2008-12-15

48 中央構造線の土砂災害:記憶と記録(2008.12.15)

 12月ともなれば、その年のことをいろいろ思い返してしまいます。今年は社会では、政治や経済がいろいろ話題になりましたが、私は自然災害が少ない年だったように感じました。人は、平穏な日々を過ごすと、その平穏さのありがたさを感じることがあまりありません。一方、特別なこと、異常や危険なことなどがあれば、記憶に残ります。ですから、平穏な時期は、たとえ異常が潜んでいても、気づかないことがあります。この記憶は、記録と一致するわけであはりません。もちろん。自然災害に襲われた地域や人は、今年は特別な年であったと記憶するでしょうが。

 気象庁の記録によれば、今年の台風の上陸はゼロです(正確には12月末を過ぎるまで決定ではありませんが)。確かに記憶をたどっても、大雨や集中豪雨のニュースはあったのですが、台風による被害のニュースは聞きませんでした。
 統計をみると、平年(1971年~2000年の30年間の平均)の台風は、発生数が26.7個、接近数は10.8個、上陸数は2.6個となっています。平年と比べると、今年は0個で上陸数が少なかったことになります。台風の発生数を見ても、21個と平年よりやや少なくなっています。台風の上陸がゼロという数は、1984年、1986年、そして2000年にもありましたが、はやり異常な記録といえます。しかし、記憶にはまったく残らない記録です。
 一方、2004年は記録的な数の台風が日本を襲いました。発生数は例年比べて29個とやや多いだけですが、過去の記録を見ると、もっと多い年がいくつもあります。最多は1967年の39個にも達します。ところが2004年は、接近数も19個、上陸数も10個となり、史上最多となっています。まだ記憶されている方も多いと思いますが、そのいくつかは、日本各地に大きな被害を与えました。
 2004年の前後の2003年(発生数21個、上陸数2個)と2005年(発生数23個、上陸数3個)は、通常の台風の数となっています。これは、気象庁が残している記録です。人の記憶にも、2004年の台風は残っていることでしょう。しかし、記憶は、記録と必ずしも一致するわけではありません。
 2004年は、多く台風が上陸したので、各域で被害がありましたが、たぶん多くの人も台風の被害を記憶しているでしょう。私は本州でその被害を目の当たりにしました。ですから、この年の台風は記憶に焼きついたものとなっています。
 私は夏過ぎにたいてい四国の愛媛県西予市城川町に調査に出かけます。2004年の9月にも城川に出かけていました。私が行った9月のはじめまでに、四国を襲った台風は、すでに5個にも達していて、多くの被害を出していました。
 なかでも台風16号は、四国に大きな被害を与えました。この台風は大型で、しかもゆっくりと移動していたため、大量の雨による洪水、風による被害も大きくなりました。私が訪れる直前に、この台風16号が四国西部を襲いました。台風16号は大量の雨が降ったので、予想外の土石流の発生が各地で起こりました。四国の瀬戸内海側の山間部で大きな土砂災害を出しました。城川周辺各地でも、土砂災害の被害を出していました。
 土砂災害には、地すべり、崖崩れ、土石流があります。中でも、土石流は土砂災害の約75%を占めます。台風時には、海岸では洪水や強風、高波を注意をするのですが、傾斜地や山地では土砂災害に注意が必要です。傾斜の急な沢ぞいにたまった岩石や土砂、砂礫が、豪雨、地震、融雪などによって、周辺の木などをまきこんで、一気に流がれ下るのが土石流です。水の中にさまざまな大きさの岩石や木を含んでいるので、単なる水害と比べて被害が大きくなります。
 土石流は非常に危険なので、国土交通省の河川局が、土石流の危険性がある地域を「土石流危険渓流」として指定しています。全国で18万カ所以上にもなります。野外調査をしていると、急な河川でが「土石流危険渓流」と書いた看板を見かけることがあります。
 2004年の台風16号による土石流の被害を、土木の専門家が調査しました。その報告では、もともと四国の瀬戸内側の山岳地帯は、表土が薄く土石流の発生の危険性が高いということを伝えてました。なぜ、この地域で表土が薄く土石流の発生しやすいのかを、地質学的に見ていきましょう。
 まず、表土についてです。表土は、硬い岩盤の上を覆う固まっていない層のことをいいます。表土は、砂礫だけのこともありますが、多くの場合は、岩盤が壊れた砂礫の層の上に、植物が分解された層(土壌)が形成され、両者が表土を構成しています。
 表土の厚さは、その地の岩盤となっている岩石の種類、岩盤の傾斜、風化を受けていた期間、その地域の気候・風土など、さまざま条件が複雑に関係しています。しかし、岩盤の性質が、表土の厚さを決める一番大きい要素だと考えられます。
 岩盤が固い岩石だと、岩石が壊れにくくなり、表土は形成されにくく薄くなります。また、硬いが崩れやすい岩盤でも、表土ができてもすぐ崩れてしまうので、厚くなることなく、薄いままになります。
 四国の地質を考えていくと、四国山地の太平洋側には、四万十層群と呼ばれる堆積岩からできている地層が発達しています。硬い岩石ですが、日本列島にプレートテクトニクスによって、海側から付け加わった付加体と呼ばれるもので、海に向かって傾斜しています。
 四国の中央山地から瀬戸内側にかけては、南から秩父(ちちぶ)帯、三波川(さんばがわ)帯、和泉(いずみ)層群という地質帯が、東西に伸びて並んでいます。和泉層群の中には領家帯の花崗岩や変成岩が入り込んでいます。
 それぞれの帯の境界には、大きな断層があります。四万十層群と秩父帯の境界は、仏像構造線という大断層があります。秩父帯の中には、やはり東西に伸びる黒瀬川構造帯という断層運動でつくられた地帯があります。秩父帯は黒瀬川構造帯より南側を、三宝山帯と呼ぶことがあります。秩父帯と三波川帯の間には、御荷鉾構造線という大断層があります。三波川帯と和泉層群あるいは領家帯の間には、有名な中央構造線があります。
 それぞれの断層は日本でも第一級の断層で、断層周辺の地層は、変形を受けて、壊れやすくなっています。また、四国の瀬戸内海の山側には、三波川帯が分布しています。三波川帯は変成岩からできています。高い圧力によってできたタイプの変成岩で、ぺらぺらとはがれやすい結晶片岩とよばれる岩石を主としています。そこに断層によって、より崩れやすい岩石になっている考えられます。結晶片岩が表層に出ている地域は、表土が崩れやすく薄い地域になっていると考えられます。
 三波川帯では、一般的に表土とその下の岩盤とでは、物質の性質がかなり違います。表土の底には、砂礫があり、雨が降るとそこまでは水がしみ込みますが、岩盤は硬い岩石なのではなかなかしみ込みません。そのため表土中に水が溜め込まれることになりますが、表土が薄い地域に大量の雨が降ると、水は表土の底を流れ始めます。すると、表土自体が不安定になり、土砂崩れや土石流などの土砂災害となります。
 台風によって短時間に大量の雨が降りました。その結果、四国の瀬戸内海の山側で、各地で土石流がおこり、各地で被害を出したのでしょう。被害は、このような地質の背景によるものだと考えられます。
 私の四国滞在中にも、台風18号の襲われました。激しい雨と風の中を車で移動した記憶が鮮明に残っています。この台風18号は、北海道にも上陸し、北海道大学のポプラ並木が倒れたり、積丹半島でも高潮によって大きな危害がありました。積丹半島には、被災直後に訪れました。この体験を、本エッセイの「07 積丹半島:シャコタン・ブルーの海に抱かれて」
http://terra.sgu.ac.jp/geo_essay/2005/07.html
で紹介しました。参考にしていただければと思います。
 2004年は台風の最多上陸数ですが、その記録は、私にとっても、多くの被害の記憶となって重なっています。ところが私には、2004年だけでなく、2003年も台風に対する強い記憶があります。それは、2003年にも、台風の被害をいくつか身近に感じたためです。
 2003年の9月、台風10号が四国を襲う直前まで、私はやはり城川にいて、台風に追われるように北海道に戻ったことがありました。その台風10号によって、城川では2人の死者を出しました。そのうちの1人は、城川に住んでいる友人の同級生でした。帰宅後その連絡を聞いて、自分の身近なところで、台風の犠牲者がでたことに驚きました。
 さらに2003年には、台風が北海道を上陸し、各地で被害を出しました。しばらく後に、私は台風の被災地である鵡川に行きましたが、その感想は「地球のつぶやき」の「22 災害と倫理:北海道の被災地を調査して」
http://terra.sgu.ac.jp/monolog/2003/22.html
で紹介しました。
 2003年と2004年は、私にとっては、台風の被害が強く記憶されている年です。2004年の台風の被害は全国に及ぶのですが、2003年のものは北海道や、四国の限られた地域で起こり、たまたま経験したものでした。大きな台風、多数の台風は、多くの地域で被害を出します。被災地では、その台風は強く人の記憶に残されます。少なければ、限られて人にだけにしか記憶されません。私は、その両者が2年にわたって記憶されています。
 台風だけでなく一般に自然現象は、人に与えた影響の程度と回数によって記憶になっていくのでしょう。記憶は、数や統計とは必ずしも一致しません。さらにいえば、幸運にも自然災害がないという記録は、たとえ歴史的に珍しいものであったとしても、記憶には残らないのです。
 でも、「平穏の記録は記憶に残らない」ということは、記憶しておくべきなのかもしれません。なぜなら、自然が与えてくるれ平穏は、自然災害より圧倒的に多くの時間と豊かさを与えてくれるからです。自然の平穏さなしには、私たちの生活が成り立たないからです。自然の恵みの感謝して、今年最後のエッセイを終えましょう。

・故郷・
私は、城川に、毎年のように通っていて、
1992年にはじめていって以来、もう16年目になります。
今年は、別のところに出かける予定があったので
城川にはいけませんでした。
家族で訪ねたことがあります。
2010年4月からは、大学の留学制度をつかって、
1年間、城川で暮らす予定です。
城川とは付き合いが、ますます深まっていきそうです。
私には、城川は第2の故郷のような気がします。
いつも来るたびにほっとした気持ちになります。
もしかすると私の本当の生まれ故郷が、
故郷らしくなくなったせいかもしれません。
私が生まれ育った京都は、開発が進んで、
子供のころに過ごした風物や自然は、
ほとんどなくなり宅地なってしまいました。
今でも、京都には母や弟が住んでいますが、
故郷に帰ったとしても、彼らに会うことが目的で、
周りの自然を懐かしく思うことはなくなりました。
城川は、私が生まれた町よりもっと山里で自然が残っています。
それが私の記憶の故郷と似ているのかもしれません。

・やり残し・
いよいよ今年も残すところあと少しです。
年末になると、今年を振り返ってしまいます。
今回のエッセイもそのようなものになりました。
私は、やり残したことがいろいろあります。
もちろんいくつかできたこともあります。
しかし、年の瀬には、なぜかできたことより
遣り残したことが頭に浮かびます。
これは、遣り残していることが
頭に常に付きまとっているからでしょうか。
でも、その多くは、自分の怠惰さや
努力の足りなさに由来するものです。
まあ、自業自得というものです。
でも、まだ、今年が終わったわけではありません。
まだ残された日々があります。
その日々を有効に使うためにも、
やり残しを少しでも片付けましょうか。

2008-11-15

47 飛騨の変動:荘川桜(2008.11.15)

 夏過ぎに能登と飛騨の調査をしました。荘川を日本海側から源流まで遡るという旅でしたので、飛騨をめぐることもなく、地質を詳しく見ることもありませんでした。飛騨の地質は、日本でもここでしか産しないユニークなものがあります。それを紹介しましょう。

 富山県は、北側に富山湾があり、南側には両白山地、飛騨高地、飛騨山脈(一般には北アルプスと呼ばれている)という日本でも有数の山岳地帯が横たわっています。そのような山岳地帯を源流とする水量豊かな川がいくつもあり、富山湾に流れ込みます。富山湾に注ぐ一級河川だけでも、西から小矢部川、庄川、神通川、常願寺川、黒部川という名だたる急流があります。中でも庄川と神通川は、富山県の県境を越えて、南側の岐阜県にその源流があります。
 今回の能登と飛騨の旅では、庄川の源流を車で一気に遡ることが、目的のひとつでした。幸い快晴に恵まれて、川沿いを走破することができました。
 私が訪れる数日前まで、大雨による土砂崩れで国道が通行止めになり、自動車専用道路しか通れない状況でした。しかし、幸いなことに、私が行く直前に、国道が復旧して通行できるようになっていました。
 富山県と岐阜県の山岳地帯を中心とする地域は、地質学的には、日本でも最も古い岩石類が分布しているところです。地下にはそのような古い岩石が広がっていると考えられますが、地上で実際に見ることができるのは、局所的で、限られた分布しかありません。それでも、古い岩石は、飛騨周辺地域に比較的広く分布しています。そのほかには、西に向かって点々と同様の古い岩石が、山陰や隠岐まで出いますが、いずれも小規模な岩体としてあるだけです。
 日本列島でも古い岩石類は、飛騨変成岩や飛騨帯などと呼ばれるもので、その構成や履歴は複雑なものになっています。ここでは、その概略を紹介しましょう。
 5億年前にできた大陸(ゴンドワナ大陸)が、3億3000万年前に分裂し、いくつかの大陸に分かれました。分裂したころにできた岩石が、飛騨片麻岩や古い花崗岩として見つかります。
 分かれた大陸が、2億3000万年前頃(三畳紀末)に衝突合体をして、東アジア大陸ができました。衝突する前の2つの大陸の間には海がありました。その海でたまった地層が、現在、宇奈月(うなづき)結晶片岩と呼ばれているものです。宇奈月結晶片岩は、もともと石灰岩、凝灰岩、泥岩、砂岩などの海で形成された堆積岩が、変成作用を受けてできたものです。
 衝突する大陸(衝突帯と呼ばれています)の地下深部では、高温高圧の条件で変成作用が起こりました、そのような変成作用によってできた岩石が、飛騨変成岩と呼ばれているものです。その後、1億8000万年前頃に活動した花崗岩が、当時の地殻上部を構成していた古い岩石類を貫いて(貫入(かんにゅう)といいます)います。
 ここまで紹介した飛騨の岩石類の歴史は、古生代から中生代までの古い時期のものだけです。飛騨の岩石は、その後も複雑な変動を受けています。たとえば、日本海の形成に伴う日本列島の大陸から分離、フォッサマグナの形成、丹どもの火成作用など、さまざまな時代にさまざまなタイプの地質学的変動を、飛騨地域は受け続けています。そしてそのような変動は、今も続いています。
 飛騨山地が急激に持ち上げられて山脈となったのは、約50万年前だと考えられています。飛騨で見つかる古い岩石の歴史からすれば、50万年前は、地質学的にはつい最近の出来事というべきものです。短時間に急に上昇した地帯は、激しい侵食にさらされることになります。そのため、侵食によって急峻な山岳地形が形成されることになります。
 富山県内の河川は、そのような急激に上昇した山岳地帯に水源を持つものです。侵食や削剥が激しい山岳地帯があると、大量の土砂が川によって運ばれます。山地から海までの距離が短いために、土砂は途中でたまることなく、海まで一気に流れ込みます。富山県の河川は流域が短く、中流域や下流域と呼べる部分は短く、上流域から一気に河口に流れ込むような急流となっています。
 黒部川では、急峻な山から中流に出てできる扇状地が、そのまま海に達しています。富山平野は、主に庄川と神通川が運んできた土砂によって、短い時間に形成されました。また、富山湾には深い海底谷がありますが、それを富山の河川堆積物が埋め立てています。
 日本海に面した山岳地帯には、冬になると季節風によって大量の雪が降ります。冬に積もった雪は、水資源として重要な役割を果たします。特に、急峻な山岳地帯は、急流で高低差があり、水力発電には適しています。
 日本が終戦後の復興が進みだしたころ、今まで石炭に頼っていたエネルギーが、供給不足になります。特に電力の不足は深刻な問題となりました。そのとき目をつけられたのが、水量豊かな水資源です。1952(昭和27)年、電源開発促進法が成立して、電源開発株式会社が国家的使命として設立されました。最初の電源開発計画として打ち出されたものが、北上川の胆沢や天竜川の佐久間とともに、庄川上流の御母衣(みぼろ)のダム建設がありました。
 御母衣ダムの建築予定地には、当時1200人以上の住民が暮らしていました。彼らの生活の場がダムの水底に水没するため、住民は立ち退きを余儀なくされました。住民との立ち退き交渉は困難を極めましたが、電源開発株式会社の高碕達之助総裁は、なんとか住民との信頼関係を築き、交渉を成立させました。
 彼が水没の決まった地区を訪れたとき、2つの寺の境内にそれぞれ桜の大きな老木があるのを見つけました。この見事な桜が水没するのは忍びないと、なんとか移植できなかと考え、対策を考え、実行に移しました。
 桜の老木の移植は不可能だとされたのですが、多くの人の協力と努力によって成功しました。今も2つの桜の巨木は、御母衣ダム湖のほとりに生き続けています。2本の老木は、春になると花を咲かせています。春には、桜の名称としてメディアにもよく登場します。この2本の桜は荘川桜と呼ばれ、岐阜県指定の天然記念物となっています。荘川桜は、今もダムを訪れる人を和ませ、かつての住民の心のふるさととなっています。
 私は、荘川桜をテレビで見ていましたが、いきさつの詳しい話をダムの電力館のビデオではじめて知りました。多くの人が、この桜にかかわり、そして思いを寄せていることがわかりました。
 私が訪れたのは、9月のはじめでした。ですから御母衣の冬の豪雪や花の時期は想像だにできません。しかし、そのような豪雪に耐えた抜いた桜の巨木は、その厳しさ、そして人の思い、この地の変化を、500年以上にわたって見てきたのでしょう。500年は、人間の寿命から言えば、何世代も経なければならない長さです。それを荘川桜は一世代で過ごしてきたわけです。
 青々とした葉を茂らせている桜の老木を眺めながら、彼らが見てきたであろう500年の御母衣の変化と、私が知識として知っている日本でもっとも古い地層の5億年の変化とを対比しながら、その隔たりと悠久さに思いを馳せていました。

・凛とした朝・
北国は里にも何度か雪が降りました。
冷え込む朝には、大地は霜で白くなります。
手稲の山並みは、雪が消えることにがないほど
雪が何度も降っています。
朝夕や曇りの日には、ストーブをつけています。
天候不順が続いていたのですが、
先日やっと快晴の日を迎えました。
早朝は放射冷却で凛とした身の引き締まる寒さでした。
足元の大地が霜で真っ白になり、
遠くに見える山並みも白くなっていました。
北国はいよいよ冬到来です。

・新しいOS・
夏に5年ぶりに新しいデスクトップパソコンを買い替え
今ではそれをメインのパソコンとして使っています。
WindowsVISTAをOSとしています。
このVISTAが曲者で、パワーポイントが不安定で
動画のオブジェクトを設定して再生すると、
不正終了になることがよくあります。
講義ではノートパソコンを使っていますので、
そちらではちゃんと再生できるので、
一応実用上問題がありません。
また、地形データを処理するKashmirも
ある操作をすると停止します。
ですから、それは、以前使っていたデスクトップで
地形画像を処理するようにしています。
新しいからいいと限りません。
長い目で見たとき、新しいOSは、
新しいバージョンのソフトではやがて必要になると思います。
ですから、飛びつくことはありませんが、
検証を兼ねて、以降していくつもりです。
もちろんただし、ノートパソコンはWindowsXPです。

2008-10-15

46 恐山:異界で生まれる金鉱石(2008.10.15)

 本州の最北に、下北半島はあります。その最北の地に霊場として有名な恐山があります。恐山は霊場としてだけでなく、地質学者の注目も集めているところです。地質学者が注目する霊場を紹介しましょう。

 私は、8月上旬の蒸し暑く、時々雨が降る日に恐山(おそれざん)を訪れました。恐山は、青森県、下北半島のほぼ中央に位置します。慈覚大師円仁が開いた恐山菩提寺の周囲には、多数の死者を弔った遺族が残していったと思われる、積みあげた石や風車が、いたるところにあります。また、いろいろな時代につくられたと思われる石仏があります。そんな地を巡り歩いていると、異界に迷い込んだような気分になりました。
 人為的な石積みや風車、石仏がなかったとしても、周りの緑の山の中に、忽然と現れる火山の噴気、そして異臭の漂う不毛の地にぽつんと置かれると、人は異界にいる気分になってしまうのではないでしょうか。恐山は、そのような景観を持っているためでしょうか、高野山、比叡山とともに、日本三大霊場の一つになっています。
 下北地方では恐山は、古くから信仰の地されていて、人が死ぬと魂は恐山にいくといわれていたそうです。その信仰は、今も残っています。かつては、盲目や弱視の女性が修行を行った後に、イタコと呼ばれる巫女(みこ)になって、「口寄せ」で語ることが行われています。「口寄せ」とは、死者の霊をイタコ自身に乗り移らせて語ることで、イタコの口を通じて死者の声を遺族が聞くことになります。
 今風にいえば、心理カウンセリングになるのでしょうか。今でも、恐山大祭や恐山秋詣りに、イタコによる口寄せが盛んに行われているそうです。ただ、障害者の生活が改善してことや、イタコになるための修行が厳しいことから、新たにイタコになる人は減り、高齢化が進んでいるようです。
 そのような霊場として、恐山は多くの人が知る有名なところです。しかし、実は「恐山」という山はありません。地質学では、恐山とは、東西17km、南北25kmの範囲にいくつもある火山の総称となっています。外輪山とその中にある宇曽利湖(うそりこ)、そして湖の周辺にある小さいな火山からなる、一連の火山活動の集合体です。活動時期の違う火山群が、カルデラの外と中にあるため二重式火山と呼ばれています。このような火山全体を恐山と呼んでいます。
 外輪山は、蓮華八葉と呼ばれている剣山、地蔵山、鶏頭山、円山、大尽山、小尽山、北国山、屏風山の8つの火山からなります。外輪山の東の外側斜面には釜臥(かまふせ)山(標高879m)が、西側斜面には朝比奈岳(874m)がありますが、いずれも寄生火山で、恐山の一部です。
 宇曽利湖は、直径約2kmの噴火後できたカルデラ湖です。宇曽利湖の水は、強い酸性なので、特殊な動植物プランクトンや、酸性水に強いウグイが生息しているだけです。宇曽利山湖の北東には正津川があり、湖の水が津軽海峡まで流れていきます。火山湖の水が流出して谷ができ(火口瀬と呼びます)、水面が12mほど下がりました。そのため湖の周辺には、湖岸段丘ができています。
 宇曽利山湖の周辺には、噴気が立ち上っているところや、熱水が沸いているところなどがいくつもあります。これらは、カルデラ形成の後にできたいくつかの火山円頂丘が、その熱源となっています。火山円頂丘をつくったマグマが今も活動して、熱水や蒸気を噴出しているのです。このような噴気活動がある地は、地獄と呼ばれています。
 恐山は記録に残っている噴火はなく、最後の噴火は地質調査から1万年前より古いと考えられています。噴気を盛んに上げているために、活火山になっていますが、噴火の危険性は少ないと考えられています。
 恐山は、地質学者の間では、活火山ということとともに、生きている金鉱床として有名です。噴出する熱水が、現在も金鉱石を形成しているのです。
 金鉱床は、爆裂火口の中にできた浅い熱水湖の底に沈殿物の中に見つかっています。金を含む沈殿物の地層が、ヘドロ状に形成されています。このようなメカニズムでできる金鉱床は、1989年にはじめて報告され、恐山型金鉱床と呼ばれる大変珍しいものと考えられています。
 金の総量は多くないと思われますが、そのでき方に注目されています。
 温泉には、量は少ないのですが金を含んでおり(30ppb、3/1億の濃度のこと)、その金が流れさることなく沈殿するメカニズムがあります。ヘドロには7ppm(7/100万の濃度)の金が含まれています。金の濃集しているところでは、400ppm(4/1万の濃度)もあるところが見つかっています。
 金鉱石は、その貴重さから、存在がわかるとすぐ採掘されたのですが、恐山は霊場でもあったため、誰も鉱業の場として着目していませんでした。ですから、鉱業としては手付かずの未開拓の場でした。もちろん現在も霊場ですから、採掘をすることはできません。
 金は、今まで誰にも知られることなく溜まったものです。地質学者が知るところとなりましたが、経済的な鉱山とするような規模ではないようなので、このまま大切に保存すべきものでしょう。できれは、その起源やメカニズムが解明されることが望まれます。ただ、心無い人に荒らされなければいいのですが。
 宇曽利湖の水は、エメラルドグリーンのきれいな色をしています。また湖畔は、白い砂浜が広がっていることから、極楽浜と呼ばれています。しかし、極楽浜のすぐ横には、現在も噴気を出している地獄があります。恐山は、極楽と地獄の景観が混在しています。極楽浜から地獄を眺めると、まさに今、自分は異界の地に立っていることを感じさせます。ある蒸し暑い夏の日に、そんな不思議な体験をしました。

・霊山・
恐山をめぐるルートでは、噴気があちこちで見られます。
危ないところは、柵がしてあります。
そんな噴気にコインを置く人がいっぱいいるようです。
私には理解できませんが、
日本人にはどうもそのようなことする風習があるようです。
そこには、変色した多数のコインが見つかります。
温泉には、毒々しい赤をしたものがあります。
血の池と呼ばれています。
また黄色の沈殿をためた熱水の川もあります。
そのような見慣れない水の色、景観に、
恐れや畏敬などの不思議な気持ちが湧いてきます。
はやりここ恐山は、霊山なのでしょう。

・金品位・
金の含有量は、鉱業的な意味もあり、
岩石1トン(t)当たり、金が何グラム(g)含まれているか
という表示法が用いられています。
g/tという単位で表記されます。
金の含有量を金品位と呼びます。
g/tとは、ppmと同じ意味になります。
恐山の平均的な金の含有量は7ppm、
多いところで400ppmとなります。
金鉱床の品位は、採算が取れるかどうか
採掘方法と埋蔵量によりますが、
露天掘りであれば、数ppmあれば採掘可能だといわれています。
その中で400ppmの高濃度の部分もあるというのは、
非常に有望な鉱床といえます。
ただ、恐山の金鉱床の規模は
それほど大きくはないと考えられるので、
埋蔵量は少ないはずです。
ですから、恐山の金は、鉱業的な意味より、
学術的意味が大きいのです。
ちなにみ、世界でも有数の品位を誇るのが
鹿児島県の菱刈鉱山です。
平均品位80ppm、濃集部では4%に達する
常識破りの金品位をもっています。

2008-09-15

45 能登半島:砂から見る大地の営み(2008.09.15)

 能登半島に調査にいきました。石川県には何度も行っているのですが、能登は、はじめて訪れるところでした。能登半島の砂を見て、大地の営み、そして人の営みを考えました。

 9月5日から11日まで、一人で調査に出ていました。コースは、小松空港を出発して、能登半島を回り、富山県の庄川を遡り、岐阜県の長良川を下り、途中から福井県に入り、九頭竜川を下って河口のある三国までいき、小松へもどりました。今年の春に、若狭湾から越前、三国まで調査していますので、今回は、その連続を調査しました。
 能登半島の西の付け根あたりに、千里浜なぎさドライブウェイというものがあります。石川県羽咋(はくい)郡宝達志水町今浜から羽咋市千里浜町にかけて、約8kmも続く海岸があります。この海岸は、自動車や観光バスも波打ち際を走ることができる「道路」となっています。日本で、車が走れる海岸は、ここだけだそうです。私も、実際に車で走って、爽快なドライブをしました。
 自動車が砂浜を走れるのは、砂がしまっているためです。砂の粒度はよくあるサイズのもので、特別なものではありません。ですから、砂に適度な湿り気があるのでしまってるのと、水混じりの砂が力がかかると一種のゲルとして固体のような振る舞いをするのではないでしょうか。
 千里浜から能登半島の西側の海岸沿いを走りました。羽咋市を過ぎると、海岸の様相が大きく変ります。穏やかであった海岸線が、険しいものへと一変します。能登金剛とよばれるような切り立った断崖の海岸となります。
 能登半島の海岸沿いを一周して、北半分にあたる奥能登と南側の地域を見て、海岸の様相がかなり違うと感じました。
 私は砂を試料として収集しているので、海岸の様子には注意しています。半島の南側の海岸ではたくさん砂浜がありましたが、北側の海岸では、砂を採集できるところが非常に少なかったのです。砂浜があっても、小規模なものでした。その違いは、どうも大地の生い立ちに原因がありそうです。
 海岸に砂が集まったり、なかったりするのは、いろいろな要因が考えられますが、重要なものは、地形砂の供給源と運搬する海流の作用、そして海岸の地形です。
 砂浜があったとしても、長い時間がたてば、砂浜は消えていしまいます。それは、砂が、波の作用で、砕かれ小さくなって、やがては波に運び去られていきます。ですから、砂浜があるということは、その砂浜に常に砂が供給される場所でなければなりません。
 砂の供給源は、海岸の崖が崩れることや貝殻が砕かれることもあります。しかし、砂は、主に川から運ばれてきます。近くに川があると、上流から運ばれてきた土砂が、周辺の海岸に砂を供給することができます。川の流れは定常的なものですから、砂をいつも供給することができます。
 次に、川から供給された砂が、海岸に運搬され続けなければなりません。それが沿岸流とよばれている潮の流れです。沿岸流は、複雑な動きをしますが、大局的に見れは、海流の影響を受けます。日本海では、対馬海流が、東から西に向かって流れています。能登半島の西側は、強い対馬海流にさらされているという点では、北も南も同じ条件となります。また能登半島の東側は、半島が対馬海流を影響を和らげます。この点でも能登の北も南も同じです。
 ですから能登半島の場合、海岸に砂浜ができるかどうかは、砂の供給源、つまり大きな川が潮の流れの上流側にあるかどうかが大きな違いとなってきます。能登半島の付け根には、大きな川がいくつもあります。西側では、手取川、東側には庄川、神通川、常願寺川など白山や飛騨の山並みに源流をもつ大河があります。一方、奥能登は奥能登丘陵と呼ばれる山地はありますが、河川はどれも急で短いものです。そのため、砂の供給源としては、不十分です。このような砂の供給源として、大きな川の有無が、砂浜のできるか、できないかの大きな原因となっていると考えられます。
 3つめの原因として、海岸の地形にも砂浜の成因と、密接な関係があります。つまり、奥能登には砂浜ができにくい理由があります。それは、奥能登が大地が上昇する(隆起といいます)という地殻変動を続けているためです。
 能登半島の隆起は、数十万年前からはじまり、現在も続いています。大地の隆起は、海岸段丘というものから推定することができます。海岸段丘とは、海岸沿いにできた階段状の地形です。つまり、もともと海の海岸線であったところ(汀線といいます)が、段丘の平らな面(段丘面)となます。その後、陸が急に隆起したり、海面が下がると、今までの平らな面が海水の作用で侵食され崖(海食崖)になります。それが、段丘の崖(段丘崖)となります。隆起が続いている地域では、高い位置にある段丘面ほど古い時代に形成されたものになります。
 12万5000年前の地球の温暖期に当たり、現在より3から6mほど海面が上昇していました。そのときに形成された段丘面は、能登半島の北端の折戸では、現在、なんと標高109mのところにあります。また、東海岸の九十九(つくも)湾では、標高49mのところになります。その後も能登半島は上昇を続けています。
 ただし、この隆起よりすごい変動が起こっています。1万3000年から1万8000年前の氷河期(リス氷期)には、130mも海面が下がりました。その後、氷期(ヴュルム氷期)が訪れ、そして現在の間氷期になります。ヴュルム氷期でも現在の海面より120mほど下がりました。その海面上昇は急激で、奥能登が隆起しているのにかかわらず、海面上昇が隆起を追い越してしまいました。そのため、山間部の地形である谷や尾根が、そのまま海岸線となってしまいした。このような海岸線を、リアス式海岸と呼んでいます。九十九湾はリアス式海岸の典型的な場所です。
 奥能登では、砂の供給が少ないとともに、このような隆起や海面変動によって砂浜の海岸ができるような平地がないため、より砂浜が少なく小さかったのです。
 近年、日本各地で、海岸の砂の流出が問題になっています。その原因のひとつは、河川の護岸によって砂が海に運ばれることが少なくなっているためです。実は、千里浜でも、砂の供給が少なくなって、侵食されはじめていることが問題になっているそうです。治水として川を護岸することが、実は思わぬところで、影響を与えていることになります。一方を守るために手を加えたことによって、別のところに被害を与えることがあります。自然は奥深いです。そのことを知ったからには、場当たり的な処置は注意が必要です。砂がなくなったから、別のところから持ってくるなどという愚かな対処をしないことを祈ります。能登では見かけませんでしたが、人工砂浜を見ると虚しくなるのは、私だけでしょうか。

・リフレッシュ・
北海道では、9月になっても、暑い日が続いています。
しかし、朝夕は涼しく秋を感じさせます。
私の大学は、まだ夏季休暇中ですので、
9月のこの時期が、一番仕事のできるときとなります。
私は、9月上旬には、いつも調査に出ることにしています。
そして、9月後半は論文をまとめるというパターンです。
ですから、これからは、論文を書くことに専念したいと思っています。
調査で頭はリフレッシュしたのですが、
本州の暑い中を調査したので、少々ばてています。
まあ、連休明けからがんばりましょうか。

・豪雨・
能登半島をめぐっているとき、激しい雨に会いました。
調査に出る直前に、集中豪雨のため、
本州各地で水害や土砂災害を起こしていました。
その二の舞かと思うほどの激しい雨でした。
車を走らせていると、前が見えなくなるような雨でした。
ですから、能登半島の調査は、
なかなか思うようにできませんでしたが、
雨は降り続けることなく、休み休み降っていたので、
その合間に調査を続けました。
もちろん断念した場所も何箇所もありますが、
雨ばかりはどうしようもありません。

2008-09-12

パノラマ:庄川



庄川中流域のパノラマ写真。

もとの画像は大きすぎてアップロードできませんでした。

パノラマ:永平寺


永平寺のパノラマ写真です。

パノラマ:九頭竜ダム


九頭竜川の九頭竜ダムのパノラマ写真です。

パノラマ:九頭竜湖


九頭竜川のダム湖のパノラマ写真です。

パノラマ:千枚田


石川県の輪島の北に千枚田というところがあります。
そこは、棚田が有名です。

2008-09-07

棚田

また、棚田を見た。
急峻な地域が多いためだろう。
今日は雨。時に、前が見えないほどの降りとなる。
それでも、予定通りのコースを進む。
もちろん、予定通りの調査はできなくて、困る。
天気だけは、如何ともし難い。

2008-08-15

44 然別湖:思い出と悠久の思い(2008.08.15)

 夏休みに北海道の十勝平野の北はずれの然別周辺を回りました。然別は、十勝平野を見下ろす火山でした。その山頂から、若かりし頃の思いに浸りました。

 今年の夏休みは、8月上旬に北海道の十勝に出かけました。今年の夏の北海道は快晴に恵まれ、抜けるような青空の中を旅行することができました。十勝平野の奥にあたる十勝川やその支流沿いを、うろうろと巡りました。
 家族は、避暑を兼ねて山間の温泉に浸り、名物を食事して、陶芸や熱気球、ベアマウンテンなど、夏を満喫するようなレジャーを楽しむのが目的でした。
 私には、二つの目的がありました。ひとつは、東ヌプカウシヌプリ(1252)か天望山(1174m)、白雲山(1186m)のいずれかに登りたいと思っていました。登山がダメでも、然別湖の湖畔の奥にある東雲湖まで歩きたいと考えていました。もし山に登ることができれば、南側に広がる十勝平野と北側に広がる然別湖、そして北側に広がる然別湖から石狩岳山系の山並みを見ることができるこしれません。
 もうひとつの目的は、大学生の時代に山小屋設立委員会という組織に参加して寄付を集めや山小屋建築に加わっていました。その山小屋が、東ヌプカウシヌプリの南東山麓にありました。大学1年生の時に、士幌町から提供を受けていた候補地から、最終的に山小屋を立てる位置を決定するために、その地を訪れました。その後、仲間とやぶこぎをして白雲山の頂上に立ったことを覚えています。2年生の夏には、山小屋建築の手伝いをしたあと、キャンプをして然別湖の東岸を歩いて回りました。
 然別は、私の学生時代の思い出の地ともいえます。2年生の秋に山小屋は完成したのですが、3年生の冬に友人と宿泊に行ったきり、その後は山小屋に行くこともなく、記憶から完全に抜けていました。今年は設立30周年にあたり、山小屋がどうなっているかを、チャンスがあれば見てみたいと思っていました。
 北海道の新しい時代(第四紀)の火山は、2つのグループに分けることができます。ひとつは、東北日本からつながる道南の西南北海道火山地帯です。道南の火山は、東北日本弧と呼ばれる地帯に属することになります。
 もうひとつは、千島列島からつらなる阿寒-知床火山地帯と、その延長で大雪山を中心とする大雪-十勝-然別火山地帯があります。火山のない地帯は、常呂帯が分布しています。こちらの火山は、千島弧と呼ばれる地帯に属します。
 西南北海道火山地帯と大雪-十勝-然別火山地帯の間の火山のない地帯には、礼文・樺戸帯と空知・エゾ帯があります。
 北海道の火山の分布の特徴は、日本列島の大きな地質構造を反映しています。日本列島の太平洋側の海底には、日本海溝と千島海溝があります。実はこれら2つの海溝は、襟裳岬の南東沖で折れ曲がっています。海溝とは、海洋プレートが沈み込む場所です。その沈み込む場所が折れ曲がっていれば、当然、陸地側にも影響があります。
 まず、北海道の火山の並びをよくみると、地帯ごとに火山の並びができています。その火山の並びは、海溝の伸びる方向と斜交しています。このような斜交している状態を、雁行(がんこう)状と呼びます。雁行とは、雁が飛んでいく時のできる編隊の形に似ていることです。このような雁行状の火山は、沈み込むプレートが、陸地に対して折れ曲がっているためにできた割れ目に、対応していると考えられています。
 また、火山地帯内の個々の火山は、海溝からの距離に応じて、化学組成(二酸化珪素SiO2に対する酸化カリウムK2Oや酸化鉄FeOなど)が変化していることもわかっています。
 これらのデータは、火山の位置やマグマの性質が、地下深部の地質構造を反映していることを意味します。
 さて、然別湖の周辺の山々ですが、その多くは、新しい時代の火山からできています。新しい時代の火山は、然別火山群と呼ばれ、大雪-十勝-然別火山地帯の最南端に当たります。東ヌプカウシヌプリ(標高1252m)、白雲山(1187m)、天望山(1174m)が然別火山群に属し、他にも、北ペトウトル山、南ペトウトル山、西ヌプカウシヌプリ(1256m)などもあります。
 然別火山群の火山をつくったマグマは、安山岩質で、溶岩ドームを形成してます。大小10個の溶岩ドームが見つかっています。東雲湖や東ヌプカウシヌプリと西ヌプカウシヌプリの間にある駒止湖、白雲山の南から西の切れ込んだ斜面は、爆裂火口の跡です。然別火山群の南のなだらかな麓は、古い溶岩ドームが崩れた火砕流堆積物や岩屑なだれ堆積物が広がっています。また岩砕なだれ特有の流れ山の地形もみられます。
 活動の時代は、南ペトウトル山(31万年前から)や北ペトウトル山(22万年前から)などの然別湖の西側にある火山が活動をはじめ、南側の火山に活動が移ります。南側の火山活動をはじめる前に活動した瓜幕軽石流堆積物の年代測定(14Cによる放射年代)は、3万1920年前より古いことがわかっています。その後、ドームを形成する火山活動が起こります。そして、白雲山がもっとも最近の火山活動となります。
 然別湖は、これらの火山活動によって、然別川の支流のヤンベツ川がせき止められてできた堰止湖になります。然別湖の西岸を巡る道路は、然別湖から下るときは、ヤンベツ川から離れ、西ヌプカウシヌプリの山腹をめぐるように進みます。その道路わきに、展望台があります。そこから眺める扇ヶ原のなだらかな斜面、そしてその先には十勝平野が広がっています。このなだらかな斜面が、激しい火山活動によってできたものです。
 東ヌプカウシヌプリの麓には、士幌高原ヌプカの里という施設ができていました。そこを見学するために、車で斜面を登っていきました。その途中にチセフレップという看板を見つけました。
 チセフレップとは、私が学生時代に設立に参加した山小屋の名前でした。今も大学の恵廸寮の後輩たちが守って、利用していました。ヌプカの里にいった帰りに、チセフレップの山小屋に立ち寄りました。改装中で足場が組まれていましたが、見覚えのある赤い三角屋根を見ることができました。もう帰る時間だったので、長居はできませんでしたが、懐かしい思いに浸ることできました。
 然別の山の頂上から、若かりし頃の思い出と、大地の悠久の思いを感じてしまいました。

・裾野・
十勝平野と火山の堆積物の交わる付近に
瓜幕の町があります。
自衛隊の駐屯地があり、
扇ヶ原は自衛隊の演習場となっています。
私が訪れた時は演習は行われていませんでしたが、
周辺の道を走っていると、
自衛隊の車両にたくさんあいました。
演習場があるため、
山の裾野を巡る道路は分断されています。
そのため、大きく迂回をしなければなりませんでした。
時間に余裕があったので、
然別の周辺をいろいろ巡ることができました。

・白雲山・
白雲山に最終的に登ったのですが、
当初は東雲湖まで湖畔沿いの平坦な散策道を
歩く予定でいました。
ところが、生い茂る木で展望もよくなく、
あまり面白くない散策で少々私は飽きていました。
途中で、白雲山に登る分かれ道があり、
そこで休息していました。
ちょうど、その時、白雲山から下山してきた夫婦がいました。
まだ、朝10時頃だったので、簡単に登れそうだと思い、
急遽登山をすることにしました。
ところが、この登山道は、踏み後ははっきりしているのですが、
手入れがあまりされておらず、
クマザサが覆いかぶさるように茂っていました。
家内はバテ、次男がクマザサに悩まされながらも、
いまさらこんな道を戻るのはいやだという思いで、
皆頂上に立つことができました。
苦労の末の登頂だったので、その感激は皆ひとしおだったようで、
疲れてはいましたが、眺望を楽しみました。
子どもたちは、山頂が岩山だったので、
疲れも忘れて岩登りをして遊んでいました。
元気なものです。
どれくらいかかるか分からなかったので、
昼食できるような軽食と十分な水や飴玉を
用意していたので、無事下山してきました。
帰りは、正規の整備された登山道を降りてきました。

2008-07-15

43 三方五湖:年縞の記録(2008.07.15)

 三方五湖は、福井県の中央に位置しています。若狭湾国定公園の一部ともなっています。静かな湖底の堆積物には、長い環境の記録が残されていました。

 今年の春休みに、福井県に行きました。その時、三方五湖を訪れました。私は京都生まれなのですが、小さい頃に日本海側にいった記憶ありません。その後、日本海側をみる機会がいくつかありました。一つは、大学院と研究員のときに鳥取に5年間住んでいたことから、日本海側の山陰はいろいろ見て回っていました。また、博士課程での研究テーマに関係する野外調査で、京都府から福井の西側の一部は、歩き回っていました。しかし、福井県の中部から東部にかけては、いった記憶がありせん。もちろん、北陸へあるいは敦賀港(フェリーを良く利用したため)から移動するためために通過したことがありますが、じっくりと見て回ったことがありませんでした。そこで今回の旅で、福井県を見て回ることしました。
 見たいところとしては、大島半島と若狭蘇洞門(そとも)、三方五湖がありました。大島半島ではオフィオライト(地球のささやきというエッセイで紹介しました)を、蘇洞門では花崗岩とその柱状節理を見るつもりでした。しかし、大島半島は激しい雨でみることができず、蘇洞門も天候不良(フェリ欠航)と冬季間の通行止めで、いずれも見学することができませんでした。
 残されたものは、三方五湖です。天気は、風が強く肌寒かったのですが、周辺とレインボーラインを巡ることができ、5つの湖を見ることができました。
 三方五湖とは、三方地域にある5つの湖という意味です。三方とは、三潟とも書かれていて、三つの潟のあるという意味でつけられました。古くからこの地域は、三方郷として知られていました。万葉集の7巻にも、
 若狭なる 三方の海の 浜清み 
 い往き還らひ 見れど飽かぬかも(作者不明)
という歌が残されています。三方は、古くから知られた有名な所だったのです。
 三方郡三方町は、2005年3月31日に、三方郡三方町と遠敷郡上中町が合併して若狭町となりました。三方町はなくなりましたが、三方上中郡を新設され、三方の名称は残りました。
 5つの湖とは、三方湖、水月湖、菅(すが)湖、久々子(くぐし)湖、日向(ひるが)湖です。配置は、日本海に面して、東に久々子湖(周囲7.0km、最大水深3.0m、面積2.25km2)、西に小ぶりの日向湖(周囲3.6km、最大水深38m、面積0.92km2)があります。その南側に水月湖(周囲9.85km、最大水深38m、面積4.06km2)、それに小さく東に寄り添うように菅湖(周囲4.2km、最大水深14.5m、面積0.95km2)があります。水月湖のさらに南側に三方湖(周囲9.6km、最大水深2.5m、面積3.45km2)があります。三方湖、水月湖、菅湖の3つは、もともとつながっています。
 久々子湖と日向湖は、海と細い水路でつながっています。久々子湖の水路は満潮のときだけ、海水が逆流するため、汽水(海水と淡水が混じった状態)となっています。日向湖は完全な海水です。
 その以外の3つの湖は、海からは完全に切り離されていました。しかし古くからこの地域の人々は、治水や耕作のために、この湖に手を加えていました。1662年から開削された浦見川によって、水月湖と久々子湖はつながりました。1751年には、嵯峨隧道の開通によって水月湖と日向湖がつながりました。また、1860年に、菅湖と三方湖とは「堀切」で人工的につながれています。そのため水月湖と菅湖は、汽水になりました。いくつかの水路と湖を経ていますが、海とつながっているはずの三方湖ですが、現在でも淡水のままで、コイやフナ、ワカサギなどとが獲れるそうです。
 古くから人が、手を加えてきた三方五湖ですが、その自然は破壊されることなく、人々が暮らしの中で守ってきました。その結果、北西に伸びる常神半島と三方五湖周辺地域は、1937年6月15日に名勝「三方五湖」として国の指定を受け、1955年6月1日には若狭湾国定公園に指定され、2005年11月8日にラムサール条約指定湿地に登録されています。
 三方五湖は、地球の環境変化を記録していることがわかってきました。その記録は、湖底の堆積物の中にありました。三方湖と水月湖が、重要な役割を果たしています。
 1980年に三方湖の湖底にたまった堆積物をボーリングして調べることが行われました。三方湖には、はす川という比較的大きな川があります。その川が堆積物を運んでくるため、堆積物がたまって三方湖は比較的浅くなっています。水月湖の最大水深38mもあるのに対し、三方湖の最大水深は2.5mしかありません。これは、河川の囲んでくる堆積物の量を反映しています。他の湖には小さな川があるのですが、大きなものはなく、堆積物を運んでくる機構がないので、湖底にたまる堆積物が少ないのです。
 水月湖は、湖水の上部(水深0~6m)が淡水となり、下部(水深7~40m)汽水となっています。しかし、下部の汽水には生物がほとんど棲んでいません。それは、下部の水が無酸素状態になっているためです。
 水月湖には、大きな川のある三方湖からは淡水が入ってきます。一方、水路によって久々子湖からは汽水が流れ込みます。淡水に比べ海水を含む汽水は密度が大きく、底にたまるようになります。密度の違う水が2層に分かれた状態では、表層の淡水が風などで波立ったとしても、表層だけが混ざり、湖底の汽水の部分はたまったまま、混ざることがありません。そのような状態が長く続くと、空気に触れることなく、有機物が分解していき湖水中の酸素をすべて使ってしまいます。そのため、生物がほとんど棲めない無酸素の水となります。2006年時点で、下部の湖水は、硫化水素を含む無酸素状態となっているそうです。
 周りの影響を受けずに、湖の環境だけを調べるためには、三方湖より水月湖の方が、適しています。それは、土砂の流入が少ないので、ひとつひとつは薄い堆積物になりますが、短いボーリングでより多くの時代の堆積物を得ることができるからです。また、無酸素で生物が棲めないために、薄い堆積物が、乱されることなく保存されます。
 そのような穏やかで土砂の流入が少ないところでは、湖の四季の変化が、堆積物に記録されていきます。春から夏まで、湖の表層にすむプランクトン(珪藻)が繁殖して、その遺骸が湖底にたまり、白っぽい堆積物が形成されます。秋から冬には、プランクトンの活動は衰え、細かい黒っぽい堆積物(粘土鉱物)が堆積します。白と黒で1年分となります。長年同じ状態が続くと、白黒の縞模様が堆積物が形成されていきます。これは、木の年輪のように、縞模様から年を数えることができます。このような年毎の縞模様を、年縞(ねんこう)と呼んでいます。
 1991年と2006年に、水月湖の湖底でもボーリングがおこなわれました。その結果、三方湖のボーリングで5万年間の記録だったのですが、水月湖では世界で最も長い年縞の記録である15万年分の堆積物が得られました。これらの年縞を詳しく調べることによって、地球の環境変化が読み取ることが可能となります。現在研究が進められています。
 地道な調査研究から、三方五湖のでき方がわかってきました。
 古い時代から、そして現在も活動している三方断層が、三方五湖の東縁にあります。この断層がいつできたかは分かりませんが、30万年前には、今より海水面が20mほど高くなり、断層の沈降部に海水が張り込み湾となりました。そして少なくとも15万年前には、水月湖の湖底に堆積物がたまり始めました。
 約2万年前の氷河期に、日本海の海面が100m以上も低くなり、断層のくぼ地に淡水がたまり湖となりました。これが三方五湖と始まりです。当時の三方五湖は、海岸から遠く離れた内陸の湖でした。5000年前くらいの縄文時代前期には、海面が現在より3~5mほど高くなり、三方湖は、水月湖と菅湖がくっついて一つとなった大きな湖で、北の湖の部分は湾として海とつながっていました。
 その後海面が下がりましたが、久々子湖はまだ大きな入江でした。三方五湖の東で海に注ぐ耳川が運ぶ土砂が、海流で運ばれて入江にたまり、入口がほとんどふさがれました。1500年前には、今と同じように久々子湖は、細い水路で海とつながっている状態になりました。そのような長い時間の経過を経て、現在の三方五湖ができてきました。
 三方五湖には、少ないながらも堆積物が、今も、川から運ばれ続けています。ですからこれからも、湖には堆積物はたまり続けることでしょう。時間の差はあるでしょうが、三方五湖が浅くなり続けることを意味します。それが周辺にどのような環境変化をもたらすかは、まだ分かりません。今の環境も、ある時間での環境の一断面に過ぎないのです。

・夏風邪・
発行が少し遅れました。
それは、体調不良のためです。
先々週の末に、夏風邪をひいてしまいました。
だんだん病状は悪化し、ひどく咳き込むようになりました。
あまりひどい咳で夜も寝れないほどです。
咳止めも種類を換えたのですが、あまり効果がありませんでした。
今週になって風邪の方は治まったのですが、
ひどい咳のために、筋肉痛から腰痛に発展して、
身動きが不自由になりました。
今まだ不調なのですが、授業あるので、
なんとかがんばって出てしました。
授業が終わったら、昨日に続いてマッサージに出かけます。

2008-06-15

42 仏ヶ浦:青と白と緑の絡み合い(2008.06.15)

 下北半島の西はずれの海岸に、奇岩が続く海岸があります。仏ヶ浦と呼ばれ、景勝地として名高いところです。しかし、思ったほど観光化されていませんでした。そんな仏ヶ浦で考えました。

 青森県、下北半島の西はずれに、断崖絶壁がつづく海岸があります。断崖の海岸にも、少しばかりの浜辺があります。しかし、人家はありません。そんな海岸線なら日本のいたるところにあるのですが、仏ヶ浦は少々変わっています。その景観が、この世のものとも思えないような、不思議な光景でした。仏が住むようなあの世を思わせるような景観です。狭い浜辺の断崖に紛れるように神社が造られています。この光景には昔の人も見せられたらしく、詣でる人がいるわけです。しかし、かつては、地形が急峻なこと、交通がないこと、地元の人しかしらないような秘境のようなところでした。
 1922(大正11)年9月に、この地を訪れた文人で紀行家の大町桂月は、
「神のわざ 鬼の手つくり仏宇陀 人の世ならぬ処なりけり」
という歌を残しました。仏宇陀とは、仏ヶ浦のことです。大町桂月がこのように仏ヶ浦を紹介したことによって、全国に有名になりました。今では、大町桂月のこの歌が歌碑として仏ヶ浦に建てられています。
 仏ヶ浦は、1934年には青森県天然記念物に、1941年4月23日には国名勝および天然記念物に、1968年には下北半島国定公園に、1975年には周辺の海域が仏ヶ浦海中公園に指定されています。2007年に、仏ヶ浦は日本の地質百選に選定されました。ですから、この景観は人々の注目を集めていたのでしょう。
 これほど有名な観光地でありながら、仏ヶ浦へのアプローチが不便で、思ったほど観光客が多くありませんでした。陸路は、車で直接いける道がなく、断崖の上にある道路から急な階段を下りていくしか(もちろん返りは登りになります)ありません。しかし、1991年に、観光船が接岸するための小さな桟橋(仏ヶ浦港)が仏ヶ浦に建設されました。この仏ヶ浦港によって、北側の佐井港か、南側の牛滝漁港から観光船によるルートができました。観光バスが横付けできないので、仏ヶ浦を見学するには、時間がかかることになります。そのせいもあって、有名なわりには観光客が少ないのかもしれません。
 私は、昨年夏、家族でこの地に出かけました。むつ市内から車で来たので、一番近い牛滝から行くことにしました。地図を見ると、佐井港は仏ヶ浦から遠く、牛滝漁港はすぐ近くにあります。ですから、迷うことなく、牛滝漁港から船で仏ヶ浦へ向かうことにしました。行く時の船は、私たちの家族だけの貸しきり状態で、快適な船旅でした。海路は快適で、2kmほどに渡って続く白っぽい侵食された岩石の断崖が見ながら、15分ほどで仏ヶ浦に着くことができました。
 仏ヶ浦の不思議な光景は、海岸の切り立った崖が、波や流水によって浸食を受けた結果です。雲の形のように侵食されたタフォニとよばれるものや、流水によると思われる縦にすじがたくさん入った侵食地形、海の波の浸食による崖(海食崖ととよばれます)など、さまざまな侵食地形がみることができます。
 浸食され切り立った地層になるのは、地層を構成する岩石が脆いことを示しています。岩石は、白から緑白色で、場所によっては緑色を帯びることから、グリーンタフ(green tuff、緑色の凝灰岩という意味)と呼ばれているもので、もろい岩石となっています。
 下北半島の西部は起伏の多い山地の地形となっています。この山地は、奥羽山地の北方延長に位置しています。新生代以前の古い地層や花崗岩類が基盤としてあり、その上を新生代のネオジン(新第三紀と呼ばれている時代)の地層があります。さらにその上に第四紀に活動した火山岩や火山砕屑岩が覆います。
 仏ヶ浦周辺の地層は、中新世古期から中期の檜川層と呼ばれるもので、その上に中新世中期から新期にかけて活動した中性から酸性マグマ(安山岩からデイサイトマグマ)に由来するの火山砕屑岩が分布しています。これらの火山砕屑岩がグリーンタフと呼ばれ、仏ヶ浦の海岸線をつくっているものです。
 下北半島の中新世の火山活動は、日本列島の日本海沿岸の広域に起こった一連のもので、グリーンタフ変動と呼ばれているものです。グリーンタフ変動は、本エッセイでも、一ノ目潟(33回)や東尋坊(40回)などで出てきたものです。新生代後期の日本海側の地質の特徴を語る時に、避けては通れない重要な地質の営みです。グリーンタフの火山活動の多くは、陸上だけでなく海中で起こり、火山岩やその水中の火山砕屑岩などとともに、堆積岩も出ることがあります。
 仏ヶ浦の奇岩類も、日本列島を特徴付ける活動の一つだったのです。
 むつ市内からの仏ガ浦までルートとして、国道338号から県道46号を経て川内湖をへて再度国道338号をいきました。しかし、この国道338号は、アップダウンが激しく、くねくね道で、一車線のところも多く、非常に時間がかかる道でした。多くの観光客は、アプローチのいい佐井港から高速観光船でいくようです。それを私は事前に知りませんでした。
 悪いことばかりでなく、時間がかかりましたが、人のあまり使わないルートでした。多分、交通が今ほどよくなかったときは、観光客もこのルートで来たのでしょう。その同じコースで見学することになったのです。いくら時間がかかるとはいえ、半日で見ることができるのです。また、小さな漁船が定期的に運航しているので、好きなだけ仏ヶ浦に滞在することができました。返りたい時に、もし船が来ていなければ、連絡すれば来てくれます。帰りは、もう一組の老夫婦と一緒になりましたが、それでもガラガラの状態でした。
 私が仏ヶ浦に行ったときは、曇っていましたが、仏ヶ浦の断崖とともに、海の色がすごいでした。そして、仏ヶ浦の景観をより際立たせているのは、海の青さではないかと思いました。さまざまに濃淡を変える海のブルーが、白ややや緑を帯びた崖をより一層映えさせていました。仏ヶ浦は、青と白と緑が絡み合っているところでした。

・強烈な思い出・
下北半島には、むつ市で2泊しました。
実質は一日半ほどて見学することになっていました。
初日に半日かけて恐山を見学したので、
2日目は、下北半島を一周する予定でした。
時計回りに可能な限り海岸沿いを見学しながら行くつもりでいました。
仏ヶ浦、大間(昼食でマグロを食べる)、尻矢崎など見て、
一周できればと思っていました。
ところが、大間に着いたのは、1時をかなり回っていました。
子どもたちは、大間でマグロ食べるのを楽しみにしていたので、
探し回って、大間のマグロを食べさてくれるところを見つけて
何とか昼食にありつけました。
今回は、地図と現実の交通とは一致しないので、予定が狂いました。
しかし、おかげで仏ヶ浦は強烈な思い出となりました。

・実習・
北海道も初夏になって来ました。
本州は梅雨にはいっているようですが、
蒸し暑い日が続いているのでしょうか。
北海道は梅雨がなく心地よい爽快な日々が続いています。
もちろん雨の日もありますが、蒸し暑いことはありません。
この時期、大学では淡々とした授業が続くのですが、
その授業の中に近所の子どもたちを集めて、
行事を企画するという実習があります。
その実習のリハーサルが今週土曜にあり、来週が本番となります。
40名ほどの子どもがきて、その子どもたちが楽しみながら、
学ぶことができるかどうかが、重要なところです。
さてさて上手くいくのでしょうか。

2008-05-15

41 ニセコ:冬と夏の共存(2008.05.15)

 ニセコは、今や外国人観光客で賑わいをみせています。そのため、ペンションがあちこちにあり、ゴールデンウィークの直前でも、探せば空きが見つかりました。そこで家族でニセコにでかけました。

 皆様は、ゴールデンウィークをどう過ごされたでしょうか。自宅で過ごされた方、街に出られた方、旅行に出られた方もおられることでしょう。私は、ニセコに家族で旅行にでかけました。
 ニセコは、海外の方、特にオーストラリアからの観光客が多数来られるようになりました。ニセコは「ニセコ積丹小樽海岸国定公園」に指定されているため、観光が主要な産業です。特に冬は、良質のパウダースノーを売り物にしたスキー場がニセコの山に裾にいくつもあります。日本人のスキー離れが進む中、外国からのスキー客を誘致に成功しました。
 平成20年4月末現在、ニセコの人口4671人(世帯数2100)のうち、外国人の方は54名(世帯数39)で、1%ほどの比率になります。北海道の小さな町で、外国人の占める比率が、かなり多いように感じます。外国人観光客の増加によって、観光産業自体の国際化で、ネイティブスピーカーの現地ガイドの重要が増してきているためではないでしょうか。
 ニセコに外国人が定住するということは、ニセコでは夏もレジャーに関わる仕事があるということです。豊富な水量ときれいな水をもつ尻別川を利用したラフティングやカヌーのような川遊びや、登山、トレッキングなども人気があるようです。特に雪解け水で増水した川でのラフティングは人気があるようです。
 海外からの観光ブームのためでしょうか、日本人観光客もかなり増えているように思えます。観光スポットは非常に多くの観光客があふれています。有名なところは、広い駐車場が満杯になるほどの混雑でした。ペンションも多数あります。ペンションの過度競争なのでしょうか、ゴールデンウィークでも空き室ができるほど空いてました。
 さて、私がニセコに行った理由ですが、家族サービスという目的はあったのですが、火山としてのニセコを見ることでした。今回のエッセイで取り上げるつもりでいたのです。ニセコには、何度も来ていますが、春のニセコには来たことがありませんでした。そこで、今回、ゴールデンウィークに出かけることにしました。
 スキー場としてニセコは有名で、山自体の姿は、それほど取りざたされることはありません。すぐ隣にある羊蹄山が、富士山のようにきれいな姿を見せているかたらかもしれません。しかし、私は、秋に来た時の紅葉のすばらしさと、温泉のイオウの匂いと共にニセコが記憶に残っています。
 ニセコはいくつもの火山からできています。成層火山の羊蹄山より、規模が大きく、東西に延びています。東西25km、南北15kmに広がります。東には、ニセコ火山群で主峰であるニセコアンヌプリ(1308m)があり、西は日本海に突き出すようになっています。
 非常に古くから活動してた火山で、雷電山、ワイスホルン、目国内岳(めくんないだけ)、岩内岳(いわないだけ)は、侵食によって火山の地形が不明瞭になっています。最初に雷電山、続いてワイスホルンが、200万~150万年前に活動を始めました。これ以降、西から東へ、火山活動が移動していきます。目国内と岩内岳が、150万~100万年前に活動していきます。白樺山、シャクナゲ岳が100万~50万年前に、そしてニセコアンヌプリが活動します。
 はじまった順に、火山活動も停止していきます。雷電山は100万年前に、岩内岳は50万年前、白樺山とシャクナゲ岳は30万~20万年前に、ニセコアンヌプリは20万年前に活動を停止します。
 その後、10万年ほど火山活動の記録は見当たらず、約10万年前に、再びチセヌプリが活動を始めます。そして、イワオヌプリがいちばん新しい火山で、2万~1万年前に活動を始めます。イワオヌプリでは、溶岩ドームを形成して、一部が崩壊して火砕流を発生したこともあります。
 最後の溶岩ドームの活動によって形成された火山噴出物(降下スコリア)直下の土壌で約6000年前の噴火年代が得られ、羊蹄火山灰層に覆われています。そのことから、約6000年前にイワオヌプリでマグマが噴火したのが最後の活動とされています。しかし、北海道大学の中川光弘教授によれば、マグマ噴火の6000年前より新しい時代の溶岩ドームがあるかもしれないという指摘がなされています。
 その理由は、新しい複数の爆裂火口があること、そして現在も噴気活動が続いていることから、まだ火山の活動は終了していないと考えられています。現在ニセコは、活火山に指定されています。活火山の定義は、1万年以内に噴火の記録のあるものですが、イワオヌプリはそれに相当します。
 ニセコの火山は、どうも休み休み、ゆっくりとした活動を繰り返してきたようです。そして複数の火山が同時進行で噴火をしてきたようでもあります。しかし、今のところ噴火の兆候はみられませんが、活火山として注意はしておく必要があります。
 5月初旬のニセコは、麓では春の花が咲き始めていました。ニセコアンヌプリのような高い山の頂部には、まだ雪がいっぱい残っています。ですから、高い山のスキー場はまだオープンしていたようで、春スキーを楽しんでいるスキーヤーがいました。スキー場のリフト乗り場の駐車場は車で、一杯でした。
 ニセコは、活火山ですので、温泉もあちこちにあります。私たちはペンションに2泊しましたが、1泊目はニセコ駅前にある温泉に出かけました。ニセコの温泉は、火山の恵みです。旅行に出かけて、いろいろな温泉に入るのは、大いなる楽しみになります。
 天気は良く、暖かい日でしたが、かげると肌寒いし、とても川に入る気のしない気候です。ニセコを廻っている途中に尻別川を何度か渡ったのですが、ラフティングのボートを何艘もみました。かなりの水量の中を翻弄されたボートが進んでいきました。皆ウエットスーツを着ていましたが、大勢の人たちが、川くだりを楽しんでいました。私は、尻別川に入るよりは、温泉に入りたいものです。
 山頂は雪が残っていますが、麓は花の季節を迎え、川遊びがはじまっていました。ニセコの春は、冬と夏が共存していました。

・開通・
最初、ニセコに出かけると決めた時、
家内の友人は、スキーですかとたずねたそうです。
この時期にスキーができるのは、
雪の量の多い、高い山で、ニセコがそれに当たっていました。
私は、五色温泉を通り抜ける道を行きたいと考えていました。
スキーがまだできるようなら、そのコースは無理かなと思っていました。
そのコースは、道路マップによると、冬季閉鎖となっていました。
しかし、ペンションの主人に聞いたら、
もう開通しているというので、ほっとしました。
その結果、ニセコアンヌプリを一周することができました。

・家族サービス・
ニセコへは、札幌から小樽経由で行きました。
渋滞はしていませんでしたが、
連休の初日でしたので、多くの車があり、
北海道の郊外ではめずらしく車が数珠つなぎで走っていました。
まして、ニセコは観光地ですから、
観光の名所には、多くの観光客が詰め掛けています。
特にアイスクリームとケーキで有名なところは、
駐車場が満杯の盛況でした。
私たちも、そこに半日いました。
子供たちと妻が、ガラスのトンボ玉を作ることと
アイスクリームを食べることにしていたので、
昼食をはさんで半日いました。
本当はアイスクリーム作りもしようかと思ったのですが、
屋外でおこなうので、風が肌寒かったので、あきらめました。
帰りは渋滞避けるために、美笛峠から支笏湖に抜ける道にしました。
その日は雨でしたが、移動日だったので、事なきを得ました。
滞在中は、天気はよかったので、家族サービスとしては
いい旅行となりました。

2008-04-15

40 東尋坊:節理の隙間から(2008.04.15)

 福井県の東尋坊は、日本でも有数の観光地のひとつです。海に面した断崖絶壁をつくる節理が、見事なことから、多くの観光客を集めています。そんな節理の隙間から、想いを巡らしました。

 春休みに、京都から福井の日本海沿いを訪れました。その目的地の一つとして東尋坊がありました。東尋坊は、越前加賀海岸国定公園の一部です。また、東尋坊周辺は、国の天然記念物及び名勝にも指定され、2007年には日本の地質百選に選定されました。非常に有名な観光地なので、訪れたことがある方もおられるかもしれません。海岸に切り立った断崖絶壁として、テレビのサスペンスドラマのロケ地によく使われるので、画面で目にされている方も多いかもしれません。
 同じような海岸の景勝地は、東尋坊だけでなく、周辺にも点々と見かけられます。そのいくつかは、柱状の岩石が不思議な景観をつくっています。今回は、この不思議な岩石の割れ目である節理を見ていきましょう。
 日本は火山の多い国です。現在活動中の活火山は100座以上あり、どの都道府県にも、活火山がありそうですが、活火山の分布をよくみると、福井県には活火山はありません。それは、幸いなことなのか残念なことなのかはわかりませんが。
 福井県の近くには白山という活火山がありますが、石川県と岐阜県の県境にあり、福井県内ではありません。新時代(第四紀)の火山としては大日山(福井・石川県境)がありますが、日本でも珍しく、火山が活発な地域ではありません。
 しかし、福井県内には古い時代の火山があります。過去の火山は、火山岩があるかどうかで調べることができます。福井県では、あちこちで火山岩が見つかっています。時代を問わなければ、日本で火山と関係していない都道府県はないのではないでしょうか。
 東尋坊は、見事な柱状節理が海岸に面して林立しています。その節理の面が、断崖絶壁となっています。柱状節理は、マグマが固まる時にできる岩石のつくりの一種です。ですから、東尋坊の柱状節理は、マグマに由来していることになります。東尋坊も、過去の火山活動によるものです。
 柱状節理のできかたですが、マグマが固まる時に液体から固体に変わるとき体積が減ります。マグマが冷える方向に対して垂直に割れ目ができ、多くは六角柱状、時には五角柱状の割れ方(節理のこと)になります。なぜ、六角柱状になるのかは、まだはっきりしていませんが、冷える時の熱の流れが関係していると推定されています。節理のできる方向は、マグマの冷え方を反映していることは確かです。節理の方向を丹念にたどると、マグマが流れた方向を推定することができます。
 東尋坊のつくったマグマは、安山岩質のマグマで、東尋坊安山岩と呼ばれています。この安山岩をよく見ると、何種類かの大きな結晶(斑晶(はんしょう)と呼ばれています)と、顕微鏡でかろうじて確認でできるほど小さな結晶が集まった部分(石基(せっき))があります。石基は、肉眼では淡い緑色から暗い灰色に見えます。斑晶は斜長石と輝石(紫蘇輝石と普通輝石)がらできています。斑晶の斜長石は白っぽく、輝石は濃緑色にみえます。全体として灰色の岩石に、白黒のごま塩状のつぶつぶが見えます。学術的には、紫蘇輝石・普通輝石安山岩と呼ばれています。この安山岩は特別なものではなく、日本ではごく普通にみられる火山岩です。
 東尋坊のマグマは、新生代の中新世中期(放射性年代測定では1270万年前)に活動したもので、先に海底にたまっていた地層(米ヶ脇層(こめがわきそう)と呼ばれています)に貫入しました。貫入してきたマグマは、鏡餅のような形でたまり、そのまま冷え固まりました。現在は、その鏡餅の半分が波で侵食されて、柱状節理がむき出しになり、東尋坊の見事な景観を形成しています。
 さて、この中新世という時代ですが、日本海沿岸で、多くの地域にわたって火山活動が起こった時期になります。火山活動の多くは、海中で起こり、火山岩とともに堆積岩も見つかることがあります。この時代のこれら地域の火山岩やその砕屑物の多くが、緑っぽい色をしていることから、グリーンタフ(green tuff、緑色の凝灰岩という意味)と呼ばれています。時代と地域を限定されているため、それらの岩石を生み出した活動を総称して、グリーンタフ変動と呼ばれることがあります。
 グリーンタフ変動とは、何を意味しているのでしょうか。実は、日本列島の形成において、重要な役割を果たしていることがわかってきました。
 日本列島は、昔からずっと列島として存在したのではなく、中新世以前は、大陸の端にくっついて存在していました。中新世になって、大陸の縁に巨大な裂け目(リフトと呼ばれます)ができました。その裂け目は現在アフリカ大陸に見られる大地溝帯のようなものだと考えられています。その割れ目に沿って、激しい火山活動が起こりました。
 割れ目の拡大と共に、海水が浸入してきました。それが今の日本海の始まりです。完全に大陸から切り離された陸地は、日本列島の始まりとなります。東北日本は、激しい火山活動をしていましたが、中新世にはまだ陸化しておらず、ほとんど海底での活動でした。鮮新世になると、陸化しはじめてきました。
 西南日本では東北日本ほど激しい活動ではありませんでしたが、日本海周辺での火山活動が多くの場所でみれます。東尋坊の火山活動も、グリーンタフ変動の日本海形成に伴う火山活動だと考えられています。比較的穏やかな火山活動とはいっても、人間にとっては、日本でも有数の雄大な景観を思わせるのです。
 私が、東尋坊を訪れたのは、時々小雨の降る、風の強い、肌寒い日でした。絶壁の端っこに立つと、足がすくむような思いがします。それでも怖いもの見たさでしょうか、多くの観光客が、断崖の端に立っていました。私は、もしそのとき風が吹いたら、もし足が滑ったら、もしバランスを崩したらなどと考えると、とても端に立つことなどできませんでした。
 私のそのような「恐れ」の気持ちは、小さな人間が持っている取るに足らないものかもしれません。地球の時間の流れからすれば、東尋坊の断崖絶壁もやがては、移ろい変化するものです。しかし、節理という何もない隙間から読み取れるマグマの物語があるように、小さな人間の「恐れ」の気持ちは、大地の偉大さを無意識に読み取ってものかもしれません。そんな見えない物語を、私は、節理の隙間から眺めていたのかもしれません。

・候補地選び・
この月刊のエッセイは、今まで、北海道と
それ以外の地域(北海道の人は内地と呼びます)を
交互に繰り返しながら書いてきました。
私が、北海道に住んでいるから、それが適切なやり方だと思っていました。
しかし、今回から、その順番を守らないことにしました。
その理由は、北海道内は、出かけることも多いのですが、
ワンポイントである地域を見に出かけます。
ですから、一回のエッセイのネタにはなりますが、
6回分書くには、長期に旅行をするか、何度も旅行するかになります。
近くなら何度もいけますが、遠くとなるたとえ北海道内とはいえ、
多くの日数を費やします。
ところが内地なら、長期の旅で、何箇所も見学することになります。
主に海岸沿いですが、現在研究の一環として、
長期計画ですが、日本列島の多くの地域を訪れる計画をしています。
そのため、年に1度か2度は、長期の内地旅行にでかけています。
ですから、内地のネタであれば、それを何回かに分けて書けます。
今回の京都から北陸の旅も、あと2回書く予定をしています。
以上のようなわけで、今後このようなパターンで
エッセイを続けていきますので、ご了承ください。

・グリーンタフ・
グリーンタフというのは、地質学者が野外で岩石を呼ぶときに用いた
一種のニックネーム(フィールドネームといいます)から由来しています。
ですから、グリーンタフ変動に含まれる岩石が
すべて緑色っぽいかというと必ずしもそうではありません。
グリーンが少ないものだってあります。
東尋坊の安山岩も緑色ではなく、灰色です。
グリーンタフの岩石は、もともと緑色の岩石であったのではありません。
岩石を構成している輝石や角閃石などの鉱物が、
海底で熱水による変質のため粘土鉱物(緑泥石などの緑色の鉱物)に
変化したものです。
今では、グリーンタフが海底火山として誕生したこと、
さらにそれが日本列島の誕生に深く関わっていたことがわかってきて
その重要性は増してきました。

2008-03-15

39 竜串:地層の串刺しを目指して(2008.03.15)

 黒潮に洗われる四国西南端の足摺岬の付け根に竜串ということろがあります。竜串では、隆起した海食台があり、地層をよくみることができます。そんな地層を串刺しにするつもりで調査にいきました。

 2007年9月に四国の南西にある竜串というところに行きました。竜串の近くの「見残し」というところとともに、奇岩からなる海岸として、観光地になっています。竜串の名称は、地層の並びが竜を串差しにしたように見えるためだという説があります。私は、航空写真も見ているのですが、そうは見えません。
 海岸の地層は、非常に整然ときれいに露出しています。北東-南西に伸びて(北から東へ約60度)、西に約60度の傾斜した地層となっています。それが、竜のうろこのように見えるのかもしれません。
 竜串や見残しは、このような整然とした地層がさまざまな形態を持っているので、名所となっているのす。竜串は、高知県の足摺岬の付け根付近にあたり、土佐清水市にあります。
 竜串は、駐車場から歩いていけますが、見残しは竜串から船を利用するか、半島の尾根からかなり歩いて降りるしかありません。年間80万人も観光客が訪れている足摺岬と比べると、竜串はその5分の1ほどの観光客しか訪れません。まして、アクセスの悪い見残しは、さらに少なくなります。しかし、観光客が訪れないから、面白くないかというとそうではなく、私にとっては足摺岬より竜串や見残しのほうがずっと興味深いものでした。
 そもそも私が竜串を訪れたのは、地層調査をするためでした。とはいっても、一般的な地質調査ではなく、調査法の開発を目的としていました。デジタル画像でもれなく詳細に地層を記録する方法を考案して、それを検証するためでした。そのために典型的な地層の出ている場所を探していました。愛媛県西予市城川町の地質館でおこなっている仕事もあったので、四国西部で探していたところ、竜串が候補に上がったのです。
 竜串や見残しは、足摺宇和海国立公園に1972年11月10日に指定されています。海中公園とは、海中に美しい景観や貴重な自然があるために指定されたものです。この付近の海は黒潮の影響を受けているため、サンゴや熱帯魚などがみられます。グラスボートや海中展望塔などもあるため、海中も見ることができます。
 調査の候補地として国立公園は最適でした。なぜなら、試料を採取することはありませんから、アクセスが良く、環境が整備され、宿泊施設が近くにあるためです。
 足摺岬から竜串にかけては、海岸が隆起した地形で、海岸段丘が発達しています。海岸線は海の波によって侵食(海食と呼ばれています)を受けて、断崖がつらなる険しい地形となっています。竜串や見残しは、海食台が海面上に顔を出し、不思議な景観を見ることができます。このような景観を見るべき価値があるのですが、弘法大師がこのような素晴らしいところを見残したということにちなんで、地名がつけられたそうです。ただ、史実がどうかはわかりませんが。
 このような隆起は、地球の営みであるプレートテクトニクスによっておこっています。四国の太平洋側の南海トラフでは、フィリピン海プレートが沈みこんでいます。このような場所は、海洋プレートの沈み込みによって南から北におされて圧力を受けます。そのため、陸側は大地が圧縮される所になり、場所によって上昇したり下降したりすることになりますが、全体としては上昇していきます。また、沈み込むプレートに引きずりこまれた岩石が、その引きずりの力を変形によって吸収しきれないとき、岩石は壊れながら跳ね返り(弾性跳ね返りと呼ばれます)が起こります。それが、海溝タイプの地震となります。
 これらの作用が四国の太平洋側では継続的に働いています。1946年に起こった南海地震では、足摺岬周辺は1mほど隆起しました。広域で平均すると1000年で2~5mほどの隆起していると推定されます。竜串や見残し海岸は、2000から3000年前に隆起したと考えらています。
 四国の南西部は、足摺岬や沖の島で花崗岩などの火成岩がところどころにみられますが、それ以外の地域は、中生代から新生代の地層が広く分布しています。このような堆積岩の分布する地帯を、川の名称から四万十帯と呼んでいます。
 四万十帯は、北から白亜紀前期(1億2000万~1億年前)、白亜紀後期(1億~6500万年年前)、新生代始新世から漸新世前期(5000万~4000万年前)、漸新世後期から中新世(3000万~2000万年前)の地層が東西に帯状に分布しています。北ほど古く、南ほど新しい地層がでています。これはフィリピン海プレートの沈み込みによって、大陸棚にたまった地層が長い時間をかけて持ち上げられた結果です。四万十帯の地層は、大地の営みの歴史が、残されているところなのです。
 竜串は、四万十帯の中で一番南方に位置していますから、最も新しい漸新世後期から中新世に形成された地層となります。岩石としては、砂岩と泥岩が交互に繰り返している地層(互層と呼びます)からできています。このような互層が繰り返しているものは、陸地から大陸棚に向かって、何度も土石流(乱泥流あるいはタービタイトと呼ばれています)が流れ込んだ場所になります。
 大局的見ると地層が整然と並んでいますが、ひとつひとつの地層をよく見ると、それぞれに個性があります。
 地層の中に細いすじが多数見られることがあります。すじが斜交するものを斜交葉理(クロスラミナ)、平行なものを平行葉理(パラレルラミナ)と呼んでいます。葉理は、地層がたまるときの流れの様子を現しています。斜交葉理は乱れた流れを反映したもので、平行葉理は静かにたまったり、一定した流れでできます。
 地層内で土砂がたまるときに、堆積状態が乱れる(乱堆積と呼ばれる)と、さまざまな変わった形態の地層ができていきます。まだ固っていない泥の中に、地震で液状化現象で砂が移動して、地層の中で縞模様が褶曲したりします。このような渦巻き構造は、コンボリューションとよばれ、竜串で「しぼり幕」や「らんま岩」とよばれているものがその典型的な例となります。
 また、下の地層から水が噴出したときに通過された地層には、竹の節目のような構造ができます。これも竜串では「大竹小竹」と呼ばれているものです。
 地層の中に石灰質や珪質などの球状の沈殿物が形成されることがあります。このようなものは団塊(ノジュール)と呼ばれ、ある地層に多数形成されることがあります。竜串では、「蛙の千匹づれ」があります。
 海底の表面に波に形成された、規則正しく繰り返された波模様(漣痕:リップルマック)ができます。それを乱すことなく地層が覆うことよって地層の中に化石のように漣痕が残されることがあります。流れの方向と直交するようにリップルマークはできますが、緩やかな傾斜で非対称な波形は河口付近で、左右対称なものは浅海の海底で形成されたと考えられています。もちろんこのようなリップルマークも竜串でみることができます。
 海底や海底の堆積物の中に住んでいた生物が残した、足跡・ハイ跡・巣穴・排泄物などが化石になることがあります。このような化石を生痕化石と呼んでいます。竜串・見残し海岸では、コブ状突起がある管状の生痕化石(アナジャコ類の住まいの跡)、管状のもの(カニやアナジャコ類などの巣穴や食べ歩き痕)などを多数みることができます。
 これらの堆積物の特徴から、竜串の地層は、浅い(水深50m以下)の海底砂州でたまったと推定されています。
 今回の調査は、このような地質を調べるのが目的ではなく、その記録をどうすれば効率的に、もれなくできるかを考えるものでした。そのために新しい調査用道具の試行も兼ねていました。
 丸一日を詳細な調査に当てることができました。しかし、半日かけて長さで30m弱ほどの地層を連続的に詳細に記録したのですが、このペースでは到底終わりそうもないので、本当は竜串海岸の地層全体を対象にしたかったのですが、他に40m弱ほどの地層を簡易的に記録しました。合わせて66mの長さの地層を記録したことになります。それでも、竜串全体からすれば3分の1程度の地層しか記録したにすぎません。残念ですが、限られた時間でおこなった調査なのであきらめるしかありません。竜串の海岸線を串刺しにするような調査はやり切れませんでしたが、検討用のデータは十分取れたと思っています。その成果は、現在まとめている最中です。

・想定外・
竜串での調査は、丸3日間を予定しました。
本当は詳細な調査を2日、あとは道具の検証として、
周辺の地層の調査を1日かけて調査をやる予定をしていました。
できるだけ長く調査測線をとるため、
初日は一番端の地層からはじめることにしました。
朝、海岸に行くと、潮が満ちているときは、
海面にはでていない地層がかなりでていました。
これ幸いと調査をはじめたのですが、
乾いていない地層は非常に滑りやすく、
注意をしていたのですが、すべってころびました。
その時、あちこちすりむき、メガネも壊してしまいました。
擦り傷の治療とメガネの修理のために、
1日を台無しにしてしまいました。
カメラなどの機材は大丈夫だったので、
調査を継続することができました。
翌日、まだ傷はいえていませんが、
調査をしないと帰れませんから、かんばって始めたのですが、
こんどは暑さにやられて効率が上がりませんでした。
今回の竜串の調査では、なかなか大変の思いをしました。

・恒例の台風・
愛媛県西予市に私は毎年のように通っています。
昨年9月にもその予定があったので、
日程を調整して、竜串の調査を加えました。
しかし、千歳から出発のときに、台風が北海道を通過して、
予約していた飛行機の便が欠航になりました。
やむなく1日遅れで出発することになりました。
毎年、9月前半に出かけることが多いので、台風の影響を受けます。
昨年も例外ではなかったのです。

2008-02-15

38 支笏湖:穏やかさと激しさ(2008.02.15)

 支笏湖には、自然が残されています。しかし、その自然の中には、穏やかな人を癒してくれるものだけでなく、激しい異変や破壊を伴うものもあります。それも含めて、自然と見る必要があるのかもしれません。

 北海道の千歳空港のある千歳市の西側に支笏湖があり。我が家から支笏湖までは、車で2時間足らずで行けますので、時々家族で出かけます。2007年の年末に母が来た時も、一緒に支笏湖に出かけました。1949(昭和24)年に、支笏湖から洞爺湖にかけて支笏洞爺国立公園が指定されました。支笏湖を周回する道路がありますが、西側のオコタンから美笛間は狭い道で冬季は通れません。それ以外の周回道路は国道として冬季も通行できます。
 私が支笏湖を訪れるのは、その静さに惹かれるためです。有名な観光地でありながら、大きな建物がほとんどなく、観光地らしくありません。温泉地でもあるのですが、けばけばしさはなく静けさの漂う町並みとなっています。湖の周囲を大きな山が囲んでいるため、よけいに人里を離れた情緒があります。幹線道路が周囲を囲んでいるのに、静けさが保たれているのは、やはり急峻な山に囲まれているため、開発の手がそれほど入らなかったためでしょう。
 北から時計回りに、恵庭岳(標高1319m)、イチャンコッペ山(828m)、紋別岳(866m)、キムンモラップ山(478m)、モラップ山(507m)、風不死岳(1103m)、多峰古峰山(たっぷこっぷ、661m)、無名峰(742m)、丹鳴岳(になる、1039m)と高さは様々ですが、嶮しい山並みが、支笏湖周辺の自然を守護してきました。
 支笏湖周辺はネオジン(かつては新第三紀と呼ばれていた時代)から火山活動が盛んで、モラップ山や、紋別岳、多峰古峰山が形成されていました。そこに約4万年前から、激しい火山活動が支笏湖では起こりました。その結果、直径12kmにもなるカルデラができ、湖を取り巻く嶮しい山並みが、カルデラ壁ができました。カルデラ形成後も火山活動が続き、風不死岳、恵庭岳、樽前山ができました。樽前山ではまだ噴気が続いている活火山です。このような火山によって支笏湖周辺には険しい地形ができました。
 明治時代には、支笏湖から樽前山周辺の森林が御料林に1889(明治22)年に指定されました。御料林とは、皇室の経済基盤を固めるために財産として、旧憲法の施行を前に創設されたものです。
 北海道内に工場適地を探していた王子製紙は、支笏湖周辺の木材資源と支笏湖の水資源を発電に利用することを考え、明治37年に苫小牧への進出を計画し、着工にはりました。
 その工事のなさかの1909(明治42)年3月30日に、樽前山が噴火しました。現在あるドームは、17日から19日くらいの間に出現したものです。実は樽前山のドームはそれ以前にもありましたが、1874(明治7)年の爆発で消滅しています。それが、1909年に再度形成されました。
 この噴火の時期に、アメリカの米国マサチューセッツ州高等工業学校の火山学者であったジャッカーが樽前山を調査しました。その調査の結果、「近く、再び大噴火があるから注意せよ」と、ドーム形成後にも大噴火があると日時まで予測し警告を発しました。そのため、工事関係者や地域住民はパニックになったのですが、幸いにも、当日は朝から上天気で、予測は外れました。
 明治43年に王子製紙の工場が完成し、千歳川には発電所が建設されました。支笏湖の水位は、堰堤が設けられて、人工的に調節されるようになりました。
 支笏湖を水源として目をつけられたのは、その貯水量と日本最北端の不凍湖であったためです。洞爺湖と共に支笏湖は、冬季でもほとんど凍ることがありません。また、支笏湖は面積は広くありませんが、カルデラの特徴で最大水深が363m、平均水深が264mもあり、コップのような形態をした湖です。そのため、支笏湖は、そほど大きな湖ではありませんが、琵琶湖(27.5立方km)に匹敵するほどの貯水量(21立方km)を持っています。ですから、発電用の貯水地としては、有望だったのです。
 王子製紙は、苫小牧から支笏湖まで軽便鉄道(山線と呼ばれていた)をしきました。山線はかつては、物資運搬用でしたが、1922(大正11)年から観光客に利用されていました。しかし、もともと物資運搬用なので切符には、「人命の危険は保証されず」と書いてあったそうです。その名残として、支笏湖から流れ出る千歳川には山線鉄橋が残っています。
 王子製紙が操業をはじめ、支笏湖周辺で多くのエゾマツやトドマツが伐採されました。しかし、支笏湖の自然は広く雄大で、伐採の影響はそれほどひどくなかったようです。
 北海道や地元住民は、自然を守るために、国立公園の候補地として、支笏湖周辺を圧しました。1921(大正10)年に全国から16箇所が国立公園に指定され、そのうち北海道では、阿寒、登別、大沼が選ばれましたが、支笏湖は選かも漏れました。その時に道庁が調べたところ、支笏湖には数棟の建物があるだけで、まだまだ自然は残されていました。その後、1934(昭和9)年に阿寒と大雪山、が国立公園に指定されたものの、戦争が激しくなり、運動どころではなくなりました。そして、戦後4年目にして、支笏湖と洞爺湖周辺は、国立公園に指定されました。
 もともと国有地であったため、土地利用の規制がきびしく新規企業の参入がないので、支笏湖周辺は開発がそれほど進むこともなく、現在に至っています。それでも、自然災害や人為による影響は避けることはできません。
 火山による破壊も自然の営みで避けることができませんが、稀に襲う台風は、強風にさらされることの少ない北海道の森林には脅威となります。1954(昭和29)年の洞爺丸台風では、大量の風倒木が発生しました。その後、一部は植林ですが、自然自身の回復力で森林は復活しました。
 1972(昭和47)年には、人為による破壊が再び起こります。札幌での冬季オリンピックの滑降競技のコースに、恵庭岳の斜面が選ばれました。もともとオリンピックのコースや施設のために、一時的な利用ですが、広範囲の樹木が伐採されました。しかし、オリンピック終了後は、施設は撤去され、植林もされたため、今ではその傷跡はかなり回復しています。
 しかし、この「オリンピックによる自然破壊」は、のちのちまで影響を与えました。1998年2月の長野オリンピックで、手付かずの自然が残っている志賀高原の岩菅山が滑降競技の施設の予定になっていました。しかし、自然を保護するために、開発を断念されました。そこには恵庭岳の経験も活かされていました。
 記憶にも新しい2004年9月の台風18号で、再び多くの風倒木がでました。その傷跡は現在も残されています。これらの風倒木を処理して、より災害に強い森林を目指して植林事業が取り組まれています。
 自然は、自分自身で回復力をもっています。以前と、同じものではないですが、似た自然に戻ります。それには、何十年のスケールの長い時間が必要です。手出しをせずに長い時間見守りさえすれば、自然はもとの姿をとり戻します。その忍耐力が、人間の側にあるかどうかが問題なのかもしれません。破壊の原因である風雪や火山の営みも、自然の一環です。自然とは、人間にとって都合の良い奇麗事だけではないのです。穏やかさと激しさの両面を持った存在なのです。
 一番寒い時期には、寒さを売りものにしたイベントが支笏湖ではあります。札幌の雪祭りと同じ頃になりますが、支笏湖では1月25日から2月17日まで「第30回千歳・支笏湖氷濤まつり」が行われています。湖畔には、多数の氷のオブジェがつくられて、いろいろなイベントが行われています。氷は湖水の水をスプリンクラーでかけて凍らせたものです。オブジェは、昼間は支笏湖ブルーに輝き、夜はライトアップされ幻想的な世界となります。私が訪れた年末には、厳冬期の祭りにそなえて、準備が進んでいました。見るほうはいいのですが、作る人たちは、寒い中、水をかけて作業をしていくことになります。
 そんな作業風景を横目に、支笏湖畔の道路を走って、凍っていない湖面を眺めました。そして、自然の中の穏やかさと激しさについて考えました。

・新陳代謝・
一見原始に見えるの森も、見かけだけかもしれません。
原始の森を構成する木々の多くは、
火山や風雪などで何度も倒れては、蘇ってきた子孫たちです。
そうでなくては、原始林は樹齢何千年の木ばかりになります。
森林は、新陳代謝をするかのように、世代交代をしています。
古い大木もあれば、新しい若木や芽吹いたばかりの苗木もあります。
このような多様性が自然の摂理にかなったものです。
自然とは、新陳代謝が正常に機能していることなのでしょう。

・国民休暇村・
支笏湖畔に、「国民休暇村 支笏湖」があります。
その休暇村は、天然温泉があり、湖畔の温泉街からはずれた
キムンモラップ山の北側山麓に、ぽつんと佇んでいます。
その建物の周囲の自然が、私には好ましく思え、
支笏湖の定宿としています。
私は国民休暇村が好きで、出かける時に近くにあれば、
そこに泊まるようにしています。
でも、残念ながら、北海道では支笏湖が唯一つの国民休暇村です。

2008-01-15

37 沖縄バン岬:科学が教える大地の悠久(2008.01.15)

 以前にもこのエッセイでは、沖縄を紹介をしたことがあるのですが、もう一度、登場です。今回は、ある小さな岬の地層にこだわって紹介します。その岬は、バン岬と呼ばれ、沖縄中部の太平洋側(南東側)に面した海岸にあります。

 沖縄には、何度が訪れています。それぞれ私なりの目的があったのですが、昨年春に訪れた時の目的は、褶曲した地層を観察することでした。「私なり」といったのは、家族連れで出かけているので、家族サービスをしなければなりません。ですから、私が家族をつれて自由に石をみにいけるのは、せいぜい1日か2日です。
 子供か小さかったときには、私がでかけるところは、どこもで文句をいわずについてきたのですが、それなりに楽しんでいました。しかし、大きくなると、それぞれ行きたいところや、やりたいことがでてきて、そうそう私の自由に行動できるわけではなくなりました。そのような限られた時間で優先順位をつけたとき、一番の目的地が、バン岬の地層の褶曲をみることでした。
 写真では何度も見ていて、ぜひ見てみたと思っていた褶曲でした。日本列島には、同様に褶曲した地層が、あちこちにあります。でも、地質案内で扉の写真でみた褶曲が、なぜか心に残っているのです。
 目的の褶曲は、国頭(くにがみ)層群の中の嘉陽(かよう)層と呼ばれるものに見られます。嘉陽層は、中期始新世の中ごろ(4千数百万年前)にたまった地層です。目的の褶曲は、天仁屋(てにや)川という小さな川の河口から、海岸沿いを2kmほど南西に向かって歩いていったところにあります。少々不便なところにあるうえに、引き潮でないとバン岬までたどり着けません。
 本当は大潮の時にいくのが一番いいはずなのですが、1週間の滞在で一番潮の引く時、そして晴れて海が穏やかな状態にある時でないとたどり着けません。ですから、予備日を見越して余裕をもって、出かける日を狙っていました。
 実は、この海岸に来るのは2度目でした。一度目は、子供がまだ小さかったので、1時間も海岸線を歩くことはできないと思って、海岸に来て見ただけでした。
 人気のない海岸は、快適でした。南国の海の開放感と太陽のまぶしさを感じていました。古い海の家の跡があるのみで、今では草むらと化しています。自然の海岸が、そこには広がっていました。その海岸を見て、次回はぜひ、この海岸の向こうにあるはずの褶曲を見たいと思いながら引き返しました。
 2度目に訪れた時は、褶曲を見ためにバン岬に向かうことにしました。潮がちょうど引く時間帯をねらって出かけました。3月下旬でしたが、快晴の中、海岸を歩き始めました。1時間ほど海岸を歩くと、子供たちは暑さに参ってしまいました。それでも子供たちを、なだめすかしながら歩いて、やっと見覚えのある大褶曲の露頭にたどり着きました。
 大褶曲だけでなく、地層がのた打ち回っているような景観は、奇異で目を惹かれます。単に奇異ではなく、そこには、小さな人間が圧倒される迫力がありました。そんな地層を眺めながら、自分が持っている地層の形成や褶曲の形成の理屈をひねくりまして、どうしてできたかに考えをめぐらせていました。
 地質学者たちが、現段階で得ている知識によれば、以下のような褶曲の形成史が編めます。
 嘉陽層がたまったのは、暖かい海の大陸斜面の深度3500から5500mの海溝近くのだと考えられています。そのようなことがわかるのは、地質学者たちが、海岸を歩きながら詳細に調査した結果です。地層のある面に、生物の這い回った跡が残されています。これも一種の化石で、生痕化石と呼ばれています。このような這い跡のうち、特徴のあるものは、どのような生物が這い回ったからもわかっています。そしてそのような生物の中には、現在にも似たものが生きていて、それらの生息環境と這い跡を比べれば、どのような環境かがわかります。似た這い跡が海溝付近でも見つかっています。這い跡の類似性から、生物の住む海底の深度が推定されています。また、地層に含まれている化石から、暖かい海であることもわかります。
 大褶曲は、砂岩から泥岩への変化している一連の岩石が、一つの地層を構成しています。このような一枚の地層を単層と呼んでいます。単層が何層も繰り返し重なって厚い地層が形成されていきます。
 一見静かな深海底に、砂の成分の多い乱泥流が流れ込みます。乱泥流に襲われた生物は生き埋めになったことでしょう。乱泥流が収まると、再び生物が復活します。もちろん、生物の復活にはそれなりの時間が必要です。しかし、地質現象には充分すぎるほどの時間があります。
 たまたまきれいに均された海底を生物が這いまわり、その上に這い跡を消すことなく、上手く砂が覆いかぶさった時に生痕化石が形成されます。ですから、生痕化石がどの地層面からでも見つかるものではありません。条件がよければ残るということです。しかし、大量にある地層からは、生痕化石が、よく見つかります。ですから、嘉陽層をためた海底は、生痕化石を残すに適した場所だったのでしょう。
 ひとつの地層は、数時間から数日という短時間で形成されますが、次の地層がたまるまで、長い時間が経過します。数十年、数百年、時には数千年間、何も起こらない時期があります。そん不連続な地質現象の繰り返しが、地層には刻まれています。
 海溝とは、海洋プレートが別のプレートの下に沈み込む場所です。そのような海溝近くの大陸斜面の地下では、プレートに押されて、地層には曲がるような力が働きます。その時、地層の状態によって、さまざまな曲がり方をします。
 まだ固まっていないで水をたくさん含んだ地層が圧されると、地層は割れれるこなく、複雑に曲がっていきます。また、砂岩には不規則な洗濯板のようなでこぼこ(ムリオン構造と呼ばれます)ができることもあります。
 砂岩の水分がなくなり、泥岩の水分が残っている場合には、泥岩の部分だけが分厚くなったり、割れた砂岩の中に泥岩が流れて進入したりすることがあります。
 砂岩も泥岩も固まっている時、大量の土石流が新たに流れ込んでくると、もともとあった地層が削られることがあります。削った土石流の中には、化石が見つかることがあります。嘉陽層では、破片になっていますが、貨幣石が見つかりました。貨幣石とは、有孔虫とよばれるプランクトンの一種で、地質時代を区分するに古くから用いられていました。貨幣石から、時代を決めることできました。
 さらに長い時間が経過していくと、すべての地層は硬くなります。プレートの沈み込みが続くと、海溝付近の大陸斜面にはつぎつぎと地層がたまります。そのような地層に圧されて、古い地層が陸上に顔を出します。このようなでき方をした地層を、付加体と呼びます。日本列島のような海洋プレートが沈み込んだ陸側のプレートでは、付加体が海溝と並行にできます。嘉陽層は、沖縄本島ではもっと南東側にあるため、もっとも新しい時代の付加体となります。
 曲がりくねった地層を詳細にみていくと、長い時間に渡って、何段階もの大地の営みが作用していることがわかります。地質学者は、圧倒されそうな大褶曲を前にしても、詳細な調査や研究をぬかることなく続け、褶曲の中に隠されている大地の歴史やメカニズムを解き明かしていきます。褶曲という大地の圧倒的な力による自然の営みを、ささやかな力しか持たない人間が科学によって解明していきます。そんな自然と科学のせめぎあいが、そこにありました。
 私は、崖の前にたたずみ、なぜ無機質の地層がこのような迫力を持つのだろうか、と考えていました。人気のない海岸にただそびえる褶曲した地層の崖に、迫力を感じるのは、単に大きいだけでなく、大地の営みの悠久さを、科学が教えくれ、感じさせてくれるためなのかもしれないと思い至りました。
 私が見た大褶曲の露頭は、いくつかある写真の一部でした。しかし、一番見たかったのは、倒れてくしゃくしゃに曲がっている褶曲でした。大褶曲の露頭の向こう側に、その褶曲があるように思えました。しかし、そのためには、崖を少し登り、まわりこまなければなりません。その時は、子供たちが体力的にそれ以上進むのはムリでした。そのために、残念ながら、この大褶曲が今回の終点となりました。でも、もし次回、沖縄へいく機会があれば、今度はぜひとも、写真の褶曲を見てみたいと考えています。

・ライフワーク・
月刊メールマガジン「大地を眺める」も、
今年で4年前に突入します。
この連載は、北海道地図株式会社さんとの共同で始めた企画です。
私は、自分の興味や研究上のために日本各地をめぐっています。
その研究成果は科学普及のためにも利用しています。
北海道地図さんから数値標高のデータを提供いただいて、
エッセイの内容をよりわかりやすくするために、
データ処理を行い地形や地質を示すようにして公開しています。
できれば、日本全国をもれなく、
地質や地形を紹介していくつもりでいます。
しかし、ホームページを見ていただくとわかるのですが、
全国を網羅することは未だにできていません。
まだまだ、道半ばです。
いつ完成するかわかりませんが、
気長にライフワークとして取り組んでいこうと思っています。

・沖縄行・
昨年春に、沖縄のバン岬に行きました。
沖縄は、私が住んでいる北海道からは遠いところです。
その時は、JALの直行便があったのですが、
いまでは、直行便がなくなり、乗り継がなければなりません。
少々、遠く感じるようになりました。
我が家の長男が乗り物に弱いため、
乗り継ぎでは、時間が余計にかかり
行くのを躊躇してしまいます。
今年の春休みもできれば行きたいのですが、
どうなるかは、まだ未定です。