2009-02-28

●データバックアップ:No. 2769 2009.02.28

今日は曇り。
自宅で休日を過ごす予定だ。
といっても、早朝、家族が置きだすまでは、
食堂のテーブルでノートパソコンを出して、
片手間でできる仕事をやる。
まず最初にすることは、
最新のデータが入ったポータブルハードディスクと
ノートパソコンのハードディスクを
同期させることである。
もちろん同期させるための
ソフトを利用して、自動的に行う。
その間、コーヒーでも入れたり、
本を読んで待っている。
同期が終わったら、作業をする。 
日曜日に仕事終わったときに、
ポータブルハードディスクに対して
逆のことをして、
研究室のデスクトップパソコンの
ハードディスクと同期させる。
常にメインで使っているパソコンのハードディスクを
最新情報にしておくを心がけている。 
研究室では、曜日ごとに
バックアップするハードディスクを決めて、
自動でデータをバックアップをしている。
メールや公開データはインターネットの外部記憶である
他のサーバに保管している。
もし何かあっても問題が発生しないようなデータは、
メールの添付ファイルで自分宛に送るようにしている。
そうすれば、最悪の場合でも
なんとか少しのデータは
救えるのではないかと考えている。 
デジタルのデータは一瞬の操作ミスで
すべてのデータがあっという間に消え去る。 
私が現在のデータ保管の方法にいたるまでは、
何度も痛い目にあっている。
試行錯誤の末に出てきた方法である。
もし何かっても、一日、もしくは数時間の
ロスですむことになる。
しかし、もしもというのは、
予想外のことなので、 何が起こるかはわからない。
予想外のことを想定して行動するのは難しい。
現象の対策はこれがベストではないかと考えている。

●ビールボーイズ:No. 2768 2009.02.28

竹内真著「ビールボーイズ」
(ISBN978-4-488-02399-7 C0093)
を読んだ。
北海道出身の4名(実際には5名)の主人公が
12歳から30歳までに10回に及ぶ 
ビール祭りを開催しているとして話が展開される。
5名が登場するのは最後の1回だけである。
主人公の4名がそろうのは、
第1回と第10回のときだけであるが、
それぞれの近況は語り合いながら紹介されていく。
それぞれの希望、社会での生き方、
どこで暮らすかなどが変化しながら、
ビール祭りは繰り広げられる。
これを読んでいると、
冷えたうまいビールが飲みたくなる。

2009-02-27

●マインドマップ:No. 2767 2009.02.27


ハルニレ。江別市文京台

今朝は曇りで、肌寒かった。
相変わらずの天気である。

昨日は原稿を書いていた。
ほぼでき、今日完成させる。
また、今日は研究費の概要をまとめることにしている。
来週には完成させて提出しなければならない。
すでに、3つほどのテーマが浮かんでいる。
どれにするのか。
どれかを融合するのか。
どう内容を膨らせていくのか。
そのあたりを考えていかなければならない。

研究に関してまとめておきたいことを
マインドマップにしている。
以前からフリーソフトのFreeMindを使っていたのが、
不満があった。
また、βバージョンにはバグがあり、不安定であった。
だから製品版が望ましい。
まだ試している最中だが、
ソフトは、MindMangerにすることにした。
理由はいくつかある。
1ヶ月間試せる期間があること、
アカデミック割引があるのと、
3月11日にはニューバージョンがでること
が主な理由だ。

●日本の自然3 日本の川:No. 2766 2009.02.27

坂口豊、高橋裕、大森博雄著「日本の自然3 日本の川」
(ISBN4-00-007673-6 C0344)
を読んだ。
日本の川を概観したものである。
各地の川の代表てきなものの記載がされている。
私は、日本の川の概論と
石狩川について拾い読みをした。
マインドマップを書いてみた。

2009-02-26

●自前サーバが必要:No. 2765 2009.02.26


街灯。江別市文京台

今朝は相変わらず曇っている。
風はなかったが、少々肌寒かった。

今朝は、いつもより30分ほど早く起きた。
ゆっくりと朝の支度をして自宅を出てきた。
6時前に自宅を出ようとしたら、
次男が起きてきていたので驚いた。
その時、家内はまだ寝ていた。
次男は自分のすることがあっり
それをはじめたのでそのままにしてでてきた。
めったにこんなことはないが、まれにある。
それは行事があるときに緊張して起きるときだ。
多分、今日は学校で歩くスキーで
タイムトライアルとして競技大会があるので、
緊張しているせいかもしれない。

私のメールやホームページやブログとの関係が
整理されてきたので、落ち着いてきた。
写真については、
まだやり方は決着がついていない。
多数の写真を自分の管理できないところで
公開する気はないので、
まだどうするか結論は出していない。
自分の管理できるサーバで行うのが
一番いいような気がする。

●スピード読書術:No. 2765 2009.02.26

宇都出雅辰巳著「スピード読書術」
(978-4-492-04313-4 C0034)
を読んだ。
1時間少々で読める程度の本であった。
速読の話より、
なぜ本を読むかということであった。
あまり参考にならないものであった。

EarthEssay1_76 海の蒸発の記録:メッシニアン塩分危機1

「地球のささやき」を更新しました。
1_76 海の蒸発の記録:メッシニアン塩分危機1

 メッシニアン塩分危機という地質学的事件が、
新生代中新世末期に起こりました。
それは、地中海の海水が干上がるという事件でした。
この事件が意味することとは、なんでしょうか。
数回のシリーズで紹介していきます。

2009-02-25

退避

今日、研究室の清掃がある日であった。
年に二回ある。
事前に連絡は受けてはいたが
今日がその日だとは、失念していた。
そろそろ図書館が開くので、そちらに退避しよう。

test

携帯電話からの画像の投稿テスト

●国立大学入試:No. 2764 2009.02.25

坂道。江別市文京台

今朝は曇っている。
風はなかく冷え込みもそれほどではない。

今日は我が大学を会場として
弘前大学の大学入試がある。
昨日の夕方帰るとき、
高校生や見かけない大人の人がいたので
不思議な気がしたのだが
玄関の看板をみてその意味がわかった。
今日、国立大学の入試が行われるのだ。
我が大学では一般入試の
A日程の合格発表が行われている。

ブログの位置づけをなんとなくできてきた。
このホームページを同じものプラスアルファを
ブログで展開する。
そしてLibraryをブログとして公開することにした。
ブログの一番の無力は
携帯電話でのアップロードできることである。
まあ長続きできるかどうかは
しばらくやってみるしかない。

●粗忽拳銃:No. 2763 2009.02.25

竹内真著「粗忽拳銃」
(ISBN4-08-774449-3 C0093)
を読んだ。
落語家とその仲間の物語である。
映画監督を目指す若者、
俳優を目指す若者、
ノンフィクションライターを目指す女性
彼ら4人が、拳銃を拾ったことから物語がはじまる。
なかなか設定が変わっているが
リアリティがある物語だ。
落語の話の展開に関わっているところが面白い。

2009-02-24

●ブログ:No. 2762 2009.02.24

並木。江別市文京台

今朝は冷え込んだ。
雲がかかっていたが、
大学につくころには晴れてきた。
今日も昼間は暖かくなるのだろうか。

昨日から以前からストップしていた、
Blogを再検討した。
Bloggerを候補にしている。
容量にどうも制限がないようだ。
ただし、画像はPICASAと共有して
1GBが限界だそうだ。
私は、このホームペ-ジのバックアップと
携帯電話での投稿用としたい考えている。
また、メールマガジンの更新連絡も
入れたいと考えている。
ただし、手間にならないようにしておきたい。
またいろいろ試している最中である。

2009-02-23

●速読:No. 2761 2009.02.23


ハルニレと朝日。江別市文京台


朝は激しい雪であった。
明け方から降りだしたようで
除雪が入っていない。
そのため、ふかふかの新雪のなかを
雪に埋もれながら歩いてきた。

現在、地層の形成について
いろいろ文献を読んでいる。
内容を整理し、ノートをとりながらだから、
なかなか進まない。
学んでいる最中だから
しかたがないともいえるのだが、
それがまどろっこしくてしかたがない。

速読が気になって関連資料を目を通していた。
フォトリーディングが有名だが、
どうも胡散臭さを感じる。
佐々木氏の科学的に解説してる
速読の手法が納得できる。
そして読んだ本にはその方法も示されていた。
もしその効能が本当なら、
読書に関してすばらしい効果が上がる。
ダメもと試してみようかと考えている。
講習に行くには現状では不可能だが、
とりあえず本で書いていることを
試してみてもいいかもしれないと考えている。

2009-02-20

●Gmail:No. 2756 2009.02.20

坂道。江別市文京台

今朝は、雲って雪がちらついていた。

さらさらした積雪である。
冬らしい天気である。

現在大学のメールボックスを整理している。
300MBほどの量しかないのだが、 遅い。
半年後とにメールボックスを整理しているのだが、
遅くていらいらしてしまう。
それに業を煮やして、Gmailを試した。
メールを転送して、どれくらいの能力を
持っているか試すためだ。
まだ、メールの数が少ないため、
その能力がわからない。
私がもっているメーラーと
併用するつもりであるが、
大学のWEBメールよは、
かなり早いことは確かだ。
Gmailを使ってまもないから、
その能力は不明だ。
現在、無料のメールボックスの容量が7GBである。
そこでスピードがあるのであれば、
私の不満は解消できる。
ただ、メールが重要な情報だから、
メーラーに必要なものは保存するのは基本としたい。

2009-02-15

50 浅間山:噴火の予知と対処

 浅間山は、現在、活発な火山活動をしています。先日は東京や横浜でも火山灰が降りました。浅間山は、古くから何度も噴火してきました。そこには、悲劇が繰り返し起こっていました。そんな悲劇を二度と繰り返すことのないように、私たちは過去や今回の噴火から学ばなければなりません。

 2月2日夕方、自宅に帰ったとたん、テレビのニュースを見ていた家内が「浅間山が噴火したのを知ってる?」と聞きました。「知らない」といって、ニュースの映像を見ました。噴煙を上げている浅間山が見えた直後に画面が変わり、横浜での降灰の様子が示されました。車のボディーにうっすらと積もった火山灰が放映されていました。
 私は、浅間山が、以前から要注意の活発な火山であることを知っていました。また、昨年の夏の小噴火は知っていたのですが、今回は噴火の兆候があったことは知りませんでした。ですから、浅間山が噴火と聞いたとき、少々驚きました。
 浅間山の噴火は、2月2日の深夜1時51分頃に起こりました。噴火としては小規模でしたが、大きな火山弾が、山頂の火口から、1~1.2kmまで飛び散りました。噴煙は、上空2000mまでも達しました。そのときの風向きが南東方向だったので、浅間山から、埼玉県、東京都、神奈川県の一部に火山灰を降らしました。降灰は、房総半島の鴨川市内でも確認されました。この降灰の様子を2日の夕方のニュースは伝えていたのです。
 浅間山は、2月9日7時46分ころにも小さな噴火が起こり、その後しばらく断続的に噴火をしています。9日の噴火はあまり大きくはなく、周辺地域で降灰が少しあった程度でした。噴気や小規模な噴火は、現在も継続中です。
 浅間山の噴火の兆候は、火山観測網が捉えていました。傾斜計や地震計、GPS、空震計、望遠カメラによる観測によって捕らえた兆候に基づいて、気象庁地震火山部は、2月1日午後1時、「火口から4キロメートルの範囲に影響を及ぼす噴火が切迫していると予想」して、「噴火予報・警報 第1号」を発表しました。
 火口周辺警報として、噴火警戒レベルがそれまでレベル2であったのが、レベル3に変更されました。レベル2とは火口周辺規制、つまり火口周辺への立入の禁止ですが、レベル3になると、入山規制、つまり山への立ち入り禁止と、状況に応じては災害時要援護者(重度の障害者やひとり暮らし高齢者など日常においても支援を必要とする人)の避難準備がおこなわれます。
 また、2月3日には、「噴火予報・警報 第2号」が出されました。噴火したのですが、今後も噴火の危険性があるので、噴火警戒レベル3を継続することが、周辺地域の自治体に通知されました。
 浅間山は、群馬県と長野県の境にある標高2568mの山頂の火口を持つ活火山です。火山のある場所は、地質学的に複雑な位置になります。
 本州を2分するフォッサマグナとよばれる大断層の中ほどで、断層の東側にあたります。フォッサマグナは、ユーラシアプレートと北アメリカプレートの境界になります。また、北から続いている東北の火山フロントと、南の伊豆マリアの火山フロントがぶつかり、そして屈曲しているところになります。浅間山がある地帯は、南南西から北北東にのびる40kmx30kmにおよぶ低地帯があり、この低地はプレートの運動による構造的な窪地となっています。浅間山は、プレート境界で屈曲する火山帯という複雑な地質になっている場所なのです。
 浅間山は、数10万年前から火山活動が活発に起こっています。浅間山は日本でも火山活動は、現在の残されている3つの火山に代表される3つの時期に分けられています。古いほうから黒斑(くろふ)火山による黒斑期、仏岩(ほとけいわ)火山の仏岩期、そして前掛(まえかけ)山の前掛期です。
 東に開いた馬蹄形カルデラを持つ黒斑火山は、9万年前には活動を開始したと考えられています。標高2800mにも達した成層火山でしたが、2万3000年前ころに大規模な山体崩壊が起こります。この崩壊によって岩屑なだれが起こりました。その痕跡は泥流としてとして、周辺の流山地形や前橋台地などに残されています。黒斑期の活動は、2万1000年前ころには終了します。
 仏岩火山は、現在の火山である前掛山の東側に隠れてはっきりとしません。しかし、その活動は周辺の地質調査から解明されています。仏岩火山は、黒斑火山の活動後の2万1000年から1万1000年前まで活動をしました。何度も噴火を繰り返しながら、1万3000年前に大噴火が起こります。この噴火は大規模なもので、長野県と群馬県の火山周辺500平方kmを、火山灰が平均10~30m、最大で50mの厚さで覆ったと考えられます。また南東の軽井沢にある離山は、仏岩期の初期活動で、デイサイトから流紋岩のマグマが火山ドームを形成したものです。仏岩火山の活動も、1万1000年前ころには終わります。
 仏山火山と同じ場所で1万年前ころから前掛火山が活動をはじめ、現在も継続しています。大規模な噴火活動をしたは、8000年前、5000年前、685年(天武天皇14年:飛鳥時代)、1108年(嘉承3年、天仁元年:平安時代)、1783年(天明3年8月5日)が知られています。685年以降の活動は、人が記録を残している時代のものです。小規模な活動も活発で、何度も噴火を繰り返して、今回の噴火に至っています。日本でももっとも活動的な火山の一つです。
 浅間山には、だいぶ以前になりますが、2001年9月にいったことがあります。そのときは、浅間山周辺をめぐり、鬼押し出し公園や浅間火山博物館、嬬恋郷土資料館など浅間の噴火に関わる場所をめぐりました。
 天明の大噴火は、溶岩が流れ(現在の鬼押し出しの溶岩)と火砕流(浅間焼泥押)があり、1500人もの死者が出ました。そのときの様子は、嬬恋(つまごい)郷土資料館や鬼押出し園にある浅間火山博物館で紹介されています。
 嬬恋郷土資料館のすぐ隣に鎌原(かんばら)観音堂があります。観音堂までは、15段の石段を登っていきます。しかし、この石段はもともとはもっと長いものだとされていました。下にあったはずの石段は、天明の大噴火による火砕流と岩屑なだれが埋もれてしまいました。
 天明の大噴火は5月8日に始まりました。しばらく休止した後、6月25日に噴火し、また小康状態になりました。そして、7月17日に大きな噴火があり、8月4日から5日の未明にかけて最大の噴火が起こります。この噴火によって飛びだした火山灰によって、関東中部でも、昼なのに夜のように暗くなったと記録にあります。5日の午前10時ころ、鎌原火砕流が発生します。火砕流は地面削りながら、岩屑なだれとなり15kmも離れた鎌原村を直撃しました。岩屑なだれは、鎌原村の住民597名のうち、一瞬にして477名の命を飲み込みました。
 昭和54年に埋もれている石段の発掘が行われました。岩屑なだれの厚さは、6mにも達し、35段の石段が埋もれていました。そこから、生き埋めになっていた2名の女性の遺骨も一緒に発掘されました。2名の女性は、老婆を背負った若い女性の遺体でした。そこにどのような物語があったかは、想像するしかありません。老いた母を背負って逃げるつもりの嫁だったのでしょうか。でも、彼女らは、あと数分、いやあと数十秒早く非難していたら、生き延びられたでしょう。
 日本のある地域に限定してみると、火山噴火はそうそう起こるものではないといえます。ですから、多くの日本人にとって、火山は温泉や景観などの恵みを与えてくれるものです。特に、平野にある、一見火山とは無縁にみえる東京や横浜のような大都会の人にとっては、火山は恵みをもたらすものに映るかもしれません。しかし、今回の浅間の噴火のように、平野の真ん中の大都会でも火山灰が降ることもあるのです。
 日本は火山列島なのです。その証拠に、日本の大地をどこを掘っても、必ずといっていいほど火山灰層がでてきます。それは、日本列島が火山列島であることを物語っています。
 自然は、荒々しさを時に人に向けることがあります。ですから、自然現象には謙虚に臨まなければなりません。ただし、自然に恐れおののくだけではいけません。自然にどう立ち向かうべきかを、今回の噴火は教えてくれます。
 現在の科学でも、火山の噴火を止めることはできません。しかし、今回の浅間の噴火のように十分な観測体制を整えれば、ある程度噴火を予知することは可能になってきました。そして、その予知に基づいて、防災のための行動をすれば、多くの命は救われるはずです。そのような知恵を私たちは持てるようになってきました。二度と親孝行の嫁をみすみす亡くすことがないように、心しなければなりません。

・火山見学・
浅間山にいったのは、2001年の9月でした。
そのころ私は、神奈川の博物館に勤務していました。
次男が生まれて1年半ほどたったころに、浅間山にでかけました。
浅間は、2001年の1月から4月にかけて
噴煙をだしていたのですが、
その後は活動が収まっていた時期でした。
新幹線を使えば、かなり気軽にいける距離でした。
そのときは、浅間山だけでなく、
近くにある白根山、榛名山も一緒に見てきました。
もちろん温泉に泊まりながらです。
そのときは、火山の恵みを味わっていました。

・暖冬・
今年の北海道は、雪も少なく、暖かい冬となっています。
ここ数年の雪の多い時期と比べると
除雪もあまりすることもなく、楽な冬を過ごしています。
雪が降ってもあまり多く降ることはなく、
休日には子供たちが除雪をしてくれます。
私が除雪をしたのは、数えるほどしかありません。
排雪場所に困るほどの量もありません。
昨年の夏に、大雪に備えて、屋根に雪庇対策を施しました。
今年は、その効果を確かめることができないようです。

2009-01-15

49 天橋立:水面下にもある橋

 2009年の最初のエッセイとして、日本三景の一つの天橋立を紹介しましょう。天橋立は、砂州のなす形だけでなく、白砂と松の緑、海の青が織り成すコントラストが、景勝地と見ごたえのあるものにしています。

 息子たちが通っている小学校では、冬には百人一首をやることになっています。私は北海道に来てはじめてその存在を知ったのですが、取り札が木でできているものを使って行われています。木の札には、読めそうもない崩した草書のような字体で下の句が書かれています。昔ながらの札を使っているのではなく、現在も店で売っていっています。我が家でも一セット購入しました。
 ゲームは3人ずつの団体戦で行われます。下の句だけを読んで取り合うもので、源平合戦と呼ばれる北海道固有の競技のようです。我が家でも、冬になるとやっています。
 百人一首には、よく日本各地の景勝地も詠まれています。残念ながら北海道の景勝地は入っていませんが。私も高校時代に百人一首を覚えたものですが、いまだにいくつも記憶に残っています。
 その一つに、和泉式部(いずみしきぶ)の娘、小式部内侍(こしきぶのないし)の詠んだ
  大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみもみず 天橋立
という歌があります。
 その歌が心に残っているのは、大江山(カンラン岩でできていることで有名)も生野(生野銀山として古くから有名)も、いずれも地質学では有名なところです。地質学でその地名を聞くたびに、ついついこの歌を思い出してしまいます。いずれの地も、私が大学院時代に、地質調査に出かけた記憶に残るところです。
 天橋立も大学院時代にいったのですが、調査をしたことはありませんでした。昨年の春、再度訪れました。今回は、家族連れでの観光なので、天橋立を徒歩で歩くということもやってみました。のんびりと歩いても、1時間ほども歩けば渡れる距離でもあります。帰りは、船で天橋立を眺めながら帰ってきました。
 天橋立は景勝地として有名ですが、地質学的に興味深いところでもあります。
 天橋立は、北の江尻から、南の文殊にかけて、延長は約3.6kmあり、幅は20~150mもある砂洲です。この砂州は、野田川が運んだ土砂や日本海沿岸から海流によって運ばれた砂礫によって形成されてたものです。
 砂州は、南北に伸びた宮津湾の南側に形成されています。宮津湾の西南に膨らんだ入り江の部分を、南北に区切るようにあります。砂州の内側の海は、阿蘇海(あそかい)と呼ばれています。
 阿蘇海は、砂州の内側になった海跡湖とよばれるもので、日本海では、海跡湖としては、面積に比べて深い深度を持つことが特徴となります。阿蘇海は、2箇所で宮津湾で海につながっています。つまり、天橋立は、海を完全に閉ざしている砂州ではなく、南側で海につながる水路があります。阿蘇海は、砂州が切れて宮津湾へとつながっていますが、狭い水路なので海水の循環が悪く、富栄養化が起こり問題となっています。
 天橋立には、他の砂州にあまり見られない固有の特徴があります。
 まず、天橋立の両側の海底へ向かう斜面は、宮津湾側で20m、阿蘇海でも12mの水深があり、急斜面となっています。天橋立は、深い海に20m以上の厚さで堆積した、そして急傾斜の砂州という特徴を持っています。つまり、深い海底に唐突つけられた一筋の陸路のようになっています。
 天橋立では、松の緑が白砂に映えています。このクロマツの松林は、その数、5000本とも8000本ともいわれるほどあります。海の中に形成された砂州に松林があるのは、少々不思議です。なぜなら、海の中の砂州で掘れば海水が出てくるはずなのですが、地下に淡水があるということです。
 淡水は海から運べませんから、陸から地下水が流れていることになります。砂州の南側には、「磯清水」とよばれる淡水の井戸があります。実は、天橋立は、砂州全体にわたって、60cmから1.2mほどの深さで地下水脈があります。このような地下水脈は北側の江尻側から流れ込んできているものと思われます。天橋立は、淡水の地下水が流れる砂州という特徴があります。
 砂州の中なのに真水の出る「磯清水」があるのをみた和泉式部(いづみしきぶ)は、その不思議さに、
  橋立の 松の下なる 磯清水 都なりせば 君も汲ままし
と詠みました。
 さて、天橋立と呼ばれる砂州は、いつどのようにしてできたのでしょうか。
 阿蘇海に流れ込む野田川があります。この野田川は、断層に沿って流れている川です。その断層は、山田断層とよばれ、非常に大きなものです。山田断層は、北東から南西に33kmほどの長さ延びていることが確認されています。この断層は、北西側が隆起し、北東に移動する(右にずれ断層)という動きをしています。山田断層は、1927年の北丹後地震で活動しています。
 約2万年前の最終氷河期には、海水準は100mほど今より低かったと考えられています。氷河期が終わり、海水準が高くなり、6000年前の縄文海進のころには、現在より2mほど海水準が上がったと考えられています。野田川沿いに堆積した地層との対比から、縄文海進のころから、砂州の形成がはじまったと考えれています。
 砂州は、海流や沿岸流、河川の状態、土砂の流量など、さまざまな要因で変動を受けて変化します。ですから、砂州は、安定したものではなく、要因が変化すれば、その形状も変形するものです。現在、天橋立は、阿蘇海を閉ざすほどの長さがありますが、第二次世界大戦以降、砂州の侵食が起こっています。それは、治水のために作られた河川のダムによって、海に流れ込む堆積物が減ったためだと考えられます。1987年からは砂州を守るために、サンドバイパスを設け人工的に砂州の地形の維持しようと努力されています。
 室町時代に活躍した水墨画家で禅僧でもある雪舟も、天橋立にきて描いています。その絵は現存しており、国宝「天橋立図」として、京都国立博物館に所蔵されています。
 この「天橋立図」は、雪舟が晩年の1501~1506頃に書いたことがわかっています。雪舟観(せっしゅうかん)と呼ばるところとから見たもので、東側から天橋立を見下ろす構図になっています。その絵を見ますと、天橋立は南の文殊側が、広く開いた形状となっています。ですから、砂州は今よりずっと短かったことがわかります。
 日本三景は、古くから日本でも有数の名勝地となっています。Wikipediaによれば、江戸時代前期(17世紀)、儒学者・林春斎という儒学者が書いた「日本国事跡考」の中で「丹後天橋立、陸奥松島、安芸厳島、三処を奇観と為す」と書き、それ以降日本三景がはじまったとあります。
 陸奥松島とは、現在の宮城県宮城郡松島町の沿岸の多島海の景観です。安芸厳島とは、広島県廿日市市にある厳島神社を中心とした宮島のことです。今では、「安芸の宮島」のほうがよく聞かれます。海上の赤の大鳥居と海の上に建てられた社殿が有名で、国宝にも指定されています。
 日本三景のうち、「安芸の宮島」の厳島神社は1996年に世界遺産に登録されました。天橋立も世界遺産への登録の努力はされていますが、いまだに実現されていません。その理由は、夏の海水浴客がたくさん来て、観光地化して自然が保護されづらいこと、また砂防のために人工物が多数設置されていることもハンディになるかもしれません。
 景勝を守るために、自然を大きく改変するのは主客転倒かもしれません。やむにやまれぬ、それなり理由があるのでしょうが、自然に人間が関与するのもほどほどにしておくほうがいいでしょう。まして、砂州とは地質学的は短時間で変動するものです。そこに砂防をしても、自然の変化を押し込めることはできないでしょう。それにそのような対策を施された自然景観は本当の自然景観といえるのでしょうか。今回の旅で、その不自然さを強く感じました。
 天橋立は、自然が時間をかけて、深い海底にできた分厚い堆積物の架け橋です。その橋の中には、地下水が流れています。地下水によって、多数の松が育ちました。この架け橋は、まるで生きているかのように、変移し続けています。自然の変化を止めることは、自然を守る正しいやり方でしょうか。自然の変化をも受け入れられる精神が必要ではないでしょうか。あるがままの自然を受け入れた上で、愛(め)で慈(いつく)しむ気持ちこそ、大切ではないでしょうか。

・砂州から砂嘴へ・
天橋立は、地形の上では砂州と呼ぶべきです。
砂州とは、離れた二つの陸地がつながるほど延びたもので、
つながらず離れていたり、海に突き出ているものを
砂嘴(さし)と呼んでいます。
砂州と砂嘴は、その形成のプロセスは似ていますが、
その状態が陸続きのようになっているかどうかが違いといえます。
ですから、砂州が侵食され離れていけば、
砂嘴と呼ぶべきものになります。
雪舟のみた天橋立は、砂嘴というべきものかもしれません。
もし、侵食で天橋立が砂州から砂嘴になったら、
そこは景勝地ではなくなるでしょうか。
少なくとも、500年前には景勝地でした。
変わることを拒んではいけません。
変わることを受け入れるべきでしょう。

・ネタ不足・
今回のメールマガジンは、発行が少し遅れました。
私の怠慢のせいです。
申し訳ありませんでした。
その背景には、少々ネタ不足になってきました。
最近、でかける余裕がなくなってきたためです。
もっといろいろなところに出かけたいのですが、
なかなかそうもいかなくなってきました。
少なくなったとはいえ、
昨年も春休みと夏休みに1週間ずつ出かけています。
それでも、はやり少ないようです。
本当はもっと出かけたいのですが、
現実的には段々難しくなってきます。
来年度は、講義日程ももっときつくなります。
次回以降、このエッセイも
やりかたを少々考えなければならないかもしれませんね。

2008-12-15

48 中央構造線の土砂災害:記憶と記録(2008.12.15)

 12月ともなれば、その年のことをいろいろ思い返してしまいます。今年は社会では、政治や経済がいろいろ話題になりましたが、私は自然災害が少ない年だったように感じました。人は、平穏な日々を過ごすと、その平穏さのありがたさを感じることがあまりありません。一方、特別なこと、異常や危険なことなどがあれば、記憶に残ります。ですから、平穏な時期は、たとえ異常が潜んでいても、気づかないことがあります。この記憶は、記録と一致するわけであはりません。もちろん。自然災害に襲われた地域や人は、今年は特別な年であったと記憶するでしょうが。

 気象庁の記録によれば、今年の台風の上陸はゼロです(正確には12月末を過ぎるまで決定ではありませんが)。確かに記憶をたどっても、大雨や集中豪雨のニュースはあったのですが、台風による被害のニュースは聞きませんでした。
 統計をみると、平年(1971年~2000年の30年間の平均)の台風は、発生数が26.7個、接近数は10.8個、上陸数は2.6個となっています。平年と比べると、今年は0個で上陸数が少なかったことになります。台風の発生数を見ても、21個と平年よりやや少なくなっています。台風の上陸がゼロという数は、1984年、1986年、そして2000年にもありましたが、はやり異常な記録といえます。しかし、記憶にはまったく残らない記録です。
 一方、2004年は記録的な数の台風が日本を襲いました。発生数は例年比べて29個とやや多いだけですが、過去の記録を見ると、もっと多い年がいくつもあります。最多は1967年の39個にも達します。ところが2004年は、接近数も19個、上陸数も10個となり、史上最多となっています。まだ記憶されている方も多いと思いますが、そのいくつかは、日本各地に大きな被害を与えました。
 2004年の前後の2003年(発生数21個、上陸数2個)と2005年(発生数23個、上陸数3個)は、通常の台風の数となっています。これは、気象庁が残している記録です。人の記憶にも、2004年の台風は残っていることでしょう。しかし、記憶は、記録と必ずしも一致するわけではありません。
 2004年は、多く台風が上陸したので、各域で被害がありましたが、たぶん多くの人も台風の被害を記憶しているでしょう。私は本州でその被害を目の当たりにしました。ですから、この年の台風は記憶に焼きついたものとなっています。
 私は夏過ぎにたいてい四国の愛媛県西予市城川町に調査に出かけます。2004年の9月にも城川に出かけていました。私が行った9月のはじめまでに、四国を襲った台風は、すでに5個にも達していて、多くの被害を出していました。
 なかでも台風16号は、四国に大きな被害を与えました。この台風は大型で、しかもゆっくりと移動していたため、大量の雨による洪水、風による被害も大きくなりました。私が訪れる直前に、この台風16号が四国西部を襲いました。台風16号は大量の雨が降ったので、予想外の土石流の発生が各地で起こりました。四国の瀬戸内海側の山間部で大きな土砂災害を出しました。城川周辺各地でも、土砂災害の被害を出していました。
 土砂災害には、地すべり、崖崩れ、土石流があります。中でも、土石流は土砂災害の約75%を占めます。台風時には、海岸では洪水や強風、高波を注意をするのですが、傾斜地や山地では土砂災害に注意が必要です。傾斜の急な沢ぞいにたまった岩石や土砂、砂礫が、豪雨、地震、融雪などによって、周辺の木などをまきこんで、一気に流がれ下るのが土石流です。水の中にさまざまな大きさの岩石や木を含んでいるので、単なる水害と比べて被害が大きくなります。
 土石流は非常に危険なので、国土交通省の河川局が、土石流の危険性がある地域を「土石流危険渓流」として指定しています。全国で18万カ所以上にもなります。野外調査をしていると、急な河川でが「土石流危険渓流」と書いた看板を見かけることがあります。
 2004年の台風16号による土石流の被害を、土木の専門家が調査しました。その報告では、もともと四国の瀬戸内側の山岳地帯は、表土が薄く土石流の発生の危険性が高いということを伝えてました。なぜ、この地域で表土が薄く土石流の発生しやすいのかを、地質学的に見ていきましょう。
 まず、表土についてです。表土は、硬い岩盤の上を覆う固まっていない層のことをいいます。表土は、砂礫だけのこともありますが、多くの場合は、岩盤が壊れた砂礫の層の上に、植物が分解された層(土壌)が形成され、両者が表土を構成しています。
 表土の厚さは、その地の岩盤となっている岩石の種類、岩盤の傾斜、風化を受けていた期間、その地域の気候・風土など、さまざま条件が複雑に関係しています。しかし、岩盤の性質が、表土の厚さを決める一番大きい要素だと考えられます。
 岩盤が固い岩石だと、岩石が壊れにくくなり、表土は形成されにくく薄くなります。また、硬いが崩れやすい岩盤でも、表土ができてもすぐ崩れてしまうので、厚くなることなく、薄いままになります。
 四国の地質を考えていくと、四国山地の太平洋側には、四万十層群と呼ばれる堆積岩からできている地層が発達しています。硬い岩石ですが、日本列島にプレートテクトニクスによって、海側から付け加わった付加体と呼ばれるもので、海に向かって傾斜しています。
 四国の中央山地から瀬戸内側にかけては、南から秩父(ちちぶ)帯、三波川(さんばがわ)帯、和泉(いずみ)層群という地質帯が、東西に伸びて並んでいます。和泉層群の中には領家帯の花崗岩や変成岩が入り込んでいます。
 それぞれの帯の境界には、大きな断層があります。四万十層群と秩父帯の境界は、仏像構造線という大断層があります。秩父帯の中には、やはり東西に伸びる黒瀬川構造帯という断層運動でつくられた地帯があります。秩父帯は黒瀬川構造帯より南側を、三宝山帯と呼ぶことがあります。秩父帯と三波川帯の間には、御荷鉾構造線という大断層があります。三波川帯と和泉層群あるいは領家帯の間には、有名な中央構造線があります。
 それぞれの断層は日本でも第一級の断層で、断層周辺の地層は、変形を受けて、壊れやすくなっています。また、四国の瀬戸内海の山側には、三波川帯が分布しています。三波川帯は変成岩からできています。高い圧力によってできたタイプの変成岩で、ぺらぺらとはがれやすい結晶片岩とよばれる岩石を主としています。そこに断層によって、より崩れやすい岩石になっている考えられます。結晶片岩が表層に出ている地域は、表土が崩れやすく薄い地域になっていると考えられます。
 三波川帯では、一般的に表土とその下の岩盤とでは、物質の性質がかなり違います。表土の底には、砂礫があり、雨が降るとそこまでは水がしみ込みますが、岩盤は硬い岩石なのではなかなかしみ込みません。そのため表土中に水が溜め込まれることになりますが、表土が薄い地域に大量の雨が降ると、水は表土の底を流れ始めます。すると、表土自体が不安定になり、土砂崩れや土石流などの土砂災害となります。
 台風によって短時間に大量の雨が降りました。その結果、四国の瀬戸内海の山側で、各地で土石流がおこり、各地で被害を出したのでしょう。被害は、このような地質の背景によるものだと考えられます。
 私の四国滞在中にも、台風18号の襲われました。激しい雨と風の中を車で移動した記憶が鮮明に残っています。この台風18号は、北海道にも上陸し、北海道大学のポプラ並木が倒れたり、積丹半島でも高潮によって大きな危害がありました。積丹半島には、被災直後に訪れました。この体験を、本エッセイの「07 積丹半島:シャコタン・ブルーの海に抱かれて」
http://terra.sgu.ac.jp/geo_essay/2005/07.html
で紹介しました。参考にしていただければと思います。
 2004年は台風の最多上陸数ですが、その記録は、私にとっても、多くの被害の記憶となって重なっています。ところが私には、2004年だけでなく、2003年も台風に対する強い記憶があります。それは、2003年にも、台風の被害をいくつか身近に感じたためです。
 2003年の9月、台風10号が四国を襲う直前まで、私はやはり城川にいて、台風に追われるように北海道に戻ったことがありました。その台風10号によって、城川では2人の死者を出しました。そのうちの1人は、城川に住んでいる友人の同級生でした。帰宅後その連絡を聞いて、自分の身近なところで、台風の犠牲者がでたことに驚きました。
 さらに2003年には、台風が北海道を上陸し、各地で被害を出しました。しばらく後に、私は台風の被災地である鵡川に行きましたが、その感想は「地球のつぶやき」の「22 災害と倫理:北海道の被災地を調査して」
http://terra.sgu.ac.jp/monolog/2003/22.html
で紹介しました。
 2003年と2004年は、私にとっては、台風の被害が強く記憶されている年です。2004年の台風の被害は全国に及ぶのですが、2003年のものは北海道や、四国の限られた地域で起こり、たまたま経験したものでした。大きな台風、多数の台風は、多くの地域で被害を出します。被災地では、その台風は強く人の記憶に残されます。少なければ、限られて人にだけにしか記憶されません。私は、その両者が2年にわたって記憶されています。
 台風だけでなく一般に自然現象は、人に与えた影響の程度と回数によって記憶になっていくのでしょう。記憶は、数や統計とは必ずしも一致しません。さらにいえば、幸運にも自然災害がないという記録は、たとえ歴史的に珍しいものであったとしても、記憶には残らないのです。
 でも、「平穏の記録は記憶に残らない」ということは、記憶しておくべきなのかもしれません。なぜなら、自然が与えてくるれ平穏は、自然災害より圧倒的に多くの時間と豊かさを与えてくれるからです。自然の平穏さなしには、私たちの生活が成り立たないからです。自然の恵みの感謝して、今年最後のエッセイを終えましょう。

・故郷・
私は、城川に、毎年のように通っていて、
1992年にはじめていって以来、もう16年目になります。
今年は、別のところに出かける予定があったので
城川にはいけませんでした。
家族で訪ねたことがあります。
2010年4月からは、大学の留学制度をつかって、
1年間、城川で暮らす予定です。
城川とは付き合いが、ますます深まっていきそうです。
私には、城川は第2の故郷のような気がします。
いつも来るたびにほっとした気持ちになります。
もしかすると私の本当の生まれ故郷が、
故郷らしくなくなったせいかもしれません。
私が生まれ育った京都は、開発が進んで、
子供のころに過ごした風物や自然は、
ほとんどなくなり宅地なってしまいました。
今でも、京都には母や弟が住んでいますが、
故郷に帰ったとしても、彼らに会うことが目的で、
周りの自然を懐かしく思うことはなくなりました。
城川は、私が生まれた町よりもっと山里で自然が残っています。
それが私の記憶の故郷と似ているのかもしれません。

・やり残し・
いよいよ今年も残すところあと少しです。
年末になると、今年を振り返ってしまいます。
今回のエッセイもそのようなものになりました。
私は、やり残したことがいろいろあります。
もちろんいくつかできたこともあります。
しかし、年の瀬には、なぜかできたことより
遣り残したことが頭に浮かびます。
これは、遣り残していることが
頭に常に付きまとっているからでしょうか。
でも、その多くは、自分の怠惰さや
努力の足りなさに由来するものです。
まあ、自業自得というものです。
でも、まだ、今年が終わったわけではありません。
まだ残された日々があります。
その日々を有効に使うためにも、
やり残しを少しでも片付けましょうか。

2008-11-15

47 飛騨の変動:荘川桜(2008.11.15)

 夏過ぎに能登と飛騨の調査をしました。荘川を日本海側から源流まで遡るという旅でしたので、飛騨をめぐることもなく、地質を詳しく見ることもありませんでした。飛騨の地質は、日本でもここでしか産しないユニークなものがあります。それを紹介しましょう。

 富山県は、北側に富山湾があり、南側には両白山地、飛騨高地、飛騨山脈(一般には北アルプスと呼ばれている)という日本でも有数の山岳地帯が横たわっています。そのような山岳地帯を源流とする水量豊かな川がいくつもあり、富山湾に流れ込みます。富山湾に注ぐ一級河川だけでも、西から小矢部川、庄川、神通川、常願寺川、黒部川という名だたる急流があります。中でも庄川と神通川は、富山県の県境を越えて、南側の岐阜県にその源流があります。
 今回の能登と飛騨の旅では、庄川の源流を車で一気に遡ることが、目的のひとつでした。幸い快晴に恵まれて、川沿いを走破することができました。
 私が訪れる数日前まで、大雨による土砂崩れで国道が通行止めになり、自動車専用道路しか通れない状況でした。しかし、幸いなことに、私が行く直前に、国道が復旧して通行できるようになっていました。
 富山県と岐阜県の山岳地帯を中心とする地域は、地質学的には、日本でも最も古い岩石類が分布しているところです。地下にはそのような古い岩石が広がっていると考えられますが、地上で実際に見ることができるのは、局所的で、限られた分布しかありません。それでも、古い岩石は、飛騨周辺地域に比較的広く分布しています。そのほかには、西に向かって点々と同様の古い岩石が、山陰や隠岐まで出いますが、いずれも小規模な岩体としてあるだけです。
 日本列島でも古い岩石類は、飛騨変成岩や飛騨帯などと呼ばれるもので、その構成や履歴は複雑なものになっています。ここでは、その概略を紹介しましょう。
 5億年前にできた大陸(ゴンドワナ大陸)が、3億3000万年前に分裂し、いくつかの大陸に分かれました。分裂したころにできた岩石が、飛騨片麻岩や古い花崗岩として見つかります。
 分かれた大陸が、2億3000万年前頃(三畳紀末)に衝突合体をして、東アジア大陸ができました。衝突する前の2つの大陸の間には海がありました。その海でたまった地層が、現在、宇奈月(うなづき)結晶片岩と呼ばれているものです。宇奈月結晶片岩は、もともと石灰岩、凝灰岩、泥岩、砂岩などの海で形成された堆積岩が、変成作用を受けてできたものです。
 衝突する大陸(衝突帯と呼ばれています)の地下深部では、高温高圧の条件で変成作用が起こりました、そのような変成作用によってできた岩石が、飛騨変成岩と呼ばれているものです。その後、1億8000万年前頃に活動した花崗岩が、当時の地殻上部を構成していた古い岩石類を貫いて(貫入(かんにゅう)といいます)います。
 ここまで紹介した飛騨の岩石類の歴史は、古生代から中生代までの古い時期のものだけです。飛騨の岩石は、その後も複雑な変動を受けています。たとえば、日本海の形成に伴う日本列島の大陸から分離、フォッサマグナの形成、丹どもの火成作用など、さまざまな時代にさまざまなタイプの地質学的変動を、飛騨地域は受け続けています。そしてそのような変動は、今も続いています。
 飛騨山地が急激に持ち上げられて山脈となったのは、約50万年前だと考えられています。飛騨で見つかる古い岩石の歴史からすれば、50万年前は、地質学的にはつい最近の出来事というべきものです。短時間に急に上昇した地帯は、激しい侵食にさらされることになります。そのため、侵食によって急峻な山岳地形が形成されることになります。
 富山県内の河川は、そのような急激に上昇した山岳地帯に水源を持つものです。侵食や削剥が激しい山岳地帯があると、大量の土砂が川によって運ばれます。山地から海までの距離が短いために、土砂は途中でたまることなく、海まで一気に流れ込みます。富山県の河川は流域が短く、中流域や下流域と呼べる部分は短く、上流域から一気に河口に流れ込むような急流となっています。
 黒部川では、急峻な山から中流に出てできる扇状地が、そのまま海に達しています。富山平野は、主に庄川と神通川が運んできた土砂によって、短い時間に形成されました。また、富山湾には深い海底谷がありますが、それを富山の河川堆積物が埋め立てています。
 日本海に面した山岳地帯には、冬になると季節風によって大量の雪が降ります。冬に積もった雪は、水資源として重要な役割を果たします。特に、急峻な山岳地帯は、急流で高低差があり、水力発電には適しています。
 日本が終戦後の復興が進みだしたころ、今まで石炭に頼っていたエネルギーが、供給不足になります。特に電力の不足は深刻な問題となりました。そのとき目をつけられたのが、水量豊かな水資源です。1952(昭和27)年、電源開発促進法が成立して、電源開発株式会社が国家的使命として設立されました。最初の電源開発計画として打ち出されたものが、北上川の胆沢や天竜川の佐久間とともに、庄川上流の御母衣(みぼろ)のダム建設がありました。
 御母衣ダムの建築予定地には、当時1200人以上の住民が暮らしていました。彼らの生活の場がダムの水底に水没するため、住民は立ち退きを余儀なくされました。住民との立ち退き交渉は困難を極めましたが、電源開発株式会社の高碕達之助総裁は、なんとか住民との信頼関係を築き、交渉を成立させました。
 彼が水没の決まった地区を訪れたとき、2つの寺の境内にそれぞれ桜の大きな老木があるのを見つけました。この見事な桜が水没するのは忍びないと、なんとか移植できなかと考え、対策を考え、実行に移しました。
 桜の老木の移植は不可能だとされたのですが、多くの人の協力と努力によって成功しました。今も2つの桜の巨木は、御母衣ダム湖のほとりに生き続けています。2本の老木は、春になると花を咲かせています。春には、桜の名称としてメディアにもよく登場します。この2本の桜は荘川桜と呼ばれ、岐阜県指定の天然記念物となっています。荘川桜は、今もダムを訪れる人を和ませ、かつての住民の心のふるさととなっています。
 私は、荘川桜をテレビで見ていましたが、いきさつの詳しい話をダムの電力館のビデオではじめて知りました。多くの人が、この桜にかかわり、そして思いを寄せていることがわかりました。
 私が訪れたのは、9月のはじめでした。ですから御母衣の冬の豪雪や花の時期は想像だにできません。しかし、そのような豪雪に耐えた抜いた桜の巨木は、その厳しさ、そして人の思い、この地の変化を、500年以上にわたって見てきたのでしょう。500年は、人間の寿命から言えば、何世代も経なければならない長さです。それを荘川桜は一世代で過ごしてきたわけです。
 青々とした葉を茂らせている桜の老木を眺めながら、彼らが見てきたであろう500年の御母衣の変化と、私が知識として知っている日本でもっとも古い地層の5億年の変化とを対比しながら、その隔たりと悠久さに思いを馳せていました。

・凛とした朝・
北国は里にも何度か雪が降りました。
冷え込む朝には、大地は霜で白くなります。
手稲の山並みは、雪が消えることにがないほど
雪が何度も降っています。
朝夕や曇りの日には、ストーブをつけています。
天候不順が続いていたのですが、
先日やっと快晴の日を迎えました。
早朝は放射冷却で凛とした身の引き締まる寒さでした。
足元の大地が霜で真っ白になり、
遠くに見える山並みも白くなっていました。
北国はいよいよ冬到来です。

・新しいOS・
夏に5年ぶりに新しいデスクトップパソコンを買い替え
今ではそれをメインのパソコンとして使っています。
WindowsVISTAをOSとしています。
このVISTAが曲者で、パワーポイントが不安定で
動画のオブジェクトを設定して再生すると、
不正終了になることがよくあります。
講義ではノートパソコンを使っていますので、
そちらではちゃんと再生できるので、
一応実用上問題がありません。
また、地形データを処理するKashmirも
ある操作をすると停止します。
ですから、それは、以前使っていたデスクトップで
地形画像を処理するようにしています。
新しいからいいと限りません。
長い目で見たとき、新しいOSは、
新しいバージョンのソフトではやがて必要になると思います。
ですから、飛びつくことはありませんが、
検証を兼ねて、以降していくつもりです。
もちろんただし、ノートパソコンはWindowsXPです。

2008-10-15

46 恐山:異界で生まれる金鉱石(2008.10.15)

 本州の最北に、下北半島はあります。その最北の地に霊場として有名な恐山があります。恐山は霊場としてだけでなく、地質学者の注目も集めているところです。地質学者が注目する霊場を紹介しましょう。

 私は、8月上旬の蒸し暑く、時々雨が降る日に恐山(おそれざん)を訪れました。恐山は、青森県、下北半島のほぼ中央に位置します。慈覚大師円仁が開いた恐山菩提寺の周囲には、多数の死者を弔った遺族が残していったと思われる、積みあげた石や風車が、いたるところにあります。また、いろいろな時代につくられたと思われる石仏があります。そんな地を巡り歩いていると、異界に迷い込んだような気分になりました。
 人為的な石積みや風車、石仏がなかったとしても、周りの緑の山の中に、忽然と現れる火山の噴気、そして異臭の漂う不毛の地にぽつんと置かれると、人は異界にいる気分になってしまうのではないでしょうか。恐山は、そのような景観を持っているためでしょうか、高野山、比叡山とともに、日本三大霊場の一つになっています。
 下北地方では恐山は、古くから信仰の地されていて、人が死ぬと魂は恐山にいくといわれていたそうです。その信仰は、今も残っています。かつては、盲目や弱視の女性が修行を行った後に、イタコと呼ばれる巫女(みこ)になって、「口寄せ」で語ることが行われています。「口寄せ」とは、死者の霊をイタコ自身に乗り移らせて語ることで、イタコの口を通じて死者の声を遺族が聞くことになります。
 今風にいえば、心理カウンセリングになるのでしょうか。今でも、恐山大祭や恐山秋詣りに、イタコによる口寄せが盛んに行われているそうです。ただ、障害者の生活が改善してことや、イタコになるための修行が厳しいことから、新たにイタコになる人は減り、高齢化が進んでいるようです。
 そのような霊場として、恐山は多くの人が知る有名なところです。しかし、実は「恐山」という山はありません。地質学では、恐山とは、東西17km、南北25kmの範囲にいくつもある火山の総称となっています。外輪山とその中にある宇曽利湖(うそりこ)、そして湖の周辺にある小さいな火山からなる、一連の火山活動の集合体です。活動時期の違う火山群が、カルデラの外と中にあるため二重式火山と呼ばれています。このような火山全体を恐山と呼んでいます。
 外輪山は、蓮華八葉と呼ばれている剣山、地蔵山、鶏頭山、円山、大尽山、小尽山、北国山、屏風山の8つの火山からなります。外輪山の東の外側斜面には釜臥(かまふせ)山(標高879m)が、西側斜面には朝比奈岳(874m)がありますが、いずれも寄生火山で、恐山の一部です。
 宇曽利湖は、直径約2kmの噴火後できたカルデラ湖です。宇曽利湖の水は、強い酸性なので、特殊な動植物プランクトンや、酸性水に強いウグイが生息しているだけです。宇曽利山湖の北東には正津川があり、湖の水が津軽海峡まで流れていきます。火山湖の水が流出して谷ができ(火口瀬と呼びます)、水面が12mほど下がりました。そのため湖の周辺には、湖岸段丘ができています。
 宇曽利山湖の周辺には、噴気が立ち上っているところや、熱水が沸いているところなどがいくつもあります。これらは、カルデラ形成の後にできたいくつかの火山円頂丘が、その熱源となっています。火山円頂丘をつくったマグマが今も活動して、熱水や蒸気を噴出しているのです。このような噴気活動がある地は、地獄と呼ばれています。
 恐山は記録に残っている噴火はなく、最後の噴火は地質調査から1万年前より古いと考えられています。噴気を盛んに上げているために、活火山になっていますが、噴火の危険性は少ないと考えられています。
 恐山は、地質学者の間では、活火山ということとともに、生きている金鉱床として有名です。噴出する熱水が、現在も金鉱石を形成しているのです。
 金鉱床は、爆裂火口の中にできた浅い熱水湖の底に沈殿物の中に見つかっています。金を含む沈殿物の地層が、ヘドロ状に形成されています。このようなメカニズムでできる金鉱床は、1989年にはじめて報告され、恐山型金鉱床と呼ばれる大変珍しいものと考えられています。
 金の総量は多くないと思われますが、そのでき方に注目されています。
 温泉には、量は少ないのですが金を含んでおり(30ppb、3/1億の濃度のこと)、その金が流れさることなく沈殿するメカニズムがあります。ヘドロには7ppm(7/100万の濃度)の金が含まれています。金の濃集しているところでは、400ppm(4/1万の濃度)もあるところが見つかっています。
 金鉱石は、その貴重さから、存在がわかるとすぐ採掘されたのですが、恐山は霊場でもあったため、誰も鉱業の場として着目していませんでした。ですから、鉱業としては手付かずの未開拓の場でした。もちろん現在も霊場ですから、採掘をすることはできません。
 金は、今まで誰にも知られることなく溜まったものです。地質学者が知るところとなりましたが、経済的な鉱山とするような規模ではないようなので、このまま大切に保存すべきものでしょう。できれは、その起源やメカニズムが解明されることが望まれます。ただ、心無い人に荒らされなければいいのですが。
 宇曽利湖の水は、エメラルドグリーンのきれいな色をしています。また湖畔は、白い砂浜が広がっていることから、極楽浜と呼ばれています。しかし、極楽浜のすぐ横には、現在も噴気を出している地獄があります。恐山は、極楽と地獄の景観が混在しています。極楽浜から地獄を眺めると、まさに今、自分は異界の地に立っていることを感じさせます。ある蒸し暑い夏の日に、そんな不思議な体験をしました。

・霊山・
恐山をめぐるルートでは、噴気があちこちで見られます。
危ないところは、柵がしてあります。
そんな噴気にコインを置く人がいっぱいいるようです。
私には理解できませんが、
日本人にはどうもそのようなことする風習があるようです。
そこには、変色した多数のコインが見つかります。
温泉には、毒々しい赤をしたものがあります。
血の池と呼ばれています。
また黄色の沈殿をためた熱水の川もあります。
そのような見慣れない水の色、景観に、
恐れや畏敬などの不思議な気持ちが湧いてきます。
はやりここ恐山は、霊山なのでしょう。

・金品位・
金の含有量は、鉱業的な意味もあり、
岩石1トン(t)当たり、金が何グラム(g)含まれているか
という表示法が用いられています。
g/tという単位で表記されます。
金の含有量を金品位と呼びます。
g/tとは、ppmと同じ意味になります。
恐山の平均的な金の含有量は7ppm、
多いところで400ppmとなります。
金鉱床の品位は、採算が取れるかどうか
採掘方法と埋蔵量によりますが、
露天掘りであれば、数ppmあれば採掘可能だといわれています。
その中で400ppmの高濃度の部分もあるというのは、
非常に有望な鉱床といえます。
ただ、恐山の金鉱床の規模は
それほど大きくはないと考えられるので、
埋蔵量は少ないはずです。
ですから、恐山の金は、鉱業的な意味より、
学術的意味が大きいのです。
ちなにみ、世界でも有数の品位を誇るのが
鹿児島県の菱刈鉱山です。
平均品位80ppm、濃集部では4%に達する
常識破りの金品位をもっています。

2008-09-15

45 能登半島:砂から見る大地の営み(2008.09.15)

 能登半島に調査にいきました。石川県には何度も行っているのですが、能登は、はじめて訪れるところでした。能登半島の砂を見て、大地の営み、そして人の営みを考えました。

 9月5日から11日まで、一人で調査に出ていました。コースは、小松空港を出発して、能登半島を回り、富山県の庄川を遡り、岐阜県の長良川を下り、途中から福井県に入り、九頭竜川を下って河口のある三国までいき、小松へもどりました。今年の春に、若狭湾から越前、三国まで調査していますので、今回は、その連続を調査しました。
 能登半島の西の付け根あたりに、千里浜なぎさドライブウェイというものがあります。石川県羽咋(はくい)郡宝達志水町今浜から羽咋市千里浜町にかけて、約8kmも続く海岸があります。この海岸は、自動車や観光バスも波打ち際を走ることができる「道路」となっています。日本で、車が走れる海岸は、ここだけだそうです。私も、実際に車で走って、爽快なドライブをしました。
 自動車が砂浜を走れるのは、砂がしまっているためです。砂の粒度はよくあるサイズのもので、特別なものではありません。ですから、砂に適度な湿り気があるのでしまってるのと、水混じりの砂が力がかかると一種のゲルとして固体のような振る舞いをするのではないでしょうか。
 千里浜から能登半島の西側の海岸沿いを走りました。羽咋市を過ぎると、海岸の様相が大きく変ります。穏やかであった海岸線が、険しいものへと一変します。能登金剛とよばれるような切り立った断崖の海岸となります。
 能登半島の海岸沿いを一周して、北半分にあたる奥能登と南側の地域を見て、海岸の様相がかなり違うと感じました。
 私は砂を試料として収集しているので、海岸の様子には注意しています。半島の南側の海岸ではたくさん砂浜がありましたが、北側の海岸では、砂を採集できるところが非常に少なかったのです。砂浜があっても、小規模なものでした。その違いは、どうも大地の生い立ちに原因がありそうです。
 海岸に砂が集まったり、なかったりするのは、いろいろな要因が考えられますが、重要なものは、地形砂の供給源と運搬する海流の作用、そして海岸の地形です。
 砂浜があったとしても、長い時間がたてば、砂浜は消えていしまいます。それは、砂が、波の作用で、砕かれ小さくなって、やがては波に運び去られていきます。ですから、砂浜があるということは、その砂浜に常に砂が供給される場所でなければなりません。
 砂の供給源は、海岸の崖が崩れることや貝殻が砕かれることもあります。しかし、砂は、主に川から運ばれてきます。近くに川があると、上流から運ばれてきた土砂が、周辺の海岸に砂を供給することができます。川の流れは定常的なものですから、砂をいつも供給することができます。
 次に、川から供給された砂が、海岸に運搬され続けなければなりません。それが沿岸流とよばれている潮の流れです。沿岸流は、複雑な動きをしますが、大局的に見れは、海流の影響を受けます。日本海では、対馬海流が、東から西に向かって流れています。能登半島の西側は、強い対馬海流にさらされているという点では、北も南も同じ条件となります。また能登半島の東側は、半島が対馬海流を影響を和らげます。この点でも能登の北も南も同じです。
 ですから能登半島の場合、海岸に砂浜ができるかどうかは、砂の供給源、つまり大きな川が潮の流れの上流側にあるかどうかが大きな違いとなってきます。能登半島の付け根には、大きな川がいくつもあります。西側では、手取川、東側には庄川、神通川、常願寺川など白山や飛騨の山並みに源流をもつ大河があります。一方、奥能登は奥能登丘陵と呼ばれる山地はありますが、河川はどれも急で短いものです。そのため、砂の供給源としては、不十分です。このような砂の供給源として、大きな川の有無が、砂浜のできるか、できないかの大きな原因となっていると考えられます。
 3つめの原因として、海岸の地形にも砂浜の成因と、密接な関係があります。つまり、奥能登には砂浜ができにくい理由があります。それは、奥能登が大地が上昇する(隆起といいます)という地殻変動を続けているためです。
 能登半島の隆起は、数十万年前からはじまり、現在も続いています。大地の隆起は、海岸段丘というものから推定することができます。海岸段丘とは、海岸沿いにできた階段状の地形です。つまり、もともと海の海岸線であったところ(汀線といいます)が、段丘の平らな面(段丘面)となます。その後、陸が急に隆起したり、海面が下がると、今までの平らな面が海水の作用で侵食され崖(海食崖)になります。それが、段丘の崖(段丘崖)となります。隆起が続いている地域では、高い位置にある段丘面ほど古い時代に形成されたものになります。
 12万5000年前の地球の温暖期に当たり、現在より3から6mほど海面が上昇していました。そのときに形成された段丘面は、能登半島の北端の折戸では、現在、なんと標高109mのところにあります。また、東海岸の九十九(つくも)湾では、標高49mのところになります。その後も能登半島は上昇を続けています。
 ただし、この隆起よりすごい変動が起こっています。1万3000年から1万8000年前の氷河期(リス氷期)には、130mも海面が下がりました。その後、氷期(ヴュルム氷期)が訪れ、そして現在の間氷期になります。ヴュルム氷期でも現在の海面より120mほど下がりました。その海面上昇は急激で、奥能登が隆起しているのにかかわらず、海面上昇が隆起を追い越してしまいました。そのため、山間部の地形である谷や尾根が、そのまま海岸線となってしまいした。このような海岸線を、リアス式海岸と呼んでいます。九十九湾はリアス式海岸の典型的な場所です。
 奥能登では、砂の供給が少ないとともに、このような隆起や海面変動によって砂浜の海岸ができるような平地がないため、より砂浜が少なく小さかったのです。
 近年、日本各地で、海岸の砂の流出が問題になっています。その原因のひとつは、河川の護岸によって砂が海に運ばれることが少なくなっているためです。実は、千里浜でも、砂の供給が少なくなって、侵食されはじめていることが問題になっているそうです。治水として川を護岸することが、実は思わぬところで、影響を与えていることになります。一方を守るために手を加えたことによって、別のところに被害を与えることがあります。自然は奥深いです。そのことを知ったからには、場当たり的な処置は注意が必要です。砂がなくなったから、別のところから持ってくるなどという愚かな対処をしないことを祈ります。能登では見かけませんでしたが、人工砂浜を見ると虚しくなるのは、私だけでしょうか。

・リフレッシュ・
北海道では、9月になっても、暑い日が続いています。
しかし、朝夕は涼しく秋を感じさせます。
私の大学は、まだ夏季休暇中ですので、
9月のこの時期が、一番仕事のできるときとなります。
私は、9月上旬には、いつも調査に出ることにしています。
そして、9月後半は論文をまとめるというパターンです。
ですから、これからは、論文を書くことに専念したいと思っています。
調査で頭はリフレッシュしたのですが、
本州の暑い中を調査したので、少々ばてています。
まあ、連休明けからがんばりましょうか。

・豪雨・
能登半島をめぐっているとき、激しい雨に会いました。
調査に出る直前に、集中豪雨のため、
本州各地で水害や土砂災害を起こしていました。
その二の舞かと思うほどの激しい雨でした。
車を走らせていると、前が見えなくなるような雨でした。
ですから、能登半島の調査は、
なかなか思うようにできませんでしたが、
雨は降り続けることなく、休み休み降っていたので、
その合間に調査を続けました。
もちろん断念した場所も何箇所もありますが、
雨ばかりはどうしようもありません。