか。
・紅葉・
北海道は、日本ハムファイターズのリーグ優勝に沸いています。
野球の話題で盛り上がっています。
我が家では、次男が野球のルールも分からないのに、
ファイターズの応援をしています。
でも、熱いのは北海道の野球周辺だけで、
北海道はここ数日で一気に寒くなってきました。
冬の訪れを感じさせる日ですが、
我が家も朝夕は暖房も炊くようになりました。
コートも着て、手袋もつけました。
ただ心残りは、北海道らしい紅葉をまだ見てないことです。
紅葉越しに見る突き抜けた青空は格別です。
できれば、雪が降る前に紅葉を見ておきたいものです。
2006-10-15
2006-09-15
21 足摺岬:岬の先端に不思議な石がある 2006.09.15
Time:
9:17
●
Geologist
昨年秋に足摺岬に調査に行きました。変わった石が出るのですが、その起源はまだ謎のままなのです。
四国は、長方形のそれぞれの角が、南北にでっぱったような形をしています。南西側のでっぱりが、足摺岬になり、南東側が室戸岬です。私は、足摺岬には2度行ったことがあります。しかし、残念ながら室戸岬にはいったことがありません。一度目の足摺岬は30年近く前の春であまり記憶にありません。2度目は1年前の9月でした。いずれも急ぎ足での見学となりました。
足摺岬を訪れたのは、観光ではありません。地質学的に面白い石が見られるからです。
足摺岬と室戸岬にある石は、花崗岩や斑れい岩と呼ばれるものです。花崗岩や斑れい岩は、マグマが地下深部でゆっくりと冷え固まったものです。花崗岩と斑れい岩の違いは、マグマの性質の違いにより、花崗岩は白っぽい岩石で斑れい岩は黒っぽい岩石です。室戸岬は斑れい岩を主としています。足摺岬は花崗岩と斑れい岩が混在してあります。
花崗岩や斑れい岩は、特別な岩石ではなく、どこにでもある、ありふれた岩石です。しかし、ある場所が問題なのです。足摺岬や室戸岬では、南過ぎるのです。その理由を説明しましょう。
現在の日本列島でマグマが活動しているのは、火山フロント(前線)と呼ばれるところです。東日本では、北海道千島列島から知床半島、大雪から、道南の渡島半島、下北半島、奥羽山地、関東山地、富士山、伊豆半島、伊豆諸島から小笠原諸島へと続く東日本火山列があります。一方西日本では、大山などの中国地方の日本海側の火山から、九州の九重、阿蘇、霧島、桜島からトカラ列島に続く西日本火山帯があります。
この火山帯では、マグマの活動が盛んです。火山だけでなく、地下にはマグマがゆっくりと冷え固まった深成岩も形成されているはずです。このような深成岩が見えるようになるためには、長い時間かかって風化侵食を受けてた地下深部の岩石が見えるようにならなければなりません。
これらの火山列は、東日本では、太平洋プレートの沈み込みによって形成されています。西日本では、フィリピン海プレートの沈み込みによるものです。
沈み込みによるマグマの形成とは、沈み込んだ海洋プレートからしぼりだされた水分が、列島の下のマントルに供給されてできます。水分がしぼりだされる深さが、プレートの沈み込む状態で決まっています。それに対応して火山のできる位置も海溝(西日本ではトラフと呼ばれます)からある一定の距離が離れたところに決まってきます。ですから、火山フロントより海側では、マグマの活動が起こることはありません。
ところが、足摺岬にはマグマの活動でできた花崗岩があります。不思議です。
もちろん、この花崗岩は最近活動したマグマによるものではなく、1400万年前ころ(新生代中新世中期)に活動したものです。そのころ、足摺岬のあたりに火山フロントがあったのでしょうか。どうもそうではなさそうです。
日本は、もともと大陸のふちにあり、常に海洋プレートの沈み込みに伴う堆積物(付加体と呼ばれています)が集積をしているところでした。ところが、中新世には、大陸の縁から日本海が開き始めて、列島となっていく時期にあたっています。付加体の位置ではあるのですが、日本海の拡大に伴って、日本列島が海側に押し出される時期になります。
さらに、この中新世には、フィリピン海プレートの一部である四国海盆が沈みこんでいく時期に当たっています。四国海盆は海嶺をもっているできたての小さい海洋地殻(縁海と呼ばれています)であったと考えられています。この四国海盆は中新世(前期から中期にかけて)に海底が拡大してすぐに、西日本に沈み込んでいきました。
西日本を広く見ると、1400万年前頃に起こったマグマ活動の痕跡が、フロントより海側のいたるところにみられます。紀伊半島の潮岬、熊野地域、四国の室戸岬に足摺岬、沖ノ島、少し海から離れますが高月山、九州でも大崩山、屋久島などに、火山岩や深成岩がまとまって分布しています。
中新世の頃の西日本が普通の列島と違う点は、沈み込む海洋プレートができたての若くて暖かいものだったことです。このような地質学的特異な状況では、どのようなマグマのでき方をし、どのようなマグマの性質になるでしょうか。
マグマの性質には、いろいろなものがあることがわかっています。そのようないろいろなマグマを作るには、いろいろ材料物質やいろいろな融けるメカニズムが必要になります。それにはいろいろな起源がり、その起源に関する説もいろいろあり、また研究中のテーマとなっています。
一つは、海嶺の活動していたマグマが、そのまま付加体の中に噴出したものがあります。室戸岬や潮岬の玄武岩類がこれに相当します。
海嶺から離れた活動ですが、海洋でのマグマの活動(オフ・リッジ火山活動と呼ばれています)によってできたものがあります。それは、紀伊半島の高草山など見つかっている玄武岩です。
沈み込む海洋地殻が融けて(スラブ・メルティングと呼ばれています)できたマグマがあります。このような仕組みでできた岩石は、紀伊半島から四国東部の瀬戸内地方にある火山岩(瀬戸内火山岩と呼ばれています)です。ただしこれには異説があり、沈み込む海洋プレートの上に溜まっている堆積物が融けてできる可能性も指摘されています。
また、四国海盆の海嶺できたいマグマが、付加体を融かしてできた大量の花崗岩マグマもあります。熊野地域に広がる大量の花崗岩質マグマによる火成岩類が、その典型だと考えられています。
では、足摺岬の火成岩は、どのようにしてできたのでしょうか。本当のところは、まだ定説がありません。とにかく足摺岬の岩石は変わっています。
足摺岬には、アルカリ花崗岩、閃長岩などカリ長石に富む花崗岩類があります。この花崗岩の中に、日本では非常に珍しいものがあるのです。
アルカリ長石(淡いピン色に見える鉱物)が斜長石(白い鉱物)によって取り囲まれているものです。長石が丸み(ピタライトと呼ばれます)を持っています。このような花崗岩は、珍しいもので、ラパキビ花崗岩と呼ばれています。石材として日本ではよく見かけますが、13~17億年前に形成された大陸地域の岩石にラパキビ花崗岩があります。ラパキビ花崗岩は、日本では足摺岬にしかありません。本家のラパキビ花崗岩の起源も、よくわかっていません。
足摺岬の道は、風化した花崗岩がつくるのっぺりとした地形の道でした。岬へ向かう道は尾根にあるのに、どことなく山奥の尾根道のように感じました。これは、花崗岩は、日本では列島の古い岩石のある脊梁山脈地帯によくみられる岩石だからでしょうか。花崗岩が風化すると、のっぺりとして、ところどこの丸みのある花崗岩が残されたような地形となります。足摺岬では、唐人駄馬巨石群と呼ばれるところがあります。そこは、風化で残された花崗岩がつくる景観です。そんな地形が岬に向かう尾根で見れるのです。
そんなことをつらつらと考えながら、観光はせずに急いで帰途に着きました。
・ラパキビ花崗岩・
ラパキビ花崗岩は、スカンジナビア半島、ロシア、北アメリカなどの
大陸地域に広く分布する岩石です。
赤っぽい石材として日本各地で見ることができます。
ラパキビ花崗岩は、13~17億年前という非常に古い時代に形成されたものです。
足摺岬花崗岩類のように1400万年前ほどの若いものは非常に珍しいものです。
足摺岬の岩石だけでなく、
西日本の火山フロントより海側の火成岩類は
まとめてその成因が解明されつつあります。
ですから、本家のラパキビ花崗岩の起源も
日本で明らかにされるかもしれません。
ちなみにラパキビとは、フィンランド語です。
ラパは「もろくて崩れやすい」、キビは「石」という意味です。
地質学のラパキビ花崗岩の特徴より、
花崗岩そのものの性質をあわしている言葉です。
・ジレンマ・
足摺岬は、室戸岬と共に、台風情報を聞くときによく耳にする地名です。
観光地でもあるのですが、観光目的でない人間にとっては、
なかなか足を伸ばしにくいところです。
遠方からの訪問者にとっては、ついつい急ぎ足にみてしまうものです。
私は急ぎ足の旅行は苦手です。
年のせいか、疲れやすくなったもの理由の一つです。
興味あるところとだと、もう一度行きたくなります。
ですから、2度手間となることがよくあるからです。
できるだけじっくりとと思っているのですが、
なかなかそうもできなくなりました。
金銭的問題より、時間的問題です。
若いときは、体力も時間もあったのですが、お金がなくて、困っていました。
今では体力と時間がありません。
ですから、体力のいるところは、できるだけ早めに見ておきたいものです。
でも、それをする時間がままならないのです。
ジレンマですね。
四国は、長方形のそれぞれの角が、南北にでっぱったような形をしています。南西側のでっぱりが、足摺岬になり、南東側が室戸岬です。私は、足摺岬には2度行ったことがあります。しかし、残念ながら室戸岬にはいったことがありません。一度目の足摺岬は30年近く前の春であまり記憶にありません。2度目は1年前の9月でした。いずれも急ぎ足での見学となりました。
足摺岬を訪れたのは、観光ではありません。地質学的に面白い石が見られるからです。
足摺岬と室戸岬にある石は、花崗岩や斑れい岩と呼ばれるものです。花崗岩や斑れい岩は、マグマが地下深部でゆっくりと冷え固まったものです。花崗岩と斑れい岩の違いは、マグマの性質の違いにより、花崗岩は白っぽい岩石で斑れい岩は黒っぽい岩石です。室戸岬は斑れい岩を主としています。足摺岬は花崗岩と斑れい岩が混在してあります。
花崗岩や斑れい岩は、特別な岩石ではなく、どこにでもある、ありふれた岩石です。しかし、ある場所が問題なのです。足摺岬や室戸岬では、南過ぎるのです。その理由を説明しましょう。
現在の日本列島でマグマが活動しているのは、火山フロント(前線)と呼ばれるところです。東日本では、北海道千島列島から知床半島、大雪から、道南の渡島半島、下北半島、奥羽山地、関東山地、富士山、伊豆半島、伊豆諸島から小笠原諸島へと続く東日本火山列があります。一方西日本では、大山などの中国地方の日本海側の火山から、九州の九重、阿蘇、霧島、桜島からトカラ列島に続く西日本火山帯があります。
この火山帯では、マグマの活動が盛んです。火山だけでなく、地下にはマグマがゆっくりと冷え固まった深成岩も形成されているはずです。このような深成岩が見えるようになるためには、長い時間かかって風化侵食を受けてた地下深部の岩石が見えるようにならなければなりません。
これらの火山列は、東日本では、太平洋プレートの沈み込みによって形成されています。西日本では、フィリピン海プレートの沈み込みによるものです。
沈み込みによるマグマの形成とは、沈み込んだ海洋プレートからしぼりだされた水分が、列島の下のマントルに供給されてできます。水分がしぼりだされる深さが、プレートの沈み込む状態で決まっています。それに対応して火山のできる位置も海溝(西日本ではトラフと呼ばれます)からある一定の距離が離れたところに決まってきます。ですから、火山フロントより海側では、マグマの活動が起こることはありません。
ところが、足摺岬にはマグマの活動でできた花崗岩があります。不思議です。
もちろん、この花崗岩は最近活動したマグマによるものではなく、1400万年前ころ(新生代中新世中期)に活動したものです。そのころ、足摺岬のあたりに火山フロントがあったのでしょうか。どうもそうではなさそうです。
日本は、もともと大陸のふちにあり、常に海洋プレートの沈み込みに伴う堆積物(付加体と呼ばれています)が集積をしているところでした。ところが、中新世には、大陸の縁から日本海が開き始めて、列島となっていく時期にあたっています。付加体の位置ではあるのですが、日本海の拡大に伴って、日本列島が海側に押し出される時期になります。
さらに、この中新世には、フィリピン海プレートの一部である四国海盆が沈みこんでいく時期に当たっています。四国海盆は海嶺をもっているできたての小さい海洋地殻(縁海と呼ばれています)であったと考えられています。この四国海盆は中新世(前期から中期にかけて)に海底が拡大してすぐに、西日本に沈み込んでいきました。
西日本を広く見ると、1400万年前頃に起こったマグマ活動の痕跡が、フロントより海側のいたるところにみられます。紀伊半島の潮岬、熊野地域、四国の室戸岬に足摺岬、沖ノ島、少し海から離れますが高月山、九州でも大崩山、屋久島などに、火山岩や深成岩がまとまって分布しています。
中新世の頃の西日本が普通の列島と違う点は、沈み込む海洋プレートができたての若くて暖かいものだったことです。このような地質学的特異な状況では、どのようなマグマのでき方をし、どのようなマグマの性質になるでしょうか。
マグマの性質には、いろいろなものがあることがわかっています。そのようないろいろなマグマを作るには、いろいろ材料物質やいろいろな融けるメカニズムが必要になります。それにはいろいろな起源がり、その起源に関する説もいろいろあり、また研究中のテーマとなっています。
一つは、海嶺の活動していたマグマが、そのまま付加体の中に噴出したものがあります。室戸岬や潮岬の玄武岩類がこれに相当します。
海嶺から離れた活動ですが、海洋でのマグマの活動(オフ・リッジ火山活動と呼ばれています)によってできたものがあります。それは、紀伊半島の高草山など見つかっている玄武岩です。
沈み込む海洋地殻が融けて(スラブ・メルティングと呼ばれています)できたマグマがあります。このような仕組みでできた岩石は、紀伊半島から四国東部の瀬戸内地方にある火山岩(瀬戸内火山岩と呼ばれています)です。ただしこれには異説があり、沈み込む海洋プレートの上に溜まっている堆積物が融けてできる可能性も指摘されています。
また、四国海盆の海嶺できたいマグマが、付加体を融かしてできた大量の花崗岩マグマもあります。熊野地域に広がる大量の花崗岩質マグマによる火成岩類が、その典型だと考えられています。
では、足摺岬の火成岩は、どのようにしてできたのでしょうか。本当のところは、まだ定説がありません。とにかく足摺岬の岩石は変わっています。
足摺岬には、アルカリ花崗岩、閃長岩などカリ長石に富む花崗岩類があります。この花崗岩の中に、日本では非常に珍しいものがあるのです。
アルカリ長石(淡いピン色に見える鉱物)が斜長石(白い鉱物)によって取り囲まれているものです。長石が丸み(ピタライトと呼ばれます)を持っています。このような花崗岩は、珍しいもので、ラパキビ花崗岩と呼ばれています。石材として日本ではよく見かけますが、13~17億年前に形成された大陸地域の岩石にラパキビ花崗岩があります。ラパキビ花崗岩は、日本では足摺岬にしかありません。本家のラパキビ花崗岩の起源も、よくわかっていません。
足摺岬の道は、風化した花崗岩がつくるのっぺりとした地形の道でした。岬へ向かう道は尾根にあるのに、どことなく山奥の尾根道のように感じました。これは、花崗岩は、日本では列島の古い岩石のある脊梁山脈地帯によくみられる岩石だからでしょうか。花崗岩が風化すると、のっぺりとして、ところどこの丸みのある花崗岩が残されたような地形となります。足摺岬では、唐人駄馬巨石群と呼ばれるところがあります。そこは、風化で残された花崗岩がつくる景観です。そんな地形が岬に向かう尾根で見れるのです。
そんなことをつらつらと考えながら、観光はせずに急いで帰途に着きました。
・ラパキビ花崗岩・
ラパキビ花崗岩は、スカンジナビア半島、ロシア、北アメリカなどの
大陸地域に広く分布する岩石です。
赤っぽい石材として日本各地で見ることができます。
ラパキビ花崗岩は、13~17億年前という非常に古い時代に形成されたものです。
足摺岬花崗岩類のように1400万年前ほどの若いものは非常に珍しいものです。
足摺岬の岩石だけでなく、
西日本の火山フロントより海側の火成岩類は
まとめてその成因が解明されつつあります。
ですから、本家のラパキビ花崗岩の起源も
日本で明らかにされるかもしれません。
ちなみにラパキビとは、フィンランド語です。
ラパは「もろくて崩れやすい」、キビは「石」という意味です。
地質学のラパキビ花崗岩の特徴より、
花崗岩そのものの性質をあわしている言葉です。
・ジレンマ・
足摺岬は、室戸岬と共に、台風情報を聞くときによく耳にする地名です。
観光地でもあるのですが、観光目的でない人間にとっては、
なかなか足を伸ばしにくいところです。
遠方からの訪問者にとっては、ついつい急ぎ足にみてしまうものです。
私は急ぎ足の旅行は苦手です。
年のせいか、疲れやすくなったもの理由の一つです。
興味あるところとだと、もう一度行きたくなります。
ですから、2度手間となることがよくあるからです。
できるだけじっくりとと思っているのですが、
なかなかそうもできなくなりました。
金銭的問題より、時間的問題です。
若いときは、体力も時間もあったのですが、お金がなくて、困っていました。
今では体力と時間がありません。
ですから、体力のいるところは、できるだけ早めに見ておきたいものです。
でも、それをする時間がままならないのです。
ジレンマですね。
2006-08-15
20 アポイ岳:マントル散策 2006.08.15
Time:
9:16
●
Geologist
日高山脈の南西のはずれに、アポイ岳はあります。1000mに満たない山なのですが、植生や眺望からは高山です。そんなアポイ岳から眺めた景観を紹介しましょう。
アポイ岳は、北海道の脊梁である日高山脈の南に位置して、脊梁から少し西に外れたところあります。2006年8月3日にアポイ岳に登りました。でも、頂上へは行きませんでした。一番眺めのいい馬の背という7合目まで登りました。
アポイ岳へは、30年前に登ったきりで、今回が2回目となります。周辺の沢筋にも、何度も来ているのですが、アポイ岳へは登っていませんでした。今回は、このアポイ岳への道で少々変わった地質と、その地質を象徴する自然を見ることが目的でした。
山頂は眺めが良くなく、馬の背から頂上へと続く尾根が景色がよく見えます。ですから馬の背付近で、じっくりと景色を見ることができればと思っていました。アポイ岳周辺は、国の特別天然記念物の指定を受けているので、登山道からはずれることはできません。登山道からの観察でした。
当日、頂上には常にガスがかかった状態で、最後まで頂上をくっきりと見ることができませんでした。しかし、頂上以外は、ガスもかかることなく、景色も少々かすみはありましたが、遠くまで眺めることができました。午前中はうす曇の状態で、暑くなく登ることできました。昼過ぎの下山途中に太陽が出てきましたが、そのとたんに暑くなり、これも低山の証拠です。私は、涼しい状態で登れたのは幸運でした。
さて、前置きはこれくらいにして、アポイ岳の地質を紹介しましょう。
日高山脈は、南は太平洋に突き出した襟裳岬からはじまり、北の狩勝峠まで、幅50kmで、南北に150kmほどの長さで伸びています。アポイ岳周辺は日高山脈襟裳国定公園に入っています。北部には2052mの幌尻岳やピパイロ岳(1917m)、戸蔦別岳(1959m)など2000m級の山があり、その周囲にはカールなどの氷河地形があります。
日高山脈の地形は、全体として概観すると、東側で急傾斜で、西に緩い傾斜となっています。
日高山脈の東側は断層による急な崖になっています。十勝側からみると、日高山脈は、平野に立ち上がって連なる急峻な山並みとして見えます。カールなどの氷河地形は主稜線の東側にはあります。日高山脈の東では、急峻な地形の山地を削りながら流れた川は、平野にでると大きな扇状地を形成します。それが十勝平野で、集まった川が十勝川です。
一方西側では、河川は広い平野を持つことなく、海に流れ込んでいます。そして、山並みを眺めると、何段かの階段状の断層による山並みを形成しながら海に達します。東側と比べると西側は比較的傾斜が緩やかになっています。
さて日高山脈の稜線を北から南に追いかけていくと、南端部分で稜線が乱れます。様似の幌満川あたりで西に広がったような地形になります。これは、幌満川周辺の地質が変わっているためです。アポイ岳の南側には幌満川があり、アポイ岳も幌満川流域の地質と同じです。
アポイ岳周辺はカンラン岩という岩石からできています。カンラン岩とは、地球ではありふれた岩石ですが、地表では稀な岩石です。地球深部のマントルという非常に広大な部分を、このカンラン岩が占めています。ですから地球規模でみると、カンラン岩はありふれた岩石となります。ところが、地表付近の地殻は、マントルとは違う岩石からできています。地殻をつくる岩石は、花崗岩や玄武岩、堆積岩、そしてそれらの変成岩など多様な岩石からできています。その中にはカンラン岩はほとんど含まれていません。ですから、稀な岩石となります。
稀であってもカンラン岩が地表に出ているところは、アポイ岳周辺でなくてもあります。もちろん日本にもあります。しかし、地表に出ているカンラン岩のほとんどは、蛇紋岩という岩石に変わってしまっています。マントルにあったときのままのカンラン岩が、地表付近で見ることができるのは、非常に珍しいものとなります。アポイ岳周辺では、カンラン岩が蛇紋岩にほとんどなることなく、マントルのあったときのまま、広く分布しています。ですから、世界的にも非常に有名なカンラン岩の産地となっています。アポイ岳周辺のカンラン岩は、「幌満カンラン岩体」と呼ばれて、世界的に有名なものとなっています。
カンラン岩は、カンラン石という鉱物が主要構成鉱物となっています。カンラン岩には、ほとんどカンラン石からできている岩石もあります。カンラン石はオリーブ色の淡い透明感のあるきれいな鉱物です。カンラン岩には、その他にも、単斜輝石や斜方輝石、スピネルなどの鉱物が、さまざまな割合で含まれています。マントルを構成する鉱物はいずれも密度が大きく、カンラン岩は重みを感じる岩石となります。
カンラン石は、風化すると黄色から茶色っぽい色になります。カンラン石以外の鉱物は比較的風化に強く、山の崖でカンラン岩が風化を受けると、岩石の中で鉱物のつくる模様が、そのまま風化の模様として現れます。幌満のカンラン岩では、鉱物が縞状なった層構造をもっています。このような縞状構造は、マントルの岩石の構造が、そのまま残されていることになります。
アポイ岳の登山道沿いでもカンラン岩の層構造をみることができます。マントルの構造が風化面としてよく観察することができます。これは、マントルの中の構造を見ていることになります。アポイ岳は、地表にいながらにして、マントルの中を散策しながら観察できる貴重な場所なのです。
ではなぜ、このような地下深部の岩石が地表に上がってきたのでしょうか。
現在の日高山脈の西側には、もともと広い海があったと考えれています。海の両側には陸地があり、東側には大量の堆積物を供給した陸地があり、オホーツク古陸と呼ばれています。一方、西側の古陸から供給された堆積物があることもわかっています。両古陸の間にあった海は、海洋地殻を持ったれっきとした海でした。
ところがその海は、沈み込みによってすべて消えてしまいました。その沈み込み帯が、日高山脈と平行に南北に伸びる神居古潭帯とよばれる地域です。神居古潭帯は、白亜紀頃に形成されました。一方日高山脈は、神居古潭帯の沈み込みより新しい時代(新生代)にできたもので、海洋地殻が列島の地殻にくっついて、両方ともめくれ上がって形成されたと考えられます。
中でも幌満カンラン岩体は、列島の地下にあったマントルがめくれ上がったものであると考えられています。この幌満周辺では、列島の地下の岩石が広く分布していることになります。アポイ岳周辺は、列島の地下深部の岩石がめくれ上がっているところを、地表にいながらにして見ることができるわけです。
アポイ岳に登る前日、幌満川で川原の岩石を少し見ました。きれいな構造を持った岩石がたくさんありました。上流にいけば、水もきれいです。そしてなによりも、日高山脈をつくっている列島の深部の岩石を、眺めることができるのです。川原の石ころも、風化を受けますが、川で常に風化面を削り取られていますから、風化を受けていない新鮮な状態で岩石を見ることができます。
アポイ岳ではマントルの中を歩き、幌満川では列島の地殻やマントルの標本を眺めることができました。これはもしかしたら、どんな博物館よりすごいものを見ているのではないでしょうか。そんな気がしました。
・マントル・
幌満川の下流沿いにはカンラン岩を
砕石として切り出しているところがあります。
数年前にいったときの砕石場所は、もう閉鎖され、緑化がされていました。
今では、さらに上流側が砕石がされていました。
その砕石所はカンラン岩を採掘しています。
実は、我が家の近くにある石垣がカンラン岩でできます。
50cmから1mほどもある大きな石がたくさん使われています。
これほどの風化をうけていないカンラン岩は幌満のものです。
ですから重い多数のカンラン岩を
幌満からわざわざ運んできたものでしょう。
流通等はすごいものです。
すぐ近くにマントルのかけらがあったのです。
その砕石所では、カンラン岩の加工もしており、
文鎮や花瓶などにして商品化しています。
私も文鎮をひとつ購入しました。
実は、マントルのかけらは今では、私の机にのっているのです。
・マムシ・
登山前日、ビジターセンターにいって登山道の様子を聞きました。
すると熊が出没しているという情報と、マムシの情報を聞きました。
ヒグマは北海道のどこにでもいるのですが、マムシには驚きました。
北海道では道南にしかいないと思っていたからです。
調べてみると北海道に広くいるようです。
アポイ岳周辺にもマムシがいたのです。
ビジターセンターの人が脱皮の皮を確認しているので確実です。
その場所を詳しく聞いて、注意していました。
アポイ岳は、北海道の脊梁である日高山脈の南に位置して、脊梁から少し西に外れたところあります。2006年8月3日にアポイ岳に登りました。でも、頂上へは行きませんでした。一番眺めのいい馬の背という7合目まで登りました。
アポイ岳へは、30年前に登ったきりで、今回が2回目となります。周辺の沢筋にも、何度も来ているのですが、アポイ岳へは登っていませんでした。今回は、このアポイ岳への道で少々変わった地質と、その地質を象徴する自然を見ることが目的でした。
山頂は眺めが良くなく、馬の背から頂上へと続く尾根が景色がよく見えます。ですから馬の背付近で、じっくりと景色を見ることができればと思っていました。アポイ岳周辺は、国の特別天然記念物の指定を受けているので、登山道からはずれることはできません。登山道からの観察でした。
当日、頂上には常にガスがかかった状態で、最後まで頂上をくっきりと見ることができませんでした。しかし、頂上以外は、ガスもかかることなく、景色も少々かすみはありましたが、遠くまで眺めることができました。午前中はうす曇の状態で、暑くなく登ることできました。昼過ぎの下山途中に太陽が出てきましたが、そのとたんに暑くなり、これも低山の証拠です。私は、涼しい状態で登れたのは幸運でした。
さて、前置きはこれくらいにして、アポイ岳の地質を紹介しましょう。
日高山脈は、南は太平洋に突き出した襟裳岬からはじまり、北の狩勝峠まで、幅50kmで、南北に150kmほどの長さで伸びています。アポイ岳周辺は日高山脈襟裳国定公園に入っています。北部には2052mの幌尻岳やピパイロ岳(1917m)、戸蔦別岳(1959m)など2000m級の山があり、その周囲にはカールなどの氷河地形があります。
日高山脈の地形は、全体として概観すると、東側で急傾斜で、西に緩い傾斜となっています。
日高山脈の東側は断層による急な崖になっています。十勝側からみると、日高山脈は、平野に立ち上がって連なる急峻な山並みとして見えます。カールなどの氷河地形は主稜線の東側にはあります。日高山脈の東では、急峻な地形の山地を削りながら流れた川は、平野にでると大きな扇状地を形成します。それが十勝平野で、集まった川が十勝川です。
一方西側では、河川は広い平野を持つことなく、海に流れ込んでいます。そして、山並みを眺めると、何段かの階段状の断層による山並みを形成しながら海に達します。東側と比べると西側は比較的傾斜が緩やかになっています。
さて日高山脈の稜線を北から南に追いかけていくと、南端部分で稜線が乱れます。様似の幌満川あたりで西に広がったような地形になります。これは、幌満川周辺の地質が変わっているためです。アポイ岳の南側には幌満川があり、アポイ岳も幌満川流域の地質と同じです。
アポイ岳周辺はカンラン岩という岩石からできています。カンラン岩とは、地球ではありふれた岩石ですが、地表では稀な岩石です。地球深部のマントルという非常に広大な部分を、このカンラン岩が占めています。ですから地球規模でみると、カンラン岩はありふれた岩石となります。ところが、地表付近の地殻は、マントルとは違う岩石からできています。地殻をつくる岩石は、花崗岩や玄武岩、堆積岩、そしてそれらの変成岩など多様な岩石からできています。その中にはカンラン岩はほとんど含まれていません。ですから、稀な岩石となります。
稀であってもカンラン岩が地表に出ているところは、アポイ岳周辺でなくてもあります。もちろん日本にもあります。しかし、地表に出ているカンラン岩のほとんどは、蛇紋岩という岩石に変わってしまっています。マントルにあったときのままのカンラン岩が、地表付近で見ることができるのは、非常に珍しいものとなります。アポイ岳周辺では、カンラン岩が蛇紋岩にほとんどなることなく、マントルのあったときのまま、広く分布しています。ですから、世界的にも非常に有名なカンラン岩の産地となっています。アポイ岳周辺のカンラン岩は、「幌満カンラン岩体」と呼ばれて、世界的に有名なものとなっています。
カンラン岩は、カンラン石という鉱物が主要構成鉱物となっています。カンラン岩には、ほとんどカンラン石からできている岩石もあります。カンラン石はオリーブ色の淡い透明感のあるきれいな鉱物です。カンラン岩には、その他にも、単斜輝石や斜方輝石、スピネルなどの鉱物が、さまざまな割合で含まれています。マントルを構成する鉱物はいずれも密度が大きく、カンラン岩は重みを感じる岩石となります。
カンラン石は、風化すると黄色から茶色っぽい色になります。カンラン石以外の鉱物は比較的風化に強く、山の崖でカンラン岩が風化を受けると、岩石の中で鉱物のつくる模様が、そのまま風化の模様として現れます。幌満のカンラン岩では、鉱物が縞状なった層構造をもっています。このような縞状構造は、マントルの岩石の構造が、そのまま残されていることになります。
アポイ岳の登山道沿いでもカンラン岩の層構造をみることができます。マントルの構造が風化面としてよく観察することができます。これは、マントルの中の構造を見ていることになります。アポイ岳は、地表にいながらにして、マントルの中を散策しながら観察できる貴重な場所なのです。
ではなぜ、このような地下深部の岩石が地表に上がってきたのでしょうか。
現在の日高山脈の西側には、もともと広い海があったと考えれています。海の両側には陸地があり、東側には大量の堆積物を供給した陸地があり、オホーツク古陸と呼ばれています。一方、西側の古陸から供給された堆積物があることもわかっています。両古陸の間にあった海は、海洋地殻を持ったれっきとした海でした。
ところがその海は、沈み込みによってすべて消えてしまいました。その沈み込み帯が、日高山脈と平行に南北に伸びる神居古潭帯とよばれる地域です。神居古潭帯は、白亜紀頃に形成されました。一方日高山脈は、神居古潭帯の沈み込みより新しい時代(新生代)にできたもので、海洋地殻が列島の地殻にくっついて、両方ともめくれ上がって形成されたと考えられます。
中でも幌満カンラン岩体は、列島の地下にあったマントルがめくれ上がったものであると考えられています。この幌満周辺では、列島の地下の岩石が広く分布していることになります。アポイ岳周辺は、列島の地下深部の岩石がめくれ上がっているところを、地表にいながらにして見ることができるわけです。
アポイ岳に登る前日、幌満川で川原の岩石を少し見ました。きれいな構造を持った岩石がたくさんありました。上流にいけば、水もきれいです。そしてなによりも、日高山脈をつくっている列島の深部の岩石を、眺めることができるのです。川原の石ころも、風化を受けますが、川で常に風化面を削り取られていますから、風化を受けていない新鮮な状態で岩石を見ることができます。
アポイ岳ではマントルの中を歩き、幌満川では列島の地殻やマントルの標本を眺めることができました。これはもしかしたら、どんな博物館よりすごいものを見ているのではないでしょうか。そんな気がしました。
・マントル・
幌満川の下流沿いにはカンラン岩を
砕石として切り出しているところがあります。
数年前にいったときの砕石場所は、もう閉鎖され、緑化がされていました。
今では、さらに上流側が砕石がされていました。
その砕石所はカンラン岩を採掘しています。
実は、我が家の近くにある石垣がカンラン岩でできます。
50cmから1mほどもある大きな石がたくさん使われています。
これほどの風化をうけていないカンラン岩は幌満のものです。
ですから重い多数のカンラン岩を
幌満からわざわざ運んできたものでしょう。
流通等はすごいものです。
すぐ近くにマントルのかけらがあったのです。
その砕石所では、カンラン岩の加工もしており、
文鎮や花瓶などにして商品化しています。
私も文鎮をひとつ購入しました。
実は、マントルのかけらは今では、私の机にのっているのです。
・マムシ・
登山前日、ビジターセンターにいって登山道の様子を聞きました。
すると熊が出没しているという情報と、マムシの情報を聞きました。
ヒグマは北海道のどこにでもいるのですが、マムシには驚きました。
北海道では道南にしかいないと思っていたからです。
調べてみると北海道に広くいるようです。
アポイ岳周辺にもマムシがいたのです。
ビジターセンターの人が脱皮の皮を確認しているので確実です。
その場所を詳しく聞いて、注意していました。
2006-07-15
19 桜島:益と害 2006.07.15
Time:
9:16
●
Geologist
火山は、日本人にとっては欠くことのできない存在で、長く付き合ってきました。火山は日本の風土として重要な要素ともなっています。そんな火山との付き合いを、桜島から考えてみました。
鹿児島県の錦江湾(鹿児島湾ともいいます)にある桜島は、典型的な日本の活火山のひとつです。現在も噴気を上げていて、何度も噴火を繰り返しています。時には、激しい噴火も起こっています。私は、桜島の噴気を4回ほど見ました。桜島からは2度、鹿児島市内から錦江湾ごしに2度、眺めています。そんな都会から間近に眺める桜島は、火山と人の生活の関係を考えさせられます。
桜島という名前をもっているのに、島でなく大隈半島側の垂水市で陸続きとなっています。ですから、「島」という名称がついていることに、奇異な感じを持ちます。もともと桜島は名前の通り、錦江湾に浮かぶ島だったのです。ところが1914(大正3)年の噴火によって、流れ出た溶岩によって間にあった海峡が埋められたため、陸続きとなりました。
桜島は、単独の火山のように見えますが、姶良(あいら)カルデラ(南北17km、東西23km)の南端にできた成層火山です。カルデラは錦江湾の北半分の丸みをもった部分です。そのカルデラは巨大な火山の活動によってできたものです。その一連の火山活動の一部として、桜島の火山があります。カルデラの北側に鹿児島の市街地があるのです。
桜島は、直径10kmほどで東西に延びた楕円形(南北12.2km、東西9.5km)をしています。最高峰は北岳(1117m)、次いで中岳(1060m)があります。いずれも火山活動によってできた山です。その他にも権現山、鍋山、引ノ平などの側火山があり、山腹や海底での火山活動も起こっています。
現在、噴煙を出しているのは南岳(1040m)で、北岳の山腹にあります。桜島の火山活動は、3つの時期があります。北岳が2万2000年前から2000年ほど活動して最初の成層火山(古期北岳)となりました。その後しばらく活動はなく、1万1000年前から4500年前までの長い期間にわたって、北岳で活動(新期北岳)が起こりました。そして4000年前ころから南岳の活動がおこり、現在に至っています。桜島の活動によって多くの火山灰が東側の大隈半島につもっています。
南岳の活動時期となってから、噴火の記録が人の手によって残されていくようになります。最古の記録は708(和銅元)年ですが、764(天平宝字8)年、1471(文明3)年、1779(安永8)年、1914(大正3)年、1946(昭和21)年に大規模な噴火が起こっています。現在の火山活動は、1955(昭和30)年10月からはじまった噴火が現在も継続しています。1999年や2000年などに噴火を起こし、噴出物や爆発時の空振、土石流などにより被害を出しています。現在でも、南岳山頂火口から2km以内は立ち入り禁止となっています。
桜島は、60万人を越す人口が密集する鹿児島市の南、ほんの10kmほどのところにある非常に活発な活火山です。風向きによっては、火山灰が市内に降ることもあります。2004年には、11回の噴火により、市役所での1平方メートル当たり124gの降灰がありました。
そんな市街地に近接しているため、桜島は、常時厳重な監視体制がとられています。多数の地震計(5地点)や震度計(1地点)、空振系(4地点)、GPS(3地点)傾斜計(1地点)、望遠カメラ(2地点)による観測がなされています。
私が見たときも桜島は噴気を出していました。噴気の規模は時々によって様々ですが、火山活動を目の当たりにすることができます。その噴気を眺めていると、時々刻々変化していることがわかります。そんな火山噴火をみていると、日本人と火山との共存についつい思い至ります。
南九州、とくに鹿児島はシラスと呼ばれる白っぽい火山灰や細粒の軽石などで覆われています。その火山灰は、姶良カルデラの大噴火によるとされています。火山灰の起源は、桜島より前の2万5000年前に発生した姶良カルデラの入戸火砕流によるものだと考えられています。その量は約200立方kmに達し、日本全国にも飛んでいます。このような火山灰は広域テフラと呼ばれ(姶良Tn)、約150立方kmと見積もられています。鹿児島周辺ではシラスの厚さは数十mにも達しています。
シラスは軽くてもろく、水に流れやいため、侵食をうけ、シラス台地という特有の地形をつくっています。シラス台地では、水が浸透しやすく、栄養分も乏しく、稲作にはてきしていません。しかし、シラスのようなところでもよく育つサツマイモや桜島大根などが主要な農産物となっり、全国にその名を知られる名産品となりました。
人間は、智恵を使って、火山と共存してきたことが、鹿児島をみていると感じます。害と思われるようなことでも、智恵で益となしたのです。
日本列島とは、古い大地の上に、火山活動が起こるような地質学的位置に常におかれていました。日本列島は火山活動によって常に変化を受けているところといえます。人類が登場してからも、火山活動は続いています。日本人は古くから火山とは付き合ってきたのです。そして日本に住む限り、未来も火山と付き合っていかねばなりません。
今も昔も、火山は自然災害として、恐怖の存在です。でも、火山は人にとって悪いことばかりではなく、風光明媚な景観や温泉など、現在では重要な観光資源も与えてくれます。また特有の土壌を生かした農業製品をも生み出し、名産品としています。ですから火山は、人にとって益と害の両面を持っているのです。
活火山とはいえ、被害を与えるような噴火はめったにあることではなく、静穏な状態が長く続きます。激しい火山活動の時間と平穏な時期とを比べると、明らかに平穏が時間の方が長くなります。ですから、観光資源として考えると、一時的な訪問をする人にとっては、火山とは危険性はほとんどなく、恵みだけを与えてくる存在といえます。
ところが住んでいる人には、数10年に一度の噴火でも、脅威の存在となります。もし、噴火による火山放出物や降灰によって、家財や田畑を奪われるかもしれません。時には命の危険すらあるわけです。
ですから、噴火に備えて防災というものを常に意識することになります。かつて科学が発達していないときは、いつ起こるとも知れない火山噴火に対処しようがありませんでした。あきらめるしかない自然災害となったのです。火山災害とは、自然災害の中でもっとも諦観がともなうものかもしれもしれません。
現在では、噴火予知の水準はよくなりました。また予知が不完全でも、防災対策は以前と比べものにならないほどよくなりました。近年では、予知と防災によって、命や財産のすべてを失うようなことは、あまりなくなりました。最悪の事態は免れるようになったのです。
観光資源として火山を考えると、同じ火山列島に住む日本人は、火山の恐ろしさを熟知しています。ですから、いったん噴火が起こったり、噴火の危険性があるときは、観光客が寄り付かなくなります。しかし、日本人は温泉好きです。火山活動が治まると、火山の恵みである温泉を味わいに戻ってきます。火山の恐ろしさを知っているからこそ、平穏な時期の恵みを味わおうとしているのかもしれません。
・監視カメラ・
気象庁では、活火山を観測網の一つとして、監視カメラを設置しています。
その画像は、インターネットで公開されています。
桜島の画像も公開されています。
URLは次のところです。
http://www.seisvol.kishou.go.jp/vo/32.php?kansokuten=SKRTARvvi&mode=0&cmd=write(改行で切れているところをつないで入力してください)
この画像は、気象庁ではなく、
国土交通省九州地方整備局大隅河川国道事務所による監視カメラ画像です。
このような情報公開によって、
火山活動を自宅から、眺めることができるわけです。
もちろん、インターネットですから、
日本だけでなく世界上からこの画像を見ることは可能です。
世界の火山のライブ映像も見ることができます。
なにも火山だけでなく、
日本も含め、名所や都会にはインターネットで公開されている
ライブ映像が多数あります。
ですから、ライブ映像だけで世界の名所旧跡を巡ることも可能なのです。
そんな時代になったのですね。
でも、温泉は行かなくては味わいません。
これだけは、今も昔も変わらないことでしょう。
・シラス・
シラスとは、南九州の方言で白い砂を意味しています。
姶良カルデラの火山活動は、二酸化ケイ素分が多く(酸性マグマとよばれる)、白っぽく見えるます。
これが、シラスの白い理由です。
シラスのような火山灰は、日本中に似たようなものがありますが、
鹿児島のような大規模なものは少ないです。
それほど鹿児島は、火山と密着していることになります。
シラスでつくられたサツマイモを食べさせて豚は
特有の風味を持つ黒豚として全国的に有名になりました。
実は鹿児島は、肉牛の生産も日本一だそうです。
鹿児島県の錦江湾(鹿児島湾ともいいます)にある桜島は、典型的な日本の活火山のひとつです。現在も噴気を上げていて、何度も噴火を繰り返しています。時には、激しい噴火も起こっています。私は、桜島の噴気を4回ほど見ました。桜島からは2度、鹿児島市内から錦江湾ごしに2度、眺めています。そんな都会から間近に眺める桜島は、火山と人の生活の関係を考えさせられます。
桜島という名前をもっているのに、島でなく大隈半島側の垂水市で陸続きとなっています。ですから、「島」という名称がついていることに、奇異な感じを持ちます。もともと桜島は名前の通り、錦江湾に浮かぶ島だったのです。ところが1914(大正3)年の噴火によって、流れ出た溶岩によって間にあった海峡が埋められたため、陸続きとなりました。
桜島は、単独の火山のように見えますが、姶良(あいら)カルデラ(南北17km、東西23km)の南端にできた成層火山です。カルデラは錦江湾の北半分の丸みをもった部分です。そのカルデラは巨大な火山の活動によってできたものです。その一連の火山活動の一部として、桜島の火山があります。カルデラの北側に鹿児島の市街地があるのです。
桜島は、直径10kmほどで東西に延びた楕円形(南北12.2km、東西9.5km)をしています。最高峰は北岳(1117m)、次いで中岳(1060m)があります。いずれも火山活動によってできた山です。その他にも権現山、鍋山、引ノ平などの側火山があり、山腹や海底での火山活動も起こっています。
現在、噴煙を出しているのは南岳(1040m)で、北岳の山腹にあります。桜島の火山活動は、3つの時期があります。北岳が2万2000年前から2000年ほど活動して最初の成層火山(古期北岳)となりました。その後しばらく活動はなく、1万1000年前から4500年前までの長い期間にわたって、北岳で活動(新期北岳)が起こりました。そして4000年前ころから南岳の活動がおこり、現在に至っています。桜島の活動によって多くの火山灰が東側の大隈半島につもっています。
南岳の活動時期となってから、噴火の記録が人の手によって残されていくようになります。最古の記録は708(和銅元)年ですが、764(天平宝字8)年、1471(文明3)年、1779(安永8)年、1914(大正3)年、1946(昭和21)年に大規模な噴火が起こっています。現在の火山活動は、1955(昭和30)年10月からはじまった噴火が現在も継続しています。1999年や2000年などに噴火を起こし、噴出物や爆発時の空振、土石流などにより被害を出しています。現在でも、南岳山頂火口から2km以内は立ち入り禁止となっています。
桜島は、60万人を越す人口が密集する鹿児島市の南、ほんの10kmほどのところにある非常に活発な活火山です。風向きによっては、火山灰が市内に降ることもあります。2004年には、11回の噴火により、市役所での1平方メートル当たり124gの降灰がありました。
そんな市街地に近接しているため、桜島は、常時厳重な監視体制がとられています。多数の地震計(5地点)や震度計(1地点)、空振系(4地点)、GPS(3地点)傾斜計(1地点)、望遠カメラ(2地点)による観測がなされています。
私が見たときも桜島は噴気を出していました。噴気の規模は時々によって様々ですが、火山活動を目の当たりにすることができます。その噴気を眺めていると、時々刻々変化していることがわかります。そんな火山噴火をみていると、日本人と火山との共存についつい思い至ります。
南九州、とくに鹿児島はシラスと呼ばれる白っぽい火山灰や細粒の軽石などで覆われています。その火山灰は、姶良カルデラの大噴火によるとされています。火山灰の起源は、桜島より前の2万5000年前に発生した姶良カルデラの入戸火砕流によるものだと考えられています。その量は約200立方kmに達し、日本全国にも飛んでいます。このような火山灰は広域テフラと呼ばれ(姶良Tn)、約150立方kmと見積もられています。鹿児島周辺ではシラスの厚さは数十mにも達しています。
シラスは軽くてもろく、水に流れやいため、侵食をうけ、シラス台地という特有の地形をつくっています。シラス台地では、水が浸透しやすく、栄養分も乏しく、稲作にはてきしていません。しかし、シラスのようなところでもよく育つサツマイモや桜島大根などが主要な農産物となっり、全国にその名を知られる名産品となりました。
人間は、智恵を使って、火山と共存してきたことが、鹿児島をみていると感じます。害と思われるようなことでも、智恵で益となしたのです。
日本列島とは、古い大地の上に、火山活動が起こるような地質学的位置に常におかれていました。日本列島は火山活動によって常に変化を受けているところといえます。人類が登場してからも、火山活動は続いています。日本人は古くから火山とは付き合ってきたのです。そして日本に住む限り、未来も火山と付き合っていかねばなりません。
今も昔も、火山は自然災害として、恐怖の存在です。でも、火山は人にとって悪いことばかりではなく、風光明媚な景観や温泉など、現在では重要な観光資源も与えてくれます。また特有の土壌を生かした農業製品をも生み出し、名産品としています。ですから火山は、人にとって益と害の両面を持っているのです。
活火山とはいえ、被害を与えるような噴火はめったにあることではなく、静穏な状態が長く続きます。激しい火山活動の時間と平穏な時期とを比べると、明らかに平穏が時間の方が長くなります。ですから、観光資源として考えると、一時的な訪問をする人にとっては、火山とは危険性はほとんどなく、恵みだけを与えてくる存在といえます。
ところが住んでいる人には、数10年に一度の噴火でも、脅威の存在となります。もし、噴火による火山放出物や降灰によって、家財や田畑を奪われるかもしれません。時には命の危険すらあるわけです。
ですから、噴火に備えて防災というものを常に意識することになります。かつて科学が発達していないときは、いつ起こるとも知れない火山噴火に対処しようがありませんでした。あきらめるしかない自然災害となったのです。火山災害とは、自然災害の中でもっとも諦観がともなうものかもしれもしれません。
現在では、噴火予知の水準はよくなりました。また予知が不完全でも、防災対策は以前と比べものにならないほどよくなりました。近年では、予知と防災によって、命や財産のすべてを失うようなことは、あまりなくなりました。最悪の事態は免れるようになったのです。
観光資源として火山を考えると、同じ火山列島に住む日本人は、火山の恐ろしさを熟知しています。ですから、いったん噴火が起こったり、噴火の危険性があるときは、観光客が寄り付かなくなります。しかし、日本人は温泉好きです。火山活動が治まると、火山の恵みである温泉を味わいに戻ってきます。火山の恐ろしさを知っているからこそ、平穏な時期の恵みを味わおうとしているのかもしれません。
・監視カメラ・
気象庁では、活火山を観測網の一つとして、監視カメラを設置しています。
その画像は、インターネットで公開されています。
桜島の画像も公開されています。
URLは次のところです。
http://www.seisvol.kishou.go.jp/vo/32.php?kansokuten=SKRTARvvi&mode=0&cmd=write(改行で切れているところをつないで入力してください)
この画像は、気象庁ではなく、
国土交通省九州地方整備局大隅河川国道事務所による監視カメラ画像です。
このような情報公開によって、
火山活動を自宅から、眺めることができるわけです。
もちろん、インターネットですから、
日本だけでなく世界上からこの画像を見ることは可能です。
世界の火山のライブ映像も見ることができます。
なにも火山だけでなく、
日本も含め、名所や都会にはインターネットで公開されている
ライブ映像が多数あります。
ですから、ライブ映像だけで世界の名所旧跡を巡ることも可能なのです。
そんな時代になったのですね。
でも、温泉は行かなくては味わいません。
これだけは、今も昔も変わらないことでしょう。
・シラス・
シラスとは、南九州の方言で白い砂を意味しています。
姶良カルデラの火山活動は、二酸化ケイ素分が多く(酸性マグマとよばれる)、白っぽく見えるます。
これが、シラスの白い理由です。
シラスのような火山灰は、日本中に似たようなものがありますが、
鹿児島のような大規模なものは少ないです。
それほど鹿児島は、火山と密着していることになります。
シラスでつくられたサツマイモを食べさせて豚は
特有の風味を持つ黒豚として全国的に有名になりました。
実は鹿児島は、肉牛の生産も日本一だそうです。
2006-06-15
18 野付半島:景観に流れる時間 2006.06.15
Time:
9:15
●
Geologist
北海道の道東にある野付半島と野付湾は、2005年11月8日第9回ラムサール条約締約国会議において、水鳥の生息地として国際的に重要な湿地として登録されました。そんな野付半島を見てきました。
今年のゴールデンウィークに北海道の東部(道東)を訪れました。観光では以前1度いったことがあるのですが、調査では初めてとなります。北海道でも札幌近郊に住んでいると、道東へは移動距離が長く、なかなか訪れにくいところです。しかし、北海道の海岸線の調査を完成するためには、道東は避けることができません。今回、満を持して出かけることにしました。
今年のゴールデンウィークは5日間の連休でしたので、行くまでに1日、帰るのに1日かかるので、正味3日間が調査の予定でした。野付半島は、2日目の午後に訪れました。
以前野付半島を訪れたのは、北海道に住む前のことです。風が強い秋の平日で、外を少し見たら寒くて土産物屋に逃げ込んだ記憶があります。観光客もまったくみかけられず、土産物屋では私たち家族だけがストーブにあたっていたという記憶があります。
今回は、ラムサール条約の締結後、最初のゴールデンウィークということもあって、多くの観光客が訪れていました。また、ネイチャーセンターも2002年5月にできていて、周辺の案内もされていました。
私が今回訪れた目的は、砂嘴(さし)というものを、もう一度、見て、歩いて、感じるためでした。砂嘴とは自然が砂で作り上げたものです。砂の楼閣のように、砂嘴も時の流れでたやすく変化してきます。そんな変化を考えてみたかったのです。
砂嘴の「嘴」とは難しい字ですが、「くちばし」という意味の漢字です。鳥のくちばしのような形をしていることから、砂嘴という名称がつけられています。
砂嘴は、大きなものとしては、アメリカのフロリダ半島の先端にあるキーウェストが有名ですが、日本では天橋立が有名です。いずれも行ったことがあるのですが、地域ごとにその風情は違ってきます。その風情の違いは、そこに流れている大地の営みのスピードによるもののような気がします。そして、その営みがスピードからかもし出される時間の流れが違うように感じます。その違いは、地形や植生として垣間見ることができると思っています。
日本最大の砂嘴は、今回訪れた北海道東部にある野付半島です。標津町と別海町にある野付半島は、全長約26kmもある砂の堆積によってできた地形です。
江戸時代の中頃までは、トドマツ・エゾマツ・ハンノキ・カシワなどの原生林がありました。現在の半島部は、砂浜の草原と湿地帯となっています。それは、半島の地盤沈下によって、砂嘴の中に海水が浸入し、原生林が枯れてしまったからです。
トドワラというところがあるのですが、もとはトドマツの原生林があったところで、ナラワラはミズナラ・ダケカンバ・ナナカマド・エゾイタヤなどの林があったところです。トドマツやミズナラの枯れ木林が、原生林の面影を残しています。
砂嘴は、海岸で内湾となったところに、沿岸を流れる海流が堆積物を運んできてできます。湾の先端に当たる海岸や岬に、海流の方向に沿って堆積物がたまることがあります。すると岬が砂浜として延びていきます。波の作用には浸食する作用もあります。ですから、堆積する速度が波の侵食の速度より大きければ、堆積物がたまり、砂嘴が成長してきます。これが砂嘴のでき方です。もちろん、周辺の川から海へ十分な堆積物を運んで来る必要があります。
野付半島では、内湾に当たるところが野付湾で、別名尾岱沼(おだいとう)とも呼ばれています。摩周湖から斜里岳をへて知床半島にまで連なる火山列に端を発する川が、根室海峡に多数流れ込みんでいます。これらの川が、砂嘴の砂の供給源となります。特に標津川が野付半島の北側付け根にあり、重要な供給源と考えられます。その砂は大部分が安山岩の起源ものです。
海流のオホーツク海から知床半島と国後島の間の根室海峡を通り抜けてきた海流によって、砂が運ばれて、砂嘴が発達しています。
海流のいたずらで、野付湾に向かって砂嘴が枝を出したようになっています。まるで、エビの尻尾のような形にいくつかの岬(尖岬と呼びます)ができています。9個の分岐があります。これは、内側のものが古い砂嘴で、外側に向かって新しい砂嘴ができることによって、このようま地形ができたと考えられています。
そして外海沿っている高い堤上の砂の列(砂堤列と呼びます)があります。現在の外海に面するものと、尖岬のものの2方向あります。このような砂嘴を複合鉤状砂嘴と呼びます。
野付半島付近では、北から北西の風がよく吹きます。この風が国後島に当たり、南西へ向かう海流を発生させます。この海流が、野付半島より北側の海岸を浸食していきます。しかし、野付半島付近では海流が曲がり流れがゆるくなります。そのため海岸線を削ってきた堆積物を堆積しはじめます。
砂嘴の堆積物を調べると、内側の尖岬は、3000年前の摩周起源の火山灰が見つかっています。ですから、この砂嘴の一部は、3000年前には形成されていたことがわかります。その後2500年前次の2つの尖岬が、1000年前にさらに3つの尖岬、最後に500年前に一番外側の尖岬が形成され、その成長は現在も続いていると考えられています。1970年代まで砂嘴の東部の海に面してる部分(竜神岬)が50mほど削られ、内側に巻き込まれた部分(ナカシベツ)が50mほど成長しています。現在も野付半島の砂嘴は、変化しているのです。
海流や砂の供給源に変化があれば、野付半島の砂嘴の姿は、これからも変わっていくでしょう。野付半島の砂嘴は、見れば見るほど、その形が不思議で、自然の妙を感じます。
砂嘴がエビの尻尾の形をしているといいましたが、野付湾では、6月から7月上旬、そして10月中旬から11月上旬にかけて、ホッカイシマエビ漁がおこなわれています。そのとき、白い三角帆の打瀬舟(うたせぶね)で漁をしますが、これがなかなか風情がある光景となっています。残念ながら、私が行ったときは、漁期ではなく、白い帆の打瀬舟を見ることはできませんでした。
この野付半島と人間とのかかわりは、かなり古く、擦文時代の堅穴式住居があることから、1000年ほど前から野付半島には、人が生活をしていたことがわかっています。江戸時代後期までは、北方領土や千島列島での交易や漁業の拠点として、集落がありました。現在もそれらの遺跡が残っています。
標津川の河口流域では、かつては幅5kmほどもある湿原ありました。標津湿原として知られていたのですが、現在では、灌漑による耕作地化によって、湿地が排水されました。野付半島の変化は、砂の重要な供給源である標津川の変化も反映することでしょう。
砂嘴が発達すると海流が当たる北側の海岸の砂は侵食を受けます。そしてその砂は砂嘴の先端の成長に使われることになります。野付半島の成長によって海流が影響を受けたのでしょうか、標津川の灌漑のためでしょうか、それとも経年変化のたためでしょうか、砂州からの砂の流出が起こり、砂嘴がなくなっていくのではないかと危惧する声もあります。
自然は変化をします。大地の変化は、一般には、ゆっくりと長い時間をかけて起こります。しかし、時には短い時間で起こることもあります。上で述べたように、砂嘴の変化も短時間で起こります。砂嘴の形成、消失には、海流が重要な働きをします。ですから、海流の変化が起これば、砂嘴の変化はかなり早く起こります。野付半島の砂嘴のように、古くから人間が住んでいるところでも、見慣れていると思っている風景も、実は時と共に変化しているのです。人間の営為なのか、自然の営為なのか分かりませんが、自然は時々刻々変化しています。そんな自然の変化を、野付半島では感じることができました。
・あごかエビか・
野付「のつけ」とは、アイヌ語で「あご」を意味するそうです。
半島の先端が陸地側に向って大きく湾曲しているのが
人のあごに似ているところから名付けられているようです。
しかし、私には、あまりあごには見えませんね。
アイヌの人が見ると、野付半島はアゴに見えたかもしれませんが、
私にはエビの尻尾にみえますが、これは、時間による変化によって、
今私が見ていると野付半島の形と、
アイヌの人たちが見てい名前を付けた時とは
実は違った形をしていたためかもしれませんね。
もしそうなら面白いことになりますね。
・四角い太陽・
野付湾は、冬特に2月頃に「四角い太陽」が見えることで有名です。
四角い太陽は、空気の温度差によってできる蜃気楼の一種です。
地表付近の大気の温度がマイナス20度以下になり、
上空に暖かい空気があることが条件となります。
2月の寒い頃の特別な気象状態になったときだけに見られるものです。
四角い太陽だけでなく、時には六角形や
ワイグラスのよう見えることもあるようです。
私がいったのは春ですから、そのような太陽は見えるはずもないのですが、
泊まった温泉旅館のご主人が写真を撮られているらしく、
館内に置かれたいるアルバムには、
不思議な太陽の写真がたくさん収められていました。
宿を立つときに好きな写真をどうぞと、
不思議な太陽の写真を頂きました。
写真で見ても、不思議なのですから、
現実に見るともっと心打たれるものなのでしょうね。
でも、寒いのが難ですね。
今年のゴールデンウィークに北海道の東部(道東)を訪れました。観光では以前1度いったことがあるのですが、調査では初めてとなります。北海道でも札幌近郊に住んでいると、道東へは移動距離が長く、なかなか訪れにくいところです。しかし、北海道の海岸線の調査を完成するためには、道東は避けることができません。今回、満を持して出かけることにしました。
今年のゴールデンウィークは5日間の連休でしたので、行くまでに1日、帰るのに1日かかるので、正味3日間が調査の予定でした。野付半島は、2日目の午後に訪れました。
以前野付半島を訪れたのは、北海道に住む前のことです。風が強い秋の平日で、外を少し見たら寒くて土産物屋に逃げ込んだ記憶があります。観光客もまったくみかけられず、土産物屋では私たち家族だけがストーブにあたっていたという記憶があります。
今回は、ラムサール条約の締結後、最初のゴールデンウィークということもあって、多くの観光客が訪れていました。また、ネイチャーセンターも2002年5月にできていて、周辺の案内もされていました。
私が今回訪れた目的は、砂嘴(さし)というものを、もう一度、見て、歩いて、感じるためでした。砂嘴とは自然が砂で作り上げたものです。砂の楼閣のように、砂嘴も時の流れでたやすく変化してきます。そんな変化を考えてみたかったのです。
砂嘴の「嘴」とは難しい字ですが、「くちばし」という意味の漢字です。鳥のくちばしのような形をしていることから、砂嘴という名称がつけられています。
砂嘴は、大きなものとしては、アメリカのフロリダ半島の先端にあるキーウェストが有名ですが、日本では天橋立が有名です。いずれも行ったことがあるのですが、地域ごとにその風情は違ってきます。その風情の違いは、そこに流れている大地の営みのスピードによるもののような気がします。そして、その営みがスピードからかもし出される時間の流れが違うように感じます。その違いは、地形や植生として垣間見ることができると思っています。
日本最大の砂嘴は、今回訪れた北海道東部にある野付半島です。標津町と別海町にある野付半島は、全長約26kmもある砂の堆積によってできた地形です。
江戸時代の中頃までは、トドマツ・エゾマツ・ハンノキ・カシワなどの原生林がありました。現在の半島部は、砂浜の草原と湿地帯となっています。それは、半島の地盤沈下によって、砂嘴の中に海水が浸入し、原生林が枯れてしまったからです。
トドワラというところがあるのですが、もとはトドマツの原生林があったところで、ナラワラはミズナラ・ダケカンバ・ナナカマド・エゾイタヤなどの林があったところです。トドマツやミズナラの枯れ木林が、原生林の面影を残しています。
砂嘴は、海岸で内湾となったところに、沿岸を流れる海流が堆積物を運んできてできます。湾の先端に当たる海岸や岬に、海流の方向に沿って堆積物がたまることがあります。すると岬が砂浜として延びていきます。波の作用には浸食する作用もあります。ですから、堆積する速度が波の侵食の速度より大きければ、堆積物がたまり、砂嘴が成長してきます。これが砂嘴のでき方です。もちろん、周辺の川から海へ十分な堆積物を運んで来る必要があります。
野付半島では、内湾に当たるところが野付湾で、別名尾岱沼(おだいとう)とも呼ばれています。摩周湖から斜里岳をへて知床半島にまで連なる火山列に端を発する川が、根室海峡に多数流れ込みんでいます。これらの川が、砂嘴の砂の供給源となります。特に標津川が野付半島の北側付け根にあり、重要な供給源と考えられます。その砂は大部分が安山岩の起源ものです。
海流のオホーツク海から知床半島と国後島の間の根室海峡を通り抜けてきた海流によって、砂が運ばれて、砂嘴が発達しています。
海流のいたずらで、野付湾に向かって砂嘴が枝を出したようになっています。まるで、エビの尻尾のような形にいくつかの岬(尖岬と呼びます)ができています。9個の分岐があります。これは、内側のものが古い砂嘴で、外側に向かって新しい砂嘴ができることによって、このようま地形ができたと考えられています。
そして外海沿っている高い堤上の砂の列(砂堤列と呼びます)があります。現在の外海に面するものと、尖岬のものの2方向あります。このような砂嘴を複合鉤状砂嘴と呼びます。
野付半島付近では、北から北西の風がよく吹きます。この風が国後島に当たり、南西へ向かう海流を発生させます。この海流が、野付半島より北側の海岸を浸食していきます。しかし、野付半島付近では海流が曲がり流れがゆるくなります。そのため海岸線を削ってきた堆積物を堆積しはじめます。
砂嘴の堆積物を調べると、内側の尖岬は、3000年前の摩周起源の火山灰が見つかっています。ですから、この砂嘴の一部は、3000年前には形成されていたことがわかります。その後2500年前次の2つの尖岬が、1000年前にさらに3つの尖岬、最後に500年前に一番外側の尖岬が形成され、その成長は現在も続いていると考えられています。1970年代まで砂嘴の東部の海に面してる部分(竜神岬)が50mほど削られ、内側に巻き込まれた部分(ナカシベツ)が50mほど成長しています。現在も野付半島の砂嘴は、変化しているのです。
海流や砂の供給源に変化があれば、野付半島の砂嘴の姿は、これからも変わっていくでしょう。野付半島の砂嘴は、見れば見るほど、その形が不思議で、自然の妙を感じます。
砂嘴がエビの尻尾の形をしているといいましたが、野付湾では、6月から7月上旬、そして10月中旬から11月上旬にかけて、ホッカイシマエビ漁がおこなわれています。そのとき、白い三角帆の打瀬舟(うたせぶね)で漁をしますが、これがなかなか風情がある光景となっています。残念ながら、私が行ったときは、漁期ではなく、白い帆の打瀬舟を見ることはできませんでした。
この野付半島と人間とのかかわりは、かなり古く、擦文時代の堅穴式住居があることから、1000年ほど前から野付半島には、人が生活をしていたことがわかっています。江戸時代後期までは、北方領土や千島列島での交易や漁業の拠点として、集落がありました。現在もそれらの遺跡が残っています。
標津川の河口流域では、かつては幅5kmほどもある湿原ありました。標津湿原として知られていたのですが、現在では、灌漑による耕作地化によって、湿地が排水されました。野付半島の変化は、砂の重要な供給源である標津川の変化も反映することでしょう。
砂嘴が発達すると海流が当たる北側の海岸の砂は侵食を受けます。そしてその砂は砂嘴の先端の成長に使われることになります。野付半島の成長によって海流が影響を受けたのでしょうか、標津川の灌漑のためでしょうか、それとも経年変化のたためでしょうか、砂州からの砂の流出が起こり、砂嘴がなくなっていくのではないかと危惧する声もあります。
自然は変化をします。大地の変化は、一般には、ゆっくりと長い時間をかけて起こります。しかし、時には短い時間で起こることもあります。上で述べたように、砂嘴の変化も短時間で起こります。砂嘴の形成、消失には、海流が重要な働きをします。ですから、海流の変化が起これば、砂嘴の変化はかなり早く起こります。野付半島の砂嘴のように、古くから人間が住んでいるところでも、見慣れていると思っている風景も、実は時と共に変化しているのです。人間の営為なのか、自然の営為なのか分かりませんが、自然は時々刻々変化しています。そんな自然の変化を、野付半島では感じることができました。
・あごかエビか・
野付「のつけ」とは、アイヌ語で「あご」を意味するそうです。
半島の先端が陸地側に向って大きく湾曲しているのが
人のあごに似ているところから名付けられているようです。
しかし、私には、あまりあごには見えませんね。
アイヌの人が見ると、野付半島はアゴに見えたかもしれませんが、
私にはエビの尻尾にみえますが、これは、時間による変化によって、
今私が見ていると野付半島の形と、
アイヌの人たちが見てい名前を付けた時とは
実は違った形をしていたためかもしれませんね。
もしそうなら面白いことになりますね。
・四角い太陽・
野付湾は、冬特に2月頃に「四角い太陽」が見えることで有名です。
四角い太陽は、空気の温度差によってできる蜃気楼の一種です。
地表付近の大気の温度がマイナス20度以下になり、
上空に暖かい空気があることが条件となります。
2月の寒い頃の特別な気象状態になったときだけに見られるものです。
四角い太陽だけでなく、時には六角形や
ワイグラスのよう見えることもあるようです。
私がいったのは春ですから、そのような太陽は見えるはずもないのですが、
泊まった温泉旅館のご主人が写真を撮られているらしく、
館内に置かれたいるアルバムには、
不思議な太陽の写真がたくさん収められていました。
宿を立つときに好きな写真をどうぞと、
不思議な太陽の写真を頂きました。
写真で見ても、不思議なのですから、
現実に見るともっと心打たれるものなのでしょうね。
でも、寒いのが難ですね。
2006-05-15
17 種子島:共通性と地域性 2006.05.15
Time:
9:15
●
Geologist
種子島はプレート境界で形成される付加体という地質体からできています。その付加体の一般的な性質は日本列島共通のものでありながら、地域ごとの個性を生むものでもありました。そんな共通性と地域性をみていきましょう。
私は北海道に住んでいますので、冬になると雪が積もり、道が埋もれ、石が埋もれて、川や山に入れなくなり、野外の調査ができなくなります。でも、私は地質を調べたり地形を眺めたりするのが好きなので、冬でも野外調査にでたくなります。でも、やはり冬の北海道ではだめです。そこで冬休みには、本州の雪のないところを調査をすることにしています。
2005年の冬休みは、種子島に出かけました。効率的に見るために、屋久島から種子島へと順番にみてきました。屋久島については以前(04 屋久島:自然に流れるさまざまな時間(2005.04.15))紹介しましたので参考にしてください。
面積で見ると屋久島(500平方km)も種子島(453平方km)も同じほどですが、屋久島は周囲約130kmの丸い形をしているのに対して、種子島は細長く南北に伸びた(幅5~12km、長さ72km)形をしています。屋久島の宮之浦岳は標高1936mもあり最高峰で九州でも一番の高さを持ちますが、種子島は最高でも標高282mしかない、のっぺりとした平たい島です。屋久島を先に訪れたせいでしょうか、種子島が異様に平らで長い島だというのが第一印象でした。
しかし、そんな種子島でもよく見ると起伏があることがわかります。特に海岸へは急な坂を降りるような地形になっています。このような両島の違いは、それぞれの島の地質と大地の営みの違いを反映しているのです。
屋久島は中央の大部分を花崗岩が占めていて、周辺に堆積岩が少しあるという岩石の構成になっています。一方、種子島の大地は、ほとんど堆積岩からできています。この花崗岩の有無が、両島の地形を違いを生んでいます。
屋久島の主体を成す花崗岩は、マグマが地下深部でゆっくりと冷え固まったものです。その花崗岩が隆起をし、上にあった地層が侵食されて、地表に顔を出したものです。そのため屋久島では、花崗岩の周辺にもともとあった地層が少し残っているだけで、あとは花崗岩の高い山となりました。そして山が高く雨が多い地域に当たるため、侵食が続き、屋久島は険しい山岳の地形となっています。
地層は土砂が固まったもので、花崗岩と比べれば軟らかく、浸食を受けやすい岩石です。ですから、堆積岩からできてる種子島は侵食を受け、高まりは削られ平らになっているのです。
さらに、一般に、堆積岩でも新しい時代にできたものは、古い時代のものに比べて軟らかく、侵食に弱い岩石となります。関東から西に琉球列島まで続く日本列島(西南日本といいます)では、太平洋側の海に近い(外帯と呼びます)ほど、地層の形成された時代は新しくなります。したがって、屋久島より太平洋側に位置する種子島の地層のほうが新しく、軟らかくなるので、侵食も早く進んでいくことになります。
実際に両島の堆積岩を比べてみますと、両島の地層は四万十層群に属する一連の地層で、似たような性質の岩石からできています。一番古い地層は屋久島も種子島も熊毛層群(古第三紀中期)と呼ばれている地層です。熊毛層群は、頁岩と砂岩からできていて、褶曲やたくさんの断層が形成されています。
屋久島では熊毛層群だけでしたが、種子島では熊毛層群だけではなく、より新しい時代の地層も出ています。中央から南半部にかけて熊毛層群を不整合という関係でおおう茎永層群があります。茎永層群は、新第三紀中新世と呼ばれるより新しい時代に形成された礫岩、砂岩、シルト岩が繰り返す地層(互層といいます)からできています。
茎永層群をおおって上中層と呼ばれる鮮新世の地層があり、さらに上には第四紀という一番新しい時代にたまった地層や、ローム層が分布しています。第四紀の地層は、それほど固まっておらず、主に石英砂からできています。そして、その中には砂鉄もたくさん含まれています。
四万十層群は、西南日本の外帯に連続的に分布する地層で、陸と海溝の間で形成されたものです。海溝とは、海洋プレートが大陸プレートの下に沈み込む場所です。海溝の陸側では、陸から河川などよって運ばれて堆積物が大陸棚にたまっています。その堆積物が、海洋プレートに押されて列島の下に押し込まれます。さらに、海溝に沈みこめなっかた海の岩石の破片も、陸側に付け加わることがあります。このように海溝と大陸棚の間、つまり海洋プレートと大陸プレートも境界でできた堆積物全体を付加体と呼んでいます。四万十層群は、付加体からできています。
付加体でできる地層には特徴があります。海洋プレートの沈み込みに引きづられて、刺身のようにちぎれた地層が、次から次へと陸側にもぐり込みながら付け加わります。そして、地層の刺身は沈み込みと同じよう角度で、新しいものが下側になって付け加わっていきます。
紀伊半島、四国、九州には、列島の地殻があり、陸となっています。ところが大隈半島から南の薩摩諸島から琉球列島までは、点々と島はありますが陸地が連続しているわけではありません。この地域には列島の地殻が十分成長していないのです。たとえ四万十層群があっても、まだ完全な陸にはなっていのないのです。
海底にたまっている地層が陸になるためには、持ち上げる作用が必要となります。屋久島では、花崗岩の上昇がその作用を担いました。では、種子島では、そのような作用が起こっているのでしょうか。
日本列島の海沿いには、海岸段丘のような海岸特有の地形が形成されます。陸地に残された海岸段丘などを調べることから、その地の隆起の程度を読み取ることができます。日本列島ではこのような調査から、新しい時代の変動の特徴が調べられています。
西南日本の太平洋岸には、海岸沿いに30~50kmも続く段丘地形よく見られます。そこでは地震に伴う地殻変動がよく起こっていることがわかっています。種子島では、平均すると1000年で1m以上も隆起するような、とっても激しい変動地域に区分されています。これら海洋プレート(フィリピン海プレーと呼ばれています)が大陸プレート(ユーラシアプレートと呼ばれています)を押しながらもぐりこんでいるためだと考えられます。ちなみに屋久島は、1000年で0.5~1mという、種子島より遅い隆起速度の地帯に区分されています。
隆起が激しく起こっているとこでは、岩石が持ち上げられる時に、壊れるところができます。岩石が壊れるということは、断層ができるということです。最近隆起しているということは、活動的な断層つまり活断層があるということになります。
種子島には、現在4つの活断層があることがわかっています。いずれも種子島を北西-南東に切るように断層が形成されています。北から順番に、花里崎-田之脇断層、平鍋-中山断層、下田-油久断層、阿高磯断層と名づけられています。これらの断層は、たびたび地震の原因となり、今後も地震が起こる可能性があります。最近では、1996年9月9日に、断層によるマグニチュード5.7の地震が発生しています。
種子島では、第三紀層を削っている海食台地があることから、段丘の形成は第三紀の終わりからとなります。何段かの段丘の面があることから、現在まで、段丘地形が形成されるような大規模な隆起運動が何度かあったことがわかっています。
西南日本の外帯では、もともと海底でできた地層が陸地に出ているのは、上昇するための仕組みとして、海洋プレートが沈み込んで大陸プレートを押し上げているのです。ただし、薩摩諸島や琉球列島では、海洋プレートの衝突の方向が斜めでずれているために、上昇させる力が十分でなく、部分的にしか働かないようです。
種子島で活断層があり海岸段丘がつくる坂道があるのは、プレート境界にできる地質体であるという、西南日本外帯に共通する地質学的性格のためです。しかし、種子島がこのようなのっぺりとした地形としてここに存在するのは、九州の南部の海溝に近い位置にあり、断層の上昇運動のこの地に集中したという種子島がたどった地域固有の歴史のためです。
海岸へ降りるときの坂道は、のっぺりとした種子島にも、大地の変動の歴史が深く刻まれていることを教えてくれているのです。
・これも種子島・
種子島は、鉄砲伝来の地として有名ですが、
私にはロケットの打ち上げ基地としての印象が強くあります。
種子島を訪れたのは、もちろん地層を見るのが主とした目的ではありますが、
やはり種子島宇宙センターを訪れることも、忘れていませんでした。
残念ながら、打ち上げが近かったので、
センター全体を見学することはできませんでしたが、
巨大なロケットの部品が公道を通るのに出くわしました。
着々と打ち上げ準備が進んでいることを
肌で感じることができました。
このとき準備されたいたのは
H-IIAロケット7号機で、2005年2月26日に、無事打ち上げられました。
このロケットには運輸多目的衛星新1号(MTSAT-1R)という
長ったらしい名前の衛星が搭載されていました。
この衛星は、「ひまわり6号」と名付けられ、現在活躍中です。
1999年11月15日の後継機の打ち上げが失敗のために、
「ひまわり5号」が無理やり寿命を延ばして使っていたのですが、
それも限界すぎました。
アメリカからレンタルで「ゴーズ9号」が使われていました。
しかし、打ち上げ成功で2005年6月28日から
後継衛星である「ひまわり6号」が気象観測を開始し、
日本が晴れて自前の衛星を持つことができたのです。
・砂鉄・
種子島は堆積岩でできているせいでしょうか、
浜辺ごとに砂の様子が違っています。
砂鉄が波の作用で濃集しているようなところがいくつもありました。
鉄浜(かねはま)海岸という地名があり、
そこでは砂鉄をとっていたため、このような名前がついているようです。
種子島では、砂鉄が多いことは昔知られていたのですが
昭和32年の調査で砂鉄資源が多く、200万トン以上あると推定されました。
そのため、九州でも有数の砂鉄を産地となっており、
昭和40年代では、種子島は鹿児島県内でも一番の産出量を誇っていました。
種子島の砂鉄では、鉄だけでなく、
チタンの含有量も多かったため採取していました。
ただ、現在では採鉱はされていません。
採鉱されなくなって時間がたちますから、たくさんの砂鉄が濃集しています。
もちろん、私は、鉄浜海岸で砂鉄を採取しました。
私は北海道に住んでいますので、冬になると雪が積もり、道が埋もれ、石が埋もれて、川や山に入れなくなり、野外の調査ができなくなります。でも、私は地質を調べたり地形を眺めたりするのが好きなので、冬でも野外調査にでたくなります。でも、やはり冬の北海道ではだめです。そこで冬休みには、本州の雪のないところを調査をすることにしています。
2005年の冬休みは、種子島に出かけました。効率的に見るために、屋久島から種子島へと順番にみてきました。屋久島については以前(04 屋久島:自然に流れるさまざまな時間(2005.04.15))紹介しましたので参考にしてください。
面積で見ると屋久島(500平方km)も種子島(453平方km)も同じほどですが、屋久島は周囲約130kmの丸い形をしているのに対して、種子島は細長く南北に伸びた(幅5~12km、長さ72km)形をしています。屋久島の宮之浦岳は標高1936mもあり最高峰で九州でも一番の高さを持ちますが、種子島は最高でも標高282mしかない、のっぺりとした平たい島です。屋久島を先に訪れたせいでしょうか、種子島が異様に平らで長い島だというのが第一印象でした。
しかし、そんな種子島でもよく見ると起伏があることがわかります。特に海岸へは急な坂を降りるような地形になっています。このような両島の違いは、それぞれの島の地質と大地の営みの違いを反映しているのです。
屋久島は中央の大部分を花崗岩が占めていて、周辺に堆積岩が少しあるという岩石の構成になっています。一方、種子島の大地は、ほとんど堆積岩からできています。この花崗岩の有無が、両島の地形を違いを生んでいます。
屋久島の主体を成す花崗岩は、マグマが地下深部でゆっくりと冷え固まったものです。その花崗岩が隆起をし、上にあった地層が侵食されて、地表に顔を出したものです。そのため屋久島では、花崗岩の周辺にもともとあった地層が少し残っているだけで、あとは花崗岩の高い山となりました。そして山が高く雨が多い地域に当たるため、侵食が続き、屋久島は険しい山岳の地形となっています。
地層は土砂が固まったもので、花崗岩と比べれば軟らかく、浸食を受けやすい岩石です。ですから、堆積岩からできてる種子島は侵食を受け、高まりは削られ平らになっているのです。
さらに、一般に、堆積岩でも新しい時代にできたものは、古い時代のものに比べて軟らかく、侵食に弱い岩石となります。関東から西に琉球列島まで続く日本列島(西南日本といいます)では、太平洋側の海に近い(外帯と呼びます)ほど、地層の形成された時代は新しくなります。したがって、屋久島より太平洋側に位置する種子島の地層のほうが新しく、軟らかくなるので、侵食も早く進んでいくことになります。
実際に両島の堆積岩を比べてみますと、両島の地層は四万十層群に属する一連の地層で、似たような性質の岩石からできています。一番古い地層は屋久島も種子島も熊毛層群(古第三紀中期)と呼ばれている地層です。熊毛層群は、頁岩と砂岩からできていて、褶曲やたくさんの断層が形成されています。
屋久島では熊毛層群だけでしたが、種子島では熊毛層群だけではなく、より新しい時代の地層も出ています。中央から南半部にかけて熊毛層群を不整合という関係でおおう茎永層群があります。茎永層群は、新第三紀中新世と呼ばれるより新しい時代に形成された礫岩、砂岩、シルト岩が繰り返す地層(互層といいます)からできています。
茎永層群をおおって上中層と呼ばれる鮮新世の地層があり、さらに上には第四紀という一番新しい時代にたまった地層や、ローム層が分布しています。第四紀の地層は、それほど固まっておらず、主に石英砂からできています。そして、その中には砂鉄もたくさん含まれています。
四万十層群は、西南日本の外帯に連続的に分布する地層で、陸と海溝の間で形成されたものです。海溝とは、海洋プレートが大陸プレートの下に沈み込む場所です。海溝の陸側では、陸から河川などよって運ばれて堆積物が大陸棚にたまっています。その堆積物が、海洋プレートに押されて列島の下に押し込まれます。さらに、海溝に沈みこめなっかた海の岩石の破片も、陸側に付け加わることがあります。このように海溝と大陸棚の間、つまり海洋プレートと大陸プレートも境界でできた堆積物全体を付加体と呼んでいます。四万十層群は、付加体からできています。
付加体でできる地層には特徴があります。海洋プレートの沈み込みに引きづられて、刺身のようにちぎれた地層が、次から次へと陸側にもぐり込みながら付け加わります。そして、地層の刺身は沈み込みと同じよう角度で、新しいものが下側になって付け加わっていきます。
紀伊半島、四国、九州には、列島の地殻があり、陸となっています。ところが大隈半島から南の薩摩諸島から琉球列島までは、点々と島はありますが陸地が連続しているわけではありません。この地域には列島の地殻が十分成長していないのです。たとえ四万十層群があっても、まだ完全な陸にはなっていのないのです。
海底にたまっている地層が陸になるためには、持ち上げる作用が必要となります。屋久島では、花崗岩の上昇がその作用を担いました。では、種子島では、そのような作用が起こっているのでしょうか。
日本列島の海沿いには、海岸段丘のような海岸特有の地形が形成されます。陸地に残された海岸段丘などを調べることから、その地の隆起の程度を読み取ることができます。日本列島ではこのような調査から、新しい時代の変動の特徴が調べられています。
西南日本の太平洋岸には、海岸沿いに30~50kmも続く段丘地形よく見られます。そこでは地震に伴う地殻変動がよく起こっていることがわかっています。種子島では、平均すると1000年で1m以上も隆起するような、とっても激しい変動地域に区分されています。これら海洋プレート(フィリピン海プレーと呼ばれています)が大陸プレート(ユーラシアプレートと呼ばれています)を押しながらもぐりこんでいるためだと考えられます。ちなみに屋久島は、1000年で0.5~1mという、種子島より遅い隆起速度の地帯に区分されています。
隆起が激しく起こっているとこでは、岩石が持ち上げられる時に、壊れるところができます。岩石が壊れるということは、断層ができるということです。最近隆起しているということは、活動的な断層つまり活断層があるということになります。
種子島には、現在4つの活断層があることがわかっています。いずれも種子島を北西-南東に切るように断層が形成されています。北から順番に、花里崎-田之脇断層、平鍋-中山断層、下田-油久断層、阿高磯断層と名づけられています。これらの断層は、たびたび地震の原因となり、今後も地震が起こる可能性があります。最近では、1996年9月9日に、断層によるマグニチュード5.7の地震が発生しています。
種子島では、第三紀層を削っている海食台地があることから、段丘の形成は第三紀の終わりからとなります。何段かの段丘の面があることから、現在まで、段丘地形が形成されるような大規模な隆起運動が何度かあったことがわかっています。
西南日本の外帯では、もともと海底でできた地層が陸地に出ているのは、上昇するための仕組みとして、海洋プレートが沈み込んで大陸プレートを押し上げているのです。ただし、薩摩諸島や琉球列島では、海洋プレートの衝突の方向が斜めでずれているために、上昇させる力が十分でなく、部分的にしか働かないようです。
種子島で活断層があり海岸段丘がつくる坂道があるのは、プレート境界にできる地質体であるという、西南日本外帯に共通する地質学的性格のためです。しかし、種子島がこのようなのっぺりとした地形としてここに存在するのは、九州の南部の海溝に近い位置にあり、断層の上昇運動のこの地に集中したという種子島がたどった地域固有の歴史のためです。
海岸へ降りるときの坂道は、のっぺりとした種子島にも、大地の変動の歴史が深く刻まれていることを教えてくれているのです。
・これも種子島・
種子島は、鉄砲伝来の地として有名ですが、
私にはロケットの打ち上げ基地としての印象が強くあります。
種子島を訪れたのは、もちろん地層を見るのが主とした目的ではありますが、
やはり種子島宇宙センターを訪れることも、忘れていませんでした。
残念ながら、打ち上げが近かったので、
センター全体を見学することはできませんでしたが、
巨大なロケットの部品が公道を通るのに出くわしました。
着々と打ち上げ準備が進んでいることを
肌で感じることができました。
このとき準備されたいたのは
H-IIAロケット7号機で、2005年2月26日に、無事打ち上げられました。
このロケットには運輸多目的衛星新1号(MTSAT-1R)という
長ったらしい名前の衛星が搭載されていました。
この衛星は、「ひまわり6号」と名付けられ、現在活躍中です。
1999年11月15日の後継機の打ち上げが失敗のために、
「ひまわり5号」が無理やり寿命を延ばして使っていたのですが、
それも限界すぎました。
アメリカからレンタルで「ゴーズ9号」が使われていました。
しかし、打ち上げ成功で2005年6月28日から
後継衛星である「ひまわり6号」が気象観測を開始し、
日本が晴れて自前の衛星を持つことができたのです。
・砂鉄・
種子島は堆積岩でできているせいでしょうか、
浜辺ごとに砂の様子が違っています。
砂鉄が波の作用で濃集しているようなところがいくつもありました。
鉄浜(かねはま)海岸という地名があり、
そこでは砂鉄をとっていたため、このような名前がついているようです。
種子島では、砂鉄が多いことは昔知られていたのですが
昭和32年の調査で砂鉄資源が多く、200万トン以上あると推定されました。
そのため、九州でも有数の砂鉄を産地となっており、
昭和40年代では、種子島は鹿児島県内でも一番の産出量を誇っていました。
種子島の砂鉄では、鉄だけでなく、
チタンの含有量も多かったため採取していました。
ただ、現在では採鉱はされていません。
採鉱されなくなって時間がたちますから、たくさんの砂鉄が濃集しています。
もちろん、私は、鉄浜海岸で砂鉄を採取しました。
2006-04-15
16 石狩川:ゆく河の流れは絶えずして 2006.04.15
Time:
9:14
●
Geologist
私にとって身近な大河を紹介しましょう。その大河にも、変化の歴史と、人との歴史もあります。
私が住む街には、街の中を流れる大河があります。石狩川です。我が町で見る石狩川は、多くの水をたたえながら、とうとうとして流れています。雨が降ると、水かさが増え、茶色くにごりますが、どこかに雄大さが感じられます。まさに大河と呼ぶにふさわしいものだと思います。
石狩川の源流は、北海道の中央に位置する大雪山系の石狩岳(標高1967m)にあります。大雪山の南東にある石狩岳から、大雪山を反時計回りに、旭川をへて深川まで巡っていきます。川の流れの方向は、大雪山という火山の高まりを迂回するためです。石狩川は、深川から石狩平野を南下します。石狩平野は平坦なため蛇行しながら流れています。そして、江別市で西に流れを変えて、石狩市で日本海の石狩湾に注ぎます。
しかし、現在見られるこのような石狩川の流れは、昔からこのような流れであったわけではなく、さまざまな変遷をしてきました。洪水で蛇行がまっすぐになるような変化もありました。洪水が起きると、そこには土砂が溜まり、新たな大地として更新されます。また、石狩平野は硬い大地ではなく、湿地帯としての履歴も持ちます。
現在の石狩平野にあたるところは、もともと低い地域で、石狩低地帯と呼ばれています。日本海側の石狩市から、太平洋側の苫小牧市まで70km以上に渡って20から30kmほどの幅で低地帯は続いています。石狩低地帯の地下をボーリングして調べて見ると、そこには海に住む貝化石を含むような地層が見つかります。そのような海で溜まった地層の厚さは、200m以上になることがあります。この海は、東が夕張山地、西には火山地帯であったので、狭い海で石狩海峡と呼ばれています。
石狩海峡は、リス氷河期の終わり(約10万年前)ころから急激に浅くなり、リス-ウルム間氷期(約7万年前)にはなくなり、陸化しました。そのため、石狩川は、海峡の跡を通って、今の苫小牧あたりから太平洋に注いでいました。平坦な平野を流れていた石狩川は、蛇行や氾濫を繰り返していました。そのため石狩低地帯は湿地帯となり、泥炭がたまるような場所や河川の氾濫によって土砂が溜まるような環境となりました。最後の氷河期であるウルム氷期が訪れると海が後退して、広い湿地帯が広がりました。
海の後退と同じ頃、3.2万から2.9万年前に、支笏カルデラをつくった火山は、非常に激しい活動をして、周辺にも大量の火山噴出物を放出しました。千歳から苫小牧かけて、大量の火山堆積物が溜まりました。石狩川はせき止められて、太平洋に流れ込むことができなくなりました。その結果、石狩川は、現在のように日本海へと流れ込むようになりました。
やがて氷河期が終わると、海水が増加して、海が低い陸地に進出して広がってきました。1万年前から6000年前までの縄文時代の最初のころには、石狩湾が大きく陸地に入り込んできました。そのため、札幌市内からクジラの骨や、海の貝の化石が見つかることがあります。石狩川は、流路を太平洋から日本海へ変えても、氾濫や蛇行を繰り返していました。
石狩川と人間のかかわりは、本州と同じ縄文時代からでした。本州では縄文時代の後は、農耕文化の弥生時代が始まるのですが、北海道では、続縄文時代と呼ばれる時代(察文時代とも呼ばれます)が続きました。ついでアイヌの先祖の時代となります。
続縄文時代を継承しつつ、オホーツク文化や本州の文化を吸収して、13世紀には、アイヌ文化が成立しました。アイヌの人たちは、石狩川流域で、狩猟採取の生活をしていた。
1869(明治2)年7月に蝦夷開拓使が設置され、石狩川と十勝川の沿岸に入殖が進められ、開拓の歴史がはじまります。本州から多くの人が農耕のために入植しました。そして本州では見られないような、大規模な西洋式の農業形態が導入されてきました。石狩平野の農耕は、石狩川の治水が重要な課題として取り組まれてきました。
そんな人間の営みを無にするような洪水を、自然は時として起こします。1898(明治31)年、1904(明治37)年7月、1932(昭和7)年8月、戦後になっても1961(昭和36)年7月、1962(昭和37)年8月、1975(昭和50)年8月、1981(昭和56)年8月、さらに近年の2001(平成13)年9月にも台風15号による大雨で洪水を起こしています。
蛇行する河川に大水が流れると、蛇行の外側を削っていきます。つまり堤防があっても削っていきます。そこに増水が加われば、堤防の決壊という事態がおきます。蛇行をなくし流れをまっすぐにすると、水はスムースに流れていきます。
開拓がはじまって以来、石狩川の治水工事とは、蛇行をなくし、まっすぐにショートカットさせていくものでした。そして川の両側には、大きな堤防が設けられました。増水があっても堤防を越えたり壊したりすることなく、すぐに海に水を流してしまうという方法です。
このような治水の結果、もともと356kmあった石狩川の長さは、100km近く短くなり、268kmになりました。それでも現在、日本で第2位の長さを誇っています。
石狩川は平坦な石狩平野を蛇行しながら、何度も流路を変えてきました。その記録は、川の周辺にある三日月湖からもうかがい知ることができます。そもそも、石狩川の語源としては、イ・シカラ・ペツから由来しているという説が有力です。イ・シカラ・ペツとは、曲がりくねった川という意味のアイヌ語です。先住民のアイヌの人も、石狩川が特別に曲がりくねっているということを、よく知っていたのです。
私は、自然のままの川が好きです。しかし、災害はもちろん起こらないほうがいいに決まっています。現在ももともとあった三日月湖や蛇行をまっすぐにして人工的に作られた三日月湖が、石狩川周辺には点在しています。しかし今後、人間が石狩川を治水している限り、三日月湖は自然にはできないのだろうなと、ふと寂しさを覚えてしまうのは私だけなのでしょうか。
・知恵と堤防・
石狩平野の石狩川の堤防は、他の川の堤防と高さは同じなのですが、
勾配が緩やかで広い裾野を持つ巨大なものになっています。
堤防の断面を見ると、まるで丘陵のように見えます。
このような堤防を、丘陵堤と呼んでいます。
石狩平野の堤防が、このような丘陵堤になっているのは、
石狩平野は泥炭が厚く堆積している湿地帯で、
地盤が非常に軟弱であるためです。
経済的効率を考えて、この工法がとられています。
石狩川の丘陵堤は、今もまだ工事がなされています。
入植から100年以上たっても、まだ川と人の戦いは続いているのです。
もちろん、洪水の被害から人や田畑、財産を守らなければなりません。
ですから治水工事は、必要なことです。
しかし、知恵を使っても、
もう少し自然の川の姿を残した方法は取れないのでしょうか。
今の技術をもってすれば、多分、お金さえかければ、
思うがままのものが作ることができるのでしょう。
自然を守ることと安全をお金に換算して、
安い方を選択するのはいかがなものでしょうか。
いろいろ難しい問題があるのでしょうが、
もう少し、知恵は絞って、いいものを作る方法はないのでしょうかね。
・春の到来・
皆さんの町では、桜や入学式も終わり、春たけなわでしょうか。
札幌では雪解けが宣言されたようですが、
北海道は、まだ花の季節に少し早いようです。
4月に入っても、何度も雪が降りました。
わが町では、まだ雪もあちこちに残っています。
桜はまだまだで5月になりそうですが、
遅いながらも、北国の春は少しずつはじまっています。
平地部の雪解けはほとんど終わり、
田畑の作業も各地ではじまっています。
これからが、一番良い季節となります。
つらい雪の季節を耐えたからこそ味わえる春の到来です。
私が住む街には、街の中を流れる大河があります。石狩川です。我が町で見る石狩川は、多くの水をたたえながら、とうとうとして流れています。雨が降ると、水かさが増え、茶色くにごりますが、どこかに雄大さが感じられます。まさに大河と呼ぶにふさわしいものだと思います。
石狩川の源流は、北海道の中央に位置する大雪山系の石狩岳(標高1967m)にあります。大雪山の南東にある石狩岳から、大雪山を反時計回りに、旭川をへて深川まで巡っていきます。川の流れの方向は、大雪山という火山の高まりを迂回するためです。石狩川は、深川から石狩平野を南下します。石狩平野は平坦なため蛇行しながら流れています。そして、江別市で西に流れを変えて、石狩市で日本海の石狩湾に注ぎます。
しかし、現在見られるこのような石狩川の流れは、昔からこのような流れであったわけではなく、さまざまな変遷をしてきました。洪水で蛇行がまっすぐになるような変化もありました。洪水が起きると、そこには土砂が溜まり、新たな大地として更新されます。また、石狩平野は硬い大地ではなく、湿地帯としての履歴も持ちます。
現在の石狩平野にあたるところは、もともと低い地域で、石狩低地帯と呼ばれています。日本海側の石狩市から、太平洋側の苫小牧市まで70km以上に渡って20から30kmほどの幅で低地帯は続いています。石狩低地帯の地下をボーリングして調べて見ると、そこには海に住む貝化石を含むような地層が見つかります。そのような海で溜まった地層の厚さは、200m以上になることがあります。この海は、東が夕張山地、西には火山地帯であったので、狭い海で石狩海峡と呼ばれています。
石狩海峡は、リス氷河期の終わり(約10万年前)ころから急激に浅くなり、リス-ウルム間氷期(約7万年前)にはなくなり、陸化しました。そのため、石狩川は、海峡の跡を通って、今の苫小牧あたりから太平洋に注いでいました。平坦な平野を流れていた石狩川は、蛇行や氾濫を繰り返していました。そのため石狩低地帯は湿地帯となり、泥炭がたまるような場所や河川の氾濫によって土砂が溜まるような環境となりました。最後の氷河期であるウルム氷期が訪れると海が後退して、広い湿地帯が広がりました。
海の後退と同じ頃、3.2万から2.9万年前に、支笏カルデラをつくった火山は、非常に激しい活動をして、周辺にも大量の火山噴出物を放出しました。千歳から苫小牧かけて、大量の火山堆積物が溜まりました。石狩川はせき止められて、太平洋に流れ込むことができなくなりました。その結果、石狩川は、現在のように日本海へと流れ込むようになりました。
やがて氷河期が終わると、海水が増加して、海が低い陸地に進出して広がってきました。1万年前から6000年前までの縄文時代の最初のころには、石狩湾が大きく陸地に入り込んできました。そのため、札幌市内からクジラの骨や、海の貝の化石が見つかることがあります。石狩川は、流路を太平洋から日本海へ変えても、氾濫や蛇行を繰り返していました。
石狩川と人間のかかわりは、本州と同じ縄文時代からでした。本州では縄文時代の後は、農耕文化の弥生時代が始まるのですが、北海道では、続縄文時代と呼ばれる時代(察文時代とも呼ばれます)が続きました。ついでアイヌの先祖の時代となります。
続縄文時代を継承しつつ、オホーツク文化や本州の文化を吸収して、13世紀には、アイヌ文化が成立しました。アイヌの人たちは、石狩川流域で、狩猟採取の生活をしていた。
1869(明治2)年7月に蝦夷開拓使が設置され、石狩川と十勝川の沿岸に入殖が進められ、開拓の歴史がはじまります。本州から多くの人が農耕のために入植しました。そして本州では見られないような、大規模な西洋式の農業形態が導入されてきました。石狩平野の農耕は、石狩川の治水が重要な課題として取り組まれてきました。
そんな人間の営みを無にするような洪水を、自然は時として起こします。1898(明治31)年、1904(明治37)年7月、1932(昭和7)年8月、戦後になっても1961(昭和36)年7月、1962(昭和37)年8月、1975(昭和50)年8月、1981(昭和56)年8月、さらに近年の2001(平成13)年9月にも台風15号による大雨で洪水を起こしています。
蛇行する河川に大水が流れると、蛇行の外側を削っていきます。つまり堤防があっても削っていきます。そこに増水が加われば、堤防の決壊という事態がおきます。蛇行をなくし流れをまっすぐにすると、水はスムースに流れていきます。
開拓がはじまって以来、石狩川の治水工事とは、蛇行をなくし、まっすぐにショートカットさせていくものでした。そして川の両側には、大きな堤防が設けられました。増水があっても堤防を越えたり壊したりすることなく、すぐに海に水を流してしまうという方法です。
このような治水の結果、もともと356kmあった石狩川の長さは、100km近く短くなり、268kmになりました。それでも現在、日本で第2位の長さを誇っています。
石狩川は平坦な石狩平野を蛇行しながら、何度も流路を変えてきました。その記録は、川の周辺にある三日月湖からもうかがい知ることができます。そもそも、石狩川の語源としては、イ・シカラ・ペツから由来しているという説が有力です。イ・シカラ・ペツとは、曲がりくねった川という意味のアイヌ語です。先住民のアイヌの人も、石狩川が特別に曲がりくねっているということを、よく知っていたのです。
私は、自然のままの川が好きです。しかし、災害はもちろん起こらないほうがいいに決まっています。現在ももともとあった三日月湖や蛇行をまっすぐにして人工的に作られた三日月湖が、石狩川周辺には点在しています。しかし今後、人間が石狩川を治水している限り、三日月湖は自然にはできないのだろうなと、ふと寂しさを覚えてしまうのは私だけなのでしょうか。
・知恵と堤防・
石狩平野の石狩川の堤防は、他の川の堤防と高さは同じなのですが、
勾配が緩やかで広い裾野を持つ巨大なものになっています。
堤防の断面を見ると、まるで丘陵のように見えます。
このような堤防を、丘陵堤と呼んでいます。
石狩平野の堤防が、このような丘陵堤になっているのは、
石狩平野は泥炭が厚く堆積している湿地帯で、
地盤が非常に軟弱であるためです。
経済的効率を考えて、この工法がとられています。
石狩川の丘陵堤は、今もまだ工事がなされています。
入植から100年以上たっても、まだ川と人の戦いは続いているのです。
もちろん、洪水の被害から人や田畑、財産を守らなければなりません。
ですから治水工事は、必要なことです。
しかし、知恵を使っても、
もう少し自然の川の姿を残した方法は取れないのでしょうか。
今の技術をもってすれば、多分、お金さえかければ、
思うがままのものが作ることができるのでしょう。
自然を守ることと安全をお金に換算して、
安い方を選択するのはいかがなものでしょうか。
いろいろ難しい問題があるのでしょうが、
もう少し、知恵は絞って、いいものを作る方法はないのでしょうかね。
・春の到来・
皆さんの町では、桜や入学式も終わり、春たけなわでしょうか。
札幌では雪解けが宣言されたようですが、
北海道は、まだ花の季節に少し早いようです。
4月に入っても、何度も雪が降りました。
わが町では、まだ雪もあちこちに残っています。
桜はまだまだで5月になりそうですが、
遅いながらも、北国の春は少しずつはじまっています。
平地部の雪解けはほとんど終わり、
田畑の作業も各地ではじまっています。
これからが、一番良い季節となります。
つらい雪の季節を耐えたからこそ味わえる春の到来です。
2006-03-15
15 阿蘇の米塚:激しさの中のたおやかさ 2006.03.15
Time:
9:14
●
Geologist
阿蘇山は、九州でも有数の観光地です。その阿蘇山の中でも、あまり目立たないのですが、見た人には、きっとその形から強い印象を与える米塚と呼ばれる山があります。今回は、そんな米塚を中心に阿蘇火山をみていきましょう。
2006年の1月の正月明けに、九州に出かけました。その時、阿蘇山に立ち寄りました。今年は、全国的に雪が多く、九州の調査直前や調査中にも、雪にあいました。そのため、予定の調査のコースを、変更しなければならいないことが何度かありました。
今回の調査では、九州の火山として、普賢岳と阿蘇山、そして桜島を訪れることが目標でした。普賢岳については、車で雪の中を古湯まで登ったのですが、ノーマルタイヤではスリップして危険でした。また古湯周辺では、濃霧でとても火山や周囲を見る状態でなかったので、すぐに下りてきました。阿蘇山にも雪が積もっていましたが、一日目はダメでしたが、翌日は除雪もされ、道路は雪が融けていましたので、登ることができました。
阿蘇山には、何度か来たことがありますが、雪の阿蘇山は初めてでした。数年前に訪れたときは、噴気から有毒ガスがでていたので、火口付近には近づけませんでした。今回は、上まで車で上がることができました。前日の雪は残っていましたが、幸いにも快晴の中で中岳の噴気を見学することができました。
阿蘇山は活火山ですが、カルデラの規模は世界でも有数の大きさを誇っています。東西18km、南北25kmの大きさを持ち、カルデラの壁は、300mから600mの高さの崖を持っています。カルデラは、急な崖となっていますが、広いカルデラの内部は、平地となっています。平野は田畑に、山間部は牧畜に利用されていて、のどかな田園、牧畜の風景を見せていました。また南部の白水村は、湧水で有名なところです。私が行ったときは、阿蘇山はどこも、雪で寒々としていましたが。
急峻なカルデラ壁があるのですが、唯一、熊本方向(西側)に立野火口瀬が開いていて、そこからカルデラ内の水が、白川として流れ出して、島原湾に注いでいます。
阿蘇山は、約27万年前から火山活動をはじめて、9万年までに大規模な火砕流を4回(26.6、14.1、12.3、8.9万年前)発生して、現在のカルデラを形成したと考えられています。
カルデラ内部には、湖ができ、堆積物がたまりました。カルデラの壁は、7万年前から5万年前に立野で開きますが、その後溶岩が流れこんで、カルデラ内に、また湖ができます。その湖に溶岩が流れ込んで水中での火山活動や堆積物が記録として残されています。湖の形成は、その後さらにもう一度起こり、ごく最近までカルデラ内の北側に湖として残っていました。このような歴史は、カルデラ内のボーリングの調査から分かってきました。
カルデラ形成後、約7万年前(7.3万年より前)から、カルデラの中央部周辺で、火山活動がはじまりました。中央火口丘を形成したマグマの性質は、玄武岩質から安山岩質マグマを主としていますが、デイサイト質から流紋岩質のマグマまでもあり、多様です。
中央火口丘で現在、活動しているのが中岳です。中岳は、現在も活動していますが、その以前に長く活動しており、古期、新期、最新期の3つに活動時期がありました。古期は6300年前より古いことはわかっているのですが、それ以外の時代はよくわかっていません。である現在の中岳の火山活動の開始時期はよく分かっていませんが、一番新しい火山であります。
気象庁によりますと、553年(欽明天皇14年)に噴火した可能性があります。それ以降、中岳は古文書にも、そして現在のような観測体制ができた後も、死者を出すような活動を含めて、多数の噴火が記録されています。幸いなことに現在は、平穏な状態になっています。現在の火口は、南北900m、東西400mの大きさがあり、その中に小さな火口が7つあります。でも、現在も噴気を上げていて、私が行ったときも寒さのせいもあるのでしょうが、噴気で火口の中の池が見えなくなることもしばしばでした。
中岳に次いで新しいのは、米塚とよばれる火山です。米塚の活動時期はよく分かっていませんが、その前に活動した往生岳が1740年前に活動しており、その火山噴出物を、米塚の噴出物が覆っているので、往生岳の火山活動より新しいことがわかっています。
この米塚は、中岳とはあまりに違っています。
中岳は大きな成層火山ですが、現在残されているのは東半分で、西半分は新期の火山活動で破壊されています。かつての成層火山の断面が、現在の噴火口の周辺に見えます。破壊されて断面を見せている中岳は、荒々しさを感じます。
一方、米塚は、たおやかな形をしています。きれいな円錐形で、頂上がくぼんでいます。まるでおわんを伏せたようなような形をしてます。マグマの成分こそ中岳の同じ玄武岩質ですが、規模は小さく、直径380m、高さ80mの大きさで、頂上の火口は10数m程度しかありません。しかし、米塚の活動は、この山体をつくるだけではなく、周辺に溶岩を流出しています。米塚の溶岩は、玄武岩で流れやすく、3km以上も流れて、裾野に広がっています。
この米塚は、何度見てもかわいく見えます。それは、きれいな円錐形をしているためでしょう。溶岩を流しながらこのようなきれいな円錐形になるのには、どのようなメカニズムがあったのでしょうか。
米塚の円錐形は、スコリアというものからできています。スコリアとは聞きなれない名前かもしれません。スコリアとは、穴が一杯あいた黒っぽい石です。
同じように穴が一杯あいて白っぽいものは軽石と呼ばれます。石の色はマグマの性質を反映していて、白っぽいのはデイサイト質から流紋岩質のマグマでガスの成分をたくさん含んでいるものからできます。軽石が固まるときガスの部分が穴があき、固まった後にガスは抜けてしまったものです。一方、スコリアは黒っぽい玄武岩質のマグマからできているのですが、固まるときにガスがたくさんあったものです。
このようなスコリアがたくさん噴出した火山は、スコリア丘とよばれるきれいな円錐形になります。火口から噴出したスコリアは、大きく重いために、遠くに飛び散ることなく、周辺に落ちていきます。最初は火口を中心にドーナツ状にスコリアの山が形成されていきます。スコリアの量が増えていくと、だんだんこの山は成長していきます。やがて、火口を覆いつくすほどに成長します。その成長は、噴出するマグマの量や火口の規模によって、数週間から数年の間で形成されると考えられています。そして、中心部の火口はスコリアを噴出したところですから、くぼんだまま残されます。
砂山などと同じようにスコリアの礫が集まってるつくる山も、最大傾斜角が30度で安定します。これが、きれいな円錐形をつくるしくみです。この30度という角度は、スコリア丘の規模と関係なく物理的に決定されるものです。ですから、スコリア丘はどこでも似たようなきれいな円錐形となります。
米塚では、スコリアだけでなく、玄武岩の溶岩も流しています。この玄武岩の溶岩は、どうもスコリア丘より後から流れ出した可能性があります。それは、スコリア丘の北側には、流れ出した溶岩が盛り上がった地形が見つかっています。
マグマがスコリアとしてたくさんのガスを放出してしまうと、マグマの中のガスが減少して、溶岩が流れ出ることが知られています。溶岩はスコリアの密度の2倍から3倍ほどありますので、スコリア丘の上まで上がることなく、スコリアの下を潜り抜けることがあります。このような現象は伊豆の大室山でも観察されています。
ときには、上のスコリアを崩して、破片を浮かべながら流れ出すことも知られています。それのような現象は、山口県むつみ村の伏馬山で観察されています。
阿蘇山とは、想像絶する巨大で激しく荒々しい火山活動の結果できたものなのですが、その荒々しさの中にも、米塚のようなたおやかさ、カルデラ内の平地ののどかさがあります。そんなコントラストを雪の阿蘇山で見ました。
・米塚・
米塚とは変わった名称です。
阿蘇神社の祭神である健磐龍命(たけいわたつのみこと)が、
収穫した米を積み上げてできたという伝説があります。
これは、神話ですが、スコリアを積み上げてできたという形成史と
妙に一致して面白い伝説です。
また、米塚の頂上のくぼみは、
健磐龍命が貧しい人達にお米を分け与えた名残だとされています。
いい話なのですが、本当のところは、
スコリアが噴出した火口の名残なのです。
どうせなら、米塚から流れ出た溶岩のつくっている
なだらか地形にも伝説が欲しいところでしたね。
・温室イチゴ・
私が訪れたときは、雪で、砂千里ヶ浜も草千里ヶ浜も、
「雪千里ヶ浜」となり、見分けがつきませんでした。
しかし、近くの人たちでしょうか、
ソリやスキーをもってきて、
雪遊びをしている人がたくさんいました。
阿蘇山の初日が、雪で予定していたところがいけなかったので、
その日は、白水村周辺をうろついていました。
すると温室がたくさんあり、寒い中に無人販売がありました。
そこではイチゴが売られていました。
北海道から来た人間には信じられない光景ですが、イチゴを味わいました。
たまたまその農家の方がこられたので聞いたところ、
暖房をしながら温室でイチゴを作っているとのことでした。
少々高いイチゴでしたが、農家の湧き水で洗わせてもらって、
一足早い春を味わうことができました。
2006年の1月の正月明けに、九州に出かけました。その時、阿蘇山に立ち寄りました。今年は、全国的に雪が多く、九州の調査直前や調査中にも、雪にあいました。そのため、予定の調査のコースを、変更しなければならいないことが何度かありました。
今回の調査では、九州の火山として、普賢岳と阿蘇山、そして桜島を訪れることが目標でした。普賢岳については、車で雪の中を古湯まで登ったのですが、ノーマルタイヤではスリップして危険でした。また古湯周辺では、濃霧でとても火山や周囲を見る状態でなかったので、すぐに下りてきました。阿蘇山にも雪が積もっていましたが、一日目はダメでしたが、翌日は除雪もされ、道路は雪が融けていましたので、登ることができました。
阿蘇山には、何度か来たことがありますが、雪の阿蘇山は初めてでした。数年前に訪れたときは、噴気から有毒ガスがでていたので、火口付近には近づけませんでした。今回は、上まで車で上がることができました。前日の雪は残っていましたが、幸いにも快晴の中で中岳の噴気を見学することができました。
阿蘇山は活火山ですが、カルデラの規模は世界でも有数の大きさを誇っています。東西18km、南北25kmの大きさを持ち、カルデラの壁は、300mから600mの高さの崖を持っています。カルデラは、急な崖となっていますが、広いカルデラの内部は、平地となっています。平野は田畑に、山間部は牧畜に利用されていて、のどかな田園、牧畜の風景を見せていました。また南部の白水村は、湧水で有名なところです。私が行ったときは、阿蘇山はどこも、雪で寒々としていましたが。
急峻なカルデラ壁があるのですが、唯一、熊本方向(西側)に立野火口瀬が開いていて、そこからカルデラ内の水が、白川として流れ出して、島原湾に注いでいます。
阿蘇山は、約27万年前から火山活動をはじめて、9万年までに大規模な火砕流を4回(26.6、14.1、12.3、8.9万年前)発生して、現在のカルデラを形成したと考えられています。
カルデラ内部には、湖ができ、堆積物がたまりました。カルデラの壁は、7万年前から5万年前に立野で開きますが、その後溶岩が流れこんで、カルデラ内に、また湖ができます。その湖に溶岩が流れ込んで水中での火山活動や堆積物が記録として残されています。湖の形成は、その後さらにもう一度起こり、ごく最近までカルデラ内の北側に湖として残っていました。このような歴史は、カルデラ内のボーリングの調査から分かってきました。
カルデラ形成後、約7万年前(7.3万年より前)から、カルデラの中央部周辺で、火山活動がはじまりました。中央火口丘を形成したマグマの性質は、玄武岩質から安山岩質マグマを主としていますが、デイサイト質から流紋岩質のマグマまでもあり、多様です。
中央火口丘で現在、活動しているのが中岳です。中岳は、現在も活動していますが、その以前に長く活動しており、古期、新期、最新期の3つに活動時期がありました。古期は6300年前より古いことはわかっているのですが、それ以外の時代はよくわかっていません。である現在の中岳の火山活動の開始時期はよく分かっていませんが、一番新しい火山であります。
気象庁によりますと、553年(欽明天皇14年)に噴火した可能性があります。それ以降、中岳は古文書にも、そして現在のような観測体制ができた後も、死者を出すような活動を含めて、多数の噴火が記録されています。幸いなことに現在は、平穏な状態になっています。現在の火口は、南北900m、東西400mの大きさがあり、その中に小さな火口が7つあります。でも、現在も噴気を上げていて、私が行ったときも寒さのせいもあるのでしょうが、噴気で火口の中の池が見えなくなることもしばしばでした。
中岳に次いで新しいのは、米塚とよばれる火山です。米塚の活動時期はよく分かっていませんが、その前に活動した往生岳が1740年前に活動しており、その火山噴出物を、米塚の噴出物が覆っているので、往生岳の火山活動より新しいことがわかっています。
この米塚は、中岳とはあまりに違っています。
中岳は大きな成層火山ですが、現在残されているのは東半分で、西半分は新期の火山活動で破壊されています。かつての成層火山の断面が、現在の噴火口の周辺に見えます。破壊されて断面を見せている中岳は、荒々しさを感じます。
一方、米塚は、たおやかな形をしています。きれいな円錐形で、頂上がくぼんでいます。まるでおわんを伏せたようなような形をしてます。マグマの成分こそ中岳の同じ玄武岩質ですが、規模は小さく、直径380m、高さ80mの大きさで、頂上の火口は10数m程度しかありません。しかし、米塚の活動は、この山体をつくるだけではなく、周辺に溶岩を流出しています。米塚の溶岩は、玄武岩で流れやすく、3km以上も流れて、裾野に広がっています。
この米塚は、何度見てもかわいく見えます。それは、きれいな円錐形をしているためでしょう。溶岩を流しながらこのようなきれいな円錐形になるのには、どのようなメカニズムがあったのでしょうか。
米塚の円錐形は、スコリアというものからできています。スコリアとは聞きなれない名前かもしれません。スコリアとは、穴が一杯あいた黒っぽい石です。
同じように穴が一杯あいて白っぽいものは軽石と呼ばれます。石の色はマグマの性質を反映していて、白っぽいのはデイサイト質から流紋岩質のマグマでガスの成分をたくさん含んでいるものからできます。軽石が固まるときガスの部分が穴があき、固まった後にガスは抜けてしまったものです。一方、スコリアは黒っぽい玄武岩質のマグマからできているのですが、固まるときにガスがたくさんあったものです。
このようなスコリアがたくさん噴出した火山は、スコリア丘とよばれるきれいな円錐形になります。火口から噴出したスコリアは、大きく重いために、遠くに飛び散ることなく、周辺に落ちていきます。最初は火口を中心にドーナツ状にスコリアの山が形成されていきます。スコリアの量が増えていくと、だんだんこの山は成長していきます。やがて、火口を覆いつくすほどに成長します。その成長は、噴出するマグマの量や火口の規模によって、数週間から数年の間で形成されると考えられています。そして、中心部の火口はスコリアを噴出したところですから、くぼんだまま残されます。
砂山などと同じようにスコリアの礫が集まってるつくる山も、最大傾斜角が30度で安定します。これが、きれいな円錐形をつくるしくみです。この30度という角度は、スコリア丘の規模と関係なく物理的に決定されるものです。ですから、スコリア丘はどこでも似たようなきれいな円錐形となります。
米塚では、スコリアだけでなく、玄武岩の溶岩も流しています。この玄武岩の溶岩は、どうもスコリア丘より後から流れ出した可能性があります。それは、スコリア丘の北側には、流れ出した溶岩が盛り上がった地形が見つかっています。
マグマがスコリアとしてたくさんのガスを放出してしまうと、マグマの中のガスが減少して、溶岩が流れ出ることが知られています。溶岩はスコリアの密度の2倍から3倍ほどありますので、スコリア丘の上まで上がることなく、スコリアの下を潜り抜けることがあります。このような現象は伊豆の大室山でも観察されています。
ときには、上のスコリアを崩して、破片を浮かべながら流れ出すことも知られています。それのような現象は、山口県むつみ村の伏馬山で観察されています。
阿蘇山とは、想像絶する巨大で激しく荒々しい火山活動の結果できたものなのですが、その荒々しさの中にも、米塚のようなたおやかさ、カルデラ内の平地ののどかさがあります。そんなコントラストを雪の阿蘇山で見ました。
・米塚・
米塚とは変わった名称です。
阿蘇神社の祭神である健磐龍命(たけいわたつのみこと)が、
収穫した米を積み上げてできたという伝説があります。
これは、神話ですが、スコリアを積み上げてできたという形成史と
妙に一致して面白い伝説です。
また、米塚の頂上のくぼみは、
健磐龍命が貧しい人達にお米を分け与えた名残だとされています。
いい話なのですが、本当のところは、
スコリアが噴出した火口の名残なのです。
どうせなら、米塚から流れ出た溶岩のつくっている
なだらか地形にも伝説が欲しいところでしたね。
・温室イチゴ・
私が訪れたときは、雪で、砂千里ヶ浜も草千里ヶ浜も、
「雪千里ヶ浜」となり、見分けがつきませんでした。
しかし、近くの人たちでしょうか、
ソリやスキーをもってきて、
雪遊びをしている人がたくさんいました。
阿蘇山の初日が、雪で予定していたところがいけなかったので、
その日は、白水村周辺をうろついていました。
すると温室がたくさんあり、寒い中に無人販売がありました。
そこではイチゴが売られていました。
北海道から来た人間には信じられない光景ですが、イチゴを味わいました。
たまたまその農家の方がこられたので聞いたところ、
暖房をしながら温室でイチゴを作っているとのことでした。
少々高いイチゴでしたが、農家の湧き水で洗わせてもらって、
一足早い春を味わうことができました。
2006-02-15
14 十勝岳:田園風景の背景にあるもの 2006.02.15
Time:
9:13
●
Geologist
北の大地の象徴ともいうべき美瑛の田園風景は、激しい火山活動の結果なのです。田園風景の背景に隠された激しい大地の営みを見ていきましょう。
もう30年近く前の秋のころでしょうか。はじめて美瑛の田園風景を見て、心を打たれたことを覚えています。その田園風景の背景には雪化粧した十勝岳に噴煙が上がっていたことも一緒に覚えています。
北海道の美瑛と富良野は、きれいな田園風景が広がっていて、観光が盛んになってきました。30年以上前の学生時代に、空知川流域の調査で富良野より少し下流あたりに何度か調査でいったことがありました。その折に美瑛や富良野によったことがあります。調査の時だけではなく、観光やスキーで行ったこともありました。行くたびに、美瑛の田園風景には見とれてしまいました。
美瑛と富良野を訪れる多くの人が感じるのは、同じ日本でありながら、日本的でない異国のような景色、あるいは現在では北海道的とされている景観に、心を動かされているのではないでしょうか。
私は京都の農家の出ですが、私の見慣れている田畑は、平地にあるものでした。山や傾斜の田畑も、平らにされていて、棚田や段々畑になっていました。ですから、耕作地とは平らなものという先入観がありました。それに区画整理がまだ整っていない畦が入り組んだ田畑が、私の原風景でもありました。
ところがこの美瑛の田園風景は、広大でうねった傾斜地でもどこまでもまっすぐにのびる作物の列がありました。私がそれまで見てきた日本の田畑とは明らかに異なった光景でした。それが、北海道の気候とあいまって、さわやかで心打たれる景色となっています。
2005年の夏、約20年ぶりに美瑛の丘と十勝岳を見るために訪れました。町はだいぶ様変わりしていましたが、田園風景は昔のまま残っていました。昔と一番違っていたのは、観光に力を入れた結果でしょうか、幹線道路の渋滞とたくさんの観光施設でした。
十勝岳は、美瑛の東側に位置する活火山です。現在も噴気を上げています。美瑛と富良野の間の上富良野あたりから十勝岳に向かう道路があります。その道は、なだらかな登りで両側には田園風景が延々と続きます。その道の突き当りが十勝岳温泉です。しかし十勝岳に向かうには十勝岳温泉の手前で北に向かう道に入ります。途中、吹上温泉を右に見てさらに進むと、望岳台があります。そこが十勝岳の展望台と登山道のはじまりとなっています。
十勝岳は、繰り返し噴火してきた成層火山です。北海道でも有数の活火山で、何度も噴火が起こしてきました。十勝岳だけでなく、十勝岳から南東方向、北西方向に延びる山並みは、すべて十勝岳と同じ成層火山からできています。これらの火山を、十勝岳火山群と呼んでいます。
十勝岳火山群は、長い期間にわたって何度も噴火してきた火山です。十勝岳火山群の火山活動は、古期、中期、新期の3つに区分されています。古期の火山活動の正確な開始時期は分かっていません。地層の地質学的関係から50万年より新しい時代の活動であることは判明しています。古期と中期の間には活動の休止なく活動しています。
中期と新期の間には、火山活動の休止期がありました。新期の活動が開始した時代も正確にはわかっていませんが、1万年より新しいと考えられています。新期の活動は、美瑛富士と、十勝岳の1kmほど北にある鋸岳からの噴火からはじまりました。3000年前ころには、十勝岳本体での活動が起こりました。
歴史時代になっても十勝岳の火山活動は続いていて、1857年、1887年、1836年、1962年、1988-89年の火山活動の記録があり、現在も噴気が上がっています。
中でも1926年(昭和元年)の噴火は大きな被害を出しました。1926年2月から小規模な噴火を繰り返していていたのですが、5月24日正午過ぎ、中央火口丘の北西部から水蒸気爆発が起こり、小規模な泥流が発生しました。泥流は6kmほど下の白金温泉まで流れ下りました。午後2時にも小規模な噴火がありました。
そして、午後4時18分に、大規模な水蒸気爆発が起こりました。この噴火により熱い岩屑なだれが形成されて、積雪が融けて、大規模な泥流が発生しました。噴火の1分後には2.4km離れた硫黄鉱山事務所を襲い、24分後には25km離れた上富良野や美瑛町を襲いました。死者・行方不明者144名、負傷者約200名におよぶ大災害となりました。この噴火によって北西方向に開いたU字型の火口(450×300m)が形成されました。
その後も噴火が繰り返され、9月にはさらに行方不明者2名を出す噴火があり、大正火口ができました。1928年(昭和3年)12月に、ようやく一連の噴火がおさまりました。
十勝岳は、現在も小規模な火山活動が続いています。1998年と2000年には、やや活動が活発化しました。その後も毎年のように小規模な火山活動が繰り返されています。
十勝岳の山頂周辺を見ると、上で述べた活動の噴火口以外にも、たくさんの丸いくぼ地となった噴火口が見つかります。地形図に名前が出ているだけでも、グランド火口、大正火口、中央火口、62-II火口、昭和火口、スリバチ火口、北向火口などがあります。U字型をした噴火口もたくさんみることができます。
火山活動でできた地形は、時間が立つと侵食を受け、その形は不明瞭になっていきます。噴火口の地形がきれいに残されているのは、最近まで活発な火山活動があったこと示しています。
噴火口だけでなく、溶岩が流れれば溶岩固有の地形ができます。泥流が流れれば泥流の堆積物が特有の地形を作ります。火砕流が流れれば火砕流に固有の地形ができます。
活発な火山であれば、周辺だけでなく広く火山灰などの火山噴出物を飛ばします。火山活動時期にたまった地層の中に、十勝岳からの火山灰を見つけることで、どこまで火山灰が到達し、積もったかを調べることができます。その結果、北海道の中央部には、十勝岳火山群の火山噴出物が広く積もっていることがわかっています。
十勝岳は、古期から火山活動をはじめ、中期にも続き、中期の最後には溶岩ドームを形成しています。新期にも激しい活動をして、そのたびに、十勝岳は山の形状を変えてきました。そして、火山の裾野も噴火のたびに地形を変えてきました。十勝岳の火山活動は現在も続いています。現在の十勝岳の形状、地形は、何度の改変を受けた結果なのです。しかし、これは、次の大規模な噴火がおこれば、また変わっていくものです。火山の歴史からすれば、現在の火山の形態や地形は、一時的なものにしか過ぎません。
そんな火山噴火の地に人が住み着き、そして大地の表層を耕し、今の美瑛の田園風景をつくりました。ひとたび噴火があると風景は一変して、火山噴出物や泥流の原野へと変わります。しかし、人は、めげずに再び田園風景へと戻してきたのです。火山活動という自然の営みと、人と営みが、この美瑛の田園風景を作り上げているのです。
・春の兆し・
北海道も三寒四温の季節となりました。
2月上旬までは、寒いだけで暖かい日などほとんどなかったのですが、
雪祭りが終わるころから、暖かく雪の解ける日がはじまりました。
季節の巡りを感じます。
本州から来た人は、冬にしか見えないでしょうが、
住んでいる人間には、雪景色の中に春の訪れを感じます。
今年は冬が厳しかったため、
春の訪れをより強く感じるのかもしれません。
春が待ち遠しいです。
そんな季節になってきました。
・風邪・
春の兆しが見えたというのに、
2月になっても、私と長男は風邪をひいています。
どうもしつこい風邪で、1月にひいた風邪がなかなか治りません。
風邪を押して、だまし、だまし仕事をしているのですが、
なかなか本調子になりません。
今年の冬は、雪の中を歩こうと、家族分のカンジキを用意したのですが、
まだ試し履きだけで、森の中を歩くのに使っていません。
いつ使えることになるのでしょうか。
それとも、来年までしまっておくのでしょうか。
それだけは、なんとか避けたいのですが。
もう30年近く前の秋のころでしょうか。はじめて美瑛の田園風景を見て、心を打たれたことを覚えています。その田園風景の背景には雪化粧した十勝岳に噴煙が上がっていたことも一緒に覚えています。
北海道の美瑛と富良野は、きれいな田園風景が広がっていて、観光が盛んになってきました。30年以上前の学生時代に、空知川流域の調査で富良野より少し下流あたりに何度か調査でいったことがありました。その折に美瑛や富良野によったことがあります。調査の時だけではなく、観光やスキーで行ったこともありました。行くたびに、美瑛の田園風景には見とれてしまいました。
美瑛と富良野を訪れる多くの人が感じるのは、同じ日本でありながら、日本的でない異国のような景色、あるいは現在では北海道的とされている景観に、心を動かされているのではないでしょうか。
私は京都の農家の出ですが、私の見慣れている田畑は、平地にあるものでした。山や傾斜の田畑も、平らにされていて、棚田や段々畑になっていました。ですから、耕作地とは平らなものという先入観がありました。それに区画整理がまだ整っていない畦が入り組んだ田畑が、私の原風景でもありました。
ところがこの美瑛の田園風景は、広大でうねった傾斜地でもどこまでもまっすぐにのびる作物の列がありました。私がそれまで見てきた日本の田畑とは明らかに異なった光景でした。それが、北海道の気候とあいまって、さわやかで心打たれる景色となっています。
2005年の夏、約20年ぶりに美瑛の丘と十勝岳を見るために訪れました。町はだいぶ様変わりしていましたが、田園風景は昔のまま残っていました。昔と一番違っていたのは、観光に力を入れた結果でしょうか、幹線道路の渋滞とたくさんの観光施設でした。
十勝岳は、美瑛の東側に位置する活火山です。現在も噴気を上げています。美瑛と富良野の間の上富良野あたりから十勝岳に向かう道路があります。その道は、なだらかな登りで両側には田園風景が延々と続きます。その道の突き当りが十勝岳温泉です。しかし十勝岳に向かうには十勝岳温泉の手前で北に向かう道に入ります。途中、吹上温泉を右に見てさらに進むと、望岳台があります。そこが十勝岳の展望台と登山道のはじまりとなっています。
十勝岳は、繰り返し噴火してきた成層火山です。北海道でも有数の活火山で、何度も噴火が起こしてきました。十勝岳だけでなく、十勝岳から南東方向、北西方向に延びる山並みは、すべて十勝岳と同じ成層火山からできています。これらの火山を、十勝岳火山群と呼んでいます。
十勝岳火山群は、長い期間にわたって何度も噴火してきた火山です。十勝岳火山群の火山活動は、古期、中期、新期の3つに区分されています。古期の火山活動の正確な開始時期は分かっていません。地層の地質学的関係から50万年より新しい時代の活動であることは判明しています。古期と中期の間には活動の休止なく活動しています。
中期と新期の間には、火山活動の休止期がありました。新期の活動が開始した時代も正確にはわかっていませんが、1万年より新しいと考えられています。新期の活動は、美瑛富士と、十勝岳の1kmほど北にある鋸岳からの噴火からはじまりました。3000年前ころには、十勝岳本体での活動が起こりました。
歴史時代になっても十勝岳の火山活動は続いていて、1857年、1887年、1836年、1962年、1988-89年の火山活動の記録があり、現在も噴気が上がっています。
中でも1926年(昭和元年)の噴火は大きな被害を出しました。1926年2月から小規模な噴火を繰り返していていたのですが、5月24日正午過ぎ、中央火口丘の北西部から水蒸気爆発が起こり、小規模な泥流が発生しました。泥流は6kmほど下の白金温泉まで流れ下りました。午後2時にも小規模な噴火がありました。
そして、午後4時18分に、大規模な水蒸気爆発が起こりました。この噴火により熱い岩屑なだれが形成されて、積雪が融けて、大規模な泥流が発生しました。噴火の1分後には2.4km離れた硫黄鉱山事務所を襲い、24分後には25km離れた上富良野や美瑛町を襲いました。死者・行方不明者144名、負傷者約200名におよぶ大災害となりました。この噴火によって北西方向に開いたU字型の火口(450×300m)が形成されました。
その後も噴火が繰り返され、9月にはさらに行方不明者2名を出す噴火があり、大正火口ができました。1928年(昭和3年)12月に、ようやく一連の噴火がおさまりました。
十勝岳は、現在も小規模な火山活動が続いています。1998年と2000年には、やや活動が活発化しました。その後も毎年のように小規模な火山活動が繰り返されています。
十勝岳の山頂周辺を見ると、上で述べた活動の噴火口以外にも、たくさんの丸いくぼ地となった噴火口が見つかります。地形図に名前が出ているだけでも、グランド火口、大正火口、中央火口、62-II火口、昭和火口、スリバチ火口、北向火口などがあります。U字型をした噴火口もたくさんみることができます。
火山活動でできた地形は、時間が立つと侵食を受け、その形は不明瞭になっていきます。噴火口の地形がきれいに残されているのは、最近まで活発な火山活動があったこと示しています。
噴火口だけでなく、溶岩が流れれば溶岩固有の地形ができます。泥流が流れれば泥流の堆積物が特有の地形を作ります。火砕流が流れれば火砕流に固有の地形ができます。
活発な火山であれば、周辺だけでなく広く火山灰などの火山噴出物を飛ばします。火山活動時期にたまった地層の中に、十勝岳からの火山灰を見つけることで、どこまで火山灰が到達し、積もったかを調べることができます。その結果、北海道の中央部には、十勝岳火山群の火山噴出物が広く積もっていることがわかっています。
十勝岳は、古期から火山活動をはじめ、中期にも続き、中期の最後には溶岩ドームを形成しています。新期にも激しい活動をして、そのたびに、十勝岳は山の形状を変えてきました。そして、火山の裾野も噴火のたびに地形を変えてきました。十勝岳の火山活動は現在も続いています。現在の十勝岳の形状、地形は、何度の改変を受けた結果なのです。しかし、これは、次の大規模な噴火がおこれば、また変わっていくものです。火山の歴史からすれば、現在の火山の形態や地形は、一時的なものにしか過ぎません。
そんな火山噴火の地に人が住み着き、そして大地の表層を耕し、今の美瑛の田園風景をつくりました。ひとたび噴火があると風景は一変して、火山噴出物や泥流の原野へと変わります。しかし、人は、めげずに再び田園風景へと戻してきたのです。火山活動という自然の営みと、人と営みが、この美瑛の田園風景を作り上げているのです。
・春の兆し・
北海道も三寒四温の季節となりました。
2月上旬までは、寒いだけで暖かい日などほとんどなかったのですが、
雪祭りが終わるころから、暖かく雪の解ける日がはじまりました。
季節の巡りを感じます。
本州から来た人は、冬にしか見えないでしょうが、
住んでいる人間には、雪景色の中に春の訪れを感じます。
今年は冬が厳しかったため、
春の訪れをより強く感じるのかもしれません。
春が待ち遠しいです。
そんな季節になってきました。
・風邪・
春の兆しが見えたというのに、
2月になっても、私と長男は風邪をひいています。
どうもしつこい風邪で、1月にひいた風邪がなかなか治りません。
風邪を押して、だまし、だまし仕事をしているのですが、
なかなか本調子になりません。
今年の冬は、雪の中を歩こうと、家族分のカンジキを用意したのですが、
まだ試し履きだけで、森の中を歩くのに使っていません。
いつ使えることになるのでしょうか。
それとも、来年までしまっておくのでしょうか。
それだけは、なんとか避けたいのですが。
2006-01-15
13 富士山:防災のための分類 2006.01.15
Time:
9:12
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Geologist
現在の活火山という分類は、人間が火山災害をできるだけ少なくするために考え出された方法です。まだまだ活火山の研究は途中ですが、現状を紹介しましょう。
日本の山の象徴として、富士山が挙げられます。葛飾北斎の富岳三十六景の浮世絵はあまりに有名です。太宰治は、「富嶽百景」の中で、あの有名な「富士には月見草がよく似合う」という言葉を残しました。カレンダーにもよく使われています。「一ふじ、二たか、三なすび」というように、初夢のめでたいものの象徴としても、富士山が使われます。富士山は日本人にとっては、非常に馴染み深い山であるといえます。
その理由の一つは、富士山は、独立した山で、円錐形のきれいな形をしてるからでしょう。そのきれいな形が、多くの人を魅了してきたのでしょう。時には宗教的崇拝の対象となり、ある時には写真や映像の被写体としての魅力もあったでしょう。また、富士山は、日本最高峰という高さをもっています。高い山の登頂は、厳しい条件を乗り越えた後、達成されます。登頂の目的としても、修行の場としても、富士山は美しさの反面でもある厳しさを持っているのです。
富士山は、ご存知通り、火山活動によってできた山です。日本列島で見ることのできる火山には、いろいろな形がありますが、富士山は、成層火山というタイプの形をしています。成層火山とは、層を成すという字が使われていることでもわかるように、火山噴火が何度もあり、そのたびに噴出物が出て、積み重なって高い山になってきたものです。成層火山は、富士山と似たような形となります。ですから、各地で○○富士という名称の山がありますが、その多くは成層火山です。
火山とは、富士山のように風光明媚な景観をもたらしてくれます。そして、日本人は大好きな温泉も提供してくれます。しかし、いったん噴火が起こると、火山は近づきがたい危険なものとなります。火山の歴史を見ていくと、激しい噴火を起こすのは一時期で、それ以外は穏やかで、あまり活動的ではありません。火山には人にとって明と闇の両面を持っています。火山とは、ある一時的な活動が災害という闇の部分で、他の大部分の期間は人に益を与える明の部分となります。
火山の災害は、火山噴火が予知できれば、防災可能となります。かつて、火山の区分として、活火山の他に、休火山、死火山がありましたが、現在では使われていません。それは、防災という観点からみて、休火山、死火山が無用であり、誤解を与えかねないからであります。
かつての活火山の定義は、「過去およそ2000年以内に噴火した火山及び現在活発な噴気活動のある火山」となっていました。それ以前の火山で、火山活動を休止しているものを休火山、過去に噴火の記録のないものを死火山としてました。かつての分類では、富士山は休火山になっていました。
しかし、このような定義は、言葉の上ではできても、実際の火山にあてはめると難しくなります。2000年以内に記録がなくても、本当は噴火した火山があります。たまたま昔の人が記録していなかったり、研究がまだ進んでなくて実態が不明なだけなのかもしれません。記録のないのは活動していないと道東ではないのです。
また、休火山と死火山の境目をどこに引くか、活火山と休火山の境目をどこに引くかは、言葉ではできたとしても、実際の火山の防災を考えると意味をなしません。
例えば、1979年に死火山に分類されていた木曽御嶽山が、水蒸気爆発を起こしたことから、死火山の分類区分が意味が無く、防災上は弊害となることがわかりました。また、火山の研究が進んで、火山活動の期間は、従来の2000年ほどの単位では収まらず、1万年の単位で火山活動が起こるという見方が必要であることがわかってきました。
このような背景から、休火山と死火山という用語は使わなくなりました。
現在では、まず火山という分類があります。火山とは、ある山が火山活動によってできたかどうか、です。火山のなかで、現在噴火中のもの、あるいは過去約1万年間で噴火したものを活火山と定義することになっています。
このような定義の変遷にともなって、活火山の数は増加してきました。1968年に気象庁がつくったリストでは、日本の活火山として66個挙げられていました。1975年に火山噴火予知連絡会が作成した「日本活火山要覧」では、北方領土の活火山も含めて77個の活火山が掲載されています。1996年には、「日本活火山要覧(第2版)」が出版され83個に、その後1996年には3つの火山が追加され86個の活火山となりました。そして、現在の定義となり、2005年の気象庁編「日本活火山要覧(第3版)」では、108個が活火山として登録されています。
もちろん富士山は、活火山として分類されています。
活火山も、過去の活動度によって、3つのランクに分けられています。ランクは、過去100年間の観測データに基づく「100年活動指数」と、過去1万年間の地層に残るような大規模な噴火の記録に基づく「1万年活動度指数」それぞれ数値化して示しされています。その両者を参考にして、活動的な火山から順にA、B、Cの3つのランクをつけました。
その結果、Aランクは13火山(十勝岳、樽前山、有珠山、北海道駒ヶ岳、浅間山、伊豆大島、三宅島、伊豆鳥島、阿蘇山、雲仙岳、桜島、薩摩硫黄島、諏訪之瀬島)で、Bランクは36火山、Cランクは36火山、ランク外23火山(海底火山、北方領土のため)となっています。富士山はBランクとなっています。
また、気象庁では、2003年11月4日より火山活動度レベルというものを示しています。火山活動度レベルとは、現在の火山活動の程度と防災対応の必要性の有無を、0~5の6段階の数値で表しています。実際の火山災害に運用にできる情報提供をしています。
レベル0は長期間火山の活動の兆候がない。レベル1は静穏な火山活動で噴火の兆候はない。レベル2はやや活発な火山活動で、火山活動の状態を見守っていく必要がある。レベル3は小~中規模噴火活動等で、火山活動に十分注意する必要がある。レベル4は中~大規模噴火活動等で、火口から離れた地域にも影響の可能性があり、警戒が必要。レベル5は極めて大規模な噴火活動等で、噴火活動等広域で警戒が必要、となっています。
まだ、これは、全火山には対応していおらず、12個の火山(浅間山、伊豆大島、阿蘇山、雲仙岳、桜島、吾妻山、草津白根山、九重山、霧島山、薩摩硫黄島、口永良部島、諏訪之瀬島)だけで実施されています。今後、さらに増えていく予定です。このうち、活動レベル3は諏訪之瀬島で、レベル2は、浅間山、霧島山、桜島、薩摩硫黄島、口永良部島の5個で、あとはレベル1です。富士山はまだこのレベルは示されていませんが、レベル1になると考えられます。
富士山は成層火山ですから、過去から何度も噴火を繰り返してきたことがわかります。火山の形成は、大きく三つの活動に分けられます。古いものが順番に、小御岳(こみたけ)、古富士、新富士と活動しています。
小御岳の活動は、数十万年前に活動したできた火山です。古富士の活動は、8万年前頃から1万5千年前頃まで火山噴火を起こしました。古富士は、成層火山で、標高3000m近くの高さまで達したと考えられています。古富士の山頂は、現在の宝永火口の北側、1~2kmのところにあったと考えられています。
新富士の活動は、1万1000年前から8000年前にかけて、古富士の山頂と西側の火口から噴火を起こし、大量の溶岩を出しました。この溶岩によって、現在の富士山の山体である新富士が形成されました。この時には、古富士の山頂と新富士の山頂が東西に並んでいたと考えられます。その後、8000年前から4500年前にかけて、山頂の火口から小規模の噴火を繰り返し、火山灰を出しました。4500年前から3000年前には、再び山頂や火山の脇から大規模な溶岩を流しました。大規模な溶岩の流出は、これ以降起こっていません。
3000年前から2000年前までは、大規模な噴火が山頂火口からありました。これ以降は山頂からの噴火は無くなり、火山の山体の脇(側火山)からの噴火になります。
最後の火山噴火は、1707年(宝永4年)の噴火です。この時の噴火で、宝永山ができ、宝永山の西側には巨大な噴火口は残っています。
最近では、1897年から山頂で噴気活動があり1960年代まで活動は続きましたが、1982年には噴気はなくなっていました。1987年8月20~27日に山頂で最大震度3の有感地震4回が起こっています。2000年10~12月および2001年4~5月にはやや深部低周波地震の多発し、現在は収まっています。
なお、東京大学地震研究所の2004年4月に行ったボーリング調査によって、小御岳よりさらに古い山体があることがわかり、先小御岳と名付けられています。
私は、以前、神奈川県の西の端の小田原市と湯河原町に住んでいました。小田原に住んでいたときには、毎日富士山を眺められる環境でした。近かったこともあったので、富士山を眺めることだけでなく、旅行でも、調査でも、富士山には何度も出かけました。しかし、残念ながら山頂へは行きませんでした。いつでもいけるという気持ちでいたからでしょうかね。
・風邪・
今回のメールマガジンの発行が1週間遅れました。
申し訳けありませんでした。
1月5日から12日まで、九州の調査に出かけていました。
帰宅後風邪を引き、数日寝ていました。
風邪を押して授業をして、溜まっていた仕事、
センター試験の監督などをしていたので、
メールマガジンをまとめる時間ができませんでした。
テーマは富士山に決めていたのですが、
きょうやっと時間ができ、急いで発行することできました。
ホームページの図の作成には、少し後になるかもしれません。
・富士・
私が神奈川の西部に住んでいたときは、
箱根と共に富士山は馴染みある火山でした。
特に小田原に住んできるときは、
アパートの窓から毎日見ることができましたし、
駅から自宅までの道からも見ることができました。
また、車でいけるいろいろなルートで富士山に出かけました。
富士山周辺にも出かけています。
大きな山ですので、周辺からもいろいろ眺めるための見所があります。
でも、それは富士山は火山本体がすばらしい成層火山だからでしょう。
私もいろいろなところから富士山を眺めました。
その大きくどっしりとした山体は、
いろいろな方向、いろいろな時刻、いろいろな季節で
さまざまな素顔をみることができます。
それが富士山を被写体にする
プロ、アマの写真家が多い所以でしょう。
北海道に住むようになって、富士山は遠くなりました。
でも北海道には蝦夷富士(羊蹄山)、利尻富士(利尻山)があります。
でも、毎日眺めることはできませんが、
少し足を伸ばせば見ることができます。
日本人は富士山か好きなのですね。
日本の山の象徴として、富士山が挙げられます。葛飾北斎の富岳三十六景の浮世絵はあまりに有名です。太宰治は、「富嶽百景」の中で、あの有名な「富士には月見草がよく似合う」という言葉を残しました。カレンダーにもよく使われています。「一ふじ、二たか、三なすび」というように、初夢のめでたいものの象徴としても、富士山が使われます。富士山は日本人にとっては、非常に馴染み深い山であるといえます。
その理由の一つは、富士山は、独立した山で、円錐形のきれいな形をしてるからでしょう。そのきれいな形が、多くの人を魅了してきたのでしょう。時には宗教的崇拝の対象となり、ある時には写真や映像の被写体としての魅力もあったでしょう。また、富士山は、日本最高峰という高さをもっています。高い山の登頂は、厳しい条件を乗り越えた後、達成されます。登頂の目的としても、修行の場としても、富士山は美しさの反面でもある厳しさを持っているのです。
富士山は、ご存知通り、火山活動によってできた山です。日本列島で見ることのできる火山には、いろいろな形がありますが、富士山は、成層火山というタイプの形をしています。成層火山とは、層を成すという字が使われていることでもわかるように、火山噴火が何度もあり、そのたびに噴出物が出て、積み重なって高い山になってきたものです。成層火山は、富士山と似たような形となります。ですから、各地で○○富士という名称の山がありますが、その多くは成層火山です。
火山とは、富士山のように風光明媚な景観をもたらしてくれます。そして、日本人は大好きな温泉も提供してくれます。しかし、いったん噴火が起こると、火山は近づきがたい危険なものとなります。火山の歴史を見ていくと、激しい噴火を起こすのは一時期で、それ以外は穏やかで、あまり活動的ではありません。火山には人にとって明と闇の両面を持っています。火山とは、ある一時的な活動が災害という闇の部分で、他の大部分の期間は人に益を与える明の部分となります。
火山の災害は、火山噴火が予知できれば、防災可能となります。かつて、火山の区分として、活火山の他に、休火山、死火山がありましたが、現在では使われていません。それは、防災という観点からみて、休火山、死火山が無用であり、誤解を与えかねないからであります。
かつての活火山の定義は、「過去およそ2000年以内に噴火した火山及び現在活発な噴気活動のある火山」となっていました。それ以前の火山で、火山活動を休止しているものを休火山、過去に噴火の記録のないものを死火山としてました。かつての分類では、富士山は休火山になっていました。
しかし、このような定義は、言葉の上ではできても、実際の火山にあてはめると難しくなります。2000年以内に記録がなくても、本当は噴火した火山があります。たまたま昔の人が記録していなかったり、研究がまだ進んでなくて実態が不明なだけなのかもしれません。記録のないのは活動していないと道東ではないのです。
また、休火山と死火山の境目をどこに引くか、活火山と休火山の境目をどこに引くかは、言葉ではできたとしても、実際の火山の防災を考えると意味をなしません。
例えば、1979年に死火山に分類されていた木曽御嶽山が、水蒸気爆発を起こしたことから、死火山の分類区分が意味が無く、防災上は弊害となることがわかりました。また、火山の研究が進んで、火山活動の期間は、従来の2000年ほどの単位では収まらず、1万年の単位で火山活動が起こるという見方が必要であることがわかってきました。
このような背景から、休火山と死火山という用語は使わなくなりました。
現在では、まず火山という分類があります。火山とは、ある山が火山活動によってできたかどうか、です。火山のなかで、現在噴火中のもの、あるいは過去約1万年間で噴火したものを活火山と定義することになっています。
このような定義の変遷にともなって、活火山の数は増加してきました。1968年に気象庁がつくったリストでは、日本の活火山として66個挙げられていました。1975年に火山噴火予知連絡会が作成した「日本活火山要覧」では、北方領土の活火山も含めて77個の活火山が掲載されています。1996年には、「日本活火山要覧(第2版)」が出版され83個に、その後1996年には3つの火山が追加され86個の活火山となりました。そして、現在の定義となり、2005年の気象庁編「日本活火山要覧(第3版)」では、108個が活火山として登録されています。
もちろん富士山は、活火山として分類されています。
活火山も、過去の活動度によって、3つのランクに分けられています。ランクは、過去100年間の観測データに基づく「100年活動指数」と、過去1万年間の地層に残るような大規模な噴火の記録に基づく「1万年活動度指数」それぞれ数値化して示しされています。その両者を参考にして、活動的な火山から順にA、B、Cの3つのランクをつけました。
その結果、Aランクは13火山(十勝岳、樽前山、有珠山、北海道駒ヶ岳、浅間山、伊豆大島、三宅島、伊豆鳥島、阿蘇山、雲仙岳、桜島、薩摩硫黄島、諏訪之瀬島)で、Bランクは36火山、Cランクは36火山、ランク外23火山(海底火山、北方領土のため)となっています。富士山はBランクとなっています。
また、気象庁では、2003年11月4日より火山活動度レベルというものを示しています。火山活動度レベルとは、現在の火山活動の程度と防災対応の必要性の有無を、0~5の6段階の数値で表しています。実際の火山災害に運用にできる情報提供をしています。
レベル0は長期間火山の活動の兆候がない。レベル1は静穏な火山活動で噴火の兆候はない。レベル2はやや活発な火山活動で、火山活動の状態を見守っていく必要がある。レベル3は小~中規模噴火活動等で、火山活動に十分注意する必要がある。レベル4は中~大規模噴火活動等で、火口から離れた地域にも影響の可能性があり、警戒が必要。レベル5は極めて大規模な噴火活動等で、噴火活動等広域で警戒が必要、となっています。
まだ、これは、全火山には対応していおらず、12個の火山(浅間山、伊豆大島、阿蘇山、雲仙岳、桜島、吾妻山、草津白根山、九重山、霧島山、薩摩硫黄島、口永良部島、諏訪之瀬島)だけで実施されています。今後、さらに増えていく予定です。このうち、活動レベル3は諏訪之瀬島で、レベル2は、浅間山、霧島山、桜島、薩摩硫黄島、口永良部島の5個で、あとはレベル1です。富士山はまだこのレベルは示されていませんが、レベル1になると考えられます。
富士山は成層火山ですから、過去から何度も噴火を繰り返してきたことがわかります。火山の形成は、大きく三つの活動に分けられます。古いものが順番に、小御岳(こみたけ)、古富士、新富士と活動しています。
小御岳の活動は、数十万年前に活動したできた火山です。古富士の活動は、8万年前頃から1万5千年前頃まで火山噴火を起こしました。古富士は、成層火山で、標高3000m近くの高さまで達したと考えられています。古富士の山頂は、現在の宝永火口の北側、1~2kmのところにあったと考えられています。
新富士の活動は、1万1000年前から8000年前にかけて、古富士の山頂と西側の火口から噴火を起こし、大量の溶岩を出しました。この溶岩によって、現在の富士山の山体である新富士が形成されました。この時には、古富士の山頂と新富士の山頂が東西に並んでいたと考えられます。その後、8000年前から4500年前にかけて、山頂の火口から小規模の噴火を繰り返し、火山灰を出しました。4500年前から3000年前には、再び山頂や火山の脇から大規模な溶岩を流しました。大規模な溶岩の流出は、これ以降起こっていません。
3000年前から2000年前までは、大規模な噴火が山頂火口からありました。これ以降は山頂からの噴火は無くなり、火山の山体の脇(側火山)からの噴火になります。
最後の火山噴火は、1707年(宝永4年)の噴火です。この時の噴火で、宝永山ができ、宝永山の西側には巨大な噴火口は残っています。
最近では、1897年から山頂で噴気活動があり1960年代まで活動は続きましたが、1982年には噴気はなくなっていました。1987年8月20~27日に山頂で最大震度3の有感地震4回が起こっています。2000年10~12月および2001年4~5月にはやや深部低周波地震の多発し、現在は収まっています。
なお、東京大学地震研究所の2004年4月に行ったボーリング調査によって、小御岳よりさらに古い山体があることがわかり、先小御岳と名付けられています。
私は、以前、神奈川県の西の端の小田原市と湯河原町に住んでいました。小田原に住んでいたときには、毎日富士山を眺められる環境でした。近かったこともあったので、富士山を眺めることだけでなく、旅行でも、調査でも、富士山には何度も出かけました。しかし、残念ながら山頂へは行きませんでした。いつでもいけるという気持ちでいたからでしょうかね。
・風邪・
今回のメールマガジンの発行が1週間遅れました。
申し訳けありませんでした。
1月5日から12日まで、九州の調査に出かけていました。
帰宅後風邪を引き、数日寝ていました。
風邪を押して授業をして、溜まっていた仕事、
センター試験の監督などをしていたので、
メールマガジンをまとめる時間ができませんでした。
テーマは富士山に決めていたのですが、
きょうやっと時間ができ、急いで発行することできました。
ホームページの図の作成には、少し後になるかもしれません。
・富士・
私が神奈川の西部に住んでいたときは、
箱根と共に富士山は馴染みある火山でした。
特に小田原に住んできるときは、
アパートの窓から毎日見ることができましたし、
駅から自宅までの道からも見ることができました。
また、車でいけるいろいろなルートで富士山に出かけました。
富士山周辺にも出かけています。
大きな山ですので、周辺からもいろいろ眺めるための見所があります。
でも、それは富士山は火山本体がすばらしい成層火山だからでしょう。
私もいろいろなところから富士山を眺めました。
その大きくどっしりとした山体は、
いろいろな方向、いろいろな時刻、いろいろな季節で
さまざまな素顔をみることができます。
それが富士山を被写体にする
プロ、アマの写真家が多い所以でしょう。
北海道に住むようになって、富士山は遠くなりました。
でも北海道には蝦夷富士(羊蹄山)、利尻富士(利尻山)があります。
でも、毎日眺めることはできませんが、
少し足を伸ばせば見ることができます。
日本人は富士山か好きなのですね。
2005-12-15
12 金華山:戦国武将たちが見た山並み 2005.12.15
Time:
9:12
●
Geologist
長良川が山地から平野に出る位置に、金華山があります。金華山から見ると、濃尾平野が一望の下に見下ろすことができます。戦国武将が見た周辺の山並みには、日本の大地の生い立ちの秘密が隠されています。
濃尾平野は、中京地方の産業が栄えているところです。濃尾平野は、南が伊勢湾に海に面し、北が岐阜県の岐阜市と各務原、愛知県の犬山市あたりで急な山並みで終わっています。
鵜飼で有名な長良川を遡っていくと、金華山付近で急に険しい山並みに流れは入っていきます。その山並みは、川をさえぎるようにそびえています。平野を見下ろすような山地は、戦略的に重要な地点となっています。岐阜市には金華山の岐阜城、犬山市には犬山城があります。特に金華山の岐阜城は戦略的に重要で、鎌倉時代には砦が築かれています。金華山の城は、時代小説の題材としてよくでてきます。
私は、2003年から2005年にかけて、ある研究の集まりで、たびたび岐阜に出かけることがありました。研究会のメンバーは大抵、金華山を長良川越しに見る旅館に泊まっていました。早朝に何度か岐阜城にも登りました。山としては、険しいのですが、それほど高くないので、朝ごはん前に登ることができました。こんな高い山の上に城をつくり、人が常駐していたことを思うと、昔の人の足腰の強さを感じます。
斉藤道三がこの城を下克上で手に入れ、次には織田信長が道三の孫の龍興を倒して手に入れました。織田信長は、それまで稲葉山城と呼ばれていたこの城を岐阜城と改め、10年間拠点として使っていました。その後、関が原の合戦で、信長の孫の秀信が西軍に加わったため、東軍に攻められ、落城し、以降は廃城となり、城はなくなりました。
岐阜城は地の利の良さから、難攻不落の名城として知られていますが、歴史上6回の落城にあっています。それに山頂は水も雨水を利用していたので、長期に及ぶ籠城には適さなかったようです。
現在は、三層の城として1956年に再建され、1997年に改修されたものがあり、観光名所となっています。ロープウェイもつけられ、登りやすくなっています。頂上からの眺めはすばらしく、夜には城がライトアップされ幻想的な雰囲気をかもし出しています。私が登ったときは、早朝でまだロープウェイが営業していない時間帯でしたので、歩いて登り下りしました。
私が、岐阜城に登っていて気になったのは、金華山をつくっている石です。登山道のいたるところで、非常に特徴的な石を見ることができます。この石は、10cm前後の厚さの板状で、何枚の板が重なって地層となっています。さらに、この地層全体が激しく曲がりくねっています。
この石はチャートと呼ばれるものです。金華山全体が、チャートを主とする地層からできています。金華山のチャートは、白っぽい色をしています。
チャートという石は、海に生きていた放散虫などのプランクトンなどが死んで、海底でたまったものが固まって地層となりました。放散虫は珪酸でできた殻を持っていたので、死んだ後、体の有機物は分解されてしまうのですが、殻が残って地層となっていきます。一つ一つは小さな殻なので、チャートのような地層が溜まるには、長い時間が必要になります。
チャートは、ほとんどが珪酸からできているのですが、少し不純物が入っています。その不純物によってチャートには色が着きます。赤っぽい色は鉄やマンガンの酸化物の色で、黒っぽい色は硫化物や炭化物などの色です。緑のこともありますが、これは少量含まれている粘土鉱物の色です。
白っぽい色はチャート本来の色で、不純物がもともと少なかったものと、もともと色はあったものが再結晶作用と呼ばれるもので色がなくなっているものがあります。海底から陸地へ持ち上げられる時に受ける変成作用で、鉱物が再度、結晶しなおして、不純物を含まなくなることがあります。
チャートは、非常に硬い石で、他の石に比べて地上での風化には強く、あまり削剥や侵食を受けません。地層の中にチャートがたくさん混じっているところは、チャートの部分だけが侵食に耐えて残っていきます。つまり、周りが削られて低くなっていくのに、チャートのところだけが高く残っていきます。これが、金華山や周辺の切り立った山並みが、平野に唐突に高くそびえ立っているわけです。
金華山だけなく、濃尾平野の北側にチャートの多い地層が広がっています。チャートを多く含む地層は、地形にもはっきりと現れており、北西から南東に直線的に延びる山並みが見えます。これは、チャートの多い地層が並んで延びていることを示しています。チャートが海から陸の持ち上げられたとき、その方向に並んで持ち上げられたものです。それが侵食によって残ったのです。
チャートを含む地層全体は美濃帯と呼ばれています。美濃帯は、チャートのような深海底でできた石だけでなく、日本列島のような沈み込み帯で形成された地層の代表的な石が見られます。石灰岩と呼ばれる海の生物の化石からできた石や、海洋地殻の切れ端も、紛れ込んでいることもあります。石灰岩は、海洋でも島の周辺にできる礁とつくる生物の化石からできています。
地層に含まれる小さな化石の研究から、美濃帯のチャートや石灰岩は、石炭紀から三畳紀、場所によってはジュラ紀にかけて、海底に堆積したことが分かっています。その後、ジュラ紀後期から白亜紀の最初にかけて、大陸にくっついて陸の一部になりました。
海底にたまった地層が大陸にくっつくのは、海洋プレートが沈み込むところで起こります。海洋プレートのほとんどは、マントルに沈み込んでしまいますが、海洋地殻の上に溜まった軽いチャートや石灰岩などの堆積岩は、沈み込むことができず、プレートから削り取られて、陸地に持ち上げられます。このようにしてできた部分を付加体といいます。付加体の中には海洋地殻の一部も紛れ込むこともよく起こります。
美濃帯だけでなく、日本列島はいろいろな時代の付加体があります。そして、時間と共に付加体は付け加わっていきますので、海側にある付加体の時代が新しくなっていきます。日本列島には、つぎつぎと南側から海洋プレートが沈み込んで、付加体が形成されてきたことになります。日本列島は付加体によって骨格が形成されているのです。
濃尾平野よりさらに奥に、郡上八幡という町があります。その町の周辺にも、美濃帯のチャートや石灰岩が出ています。付加体の古い地層の境界が、郡上八幡の付近にあります。
私は、郡上八幡の手前の新しい方の付加体と古い付加体の両方をみました。この付近のチャートは、赤っぽいものが多くなっています。また石灰岩が、陸で地下水によって溶けてできた鍾乳洞もありました。川原には、石灰岩や海洋底をつくっていた玄武岩など、多くの海でできた石が転がっていました。そんな石ころを見ながら、古き海洋の姿を思い浮かべました。
・鵜飼の長良川・
夏の夜の金華山付近は、なかなか情緒のあるところです。
夜になると鵜飼が行われ、
それを見るために屋形船が長良川を往来します。
鵜匠の船べりを叩く音、鵜の鳴き声、松明の燃える音、
日本の古くからある夏の光景には、
心和ませるものがあります。
背景に見える金華山の岐阜城はライトアップされ、
夕闇から夜の帳へと変わる空に、
くっきりと浮かび上がります。
なかなか幻想的な光景です。
ただし屋形船の大音響の音楽には興ざめしますが。
・長良川・
郡上八幡を訪れたのは、残念ながら、12月の寒い雨の日でした。
日程がないので、雨の中なかを、
川原に降りて、調査をしました。
長良川は、ダムがなく、雨が降れば、増水します。
ですから、川の増水に気をつけながらの調査でした。
岐阜の方にいたときも、前日に雨が降ったあとは、
長良川の水かさは、堤防近くまで増えていました。
私が泊まった旅館は、増水で水が堤防を越えると、
一階の駐車場は水につかりますが、
2階以上は、柵をして水がこない対策をしています。
そんな柵を本当に使うことがあるのかと思っていたら、
昨年の台風の時には、使ったようです。
自然の川の流れには、川原を更新する作用があり、
川原の石がきれいになります。
しかし、ダムのない川は、災害と隣り合わせでもあります。
濃尾平野の人たちは、川と戦ってきました。
長良川の流域の人は、災害に苦しみながらも
自然のままの長良川を守っているのです。
濃尾平野は、中京地方の産業が栄えているところです。濃尾平野は、南が伊勢湾に海に面し、北が岐阜県の岐阜市と各務原、愛知県の犬山市あたりで急な山並みで終わっています。
鵜飼で有名な長良川を遡っていくと、金華山付近で急に険しい山並みに流れは入っていきます。その山並みは、川をさえぎるようにそびえています。平野を見下ろすような山地は、戦略的に重要な地点となっています。岐阜市には金華山の岐阜城、犬山市には犬山城があります。特に金華山の岐阜城は戦略的に重要で、鎌倉時代には砦が築かれています。金華山の城は、時代小説の題材としてよくでてきます。
私は、2003年から2005年にかけて、ある研究の集まりで、たびたび岐阜に出かけることがありました。研究会のメンバーは大抵、金華山を長良川越しに見る旅館に泊まっていました。早朝に何度か岐阜城にも登りました。山としては、険しいのですが、それほど高くないので、朝ごはん前に登ることができました。こんな高い山の上に城をつくり、人が常駐していたことを思うと、昔の人の足腰の強さを感じます。
斉藤道三がこの城を下克上で手に入れ、次には織田信長が道三の孫の龍興を倒して手に入れました。織田信長は、それまで稲葉山城と呼ばれていたこの城を岐阜城と改め、10年間拠点として使っていました。その後、関が原の合戦で、信長の孫の秀信が西軍に加わったため、東軍に攻められ、落城し、以降は廃城となり、城はなくなりました。
岐阜城は地の利の良さから、難攻不落の名城として知られていますが、歴史上6回の落城にあっています。それに山頂は水も雨水を利用していたので、長期に及ぶ籠城には適さなかったようです。
現在は、三層の城として1956年に再建され、1997年に改修されたものがあり、観光名所となっています。ロープウェイもつけられ、登りやすくなっています。頂上からの眺めはすばらしく、夜には城がライトアップされ幻想的な雰囲気をかもし出しています。私が登ったときは、早朝でまだロープウェイが営業していない時間帯でしたので、歩いて登り下りしました。
私が、岐阜城に登っていて気になったのは、金華山をつくっている石です。登山道のいたるところで、非常に特徴的な石を見ることができます。この石は、10cm前後の厚さの板状で、何枚の板が重なって地層となっています。さらに、この地層全体が激しく曲がりくねっています。
この石はチャートと呼ばれるものです。金華山全体が、チャートを主とする地層からできています。金華山のチャートは、白っぽい色をしています。
チャートという石は、海に生きていた放散虫などのプランクトンなどが死んで、海底でたまったものが固まって地層となりました。放散虫は珪酸でできた殻を持っていたので、死んだ後、体の有機物は分解されてしまうのですが、殻が残って地層となっていきます。一つ一つは小さな殻なので、チャートのような地層が溜まるには、長い時間が必要になります。
チャートは、ほとんどが珪酸からできているのですが、少し不純物が入っています。その不純物によってチャートには色が着きます。赤っぽい色は鉄やマンガンの酸化物の色で、黒っぽい色は硫化物や炭化物などの色です。緑のこともありますが、これは少量含まれている粘土鉱物の色です。
白っぽい色はチャート本来の色で、不純物がもともと少なかったものと、もともと色はあったものが再結晶作用と呼ばれるもので色がなくなっているものがあります。海底から陸地へ持ち上げられる時に受ける変成作用で、鉱物が再度、結晶しなおして、不純物を含まなくなることがあります。
チャートは、非常に硬い石で、他の石に比べて地上での風化には強く、あまり削剥や侵食を受けません。地層の中にチャートがたくさん混じっているところは、チャートの部分だけが侵食に耐えて残っていきます。つまり、周りが削られて低くなっていくのに、チャートのところだけが高く残っていきます。これが、金華山や周辺の切り立った山並みが、平野に唐突に高くそびえ立っているわけです。
金華山だけなく、濃尾平野の北側にチャートの多い地層が広がっています。チャートを多く含む地層は、地形にもはっきりと現れており、北西から南東に直線的に延びる山並みが見えます。これは、チャートの多い地層が並んで延びていることを示しています。チャートが海から陸の持ち上げられたとき、その方向に並んで持ち上げられたものです。それが侵食によって残ったのです。
チャートを含む地層全体は美濃帯と呼ばれています。美濃帯は、チャートのような深海底でできた石だけでなく、日本列島のような沈み込み帯で形成された地層の代表的な石が見られます。石灰岩と呼ばれる海の生物の化石からできた石や、海洋地殻の切れ端も、紛れ込んでいることもあります。石灰岩は、海洋でも島の周辺にできる礁とつくる生物の化石からできています。
地層に含まれる小さな化石の研究から、美濃帯のチャートや石灰岩は、石炭紀から三畳紀、場所によってはジュラ紀にかけて、海底に堆積したことが分かっています。その後、ジュラ紀後期から白亜紀の最初にかけて、大陸にくっついて陸の一部になりました。
海底にたまった地層が大陸にくっつくのは、海洋プレートが沈み込むところで起こります。海洋プレートのほとんどは、マントルに沈み込んでしまいますが、海洋地殻の上に溜まった軽いチャートや石灰岩などの堆積岩は、沈み込むことができず、プレートから削り取られて、陸地に持ち上げられます。このようにしてできた部分を付加体といいます。付加体の中には海洋地殻の一部も紛れ込むこともよく起こります。
美濃帯だけでなく、日本列島はいろいろな時代の付加体があります。そして、時間と共に付加体は付け加わっていきますので、海側にある付加体の時代が新しくなっていきます。日本列島には、つぎつぎと南側から海洋プレートが沈み込んで、付加体が形成されてきたことになります。日本列島は付加体によって骨格が形成されているのです。
濃尾平野よりさらに奥に、郡上八幡という町があります。その町の周辺にも、美濃帯のチャートや石灰岩が出ています。付加体の古い地層の境界が、郡上八幡の付近にあります。
私は、郡上八幡の手前の新しい方の付加体と古い付加体の両方をみました。この付近のチャートは、赤っぽいものが多くなっています。また石灰岩が、陸で地下水によって溶けてできた鍾乳洞もありました。川原には、石灰岩や海洋底をつくっていた玄武岩など、多くの海でできた石が転がっていました。そんな石ころを見ながら、古き海洋の姿を思い浮かべました。
・鵜飼の長良川・
夏の夜の金華山付近は、なかなか情緒のあるところです。
夜になると鵜飼が行われ、
それを見るために屋形船が長良川を往来します。
鵜匠の船べりを叩く音、鵜の鳴き声、松明の燃える音、
日本の古くからある夏の光景には、
心和ませるものがあります。
背景に見える金華山の岐阜城はライトアップされ、
夕闇から夜の帳へと変わる空に、
くっきりと浮かび上がります。
なかなか幻想的な光景です。
ただし屋形船の大音響の音楽には興ざめしますが。
・長良川・
郡上八幡を訪れたのは、残念ながら、12月の寒い雨の日でした。
日程がないので、雨の中なかを、
川原に降りて、調査をしました。
長良川は、ダムがなく、雨が降れば、増水します。
ですから、川の増水に気をつけながらの調査でした。
岐阜の方にいたときも、前日に雨が降ったあとは、
長良川の水かさは、堤防近くまで増えていました。
私が泊まった旅館は、増水で水が堤防を越えると、
一階の駐車場は水につかりますが、
2階以上は、柵をして水がこない対策をしています。
そんな柵を本当に使うことがあるのかと思っていたら、
昨年の台風の時には、使ったようです。
自然の川の流れには、川原を更新する作用があり、
川原の石がきれいになります。
しかし、ダムのない川は、災害と隣り合わせでもあります。
濃尾平野の人たちは、川と戦ってきました。
長良川の流域の人は、災害に苦しみながらも
自然のままの長良川を守っているのです。
2005-11-15
11 層雲峡:溶結凝灰岩の柱状節理 2005.11.15
Time:
9:11
●
Geologist
北海道にはたくさんの火山がありますが、その中でも大雪山は、北海道の中心に位置し、規模も大きいものです。大雪山の入り口の一つ、層雲峡を訪れました。
大雪山は北海道の中心部に位置する巨大な山です。大雪山の旧地名は「ヌタプ・カ・ム・シュペ」といい、アイヌ語で「川の曲がりめの陸地の上にいつもいるもの」という意味でした。「山の上にいつもいるもの」とはヒグマのことで、曲がった川とたくさんのヒグマがいるところという意味でした。古くから「大雪山」とアイヌ名「ヌタプカムシュウペ山」が併用されていました。しかし、現在では大雪山が定着しました。
大正時代の文人、大町桂月が、層雲峡から黒岳、旭岳を経て天人峡に下った時の様子を、紀行文として紹介しました。その紀行文は、「富士山に登って山岳の高さを語れ、大雪山に登って山岳の大きさを語れ」で始まる有名なものです。この文章も、大雪山という名称の定着に一役かっていることでしょう。
大雪山は、アイヌ語で「カムイミンタラ」と呼ばれのを耳にしますが、これは固有名詞ではなく、場所の様子を示す言葉です。北海道には、いくつものカムイミンタラがあります。アイヌ語でカムイは「神」(ヒグマを指すことがよくあります)で、ミンタラは「庭」で、カムイミンタラで「神の庭」という意味になります。山の神聖な祭場やカムイ(ヒグマ)の多いところに使われた地名です。大雪山は今もカムイミンタラです。
大雪山という名前は有名ですが、大雪山という山頂があるわけでありません。最高峰は、旭岳で標高2290mあります。旭岳の北東には、直径2kmの御鉢平と呼ばれるカルデラがあります。そのカルデラを中心として、カルデラ壁や周辺には2000mを越える山だけでも20座以上あります。多数の山が集まった巨大な山塊を大雪山と総称して呼んでいるわけです。
大雪山は、国立公園に指定されており、その広さは約23万ヘクタールあり、神奈川県ほどの広さがあります。国立公園としては日本一大きな規模です。
大雪山が、いかに大きな山かを、私は、大学の研究生の頃、アルバイトで思い知りました。そのときは、7、8名の人がその地質調査に参加しており、環境庁の許可をもらっていたので、腕章をつけて、国立公園の中を、自由に目的のルートや場所をあることができました。そのときは、大雪山を一月近く歩るきまわったのですが、層雲峡にも1週間以上滞在して、何度も黒岳に登っては周辺を調査をしていました。いくら歩いても歩きつくせることはなく、大雪山の広さをつくづく感じました。そのとき以来、層雲峡や天人峡、大雪高原温泉などは、馴染みあるところで、懐かしい場所となりました。
2005年9月下旬に大雪山の調査に行きました。旭川を通り層雲峡に入りました。大雪山、それも層雲峡には過去に何度来ていたのですが、20年近く前のことです。その記憶では、層雲峡の街は、狭いところに旅館や土産物屋などが立て込んでいた記憶がありました。
しかし、今回訪れて驚きました。町並みがきれいに整備されていて、建物の色や姿も統一されていました。街の周りを周回道路があり、街の中心を歩道が通り、歩道の両側に店や旅館があるというつくりでした。まるでヨーロッパのように、きれいになっていました。層雲峡も観光の街ですから、来た人がいい思い出ができ、また来たいと思えるようなところにすることが重要なのでしょうか。
層雲峡に来ると、いつも、その切り立った崖に圧倒されます。崖は、まるで岩石の柱を、何本も直立させ、くっつけたような形をしています。これが層雲峡の道路沿いに、延々と連続してあります。この崖は、柱状節理というものからできています。
一般に柱状節理というと、マグマが冷却したときにできる柱状の割れ目(節理)のことです。マグマが、液体から固体になるときに、体積が少し小さくなります。その時、冷却する方向と垂直に割れ目ができていきます。例えば、水平な地層の間に、マグマが平行に入り込む(貫入(かんにゅう)と呼びます)と、柱状節理は垂直にできます。その柱状節理の断面は、多角形で4角形から7角形になっています。本来なら6角形が一番効率のよい形状なのですが、自然は、それほど規則的ではないようです。でも、遠目では、きれいに柱が何本も立っているように見えます。
このような冷却の条件を満たすものは、マグマでなくてもあります。その代表的なものが、層雲峡の柱状節理です。層雲峡の柱状節理は、溶岩ではなく、溶結凝灰岩というものです。
溶結凝灰岩とは、火山灰などの火山からの噴出物がまだ熱いままたまり、それが熱のために一部溶けて固まったものです。冷めてくるとマグマのときと同じで、体積が減っていき、節理ができます。これが、層雲峡の柱状節理のできかたです。
層雲峡の柱状節理をつくっている火山噴出物は、約3万年前に活動したものです。大雪山の中央に位置する御鉢平のカルデラを形成した火山活動にでよって、大量の火山噴出物を放出し、溶岩を流しました。それが、北東の層雲峡と南東の天人峡の谷間を埋め、平らな台地にしました。
層雲峡の溶結凝灰岩は、一度の噴火ではなく、いくつかの噴火によってできたことが、溶結凝灰岩の冷え方からわかっています。火山噴出物の厚さは、最大で200mにもなります。
層雲峡は、石狩川の源流近くにあたりますが、まだ上流にも石狩川の流れが続いています。ですから、雪解け時には、大量の水が流れます。そのような石狩川の侵食によって、溶結凝灰岩が削られて層雲峡ができたのです。石狩川が長い時間をかけて削ってきた証が、層雲峡の柱状節理です。柱状節理の巨大な岩石が倒れて事故が起きています。3万年たった今でも、この侵食は続いているのです。
層雲峡に行ったのは9月だというのに、黒岳では、すでに初雪の便りがありました。黒岳を登り始めると、木の葉は色づき、秋の気配が漂います。黒岳の上に近づくと紅葉真っ盛りとなっていました。大雪山の秋は、日本一、早く来ます。
・たいせつざん・
大雪山は、地元の人は、昔から「たいせつざん」と呼んでいます。
今もそう呼んでいます。
1924(大正13)年に国土地理院が5万分の1地形図で
ヌタプシュぺ山(大雪山)として
「だいせつざん」と表記するようになりました。
そのため、「だいせつざん」と読む人が多く、
マスコミなどでも「だいせつざん」を用いていることが多いようです。
私は、北海道生まれでもないのですが、
にごらないで「たいせつざん」と発音しています。
アイヌ語の地名で漢字が当てられたものは残っていますが、
カタカナ書きされたものは、たくさん消えていったようです。
1902年(明治35年)に、師範学校教師から
大雪山のアイヌ語表記の「ヌタプカムシュウペ山」は、
「民間私名」であるので、
北海道の最高峰にふさわしい立派な名前に改めよう
という意見書が道長官あてに出されたそうです。
しかし、大雪山という名称は残りました。
・大雪山の大きさを語る・
大町桂月が大雪山を訪れたのは、1921(大正10)年のことでした。
当時、桂月は、全国をめぐっており、
北海タイムス(現在は北海道新聞)の記者が誘って、山行がかなったようです。
同じ年に、「中央公論」に本文で紹介した有名な紀行文が掲載されました。
「富士山に登って山岳の高さを語れ、大雪山に登って山岳の大きさを語れ」
というものです。
私は、大雪山の大きさはアルバイトの時に思い知らされました。
1988年の夏ことです。
そのアルバイトでは、大学の山岳部の後輩がいたので、
厳しいルートの調査となりました。
ある沢の最上流部を上り詰めて調査を終えました。
帰る登山道に出るために、道のないハイマツの中を歩かなければなりません。
1時間ほどのハイマツのヤブコギをして、へとへとになりました。
ヤブコギの最中は、ここで力尽きたら、どうなるだろうかと、
不安にかられながら、歩いていました。
その翌年の夏のことです。
ある遭難救助活動をしていた北海道警察のヘリコプターから
風倒木を組んで「SOS」の文字をつくっているのが発見されました。
捜索したところ、近くで人骨と見られる白骨と
カセットテープレコーダなどが入った
リュックサックなどの遺留品が見つかりました。
私たちが通ったところではないですが、同じ大雪山の中でした。
多分道に迷って身動きが取れなくなり、そのまま力尽きたのでしょう。
カセットテープなど遺留品から、
その人骨は、1984年に行方不明になっていた愛知県の会社員だと
1991年になってようやく断定されました。
私は、道なきところを歩いていたのですが、
道に迷ってはいませんでした。
ただただ歩けば登山道に出れるので、
道に迷っているという心配はありませんでした。
しかし、その白骨の発見のニュースを聞いて、
あたらめて大雪山の奥深さ、大きさを思い知らされたのを覚えています。
大雪山は北海道の中心部に位置する巨大な山です。大雪山の旧地名は「ヌタプ・カ・ム・シュペ」といい、アイヌ語で「川の曲がりめの陸地の上にいつもいるもの」という意味でした。「山の上にいつもいるもの」とはヒグマのことで、曲がった川とたくさんのヒグマがいるところという意味でした。古くから「大雪山」とアイヌ名「ヌタプカムシュウペ山」が併用されていました。しかし、現在では大雪山が定着しました。
大正時代の文人、大町桂月が、層雲峡から黒岳、旭岳を経て天人峡に下った時の様子を、紀行文として紹介しました。その紀行文は、「富士山に登って山岳の高さを語れ、大雪山に登って山岳の大きさを語れ」で始まる有名なものです。この文章も、大雪山という名称の定着に一役かっていることでしょう。
大雪山は、アイヌ語で「カムイミンタラ」と呼ばれのを耳にしますが、これは固有名詞ではなく、場所の様子を示す言葉です。北海道には、いくつものカムイミンタラがあります。アイヌ語でカムイは「神」(ヒグマを指すことがよくあります)で、ミンタラは「庭」で、カムイミンタラで「神の庭」という意味になります。山の神聖な祭場やカムイ(ヒグマ)の多いところに使われた地名です。大雪山は今もカムイミンタラです。
大雪山という名前は有名ですが、大雪山という山頂があるわけでありません。最高峰は、旭岳で標高2290mあります。旭岳の北東には、直径2kmの御鉢平と呼ばれるカルデラがあります。そのカルデラを中心として、カルデラ壁や周辺には2000mを越える山だけでも20座以上あります。多数の山が集まった巨大な山塊を大雪山と総称して呼んでいるわけです。
大雪山は、国立公園に指定されており、その広さは約23万ヘクタールあり、神奈川県ほどの広さがあります。国立公園としては日本一大きな規模です。
大雪山が、いかに大きな山かを、私は、大学の研究生の頃、アルバイトで思い知りました。そのときは、7、8名の人がその地質調査に参加しており、環境庁の許可をもらっていたので、腕章をつけて、国立公園の中を、自由に目的のルートや場所をあることができました。そのときは、大雪山を一月近く歩るきまわったのですが、層雲峡にも1週間以上滞在して、何度も黒岳に登っては周辺を調査をしていました。いくら歩いても歩きつくせることはなく、大雪山の広さをつくづく感じました。そのとき以来、層雲峡や天人峡、大雪高原温泉などは、馴染みあるところで、懐かしい場所となりました。
2005年9月下旬に大雪山の調査に行きました。旭川を通り層雲峡に入りました。大雪山、それも層雲峡には過去に何度来ていたのですが、20年近く前のことです。その記憶では、層雲峡の街は、狭いところに旅館や土産物屋などが立て込んでいた記憶がありました。
しかし、今回訪れて驚きました。町並みがきれいに整備されていて、建物の色や姿も統一されていました。街の周りを周回道路があり、街の中心を歩道が通り、歩道の両側に店や旅館があるというつくりでした。まるでヨーロッパのように、きれいになっていました。層雲峡も観光の街ですから、来た人がいい思い出ができ、また来たいと思えるようなところにすることが重要なのでしょうか。
層雲峡に来ると、いつも、その切り立った崖に圧倒されます。崖は、まるで岩石の柱を、何本も直立させ、くっつけたような形をしています。これが層雲峡の道路沿いに、延々と連続してあります。この崖は、柱状節理というものからできています。
一般に柱状節理というと、マグマが冷却したときにできる柱状の割れ目(節理)のことです。マグマが、液体から固体になるときに、体積が少し小さくなります。その時、冷却する方向と垂直に割れ目ができていきます。例えば、水平な地層の間に、マグマが平行に入り込む(貫入(かんにゅう)と呼びます)と、柱状節理は垂直にできます。その柱状節理の断面は、多角形で4角形から7角形になっています。本来なら6角形が一番効率のよい形状なのですが、自然は、それほど規則的ではないようです。でも、遠目では、きれいに柱が何本も立っているように見えます。
このような冷却の条件を満たすものは、マグマでなくてもあります。その代表的なものが、層雲峡の柱状節理です。層雲峡の柱状節理は、溶岩ではなく、溶結凝灰岩というものです。
溶結凝灰岩とは、火山灰などの火山からの噴出物がまだ熱いままたまり、それが熱のために一部溶けて固まったものです。冷めてくるとマグマのときと同じで、体積が減っていき、節理ができます。これが、層雲峡の柱状節理のできかたです。
層雲峡の柱状節理をつくっている火山噴出物は、約3万年前に活動したものです。大雪山の中央に位置する御鉢平のカルデラを形成した火山活動にでよって、大量の火山噴出物を放出し、溶岩を流しました。それが、北東の層雲峡と南東の天人峡の谷間を埋め、平らな台地にしました。
層雲峡の溶結凝灰岩は、一度の噴火ではなく、いくつかの噴火によってできたことが、溶結凝灰岩の冷え方からわかっています。火山噴出物の厚さは、最大で200mにもなります。
層雲峡は、石狩川の源流近くにあたりますが、まだ上流にも石狩川の流れが続いています。ですから、雪解け時には、大量の水が流れます。そのような石狩川の侵食によって、溶結凝灰岩が削られて層雲峡ができたのです。石狩川が長い時間をかけて削ってきた証が、層雲峡の柱状節理です。柱状節理の巨大な岩石が倒れて事故が起きています。3万年たった今でも、この侵食は続いているのです。
層雲峡に行ったのは9月だというのに、黒岳では、すでに初雪の便りがありました。黒岳を登り始めると、木の葉は色づき、秋の気配が漂います。黒岳の上に近づくと紅葉真っ盛りとなっていました。大雪山の秋は、日本一、早く来ます。
・たいせつざん・
大雪山は、地元の人は、昔から「たいせつざん」と呼んでいます。
今もそう呼んでいます。
1924(大正13)年に国土地理院が5万分の1地形図で
ヌタプシュぺ山(大雪山)として
「だいせつざん」と表記するようになりました。
そのため、「だいせつざん」と読む人が多く、
マスコミなどでも「だいせつざん」を用いていることが多いようです。
私は、北海道生まれでもないのですが、
にごらないで「たいせつざん」と発音しています。
アイヌ語の地名で漢字が当てられたものは残っていますが、
カタカナ書きされたものは、たくさん消えていったようです。
1902年(明治35年)に、師範学校教師から
大雪山のアイヌ語表記の「ヌタプカムシュウペ山」は、
「民間私名」であるので、
北海道の最高峰にふさわしい立派な名前に改めよう
という意見書が道長官あてに出されたそうです。
しかし、大雪山という名称は残りました。
・大雪山の大きさを語る・
大町桂月が大雪山を訪れたのは、1921(大正10)年のことでした。
当時、桂月は、全国をめぐっており、
北海タイムス(現在は北海道新聞)の記者が誘って、山行がかなったようです。
同じ年に、「中央公論」に本文で紹介した有名な紀行文が掲載されました。
「富士山に登って山岳の高さを語れ、大雪山に登って山岳の大きさを語れ」
というものです。
私は、大雪山の大きさはアルバイトの時に思い知らされました。
1988年の夏ことです。
そのアルバイトでは、大学の山岳部の後輩がいたので、
厳しいルートの調査となりました。
ある沢の最上流部を上り詰めて調査を終えました。
帰る登山道に出るために、道のないハイマツの中を歩かなければなりません。
1時間ほどのハイマツのヤブコギをして、へとへとになりました。
ヤブコギの最中は、ここで力尽きたら、どうなるだろうかと、
不安にかられながら、歩いていました。
その翌年の夏のことです。
ある遭難救助活動をしていた北海道警察のヘリコプターから
風倒木を組んで「SOS」の文字をつくっているのが発見されました。
捜索したところ、近くで人骨と見られる白骨と
カセットテープレコーダなどが入った
リュックサックなどの遺留品が見つかりました。
私たちが通ったところではないですが、同じ大雪山の中でした。
多分道に迷って身動きが取れなくなり、そのまま力尽きたのでしょう。
カセットテープなど遺留品から、
その人骨は、1984年に行方不明になっていた愛知県の会社員だと
1991年になってようやく断定されました。
私は、道なきところを歩いていたのですが、
道に迷ってはいませんでした。
ただただ歩けば登山道に出れるので、
道に迷っているという心配はありませんでした。
しかし、その白骨の発見のニュースを聞いて、
あたらめて大雪山の奥深さ、大きさを思い知らされたのを覚えています。
2005-10-15
10 相模川の段丘:関東平野の西に住んで(2005.10.15)
Time:
9:11
●
Geologist
かつて関東平野の西側の坂の多い街に、私は住んでいました。毎日、その坂を上り下りしながら、その坂道の起源に思いを馳せていました。
私は、11年間、神奈川県に住んでいました。11年間、ずっと同じところに住んでいたのではなく、その間に4回も転居しました。その理由はさまざまですが、いずれにしても、移りたくて移ったのではなく、しかたなくという消極的な転居でした。この転居は、東から西へと住処を移していきました。そして住環境の変化のたびに、そこにどんな大地の歴史があるのかに思いを馳せました。
最初は横浜市内の保土ヶ谷というところに、2年間、住んでいました。帷子(かたびら)川沿いに走る相模鉄線の保土ヶ谷駅から降りて、長い坂を上って登って帰途についていました。毎日登ったこの坂は、多摩丘陵が帷子川に侵食されてできたものでした。
次に転居した先は、海老名市でした。相模鉄道の海老名駅は終着駅です。海老名駅に着く直前に、電車は山並みを抜けて平地に出ます。海老名市は、相模川の流域に広がる平地に発展してきました。私の住んでいたところは、電車が通り抜けてきた山並みの上にありました。ここでも毎日坂を登って帰宅しました。この坂道は、相模川がつくった低地から座間丘陵から相模原台地へと変化するところでした。
私が身を持って体験していた急な坂には、大地の不思議が隠されていました。
関東平野は有名な平野です。首都圏は、この関東平野を中心に発展してきました。関東平野は日本でも特別広い平野です。広さでは第2位である北海道の根釧平野と比べても、関東平野は3倍ほどの広さがあります。
なぜこのような広い平地があるのでしょうか。
それは、関東平野が、日本の他の平野とは違って、もともと海であったかところが平野になったためです。実際の海底でたまった堆積物が関東平野のいたるところから見つかっていることが証拠となります。ただし、地表に堆積物があちこちにでているのではなく、関東平野の地下をボーリングすると、海底で厚くたまった堆積物が見つかります。
では、なぜ海が陸になったのでしょうか。3つの理由が考えられています。
一つ目の理由は、大地の隆起です。
関東平野のある地域は、ユーラシア大陸プレートに太平洋プレートとフィリピン海プレートの沈み込むとこです。また、丹沢山地や伊豆半島の陸地が衝突してきたところです。関東平野のあるところは、3つのプレートがせめぎあっている非常に複雑な位置にある場所となっています。詳細はまだ良くわかっていませんが、そのようなプレート境界の複雑な大地の運動によって、関東平野は第四紀に隆起してきました。今まで海底であったところが隆起したため陸になってきました。
もう一つの理由は、海に大量の堆積物がたまり、海を埋めていったことです。
第四紀になると、関東平野の北にある妙義山、浅間山、榛名山、赤城山、男体山、那須山などの火山と、西側にある伊豆箱根、富士山などで、激しい火山活動がおこります。このような火山活用によって、大量の火山噴出物が、関東平野に飛んできて、たまっていきます。関東ローム層も、これらの火山活動のよって飛んできた火山灰や、それが風で引き飛ばされてたまったものが、もととなっています。大磯丘陵では箱根と富士山の火山噴出物で300m以上の厚さのローム層があります。
三つ目は、全地球的に起こる海水面の変動です。これは後で詳しく紹介しますが、その前にあらためて、関東平野の地形の概要をみていきましょう。
関東平野の北側と西側には関東山地があり、北東には阿武隈山地があります。南は房総半島まで続く下総台地から上総丘陵があります。東京湾をはさんで、関東平野の南西部には、武蔵野台地があり、さらに南西に多摩丘陵から三浦半島の三浦丘陵へ連続する高まりがあります。その高まりのさらに西側には、相模原台地と座間丘陵があり、相模川流域の低地があります。
地形の区分の名称として、山地、丘陵と台地、低地という言葉を使いましたが、それぞれ意味が違っています。
山地とは、新しい時代の火山と古い時代(中・古生代、第三紀)の地層からできている地形的な高まりで。標高も高く険しい地形となっています。
丘陵は、第四紀でも一番古い時代にできた、海でたまった地層、湖でたまった地層、扇状地の地層からできています。丘陵は、関東平野を取り囲むようにして山地と平野の間にあります。
台地は、関東平野の中央に広くある高まりです。台地は、第四紀でも新しい時代にできた、海でたまった地層や、扇状地の堆積物からできます。
これらの台地が河川によって削られたところが、低地となります。低地は現在の河川がつくった平らな平野です。川の侵食、運搬、堆積作用によってできたもので、現在もその作用は続いています。川が大地の高まりを削り、その削った土砂を運び、川の傾斜がゆるくなったとこで土砂を堆積します。時には、川が氾濫をして流路を変えると、新たな作用がその川の周辺で起こります。こんな繰り返しが、河川流域で低地として広がっていきます。
河川は、現在も同じ作用を続けているのですが、人間は氾濫があると都会生活が成り立ちませんので、堤防や護岸をつくって、その流路が変わらないようにしています。ですから、都会周辺の河川の変化がなかなか起こらなくなりました。
さて、今回取り上げた相模川流域では、さらに面白い地形が見られます。
相模川が丹沢山地と小仏山地の間から城山付近で平野にできてます。山間から平野に出た川は、扇状地や氾濫原をつくります。その相模川の山間部や平野の扇状地付近には、いくつかの平らな面があります。平らな面は、急な崖で、次の平らに面に変わります。これらは段丘(だんきゅう)と呼ばれているものです。
相模川は古くから段丘の研究がされており、日本でも段丘が典型的に発達する地域(模式地と呼ばれます)となっています。相模川流域では、火山灰の年代測定を利用して、細かく区分されています。段丘が9段あることがわかっています。
ちなみに段丘の上の面(古い時代)から順に並べると、座間I面(約27万年前)、座間II面(約16万年前)、下末吉(しもすえよし)面(約13万年前)、善行(ぜんぎょう)面(約7万年前)、相模原面(約6万年前)、中津原(なかつはら)面(約3万年前)、田名原(たなはら)面群(群はひとつではないという意味)(約2万年前)、陽原(みなみはら)面群(約1.5万年前)、完新世段丘面群(約1万年前)となっています。
段丘のでき方には、2通りあります。一つは川の作用によってできる河成段丘(河岸段丘とも呼ばれます)と呼ばれるものと、もう一つは海の作用によってできる海成段丘(海岸段丘とも呼ばれます)と呼ばれるものとがあります。
河成段丘は、大地の上昇によって、川の浸食作用が再び強くなり、かつての川や谷底の平野部が再び侵食されていくことです。ですから、河成段丘は古いものが高い位置で外側にあり、新しいものが低く川に近い位置にできます。
海成段丘は、海が侵食でつくった平坦地な地形が、海底が上昇することによって陸化しできた平坦な面です。海底が上昇しなくても、海が後退することでも海成段丘ができます。これは、海水面の上下変化と読み直すことができます。
地球が温暖化が起き大陸の氷が解けると、海水が増え海が陸に侵入していきます(海進と呼びます)。逆に寒冷化すると、水は氷として大陸にたまり、海水が減り、海が後退していきます(海退と呼びます)。
海成段丘が地球の気候変動なのか、地域の大地の上下運動なのかは、同時代の他の地域の平野を調べれば判明します。
地域的大地の変動であれば、その地の大地の歴史を解き明かすことになります。もし、海進や海退が起こったがことがわかれば、地球の気候変動を読み取ることとなります。
関東平野は、最初に述べましたように、大地の上昇運動が起こりました。しかし、実際には、海進と海退による変化も加わっています。このような複雑な大地の営みが、相模川流域の段丘をつくってきたのです。
座間I面は、扇状地でたまった礫岩が河川によって浸食された河成段丘です。その上の座間II面は、内湾でたまった地層で海進によってたまったものが海の作用で侵食されたものです。次の下末吉面は、海食台の堆積物と三角州の堆積物からできている地層が海の作用で侵食されたものです。この面あたりから海とは関連がなくなっていきます。海退が起きたことになります
善行面は、扇状地の堆積物が河川の浸食によってできたものです。相模原面、中津原面、田名原面群、陽原面群は、いずれも火山灰層をたくさん含む礫岩層からなり、川の作用によってできた河成段丘です。
また、完新世段丘面群は、もっとも海退が起こったときに相模川が運んだ川の堆積物から、だんだん海進が進み、三角州や砂州から現在の川の堆積物になっていきます。しかし、相模湾付近の平野の多く谷や段丘は埋もれています。これは、関東地方の隆起が一様ではなく、かたよっていたことを示しています。
以上のように、関東地方では、段丘から複雑な川と海、大地の関係や、地球の気候変動まで読み取られています。そんなことに思いを馳せながら、坂道を毎日登っていました。しかし、当たり前のことですが、そんな思いを巡らせても、登りが楽になるわけではありませんでした。
・その後の転居・
その後、私の転居は海老名市から、小田原市、湯河原町へと続きました。
関東平野から箱根の麓へと西へ西へと向かって進んでいったことになります。
小田原では、酒匂川がつくった低地に住んでいました。
湯河原に至っては、箱根の火山の山麓でした。
湯河原では標高190mの火山の中腹に住んでいました。
駅は標高30mでしたから、毎日標高差160mを登り下りしていました。
これは、通勤というより登山といった方がいいかもしれません。
おかげで足腰は強くなりましたが。
こうして神奈川での11年間の生活の場を考えていくと、
関東地方の生い立ちを探るためには、うってつけの場所であったわけです。
そんなことを、離れてから考えています。
現在は、北海道の野幌丘陵に住んでいます。
箱根の箱根の関所を越えることなく、北の地に来ました。
この北の丘陵の生い立ちにも、関東平野と似たところががありますが、
それは別の機会としましょう。
私は、11年間、神奈川県に住んでいました。11年間、ずっと同じところに住んでいたのではなく、その間に4回も転居しました。その理由はさまざまですが、いずれにしても、移りたくて移ったのではなく、しかたなくという消極的な転居でした。この転居は、東から西へと住処を移していきました。そして住環境の変化のたびに、そこにどんな大地の歴史があるのかに思いを馳せました。
最初は横浜市内の保土ヶ谷というところに、2年間、住んでいました。帷子(かたびら)川沿いに走る相模鉄線の保土ヶ谷駅から降りて、長い坂を上って登って帰途についていました。毎日登ったこの坂は、多摩丘陵が帷子川に侵食されてできたものでした。
次に転居した先は、海老名市でした。相模鉄道の海老名駅は終着駅です。海老名駅に着く直前に、電車は山並みを抜けて平地に出ます。海老名市は、相模川の流域に広がる平地に発展してきました。私の住んでいたところは、電車が通り抜けてきた山並みの上にありました。ここでも毎日坂を登って帰宅しました。この坂道は、相模川がつくった低地から座間丘陵から相模原台地へと変化するところでした。
私が身を持って体験していた急な坂には、大地の不思議が隠されていました。
関東平野は有名な平野です。首都圏は、この関東平野を中心に発展してきました。関東平野は日本でも特別広い平野です。広さでは第2位である北海道の根釧平野と比べても、関東平野は3倍ほどの広さがあります。
なぜこのような広い平地があるのでしょうか。
それは、関東平野が、日本の他の平野とは違って、もともと海であったかところが平野になったためです。実際の海底でたまった堆積物が関東平野のいたるところから見つかっていることが証拠となります。ただし、地表に堆積物があちこちにでているのではなく、関東平野の地下をボーリングすると、海底で厚くたまった堆積物が見つかります。
では、なぜ海が陸になったのでしょうか。3つの理由が考えられています。
一つ目の理由は、大地の隆起です。
関東平野のある地域は、ユーラシア大陸プレートに太平洋プレートとフィリピン海プレートの沈み込むとこです。また、丹沢山地や伊豆半島の陸地が衝突してきたところです。関東平野のあるところは、3つのプレートがせめぎあっている非常に複雑な位置にある場所となっています。詳細はまだ良くわかっていませんが、そのようなプレート境界の複雑な大地の運動によって、関東平野は第四紀に隆起してきました。今まで海底であったところが隆起したため陸になってきました。
もう一つの理由は、海に大量の堆積物がたまり、海を埋めていったことです。
第四紀になると、関東平野の北にある妙義山、浅間山、榛名山、赤城山、男体山、那須山などの火山と、西側にある伊豆箱根、富士山などで、激しい火山活動がおこります。このような火山活用によって、大量の火山噴出物が、関東平野に飛んできて、たまっていきます。関東ローム層も、これらの火山活動のよって飛んできた火山灰や、それが風で引き飛ばされてたまったものが、もととなっています。大磯丘陵では箱根と富士山の火山噴出物で300m以上の厚さのローム層があります。
三つ目は、全地球的に起こる海水面の変動です。これは後で詳しく紹介しますが、その前にあらためて、関東平野の地形の概要をみていきましょう。
関東平野の北側と西側には関東山地があり、北東には阿武隈山地があります。南は房総半島まで続く下総台地から上総丘陵があります。東京湾をはさんで、関東平野の南西部には、武蔵野台地があり、さらに南西に多摩丘陵から三浦半島の三浦丘陵へ連続する高まりがあります。その高まりのさらに西側には、相模原台地と座間丘陵があり、相模川流域の低地があります。
地形の区分の名称として、山地、丘陵と台地、低地という言葉を使いましたが、それぞれ意味が違っています。
山地とは、新しい時代の火山と古い時代(中・古生代、第三紀)の地層からできている地形的な高まりで。標高も高く険しい地形となっています。
丘陵は、第四紀でも一番古い時代にできた、海でたまった地層、湖でたまった地層、扇状地の地層からできています。丘陵は、関東平野を取り囲むようにして山地と平野の間にあります。
台地は、関東平野の中央に広くある高まりです。台地は、第四紀でも新しい時代にできた、海でたまった地層や、扇状地の堆積物からできます。
これらの台地が河川によって削られたところが、低地となります。低地は現在の河川がつくった平らな平野です。川の侵食、運搬、堆積作用によってできたもので、現在もその作用は続いています。川が大地の高まりを削り、その削った土砂を運び、川の傾斜がゆるくなったとこで土砂を堆積します。時には、川が氾濫をして流路を変えると、新たな作用がその川の周辺で起こります。こんな繰り返しが、河川流域で低地として広がっていきます。
河川は、現在も同じ作用を続けているのですが、人間は氾濫があると都会生活が成り立ちませんので、堤防や護岸をつくって、その流路が変わらないようにしています。ですから、都会周辺の河川の変化がなかなか起こらなくなりました。
さて、今回取り上げた相模川流域では、さらに面白い地形が見られます。
相模川が丹沢山地と小仏山地の間から城山付近で平野にできてます。山間から平野に出た川は、扇状地や氾濫原をつくります。その相模川の山間部や平野の扇状地付近には、いくつかの平らな面があります。平らな面は、急な崖で、次の平らに面に変わります。これらは段丘(だんきゅう)と呼ばれているものです。
相模川は古くから段丘の研究がされており、日本でも段丘が典型的に発達する地域(模式地と呼ばれます)となっています。相模川流域では、火山灰の年代測定を利用して、細かく区分されています。段丘が9段あることがわかっています。
ちなみに段丘の上の面(古い時代)から順に並べると、座間I面(約27万年前)、座間II面(約16万年前)、下末吉(しもすえよし)面(約13万年前)、善行(ぜんぎょう)面(約7万年前)、相模原面(約6万年前)、中津原(なかつはら)面(約3万年前)、田名原(たなはら)面群(群はひとつではないという意味)(約2万年前)、陽原(みなみはら)面群(約1.5万年前)、完新世段丘面群(約1万年前)となっています。
段丘のでき方には、2通りあります。一つは川の作用によってできる河成段丘(河岸段丘とも呼ばれます)と呼ばれるものと、もう一つは海の作用によってできる海成段丘(海岸段丘とも呼ばれます)と呼ばれるものとがあります。
河成段丘は、大地の上昇によって、川の浸食作用が再び強くなり、かつての川や谷底の平野部が再び侵食されていくことです。ですから、河成段丘は古いものが高い位置で外側にあり、新しいものが低く川に近い位置にできます。
海成段丘は、海が侵食でつくった平坦地な地形が、海底が上昇することによって陸化しできた平坦な面です。海底が上昇しなくても、海が後退することでも海成段丘ができます。これは、海水面の上下変化と読み直すことができます。
地球が温暖化が起き大陸の氷が解けると、海水が増え海が陸に侵入していきます(海進と呼びます)。逆に寒冷化すると、水は氷として大陸にたまり、海水が減り、海が後退していきます(海退と呼びます)。
海成段丘が地球の気候変動なのか、地域の大地の上下運動なのかは、同時代の他の地域の平野を調べれば判明します。
地域的大地の変動であれば、その地の大地の歴史を解き明かすことになります。もし、海進や海退が起こったがことがわかれば、地球の気候変動を読み取ることとなります。
関東平野は、最初に述べましたように、大地の上昇運動が起こりました。しかし、実際には、海進と海退による変化も加わっています。このような複雑な大地の営みが、相模川流域の段丘をつくってきたのです。
座間I面は、扇状地でたまった礫岩が河川によって浸食された河成段丘です。その上の座間II面は、内湾でたまった地層で海進によってたまったものが海の作用で侵食されたものです。次の下末吉面は、海食台の堆積物と三角州の堆積物からできている地層が海の作用で侵食されたものです。この面あたりから海とは関連がなくなっていきます。海退が起きたことになります
善行面は、扇状地の堆積物が河川の浸食によってできたものです。相模原面、中津原面、田名原面群、陽原面群は、いずれも火山灰層をたくさん含む礫岩層からなり、川の作用によってできた河成段丘です。
また、完新世段丘面群は、もっとも海退が起こったときに相模川が運んだ川の堆積物から、だんだん海進が進み、三角州や砂州から現在の川の堆積物になっていきます。しかし、相模湾付近の平野の多く谷や段丘は埋もれています。これは、関東地方の隆起が一様ではなく、かたよっていたことを示しています。
以上のように、関東地方では、段丘から複雑な川と海、大地の関係や、地球の気候変動まで読み取られています。そんなことに思いを馳せながら、坂道を毎日登っていました。しかし、当たり前のことですが、そんな思いを巡らせても、登りが楽になるわけではありませんでした。
・その後の転居・
その後、私の転居は海老名市から、小田原市、湯河原町へと続きました。
関東平野から箱根の麓へと西へ西へと向かって進んでいったことになります。
小田原では、酒匂川がつくった低地に住んでいました。
湯河原に至っては、箱根の火山の山麓でした。
湯河原では標高190mの火山の中腹に住んでいました。
駅は標高30mでしたから、毎日標高差160mを登り下りしていました。
これは、通勤というより登山といった方がいいかもしれません。
おかげで足腰は強くなりましたが。
こうして神奈川での11年間の生活の場を考えていくと、
関東地方の生い立ちを探るためには、うってつけの場所であったわけです。
そんなことを、離れてから考えています。
現在は、北海道の野幌丘陵に住んでいます。
箱根の箱根の関所を越えることなく、北の地に来ました。
この北の丘陵の生い立ちにも、関東平野と似たところががありますが、
それは別の機会としましょう。
2005-09-15
09 オホーツク海沿岸:丘陵と湖と湿原(2005.09.15)
Time:
9:10
●
Geologist
北海道のオホーツク海沿岸を車で走っていると、原生花園がたくさんあります。それこそ次々と出てきます。それに原生花園だけでなく、どうも似たような丘陵や湖、湿原が続いているように見えます。そんな景観に隠された謎を探ります。
北海道のオホーツク沿岸は、流氷で有名です。しかし、それは冬のことです。春から秋にかけてが、やはり一番の行楽シーズンとなり、外での活動も活発になります。そんな時期に、私は北海道の北(道北)からオホーツク海沿岸にかけて調査に出かけました。それは、2004年の春のゴールデンウィークの頃と、秋の10月の渇水期の頃でした。
そのとき、オホーツク海沿岸走りながら、海岸沿いに転々と湖や湿地、そして海岸に沿う丘陵が非常にたくさんあり、どことなく似た景観だと思いました。
主だった湖を北から見ていくと、猿骨沼、ポロ湖、モケウニ湖、クッチャロ湖、コムケ湖、シブツナイ湖、サロマ湖、能取湖、網走湖、藻琴湖、涛沸湖、涛釣沼などがあり、知床半島へと続きます。そして湖周辺には湿地があり、原生花園もあります。丘陵も点々とですが、さまざまな高さのものがあります。
なぜか、枝幸から雄武には丘陵はあるのですが、湖はありません。その他の海岸沿いには、丘陵や湖あります。この地域は、オホーツク海沿岸平野と呼ばれ、サロマ湖周辺はオホーツク海沿岸湖沼群と呼ばれています。
丘陵には特徴があります。海岸線に沿って丘陵が延びているのですが、丘陵の上の面が平らになっています。そんな平坦面が丘陵には何段かあります。
オホーツク海沿岸では、サロマ湖は大きくて有名です。サロマ湖は、東隣にある能取湖と共に、海につながった湖です。ですから、塩分を含んだ湖となり、汽水湖とよばれています。サロマ湖は、湖としては北海道では最大で、日本でも、琵琶湖、霞ヶ浦に次いで3番目に大きなものです。
では、オホーツク海沿岸に、なぜ湖や丘陵が多いのでしょうか。それは、大地を構成する地質と運動、地球に流れる長い時間と関係があります。
地球の表面には、風が吹き、雨が降り、川ができます。このような作用は、程度の差はありますが、大地全体におよぶ作用です。つまり、大地は常に浸食を受けているます。例えば、大地が変動で盛り上がったとしましょう。そこは丘陵や山地になります。もし、硬い岩石や地層でできていたら、地球時間で見ても、ゆっくりとしか侵食されず、丘陵や山地として長く維持されるでしょう。もし、軟らかい岩石や地層でできていたら、侵食を受けると短い時間で低くなっていくでしょう。
丘陵や山地をつくる岩石や地層の性質の違い、つまり地質の違いと、長い地球時間によって、地形の違いが生まれていきます。地球の地形とは、このような地質、変動、時間がつくり出したものなのです。もちろんオホーツク海沿岸の湖や湿地も同じ作用でつくられました。
大地の変動には、実はさまざまな規模のもの、そしていろいろ原因によるものがありますが、今回のような広域的な特徴をつくるには、大規模な変動を考えなければなりません。大規模な変動は、大地自身の変動によるものと、全地球的規模の気候変化によるものに分けられます。
大地の変動とは、プレートテクトニクスに由来するような地球内部の営力によるもので、広域的な変動が起こります。地下深くに由来する変動なので、岩質の違いや、それまでの地表の状態と関係なく起こる大規模なものです。必ずしも水平に上下運動するとは限りません。大地が傾いて、なだらかな斜面ができることがあります。
もう一つの全地球的に起こった気候変化とは、どのようなものでしょうか。地球時間では新しい気候変動として、氷河期とその後の温暖な間氷期の変動があります。氷河期には地表の水が氷として陸地に蓄えられます。そのため、海水が減り、海面が下がります。このような状態を陸から見ていると海が退いていくように見えることから、海退と呼びます。今から1万8000年前頃の氷河期の終わり頃には、最も海退が進み、海面は現在よりも100mほど低かったことがわかっています。
その後、1万4000年前から6000年前にかけて地球は暖かくなり、海面は100mも上昇し、現在と同じような位置に達しました。しかし、一様に海面上昇が起こったのではなく、何度か海面上昇が止まった時期があります。
1万1200年前から1万年前には現在の海面より45mほど低く、8000年前頃には現在よりも30mほど低い時期が続きました。
また、日本の縄文時代にあたる6000年前ころには、海面上昇が最大となり、現在よりも4mほど海面が高くなりました。これを、日本では縄文海進と呼んでいます。平野によっては、100kmも海岸線が内陸に進入しました。その後も、海面は数mの範囲で3回上下していることがわかっています。そして現在は、比較的高い海面になっています。関東地方では、海面変動による約40万年前からの段丘面が読み取られています。
海面の変動が止まっている時期には、海水の量は変わらないので、海岸線沿いでは侵食が起こり、波打ち際では平らな面ができていきます。その後別の海面変動が起これば、平らな地形も侵食されていくでしょう。大地の変動とは違って、海面変動は水平は地形を形成する作用です。
さて、このような気候変化による海面変動と大地の変動とが組み合わさるとどうなるでしょうか。もし、海底に平坦面ができているときに、大地の変動でその海岸付近が盛り上がったら、そこには平坦な面を持つ丘陵ができます。海水による侵食は起こりませんから、平坦な地形は残されます。
氷河期以降何度か平坦な面をつくる時期がありました。それと大地の上昇が加わると、何段もの平坦面をもつ丘陵ができます。このような海でできた段を持つ丘陵を海成段丘(海岸段丘ともいいます)と呼んでいます。オホーツク海沿岸は、海成段丘が発達しているところで、それが似た景観をつくっていたようです。
もし段丘の面が硬い岩石でできていれば、なかなか侵食されません。川はできるでしょうが、海岸線には平野もできず、湖も湿原もできないでしょう。そのような地域が、枝幸から雄武の地域だったのです。
もし段丘が比較的侵食されやすい岩石でできていたら、平坦面が消されながら、川ができ平野ができます。海に近いとことでは、川は海につながるでしょう。川は海に流れ込み、土砂も一緒に運びます。沿岸には沿岸流と呼ばれる海水の流れがあります。川から海に達した土砂は沿岸流によって海岸沿いに運ばれます。それが海岸に砂浜をつり、時には、湾を囲うように砂浜が延びることがあるでしょう。これが砂嘴(さし)と呼ばれるものです。ときには湾を完全に閉じ込めることもあるでしょう。これを海跡湖といいます。
このような侵食、堆積の繰り返しが、オホーツク海沿岸の湖や湿原、原生花園をつくってきたのです。地球の気候変動、大地の運動、大地の地質、そして地球に流れる長い時間が、オホーツク海沿岸の景観を似させていたのです。
・サロマ湖・
サロマ湖には、いくつかの川が流れ込んでいます。
川の出口がサロマ湖で、サロマ湖自身は海につながっています。
サロマ湖は、現在は、両側から延びる砂嘴があるように見えます。
しかし、もともとサロマ湖は海跡湖で、
秋の渇水期には砂で海と閉ざされ、冬の間中、その状態が続いていました。
春になると、川の流量が増え、
東端の涛沸(とうふつ)付近で、海とつながるところができました。
人が暮らすようになると、サロマ湖の水面変動は何かとも問題となります。
生活や漁業を考えると、
常に海とつながっているほうがいいことになります。
かつては、地域の人たちは、毎年融雪期になると
砂を掘り、海とつなげていました。
しかし1929年、三里番屋付近を大規模に開けたところ、
これがうまく閉じることなくつながっていました。
その状態が現在にいたっています。
サロマ湖は、人が少し手を加えて、
海跡湖から汽水湖にしたものなのです。
自然と人間が作り出しか、地形なのです。
・サンゴ草・
道北からオホーツク海沿岸にかけて2度、調査に出かけました。
それは、春の調査を失敗したからです。
私の調査の方法は、河川沿いの川原や河口、海岸などで
砂や石の採集をします。
海岸は雪さえなければ調査可能なのですが、
川は条件を満たさなければなりません。
それは、川原があるかどうかです。
川原が見えていて、なおかつそこに行けなければなりません。
ところが、ゴールデンウィークの時期は、
札幌近郊の雪解けによる増水は、
もうだいぶおさまっているのですが、
道北では、雪解けの増水で、河岸いっぱに水がありました。
川原の石ころなど、ほとんど見ることはできません。
つまり、目的の調査をできなかったということです。
しかたがないので、秋の渇水期に再度出かけました。
その調査の最終地点が、サロマ湖でした。
時期はもう終わりに近かったのですが、
サンゴ草の真っ赤な花を見ることができました。
北海道のオホーツク沿岸は、流氷で有名です。しかし、それは冬のことです。春から秋にかけてが、やはり一番の行楽シーズンとなり、外での活動も活発になります。そんな時期に、私は北海道の北(道北)からオホーツク海沿岸にかけて調査に出かけました。それは、2004年の春のゴールデンウィークの頃と、秋の10月の渇水期の頃でした。
そのとき、オホーツク海沿岸走りながら、海岸沿いに転々と湖や湿地、そして海岸に沿う丘陵が非常にたくさんあり、どことなく似た景観だと思いました。
主だった湖を北から見ていくと、猿骨沼、ポロ湖、モケウニ湖、クッチャロ湖、コムケ湖、シブツナイ湖、サロマ湖、能取湖、網走湖、藻琴湖、涛沸湖、涛釣沼などがあり、知床半島へと続きます。そして湖周辺には湿地があり、原生花園もあります。丘陵も点々とですが、さまざまな高さのものがあります。
なぜか、枝幸から雄武には丘陵はあるのですが、湖はありません。その他の海岸沿いには、丘陵や湖あります。この地域は、オホーツク海沿岸平野と呼ばれ、サロマ湖周辺はオホーツク海沿岸湖沼群と呼ばれています。
丘陵には特徴があります。海岸線に沿って丘陵が延びているのですが、丘陵の上の面が平らになっています。そんな平坦面が丘陵には何段かあります。
オホーツク海沿岸では、サロマ湖は大きくて有名です。サロマ湖は、東隣にある能取湖と共に、海につながった湖です。ですから、塩分を含んだ湖となり、汽水湖とよばれています。サロマ湖は、湖としては北海道では最大で、日本でも、琵琶湖、霞ヶ浦に次いで3番目に大きなものです。
では、オホーツク海沿岸に、なぜ湖や丘陵が多いのでしょうか。それは、大地を構成する地質と運動、地球に流れる長い時間と関係があります。
地球の表面には、風が吹き、雨が降り、川ができます。このような作用は、程度の差はありますが、大地全体におよぶ作用です。つまり、大地は常に浸食を受けているます。例えば、大地が変動で盛り上がったとしましょう。そこは丘陵や山地になります。もし、硬い岩石や地層でできていたら、地球時間で見ても、ゆっくりとしか侵食されず、丘陵や山地として長く維持されるでしょう。もし、軟らかい岩石や地層でできていたら、侵食を受けると短い時間で低くなっていくでしょう。
丘陵や山地をつくる岩石や地層の性質の違い、つまり地質の違いと、長い地球時間によって、地形の違いが生まれていきます。地球の地形とは、このような地質、変動、時間がつくり出したものなのです。もちろんオホーツク海沿岸の湖や湿地も同じ作用でつくられました。
大地の変動には、実はさまざまな規模のもの、そしていろいろ原因によるものがありますが、今回のような広域的な特徴をつくるには、大規模な変動を考えなければなりません。大規模な変動は、大地自身の変動によるものと、全地球的規模の気候変化によるものに分けられます。
大地の変動とは、プレートテクトニクスに由来するような地球内部の営力によるもので、広域的な変動が起こります。地下深くに由来する変動なので、岩質の違いや、それまでの地表の状態と関係なく起こる大規模なものです。必ずしも水平に上下運動するとは限りません。大地が傾いて、なだらかな斜面ができることがあります。
もう一つの全地球的に起こった気候変化とは、どのようなものでしょうか。地球時間では新しい気候変動として、氷河期とその後の温暖な間氷期の変動があります。氷河期には地表の水が氷として陸地に蓄えられます。そのため、海水が減り、海面が下がります。このような状態を陸から見ていると海が退いていくように見えることから、海退と呼びます。今から1万8000年前頃の氷河期の終わり頃には、最も海退が進み、海面は現在よりも100mほど低かったことがわかっています。
その後、1万4000年前から6000年前にかけて地球は暖かくなり、海面は100mも上昇し、現在と同じような位置に達しました。しかし、一様に海面上昇が起こったのではなく、何度か海面上昇が止まった時期があります。
1万1200年前から1万年前には現在の海面より45mほど低く、8000年前頃には現在よりも30mほど低い時期が続きました。
また、日本の縄文時代にあたる6000年前ころには、海面上昇が最大となり、現在よりも4mほど海面が高くなりました。これを、日本では縄文海進と呼んでいます。平野によっては、100kmも海岸線が内陸に進入しました。その後も、海面は数mの範囲で3回上下していることがわかっています。そして現在は、比較的高い海面になっています。関東地方では、海面変動による約40万年前からの段丘面が読み取られています。
海面の変動が止まっている時期には、海水の量は変わらないので、海岸線沿いでは侵食が起こり、波打ち際では平らな面ができていきます。その後別の海面変動が起これば、平らな地形も侵食されていくでしょう。大地の変動とは違って、海面変動は水平は地形を形成する作用です。
さて、このような気候変化による海面変動と大地の変動とが組み合わさるとどうなるでしょうか。もし、海底に平坦面ができているときに、大地の変動でその海岸付近が盛り上がったら、そこには平坦な面を持つ丘陵ができます。海水による侵食は起こりませんから、平坦な地形は残されます。
氷河期以降何度か平坦な面をつくる時期がありました。それと大地の上昇が加わると、何段もの平坦面をもつ丘陵ができます。このような海でできた段を持つ丘陵を海成段丘(海岸段丘ともいいます)と呼んでいます。オホーツク海沿岸は、海成段丘が発達しているところで、それが似た景観をつくっていたようです。
もし段丘の面が硬い岩石でできていれば、なかなか侵食されません。川はできるでしょうが、海岸線には平野もできず、湖も湿原もできないでしょう。そのような地域が、枝幸から雄武の地域だったのです。
もし段丘が比較的侵食されやすい岩石でできていたら、平坦面が消されながら、川ができ平野ができます。海に近いとことでは、川は海につながるでしょう。川は海に流れ込み、土砂も一緒に運びます。沿岸には沿岸流と呼ばれる海水の流れがあります。川から海に達した土砂は沿岸流によって海岸沿いに運ばれます。それが海岸に砂浜をつり、時には、湾を囲うように砂浜が延びることがあるでしょう。これが砂嘴(さし)と呼ばれるものです。ときには湾を完全に閉じ込めることもあるでしょう。これを海跡湖といいます。
このような侵食、堆積の繰り返しが、オホーツク海沿岸の湖や湿原、原生花園をつくってきたのです。地球の気候変動、大地の運動、大地の地質、そして地球に流れる長い時間が、オホーツク海沿岸の景観を似させていたのです。
・サロマ湖・
サロマ湖には、いくつかの川が流れ込んでいます。
川の出口がサロマ湖で、サロマ湖自身は海につながっています。
サロマ湖は、現在は、両側から延びる砂嘴があるように見えます。
しかし、もともとサロマ湖は海跡湖で、
秋の渇水期には砂で海と閉ざされ、冬の間中、その状態が続いていました。
春になると、川の流量が増え、
東端の涛沸(とうふつ)付近で、海とつながるところができました。
人が暮らすようになると、サロマ湖の水面変動は何かとも問題となります。
生活や漁業を考えると、
常に海とつながっているほうがいいことになります。
かつては、地域の人たちは、毎年融雪期になると
砂を掘り、海とつなげていました。
しかし1929年、三里番屋付近を大規模に開けたところ、
これがうまく閉じることなくつながっていました。
その状態が現在にいたっています。
サロマ湖は、人が少し手を加えて、
海跡湖から汽水湖にしたものなのです。
自然と人間が作り出しか、地形なのです。
・サンゴ草・
道北からオホーツク海沿岸にかけて2度、調査に出かけました。
それは、春の調査を失敗したからです。
私の調査の方法は、河川沿いの川原や河口、海岸などで
砂や石の採集をします。
海岸は雪さえなければ調査可能なのですが、
川は条件を満たさなければなりません。
それは、川原があるかどうかです。
川原が見えていて、なおかつそこに行けなければなりません。
ところが、ゴールデンウィークの時期は、
札幌近郊の雪解けによる増水は、
もうだいぶおさまっているのですが、
道北では、雪解けの増水で、河岸いっぱに水がありました。
川原の石ころなど、ほとんど見ることはできません。
つまり、目的の調査をできなかったということです。
しかたがないので、秋の渇水期に再度出かけました。
その調査の最終地点が、サロマ湖でした。
時期はもう終わりに近かったのですが、
サンゴ草の真っ赤な花を見ることができました。
2005-08-15
08 沖縄:列島の縮図(2005.08.15)
Time:
9:10
●
Geologist
暑い夏ですが、北海道はもう盛りを過ぎたようで、爽快な気候になってきました。観光客も、夏には涼しい高原や北国を目指すのではないでしょうか。しかし、今回は沖縄の話題です。
私は沖縄には、2度、訪れたことがあります。一度目はずいぶん前ですが3月末に学会発表のためで、二度目は2月末から3月はじめにかけて調査のためでした。いずれも春のシーズンでした。いずれも北海道に住んでいる時のことでしたので、季節が一気に冬から夏へ突然変わったきがしました。北国から来た者にとっては、沖縄は楽園に来たような気がしたものでした。しかし、帰ってくると、春まだ遠い北国の寒さが一層こたえました。
このような気候変化を見ていると、日本が南北に伸びる長い列島であることが体感できます。これは日本が南北に長いため、風土が多様になっているのでしょう。
沖縄は、日本という国の一部です。しかし、北海道や本州と比べると、沖縄は明らかに小さな島です。南西諸島としてみると、いくつもの島が連なっていますが、大きな面積を持つ陸地ではありません。ところが、大地のようすを見ていくと、日本列島の持つ特徴と同じであることがわかります。日本列島の地質と沖縄(南西諸島)の地質と共通性をみていきましょう。
まずは、日本列島の特徴をみていきましょう。日本列島をよくみると、いくつかの弧状の陸や島を連ねた形をしています。そのひとつひとつの弧の中身は、日本列島の大地の形成を物語っています。
日本列島の代表として、本州を見ていきましょう。本州は大きな2つの弧がくっついています。その接合部は本州の中央部、長野県のあたりになります。長野県内には南北に延びる大断層があります。この大断層はフォッサマグナと呼ばれるもので、北は日本海にから、南は静岡県を通り抜け太平洋に達します。地質学ではフォッサマグナより北東側を東北日本、南西側を南西日本と呼びます。
西南日本で日本の代表的な大地のつくりをみていきましょう。西南日本は典型的な列島形成のメカニズムでつく上げられています。そのメカニズムとは、海洋プレートが海溝で陸側のプレートの下に沈み込むときにできるものです。海溝とは海洋プレートと大陸プレートが出会い、消滅する地質学的には非常に「活発な場所」であり、「多様な岩石」が集まり形成される場所であります。そのような作用が、何度か起こって、西南日本の大地が形成されてきたのです。
「活発な活動」とは、海洋プレートの沈み込みによって起こる「地震」や「火山活動」のことです。いすれも、沈み込むプレートによって起こる現象でますから、陸側の地下深部で起こります。
沈み込むプレートは、年間10数cmで移動する硬い岩石の板のようなものです。硬い岩石が沈む込むときに、その境に強い力が加わります。やがて周囲の岩石やプレートの岩石はこらえ切れなくなって壊れてしまいます。それが地震となります。
地震は、規模(マグニチュード)が大きくても、深いところで起こったのであれば、地表の揺れ(震度)は小さく、被害が少なくなります。しかし、浅いところでこる地震は、規模が小さくても、地表での揺れは大きく、被害も大きくなります。北海道の釧路から十勝や東北、関東、東海、南海などの太平洋側では大きな地震が起こり、大きな被害を与えます。
海洋プレートの押す力は、地表へも力を加えます。そのような力に地表付近の岩石が耐え切れないと、断層としてあわられます。地表近くの大きな断層による地震は規模が小さくても大きな被害を与えます。兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)、新潟中越地震は活断層による地震です。
沈み込む海洋プレートは、海の底にあったので、水をたくさん含んでいます。海洋プレートが沈み込む時、水はしぼり出されます。しぼり出された水分は、軽いので地表に上がっていこうとします。沈み込むプレートは列島の地下深くまで沈み込みます。深いところでしぼり出された水分は、列島の地下のマントルに入り込みます。暖かいマントルに水分が入ってくると、それまで固体であったマントルが溶け始めます。これがマグマとなります。マグマが地表で活動したら火山となります。列島の火山はこのような仕組みでできます。
「多様な岩石」とは、海で形成された岩石と陸で形成された岩石の両方があります。海からは、海洋プレート自身の岩石(玄武岩や斑レイ岩、かんらん岩)や、海洋プレートの上の深海底にたまった堆積物(チャートと呼ばれる岩石)、海底火山や海洋島の火山活動によってできた岩石(海洋底のものとは少し違った性質の玄武岩)や、それらの島の周辺にできたサンゴ礁などの岩石(石灰岩)が集まります。一方、陸からは、列島をつくっていた岩石が河川によって堆積物として大陸棚に運ばれてきます。時には列島の火山から火山灰などが飛んできて堆積します。
海と陸の岩石が、海溝の陸側の地下で混じって付け加わっていきます。海と陸の岩石が海溝に沿って次々と付け加わっていきます。このような特徴を持つ岩石でできた地質体を付加体と呼んでいます。付加体が、沈み込み帯で形成される特徴的な地質となります。
付加体を貫くようにしてマグマの活動が起こります。そのようなマグマの活動の記録は、マグマが地下で固まった深成岩や、マグマが地表に噴出した火山岩からみることができます。
深成岩は、付加体の深部で固まったものです。ですから、現在の地表で見ることができるようになるには、隆起して、上を覆っていた岩石や地層が侵食によって削剥されなければなりません。列島では深成岩が地表に出て見ることができるので、隆起し、侵食の激しいところとなります。
古い沈み込み帯には、結果として、付加体と多数の断層や火山が残されていきます。このような古い付加体が西南日本にいくつかあります。付加体を構成する岩石や地層を広域で見ると、大きな時代区分の違いがあり、大断層(構造線と呼ばれています)で境されています。そのような時代や構造の境界を利用して、日本列島の地質構造を区分しています。有名な中央構造線も付加体の境界と位置づけられます。
日本列島では、中央構造線を境にして、太平洋側を外帯、日本海側を内帯とよんでいます。外帯の中でも重要な境界として、仏像(ぶつぞう)構造線というものがあります。仏像構造線とは、内帯側に傾斜した大きな逆断層で、中央構造線側に古生代後期から中生代中期の付加体(三波川変成帯と秩父帯とよばれる2つの帯があります)があり、海側に中生代後期より新しい付加体(四万十帯とよばれます)があります。
さて、沖縄の話です。本州、四国、九州から連続した構造をもった地質が、沖縄にもあります。沖縄を含む南西諸島では、太平洋側(正確にはフィリピン海)には、沈み込み帯である琉球海溝があります。その内帯側(西側)には、列島があり、縁海にあたる東シナ海(正確には沖縄トラフといます)という構造をもっています。
また、南西諸島は、3つの構造帯が列をなしています。東シナ海側、つまりいちばん内帯側に、新しい火山島列があります。硫黄島、口永良部島、中之島、諏訪之瀬島、硫黄鳥島などで、現在も活動中の火山がたくさんあります。
列島の中央は、古い時代の付加体で、奄美大島、沖縄島北部などと、南西諸島の一番南にあたる石垣島、西表島、与那国島も、古い時代の付加体です。ペルム紀とみられる化石が見つかっていますが、多くはジュラ紀から白亜紀にかけての付加体です。本州でいう三波川変成帯と秩父帯に相当するものです。
最後に、太平洋側、つまり一番外帯側には、白亜紀から第三紀の堆積岩からなる付加体があり、種子島や隆起サンゴ礁の沖永良部島や宮古島など低平な島が多い。本州でいう四万十帯に相当するものです。
深成岩の活動も見られます。深成岩は主に花崗岩で、すべて第三紀に活動したものです。北から、屋久島、奄美大島、徳之島、沖永良部島、渡名喜島、沖縄島、石垣島などで、規模はさまざまですがみられます。
このように見ていくと、南西諸島は、狭い範囲に日本列島の内帯を除く地質の要素と同じようなものが、出ていることになります。沖縄周辺も地質学的は日本列島と同じような構造を持っているのです。
・弧状列島・
なぜ、弧状の地形ができのでしょうか。
不思議に思うことがあります。
しかし、これは、地球が平面ではなく立体であること
それも球体であることが重要な意味があります。
海洋プレートと大陸プレートがぶつかり、
海洋プレートが沈み込むときの形態です。
これは硬い球体に、押し込まれたくぼみができるという現象です。
ピンポン玉を押してへこませたときでききる窪みは、小さな弧状のものです。
これが大規模に地球でも起きているのです。
ピンポン玉の窪みの反対側には、弧状の高まりができます。
これが列島の陸側に隆起が生じます。
日本列島は、今も、いくつもの沈み込み帯があります。
過去にもあったことが知られています。
それぞれが弧状の形態となっています。
日本列島は弧状の地形の集まりでもあるのです。
これは日本列島だけの特徴でなく、
多くの沈み込み帯では、ごく普通にみられる地形的形態です。
日本列島のような島が集まっているところを
弧状列島(島弧ともいいます)と呼ぶことがあります。
南西諸島も立派な島弧なのです。
私は沖縄には、2度、訪れたことがあります。一度目はずいぶん前ですが3月末に学会発表のためで、二度目は2月末から3月はじめにかけて調査のためでした。いずれも春のシーズンでした。いずれも北海道に住んでいる時のことでしたので、季節が一気に冬から夏へ突然変わったきがしました。北国から来た者にとっては、沖縄は楽園に来たような気がしたものでした。しかし、帰ってくると、春まだ遠い北国の寒さが一層こたえました。
このような気候変化を見ていると、日本が南北に伸びる長い列島であることが体感できます。これは日本が南北に長いため、風土が多様になっているのでしょう。
沖縄は、日本という国の一部です。しかし、北海道や本州と比べると、沖縄は明らかに小さな島です。南西諸島としてみると、いくつもの島が連なっていますが、大きな面積を持つ陸地ではありません。ところが、大地のようすを見ていくと、日本列島の持つ特徴と同じであることがわかります。日本列島の地質と沖縄(南西諸島)の地質と共通性をみていきましょう。
まずは、日本列島の特徴をみていきましょう。日本列島をよくみると、いくつかの弧状の陸や島を連ねた形をしています。そのひとつひとつの弧の中身は、日本列島の大地の形成を物語っています。
日本列島の代表として、本州を見ていきましょう。本州は大きな2つの弧がくっついています。その接合部は本州の中央部、長野県のあたりになります。長野県内には南北に延びる大断層があります。この大断層はフォッサマグナと呼ばれるもので、北は日本海にから、南は静岡県を通り抜け太平洋に達します。地質学ではフォッサマグナより北東側を東北日本、南西側を南西日本と呼びます。
西南日本で日本の代表的な大地のつくりをみていきましょう。西南日本は典型的な列島形成のメカニズムでつく上げられています。そのメカニズムとは、海洋プレートが海溝で陸側のプレートの下に沈み込むときにできるものです。海溝とは海洋プレートと大陸プレートが出会い、消滅する地質学的には非常に「活発な場所」であり、「多様な岩石」が集まり形成される場所であります。そのような作用が、何度か起こって、西南日本の大地が形成されてきたのです。
「活発な活動」とは、海洋プレートの沈み込みによって起こる「地震」や「火山活動」のことです。いすれも、沈み込むプレートによって起こる現象でますから、陸側の地下深部で起こります。
沈み込むプレートは、年間10数cmで移動する硬い岩石の板のようなものです。硬い岩石が沈む込むときに、その境に強い力が加わります。やがて周囲の岩石やプレートの岩石はこらえ切れなくなって壊れてしまいます。それが地震となります。
地震は、規模(マグニチュード)が大きくても、深いところで起こったのであれば、地表の揺れ(震度)は小さく、被害が少なくなります。しかし、浅いところでこる地震は、規模が小さくても、地表での揺れは大きく、被害も大きくなります。北海道の釧路から十勝や東北、関東、東海、南海などの太平洋側では大きな地震が起こり、大きな被害を与えます。
海洋プレートの押す力は、地表へも力を加えます。そのような力に地表付近の岩石が耐え切れないと、断層としてあわられます。地表近くの大きな断層による地震は規模が小さくても大きな被害を与えます。兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)、新潟中越地震は活断層による地震です。
沈み込む海洋プレートは、海の底にあったので、水をたくさん含んでいます。海洋プレートが沈み込む時、水はしぼり出されます。しぼり出された水分は、軽いので地表に上がっていこうとします。沈み込むプレートは列島の地下深くまで沈み込みます。深いところでしぼり出された水分は、列島の地下のマントルに入り込みます。暖かいマントルに水分が入ってくると、それまで固体であったマントルが溶け始めます。これがマグマとなります。マグマが地表で活動したら火山となります。列島の火山はこのような仕組みでできます。
「多様な岩石」とは、海で形成された岩石と陸で形成された岩石の両方があります。海からは、海洋プレート自身の岩石(玄武岩や斑レイ岩、かんらん岩)や、海洋プレートの上の深海底にたまった堆積物(チャートと呼ばれる岩石)、海底火山や海洋島の火山活動によってできた岩石(海洋底のものとは少し違った性質の玄武岩)や、それらの島の周辺にできたサンゴ礁などの岩石(石灰岩)が集まります。一方、陸からは、列島をつくっていた岩石が河川によって堆積物として大陸棚に運ばれてきます。時には列島の火山から火山灰などが飛んできて堆積します。
海と陸の岩石が、海溝の陸側の地下で混じって付け加わっていきます。海と陸の岩石が海溝に沿って次々と付け加わっていきます。このような特徴を持つ岩石でできた地質体を付加体と呼んでいます。付加体が、沈み込み帯で形成される特徴的な地質となります。
付加体を貫くようにしてマグマの活動が起こります。そのようなマグマの活動の記録は、マグマが地下で固まった深成岩や、マグマが地表に噴出した火山岩からみることができます。
深成岩は、付加体の深部で固まったものです。ですから、現在の地表で見ることができるようになるには、隆起して、上を覆っていた岩石や地層が侵食によって削剥されなければなりません。列島では深成岩が地表に出て見ることができるので、隆起し、侵食の激しいところとなります。
古い沈み込み帯には、結果として、付加体と多数の断層や火山が残されていきます。このような古い付加体が西南日本にいくつかあります。付加体を構成する岩石や地層を広域で見ると、大きな時代区分の違いがあり、大断層(構造線と呼ばれています)で境されています。そのような時代や構造の境界を利用して、日本列島の地質構造を区分しています。有名な中央構造線も付加体の境界と位置づけられます。
日本列島では、中央構造線を境にして、太平洋側を外帯、日本海側を内帯とよんでいます。外帯の中でも重要な境界として、仏像(ぶつぞう)構造線というものがあります。仏像構造線とは、内帯側に傾斜した大きな逆断層で、中央構造線側に古生代後期から中生代中期の付加体(三波川変成帯と秩父帯とよばれる2つの帯があります)があり、海側に中生代後期より新しい付加体(四万十帯とよばれます)があります。
さて、沖縄の話です。本州、四国、九州から連続した構造をもった地質が、沖縄にもあります。沖縄を含む南西諸島では、太平洋側(正確にはフィリピン海)には、沈み込み帯である琉球海溝があります。その内帯側(西側)には、列島があり、縁海にあたる東シナ海(正確には沖縄トラフといます)という構造をもっています。
また、南西諸島は、3つの構造帯が列をなしています。東シナ海側、つまりいちばん内帯側に、新しい火山島列があります。硫黄島、口永良部島、中之島、諏訪之瀬島、硫黄鳥島などで、現在も活動中の火山がたくさんあります。
列島の中央は、古い時代の付加体で、奄美大島、沖縄島北部などと、南西諸島の一番南にあたる石垣島、西表島、与那国島も、古い時代の付加体です。ペルム紀とみられる化石が見つかっていますが、多くはジュラ紀から白亜紀にかけての付加体です。本州でいう三波川変成帯と秩父帯に相当するものです。
最後に、太平洋側、つまり一番外帯側には、白亜紀から第三紀の堆積岩からなる付加体があり、種子島や隆起サンゴ礁の沖永良部島や宮古島など低平な島が多い。本州でいう四万十帯に相当するものです。
深成岩の活動も見られます。深成岩は主に花崗岩で、すべて第三紀に活動したものです。北から、屋久島、奄美大島、徳之島、沖永良部島、渡名喜島、沖縄島、石垣島などで、規模はさまざまですがみられます。
このように見ていくと、南西諸島は、狭い範囲に日本列島の内帯を除く地質の要素と同じようなものが、出ていることになります。沖縄周辺も地質学的は日本列島と同じような構造を持っているのです。
・弧状列島・
なぜ、弧状の地形ができのでしょうか。
不思議に思うことがあります。
しかし、これは、地球が平面ではなく立体であること
それも球体であることが重要な意味があります。
海洋プレートと大陸プレートがぶつかり、
海洋プレートが沈み込むときの形態です。
これは硬い球体に、押し込まれたくぼみができるという現象です。
ピンポン玉を押してへこませたときでききる窪みは、小さな弧状のものです。
これが大規模に地球でも起きているのです。
ピンポン玉の窪みの反対側には、弧状の高まりができます。
これが列島の陸側に隆起が生じます。
日本列島は、今も、いくつもの沈み込み帯があります。
過去にもあったことが知られています。
それぞれが弧状の形態となっています。
日本列島は弧状の地形の集まりでもあるのです。
これは日本列島だけの特徴でなく、
多くの沈み込み帯では、ごく普通にみられる地形的形態です。
日本列島のような島が集まっているところを
弧状列島(島弧ともいいます)と呼ぶことがあります。
南西諸島も立派な島弧なのです。
2005-07-15
07 積丹半島:シャコタン・ブルーの海に抱かれて(2005.07.15)
Time:
9:09
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Geologist
断崖から海覗き込むと、海に吸い込まれそうに感じることはありませんか。海の色が深いコバルト・ブルーならなおさらです。夏の積丹半島の海は、特有の鮮やかなブルーとなります。そんな海の色を、シャコタン・ブルーと呼んでいます。積丹半島は、シャコタン・ブルーの海に抱かれているようです。
積丹半島は、小樽の西部にあり、北海道の南西部にあたります。日本海に対して北西に突き出た半島です。半島の周りは、断崖が多く、交通の難所となっています。でも、そんなところだからこそ、素晴らしい手付かずの自然が残されているのかもしれません。2004年9月に私は積丹半島を一周する調査に出かけました。
台風18号は、九州をかすめて日本海に出て、2004年9月8日未明、北海道の奥尻島の沖を通過しました。日本海で勢力を強めた台風は、北海道を直撃して、多くの被害をもたらしました。台風18号の影響で、半島を周回する国道229号線が、半島の西に位置する神恵内村の大森から柵内間で、高波によって橋が壊され、途中で通行不能になっていました。この台風18号は、死者7名、行方不明者2名、負傷者120名を超える大きな被害を出しました。
北海道には台風があまり来ないために、台風が来ると被害が大きくなります。今回は、日本海で成長するという予想に反する台風の挙動が、災害を大きくしたのかもしれません。
私は、台風通過の直後に積丹半島に出かけました。積丹半島の西側の海岸沿いでは、高波による被害の様子を生々しくみました。この調査の予定は、台風が来る以前に立てていたものです。当初の目的は、海岸沿いで古い火山の地形やマグマが固まるときにつくるさまざまな岩石の形態など見るつもりでした。
周回道路の通行は、遮断されていますが、そこを迂回すれば予定通り地質を見ることはできます。なにも災害直後に出かけなくてもいいのではないかという気もしましたが、私は、出かけました。それには、理由があったのです。
災害直後の様子を、自分自身が専門とする地質学の目で見ること、そしてそれらの様子を少しでも記録して、何らかの形でアウトプットすることが必要ではないかと考えたからです。2003年の台風10号のときも、洪水直後の鵡川と沙流川の調査をそのような目的をもって出かけました。
災害はできれば避けたいものです。でも、どうしても起こる災害もあります。その災害から学ぶことがあるはずです。ですから、私は自分の範囲で、現場の邪魔にならない範囲で、地質学的情報の収集に協力し、貢献したいと考えています。私が被災者、被災地に貢献ができるのは、ボランティアとして働くことよりも、私の身に付けた専門知識や経験、見る目、持っているアウトプットの方法を提供することではないかと考えています。
私の専門は地質学です。直接、台風災害と関係がないかもしれません。しかし、まったく関係ないこともありません。ですから、地質学者の目で災害の地を見ると、他の分野の専門家とは違った見方や情報収集ができるかもしれません。まして、災害直後しか手に入らない情報であったら、二度と手に入らない情報であったら、という思いがあります。
このように思うに至ったのは、次のような出来事があったからです。
2003年の十勝沖地震で、札幌でも液状化現象がおこり、傾いた家がでたことがニュースになりました。誰か専門家が調査しているだろうと、専門家みんなが思っていました。しかし、誰も調査していないことに産業技術総合研究所北海道センターの地質学者のOさんは気づかれました。液状化現象を、Oさんは記録するために、急遽現地に赴き、調査されました。そして緊急調査の内容は、地質学者にメーリングリストとホームページを使って公開されました。
このメールとホームページを見て、これは、非常に重要なことだと感じました。直後に専門家でないと収集できない情報を、収集して、記録に残すことは大切です。公的機関の人間としてOさんが、それを責務と考え、急遽調査され、報告されたことは、素晴らしいことだと思います。このような情報は、今度の対策に不可欠なデータとなるはずです。
私もそのような意図で、せっかく出かけるのであれば、許される範囲で、現場を見てこようと考えています。もちろん専門家が、仕事として現地で調査をしているでしょう。しかし、上で述べたように、情報は多くの専門家が、さまざまな視点で収集しておくべきだと考えています。
もちろん、一市民としていくわけですから、一般の人と同じように制限されているところにはいきませんし、許されている範囲で見ることになります。そんな立場からでも、災害の記録はそれなりにできるかも知れません。そして、その感想を人に話したり、学生に紹介したり、公的な場で意見を述べることもできるでしょう。
それが私にできる災害地へのボランティア活動だと考えています。
積丹半島の被災地の様子は、すざましく、生々しいものでした。積丹半島の西側の中央に位置する神恵内村では、大森から柵内間が通行止めで、大森大橋が高波で壊されていました。ここは、事前に通行止めにしていたため、死傷者がなったということも聞いていました。しかし、高波に破壊された家、浸水した家がたくさんありました。私が行ったときは台風後の快晴の日でした。被害受けた住民の方が、復旧に懸命でした。
2004年12月には、神恵内の復旧道路は開通しました。安全を図るために、今では、新たなトンネルが掘られています。完成はだいぶ先のようですが、より安全な対策がなされてきたわけです。災害の教訓が活かされたのです。
このような災害が起きたのは、台風による高波が予想以上でもあったのですが、積丹半島の周辺の海岸は険しい崖の多いことが、一番の理由ではないでしょうか。
そのため道路の整備も遅れ、古い狭くて険しい道も多いのです。トンネルも多く、昔の人が苦労してつくったトンネルが今も使われているようなものも見られます。特に東部の海岸沿いは細い道が多く、夏ともなると交通量が多く、通行が恐ろしい道となります。雨がたくさん降ると通行止めになるところもたくさんあります。積丹半島は、札幌や小樽からも近いのですが、観光地とはいえ、開発が遅れているのです。
積丹半島の海岸は、険しい海岸地形で切り立った崖が多く、崖崩れがよく起こる場所でもあります。1996年2月の古平町豊浜トンネル付近の大規模な崩落は、今も記憶に残っているものです。激しい降雨による通行規制も、雨による崖崩れの被害を事前に防ぐことが目的です。
なぜ、積丹半島の地形が、海岸から切り立ったようになっているのでしょうか。同じ北海道の日本海側海岸でも、石狩湾では砂浜が広がるようなところもあります。何がその差を生んでいるのでしょうか。
北海道の南から見ていくと、熊石町から大成町にかけての海岸、瀬棚町から島牧村の海岸、寿都町の海岸、岩内町の雷電の海岸、雄冬の海岸と、転々と険しい海岸があります。そのどれもが海に突き出るような地形となっています。北海道の日本海側の南西部で切り立った海岸線は、いずれも新第三紀や第四紀に活動した火山でできているということが共通しています。積丹半島でも、全体が新第三紀の火山があり、中央部には余別岳や天狗岳の第四紀ころに活動した新しい火山があます。
一方、なだらか海岸地域は、新しい時代に形成された堆積岩でできていたり、大きな川の河口周辺に平野部に多く見られます。同じ堆積岩でも、松前の海岸では、古くて硬い地層であるために、険しい崖となっています。もちろん望来海岸のように新しい堆積岩でも切り立ったところがあり、例外があります。まあ、それはそれで理由があるのですが。
新しい時代の火山は、できてあまり間がありません。もともと現在の海岸付近で活動したものですから、火山自体が侵食を受けやすい地域にあます。海の波の作用で激しく侵食されます。火山では溶岩や貫入岩だけでなく、火山噴出物や砕屑物など軟らかい堆積物も含まれています。すると、軟らかいところと硬いところでは、侵食の程度が違っていきます。軟らかいところは激しく侵食されます。硬いところは侵食を免れて、できたまま切り立った荒々しい状態の地形として残ります。
積丹半島の先端には、西に神威岬、東に積丹岬があります。いずれも険しい崖ですが、火山噴出がたくさん含まれている地層(野塚層と呼ばれています)があります。この新しい地層は、半島の西部の海岸ではよく見られるものです。堆積岩でできた地域は比較的やわらかいので、海の波による侵食を受けます。その結果、新しいものでは海食崖、古いものでは海岸段丘などの地形ができます。海岸段丘は積丹半島の西側で、海抜50mあたりによく見られ、最後の間氷期のものであることがわかっています。弱いがために侵食を受け、段丘と海食崖で険しい崖となっています。
このような地質の背景が、積丹半島の海岸の景観をつくっています。険しい崖は交通を困難にしています。しかし、その侵食が生み出した奇岩や荒々しい地形が、素晴らしい景観をつくっています。自然の荒々しさを味わう観光地として人を集めています。
積丹半島を囲む海は透明感が高く、魅惑的なブルーとなっています。このブルーは、シャコタン・ブルーと呼ばれます。積丹半島は、シャコタン・ブルーの海に抱かれているようです。海と大地の織り成す景観が、神秘さを増します。
・積丹マグロ・
積丹半島は、きれいな海を背景にした漁業が盛んで、
泊まったところは海の幸がいろいろあって
それもおいしかったです。
とりわけマグロの刺身には感動しました。
宿のご主人の話では、積丹沖でとれたもので、
積丹マグロと呼んでいました。
冷凍ではなく生なので、よりおいしく食べました。
たった3切れしかありませんでした。
でも、これくらいがいいのでしょう。
堪能しました。
北海道だけではないのですが、
海沿いの民宿や旅館に泊まると、
海の幸が豊富で素晴らしいです。
しかし、シャコタンブルーの海で獲れたマグロはやはり格別でした。
・サケ・
朝、旅館の前を散歩していると
多くの釣り人が、河口付近の海で釣りをしています。
何をつっているの見ていると
どうもサケを釣っているようです。
川ではサケは禁猟で捕れないのですが、
遡上前の海は、禁猟になっていないようです。
川にかかる橋から見ると、サケが何匹も川の中に見えました。
でも、それはまだ遡上のピークではないのでしょう。
北海道の田舎のきれいな川に秋に出かけると、
多くの場所でサケの遡上を見ることができます。
もちろん積丹半島でも、何箇所でもサケを見ることができました。
サケは台風の影響を受けなかったのでしょうか。
・北海道の自然・
ついつい話題が秋のものになりました。
今は夏ですから、夏の話をしましょう。
今度の連休に私は、富良野を中心に3泊4日で調査をします。
家族も一緒です。
富良野はテレビドラマの舞台ともなっているので、
田園風景が素晴らしいところです。
私の目的は、観光名所よりも、
地質学的に興味のあるところを見ることです。
石狩川支流の空知川と幾春別川の調査と
十勝岳の火山が目的です。
北海道は、なんといっても、春から秋にかけてが、いい季節です。
こんな時期は、北海道に住んでいてよかったとつくづく思います。
もちろん、時には今回紹介したような災害もあります。
それに、冬の寒さや雪も、北海道の自然です。
すべて丸ごと北海道の自然です。
地域の自然とは、いいことも悪いこともすべて含めて考えるべきです。
北海道の冬の厳しさがあるから
より一層夏のありがたさが味わえるのだと思います。
さて、北海道の夏はまだまだ続きます。
もっともっといいところを味わっていきましょう。
積丹半島は、小樽の西部にあり、北海道の南西部にあたります。日本海に対して北西に突き出た半島です。半島の周りは、断崖が多く、交通の難所となっています。でも、そんなところだからこそ、素晴らしい手付かずの自然が残されているのかもしれません。2004年9月に私は積丹半島を一周する調査に出かけました。
台風18号は、九州をかすめて日本海に出て、2004年9月8日未明、北海道の奥尻島の沖を通過しました。日本海で勢力を強めた台風は、北海道を直撃して、多くの被害をもたらしました。台風18号の影響で、半島を周回する国道229号線が、半島の西に位置する神恵内村の大森から柵内間で、高波によって橋が壊され、途中で通行不能になっていました。この台風18号は、死者7名、行方不明者2名、負傷者120名を超える大きな被害を出しました。
北海道には台風があまり来ないために、台風が来ると被害が大きくなります。今回は、日本海で成長するという予想に反する台風の挙動が、災害を大きくしたのかもしれません。
私は、台風通過の直後に積丹半島に出かけました。積丹半島の西側の海岸沿いでは、高波による被害の様子を生々しくみました。この調査の予定は、台風が来る以前に立てていたものです。当初の目的は、海岸沿いで古い火山の地形やマグマが固まるときにつくるさまざまな岩石の形態など見るつもりでした。
周回道路の通行は、遮断されていますが、そこを迂回すれば予定通り地質を見ることはできます。なにも災害直後に出かけなくてもいいのではないかという気もしましたが、私は、出かけました。それには、理由があったのです。
災害直後の様子を、自分自身が専門とする地質学の目で見ること、そしてそれらの様子を少しでも記録して、何らかの形でアウトプットすることが必要ではないかと考えたからです。2003年の台風10号のときも、洪水直後の鵡川と沙流川の調査をそのような目的をもって出かけました。
災害はできれば避けたいものです。でも、どうしても起こる災害もあります。その災害から学ぶことがあるはずです。ですから、私は自分の範囲で、現場の邪魔にならない範囲で、地質学的情報の収集に協力し、貢献したいと考えています。私が被災者、被災地に貢献ができるのは、ボランティアとして働くことよりも、私の身に付けた専門知識や経験、見る目、持っているアウトプットの方法を提供することではないかと考えています。
私の専門は地質学です。直接、台風災害と関係がないかもしれません。しかし、まったく関係ないこともありません。ですから、地質学者の目で災害の地を見ると、他の分野の専門家とは違った見方や情報収集ができるかもしれません。まして、災害直後しか手に入らない情報であったら、二度と手に入らない情報であったら、という思いがあります。
このように思うに至ったのは、次のような出来事があったからです。
2003年の十勝沖地震で、札幌でも液状化現象がおこり、傾いた家がでたことがニュースになりました。誰か専門家が調査しているだろうと、専門家みんなが思っていました。しかし、誰も調査していないことに産業技術総合研究所北海道センターの地質学者のOさんは気づかれました。液状化現象を、Oさんは記録するために、急遽現地に赴き、調査されました。そして緊急調査の内容は、地質学者にメーリングリストとホームページを使って公開されました。
このメールとホームページを見て、これは、非常に重要なことだと感じました。直後に専門家でないと収集できない情報を、収集して、記録に残すことは大切です。公的機関の人間としてOさんが、それを責務と考え、急遽調査され、報告されたことは、素晴らしいことだと思います。このような情報は、今度の対策に不可欠なデータとなるはずです。
私もそのような意図で、せっかく出かけるのであれば、許される範囲で、現場を見てこようと考えています。もちろん専門家が、仕事として現地で調査をしているでしょう。しかし、上で述べたように、情報は多くの専門家が、さまざまな視点で収集しておくべきだと考えています。
もちろん、一市民としていくわけですから、一般の人と同じように制限されているところにはいきませんし、許されている範囲で見ることになります。そんな立場からでも、災害の記録はそれなりにできるかも知れません。そして、その感想を人に話したり、学生に紹介したり、公的な場で意見を述べることもできるでしょう。
それが私にできる災害地へのボランティア活動だと考えています。
積丹半島の被災地の様子は、すざましく、生々しいものでした。積丹半島の西側の中央に位置する神恵内村では、大森から柵内間が通行止めで、大森大橋が高波で壊されていました。ここは、事前に通行止めにしていたため、死傷者がなったということも聞いていました。しかし、高波に破壊された家、浸水した家がたくさんありました。私が行ったときは台風後の快晴の日でした。被害受けた住民の方が、復旧に懸命でした。
2004年12月には、神恵内の復旧道路は開通しました。安全を図るために、今では、新たなトンネルが掘られています。完成はだいぶ先のようですが、より安全な対策がなされてきたわけです。災害の教訓が活かされたのです。
このような災害が起きたのは、台風による高波が予想以上でもあったのですが、積丹半島の周辺の海岸は険しい崖の多いことが、一番の理由ではないでしょうか。
そのため道路の整備も遅れ、古い狭くて険しい道も多いのです。トンネルも多く、昔の人が苦労してつくったトンネルが今も使われているようなものも見られます。特に東部の海岸沿いは細い道が多く、夏ともなると交通量が多く、通行が恐ろしい道となります。雨がたくさん降ると通行止めになるところもたくさんあります。積丹半島は、札幌や小樽からも近いのですが、観光地とはいえ、開発が遅れているのです。
積丹半島の海岸は、険しい海岸地形で切り立った崖が多く、崖崩れがよく起こる場所でもあります。1996年2月の古平町豊浜トンネル付近の大規模な崩落は、今も記憶に残っているものです。激しい降雨による通行規制も、雨による崖崩れの被害を事前に防ぐことが目的です。
なぜ、積丹半島の地形が、海岸から切り立ったようになっているのでしょうか。同じ北海道の日本海側海岸でも、石狩湾では砂浜が広がるようなところもあります。何がその差を生んでいるのでしょうか。
北海道の南から見ていくと、熊石町から大成町にかけての海岸、瀬棚町から島牧村の海岸、寿都町の海岸、岩内町の雷電の海岸、雄冬の海岸と、転々と険しい海岸があります。そのどれもが海に突き出るような地形となっています。北海道の日本海側の南西部で切り立った海岸線は、いずれも新第三紀や第四紀に活動した火山でできているということが共通しています。積丹半島でも、全体が新第三紀の火山があり、中央部には余別岳や天狗岳の第四紀ころに活動した新しい火山があます。
一方、なだらか海岸地域は、新しい時代に形成された堆積岩でできていたり、大きな川の河口周辺に平野部に多く見られます。同じ堆積岩でも、松前の海岸では、古くて硬い地層であるために、険しい崖となっています。もちろん望来海岸のように新しい堆積岩でも切り立ったところがあり、例外があります。まあ、それはそれで理由があるのですが。
新しい時代の火山は、できてあまり間がありません。もともと現在の海岸付近で活動したものですから、火山自体が侵食を受けやすい地域にあます。海の波の作用で激しく侵食されます。火山では溶岩や貫入岩だけでなく、火山噴出物や砕屑物など軟らかい堆積物も含まれています。すると、軟らかいところと硬いところでは、侵食の程度が違っていきます。軟らかいところは激しく侵食されます。硬いところは侵食を免れて、できたまま切り立った荒々しい状態の地形として残ります。
積丹半島の先端には、西に神威岬、東に積丹岬があります。いずれも険しい崖ですが、火山噴出がたくさん含まれている地層(野塚層と呼ばれています)があります。この新しい地層は、半島の西部の海岸ではよく見られるものです。堆積岩でできた地域は比較的やわらかいので、海の波による侵食を受けます。その結果、新しいものでは海食崖、古いものでは海岸段丘などの地形ができます。海岸段丘は積丹半島の西側で、海抜50mあたりによく見られ、最後の間氷期のものであることがわかっています。弱いがために侵食を受け、段丘と海食崖で険しい崖となっています。
このような地質の背景が、積丹半島の海岸の景観をつくっています。険しい崖は交通を困難にしています。しかし、その侵食が生み出した奇岩や荒々しい地形が、素晴らしい景観をつくっています。自然の荒々しさを味わう観光地として人を集めています。
積丹半島を囲む海は透明感が高く、魅惑的なブルーとなっています。このブルーは、シャコタン・ブルーと呼ばれます。積丹半島は、シャコタン・ブルーの海に抱かれているようです。海と大地の織り成す景観が、神秘さを増します。
・積丹マグロ・
積丹半島は、きれいな海を背景にした漁業が盛んで、
泊まったところは海の幸がいろいろあって
それもおいしかったです。
とりわけマグロの刺身には感動しました。
宿のご主人の話では、積丹沖でとれたもので、
積丹マグロと呼んでいました。
冷凍ではなく生なので、よりおいしく食べました。
たった3切れしかありませんでした。
でも、これくらいがいいのでしょう。
堪能しました。
北海道だけではないのですが、
海沿いの民宿や旅館に泊まると、
海の幸が豊富で素晴らしいです。
しかし、シャコタンブルーの海で獲れたマグロはやはり格別でした。
・サケ・
朝、旅館の前を散歩していると
多くの釣り人が、河口付近の海で釣りをしています。
何をつっているの見ていると
どうもサケを釣っているようです。
川ではサケは禁猟で捕れないのですが、
遡上前の海は、禁猟になっていないようです。
川にかかる橋から見ると、サケが何匹も川の中に見えました。
でも、それはまだ遡上のピークではないのでしょう。
北海道の田舎のきれいな川に秋に出かけると、
多くの場所でサケの遡上を見ることができます。
もちろん積丹半島でも、何箇所でもサケを見ることができました。
サケは台風の影響を受けなかったのでしょうか。
・北海道の自然・
ついつい話題が秋のものになりました。
今は夏ですから、夏の話をしましょう。
今度の連休に私は、富良野を中心に3泊4日で調査をします。
家族も一緒です。
富良野はテレビドラマの舞台ともなっているので、
田園風景が素晴らしいところです。
私の目的は、観光名所よりも、
地質学的に興味のあるところを見ることです。
石狩川支流の空知川と幾春別川の調査と
十勝岳の火山が目的です。
北海道は、なんといっても、春から秋にかけてが、いい季節です。
こんな時期は、北海道に住んでいてよかったとつくづく思います。
もちろん、時には今回紹介したような災害もあります。
それに、冬の寒さや雪も、北海道の自然です。
すべて丸ごと北海道の自然です。
地域の自然とは、いいことも悪いこともすべて含めて考えるべきです。
北海道の冬の厳しさがあるから
より一層夏のありがたさが味わえるのだと思います。
さて、北海道の夏はまだまだ続きます。
もっともっといいところを味わっていきましょう。
2005-06-15
06 仏像構造線:断層と大地の営み(2005.06.15)
Time:
9:08
●
Geologist
断層によってもともと違ったところになったものが接したり、あるいは今まであった関係がずれることがおこります。そんな断層をみていると、人間の営みと大地の営みは、時間でも大きさでもスケールの違いがありますが、どこか似たようなものを感じます。
愛媛県西予(せいよ)市は2004年4月1日に、明浜町・宇和町・野村町・城川町・三瓶町の5つの町が合併して、誕生しました。合併したそれぞれの町も、「昭和の大合併」で市町村合併をしたものです。愛媛県はかつては伊予と呼ばれ、この町は伊予の西にあるため、西予市と名づけられました。市町村合併は、今まで別であったものが、ひとつものにまとまっていくということです。そのようなことが、自然界にもよく起こっています。それは断層というもので、断層は私たちがよく知っている地震と密接な関係があります。そんな断層を見ていきましょう。
市町村合併をした西予市のうち、城川町は私のよく知っている町です。城川町に、私は、1991年以来、毎年のように通っています。城川町には地質館という博物館があります。その設立に協力して以来、博物館の展示だけでなく、インタネットを使った博物館情報の公開、市民教育のための普及講座、博物館のネットワーク化など、さまざまな共同作業をしながら、何度も訪れるようになりました。今では、第二の故郷のように思えるほどです。新しい市長さんにも、2度ほどお目にかかり、私たちの成果や目的を紹介しました。
愛媛県の山間の小さな町である城川町に地質館ができたのは、この地が地質学的に有名なところだからです。地質学を勉強をした人なら、日本の地質の名称として、黒瀬川構造帯、寺野変成岩、三滝火成岩類などという名称を聞いたことがあるはずです。たとえそれらがどの町にあるかわからなくても、聞き覚えのある名称です。これらは、城川町にある地名から由来しています。ですから、城川町という地名を聞いたことがない地質学者でも、城川町にある地名を知っているのです。
城川町から西予市になって、一気に面積が広がりました。海から四国脊梁の四国カルストまで、多様な自然をかかえる市となりました。私も新しい市の全域の地質をみるために、いろいろなところを巡りはじめました。そんな調査の折に、仏像構造線が見ることができるということを、知りました。さっそく、その断層が見ることのできる崖(露頭(ろとう)といいます)を訪れました。
四国には東西方向に延びる大きな断層が、2本あります。ひとつは中央構造線で四国の北側を東西に走り、もうひとつが仏像構造線で四国の中央を東西に走ります。仏像構造線は、北側にある秩父帯が南側の四万十帯に押し上げているような構造の断層(逆断層と呼ばれています)です。仏像構造線は、秩父帯と四万十帯の境界になっています。仏像構造線という名前は、高知県土佐市にある地名にちなんで、小林貞一という地質学者が、1931年に命名したものです。残念ながら、城川由来の地名ではありませんが。
秩父帯も四万十帯も、南にあった海洋プレートが海溝に沈み込むのに伴って、陸側にいろいろな堆積物が押し付けられ、くっついてできたものです。このようにしてできた地層群を付加体と呼びます。四国では、常に南側に沈み込み帯がありましたので、北から南に向かって新しい地質体が付加しています。
秩父帯が付加したのはジュラ紀で、四万十帯は白亜紀から第三紀にかけてです。さらに南側にはもっと新しい付加体があります。ここで示した時代は付加体が形成された時代で、付加体の中には、海洋プレートが運んできた石も一緒に出てきます。ですから、付加体ができた時代よりもっと古い石も含まれています。秩父帯には、3億1000万年前(石炭紀後期)~1億5000万年前(ジュラ紀後期)の石がみつかり、四万十帯には1億3000万年前(白亜紀前期)~2200万年前(中新世初期)の石が混じっています。
秩父帯を構成する石は、砂岩や泥岩を主としますが、海山を構成していた石(玄武岩や石灰岩)や深海底に溜まったチャートと呼ばれる堆積岩などを含んでいます。四万十帯も同様に、砂岩や泥岩を主とした石の中に、海山や海嶺できてた石(玄武岩)やチャートなどが混っています。その秩父帯と四万十帯の一番の違いは、付加した時代です。
また、秩父帯の中には、黒瀬川構造帯と呼ばれる異質な石をいろいろ含む地帯があります。これも一種の大きな断層帯とみなせます。黒瀬川構造帯は、連続性はよくないのですが、断続的に分布しています。中には、シルル紀からデボン紀の地層や花こう岩類、変成岩が含まれています。シルル紀からデボン紀の地層は、岡成(おかなろ)層群と呼ばれ、この地層名は城川にある地名に由来しています。角閃岩や片麻岩などの変成岩は寺野変成岩と呼ばれ、砕かれた花こう岩類は三滝火成岩とよばれ、いずれも城川にある地名に由来しています。
仏像構造線は、時代の違った付加体が接しているため、地質学的に見て第一級の大断層になります。ランドサットなどの人工衛星から見ると、中央構造線は、明瞭な大地形としてみることができます。仏像構造線もよく見ると大地形としてその連続を追いかけることができます。四国の東西に延びる山並みは、仏像構造線などの付加体の構造をそのまま反映した地形なのです。
このような大きな断層は、一本の大きな断層がきれいに地層や岩石を割っているのではありません。多数の大小の断層が複雑に入り混じって、大断層を構成しています。大断層の本体を露頭で近くから見ることはできませんが、人工衛星から遠めで見ると巨大断層はよく見えるのです。
第一級の大断層を見ようとしても、断層の本体はなかなか見ることができません。見ることのできるのは、いくつもある大断層を構成するひとつの小さな断層になります。同じ意味を持つ断層かどうかは、断層の両側にある地層が、秩父帯と四万十帯の地層であれば、それは仏像構造線の一部をなす断層とみなせます。
それでも、このような一級の大断層を見ることはなかなか難しいのです。なぜなら、断層とは、地層や岩石が割れた場所のことです。そしてその断層が大きければ大きいほど、断層の幅は大きくなり、中には砕けた石ができます。このような部分を断層破砕帯と呼びます。断層破砕帯は、砕けた石でできているので、まわりの石と比べると弱い部分となります。断層が地表付近にあると、断層破砕帯は弱いですから、風化や浸食を受けやすくなります。破砕帯が大きければ、そこは谷となるでしょう。四国の中央構造線は、大きな川(吉野川)や平野(新居浜平野、松山平野)、海(伊予灘)、半島(佐多岬半島)になっているところがあるほどです。
大きな断層を露頭で見るのはなかなか大変なのですが、仏像構造線が西予市でみることができるのです。私が見ることのできたのは、海岸沿いの道路の露頭や工事中の露頭でした。第一級の大断層にしてはあまりにも、さりげなく、みすぼらしいような気がします。
しかし、断層の北側には、秩父帯の特徴的な石である石灰岩があり、断層破砕帯をはさんで南側には、四万十帯の砂岩と泥岩の地層がありました。明らかに、仏像構造線の特徴をもっています。この断層は、かろうじて、露頭として残っています。断層破砕帯があるのですから、崩れやすいところとなっています。もし、道路拡張や落石防止のためにコンクリートを吹きつけられたら、明日にも見ることができなくなります。
近くに工事中の露頭があり、そこの石を見ると、激しく砕かれた石からなる大きな破砕帯がありました。一部でかろうじて石を見分けることができましたが、大半の石はぐしゃぐしゃに砕かれています。近くにこのような大きな破砕帯があるということは、やはり仏像構造帯がこのあたりを走っていることは確かです。考えてみると、海岸沿いのこの小さい露頭に、断層が残っていることの方が、不思議なぐらいです。
直接断層を見ることは、なかなか困難なのです。ほんの小さいな露頭で垣間見るだけです。しかし、そんな小さな露頭でも、周囲には大断層の痕跡がたくさん見つかります。
この海岸の露頭よりさらに東の陸側では、断層がそのまま山の崖をつくっているところが見ることができます。このような断層のずれによってできた崖を、断層崖と呼びます。途中で別の断層に切られて南北にずれていますが、20kmほどにわたって断層崖が連続します。しかし、断層崖で断層を直接見ることはできませんでした。
さて、今までは、第一級の断層の話でしたが、小さな断層であれば、地層や石ころの中に、身近にみることができます。断層とは、石が破壊されてできる割れ目(断層面といいます)で、ズレ(変位といいます)があることをいいます。断層はその規模を問いません。ですから、小さなものであれば、手軽に断層を見ることができるのです。
石や地層を見ると、さまざまなサイズの割れ目があり、固まっていることがあります。もしその割れ目で左右の石や地層が別のものだったり、模様がずれていたりとすると、その割れ目は小さいながら断層といえます。石がずれて固まった割れ目は、いってみれば、大地の動いた跡、大地の変動の化石といえます。そのような断層を持つ石や地層は探せばいっぱい見つかります。
断層は、それほど珍しいものではないのです。しかし、断層が持つ意味を考えると、実は重要なことを、小さいな断層が物語っていることに気づきます。
断層とは、まず石が割れることから始まります。石が割れるということは、大地に働く力が岩石の強度を上回り、岩石に破壊が起こるということです。そのような破壊がおこると、地表で感じるような振動が起こることがあります。それを、地震と呼んでいます。一度の地震でいくつもの断層ができます。小さな断層は、大きな地震によってできた多数の破壊のひとつにすぎないかもしれません。大きな断層は何度も地震を起こします。ですから、断層の数と地震の数とは、一致するわけではありません。どんな規模のものであっても断層があるということは、規模はわかりませんが、地震が起こったことを示しています。
地層や石の中にみられる断層とは、地震の化石ともみなせるのです。石に記録された断層がいつの時代に起こったものかを特定するのは、なかなか難しものです。特別な場合を除いて、いつかを特定することはできません。しかし、多数の断層が石や地層に記録されているということは、大地では、いたるところで地震が起こっていることを意味します。
日本では、いや大地には、いたるところに断層が見つかります。その断層とは、大地の営みといえます。大地の営みとは、断層つまり地震を伴うことなのです。そして大地の営みが継続することによって、その規模は、想像を絶するほどのものとなります。山脈をつくり、海溝をつくり、海と陸など地球表層の構造すべてをつくっていくことが、大地の営みなのです。その営みには、岩石の破壊という断層が不可分な作用として伴います。断層があること、それは地球の営みが、起こっている証でもあるのです。
小さな今にもなくなりそうな露頭にみらる第一級の大断層から、手のひらに乗る小さな石ころの中の断層まで、大地の営みの記録なのです。
・そうは見えない・
このエッセイでは、断層を見るたびに、
いつも感じていること書きました。
第一級の断層をあちこちで見てきたのですが、
どれを見ても、ついついこれがあの有名な断層なのか、
という気持ちがいつも沸きます。
中央構造線でもフォッサマグナでも同じ気持ちを味わりました。
何箇所も見ています。
それよりも名前もない見事な断層が、
大きな露頭の地層では見ることができます。
名もないけれども断層らしい断層、
有名だけれども見栄えのしない大断層があります。
もちろん大断層とは多数の断層からできていること、
見えている断層は、本体の一部に過ぎないことも知っています。
でも、やはりそんな大断層を見るとがっくりしてしまいます。
理性的にはそれが第一級の大断層であること、
地質学的にはそこに大きな不連続があること、
そしてそこに重要な地質学的意味があること、
すべて理解しています。
でも、見ると、やはりそう感じないのも事実です。
人知れず、ひっそりと目立つことなくあるからでしょうか。
断層とは地震の写し身で、
人にとっては害をなすものだからでしょうか。
どうもそうではなさそうです。
第一級の大断層とは、規模も大きく見えてい欲しいという
願望があるからなのかもしれません。
そんな願望が満たされないから、
みすぼらしく感じるのかもしれません。
論理がないと理性は納得しません。
しかし、人が感動するのは感性です。
感性は見た目や大きさなど、
理屈ではないものから発生するようです。
さてさて人の心とは、断層を解明するより難解なものですね。
・市町村合併・
ここ数年、市町村合併で、新しい町の名称が生まれています。
昭和30年頃にあった「昭和の大合併」以来、
50年を経て、今、新たな市町村合併が起こっています。
国の構造改革の一環で打ち出された政策です。
合併でより大きな行政単位となり、
施設の効率化や人員の合理化、
10年間の交付税の確保、
合併のために補助金、
などなどが大きなメリットがあるため、
多くの市町村で進んでいるようです。
一方で、古い町の名称がなくなることへの抵抗、
地域の伝統が消えること、
過疎化の促進への不安、
補助金亡き後の財政危機、
などなど、問題もいろいろありそうです。
しかし、市町村合併の最終判断は、
そこに住む住民たちが下します。
ある地域では、市町村合併をやめ、
ある地域では市町村合併が進んだり、終わったりしています。
いずれにしても、平成の大合併は進行中です。
愛媛県西予(せいよ)市は2004年4月1日に、明浜町・宇和町・野村町・城川町・三瓶町の5つの町が合併して、誕生しました。合併したそれぞれの町も、「昭和の大合併」で市町村合併をしたものです。愛媛県はかつては伊予と呼ばれ、この町は伊予の西にあるため、西予市と名づけられました。市町村合併は、今まで別であったものが、ひとつものにまとまっていくということです。そのようなことが、自然界にもよく起こっています。それは断層というもので、断層は私たちがよく知っている地震と密接な関係があります。そんな断層を見ていきましょう。
市町村合併をした西予市のうち、城川町は私のよく知っている町です。城川町に、私は、1991年以来、毎年のように通っています。城川町には地質館という博物館があります。その設立に協力して以来、博物館の展示だけでなく、インタネットを使った博物館情報の公開、市民教育のための普及講座、博物館のネットワーク化など、さまざまな共同作業をしながら、何度も訪れるようになりました。今では、第二の故郷のように思えるほどです。新しい市長さんにも、2度ほどお目にかかり、私たちの成果や目的を紹介しました。
愛媛県の山間の小さな町である城川町に地質館ができたのは、この地が地質学的に有名なところだからです。地質学を勉強をした人なら、日本の地質の名称として、黒瀬川構造帯、寺野変成岩、三滝火成岩類などという名称を聞いたことがあるはずです。たとえそれらがどの町にあるかわからなくても、聞き覚えのある名称です。これらは、城川町にある地名から由来しています。ですから、城川町という地名を聞いたことがない地質学者でも、城川町にある地名を知っているのです。
城川町から西予市になって、一気に面積が広がりました。海から四国脊梁の四国カルストまで、多様な自然をかかえる市となりました。私も新しい市の全域の地質をみるために、いろいろなところを巡りはじめました。そんな調査の折に、仏像構造線が見ることができるということを、知りました。さっそく、その断層が見ることのできる崖(露頭(ろとう)といいます)を訪れました。
四国には東西方向に延びる大きな断層が、2本あります。ひとつは中央構造線で四国の北側を東西に走り、もうひとつが仏像構造線で四国の中央を東西に走ります。仏像構造線は、北側にある秩父帯が南側の四万十帯に押し上げているような構造の断層(逆断層と呼ばれています)です。仏像構造線は、秩父帯と四万十帯の境界になっています。仏像構造線という名前は、高知県土佐市にある地名にちなんで、小林貞一という地質学者が、1931年に命名したものです。残念ながら、城川由来の地名ではありませんが。
秩父帯も四万十帯も、南にあった海洋プレートが海溝に沈み込むのに伴って、陸側にいろいろな堆積物が押し付けられ、くっついてできたものです。このようにしてできた地層群を付加体と呼びます。四国では、常に南側に沈み込み帯がありましたので、北から南に向かって新しい地質体が付加しています。
秩父帯が付加したのはジュラ紀で、四万十帯は白亜紀から第三紀にかけてです。さらに南側にはもっと新しい付加体があります。ここで示した時代は付加体が形成された時代で、付加体の中には、海洋プレートが運んできた石も一緒に出てきます。ですから、付加体ができた時代よりもっと古い石も含まれています。秩父帯には、3億1000万年前(石炭紀後期)~1億5000万年前(ジュラ紀後期)の石がみつかり、四万十帯には1億3000万年前(白亜紀前期)~2200万年前(中新世初期)の石が混じっています。
秩父帯を構成する石は、砂岩や泥岩を主としますが、海山を構成していた石(玄武岩や石灰岩)や深海底に溜まったチャートと呼ばれる堆積岩などを含んでいます。四万十帯も同様に、砂岩や泥岩を主とした石の中に、海山や海嶺できてた石(玄武岩)やチャートなどが混っています。その秩父帯と四万十帯の一番の違いは、付加した時代です。
また、秩父帯の中には、黒瀬川構造帯と呼ばれる異質な石をいろいろ含む地帯があります。これも一種の大きな断層帯とみなせます。黒瀬川構造帯は、連続性はよくないのですが、断続的に分布しています。中には、シルル紀からデボン紀の地層や花こう岩類、変成岩が含まれています。シルル紀からデボン紀の地層は、岡成(おかなろ)層群と呼ばれ、この地層名は城川にある地名に由来しています。角閃岩や片麻岩などの変成岩は寺野変成岩と呼ばれ、砕かれた花こう岩類は三滝火成岩とよばれ、いずれも城川にある地名に由来しています。
仏像構造線は、時代の違った付加体が接しているため、地質学的に見て第一級の大断層になります。ランドサットなどの人工衛星から見ると、中央構造線は、明瞭な大地形としてみることができます。仏像構造線もよく見ると大地形としてその連続を追いかけることができます。四国の東西に延びる山並みは、仏像構造線などの付加体の構造をそのまま反映した地形なのです。
このような大きな断層は、一本の大きな断層がきれいに地層や岩石を割っているのではありません。多数の大小の断層が複雑に入り混じって、大断層を構成しています。大断層の本体を露頭で近くから見ることはできませんが、人工衛星から遠めで見ると巨大断層はよく見えるのです。
第一級の大断層を見ようとしても、断層の本体はなかなか見ることができません。見ることのできるのは、いくつもある大断層を構成するひとつの小さな断層になります。同じ意味を持つ断層かどうかは、断層の両側にある地層が、秩父帯と四万十帯の地層であれば、それは仏像構造線の一部をなす断層とみなせます。
それでも、このような一級の大断層を見ることはなかなか難しいのです。なぜなら、断層とは、地層や岩石が割れた場所のことです。そしてその断層が大きければ大きいほど、断層の幅は大きくなり、中には砕けた石ができます。このような部分を断層破砕帯と呼びます。断層破砕帯は、砕けた石でできているので、まわりの石と比べると弱い部分となります。断層が地表付近にあると、断層破砕帯は弱いですから、風化や浸食を受けやすくなります。破砕帯が大きければ、そこは谷となるでしょう。四国の中央構造線は、大きな川(吉野川)や平野(新居浜平野、松山平野)、海(伊予灘)、半島(佐多岬半島)になっているところがあるほどです。
大きな断層を露頭で見るのはなかなか大変なのですが、仏像構造線が西予市でみることができるのです。私が見ることのできたのは、海岸沿いの道路の露頭や工事中の露頭でした。第一級の大断層にしてはあまりにも、さりげなく、みすぼらしいような気がします。
しかし、断層の北側には、秩父帯の特徴的な石である石灰岩があり、断層破砕帯をはさんで南側には、四万十帯の砂岩と泥岩の地層がありました。明らかに、仏像構造線の特徴をもっています。この断層は、かろうじて、露頭として残っています。断層破砕帯があるのですから、崩れやすいところとなっています。もし、道路拡張や落石防止のためにコンクリートを吹きつけられたら、明日にも見ることができなくなります。
近くに工事中の露頭があり、そこの石を見ると、激しく砕かれた石からなる大きな破砕帯がありました。一部でかろうじて石を見分けることができましたが、大半の石はぐしゃぐしゃに砕かれています。近くにこのような大きな破砕帯があるということは、やはり仏像構造帯がこのあたりを走っていることは確かです。考えてみると、海岸沿いのこの小さい露頭に、断層が残っていることの方が、不思議なぐらいです。
直接断層を見ることは、なかなか困難なのです。ほんの小さいな露頭で垣間見るだけです。しかし、そんな小さな露頭でも、周囲には大断層の痕跡がたくさん見つかります。
この海岸の露頭よりさらに東の陸側では、断層がそのまま山の崖をつくっているところが見ることができます。このような断層のずれによってできた崖を、断層崖と呼びます。途中で別の断層に切られて南北にずれていますが、20kmほどにわたって断層崖が連続します。しかし、断層崖で断層を直接見ることはできませんでした。
さて、今までは、第一級の断層の話でしたが、小さな断層であれば、地層や石ころの中に、身近にみることができます。断層とは、石が破壊されてできる割れ目(断層面といいます)で、ズレ(変位といいます)があることをいいます。断層はその規模を問いません。ですから、小さなものであれば、手軽に断層を見ることができるのです。
石や地層を見ると、さまざまなサイズの割れ目があり、固まっていることがあります。もしその割れ目で左右の石や地層が別のものだったり、模様がずれていたりとすると、その割れ目は小さいながら断層といえます。石がずれて固まった割れ目は、いってみれば、大地の動いた跡、大地の変動の化石といえます。そのような断層を持つ石や地層は探せばいっぱい見つかります。
断層は、それほど珍しいものではないのです。しかし、断層が持つ意味を考えると、実は重要なことを、小さいな断層が物語っていることに気づきます。
断層とは、まず石が割れることから始まります。石が割れるということは、大地に働く力が岩石の強度を上回り、岩石に破壊が起こるということです。そのような破壊がおこると、地表で感じるような振動が起こることがあります。それを、地震と呼んでいます。一度の地震でいくつもの断層ができます。小さな断層は、大きな地震によってできた多数の破壊のひとつにすぎないかもしれません。大きな断層は何度も地震を起こします。ですから、断層の数と地震の数とは、一致するわけではありません。どんな規模のものであっても断層があるということは、規模はわかりませんが、地震が起こったことを示しています。
地層や石の中にみられる断層とは、地震の化石ともみなせるのです。石に記録された断層がいつの時代に起こったものかを特定するのは、なかなか難しものです。特別な場合を除いて、いつかを特定することはできません。しかし、多数の断層が石や地層に記録されているということは、大地では、いたるところで地震が起こっていることを意味します。
日本では、いや大地には、いたるところに断層が見つかります。その断層とは、大地の営みといえます。大地の営みとは、断層つまり地震を伴うことなのです。そして大地の営みが継続することによって、その規模は、想像を絶するほどのものとなります。山脈をつくり、海溝をつくり、海と陸など地球表層の構造すべてをつくっていくことが、大地の営みなのです。その営みには、岩石の破壊という断層が不可分な作用として伴います。断層があること、それは地球の営みが、起こっている証でもあるのです。
小さな今にもなくなりそうな露頭にみらる第一級の大断層から、手のひらに乗る小さな石ころの中の断層まで、大地の営みの記録なのです。
・そうは見えない・
このエッセイでは、断層を見るたびに、
いつも感じていること書きました。
第一級の断層をあちこちで見てきたのですが、
どれを見ても、ついついこれがあの有名な断層なのか、
という気持ちがいつも沸きます。
中央構造線でもフォッサマグナでも同じ気持ちを味わりました。
何箇所も見ています。
それよりも名前もない見事な断層が、
大きな露頭の地層では見ることができます。
名もないけれども断層らしい断層、
有名だけれども見栄えのしない大断層があります。
もちろん大断層とは多数の断層からできていること、
見えている断層は、本体の一部に過ぎないことも知っています。
でも、やはりそんな大断層を見るとがっくりしてしまいます。
理性的にはそれが第一級の大断層であること、
地質学的にはそこに大きな不連続があること、
そしてそこに重要な地質学的意味があること、
すべて理解しています。
でも、見ると、やはりそう感じないのも事実です。
人知れず、ひっそりと目立つことなくあるからでしょうか。
断層とは地震の写し身で、
人にとっては害をなすものだからでしょうか。
どうもそうではなさそうです。
第一級の大断層とは、規模も大きく見えてい欲しいという
願望があるからなのかもしれません。
そんな願望が満たされないから、
みすぼらしく感じるのかもしれません。
論理がないと理性は納得しません。
しかし、人が感動するのは感性です。
感性は見た目や大きさなど、
理屈ではないものから発生するようです。
さてさて人の心とは、断層を解明するより難解なものですね。
・市町村合併・
ここ数年、市町村合併で、新しい町の名称が生まれています。
昭和30年頃にあった「昭和の大合併」以来、
50年を経て、今、新たな市町村合併が起こっています。
国の構造改革の一環で打ち出された政策です。
合併でより大きな行政単位となり、
施設の効率化や人員の合理化、
10年間の交付税の確保、
合併のために補助金、
などなどが大きなメリットがあるため、
多くの市町村で進んでいるようです。
一方で、古い町の名称がなくなることへの抵抗、
地域の伝統が消えること、
過疎化の促進への不安、
補助金亡き後の財政危機、
などなど、問題もいろいろありそうです。
しかし、市町村合併の最終判断は、
そこに住む住民たちが下します。
ある地域では、市町村合併をやめ、
ある地域では市町村合併が進んだり、終わったりしています。
いずれにしても、平成の大合併は進行中です。
2005-05-15
05 樽前山:過去を知る重要性(2005.05.15)
Time:
9:08
●
Geologist
樽前山は、支笏湖カルデラの縁にできた火山です。樽前山に登って、噴煙とドームを間近かに見ながら、科学的に探る歴史の重要性を考えたことがあります。
私のいる大学は、札幌の隣町の江別市というところにあります。そこは、野幌丘陵と呼ばれる小高い丘になっているところです。天気にいい日に、大学の高い建物から眺めると、遠くの山並みが見えます。
北側には暑寒別の山塊、東には馬追丘陵と遠くの夕張山地、西から南に向かっては手稲山、藻岩山、無意根山、恵庭、漁岳、樽前山へと山並みが連続します。
中でも、樽前山は、その山の形が変わっていることから、すぐに見分けられます。その変わった形とは、江別から見ると台形に見え、冬でも黒々として雪の少ない姿が眺められます。横から見ると台形ですが、立体的に見ると、円錐を途中でちょん切ったような薄いプリンのような形になっています。
これは、ラバードームと呼ばれるものです。このラバードームのラバー(lava)とは溶岩のことで、ドーム(dome)とはおわんを伏せたような丸い状をいいます。日本語では溶岩円頂丘(えんちょうきゅう)や溶岩ドームと呼ばれています。
ラバードームは名前のとおり、マグマによってできたものです。流れにくい(粘性が大きいといいます)性質のマグマが、地表に出て、流れることなく、そのまま固まったときにできるものです。
樽前山は、支笏湖の南湖畔に面して聳える風不死(ふっぷし)火山の南南東側に約3kmのところにあります。支笏湖畔には、東側に支笏湖温泉、西側には小さいですが伊藤温泉、丸駒温泉、オコタン温泉があります。支笏湖周辺は、支笏洞爺国立公園にも指定されていて、風光明媚な観光地です。しかし、それらの名所は、火山活動によってつくられたものなのです。
今は一見穏やかにみえる樽前山ですが、火山活動は現在も活発で、噴気も出ていますし、火山性地震もあり、噴火の危険性があるため常に監視されています。
ラバードームは、1909年(明治42年)の噴火活動によってできたものです。その時の様子を、少しみていきましょう。
樽前山は、1909年の1月から小規模な噴火をはじめていました。3月30日と4月12日には、激しい噴火を起こして、火山灰を降らしました。その火山灰は札幌にも届いて、降りました。4月17日の夕方から山頂には雨や雲がかかり、それ以降の様子は観察されていません。しかし、19日の夕方に山頂が見えたときには、ドームが見えたそうです。これが現在もあるラバードームの誕生の物語です。神秘的な誕生なのですが、長くても48時間、少なければもっと短時間で、このドームが形成されたことになります。
現在、ラバードームは直径が300から400m、高さが130mほどあり、体積は約2000万立方mあります。このようなラバードームが、たったの2日足らずでできたのです。火山活動の脅威、あるいは威力を見せ付けらる気がします。
このラバードームは、マグマの出口をフタをするようにできました。下にはまだ熱いマグマが残っていました。そのため、ラバードーム近くの火口では、火山のガスを噴出すような小規模な噴火をたびたび繰り返してきました。
札幌管区気象台火山監視・情報センターの観測では、火口の中は、2005年3月でも約600℃という高温であることがわかっています。火山性地震や噴気も続いています。100年たってもまだ、熱いマグマがラバードームの下にはあるのです。樽前山は活火山なのです。そして、いつ噴火してもおかしくないのです。
樽前山のラバードームには、以前は近くまでいけたのですが、今では噴火の危険があるので、立ち入り禁止になっています。火口縁の登山道までは、許可されていますが、残念ながらドームに近づくことはできません。私もラバードームを眺めたのは、火口縁からでした。
しかし、100年も続く活動をしているラバードームの形成は、樽前山の噴火の歴史では、小規模なものと位置づけられているのです。それは、火山の歴史を探ることからわかってきたものです。
1909年のラバードームをつくった火山活動は、多くの人が見て、記録をしていたので、私たちはその活動を知ることができのです。もっと古い時代の火山の噴火の歴史は、近くに人が住んでいれば、古文書などが残っていることがあります。それを手がかりにして、火山噴火の記録を探ることができます。
そのような記録によると、樽前山の噴火は、1874年(明治7年)、1867年(慶応3年)、1804-1817年(文化1-14年間)、1739年(元文年)、そして最古の記録が1667年(寛文年)のものです。北海道にはアイヌの人が住んでいたのですが、記録は残していませんでした。ですから樽前山に関する最古の1667年(寛文年)の文書は、津軽での記録となてっています。
古文書の記録から、樽前山噴火の概略を紹介しましょう。
1667年(寛文年)の噴火は、記録のあるものの中では最大のもので、大量の火山噴出物(火砕物と呼びます)が放出されました。この噴火はプリニー式噴火と呼ばれるもので、大噴火とともに噴煙が成層圏まで上がり、噴煙はきのこ雲となり、大量の火砕物を風下に降らします。爆発で吹き上がった火砕物は東向きの風に乗り、苫小牧ではなんと2mの厚さの火砕物が降ってきました(降下火砕物といいます)。また、火山の近くでは、火砕物が流れ下りました(火砕流や火砕サージと呼ばれます)。このときの噴火の音が津軽まで聞こえたというのが、上の古文書の記録に残ったいたのでした。
火砕流とは、プリニー式の噴火で立ち上がった噴煙柱が崩れて、火砕物が落ちて流れ下るときにおこるものです。火砕サージとは、火砕物を含む希薄な流れで、爆発的な噴火の時に横に方向に流れていくものです。サージはそれほど遠くまで流れず(約3km以内)、堆積物も薄いもので、断面で見るとレンズ状に消えていくように見えます。サージは、一度の噴火活動で、爆発のたびに起こり、堆積物が何層も積み重なっていきます。それは砂丘で見られるような波状の地形となります。
1739年(元文年)には、再びプリニー式の大噴火が起こりました。東側の山麓は、この噴火で、3日間ほど昼でも暗かったと記録に残されています。20km東方の千歳では、今での1mの厚さの降下火砕堆積物が溜まっています。
1804-1817年(文化1-14年間)、1867年(慶応3年)、1874年(明治7年)は、前の2回の噴火と比べると、小規模でした。1804年-1817年にかけての噴火では、火口の中に小さな火砕物でできた丘(火砕丘と呼びます)ができました。1867年の噴火では、その火砕丘の上にラバードームが形成されました。1874年の噴火はプリニー式で、このラバードームが破壊されてしまいました。
これが、記録に残っている記述の実際の噴出物から探った火山の歴史です。これが樽前山の火山活動のすべてでしょうか。もちろん、人が記録をしてないもっと前から活動をしていました。では、人がつけた記録のない場合は、どうすれば、火山活動の歴史を読み取ることができるでしょうか。
私は、2004年秋、初雪の降った樽前山に登りました。ラバードームの不思議さに目をうばれてしまいますが、山麓に眼を向けると。西と南の山麓に、不思議に地形が見えてます。その地形は、波を打ったような、魚のうろこ状の模様が規則的にあるように見えます。この地形は、実は火砕サージがつくったものでなのです。さまざまな景観の中にも、火山の記録が残されています。そのような火山活動によってできた地形、あるいはその地形をつくっている火山噴出物や溶岩などの調査から、火山活動の様子を探っていけばよいのです。
時期の違う火山活動が読み取れたとしたら、それぞれの活動でできた溶岩や火砕物に埋もれた植物片などから年代測定をして、時代を決めていきます。溶岩や火山灰などの火山噴出物から正確な年代を決めるのはなかなか大変ですが、火山の周辺には火山噴出物が堆積して残っていることがよくあります。そのような火山噴出物を詳細に調べれば、年代は少々不確かでも、火山の噴火の順序による歴史は、かなり詳細に編むことができます。樽前山でも地質学者たちは、地道な野外調査から、その歴史を割り出してきました。
そのような調査の結果、樽前山は、9000年前から火山活動をはじめたことがわかりました。9000年前の最初の噴火は、爆発的なプリニー式で大量の降下火砕物を降らし、火砕流や火砕サージなどの流れました。
その後、6000年ほどの活動の記録がなく、3000年前にやはりプリニー式の噴火が起こりました。そして、また1500年の休止期を経て、上で述べた記録に残っている噴火として、活動を再開したのです。
以上のように樽前山の噴火の歴史の全貌は、解明されています。このような長い休止期の後、大規模な噴火が起こった例は、他には知られていません。樽前山は、少々変わった活動の歴史を持っている火山のようです。江戸時代以降は、70年から30年ほどの間隔で、頻繁に噴火を繰り返しています。しかし、1909年の噴火以降、96年が過ぎようとしているのに、まだ噴火はありません。噴火の間隔に何らかの科学的根拠が見つかっているわけではないですが、不気味です。もし、マグマがある時間間隔で供給されるメカニズムがあれば、ある時間間隔で噴火をしてもおかしくはありません。
樽前山は、今後も活動の可能性の高い活火山で、さまざまな観測方法で監視をされています。これは、火山の今の状態を観測することで、未来の噴火に備えるものです。一方、噴火の歴史を探ることによって、その火山がどのような噴火の歴史を持っていることが知ることができます。そして、有珠山のように規則正しい噴火をすることが多い火山だと、その噴火の記録は噴火予知に役立てることができます。また、他の似た火山の歴史を参考にして、目的の火山の噴火を考えることができます。樽前山の次の噴火について、小規模、中規模、大規模の噴火の3つの可能性が、勝井義雄北海道大学名誉教授によって考えられています。
現在のラバードームを破壊する小規模な噴火(1874年に似た噴火)、噴煙柱と降下火砕流、火砕流、サージなどを伴う小規模なプリニー式噴火(1874年と1739年の中間的なもの)、大規模なプリニー式噴火(1667年や1739年の大規模な噴火)の3つです。どのような噴火がいつ起こるかは、まだわかりません。しかし、周辺の自治体ではプリニー式噴火を想定したハザードマップを作成して防災に努めています。
・節理と地形・
前回の屋久島のエッセイに対して
Hirさんから、花崗岩の方状節理について質問がありました。
私がエッセイの中で
「花崗岩による方状節理による地形の特徴をよく表している」
と書いたのですが、
「その特徴がよくつかめません」という質問でした。
その質問に対して、私は次のような返事を書きました。
「数値地図を使って地形解析をすると、
その地の地形の特徴を明瞭にすることができるのが大きなメリットです。
屋久島の特徴として、直交する2方向の直線的地形がみられます。
そのような地形的特長とは、
谷や尾根(谷の反映とみなせます)、河川などの形状として
あわられています。
地形的特長を岩石の性質から探ったものが、
今回のエッセイのひとつの目的でした。
方状節理とは、3次元的に直行する3つの割れ目ができることです。
それが、屋久島では、水平方向は明瞭ではないのですが、
垂直の2方向は、明瞭に見えます。
もちろん、等間隔に正方形として見えるものではありません。
自然の造詣ですから、さまざまな条件のため、
一筋縄ではいかない、複雑なものとなっています。
しかし、地形解析としてみると、
大づかみに見ることができるということです。」
この返事に対して、再びHirさんから、
「安房川の中流あたりに見られる地形が典型ですか」、
という質問がありました。
それに対して、私は再度次のような返事を書きました。
「節理が地形としてどう見えるかという質問だと思います。
エッセイでは、さらりと書いて、詳しく説明しなかったので、
わかりにくかったと反省しております。
花崗岩に見られる方状節理と、地形をつくる要素とは規模の違うものです。
地形とは、一般には数百mあるいは数kmの規模のものいうと思います。
一方、節理とは、もっと小規模なもので、
数十cmからせいぜい数mの規模のものです。
ホームページで示した地形解析のスケールはkmのものですから、
節理が今回示した地形から直接見られることはないと思います。
もし方状節理を見るなら、
崖で直接目で見てるようなスケールになると思います。
私は、実際に屋久島で、そのような規模の節理をたくさん見ました。
ですから、Hirさんがご指摘された地形は、
方状節理を直接見ているのではなく、
節理によってできた「地形」を見ていることになると思います。
いってみれば、方状節理を地形から間接的に見ていることになります。
Hirさんがご指摘されたは、本当の方状節理ではありません。
ちょっとわかりにくかったかもしれませんが、
節理が発達している地域で、
もし節理に、広域的に似たような方向性があれば、
その節理は侵食されやすいでしょうから、
侵食地形として際立ってくると思います。
最終的には広域的に地形に反映されていくはずです。
実際に屋久島の地形を大づかみにみていくと、
北西-南東方向の直線的地形、北東-南西方向の直線的地形が
地形解析の画像ではみえます。
このような直線的地形がどうしてでき方を考えるとき、
花崗岩の方状節理に規制されているのではないかというのが、私の考えです。
実際の節理が地形に与えている影響を統計的に示す手法もありますが、
私は実際に節理と地形の関係を調査したわけではありません。
しかし、人間の目は結構正確で、そのような傾向があるように見えるものは、
統計的にもそのような結果が出てくることがよくあります。
多分、そうなるであろうなという予測で、このエッセイを書きました。
書き方が、はっきりしなかったのでわかりにくかったかもしれませんが、
いかがでしょうか。」
このような説明で、節理と地形の関係について、
Hirさんも、ご理解いただけたようです。
画像や形状など視覚的状況を表現するときは、なかなか難しいものです。
自分には「こう見える」ということで、説明をしても、
他の人には「そう見えない」ことがあるのです。
そんな当たり前のことに気づかされた、質問でした。
・恩師・
上のエッセイ中で出てきた勝井先生は、
大学の学部と博士課程での恩師にあたります。
勝井先生は、高齢にもかかわらず、現在も元気に活動されておられます。
不思議な縁で、私は、勝井先生が北海道大学の定年後
しばらく教鞭をとられた大学の教員としての同じポストにいます。
直接の後任ではないのですが、不思議な縁を感じています。
時々お目にかかることがあるのですが、
そのたびに、元気で活動されているのをみて励みとしています。
先生の下を独立して長い時間がたちます。
本当は恩師に成長した自分をお見せしたのですが、
なかなか意に沿わず不肖の弟子と映っていることでしょう。
先生とは専門は違っているのですが、
なんとかがんばっているところをお見せしたいものです。
日々反省をしております。
私のいる大学は、札幌の隣町の江別市というところにあります。そこは、野幌丘陵と呼ばれる小高い丘になっているところです。天気にいい日に、大学の高い建物から眺めると、遠くの山並みが見えます。
北側には暑寒別の山塊、東には馬追丘陵と遠くの夕張山地、西から南に向かっては手稲山、藻岩山、無意根山、恵庭、漁岳、樽前山へと山並みが連続します。
中でも、樽前山は、その山の形が変わっていることから、すぐに見分けられます。その変わった形とは、江別から見ると台形に見え、冬でも黒々として雪の少ない姿が眺められます。横から見ると台形ですが、立体的に見ると、円錐を途中でちょん切ったような薄いプリンのような形になっています。
これは、ラバードームと呼ばれるものです。このラバードームのラバー(lava)とは溶岩のことで、ドーム(dome)とはおわんを伏せたような丸い状をいいます。日本語では溶岩円頂丘(えんちょうきゅう)や溶岩ドームと呼ばれています。
ラバードームは名前のとおり、マグマによってできたものです。流れにくい(粘性が大きいといいます)性質のマグマが、地表に出て、流れることなく、そのまま固まったときにできるものです。
樽前山は、支笏湖の南湖畔に面して聳える風不死(ふっぷし)火山の南南東側に約3kmのところにあります。支笏湖畔には、東側に支笏湖温泉、西側には小さいですが伊藤温泉、丸駒温泉、オコタン温泉があります。支笏湖周辺は、支笏洞爺国立公園にも指定されていて、風光明媚な観光地です。しかし、それらの名所は、火山活動によってつくられたものなのです。
今は一見穏やかにみえる樽前山ですが、火山活動は現在も活発で、噴気も出ていますし、火山性地震もあり、噴火の危険性があるため常に監視されています。
ラバードームは、1909年(明治42年)の噴火活動によってできたものです。その時の様子を、少しみていきましょう。
樽前山は、1909年の1月から小規模な噴火をはじめていました。3月30日と4月12日には、激しい噴火を起こして、火山灰を降らしました。その火山灰は札幌にも届いて、降りました。4月17日の夕方から山頂には雨や雲がかかり、それ以降の様子は観察されていません。しかし、19日の夕方に山頂が見えたときには、ドームが見えたそうです。これが現在もあるラバードームの誕生の物語です。神秘的な誕生なのですが、長くても48時間、少なければもっと短時間で、このドームが形成されたことになります。
現在、ラバードームは直径が300から400m、高さが130mほどあり、体積は約2000万立方mあります。このようなラバードームが、たったの2日足らずでできたのです。火山活動の脅威、あるいは威力を見せ付けらる気がします。
このラバードームは、マグマの出口をフタをするようにできました。下にはまだ熱いマグマが残っていました。そのため、ラバードーム近くの火口では、火山のガスを噴出すような小規模な噴火をたびたび繰り返してきました。
札幌管区気象台火山監視・情報センターの観測では、火口の中は、2005年3月でも約600℃という高温であることがわかっています。火山性地震や噴気も続いています。100年たってもまだ、熱いマグマがラバードームの下にはあるのです。樽前山は活火山なのです。そして、いつ噴火してもおかしくないのです。
樽前山のラバードームには、以前は近くまでいけたのですが、今では噴火の危険があるので、立ち入り禁止になっています。火口縁の登山道までは、許可されていますが、残念ながらドームに近づくことはできません。私もラバードームを眺めたのは、火口縁からでした。
しかし、100年も続く活動をしているラバードームの形成は、樽前山の噴火の歴史では、小規模なものと位置づけられているのです。それは、火山の歴史を探ることからわかってきたものです。
1909年のラバードームをつくった火山活動は、多くの人が見て、記録をしていたので、私たちはその活動を知ることができのです。もっと古い時代の火山の噴火の歴史は、近くに人が住んでいれば、古文書などが残っていることがあります。それを手がかりにして、火山噴火の記録を探ることができます。
そのような記録によると、樽前山の噴火は、1874年(明治7年)、1867年(慶応3年)、1804-1817年(文化1-14年間)、1739年(元文年)、そして最古の記録が1667年(寛文年)のものです。北海道にはアイヌの人が住んでいたのですが、記録は残していませんでした。ですから樽前山に関する最古の1667年(寛文年)の文書は、津軽での記録となてっています。
古文書の記録から、樽前山噴火の概略を紹介しましょう。
1667年(寛文年)の噴火は、記録のあるものの中では最大のもので、大量の火山噴出物(火砕物と呼びます)が放出されました。この噴火はプリニー式噴火と呼ばれるもので、大噴火とともに噴煙が成層圏まで上がり、噴煙はきのこ雲となり、大量の火砕物を風下に降らします。爆発で吹き上がった火砕物は東向きの風に乗り、苫小牧ではなんと2mの厚さの火砕物が降ってきました(降下火砕物といいます)。また、火山の近くでは、火砕物が流れ下りました(火砕流や火砕サージと呼ばれます)。このときの噴火の音が津軽まで聞こえたというのが、上の古文書の記録に残ったいたのでした。
火砕流とは、プリニー式の噴火で立ち上がった噴煙柱が崩れて、火砕物が落ちて流れ下るときにおこるものです。火砕サージとは、火砕物を含む希薄な流れで、爆発的な噴火の時に横に方向に流れていくものです。サージはそれほど遠くまで流れず(約3km以内)、堆積物も薄いもので、断面で見るとレンズ状に消えていくように見えます。サージは、一度の噴火活動で、爆発のたびに起こり、堆積物が何層も積み重なっていきます。それは砂丘で見られるような波状の地形となります。
1739年(元文年)には、再びプリニー式の大噴火が起こりました。東側の山麓は、この噴火で、3日間ほど昼でも暗かったと記録に残されています。20km東方の千歳では、今での1mの厚さの降下火砕堆積物が溜まっています。
1804-1817年(文化1-14年間)、1867年(慶応3年)、1874年(明治7年)は、前の2回の噴火と比べると、小規模でした。1804年-1817年にかけての噴火では、火口の中に小さな火砕物でできた丘(火砕丘と呼びます)ができました。1867年の噴火では、その火砕丘の上にラバードームが形成されました。1874年の噴火はプリニー式で、このラバードームが破壊されてしまいました。
これが、記録に残っている記述の実際の噴出物から探った火山の歴史です。これが樽前山の火山活動のすべてでしょうか。もちろん、人が記録をしてないもっと前から活動をしていました。では、人がつけた記録のない場合は、どうすれば、火山活動の歴史を読み取ることができるでしょうか。
私は、2004年秋、初雪の降った樽前山に登りました。ラバードームの不思議さに目をうばれてしまいますが、山麓に眼を向けると。西と南の山麓に、不思議に地形が見えてます。その地形は、波を打ったような、魚のうろこ状の模様が規則的にあるように見えます。この地形は、実は火砕サージがつくったものでなのです。さまざまな景観の中にも、火山の記録が残されています。そのような火山活動によってできた地形、あるいはその地形をつくっている火山噴出物や溶岩などの調査から、火山活動の様子を探っていけばよいのです。
時期の違う火山活動が読み取れたとしたら、それぞれの活動でできた溶岩や火砕物に埋もれた植物片などから年代測定をして、時代を決めていきます。溶岩や火山灰などの火山噴出物から正確な年代を決めるのはなかなか大変ですが、火山の周辺には火山噴出物が堆積して残っていることがよくあります。そのような火山噴出物を詳細に調べれば、年代は少々不確かでも、火山の噴火の順序による歴史は、かなり詳細に編むことができます。樽前山でも地質学者たちは、地道な野外調査から、その歴史を割り出してきました。
そのような調査の結果、樽前山は、9000年前から火山活動をはじめたことがわかりました。9000年前の最初の噴火は、爆発的なプリニー式で大量の降下火砕物を降らし、火砕流や火砕サージなどの流れました。
その後、6000年ほどの活動の記録がなく、3000年前にやはりプリニー式の噴火が起こりました。そして、また1500年の休止期を経て、上で述べた記録に残っている噴火として、活動を再開したのです。
以上のように樽前山の噴火の歴史の全貌は、解明されています。このような長い休止期の後、大規模な噴火が起こった例は、他には知られていません。樽前山は、少々変わった活動の歴史を持っている火山のようです。江戸時代以降は、70年から30年ほどの間隔で、頻繁に噴火を繰り返しています。しかし、1909年の噴火以降、96年が過ぎようとしているのに、まだ噴火はありません。噴火の間隔に何らかの科学的根拠が見つかっているわけではないですが、不気味です。もし、マグマがある時間間隔で供給されるメカニズムがあれば、ある時間間隔で噴火をしてもおかしくはありません。
樽前山は、今後も活動の可能性の高い活火山で、さまざまな観測方法で監視をされています。これは、火山の今の状態を観測することで、未来の噴火に備えるものです。一方、噴火の歴史を探ることによって、その火山がどのような噴火の歴史を持っていることが知ることができます。そして、有珠山のように規則正しい噴火をすることが多い火山だと、その噴火の記録は噴火予知に役立てることができます。また、他の似た火山の歴史を参考にして、目的の火山の噴火を考えることができます。樽前山の次の噴火について、小規模、中規模、大規模の噴火の3つの可能性が、勝井義雄北海道大学名誉教授によって考えられています。
現在のラバードームを破壊する小規模な噴火(1874年に似た噴火)、噴煙柱と降下火砕流、火砕流、サージなどを伴う小規模なプリニー式噴火(1874年と1739年の中間的なもの)、大規模なプリニー式噴火(1667年や1739年の大規模な噴火)の3つです。どのような噴火がいつ起こるかは、まだわかりません。しかし、周辺の自治体ではプリニー式噴火を想定したハザードマップを作成して防災に努めています。
・節理と地形・
前回の屋久島のエッセイに対して
Hirさんから、花崗岩の方状節理について質問がありました。
私がエッセイの中で
「花崗岩による方状節理による地形の特徴をよく表している」
と書いたのですが、
「その特徴がよくつかめません」という質問でした。
その質問に対して、私は次のような返事を書きました。
「数値地図を使って地形解析をすると、
その地の地形の特徴を明瞭にすることができるのが大きなメリットです。
屋久島の特徴として、直交する2方向の直線的地形がみられます。
そのような地形的特長とは、
谷や尾根(谷の反映とみなせます)、河川などの形状として
あわられています。
地形的特長を岩石の性質から探ったものが、
今回のエッセイのひとつの目的でした。
方状節理とは、3次元的に直行する3つの割れ目ができることです。
それが、屋久島では、水平方向は明瞭ではないのですが、
垂直の2方向は、明瞭に見えます。
もちろん、等間隔に正方形として見えるものではありません。
自然の造詣ですから、さまざまな条件のため、
一筋縄ではいかない、複雑なものとなっています。
しかし、地形解析としてみると、
大づかみに見ることができるということです。」
この返事に対して、再びHirさんから、
「安房川の中流あたりに見られる地形が典型ですか」、
という質問がありました。
それに対して、私は再度次のような返事を書きました。
「節理が地形としてどう見えるかという質問だと思います。
エッセイでは、さらりと書いて、詳しく説明しなかったので、
わかりにくかったと反省しております。
花崗岩に見られる方状節理と、地形をつくる要素とは規模の違うものです。
地形とは、一般には数百mあるいは数kmの規模のものいうと思います。
一方、節理とは、もっと小規模なもので、
数十cmからせいぜい数mの規模のものです。
ホームページで示した地形解析のスケールはkmのものですから、
節理が今回示した地形から直接見られることはないと思います。
もし方状節理を見るなら、
崖で直接目で見てるようなスケールになると思います。
私は、実際に屋久島で、そのような規模の節理をたくさん見ました。
ですから、Hirさんがご指摘された地形は、
方状節理を直接見ているのではなく、
節理によってできた「地形」を見ていることになると思います。
いってみれば、方状節理を地形から間接的に見ていることになります。
Hirさんがご指摘されたは、本当の方状節理ではありません。
ちょっとわかりにくかったかもしれませんが、
節理が発達している地域で、
もし節理に、広域的に似たような方向性があれば、
その節理は侵食されやすいでしょうから、
侵食地形として際立ってくると思います。
最終的には広域的に地形に反映されていくはずです。
実際に屋久島の地形を大づかみにみていくと、
北西-南東方向の直線的地形、北東-南西方向の直線的地形が
地形解析の画像ではみえます。
このような直線的地形がどうしてでき方を考えるとき、
花崗岩の方状節理に規制されているのではないかというのが、私の考えです。
実際の節理が地形に与えている影響を統計的に示す手法もありますが、
私は実際に節理と地形の関係を調査したわけではありません。
しかし、人間の目は結構正確で、そのような傾向があるように見えるものは、
統計的にもそのような結果が出てくることがよくあります。
多分、そうなるであろうなという予測で、このエッセイを書きました。
書き方が、はっきりしなかったのでわかりにくかったかもしれませんが、
いかがでしょうか。」
このような説明で、節理と地形の関係について、
Hirさんも、ご理解いただけたようです。
画像や形状など視覚的状況を表現するときは、なかなか難しいものです。
自分には「こう見える」ということで、説明をしても、
他の人には「そう見えない」ことがあるのです。
そんな当たり前のことに気づかされた、質問でした。
・恩師・
上のエッセイ中で出てきた勝井先生は、
大学の学部と博士課程での恩師にあたります。
勝井先生は、高齢にもかかわらず、現在も元気に活動されておられます。
不思議な縁で、私は、勝井先生が北海道大学の定年後
しばらく教鞭をとられた大学の教員としての同じポストにいます。
直接の後任ではないのですが、不思議な縁を感じています。
時々お目にかかることがあるのですが、
そのたびに、元気で活動されているのをみて励みとしています。
先生の下を独立して長い時間がたちます。
本当は恩師に成長した自分をお見せしたのですが、
なかなか意に沿わず不肖の弟子と映っていることでしょう。
先生とは専門は違っているのですが、
なんとかがんばっているところをお見せしたいものです。
日々反省をしております。
2005-04-15
04 屋久島:自然に流れるさまざまな時間(2005.04.15)
Time:
9:07
●
Geologist
今年の1月に屋久島を訪れました。屋久島には不思議な時間が流れています。ヒト、屋久杉、地形、地質とカテゴリーの違うものですが、どこかでシンクロしている不思議な自然の時間です。屋久島を巡りながら、時間の流れ方の違いと連携について考えさせられました。
ご存知だと思いますが、屋久島は鹿児島県に属します。その屋久島に2005年1月5日から8日まで出かけました。1月とはいえ、九州本土からさらに60kmほど南に、屋久島はあります。ですから、てっきり温かいところだと思っていました。ところが滞在中は寒い日が続いてて、暖房なしではやっていけないような天候でした。私が着く2日前には、雪が降ったそうで、山に入ると積雪が残っていました。屋久島の冬がいつもこのような気候だというわけではありません。たまたま、日本列島が寒波に襲われた時期だったのです。
屋久島の海岸沿いの平地では、平均気温が摂氏19.6度となり、年間を通して暖かい気候です。亜熱帯に属する地域ですから、私たちが行った時は、たまたま寒波の影響を受けたのでしょう。
しかし、屋久島には、1500mを越える山並みがあり、最高峰である宮之浦岳は、2000m近い(標高1936m)高さで、九州全体でも最高峰となっています。
一般に気温は100mにつき、湿った空気では0.65度、乾いた空気では1度、気温が低下します。ですから、2000mも標高が上がると、平均気温は13度から20度近く下がることになります。宮之浦岳の平均気温は摂氏約7度で、札幌の平均気温が摂氏8.5度ですから、札幌より寒いところといえます。
また、屋久島は、雨の多い島です。屋久島空港に屋久島測候所観測があるのですが、そこの年間平均降水量のデータは4597.5mmになります。この降水量は、気象庁の観測点の中で最も多いものだそうです。屋久島は雨の島であります。
屋久島は、亜熱帯に位置しながら海抜ゼロmから2000mまでの多様な環境があり、雨も多いのです。ですから、冬に山間部では雪が降ることは、ざらにありうることなのでしょう。
天候は、高度や地形で変わり、一日でも変わり、季節でも変わります。私が滞在した冬の屋久島も、そんな変動のひとつに過ぎません。天候は、時間や日という私たちヒトが体感できる時間単位で移り変わるものです。
もう少しゆっくり流れる時間があります。ご存知のように屋久島は屋久杉で有名です。樹齢1000を優に越える杉が、山の奥深くにたたずんでいます。動物に比べて植物には長寿のものが多くあります。中でも屋久島は特別長寿の生物です。人間は100年に満たない寿命しかありませんので、屋久杉はその十倍以上の時間を生きてきたわけです。屋久杉には数100年、数1000年の単位の時間が流れています。
ヒトはこの屋久杉の伐採を500年ほど前からはじめ、江戸時代には薩摩藩が屋久杉を年貢として集めました。そして幕末までに5割から7割の屋久杉が伐採されたと推定されています。屋久杉に流れていた時間は、数100年間というヒトの営みによって、多くの長寿の木がなくなりました。
大正3年(1914年)、アメリカ合衆国の植物学者のウィルソンが巨大切り株(ウィルソン株)を世界に紹介したことから、屋久杉は世界に知られることになり、保護の動きも出てきました。一方、伐採のための森林軌道の敷設やチェーンソーの導入と伐採のための近代化も進みました。その後も、保護と伐採の葛藤が続き、最終的には平成5年(1993年)世界遺産に屋久島は登録され、保護することが決まりました。屋久島の自然の特異さとそれを利用するヒトとの間には、保護と伐採、植林などの営為がおこりました。その営為は、数10年の単位の時間が流れています。
さて、目を大地に移しましょう。大地には、ゆっくりとした時間が流れます。でも、この屋久島では、その大地の時間は少し早く動いているようです。
屋久島を上空から見ると、直径30kmほどの丸い形ですが、多角形のようにいくつか角張っているところがあります。見ようによっては恐竜の足跡のようにも見えます。東部から北部の海岸線沿いには平らなところが少し見られますが、海から少し離れて島の中に入っていくと険しい山がはじまります。屋久島を、離れて海上から見ると、中央に盛り上がり、ぎざぎざにとがった山並みが見えます。
海抜0mから一気に2000m近くまで上ります。半径15000mほどの丸い島ですから、その平均的な傾斜は、37度という非常に急なものになります。実際に山の中に入っていきますと、くねくねとした九十九折の坂道を上っていくことになります。
海上で中央部が盛り上がった島をみると、火山の島のように見えますが、屋久島は火山の島ではありません。なぜなら、山をつくっている岩石が火山岩でないからです。島をつくっている岩石は、花崗岩という岩石からできています。花崗岩は、火成岩でマグマからできたものですが、火山岩ではなく深成岩と呼ばれるものです。
火山なら短時間でマグマから岩石に変わりますが、深成岩では非常にゆっくりと温度が下がります。中央アルプスの花崗岩では、100万年で約360度下がっていることがわかっています。花崗岩のマグマは摂氏700度から600度くらいですから、完全に冷えるのに200万年ほどかかることになります。
深成岩とはマグマが地下深部でゆっくりと冷え固まったものですから、もともと花崗岩の島があったのではなく、固まった花崗岩がゆっくりと上昇してきて島となったのです。
屋久島の花崗岩は、新第三紀のはじめ頃(中期中新世と呼ばれる時代)にできたものです。しかし、この花崗岩は少し変わっています。日本列島では、花崗岩の多くは、日本海側(内帯)に近い列島の内部にあります。しかし、例外的に花崗岩が太平洋側(地質学では外帯と呼びます)に出ているところがあります。外帯の紀伊半島から四国南部、九州南部にかけて、点々とですが、約1000kmにわたって見つかります。屋久島もそのような花崗岩の仲間です。
屋久島の花崗岩がどのように変わっているかというと、このマグマは、熱い海洋プレートが低角度で海溝に沈みこんで、上にあった堆積物が溶けてできたものです。このような特別な条件でないとできない花崗岩(Sタイプと呼ばれています)なのです。
点々と太平洋側に並んでいたのは、熱いプレートが海溝に沿って列をなしてもぐりこみ、マグマができたためです。ですから、紀伊半島から四国、九州、屋久島へと点々と連続して花崗岩が見つかるのです。
これら外帯各地の花崗岩は1200万年前から1700万年前ものので、ほぼ同じ時期にできています。ですから、温かいプレートがもぐりこんだ時期は、花崗岩の年代から、新第三紀のはじめ頃、500万年の間で起こったことだとわかります。
さて、地下深部で固まったはずの花崗岩が、なぜ現在地表で見つかるのでしょうか。それは、花崗岩が周りの岩石と比べ、軽いからです。軽いものは、時間をかければ、大地の岩石の中でも浮き上がってくるのです。
その上昇スピードは、だいたい見積もることができます。この花崗岩のマグマは、地下12kmくらいのところで固まったのではないかと考えられています。一方、屋久島の花崗岩の年代測定(カリウム-アルゴン年代測定法)のデータから、1300万~1400万年ほど前に固まったことがわかっています。
屋久島の花崗岩は、地下12kmで固まったものが、現在約2kmの標高まで持ち上げられていますので、1400万年間で約14km浮上したことになります。以上のことから、年間約1mmのスピードで上昇したものだと考えられます。もちろん、上にあった岩石は、侵食を受けてなくなってしまいました。これは、かなり速いスピードでの上昇しているといえます。多分現在も上昇しているのではないでしょうか。
もうひとつ目立つ地形的な特徴が、屋久島にはあります。それは、上空から見るとよくわかります。川や谷、尾根などの地形が、2方向に伸びていることが特徴的です。航空写真や衛星写真でも、日光の当たり方によっては目立って見えることがあります。屋久島では、一方は北西-南東方向に伸び、もう一方は北東-南西方向に直行するように伸びています。このような直線的な大地の模様は、なぜできたのでしょうか。
それは、やはり花崗岩の性質によるものです。マグマが冷え固まるときに、液体のマグマと固まった岩石では、岩石の方が少しの体積が小さくなります。つまり縮みます。すると縮んだ分、隙間ができます。このような隙間を節理(せつり)といいます。
節理は、マグマの性質によってその形が違ってきます。玄武岩や安山岩のマグマでは6角柱状になります。柱状の間には、水平の節理が入ります。水平の節理の入り方が細かいと、板状になり板状節理と呼ばれます。花崗岩では、この節理が、立方体つまりサイコロ状になるような方状節理とよばれるものができやすくなります。
屋久島では、花崗岩は地下深部から地表に出てきますから、大地の圧力も減っていきます。節理はますます隙間を大きくしながら上昇していきます。隙間は、雨や水の浸食を受けやすい場所となります。屋久島は雨が多いところです。雨や川による侵食が激しく起こるところでもあります。やがて、雨や水の流れは、川となり、渓谷となります。そして、上昇の激しい屋久島では、谷はますます深くなり、尾根も険しくなります。山の中の渓谷は、深く険しく、滝や滑床、V字谷が各地に見られます。
屋久島の2方向の直線状の地形は、花崗岩の方状節理によってできたもののだったです。そして、その節理は、侵食を進める場所となりました。そのような侵食の結果、屋久島には、2方向の直線的な地形ができてきたのです。地形のできるスピードは、年間数mm、1000年で1mほどとなります。その間に花崗岩の上にあったはずの地層は、削られて海に運ばれていきました。地質学的な100万年単位の変化と、日々の雨や川の浸食の積み重ねによって、屋久島の大地は形成されていたのです。
さまざまな時間が屋久島には流れています。その時間は過去に終わった時間ではなく、現在進行中の時間が流れています。屋久杉を守るということを、ヒトは最近決めました。しかし、ヒトがどんなに屋久杉や自然を守ろうとしても、自然には自然の時間が流れています。それはヒトが止めることのできない時間です。大地が削れ、崩れれば、その上にあった植物は一緒の崩れます。自然の時間は流れるスピードは違うのですが、どこかで連携しているようです。
・自然の掟・
ヒトは、自分とスケールの違うものに感動します。
たとえば大きな木、雄大な景観、桁違いの長寿など
あるいは、見ること、感じることできないほど
微小なものや瞬間の中に織り込まれている繊細なものなどを見たとき、
感動します。
あまりにも自分のスケールとかけ離れているためでしょうか。
しかし、感動の次には、きっと「なぜ」という疑問が
つぎつぎとわいてくるはずです。
そのいくつは、科学が答えを出しています。
でも、多くは、まだ謎のままです。
まして、その感動したものが、
これからも継続して存在するかどうかなど
未来についてには、予想もできません。
自然は、きれいだから、貴重だからなどの区別をしません。
昨年の台風では、屋久島の木々も、大きな被害を受けました。
そんな被害も、ある生物には
自分の成育できる環境ができた、広がったと
喜ぶものいることでしょう。
自然は、ある条件、環境を提示するだけです。
その条件や環境は、ゆっくりと、時には急激に変わります。
それに対処できたものだけで、生き延びるのです。
これが自然に流れている掟なのです。
・観光地ズレ・
屋久島は、印象深い島でした。
世界遺産に登録されたことで
観光客も多く来ます。
観光も重要な産業となりつつあるようです。
しかし、新しい観光地のせいでしょうか、
それとも世界遺産を守る気持ちが強いのでしょうか。
どこか観光地ズレしていない、純朴さがあります。
だから、普通の観光地のサービスを期待していると
拍子抜けするかもしれません。
でも、それが屋久島のよさなのでしょう。
私がそれを感じるようになったのは、
帰ってきてからでした。
滞在中は、巨木の森、面白い地形、特徴的な地質に
魅了されていましたから。
・地形解析・
今回、屋久島の特異な地形をみるために、
今までの、地上開度、地下開度、傾斜量のほかに、
傾斜形と傾斜方位というものを用いました。
斜面形とは尾根・谷などの地形の凹凸を判別するのに適しています。
近くの標高データから斜面の凸凹を判定して、
尾根や谷が明瞭に見えるようになります。
そしてそこを色分けして際立たせます。
土砂災害などの予測に利用できます。
もひとつの傾斜方位とは、
地表面が向く方向、あるいは傾き下がる方向を表します。
標高データからある地点の斜面方位を求めます。
斜面方位は斜面の植生や雪の量の推定するのに利用されます。
この傾斜形と傾斜方位は、屋久島の地形的特長を
よく表していました。
興味のある方は、ホームページをご覧になってください。
ご存知だと思いますが、屋久島は鹿児島県に属します。その屋久島に2005年1月5日から8日まで出かけました。1月とはいえ、九州本土からさらに60kmほど南に、屋久島はあります。ですから、てっきり温かいところだと思っていました。ところが滞在中は寒い日が続いてて、暖房なしではやっていけないような天候でした。私が着く2日前には、雪が降ったそうで、山に入ると積雪が残っていました。屋久島の冬がいつもこのような気候だというわけではありません。たまたま、日本列島が寒波に襲われた時期だったのです。
屋久島の海岸沿いの平地では、平均気温が摂氏19.6度となり、年間を通して暖かい気候です。亜熱帯に属する地域ですから、私たちが行った時は、たまたま寒波の影響を受けたのでしょう。
しかし、屋久島には、1500mを越える山並みがあり、最高峰である宮之浦岳は、2000m近い(標高1936m)高さで、九州全体でも最高峰となっています。
一般に気温は100mにつき、湿った空気では0.65度、乾いた空気では1度、気温が低下します。ですから、2000mも標高が上がると、平均気温は13度から20度近く下がることになります。宮之浦岳の平均気温は摂氏約7度で、札幌の平均気温が摂氏8.5度ですから、札幌より寒いところといえます。
また、屋久島は、雨の多い島です。屋久島空港に屋久島測候所観測があるのですが、そこの年間平均降水量のデータは4597.5mmになります。この降水量は、気象庁の観測点の中で最も多いものだそうです。屋久島は雨の島であります。
屋久島は、亜熱帯に位置しながら海抜ゼロmから2000mまでの多様な環境があり、雨も多いのです。ですから、冬に山間部では雪が降ることは、ざらにありうることなのでしょう。
天候は、高度や地形で変わり、一日でも変わり、季節でも変わります。私が滞在した冬の屋久島も、そんな変動のひとつに過ぎません。天候は、時間や日という私たちヒトが体感できる時間単位で移り変わるものです。
もう少しゆっくり流れる時間があります。ご存知のように屋久島は屋久杉で有名です。樹齢1000を優に越える杉が、山の奥深くにたたずんでいます。動物に比べて植物には長寿のものが多くあります。中でも屋久島は特別長寿の生物です。人間は100年に満たない寿命しかありませんので、屋久杉はその十倍以上の時間を生きてきたわけです。屋久杉には数100年、数1000年の単位の時間が流れています。
ヒトはこの屋久杉の伐採を500年ほど前からはじめ、江戸時代には薩摩藩が屋久杉を年貢として集めました。そして幕末までに5割から7割の屋久杉が伐採されたと推定されています。屋久杉に流れていた時間は、数100年間というヒトの営みによって、多くの長寿の木がなくなりました。
大正3年(1914年)、アメリカ合衆国の植物学者のウィルソンが巨大切り株(ウィルソン株)を世界に紹介したことから、屋久杉は世界に知られることになり、保護の動きも出てきました。一方、伐採のための森林軌道の敷設やチェーンソーの導入と伐採のための近代化も進みました。その後も、保護と伐採の葛藤が続き、最終的には平成5年(1993年)世界遺産に屋久島は登録され、保護することが決まりました。屋久島の自然の特異さとそれを利用するヒトとの間には、保護と伐採、植林などの営為がおこりました。その営為は、数10年の単位の時間が流れています。
さて、目を大地に移しましょう。大地には、ゆっくりとした時間が流れます。でも、この屋久島では、その大地の時間は少し早く動いているようです。
屋久島を上空から見ると、直径30kmほどの丸い形ですが、多角形のようにいくつか角張っているところがあります。見ようによっては恐竜の足跡のようにも見えます。東部から北部の海岸線沿いには平らなところが少し見られますが、海から少し離れて島の中に入っていくと険しい山がはじまります。屋久島を、離れて海上から見ると、中央に盛り上がり、ぎざぎざにとがった山並みが見えます。
海抜0mから一気に2000m近くまで上ります。半径15000mほどの丸い島ですから、その平均的な傾斜は、37度という非常に急なものになります。実際に山の中に入っていきますと、くねくねとした九十九折の坂道を上っていくことになります。
海上で中央部が盛り上がった島をみると、火山の島のように見えますが、屋久島は火山の島ではありません。なぜなら、山をつくっている岩石が火山岩でないからです。島をつくっている岩石は、花崗岩という岩石からできています。花崗岩は、火成岩でマグマからできたものですが、火山岩ではなく深成岩と呼ばれるものです。
火山なら短時間でマグマから岩石に変わりますが、深成岩では非常にゆっくりと温度が下がります。中央アルプスの花崗岩では、100万年で約360度下がっていることがわかっています。花崗岩のマグマは摂氏700度から600度くらいですから、完全に冷えるのに200万年ほどかかることになります。
深成岩とはマグマが地下深部でゆっくりと冷え固まったものですから、もともと花崗岩の島があったのではなく、固まった花崗岩がゆっくりと上昇してきて島となったのです。
屋久島の花崗岩は、新第三紀のはじめ頃(中期中新世と呼ばれる時代)にできたものです。しかし、この花崗岩は少し変わっています。日本列島では、花崗岩の多くは、日本海側(内帯)に近い列島の内部にあります。しかし、例外的に花崗岩が太平洋側(地質学では外帯と呼びます)に出ているところがあります。外帯の紀伊半島から四国南部、九州南部にかけて、点々とですが、約1000kmにわたって見つかります。屋久島もそのような花崗岩の仲間です。
屋久島の花崗岩がどのように変わっているかというと、このマグマは、熱い海洋プレートが低角度で海溝に沈みこんで、上にあった堆積物が溶けてできたものです。このような特別な条件でないとできない花崗岩(Sタイプと呼ばれています)なのです。
点々と太平洋側に並んでいたのは、熱いプレートが海溝に沿って列をなしてもぐりこみ、マグマができたためです。ですから、紀伊半島から四国、九州、屋久島へと点々と連続して花崗岩が見つかるのです。
これら外帯各地の花崗岩は1200万年前から1700万年前ものので、ほぼ同じ時期にできています。ですから、温かいプレートがもぐりこんだ時期は、花崗岩の年代から、新第三紀のはじめ頃、500万年の間で起こったことだとわかります。
さて、地下深部で固まったはずの花崗岩が、なぜ現在地表で見つかるのでしょうか。それは、花崗岩が周りの岩石と比べ、軽いからです。軽いものは、時間をかければ、大地の岩石の中でも浮き上がってくるのです。
その上昇スピードは、だいたい見積もることができます。この花崗岩のマグマは、地下12kmくらいのところで固まったのではないかと考えられています。一方、屋久島の花崗岩の年代測定(カリウム-アルゴン年代測定法)のデータから、1300万~1400万年ほど前に固まったことがわかっています。
屋久島の花崗岩は、地下12kmで固まったものが、現在約2kmの標高まで持ち上げられていますので、1400万年間で約14km浮上したことになります。以上のことから、年間約1mmのスピードで上昇したものだと考えられます。もちろん、上にあった岩石は、侵食を受けてなくなってしまいました。これは、かなり速いスピードでの上昇しているといえます。多分現在も上昇しているのではないでしょうか。
もうひとつ目立つ地形的な特徴が、屋久島にはあります。それは、上空から見るとよくわかります。川や谷、尾根などの地形が、2方向に伸びていることが特徴的です。航空写真や衛星写真でも、日光の当たり方によっては目立って見えることがあります。屋久島では、一方は北西-南東方向に伸び、もう一方は北東-南西方向に直行するように伸びています。このような直線的な大地の模様は、なぜできたのでしょうか。
それは、やはり花崗岩の性質によるものです。マグマが冷え固まるときに、液体のマグマと固まった岩石では、岩石の方が少しの体積が小さくなります。つまり縮みます。すると縮んだ分、隙間ができます。このような隙間を節理(せつり)といいます。
節理は、マグマの性質によってその形が違ってきます。玄武岩や安山岩のマグマでは6角柱状になります。柱状の間には、水平の節理が入ります。水平の節理の入り方が細かいと、板状になり板状節理と呼ばれます。花崗岩では、この節理が、立方体つまりサイコロ状になるような方状節理とよばれるものができやすくなります。
屋久島では、花崗岩は地下深部から地表に出てきますから、大地の圧力も減っていきます。節理はますます隙間を大きくしながら上昇していきます。隙間は、雨や水の浸食を受けやすい場所となります。屋久島は雨が多いところです。雨や川による侵食が激しく起こるところでもあります。やがて、雨や水の流れは、川となり、渓谷となります。そして、上昇の激しい屋久島では、谷はますます深くなり、尾根も険しくなります。山の中の渓谷は、深く険しく、滝や滑床、V字谷が各地に見られます。
屋久島の2方向の直線状の地形は、花崗岩の方状節理によってできたもののだったです。そして、その節理は、侵食を進める場所となりました。そのような侵食の結果、屋久島には、2方向の直線的な地形ができてきたのです。地形のできるスピードは、年間数mm、1000年で1mほどとなります。その間に花崗岩の上にあったはずの地層は、削られて海に運ばれていきました。地質学的な100万年単位の変化と、日々の雨や川の浸食の積み重ねによって、屋久島の大地は形成されていたのです。
さまざまな時間が屋久島には流れています。その時間は過去に終わった時間ではなく、現在進行中の時間が流れています。屋久杉を守るということを、ヒトは最近決めました。しかし、ヒトがどんなに屋久杉や自然を守ろうとしても、自然には自然の時間が流れています。それはヒトが止めることのできない時間です。大地が削れ、崩れれば、その上にあった植物は一緒の崩れます。自然の時間は流れるスピードは違うのですが、どこかで連携しているようです。
・自然の掟・
ヒトは、自分とスケールの違うものに感動します。
たとえば大きな木、雄大な景観、桁違いの長寿など
あるいは、見ること、感じることできないほど
微小なものや瞬間の中に織り込まれている繊細なものなどを見たとき、
感動します。
あまりにも自分のスケールとかけ離れているためでしょうか。
しかし、感動の次には、きっと「なぜ」という疑問が
つぎつぎとわいてくるはずです。
そのいくつは、科学が答えを出しています。
でも、多くは、まだ謎のままです。
まして、その感動したものが、
これからも継続して存在するかどうかなど
未来についてには、予想もできません。
自然は、きれいだから、貴重だからなどの区別をしません。
昨年の台風では、屋久島の木々も、大きな被害を受けました。
そんな被害も、ある生物には
自分の成育できる環境ができた、広がったと
喜ぶものいることでしょう。
自然は、ある条件、環境を提示するだけです。
その条件や環境は、ゆっくりと、時には急激に変わります。
それに対処できたものだけで、生き延びるのです。
これが自然に流れている掟なのです。
・観光地ズレ・
屋久島は、印象深い島でした。
世界遺産に登録されたことで
観光客も多く来ます。
観光も重要な産業となりつつあるようです。
しかし、新しい観光地のせいでしょうか、
それとも世界遺産を守る気持ちが強いのでしょうか。
どこか観光地ズレしていない、純朴さがあります。
だから、普通の観光地のサービスを期待していると
拍子抜けするかもしれません。
でも、それが屋久島のよさなのでしょう。
私がそれを感じるようになったのは、
帰ってきてからでした。
滞在中は、巨木の森、面白い地形、特徴的な地質に
魅了されていましたから。
・地形解析・
今回、屋久島の特異な地形をみるために、
今までの、地上開度、地下開度、傾斜量のほかに、
傾斜形と傾斜方位というものを用いました。
斜面形とは尾根・谷などの地形の凹凸を判別するのに適しています。
近くの標高データから斜面の凸凹を判定して、
尾根や谷が明瞭に見えるようになります。
そしてそこを色分けして際立たせます。
土砂災害などの予測に利用できます。
もひとつの傾斜方位とは、
地表面が向く方向、あるいは傾き下がる方向を表します。
標高データからある地点の斜面方位を求めます。
斜面方位は斜面の植生や雪の量の推定するのに利用されます。
この傾斜形と傾斜方位は、屋久島の地形的特長を
よく表していました。
興味のある方は、ホームページをご覧になってください。
2005-03-15
03 新冠:地震から学ぶこと(2005.03.15)
Time:
9:06
●
Geologist
地震は、瞬間的に大きな変動を大地に残します。その変動は、断層、崖崩れ、津波などさまざまな形で現れますが、いずれも地震の振動がきっかけになっています。北海道の新冠でも、地震によって変動が起きたことがあります。その中には地震に伴うあまり見かけない不思議な現象がありました。私はこの現象から、学ぶへきことがまだまだあることを知りました。
北海道には競走馬を飼育している牧場がたくさんあり、多くの有名競走馬を輩出してきました。JR北海道の日高本線が走る太平洋側には、門別、新冠、静内、三石、浦河かけて、多数の牧場があります。このコースは日高サラブレットロード(千歳空港~襟裳岬)とも呼ばれているほどです。中でも静内川と新冠川沿いには牧場が多数あります。
千歳方面から小高い丘を越えて、開けた新冠川を見下ろすところに出ると、左手にサラブレッド銀座公園というパーキングエリアが目に入ります。観光バスも止まれるほど大きな駐車場です。駐車場から眼下に広がる牧草地に放牧されている馬は、いかにも北海道らしい景観に見えます。この景色を見終わると、観光をする人は、次の目的地に向かうのでしょうか。
ところが、川とは反対側に目を向けると、そこにも牧場があり、牧場の柵の前に「北海道指定天然記念物新冠泥火山」という看板があります。その看板に気づいた人がいたとしても、何のことかわからず、ただ眺めるだけに終わっていることでしょう。
この泥火山には、私も学生時代に、先生に連れられて見たことがあるのですが、やはりぱっとしないものだと思っていました。その後、2002年に人を案内するため、この泥火山を2度訪れました。やはり特別見栄えのするものではありませんでした。しかし、不思議な大地の営みが、この一見ぱっとしない丘で起こっているということを知ると、大地の不思議さに思いを巡らすことができます。
泥火山と呼ばれているものの多くは、マグマや温泉の活動によってできるものです。地熱地帯で、泥沼の底に水蒸気が噴出しているものを泥火山と呼んでいます。みかけは火山に似ていますが、本当の火山ではありません。
もうひとつ、非常に珍しいのですが、地震による液状化現象によってできる泥火山があります。珍しいがために、この新冠の泥火山は、1968年(昭和43年)1月18日に北海道の天然記念物に指定されたのです。
2003年(平成15年)9月26日に十勝沖で地震があり、255cmの津波が起こりました。私の住む札幌の隣の江別市でも大きく揺れました。そして1時間後には大きな余震もありました。この十勝沖地震では、行方不明2名、負傷者849名、住宅全壊116棟、住宅半壊368棟などの被害を出しました。
新冠でも震度6弱の揺れが起きました。パーキングエリアの路石や敷きレンガなどに隆起がおこり、道路にも亀裂が走りました。このときに新冠の泥火山が、規模は小さかったのですが、再び活動したのです。
当時のニュースでは、震源の十勝沖から遠く離れた苫小牧でのナフサ貯蔵タンクの火災を伝え、思わぬ地域で大きな被害を出したことに、非常に不思議に思われた方いたはずです。
その原因は、長い周期の地震波(長周期地震)に共鳴した現象(スロッシングと呼ばれていました)だと考えられています。長周期地震は、新潟県中越地震や阪神淡路大震災などの直下型地震ではなく、プレート境界の海溝の深部で起こる地震で発生するとされています。私たちは、その不思議な出来事を目の当たりにしたのです。
十勝沖地震は、これ以外もいろいろなことを教えてくれました。十勝沖地震での被害は新潟県中越地震や兵庫県南部地震より少なかったのですが、マグネチュードが日本の自身の中でも有数の大きさを記録したのです。
2003年の十勝沖地震のマグネチュードは8.0に達しました。日本付近で起きた地震では、ここ10年、このようなマグネチュード(M6、M7などと書かれることがあります)の大きさのものはなかったのです。2004年10月23日に起きた新潟県中越地震は、最大震度7で甚大なる被害を出しましたが、地震のマグネチュードは6.8で、十勝沖地震よりは小さかったのです。まだ記憶に新しい1995年(平成7年)1月17日の兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)もマグネチュードは7.3でした。いずれも直下型の地震でした。
日本付近で被害を出した明治以降の地震を理科年表から拾っていくと、マグネチュード8以上のものは、1994年(平成6年)10月4日の北海道東方沖地震(M8.2)、1952年(昭和27年)3月4日の十勝沖地震(M8.2)、1946年(昭和21年)12月21日の南海地震(M8.0)、1933年(昭和8年)3月3日の昭和三陸地震(M8.1)、1911年(明治44年)6月15日の喜界島近海地震(M8.0)、1896年(明治29年)6月15日の明治三陸地震(M8.5)、1891年(明治24年)10月28日の濃尾地震(M8.0)、の7つです。2004年の十勝沖地震を加えても、明治以降、マグネチュード8以上のものは8回しか起こっていません。マグネチュード8クラスの地震は非常に稀なものであることがわかります。
1891年から2004年の113年間に8回ですから、14年に1回、つまり日本周辺では10数年に1回起こるほどの稀な地震ということになります。
マグネチュードと震度の違いがよくわからないかもしれませんので、説明しておきましょう。
マグネチュードとは地震が起こったときの地震自体の大きさをあらわすのに対して、震度はある地点での揺れの強さを表します。ですから、どんなにマグネチュードの大きな地震でも、遠くで起これば、自分がいるところの震度は小さくなります。もし、表層の直下型の地震が人口密集地でおこれば、マグネチュードが小さくても被害は大きくなります。それが、新潟県中越地震や兵庫県南部地震だったのです。
マグネチュードの数値が1大きくなると、エネルギーは約32倍になります。つまり、マグネチュード6の地震は、M5の地震32個分に相当することになります。
震度(地震情報などにより発表されるのは震度階級と呼ばれています)は、ちょっと前までは、体感や周囲の揺れの状況から推定されていましたが、1996年(平成8年)4月からは、震度計(正確には計測震度計と呼ばれます)で測定されたデータから計算されています。その結果、自動的に即座に震度が決定されるようになりました。震度計は、全国に約600地点に置かれて、自動的に観測されています。
2003年の十勝沖地震では、マグネチュードと震度の違いをよく示してくれました。
さて、新冠の泥火山に話を戻しましょう。新冠の泥火山は、地震の液状化によって起こるといいました。この液状化現象とは、水分を多く含んでいる固まっていない地層に地震の振動が加わることによって起こります。地震の振動によって、地層内の水圧が上がり、粒子間の圧力がなくなり、液体のような振る舞いをします。もし、地表に向かって割れ目ができると、液体として地層の成分が水ともに噴出します。
新冠の地下には、新第三紀中新世(1000万年前ころ)の地層があります。この地層からは、少しですがガスが噴出したり、石油が出ていることが知られていました。つまり、水分やガスの成分を多く含むまだ固まっていない堆積物が地下にあったことを意味します。そして、海岸線と平行して「節婦(せっぷ)断層」とよばれる断層がありました。
新冠の地下には、このような条件があったので、大きな地震が来たとき液状化現象が起こったのです。最初の活動は、上で述べたマグネチュード8以上地震である1952年の十勝沖地震に起こりました。
断層沿いに幅350m、長さ1.1kmにわたって液状化が起こりました。8個の噴出孔から、泥やガスが噴出して、泥の丘が形成されました。一番大きなものは、230m×160mの楕円形で25mの高さの台地状の丘でした。頂上の中心には50×60m、深さ1.5mのカルデラのような形状のクレータができていました。
周辺の住民たちは1日でできたこの丘を「日高新山」と呼び、火山ではないかと驚いたそうです。
地震後、水分が抜け出ることによって、よりしまった状態になり、安定します。しかし、地層中に水がまだ残っていたり、地下水として地層に供給される仕組みがあると、同じような液状化現象を起こすような条件ができます。
新冠では同じような地層の条件がまだ残っていたようで、泥火山の活動は1952年の十勝沖地震だけでなく、1982年3月の浦河沖地震や2003年の十勝沖地震でも起きました。
2003年の活動では、すでにあった泥火山の頂部に、放射状の割れ目ができ、そこからブロック状の泥の塊が噴出しました。勢いよく噴出したらしく、泥は周りに撒き散らかされていました。
液状化現象は、砂の地層でよく見られます。水分を多く含み、地震の振動でバラバラになった砂まじりの水が噴き出すことがあります。これは噴砂と呼ばれています。
液状化現象が起こる場所は、主に台地や湿地、埋め立て地、砂州、三角州などです。現在では事前の地質調査によってそのような地盤であることがわかっていれば対処できます。地盤を固めたり、水の逃げ道をつくったり、建物を守るために堅い地盤まで、杭などを打ち込んだりして、被害を少なくすることが可能となっています。
このような液状化現象によって大きな被害を与えるということを、1964年4月20日の新潟地震(M6.1)で知ることができました。4階建ての県営住宅のアパートが横倒しになりました。液状化によって緩んだ砂の層が、液体のようになって建物を支えきれなくなったのが原因でした。また、1995年の阪神・淡路大震災では、砂より大きな石や礫が噴出することがあることもわかりました。このような現象は噴礫と呼ばれます。そして新冠の泥火山では、砂だけでなく泥も噴出すこと、そして地震が起これば何度も液状化は起こりうることを教えてくれたのです。
恐ろしいものを順番に並べた「地震、雷、火事、親父」という言葉があります。筆頭が地震です。科学と技術の進んだ時代に生きる私たちは、恐れてばかりではなく、地震から受けた災害を教訓として学ばなければなりません。学んだことから、次の地震ではそれに対処できるようにしていなければなりません。私たちは、大きな地震のたびに学んできました。これからも学んでいかなければなりません。そんな積み重ねが、自然との共存への道といえるのかもしれません。そして、人類の進歩となるのでしょうね。
・新冠川の思い出・
新冠は、私にとって思い出深い地です。
大学生時代、最初に日高という山を経験したのでは、
新冠川の上流でした。
2人の先生に連れられて、私ともう一人の友人が
5泊6日で新冠川上流に入りました。
テントとダムの事務所で泊りました。
私は京都の田舎で育ったのですが、
故郷では、地元の小さな山しか知りませんでした。
大学に入って、札幌近郊の山には
一人や友人とともに登ったりしてました。
しかし、日高山脈のように奥深い山は
この時が初めての経験でした。
上流に行くほど深い谷になっていくこと。
上流には夏でも溶けない雪渓があること。
その水がしみだ出してくると冷たくおいしいこと。
カールと呼ばれる氷河時代の地形があること。
カールから流れる枯れることない沢があること。
などなど、いろいろ経験しました。
そして、奇しくも私は新冠川の一本南西側にある静内川で
3ヶ月に及ぶ卒業研究をすることになったのです。
・微地形・
前回のエッセイで、10mメッシュの威力を遺憾なく
発揮できる素材として秋吉台の石灰岩地形を紹介しました。
しかし、今回の素材は、10mメッシュの限界に近いものとなりました。
ホームページの画像を見ていただけるとわかるのですが、
丘陵のような地形をみるには、
地上開度と傾斜量という地形解析の手法が有効です。
10mメッシュでみると、泥火山がいくつもあることが見て取れます。
もちろん50mメッシュでは何も見えません。
しかし、10mメッシュでもこのような微地形は
判別できる限界に近いようです。
・立体写真・
横にずれた位置の航空写真を並べて、
立体写真としてみる方法があります。
今回、立体写真で見えないか挑戦してみました。
なかなか難しいのですが、
一枚の写真から画像を加工して立体写真をつくるものです。
まだ、うまくいきませんが、いろいろ挑戦しています。
その挑戦の過程ですが、泥火山でやってみました。
なまだ成功とはいえないのですが、
興味のある方はホームページを覗いてみてください。
北海道には競走馬を飼育している牧場がたくさんあり、多くの有名競走馬を輩出してきました。JR北海道の日高本線が走る太平洋側には、門別、新冠、静内、三石、浦河かけて、多数の牧場があります。このコースは日高サラブレットロード(千歳空港~襟裳岬)とも呼ばれているほどです。中でも静内川と新冠川沿いには牧場が多数あります。
千歳方面から小高い丘を越えて、開けた新冠川を見下ろすところに出ると、左手にサラブレッド銀座公園というパーキングエリアが目に入ります。観光バスも止まれるほど大きな駐車場です。駐車場から眼下に広がる牧草地に放牧されている馬は、いかにも北海道らしい景観に見えます。この景色を見終わると、観光をする人は、次の目的地に向かうのでしょうか。
ところが、川とは反対側に目を向けると、そこにも牧場があり、牧場の柵の前に「北海道指定天然記念物新冠泥火山」という看板があります。その看板に気づいた人がいたとしても、何のことかわからず、ただ眺めるだけに終わっていることでしょう。
この泥火山には、私も学生時代に、先生に連れられて見たことがあるのですが、やはりぱっとしないものだと思っていました。その後、2002年に人を案内するため、この泥火山を2度訪れました。やはり特別見栄えのするものではありませんでした。しかし、不思議な大地の営みが、この一見ぱっとしない丘で起こっているということを知ると、大地の不思議さに思いを巡らすことができます。
泥火山と呼ばれているものの多くは、マグマや温泉の活動によってできるものです。地熱地帯で、泥沼の底に水蒸気が噴出しているものを泥火山と呼んでいます。みかけは火山に似ていますが、本当の火山ではありません。
もうひとつ、非常に珍しいのですが、地震による液状化現象によってできる泥火山があります。珍しいがために、この新冠の泥火山は、1968年(昭和43年)1月18日に北海道の天然記念物に指定されたのです。
2003年(平成15年)9月26日に十勝沖で地震があり、255cmの津波が起こりました。私の住む札幌の隣の江別市でも大きく揺れました。そして1時間後には大きな余震もありました。この十勝沖地震では、行方不明2名、負傷者849名、住宅全壊116棟、住宅半壊368棟などの被害を出しました。
新冠でも震度6弱の揺れが起きました。パーキングエリアの路石や敷きレンガなどに隆起がおこり、道路にも亀裂が走りました。このときに新冠の泥火山が、規模は小さかったのですが、再び活動したのです。
当時のニュースでは、震源の十勝沖から遠く離れた苫小牧でのナフサ貯蔵タンクの火災を伝え、思わぬ地域で大きな被害を出したことに、非常に不思議に思われた方いたはずです。
その原因は、長い周期の地震波(長周期地震)に共鳴した現象(スロッシングと呼ばれていました)だと考えられています。長周期地震は、新潟県中越地震や阪神淡路大震災などの直下型地震ではなく、プレート境界の海溝の深部で起こる地震で発生するとされています。私たちは、その不思議な出来事を目の当たりにしたのです。
十勝沖地震は、これ以外もいろいろなことを教えてくれました。十勝沖地震での被害は新潟県中越地震や兵庫県南部地震より少なかったのですが、マグネチュードが日本の自身の中でも有数の大きさを記録したのです。
2003年の十勝沖地震のマグネチュードは8.0に達しました。日本付近で起きた地震では、ここ10年、このようなマグネチュード(M6、M7などと書かれることがあります)の大きさのものはなかったのです。2004年10月23日に起きた新潟県中越地震は、最大震度7で甚大なる被害を出しましたが、地震のマグネチュードは6.8で、十勝沖地震よりは小さかったのです。まだ記憶に新しい1995年(平成7年)1月17日の兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)もマグネチュードは7.3でした。いずれも直下型の地震でした。
日本付近で被害を出した明治以降の地震を理科年表から拾っていくと、マグネチュード8以上のものは、1994年(平成6年)10月4日の北海道東方沖地震(M8.2)、1952年(昭和27年)3月4日の十勝沖地震(M8.2)、1946年(昭和21年)12月21日の南海地震(M8.0)、1933年(昭和8年)3月3日の昭和三陸地震(M8.1)、1911年(明治44年)6月15日の喜界島近海地震(M8.0)、1896年(明治29年)6月15日の明治三陸地震(M8.5)、1891年(明治24年)10月28日の濃尾地震(M8.0)、の7つです。2004年の十勝沖地震を加えても、明治以降、マグネチュード8以上のものは8回しか起こっていません。マグネチュード8クラスの地震は非常に稀なものであることがわかります。
1891年から2004年の113年間に8回ですから、14年に1回、つまり日本周辺では10数年に1回起こるほどの稀な地震ということになります。
マグネチュードと震度の違いがよくわからないかもしれませんので、説明しておきましょう。
マグネチュードとは地震が起こったときの地震自体の大きさをあらわすのに対して、震度はある地点での揺れの強さを表します。ですから、どんなにマグネチュードの大きな地震でも、遠くで起これば、自分がいるところの震度は小さくなります。もし、表層の直下型の地震が人口密集地でおこれば、マグネチュードが小さくても被害は大きくなります。それが、新潟県中越地震や兵庫県南部地震だったのです。
マグネチュードの数値が1大きくなると、エネルギーは約32倍になります。つまり、マグネチュード6の地震は、M5の地震32個分に相当することになります。
震度(地震情報などにより発表されるのは震度階級と呼ばれています)は、ちょっと前までは、体感や周囲の揺れの状況から推定されていましたが、1996年(平成8年)4月からは、震度計(正確には計測震度計と呼ばれます)で測定されたデータから計算されています。その結果、自動的に即座に震度が決定されるようになりました。震度計は、全国に約600地点に置かれて、自動的に観測されています。
2003年の十勝沖地震では、マグネチュードと震度の違いをよく示してくれました。
さて、新冠の泥火山に話を戻しましょう。新冠の泥火山は、地震の液状化によって起こるといいました。この液状化現象とは、水分を多く含んでいる固まっていない地層に地震の振動が加わることによって起こります。地震の振動によって、地層内の水圧が上がり、粒子間の圧力がなくなり、液体のような振る舞いをします。もし、地表に向かって割れ目ができると、液体として地層の成分が水ともに噴出します。
新冠の地下には、新第三紀中新世(1000万年前ころ)の地層があります。この地層からは、少しですがガスが噴出したり、石油が出ていることが知られていました。つまり、水分やガスの成分を多く含むまだ固まっていない堆積物が地下にあったことを意味します。そして、海岸線と平行して「節婦(せっぷ)断層」とよばれる断層がありました。
新冠の地下には、このような条件があったので、大きな地震が来たとき液状化現象が起こったのです。最初の活動は、上で述べたマグネチュード8以上地震である1952年の十勝沖地震に起こりました。
断層沿いに幅350m、長さ1.1kmにわたって液状化が起こりました。8個の噴出孔から、泥やガスが噴出して、泥の丘が形成されました。一番大きなものは、230m×160mの楕円形で25mの高さの台地状の丘でした。頂上の中心には50×60m、深さ1.5mのカルデラのような形状のクレータができていました。
周辺の住民たちは1日でできたこの丘を「日高新山」と呼び、火山ではないかと驚いたそうです。
地震後、水分が抜け出ることによって、よりしまった状態になり、安定します。しかし、地層中に水がまだ残っていたり、地下水として地層に供給される仕組みがあると、同じような液状化現象を起こすような条件ができます。
新冠では同じような地層の条件がまだ残っていたようで、泥火山の活動は1952年の十勝沖地震だけでなく、1982年3月の浦河沖地震や2003年の十勝沖地震でも起きました。
2003年の活動では、すでにあった泥火山の頂部に、放射状の割れ目ができ、そこからブロック状の泥の塊が噴出しました。勢いよく噴出したらしく、泥は周りに撒き散らかされていました。
液状化現象は、砂の地層でよく見られます。水分を多く含み、地震の振動でバラバラになった砂まじりの水が噴き出すことがあります。これは噴砂と呼ばれています。
液状化現象が起こる場所は、主に台地や湿地、埋め立て地、砂州、三角州などです。現在では事前の地質調査によってそのような地盤であることがわかっていれば対処できます。地盤を固めたり、水の逃げ道をつくったり、建物を守るために堅い地盤まで、杭などを打ち込んだりして、被害を少なくすることが可能となっています。
このような液状化現象によって大きな被害を与えるということを、1964年4月20日の新潟地震(M6.1)で知ることができました。4階建ての県営住宅のアパートが横倒しになりました。液状化によって緩んだ砂の層が、液体のようになって建物を支えきれなくなったのが原因でした。また、1995年の阪神・淡路大震災では、砂より大きな石や礫が噴出することがあることもわかりました。このような現象は噴礫と呼ばれます。そして新冠の泥火山では、砂だけでなく泥も噴出すこと、そして地震が起これば何度も液状化は起こりうることを教えてくれたのです。
恐ろしいものを順番に並べた「地震、雷、火事、親父」という言葉があります。筆頭が地震です。科学と技術の進んだ時代に生きる私たちは、恐れてばかりではなく、地震から受けた災害を教訓として学ばなければなりません。学んだことから、次の地震ではそれに対処できるようにしていなければなりません。私たちは、大きな地震のたびに学んできました。これからも学んでいかなければなりません。そんな積み重ねが、自然との共存への道といえるのかもしれません。そして、人類の進歩となるのでしょうね。
・新冠川の思い出・
新冠は、私にとって思い出深い地です。
大学生時代、最初に日高という山を経験したのでは、
新冠川の上流でした。
2人の先生に連れられて、私ともう一人の友人が
5泊6日で新冠川上流に入りました。
テントとダムの事務所で泊りました。
私は京都の田舎で育ったのですが、
故郷では、地元の小さな山しか知りませんでした。
大学に入って、札幌近郊の山には
一人や友人とともに登ったりしてました。
しかし、日高山脈のように奥深い山は
この時が初めての経験でした。
上流に行くほど深い谷になっていくこと。
上流には夏でも溶けない雪渓があること。
その水がしみだ出してくると冷たくおいしいこと。
カールと呼ばれる氷河時代の地形があること。
カールから流れる枯れることない沢があること。
などなど、いろいろ経験しました。
そして、奇しくも私は新冠川の一本南西側にある静内川で
3ヶ月に及ぶ卒業研究をすることになったのです。
・微地形・
前回のエッセイで、10mメッシュの威力を遺憾なく
発揮できる素材として秋吉台の石灰岩地形を紹介しました。
しかし、今回の素材は、10mメッシュの限界に近いものとなりました。
ホームページの画像を見ていただけるとわかるのですが、
丘陵のような地形をみるには、
地上開度と傾斜量という地形解析の手法が有効です。
10mメッシュでみると、泥火山がいくつもあることが見て取れます。
もちろん50mメッシュでは何も見えません。
しかし、10mメッシュでもこのような微地形は
判別できる限界に近いようです。
・立体写真・
横にずれた位置の航空写真を並べて、
立体写真としてみる方法があります。
今回、立体写真で見えないか挑戦してみました。
なかなか難しいのですが、
一枚の写真から画像を加工して立体写真をつくるものです。
まだ、うまくいきませんが、いろいろ挑戦しています。
その挑戦の過程ですが、泥火山でやってみました。
なまだ成功とはいえないのですが、
興味のある方はホームページを覗いてみてください。
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