ニセコは、今や外国人観光客で賑わいをみせています。そのため、ペンションがあちこちにあり、ゴールデンウィークの直前でも、探せば空きが見つかりました。そこで家族でニセコにでかけました。
皆様は、ゴールデンウィークをどう過ごされたでしょうか。自宅で過ごされた方、街に出られた方、旅行に出られた方もおられることでしょう。私は、ニセコに家族で旅行にでかけました。
ニセコは、海外の方、特にオーストラリアからの観光客が多数来られるようになりました。ニセコは「ニセコ積丹小樽海岸国定公園」に指定されているため、観光が主要な産業です。特に冬は、良質のパウダースノーを売り物にしたスキー場がニセコの山に裾にいくつもあります。日本人のスキー離れが進む中、外国からのスキー客を誘致に成功しました。
平成20年4月末現在、ニセコの人口4671人(世帯数2100)のうち、外国人の方は54名(世帯数39)で、1%ほどの比率になります。北海道の小さな町で、外国人の占める比率が、かなり多いように感じます。外国人観光客の増加によって、観光産業自体の国際化で、ネイティブスピーカーの現地ガイドの重要が増してきているためではないでしょうか。
ニセコに外国人が定住するということは、ニセコでは夏もレジャーに関わる仕事があるということです。豊富な水量ときれいな水をもつ尻別川を利用したラフティングやカヌーのような川遊びや、登山、トレッキングなども人気があるようです。特に雪解け水で増水した川でのラフティングは人気があるようです。
海外からの観光ブームのためでしょうか、日本人観光客もかなり増えているように思えます。観光スポットは非常に多くの観光客があふれています。有名なところは、広い駐車場が満杯になるほどの混雑でした。ペンションも多数あります。ペンションの過度競争なのでしょうか、ゴールデンウィークでも空き室ができるほど空いてました。
さて、私がニセコに行った理由ですが、家族サービスという目的はあったのですが、火山としてのニセコを見ることでした。今回のエッセイで取り上げるつもりでいたのです。ニセコには、何度も来ていますが、春のニセコには来たことがありませんでした。そこで、今回、ゴールデンウィークに出かけることにしました。
スキー場としてニセコは有名で、山自体の姿は、それほど取りざたされることはありません。すぐ隣にある羊蹄山が、富士山のようにきれいな姿を見せているかたらかもしれません。しかし、私は、秋に来た時の紅葉のすばらしさと、温泉のイオウの匂いと共にニセコが記憶に残っています。
ニセコはいくつもの火山からできています。成層火山の羊蹄山より、規模が大きく、東西に延びています。東西25km、南北15kmに広がります。東には、ニセコ火山群で主峰であるニセコアンヌプリ(1308m)があり、西は日本海に突き出すようになっています。
非常に古くから活動してた火山で、雷電山、ワイスホルン、目国内岳(めくんないだけ)、岩内岳(いわないだけ)は、侵食によって火山の地形が不明瞭になっています。最初に雷電山、続いてワイスホルンが、200万~150万年前に活動を始めました。これ以降、西から東へ、火山活動が移動していきます。目国内と岩内岳が、150万~100万年前に活動していきます。白樺山、シャクナゲ岳が100万~50万年前に、そしてニセコアンヌプリが活動します。
はじまった順に、火山活動も停止していきます。雷電山は100万年前に、岩内岳は50万年前、白樺山とシャクナゲ岳は30万~20万年前に、ニセコアンヌプリは20万年前に活動を停止します。
その後、10万年ほど火山活動の記録は見当たらず、約10万年前に、再びチセヌプリが活動を始めます。そして、イワオヌプリがいちばん新しい火山で、2万~1万年前に活動を始めます。イワオヌプリでは、溶岩ドームを形成して、一部が崩壊して火砕流を発生したこともあります。
最後の溶岩ドームの活動によって形成された火山噴出物(降下スコリア)直下の土壌で約6000年前の噴火年代が得られ、羊蹄火山灰層に覆われています。そのことから、約6000年前にイワオヌプリでマグマが噴火したのが最後の活動とされています。しかし、北海道大学の中川光弘教授によれば、マグマ噴火の6000年前より新しい時代の溶岩ドームがあるかもしれないという指摘がなされています。
その理由は、新しい複数の爆裂火口があること、そして現在も噴気活動が続いていることから、まだ火山の活動は終了していないと考えられています。現在ニセコは、活火山に指定されています。活火山の定義は、1万年以内に噴火の記録のあるものですが、イワオヌプリはそれに相当します。
ニセコの火山は、どうも休み休み、ゆっくりとした活動を繰り返してきたようです。そして複数の火山が同時進行で噴火をしてきたようでもあります。しかし、今のところ噴火の兆候はみられませんが、活火山として注意はしておく必要があります。
5月初旬のニセコは、麓では春の花が咲き始めていました。ニセコアンヌプリのような高い山の頂部には、まだ雪がいっぱい残っています。ですから、高い山のスキー場はまだオープンしていたようで、春スキーを楽しんでいるスキーヤーがいました。スキー場のリフト乗り場の駐車場は車で、一杯でした。
ニセコは、活火山ですので、温泉もあちこちにあります。私たちはペンションに2泊しましたが、1泊目はニセコ駅前にある温泉に出かけました。ニセコの温泉は、火山の恵みです。旅行に出かけて、いろいろな温泉に入るのは、大いなる楽しみになります。
天気は良く、暖かい日でしたが、かげると肌寒いし、とても川に入る気のしない気候です。ニセコを廻っている途中に尻別川を何度か渡ったのですが、ラフティングのボートを何艘もみました。かなりの水量の中を翻弄されたボートが進んでいきました。皆ウエットスーツを着ていましたが、大勢の人たちが、川くだりを楽しんでいました。私は、尻別川に入るよりは、温泉に入りたいものです。
山頂は雪が残っていますが、麓は花の季節を迎え、川遊びがはじまっていました。ニセコの春は、冬と夏が共存していました。
・開通・
最初、ニセコに出かけると決めた時、
家内の友人は、スキーですかとたずねたそうです。
この時期にスキーができるのは、
雪の量の多い、高い山で、ニセコがそれに当たっていました。
私は、五色温泉を通り抜ける道を行きたいと考えていました。
スキーがまだできるようなら、そのコースは無理かなと思っていました。
そのコースは、道路マップによると、冬季閉鎖となっていました。
しかし、ペンションの主人に聞いたら、
もう開通しているというので、ほっとしました。
その結果、ニセコアンヌプリを一周することができました。
・家族サービス・
ニセコへは、札幌から小樽経由で行きました。
渋滞はしていませんでしたが、
連休の初日でしたので、多くの車があり、
北海道の郊外ではめずらしく車が数珠つなぎで走っていました。
まして、ニセコは観光地ですから、
観光の名所には、多くの観光客が詰め掛けています。
特にアイスクリームとケーキで有名なところは、
駐車場が満杯の盛況でした。
私たちも、そこに半日いました。
子供たちと妻が、ガラスのトンボ玉を作ることと
アイスクリームを食べることにしていたので、
昼食をはさんで半日いました。
本当はアイスクリーム作りもしようかと思ったのですが、
屋外でおこなうので、風が肌寒かったので、あきらめました。
帰りは渋滞避けるために、美笛峠から支笏湖に抜ける道にしました。
その日は雨でしたが、移動日だったので、事なきを得ました。
滞在中は、天気はよかったので、家族サービスとしては
いい旅行となりました。
2008-05-15
2008-04-15
40 東尋坊:節理の隙間から(2008.04.15)
Time:
9:26
●
Geologist
福井県の東尋坊は、日本でも有数の観光地のひとつです。海に面した断崖絶壁をつくる節理が、見事なことから、多くの観光客を集めています。そんな節理の隙間から、想いを巡らしました。
春休みに、京都から福井の日本海沿いを訪れました。その目的地の一つとして東尋坊がありました。東尋坊は、越前加賀海岸国定公園の一部です。また、東尋坊周辺は、国の天然記念物及び名勝にも指定され、2007年には日本の地質百選に選定されました。非常に有名な観光地なので、訪れたことがある方もおられるかもしれません。海岸に切り立った断崖絶壁として、テレビのサスペンスドラマのロケ地によく使われるので、画面で目にされている方も多いかもしれません。
同じような海岸の景勝地は、東尋坊だけでなく、周辺にも点々と見かけられます。そのいくつかは、柱状の岩石が不思議な景観をつくっています。今回は、この不思議な岩石の割れ目である節理を見ていきましょう。
日本は火山の多い国です。現在活動中の活火山は100座以上あり、どの都道府県にも、活火山がありそうですが、活火山の分布をよくみると、福井県には活火山はありません。それは、幸いなことなのか残念なことなのかはわかりませんが。
福井県の近くには白山という活火山がありますが、石川県と岐阜県の県境にあり、福井県内ではありません。新時代(第四紀)の火山としては大日山(福井・石川県境)がありますが、日本でも珍しく、火山が活発な地域ではありません。
しかし、福井県内には古い時代の火山があります。過去の火山は、火山岩があるかどうかで調べることができます。福井県では、あちこちで火山岩が見つかっています。時代を問わなければ、日本で火山と関係していない都道府県はないのではないでしょうか。
東尋坊は、見事な柱状節理が海岸に面して林立しています。その節理の面が、断崖絶壁となっています。柱状節理は、マグマが固まる時にできる岩石のつくりの一種です。ですから、東尋坊の柱状節理は、マグマに由来していることになります。東尋坊も、過去の火山活動によるものです。
柱状節理のできかたですが、マグマが固まる時に液体から固体に変わるとき体積が減ります。マグマが冷える方向に対して垂直に割れ目ができ、多くは六角柱状、時には五角柱状の割れ方(節理のこと)になります。なぜ、六角柱状になるのかは、まだはっきりしていませんが、冷える時の熱の流れが関係していると推定されています。節理のできる方向は、マグマの冷え方を反映していることは確かです。節理の方向を丹念にたどると、マグマが流れた方向を推定することができます。
東尋坊のつくったマグマは、安山岩質のマグマで、東尋坊安山岩と呼ばれています。この安山岩をよく見ると、何種類かの大きな結晶(斑晶(はんしょう)と呼ばれています)と、顕微鏡でかろうじて確認でできるほど小さな結晶が集まった部分(石基(せっき))があります。石基は、肉眼では淡い緑色から暗い灰色に見えます。斑晶は斜長石と輝石(紫蘇輝石と普通輝石)がらできています。斑晶の斜長石は白っぽく、輝石は濃緑色にみえます。全体として灰色の岩石に、白黒のごま塩状のつぶつぶが見えます。学術的には、紫蘇輝石・普通輝石安山岩と呼ばれています。この安山岩は特別なものではなく、日本ではごく普通にみられる火山岩です。
東尋坊のマグマは、新生代の中新世中期(放射性年代測定では1270万年前)に活動したもので、先に海底にたまっていた地層(米ヶ脇層(こめがわきそう)と呼ばれています)に貫入しました。貫入してきたマグマは、鏡餅のような形でたまり、そのまま冷え固まりました。現在は、その鏡餅の半分が波で侵食されて、柱状節理がむき出しになり、東尋坊の見事な景観を形成しています。
さて、この中新世という時代ですが、日本海沿岸で、多くの地域にわたって火山活動が起こった時期になります。火山活動の多くは、海中で起こり、火山岩とともに堆積岩も見つかることがあります。この時代のこれら地域の火山岩やその砕屑物の多くが、緑っぽい色をしていることから、グリーンタフ(green tuff、緑色の凝灰岩という意味)と呼ばれています。時代と地域を限定されているため、それらの岩石を生み出した活動を総称して、グリーンタフ変動と呼ばれることがあります。
グリーンタフ変動とは、何を意味しているのでしょうか。実は、日本列島の形成において、重要な役割を果たしていることがわかってきました。
日本列島は、昔からずっと列島として存在したのではなく、中新世以前は、大陸の端にくっついて存在していました。中新世になって、大陸の縁に巨大な裂け目(リフトと呼ばれます)ができました。その裂け目は現在アフリカ大陸に見られる大地溝帯のようなものだと考えられています。その割れ目に沿って、激しい火山活動が起こりました。
割れ目の拡大と共に、海水が浸入してきました。それが今の日本海の始まりです。完全に大陸から切り離された陸地は、日本列島の始まりとなります。東北日本は、激しい火山活動をしていましたが、中新世にはまだ陸化しておらず、ほとんど海底での活動でした。鮮新世になると、陸化しはじめてきました。
西南日本では東北日本ほど激しい活動ではありませんでしたが、日本海周辺での火山活動が多くの場所でみれます。東尋坊の火山活動も、グリーンタフ変動の日本海形成に伴う火山活動だと考えられています。比較的穏やかな火山活動とはいっても、人間にとっては、日本でも有数の雄大な景観を思わせるのです。
私が、東尋坊を訪れたのは、時々小雨の降る、風の強い、肌寒い日でした。絶壁の端っこに立つと、足がすくむような思いがします。それでも怖いもの見たさでしょうか、多くの観光客が、断崖の端に立っていました。私は、もしそのとき風が吹いたら、もし足が滑ったら、もしバランスを崩したらなどと考えると、とても端に立つことなどできませんでした。
私のそのような「恐れ」の気持ちは、小さな人間が持っている取るに足らないものかもしれません。地球の時間の流れからすれば、東尋坊の断崖絶壁もやがては、移ろい変化するものです。しかし、節理という何もない隙間から読み取れるマグマの物語があるように、小さな人間の「恐れ」の気持ちは、大地の偉大さを無意識に読み取ってものかもしれません。そんな見えない物語を、私は、節理の隙間から眺めていたのかもしれません。
・候補地選び・
この月刊のエッセイは、今まで、北海道と
それ以外の地域(北海道の人は内地と呼びます)を
交互に繰り返しながら書いてきました。
私が、北海道に住んでいるから、それが適切なやり方だと思っていました。
しかし、今回から、その順番を守らないことにしました。
その理由は、北海道内は、出かけることも多いのですが、
ワンポイントである地域を見に出かけます。
ですから、一回のエッセイのネタにはなりますが、
6回分書くには、長期に旅行をするか、何度も旅行するかになります。
近くなら何度もいけますが、遠くとなるたとえ北海道内とはいえ、
多くの日数を費やします。
ところが内地なら、長期の旅で、何箇所も見学することになります。
主に海岸沿いですが、現在研究の一環として、
長期計画ですが、日本列島の多くの地域を訪れる計画をしています。
そのため、年に1度か2度は、長期の内地旅行にでかけています。
ですから、内地のネタであれば、それを何回かに分けて書けます。
今回の京都から北陸の旅も、あと2回書く予定をしています。
以上のようなわけで、今後このようなパターンで
エッセイを続けていきますので、ご了承ください。
・グリーンタフ・
グリーンタフというのは、地質学者が野外で岩石を呼ぶときに用いた
一種のニックネーム(フィールドネームといいます)から由来しています。
ですから、グリーンタフ変動に含まれる岩石が
すべて緑色っぽいかというと必ずしもそうではありません。
グリーンが少ないものだってあります。
東尋坊の安山岩も緑色ではなく、灰色です。
グリーンタフの岩石は、もともと緑色の岩石であったのではありません。
岩石を構成している輝石や角閃石などの鉱物が、
海底で熱水による変質のため粘土鉱物(緑泥石などの緑色の鉱物)に
変化したものです。
今では、グリーンタフが海底火山として誕生したこと、
さらにそれが日本列島の誕生に深く関わっていたことがわかってきて
その重要性は増してきました。
春休みに、京都から福井の日本海沿いを訪れました。その目的地の一つとして東尋坊がありました。東尋坊は、越前加賀海岸国定公園の一部です。また、東尋坊周辺は、国の天然記念物及び名勝にも指定され、2007年には日本の地質百選に選定されました。非常に有名な観光地なので、訪れたことがある方もおられるかもしれません。海岸に切り立った断崖絶壁として、テレビのサスペンスドラマのロケ地によく使われるので、画面で目にされている方も多いかもしれません。
同じような海岸の景勝地は、東尋坊だけでなく、周辺にも点々と見かけられます。そのいくつかは、柱状の岩石が不思議な景観をつくっています。今回は、この不思議な岩石の割れ目である節理を見ていきましょう。
日本は火山の多い国です。現在活動中の活火山は100座以上あり、どの都道府県にも、活火山がありそうですが、活火山の分布をよくみると、福井県には活火山はありません。それは、幸いなことなのか残念なことなのかはわかりませんが。
福井県の近くには白山という活火山がありますが、石川県と岐阜県の県境にあり、福井県内ではありません。新時代(第四紀)の火山としては大日山(福井・石川県境)がありますが、日本でも珍しく、火山が活発な地域ではありません。
しかし、福井県内には古い時代の火山があります。過去の火山は、火山岩があるかどうかで調べることができます。福井県では、あちこちで火山岩が見つかっています。時代を問わなければ、日本で火山と関係していない都道府県はないのではないでしょうか。
東尋坊は、見事な柱状節理が海岸に面して林立しています。その節理の面が、断崖絶壁となっています。柱状節理は、マグマが固まる時にできる岩石のつくりの一種です。ですから、東尋坊の柱状節理は、マグマに由来していることになります。東尋坊も、過去の火山活動によるものです。
柱状節理のできかたですが、マグマが固まる時に液体から固体に変わるとき体積が減ります。マグマが冷える方向に対して垂直に割れ目ができ、多くは六角柱状、時には五角柱状の割れ方(節理のこと)になります。なぜ、六角柱状になるのかは、まだはっきりしていませんが、冷える時の熱の流れが関係していると推定されています。節理のできる方向は、マグマの冷え方を反映していることは確かです。節理の方向を丹念にたどると、マグマが流れた方向を推定することができます。
東尋坊のつくったマグマは、安山岩質のマグマで、東尋坊安山岩と呼ばれています。この安山岩をよく見ると、何種類かの大きな結晶(斑晶(はんしょう)と呼ばれています)と、顕微鏡でかろうじて確認でできるほど小さな結晶が集まった部分(石基(せっき))があります。石基は、肉眼では淡い緑色から暗い灰色に見えます。斑晶は斜長石と輝石(紫蘇輝石と普通輝石)がらできています。斑晶の斜長石は白っぽく、輝石は濃緑色にみえます。全体として灰色の岩石に、白黒のごま塩状のつぶつぶが見えます。学術的には、紫蘇輝石・普通輝石安山岩と呼ばれています。この安山岩は特別なものではなく、日本ではごく普通にみられる火山岩です。
東尋坊のマグマは、新生代の中新世中期(放射性年代測定では1270万年前)に活動したもので、先に海底にたまっていた地層(米ヶ脇層(こめがわきそう)と呼ばれています)に貫入しました。貫入してきたマグマは、鏡餅のような形でたまり、そのまま冷え固まりました。現在は、その鏡餅の半分が波で侵食されて、柱状節理がむき出しになり、東尋坊の見事な景観を形成しています。
さて、この中新世という時代ですが、日本海沿岸で、多くの地域にわたって火山活動が起こった時期になります。火山活動の多くは、海中で起こり、火山岩とともに堆積岩も見つかることがあります。この時代のこれら地域の火山岩やその砕屑物の多くが、緑っぽい色をしていることから、グリーンタフ(green tuff、緑色の凝灰岩という意味)と呼ばれています。時代と地域を限定されているため、それらの岩石を生み出した活動を総称して、グリーンタフ変動と呼ばれることがあります。
グリーンタフ変動とは、何を意味しているのでしょうか。実は、日本列島の形成において、重要な役割を果たしていることがわかってきました。
日本列島は、昔からずっと列島として存在したのではなく、中新世以前は、大陸の端にくっついて存在していました。中新世になって、大陸の縁に巨大な裂け目(リフトと呼ばれます)ができました。その裂け目は現在アフリカ大陸に見られる大地溝帯のようなものだと考えられています。その割れ目に沿って、激しい火山活動が起こりました。
割れ目の拡大と共に、海水が浸入してきました。それが今の日本海の始まりです。完全に大陸から切り離された陸地は、日本列島の始まりとなります。東北日本は、激しい火山活動をしていましたが、中新世にはまだ陸化しておらず、ほとんど海底での活動でした。鮮新世になると、陸化しはじめてきました。
西南日本では東北日本ほど激しい活動ではありませんでしたが、日本海周辺での火山活動が多くの場所でみれます。東尋坊の火山活動も、グリーンタフ変動の日本海形成に伴う火山活動だと考えられています。比較的穏やかな火山活動とはいっても、人間にとっては、日本でも有数の雄大な景観を思わせるのです。
私が、東尋坊を訪れたのは、時々小雨の降る、風の強い、肌寒い日でした。絶壁の端っこに立つと、足がすくむような思いがします。それでも怖いもの見たさでしょうか、多くの観光客が、断崖の端に立っていました。私は、もしそのとき風が吹いたら、もし足が滑ったら、もしバランスを崩したらなどと考えると、とても端に立つことなどできませんでした。
私のそのような「恐れ」の気持ちは、小さな人間が持っている取るに足らないものかもしれません。地球の時間の流れからすれば、東尋坊の断崖絶壁もやがては、移ろい変化するものです。しかし、節理という何もない隙間から読み取れるマグマの物語があるように、小さな人間の「恐れ」の気持ちは、大地の偉大さを無意識に読み取ってものかもしれません。そんな見えない物語を、私は、節理の隙間から眺めていたのかもしれません。
・候補地選び・
この月刊のエッセイは、今まで、北海道と
それ以外の地域(北海道の人は内地と呼びます)を
交互に繰り返しながら書いてきました。
私が、北海道に住んでいるから、それが適切なやり方だと思っていました。
しかし、今回から、その順番を守らないことにしました。
その理由は、北海道内は、出かけることも多いのですが、
ワンポイントである地域を見に出かけます。
ですから、一回のエッセイのネタにはなりますが、
6回分書くには、長期に旅行をするか、何度も旅行するかになります。
近くなら何度もいけますが、遠くとなるたとえ北海道内とはいえ、
多くの日数を費やします。
ところが内地なら、長期の旅で、何箇所も見学することになります。
主に海岸沿いですが、現在研究の一環として、
長期計画ですが、日本列島の多くの地域を訪れる計画をしています。
そのため、年に1度か2度は、長期の内地旅行にでかけています。
ですから、内地のネタであれば、それを何回かに分けて書けます。
今回の京都から北陸の旅も、あと2回書く予定をしています。
以上のようなわけで、今後このようなパターンで
エッセイを続けていきますので、ご了承ください。
・グリーンタフ・
グリーンタフというのは、地質学者が野外で岩石を呼ぶときに用いた
一種のニックネーム(フィールドネームといいます)から由来しています。
ですから、グリーンタフ変動に含まれる岩石が
すべて緑色っぽいかというと必ずしもそうではありません。
グリーンが少ないものだってあります。
東尋坊の安山岩も緑色ではなく、灰色です。
グリーンタフの岩石は、もともと緑色の岩石であったのではありません。
岩石を構成している輝石や角閃石などの鉱物が、
海底で熱水による変質のため粘土鉱物(緑泥石などの緑色の鉱物)に
変化したものです。
今では、グリーンタフが海底火山として誕生したこと、
さらにそれが日本列島の誕生に深く関わっていたことがわかってきて
その重要性は増してきました。
2008-03-15
39 竜串:地層の串刺しを目指して(2008.03.15)
Time:
9:26
●
Geologist
黒潮に洗われる四国西南端の足摺岬の付け根に竜串ということろがあります。竜串では、隆起した海食台があり、地層をよくみることができます。そんな地層を串刺しにするつもりで調査にいきました。
2007年9月に四国の南西にある竜串というところに行きました。竜串の近くの「見残し」というところとともに、奇岩からなる海岸として、観光地になっています。竜串の名称は、地層の並びが竜を串差しにしたように見えるためだという説があります。私は、航空写真も見ているのですが、そうは見えません。
海岸の地層は、非常に整然ときれいに露出しています。北東-南西に伸びて(北から東へ約60度)、西に約60度の傾斜した地層となっています。それが、竜のうろこのように見えるのかもしれません。
竜串や見残しは、このような整然とした地層がさまざまな形態を持っているので、名所となっているのす。竜串は、高知県の足摺岬の付け根付近にあたり、土佐清水市にあります。
竜串は、駐車場から歩いていけますが、見残しは竜串から船を利用するか、半島の尾根からかなり歩いて降りるしかありません。年間80万人も観光客が訪れている足摺岬と比べると、竜串はその5分の1ほどの観光客しか訪れません。まして、アクセスの悪い見残しは、さらに少なくなります。しかし、観光客が訪れないから、面白くないかというとそうではなく、私にとっては足摺岬より竜串や見残しのほうがずっと興味深いものでした。
そもそも私が竜串を訪れたのは、地層調査をするためでした。とはいっても、一般的な地質調査ではなく、調査法の開発を目的としていました。デジタル画像でもれなく詳細に地層を記録する方法を考案して、それを検証するためでした。そのために典型的な地層の出ている場所を探していました。愛媛県西予市城川町の地質館でおこなっている仕事もあったので、四国西部で探していたところ、竜串が候補に上がったのです。
竜串や見残しは、足摺宇和海国立公園に1972年11月10日に指定されています。海中公園とは、海中に美しい景観や貴重な自然があるために指定されたものです。この付近の海は黒潮の影響を受けているため、サンゴや熱帯魚などがみられます。グラスボートや海中展望塔などもあるため、海中も見ることができます。
調査の候補地として国立公園は最適でした。なぜなら、試料を採取することはありませんから、アクセスが良く、環境が整備され、宿泊施設が近くにあるためです。
足摺岬から竜串にかけては、海岸が隆起した地形で、海岸段丘が発達しています。海岸線は海の波によって侵食(海食と呼ばれています)を受けて、断崖がつらなる険しい地形となっています。竜串や見残しは、海食台が海面上に顔を出し、不思議な景観を見ることができます。このような景観を見るべき価値があるのですが、弘法大師がこのような素晴らしいところを見残したということにちなんで、地名がつけられたそうです。ただ、史実がどうかはわかりませんが。
このような隆起は、地球の営みであるプレートテクトニクスによっておこっています。四国の太平洋側の南海トラフでは、フィリピン海プレートが沈みこんでいます。このような場所は、海洋プレートの沈み込みによって南から北におされて圧力を受けます。そのため、陸側は大地が圧縮される所になり、場所によって上昇したり下降したりすることになりますが、全体としては上昇していきます。また、沈み込むプレートに引きずりこまれた岩石が、その引きずりの力を変形によって吸収しきれないとき、岩石は壊れながら跳ね返り(弾性跳ね返りと呼ばれます)が起こります。それが、海溝タイプの地震となります。
これらの作用が四国の太平洋側では継続的に働いています。1946年に起こった南海地震では、足摺岬周辺は1mほど隆起しました。広域で平均すると1000年で2~5mほどの隆起していると推定されます。竜串や見残し海岸は、2000から3000年前に隆起したと考えらています。
四国の南西部は、足摺岬や沖の島で花崗岩などの火成岩がところどころにみられますが、それ以外の地域は、中生代から新生代の地層が広く分布しています。このような堆積岩の分布する地帯を、川の名称から四万十帯と呼んでいます。
四万十帯は、北から白亜紀前期(1億2000万~1億年前)、白亜紀後期(1億~6500万年年前)、新生代始新世から漸新世前期(5000万~4000万年前)、漸新世後期から中新世(3000万~2000万年前)の地層が東西に帯状に分布しています。北ほど古く、南ほど新しい地層がでています。これはフィリピン海プレートの沈み込みによって、大陸棚にたまった地層が長い時間をかけて持ち上げられた結果です。四万十帯の地層は、大地の営みの歴史が、残されているところなのです。
竜串は、四万十帯の中で一番南方に位置していますから、最も新しい漸新世後期から中新世に形成された地層となります。岩石としては、砂岩と泥岩が交互に繰り返している地層(互層と呼びます)からできています。このような互層が繰り返しているものは、陸地から大陸棚に向かって、何度も土石流(乱泥流あるいはタービタイトと呼ばれています)が流れ込んだ場所になります。
大局的見ると地層が整然と並んでいますが、ひとつひとつの地層をよく見ると、それぞれに個性があります。
地層の中に細いすじが多数見られることがあります。すじが斜交するものを斜交葉理(クロスラミナ)、平行なものを平行葉理(パラレルラミナ)と呼んでいます。葉理は、地層がたまるときの流れの様子を現しています。斜交葉理は乱れた流れを反映したもので、平行葉理は静かにたまったり、一定した流れでできます。
地層内で土砂がたまるときに、堆積状態が乱れる(乱堆積と呼ばれる)と、さまざまな変わった形態の地層ができていきます。まだ固っていない泥の中に、地震で液状化現象で砂が移動して、地層の中で縞模様が褶曲したりします。このような渦巻き構造は、コンボリューションとよばれ、竜串で「しぼり幕」や「らんま岩」とよばれているものがその典型的な例となります。
また、下の地層から水が噴出したときに通過された地層には、竹の節目のような構造ができます。これも竜串では「大竹小竹」と呼ばれているものです。
地層の中に石灰質や珪質などの球状の沈殿物が形成されることがあります。このようなものは団塊(ノジュール)と呼ばれ、ある地層に多数形成されることがあります。竜串では、「蛙の千匹づれ」があります。
海底の表面に波に形成された、規則正しく繰り返された波模様(漣痕:リップルマック)ができます。それを乱すことなく地層が覆うことよって地層の中に化石のように漣痕が残されることがあります。流れの方向と直交するようにリップルマークはできますが、緩やかな傾斜で非対称な波形は河口付近で、左右対称なものは浅海の海底で形成されたと考えられています。もちろんこのようなリップルマークも竜串でみることができます。
海底や海底の堆積物の中に住んでいた生物が残した、足跡・ハイ跡・巣穴・排泄物などが化石になることがあります。このような化石を生痕化石と呼んでいます。竜串・見残し海岸では、コブ状突起がある管状の生痕化石(アナジャコ類の住まいの跡)、管状のもの(カニやアナジャコ類などの巣穴や食べ歩き痕)などを多数みることができます。
これらの堆積物の特徴から、竜串の地層は、浅い(水深50m以下)の海底砂州でたまったと推定されています。
今回の調査は、このような地質を調べるのが目的ではなく、その記録をどうすれば効率的に、もれなくできるかを考えるものでした。そのために新しい調査用道具の試行も兼ねていました。
丸一日を詳細な調査に当てることができました。しかし、半日かけて長さで30m弱ほどの地層を連続的に詳細に記録したのですが、このペースでは到底終わりそうもないので、本当は竜串海岸の地層全体を対象にしたかったのですが、他に40m弱ほどの地層を簡易的に記録しました。合わせて66mの長さの地層を記録したことになります。それでも、竜串全体からすれば3分の1程度の地層しか記録したにすぎません。残念ですが、限られた時間でおこなった調査なのであきらめるしかありません。竜串の海岸線を串刺しにするような調査はやり切れませんでしたが、検討用のデータは十分取れたと思っています。その成果は、現在まとめている最中です。
・想定外・
竜串での調査は、丸3日間を予定しました。
本当は詳細な調査を2日、あとは道具の検証として、
周辺の地層の調査を1日かけて調査をやる予定をしていました。
できるだけ長く調査測線をとるため、
初日は一番端の地層からはじめることにしました。
朝、海岸に行くと、潮が満ちているときは、
海面にはでていない地層がかなりでていました。
これ幸いと調査をはじめたのですが、
乾いていない地層は非常に滑りやすく、
注意をしていたのですが、すべってころびました。
その時、あちこちすりむき、メガネも壊してしまいました。
擦り傷の治療とメガネの修理のために、
1日を台無しにしてしまいました。
カメラなどの機材は大丈夫だったので、
調査を継続することができました。
翌日、まだ傷はいえていませんが、
調査をしないと帰れませんから、かんばって始めたのですが、
こんどは暑さにやられて効率が上がりませんでした。
今回の竜串の調査では、なかなか大変の思いをしました。
・恒例の台風・
愛媛県西予市に私は毎年のように通っています。
昨年9月にもその予定があったので、
日程を調整して、竜串の調査を加えました。
しかし、千歳から出発のときに、台風が北海道を通過して、
予約していた飛行機の便が欠航になりました。
やむなく1日遅れで出発することになりました。
毎年、9月前半に出かけることが多いので、台風の影響を受けます。
昨年も例外ではなかったのです。
2007年9月に四国の南西にある竜串というところに行きました。竜串の近くの「見残し」というところとともに、奇岩からなる海岸として、観光地になっています。竜串の名称は、地層の並びが竜を串差しにしたように見えるためだという説があります。私は、航空写真も見ているのですが、そうは見えません。
海岸の地層は、非常に整然ときれいに露出しています。北東-南西に伸びて(北から東へ約60度)、西に約60度の傾斜した地層となっています。それが、竜のうろこのように見えるのかもしれません。
竜串や見残しは、このような整然とした地層がさまざまな形態を持っているので、名所となっているのす。竜串は、高知県の足摺岬の付け根付近にあたり、土佐清水市にあります。
竜串は、駐車場から歩いていけますが、見残しは竜串から船を利用するか、半島の尾根からかなり歩いて降りるしかありません。年間80万人も観光客が訪れている足摺岬と比べると、竜串はその5分の1ほどの観光客しか訪れません。まして、アクセスの悪い見残しは、さらに少なくなります。しかし、観光客が訪れないから、面白くないかというとそうではなく、私にとっては足摺岬より竜串や見残しのほうがずっと興味深いものでした。
そもそも私が竜串を訪れたのは、地層調査をするためでした。とはいっても、一般的な地質調査ではなく、調査法の開発を目的としていました。デジタル画像でもれなく詳細に地層を記録する方法を考案して、それを検証するためでした。そのために典型的な地層の出ている場所を探していました。愛媛県西予市城川町の地質館でおこなっている仕事もあったので、四国西部で探していたところ、竜串が候補に上がったのです。
竜串や見残しは、足摺宇和海国立公園に1972年11月10日に指定されています。海中公園とは、海中に美しい景観や貴重な自然があるために指定されたものです。この付近の海は黒潮の影響を受けているため、サンゴや熱帯魚などがみられます。グラスボートや海中展望塔などもあるため、海中も見ることができます。
調査の候補地として国立公園は最適でした。なぜなら、試料を採取することはありませんから、アクセスが良く、環境が整備され、宿泊施設が近くにあるためです。
足摺岬から竜串にかけては、海岸が隆起した地形で、海岸段丘が発達しています。海岸線は海の波によって侵食(海食と呼ばれています)を受けて、断崖がつらなる険しい地形となっています。竜串や見残しは、海食台が海面上に顔を出し、不思議な景観を見ることができます。このような景観を見るべき価値があるのですが、弘法大師がこのような素晴らしいところを見残したということにちなんで、地名がつけられたそうです。ただ、史実がどうかはわかりませんが。
このような隆起は、地球の営みであるプレートテクトニクスによっておこっています。四国の太平洋側の南海トラフでは、フィリピン海プレートが沈みこんでいます。このような場所は、海洋プレートの沈み込みによって南から北におされて圧力を受けます。そのため、陸側は大地が圧縮される所になり、場所によって上昇したり下降したりすることになりますが、全体としては上昇していきます。また、沈み込むプレートに引きずりこまれた岩石が、その引きずりの力を変形によって吸収しきれないとき、岩石は壊れながら跳ね返り(弾性跳ね返りと呼ばれます)が起こります。それが、海溝タイプの地震となります。
これらの作用が四国の太平洋側では継続的に働いています。1946年に起こった南海地震では、足摺岬周辺は1mほど隆起しました。広域で平均すると1000年で2~5mほどの隆起していると推定されます。竜串や見残し海岸は、2000から3000年前に隆起したと考えらています。
四国の南西部は、足摺岬や沖の島で花崗岩などの火成岩がところどころにみられますが、それ以外の地域は、中生代から新生代の地層が広く分布しています。このような堆積岩の分布する地帯を、川の名称から四万十帯と呼んでいます。
四万十帯は、北から白亜紀前期(1億2000万~1億年前)、白亜紀後期(1億~6500万年年前)、新生代始新世から漸新世前期(5000万~4000万年前)、漸新世後期から中新世(3000万~2000万年前)の地層が東西に帯状に分布しています。北ほど古く、南ほど新しい地層がでています。これはフィリピン海プレートの沈み込みによって、大陸棚にたまった地層が長い時間をかけて持ち上げられた結果です。四万十帯の地層は、大地の営みの歴史が、残されているところなのです。
竜串は、四万十帯の中で一番南方に位置していますから、最も新しい漸新世後期から中新世に形成された地層となります。岩石としては、砂岩と泥岩が交互に繰り返している地層(互層と呼びます)からできています。このような互層が繰り返しているものは、陸地から大陸棚に向かって、何度も土石流(乱泥流あるいはタービタイトと呼ばれています)が流れ込んだ場所になります。
大局的見ると地層が整然と並んでいますが、ひとつひとつの地層をよく見ると、それぞれに個性があります。
地層の中に細いすじが多数見られることがあります。すじが斜交するものを斜交葉理(クロスラミナ)、平行なものを平行葉理(パラレルラミナ)と呼んでいます。葉理は、地層がたまるときの流れの様子を現しています。斜交葉理は乱れた流れを反映したもので、平行葉理は静かにたまったり、一定した流れでできます。
地層内で土砂がたまるときに、堆積状態が乱れる(乱堆積と呼ばれる)と、さまざまな変わった形態の地層ができていきます。まだ固っていない泥の中に、地震で液状化現象で砂が移動して、地層の中で縞模様が褶曲したりします。このような渦巻き構造は、コンボリューションとよばれ、竜串で「しぼり幕」や「らんま岩」とよばれているものがその典型的な例となります。
また、下の地層から水が噴出したときに通過された地層には、竹の節目のような構造ができます。これも竜串では「大竹小竹」と呼ばれているものです。
地層の中に石灰質や珪質などの球状の沈殿物が形成されることがあります。このようなものは団塊(ノジュール)と呼ばれ、ある地層に多数形成されることがあります。竜串では、「蛙の千匹づれ」があります。
海底の表面に波に形成された、規則正しく繰り返された波模様(漣痕:リップルマック)ができます。それを乱すことなく地層が覆うことよって地層の中に化石のように漣痕が残されることがあります。流れの方向と直交するようにリップルマークはできますが、緩やかな傾斜で非対称な波形は河口付近で、左右対称なものは浅海の海底で形成されたと考えられています。もちろんこのようなリップルマークも竜串でみることができます。
海底や海底の堆積物の中に住んでいた生物が残した、足跡・ハイ跡・巣穴・排泄物などが化石になることがあります。このような化石を生痕化石と呼んでいます。竜串・見残し海岸では、コブ状突起がある管状の生痕化石(アナジャコ類の住まいの跡)、管状のもの(カニやアナジャコ類などの巣穴や食べ歩き痕)などを多数みることができます。
これらの堆積物の特徴から、竜串の地層は、浅い(水深50m以下)の海底砂州でたまったと推定されています。
今回の調査は、このような地質を調べるのが目的ではなく、その記録をどうすれば効率的に、もれなくできるかを考えるものでした。そのために新しい調査用道具の試行も兼ねていました。
丸一日を詳細な調査に当てることができました。しかし、半日かけて長さで30m弱ほどの地層を連続的に詳細に記録したのですが、このペースでは到底終わりそうもないので、本当は竜串海岸の地層全体を対象にしたかったのですが、他に40m弱ほどの地層を簡易的に記録しました。合わせて66mの長さの地層を記録したことになります。それでも、竜串全体からすれば3分の1程度の地層しか記録したにすぎません。残念ですが、限られた時間でおこなった調査なのであきらめるしかありません。竜串の海岸線を串刺しにするような調査はやり切れませんでしたが、検討用のデータは十分取れたと思っています。その成果は、現在まとめている最中です。
・想定外・
竜串での調査は、丸3日間を予定しました。
本当は詳細な調査を2日、あとは道具の検証として、
周辺の地層の調査を1日かけて調査をやる予定をしていました。
できるだけ長く調査測線をとるため、
初日は一番端の地層からはじめることにしました。
朝、海岸に行くと、潮が満ちているときは、
海面にはでていない地層がかなりでていました。
これ幸いと調査をはじめたのですが、
乾いていない地層は非常に滑りやすく、
注意をしていたのですが、すべってころびました。
その時、あちこちすりむき、メガネも壊してしまいました。
擦り傷の治療とメガネの修理のために、
1日を台無しにしてしまいました。
カメラなどの機材は大丈夫だったので、
調査を継続することができました。
翌日、まだ傷はいえていませんが、
調査をしないと帰れませんから、かんばって始めたのですが、
こんどは暑さにやられて効率が上がりませんでした。
今回の竜串の調査では、なかなか大変の思いをしました。
・恒例の台風・
愛媛県西予市に私は毎年のように通っています。
昨年9月にもその予定があったので、
日程を調整して、竜串の調査を加えました。
しかし、千歳から出発のときに、台風が北海道を通過して、
予約していた飛行機の便が欠航になりました。
やむなく1日遅れで出発することになりました。
毎年、9月前半に出かけることが多いので、台風の影響を受けます。
昨年も例外ではなかったのです。
2008-02-15
38 支笏湖:穏やかさと激しさ(2008.02.15)
Time:
9:26
●
Geologist
支笏湖には、自然が残されています。しかし、その自然の中には、穏やかな人を癒してくれるものだけでなく、激しい異変や破壊を伴うものもあります。それも含めて、自然と見る必要があるのかもしれません。
北海道の千歳空港のある千歳市の西側に支笏湖があり。我が家から支笏湖までは、車で2時間足らずで行けますので、時々家族で出かけます。2007年の年末に母が来た時も、一緒に支笏湖に出かけました。1949(昭和24)年に、支笏湖から洞爺湖にかけて支笏洞爺国立公園が指定されました。支笏湖を周回する道路がありますが、西側のオコタンから美笛間は狭い道で冬季は通れません。それ以外の周回道路は国道として冬季も通行できます。
私が支笏湖を訪れるのは、その静さに惹かれるためです。有名な観光地でありながら、大きな建物がほとんどなく、観光地らしくありません。温泉地でもあるのですが、けばけばしさはなく静けさの漂う町並みとなっています。湖の周囲を大きな山が囲んでいるため、よけいに人里を離れた情緒があります。幹線道路が周囲を囲んでいるのに、静けさが保たれているのは、やはり急峻な山に囲まれているため、開発の手がそれほど入らなかったためでしょう。
北から時計回りに、恵庭岳(標高1319m)、イチャンコッペ山(828m)、紋別岳(866m)、キムンモラップ山(478m)、モラップ山(507m)、風不死岳(1103m)、多峰古峰山(たっぷこっぷ、661m)、無名峰(742m)、丹鳴岳(になる、1039m)と高さは様々ですが、嶮しい山並みが、支笏湖周辺の自然を守護してきました。
支笏湖周辺はネオジン(かつては新第三紀と呼ばれていた時代)から火山活動が盛んで、モラップ山や、紋別岳、多峰古峰山が形成されていました。そこに約4万年前から、激しい火山活動が支笏湖では起こりました。その結果、直径12kmにもなるカルデラができ、湖を取り巻く嶮しい山並みが、カルデラ壁ができました。カルデラ形成後も火山活動が続き、風不死岳、恵庭岳、樽前山ができました。樽前山ではまだ噴気が続いている活火山です。このような火山によって支笏湖周辺には険しい地形ができました。
明治時代には、支笏湖から樽前山周辺の森林が御料林に1889(明治22)年に指定されました。御料林とは、皇室の経済基盤を固めるために財産として、旧憲法の施行を前に創設されたものです。
北海道内に工場適地を探していた王子製紙は、支笏湖周辺の木材資源と支笏湖の水資源を発電に利用することを考え、明治37年に苫小牧への進出を計画し、着工にはりました。
その工事のなさかの1909(明治42)年3月30日に、樽前山が噴火しました。現在あるドームは、17日から19日くらいの間に出現したものです。実は樽前山のドームはそれ以前にもありましたが、1874(明治7)年の爆発で消滅しています。それが、1909年に再度形成されました。
この噴火の時期に、アメリカの米国マサチューセッツ州高等工業学校の火山学者であったジャッカーが樽前山を調査しました。その調査の結果、「近く、再び大噴火があるから注意せよ」と、ドーム形成後にも大噴火があると日時まで予測し警告を発しました。そのため、工事関係者や地域住民はパニックになったのですが、幸いにも、当日は朝から上天気で、予測は外れました。
明治43年に王子製紙の工場が完成し、千歳川には発電所が建設されました。支笏湖の水位は、堰堤が設けられて、人工的に調節されるようになりました。
支笏湖を水源として目をつけられたのは、その貯水量と日本最北端の不凍湖であったためです。洞爺湖と共に支笏湖は、冬季でもほとんど凍ることがありません。また、支笏湖は面積は広くありませんが、カルデラの特徴で最大水深が363m、平均水深が264mもあり、コップのような形態をした湖です。そのため、支笏湖は、そほど大きな湖ではありませんが、琵琶湖(27.5立方km)に匹敵するほどの貯水量(21立方km)を持っています。ですから、発電用の貯水地としては、有望だったのです。
王子製紙は、苫小牧から支笏湖まで軽便鉄道(山線と呼ばれていた)をしきました。山線はかつては、物資運搬用でしたが、1922(大正11)年から観光客に利用されていました。しかし、もともと物資運搬用なので切符には、「人命の危険は保証されず」と書いてあったそうです。その名残として、支笏湖から流れ出る千歳川には山線鉄橋が残っています。
王子製紙が操業をはじめ、支笏湖周辺で多くのエゾマツやトドマツが伐採されました。しかし、支笏湖の自然は広く雄大で、伐採の影響はそれほどひどくなかったようです。
北海道や地元住民は、自然を守るために、国立公園の候補地として、支笏湖周辺を圧しました。1921(大正10)年に全国から16箇所が国立公園に指定され、そのうち北海道では、阿寒、登別、大沼が選ばれましたが、支笏湖は選かも漏れました。その時に道庁が調べたところ、支笏湖には数棟の建物があるだけで、まだまだ自然は残されていました。その後、1934(昭和9)年に阿寒と大雪山、が国立公園に指定されたものの、戦争が激しくなり、運動どころではなくなりました。そして、戦後4年目にして、支笏湖と洞爺湖周辺は、国立公園に指定されました。
もともと国有地であったため、土地利用の規制がきびしく新規企業の参入がないので、支笏湖周辺は開発がそれほど進むこともなく、現在に至っています。それでも、自然災害や人為による影響は避けることはできません。
火山による破壊も自然の営みで避けることができませんが、稀に襲う台風は、強風にさらされることの少ない北海道の森林には脅威となります。1954(昭和29)年の洞爺丸台風では、大量の風倒木が発生しました。その後、一部は植林ですが、自然自身の回復力で森林は復活しました。
1972(昭和47)年には、人為による破壊が再び起こります。札幌での冬季オリンピックの滑降競技のコースに、恵庭岳の斜面が選ばれました。もともとオリンピックのコースや施設のために、一時的な利用ですが、広範囲の樹木が伐採されました。しかし、オリンピック終了後は、施設は撤去され、植林もされたため、今ではその傷跡はかなり回復しています。
しかし、この「オリンピックによる自然破壊」は、のちのちまで影響を与えました。1998年2月の長野オリンピックで、手付かずの自然が残っている志賀高原の岩菅山が滑降競技の施設の予定になっていました。しかし、自然を保護するために、開発を断念されました。そこには恵庭岳の経験も活かされていました。
記憶にも新しい2004年9月の台風18号で、再び多くの風倒木がでました。その傷跡は現在も残されています。これらの風倒木を処理して、より災害に強い森林を目指して植林事業が取り組まれています。
自然は、自分自身で回復力をもっています。以前と、同じものではないですが、似た自然に戻ります。それには、何十年のスケールの長い時間が必要です。手出しをせずに長い時間見守りさえすれば、自然はもとの姿をとり戻します。その忍耐力が、人間の側にあるかどうかが問題なのかもしれません。破壊の原因である風雪や火山の営みも、自然の一環です。自然とは、人間にとって都合の良い奇麗事だけではないのです。穏やかさと激しさの両面を持った存在なのです。
一番寒い時期には、寒さを売りものにしたイベントが支笏湖ではあります。札幌の雪祭りと同じ頃になりますが、支笏湖では1月25日から2月17日まで「第30回千歳・支笏湖氷濤まつり」が行われています。湖畔には、多数の氷のオブジェがつくられて、いろいろなイベントが行われています。氷は湖水の水をスプリンクラーでかけて凍らせたものです。オブジェは、昼間は支笏湖ブルーに輝き、夜はライトアップされ幻想的な世界となります。私が訪れた年末には、厳冬期の祭りにそなえて、準備が進んでいました。見るほうはいいのですが、作る人たちは、寒い中、水をかけて作業をしていくことになります。
そんな作業風景を横目に、支笏湖畔の道路を走って、凍っていない湖面を眺めました。そして、自然の中の穏やかさと激しさについて考えました。
・新陳代謝・
一見原始に見えるの森も、見かけだけかもしれません。
原始の森を構成する木々の多くは、
火山や風雪などで何度も倒れては、蘇ってきた子孫たちです。
そうでなくては、原始林は樹齢何千年の木ばかりになります。
森林は、新陳代謝をするかのように、世代交代をしています。
古い大木もあれば、新しい若木や芽吹いたばかりの苗木もあります。
このような多様性が自然の摂理にかなったものです。
自然とは、新陳代謝が正常に機能していることなのでしょう。
・国民休暇村・
支笏湖畔に、「国民休暇村 支笏湖」があります。
その休暇村は、天然温泉があり、湖畔の温泉街からはずれた
キムンモラップ山の北側山麓に、ぽつんと佇んでいます。
その建物の周囲の自然が、私には好ましく思え、
支笏湖の定宿としています。
私は国民休暇村が好きで、出かける時に近くにあれば、
そこに泊まるようにしています。
でも、残念ながら、北海道では支笏湖が唯一つの国民休暇村です。
北海道の千歳空港のある千歳市の西側に支笏湖があり。我が家から支笏湖までは、車で2時間足らずで行けますので、時々家族で出かけます。2007年の年末に母が来た時も、一緒に支笏湖に出かけました。1949(昭和24)年に、支笏湖から洞爺湖にかけて支笏洞爺国立公園が指定されました。支笏湖を周回する道路がありますが、西側のオコタンから美笛間は狭い道で冬季は通れません。それ以外の周回道路は国道として冬季も通行できます。
私が支笏湖を訪れるのは、その静さに惹かれるためです。有名な観光地でありながら、大きな建物がほとんどなく、観光地らしくありません。温泉地でもあるのですが、けばけばしさはなく静けさの漂う町並みとなっています。湖の周囲を大きな山が囲んでいるため、よけいに人里を離れた情緒があります。幹線道路が周囲を囲んでいるのに、静けさが保たれているのは、やはり急峻な山に囲まれているため、開発の手がそれほど入らなかったためでしょう。
北から時計回りに、恵庭岳(標高1319m)、イチャンコッペ山(828m)、紋別岳(866m)、キムンモラップ山(478m)、モラップ山(507m)、風不死岳(1103m)、多峰古峰山(たっぷこっぷ、661m)、無名峰(742m)、丹鳴岳(になる、1039m)と高さは様々ですが、嶮しい山並みが、支笏湖周辺の自然を守護してきました。
支笏湖周辺はネオジン(かつては新第三紀と呼ばれていた時代)から火山活動が盛んで、モラップ山や、紋別岳、多峰古峰山が形成されていました。そこに約4万年前から、激しい火山活動が支笏湖では起こりました。その結果、直径12kmにもなるカルデラができ、湖を取り巻く嶮しい山並みが、カルデラ壁ができました。カルデラ形成後も火山活動が続き、風不死岳、恵庭岳、樽前山ができました。樽前山ではまだ噴気が続いている活火山です。このような火山によって支笏湖周辺には険しい地形ができました。
明治時代には、支笏湖から樽前山周辺の森林が御料林に1889(明治22)年に指定されました。御料林とは、皇室の経済基盤を固めるために財産として、旧憲法の施行を前に創設されたものです。
北海道内に工場適地を探していた王子製紙は、支笏湖周辺の木材資源と支笏湖の水資源を発電に利用することを考え、明治37年に苫小牧への進出を計画し、着工にはりました。
その工事のなさかの1909(明治42)年3月30日に、樽前山が噴火しました。現在あるドームは、17日から19日くらいの間に出現したものです。実は樽前山のドームはそれ以前にもありましたが、1874(明治7)年の爆発で消滅しています。それが、1909年に再度形成されました。
この噴火の時期に、アメリカの米国マサチューセッツ州高等工業学校の火山学者であったジャッカーが樽前山を調査しました。その調査の結果、「近く、再び大噴火があるから注意せよ」と、ドーム形成後にも大噴火があると日時まで予測し警告を発しました。そのため、工事関係者や地域住民はパニックになったのですが、幸いにも、当日は朝から上天気で、予測は外れました。
明治43年に王子製紙の工場が完成し、千歳川には発電所が建設されました。支笏湖の水位は、堰堤が設けられて、人工的に調節されるようになりました。
支笏湖を水源として目をつけられたのは、その貯水量と日本最北端の不凍湖であったためです。洞爺湖と共に支笏湖は、冬季でもほとんど凍ることがありません。また、支笏湖は面積は広くありませんが、カルデラの特徴で最大水深が363m、平均水深が264mもあり、コップのような形態をした湖です。そのため、支笏湖は、そほど大きな湖ではありませんが、琵琶湖(27.5立方km)に匹敵するほどの貯水量(21立方km)を持っています。ですから、発電用の貯水地としては、有望だったのです。
王子製紙は、苫小牧から支笏湖まで軽便鉄道(山線と呼ばれていた)をしきました。山線はかつては、物資運搬用でしたが、1922(大正11)年から観光客に利用されていました。しかし、もともと物資運搬用なので切符には、「人命の危険は保証されず」と書いてあったそうです。その名残として、支笏湖から流れ出る千歳川には山線鉄橋が残っています。
王子製紙が操業をはじめ、支笏湖周辺で多くのエゾマツやトドマツが伐採されました。しかし、支笏湖の自然は広く雄大で、伐採の影響はそれほどひどくなかったようです。
北海道や地元住民は、自然を守るために、国立公園の候補地として、支笏湖周辺を圧しました。1921(大正10)年に全国から16箇所が国立公園に指定され、そのうち北海道では、阿寒、登別、大沼が選ばれましたが、支笏湖は選かも漏れました。その時に道庁が調べたところ、支笏湖には数棟の建物があるだけで、まだまだ自然は残されていました。その後、1934(昭和9)年に阿寒と大雪山、が国立公園に指定されたものの、戦争が激しくなり、運動どころではなくなりました。そして、戦後4年目にして、支笏湖と洞爺湖周辺は、国立公園に指定されました。
もともと国有地であったため、土地利用の規制がきびしく新規企業の参入がないので、支笏湖周辺は開発がそれほど進むこともなく、現在に至っています。それでも、自然災害や人為による影響は避けることはできません。
火山による破壊も自然の営みで避けることができませんが、稀に襲う台風は、強風にさらされることの少ない北海道の森林には脅威となります。1954(昭和29)年の洞爺丸台風では、大量の風倒木が発生しました。その後、一部は植林ですが、自然自身の回復力で森林は復活しました。
1972(昭和47)年には、人為による破壊が再び起こります。札幌での冬季オリンピックの滑降競技のコースに、恵庭岳の斜面が選ばれました。もともとオリンピックのコースや施設のために、一時的な利用ですが、広範囲の樹木が伐採されました。しかし、オリンピック終了後は、施設は撤去され、植林もされたため、今ではその傷跡はかなり回復しています。
しかし、この「オリンピックによる自然破壊」は、のちのちまで影響を与えました。1998年2月の長野オリンピックで、手付かずの自然が残っている志賀高原の岩菅山が滑降競技の施設の予定になっていました。しかし、自然を保護するために、開発を断念されました。そこには恵庭岳の経験も活かされていました。
記憶にも新しい2004年9月の台風18号で、再び多くの風倒木がでました。その傷跡は現在も残されています。これらの風倒木を処理して、より災害に強い森林を目指して植林事業が取り組まれています。
自然は、自分自身で回復力をもっています。以前と、同じものではないですが、似た自然に戻ります。それには、何十年のスケールの長い時間が必要です。手出しをせずに長い時間見守りさえすれば、自然はもとの姿をとり戻します。その忍耐力が、人間の側にあるかどうかが問題なのかもしれません。破壊の原因である風雪や火山の営みも、自然の一環です。自然とは、人間にとって都合の良い奇麗事だけではないのです。穏やかさと激しさの両面を持った存在なのです。
一番寒い時期には、寒さを売りものにしたイベントが支笏湖ではあります。札幌の雪祭りと同じ頃になりますが、支笏湖では1月25日から2月17日まで「第30回千歳・支笏湖氷濤まつり」が行われています。湖畔には、多数の氷のオブジェがつくられて、いろいろなイベントが行われています。氷は湖水の水をスプリンクラーでかけて凍らせたものです。オブジェは、昼間は支笏湖ブルーに輝き、夜はライトアップされ幻想的な世界となります。私が訪れた年末には、厳冬期の祭りにそなえて、準備が進んでいました。見るほうはいいのですが、作る人たちは、寒い中、水をかけて作業をしていくことになります。
そんな作業風景を横目に、支笏湖畔の道路を走って、凍っていない湖面を眺めました。そして、自然の中の穏やかさと激しさについて考えました。
・新陳代謝・
一見原始に見えるの森も、見かけだけかもしれません。
原始の森を構成する木々の多くは、
火山や風雪などで何度も倒れては、蘇ってきた子孫たちです。
そうでなくては、原始林は樹齢何千年の木ばかりになります。
森林は、新陳代謝をするかのように、世代交代をしています。
古い大木もあれば、新しい若木や芽吹いたばかりの苗木もあります。
このような多様性が自然の摂理にかなったものです。
自然とは、新陳代謝が正常に機能していることなのでしょう。
・国民休暇村・
支笏湖畔に、「国民休暇村 支笏湖」があります。
その休暇村は、天然温泉があり、湖畔の温泉街からはずれた
キムンモラップ山の北側山麓に、ぽつんと佇んでいます。
その建物の周囲の自然が、私には好ましく思え、
支笏湖の定宿としています。
私は国民休暇村が好きで、出かける時に近くにあれば、
そこに泊まるようにしています。
でも、残念ながら、北海道では支笏湖が唯一つの国民休暇村です。
2008-01-15
37 沖縄バン岬:科学が教える大地の悠久(2008.01.15)
Time:
9:25
●
Geologist
以前にもこのエッセイでは、沖縄を紹介をしたことがあるのですが、もう一度、登場です。今回は、ある小さな岬の地層にこだわって紹介します。その岬は、バン岬と呼ばれ、沖縄中部の太平洋側(南東側)に面した海岸にあります。
沖縄には、何度が訪れています。それぞれ私なりの目的があったのですが、昨年春に訪れた時の目的は、褶曲した地層を観察することでした。「私なり」といったのは、家族連れで出かけているので、家族サービスをしなければなりません。ですから、私が家族をつれて自由に石をみにいけるのは、せいぜい1日か2日です。
子供か小さかったときには、私がでかけるところは、どこもで文句をいわずについてきたのですが、それなりに楽しんでいました。しかし、大きくなると、それぞれ行きたいところや、やりたいことがでてきて、そうそう私の自由に行動できるわけではなくなりました。そのような限られた時間で優先順位をつけたとき、一番の目的地が、バン岬の地層の褶曲をみることでした。
写真では何度も見ていて、ぜひ見てみたと思っていた褶曲でした。日本列島には、同様に褶曲した地層が、あちこちにあります。でも、地質案内で扉の写真でみた褶曲が、なぜか心に残っているのです。
目的の褶曲は、国頭(くにがみ)層群の中の嘉陽(かよう)層と呼ばれるものに見られます。嘉陽層は、中期始新世の中ごろ(4千数百万年前)にたまった地層です。目的の褶曲は、天仁屋(てにや)川という小さな川の河口から、海岸沿いを2kmほど南西に向かって歩いていったところにあります。少々不便なところにあるうえに、引き潮でないとバン岬までたどり着けません。
本当は大潮の時にいくのが一番いいはずなのですが、1週間の滞在で一番潮の引く時、そして晴れて海が穏やかな状態にある時でないとたどり着けません。ですから、予備日を見越して余裕をもって、出かける日を狙っていました。
実は、この海岸に来るのは2度目でした。一度目は、子供がまだ小さかったので、1時間も海岸線を歩くことはできないと思って、海岸に来て見ただけでした。
人気のない海岸は、快適でした。南国の海の開放感と太陽のまぶしさを感じていました。古い海の家の跡があるのみで、今では草むらと化しています。自然の海岸が、そこには広がっていました。その海岸を見て、次回はぜひ、この海岸の向こうにあるはずの褶曲を見たいと思いながら引き返しました。
2度目に訪れた時は、褶曲を見ためにバン岬に向かうことにしました。潮がちょうど引く時間帯をねらって出かけました。3月下旬でしたが、快晴の中、海岸を歩き始めました。1時間ほど海岸を歩くと、子供たちは暑さに参ってしまいました。それでも子供たちを、なだめすかしながら歩いて、やっと見覚えのある大褶曲の露頭にたどり着きました。
大褶曲だけでなく、地層がのた打ち回っているような景観は、奇異で目を惹かれます。単に奇異ではなく、そこには、小さな人間が圧倒される迫力がありました。そんな地層を眺めながら、自分が持っている地層の形成や褶曲の形成の理屈をひねくりまして、どうしてできたかに考えをめぐらせていました。
地質学者たちが、現段階で得ている知識によれば、以下のような褶曲の形成史が編めます。
嘉陽層がたまったのは、暖かい海の大陸斜面の深度3500から5500mの海溝近くのだと考えられています。そのようなことがわかるのは、地質学者たちが、海岸を歩きながら詳細に調査した結果です。地層のある面に、生物の這い回った跡が残されています。これも一種の化石で、生痕化石と呼ばれています。このような這い跡のうち、特徴のあるものは、どのような生物が這い回ったからもわかっています。そしてそのような生物の中には、現在にも似たものが生きていて、それらの生息環境と這い跡を比べれば、どのような環境かがわかります。似た這い跡が海溝付近でも見つかっています。這い跡の類似性から、生物の住む海底の深度が推定されています。また、地層に含まれている化石から、暖かい海であることもわかります。
大褶曲は、砂岩から泥岩への変化している一連の岩石が、一つの地層を構成しています。このような一枚の地層を単層と呼んでいます。単層が何層も繰り返し重なって厚い地層が形成されていきます。
一見静かな深海底に、砂の成分の多い乱泥流が流れ込みます。乱泥流に襲われた生物は生き埋めになったことでしょう。乱泥流が収まると、再び生物が復活します。もちろん、生物の復活にはそれなりの時間が必要です。しかし、地質現象には充分すぎるほどの時間があります。
たまたまきれいに均された海底を生物が這いまわり、その上に這い跡を消すことなく、上手く砂が覆いかぶさった時に生痕化石が形成されます。ですから、生痕化石がどの地層面からでも見つかるものではありません。条件がよければ残るということです。しかし、大量にある地層からは、生痕化石が、よく見つかります。ですから、嘉陽層をためた海底は、生痕化石を残すに適した場所だったのでしょう。
ひとつの地層は、数時間から数日という短時間で形成されますが、次の地層がたまるまで、長い時間が経過します。数十年、数百年、時には数千年間、何も起こらない時期があります。そん不連続な地質現象の繰り返しが、地層には刻まれています。
海溝とは、海洋プレートが別のプレートの下に沈み込む場所です。そのような海溝近くの大陸斜面の地下では、プレートに押されて、地層には曲がるような力が働きます。その時、地層の状態によって、さまざまな曲がり方をします。
まだ固まっていないで水をたくさん含んだ地層が圧されると、地層は割れれるこなく、複雑に曲がっていきます。また、砂岩には不規則な洗濯板のようなでこぼこ(ムリオン構造と呼ばれます)ができることもあります。
砂岩の水分がなくなり、泥岩の水分が残っている場合には、泥岩の部分だけが分厚くなったり、割れた砂岩の中に泥岩が流れて進入したりすることがあります。
砂岩も泥岩も固まっている時、大量の土石流が新たに流れ込んでくると、もともとあった地層が削られることがあります。削った土石流の中には、化石が見つかることがあります。嘉陽層では、破片になっていますが、貨幣石が見つかりました。貨幣石とは、有孔虫とよばれるプランクトンの一種で、地質時代を区分するに古くから用いられていました。貨幣石から、時代を決めることできました。
さらに長い時間が経過していくと、すべての地層は硬くなります。プレートの沈み込みが続くと、海溝付近の大陸斜面にはつぎつぎと地層がたまります。そのような地層に圧されて、古い地層が陸上に顔を出します。このようなでき方をした地層を、付加体と呼びます。日本列島のような海洋プレートが沈み込んだ陸側のプレートでは、付加体が海溝と並行にできます。嘉陽層は、沖縄本島ではもっと南東側にあるため、もっとも新しい時代の付加体となります。
曲がりくねった地層を詳細にみていくと、長い時間に渡って、何段階もの大地の営みが作用していることがわかります。地質学者は、圧倒されそうな大褶曲を前にしても、詳細な調査や研究をぬかることなく続け、褶曲の中に隠されている大地の歴史やメカニズムを解き明かしていきます。褶曲という大地の圧倒的な力による自然の営みを、ささやかな力しか持たない人間が科学によって解明していきます。そんな自然と科学のせめぎあいが、そこにありました。
私は、崖の前にたたずみ、なぜ無機質の地層がこのような迫力を持つのだろうか、と考えていました。人気のない海岸にただそびえる褶曲した地層の崖に、迫力を感じるのは、単に大きいだけでなく、大地の営みの悠久さを、科学が教えくれ、感じさせてくれるためなのかもしれないと思い至りました。
私が見た大褶曲の露頭は、いくつかある写真の一部でした。しかし、一番見たかったのは、倒れてくしゃくしゃに曲がっている褶曲でした。大褶曲の露頭の向こう側に、その褶曲があるように思えました。しかし、そのためには、崖を少し登り、まわりこまなければなりません。その時は、子供たちが体力的にそれ以上進むのはムリでした。そのために、残念ながら、この大褶曲が今回の終点となりました。でも、もし次回、沖縄へいく機会があれば、今度はぜひとも、写真の褶曲を見てみたいと考えています。
・ライフワーク・
月刊メールマガジン「大地を眺める」も、
今年で4年前に突入します。
この連載は、北海道地図株式会社さんとの共同で始めた企画です。
私は、自分の興味や研究上のために日本各地をめぐっています。
その研究成果は科学普及のためにも利用しています。
北海道地図さんから数値標高のデータを提供いただいて、
エッセイの内容をよりわかりやすくするために、
データ処理を行い地形や地質を示すようにして公開しています。
できれば、日本全国をもれなく、
地質や地形を紹介していくつもりでいます。
しかし、ホームページを見ていただくとわかるのですが、
全国を網羅することは未だにできていません。
まだまだ、道半ばです。
いつ完成するかわかりませんが、
気長にライフワークとして取り組んでいこうと思っています。
・沖縄行・
昨年春に、沖縄のバン岬に行きました。
沖縄は、私が住んでいる北海道からは遠いところです。
その時は、JALの直行便があったのですが、
いまでは、直行便がなくなり、乗り継がなければなりません。
少々、遠く感じるようになりました。
我が家の長男が乗り物に弱いため、
乗り継ぎでは、時間が余計にかかり
行くのを躊躇してしまいます。
今年の春休みもできれば行きたいのですが、
どうなるかは、まだ未定です。
沖縄には、何度が訪れています。それぞれ私なりの目的があったのですが、昨年春に訪れた時の目的は、褶曲した地層を観察することでした。「私なり」といったのは、家族連れで出かけているので、家族サービスをしなければなりません。ですから、私が家族をつれて自由に石をみにいけるのは、せいぜい1日か2日です。
子供か小さかったときには、私がでかけるところは、どこもで文句をいわずについてきたのですが、それなりに楽しんでいました。しかし、大きくなると、それぞれ行きたいところや、やりたいことがでてきて、そうそう私の自由に行動できるわけではなくなりました。そのような限られた時間で優先順位をつけたとき、一番の目的地が、バン岬の地層の褶曲をみることでした。
写真では何度も見ていて、ぜひ見てみたと思っていた褶曲でした。日本列島には、同様に褶曲した地層が、あちこちにあります。でも、地質案内で扉の写真でみた褶曲が、なぜか心に残っているのです。
目的の褶曲は、国頭(くにがみ)層群の中の嘉陽(かよう)層と呼ばれるものに見られます。嘉陽層は、中期始新世の中ごろ(4千数百万年前)にたまった地層です。目的の褶曲は、天仁屋(てにや)川という小さな川の河口から、海岸沿いを2kmほど南西に向かって歩いていったところにあります。少々不便なところにあるうえに、引き潮でないとバン岬までたどり着けません。
本当は大潮の時にいくのが一番いいはずなのですが、1週間の滞在で一番潮の引く時、そして晴れて海が穏やかな状態にある時でないとたどり着けません。ですから、予備日を見越して余裕をもって、出かける日を狙っていました。
実は、この海岸に来るのは2度目でした。一度目は、子供がまだ小さかったので、1時間も海岸線を歩くことはできないと思って、海岸に来て見ただけでした。
人気のない海岸は、快適でした。南国の海の開放感と太陽のまぶしさを感じていました。古い海の家の跡があるのみで、今では草むらと化しています。自然の海岸が、そこには広がっていました。その海岸を見て、次回はぜひ、この海岸の向こうにあるはずの褶曲を見たいと思いながら引き返しました。
2度目に訪れた時は、褶曲を見ためにバン岬に向かうことにしました。潮がちょうど引く時間帯をねらって出かけました。3月下旬でしたが、快晴の中、海岸を歩き始めました。1時間ほど海岸を歩くと、子供たちは暑さに参ってしまいました。それでも子供たちを、なだめすかしながら歩いて、やっと見覚えのある大褶曲の露頭にたどり着きました。
大褶曲だけでなく、地層がのた打ち回っているような景観は、奇異で目を惹かれます。単に奇異ではなく、そこには、小さな人間が圧倒される迫力がありました。そんな地層を眺めながら、自分が持っている地層の形成や褶曲の形成の理屈をひねくりまして、どうしてできたかに考えをめぐらせていました。
地質学者たちが、現段階で得ている知識によれば、以下のような褶曲の形成史が編めます。
嘉陽層がたまったのは、暖かい海の大陸斜面の深度3500から5500mの海溝近くのだと考えられています。そのようなことがわかるのは、地質学者たちが、海岸を歩きながら詳細に調査した結果です。地層のある面に、生物の這い回った跡が残されています。これも一種の化石で、生痕化石と呼ばれています。このような這い跡のうち、特徴のあるものは、どのような生物が這い回ったからもわかっています。そしてそのような生物の中には、現在にも似たものが生きていて、それらの生息環境と這い跡を比べれば、どのような環境かがわかります。似た這い跡が海溝付近でも見つかっています。這い跡の類似性から、生物の住む海底の深度が推定されています。また、地層に含まれている化石から、暖かい海であることもわかります。
大褶曲は、砂岩から泥岩への変化している一連の岩石が、一つの地層を構成しています。このような一枚の地層を単層と呼んでいます。単層が何層も繰り返し重なって厚い地層が形成されていきます。
一見静かな深海底に、砂の成分の多い乱泥流が流れ込みます。乱泥流に襲われた生物は生き埋めになったことでしょう。乱泥流が収まると、再び生物が復活します。もちろん、生物の復活にはそれなりの時間が必要です。しかし、地質現象には充分すぎるほどの時間があります。
たまたまきれいに均された海底を生物が這いまわり、その上に這い跡を消すことなく、上手く砂が覆いかぶさった時に生痕化石が形成されます。ですから、生痕化石がどの地層面からでも見つかるものではありません。条件がよければ残るということです。しかし、大量にある地層からは、生痕化石が、よく見つかります。ですから、嘉陽層をためた海底は、生痕化石を残すに適した場所だったのでしょう。
ひとつの地層は、数時間から数日という短時間で形成されますが、次の地層がたまるまで、長い時間が経過します。数十年、数百年、時には数千年間、何も起こらない時期があります。そん不連続な地質現象の繰り返しが、地層には刻まれています。
海溝とは、海洋プレートが別のプレートの下に沈み込む場所です。そのような海溝近くの大陸斜面の地下では、プレートに押されて、地層には曲がるような力が働きます。その時、地層の状態によって、さまざまな曲がり方をします。
まだ固まっていないで水をたくさん含んだ地層が圧されると、地層は割れれるこなく、複雑に曲がっていきます。また、砂岩には不規則な洗濯板のようなでこぼこ(ムリオン構造と呼ばれます)ができることもあります。
砂岩の水分がなくなり、泥岩の水分が残っている場合には、泥岩の部分だけが分厚くなったり、割れた砂岩の中に泥岩が流れて進入したりすることがあります。
砂岩も泥岩も固まっている時、大量の土石流が新たに流れ込んでくると、もともとあった地層が削られることがあります。削った土石流の中には、化石が見つかることがあります。嘉陽層では、破片になっていますが、貨幣石が見つかりました。貨幣石とは、有孔虫とよばれるプランクトンの一種で、地質時代を区分するに古くから用いられていました。貨幣石から、時代を決めることできました。
さらに長い時間が経過していくと、すべての地層は硬くなります。プレートの沈み込みが続くと、海溝付近の大陸斜面にはつぎつぎと地層がたまります。そのような地層に圧されて、古い地層が陸上に顔を出します。このようなでき方をした地層を、付加体と呼びます。日本列島のような海洋プレートが沈み込んだ陸側のプレートでは、付加体が海溝と並行にできます。嘉陽層は、沖縄本島ではもっと南東側にあるため、もっとも新しい時代の付加体となります。
曲がりくねった地層を詳細にみていくと、長い時間に渡って、何段階もの大地の営みが作用していることがわかります。地質学者は、圧倒されそうな大褶曲を前にしても、詳細な調査や研究をぬかることなく続け、褶曲の中に隠されている大地の歴史やメカニズムを解き明かしていきます。褶曲という大地の圧倒的な力による自然の営みを、ささやかな力しか持たない人間が科学によって解明していきます。そんな自然と科学のせめぎあいが、そこにありました。
私は、崖の前にたたずみ、なぜ無機質の地層がこのような迫力を持つのだろうか、と考えていました。人気のない海岸にただそびえる褶曲した地層の崖に、迫力を感じるのは、単に大きいだけでなく、大地の営みの悠久さを、科学が教えくれ、感じさせてくれるためなのかもしれないと思い至りました。
私が見た大褶曲の露頭は、いくつかある写真の一部でした。しかし、一番見たかったのは、倒れてくしゃくしゃに曲がっている褶曲でした。大褶曲の露頭の向こう側に、その褶曲があるように思えました。しかし、そのためには、崖を少し登り、まわりこまなければなりません。その時は、子供たちが体力的にそれ以上進むのはムリでした。そのために、残念ながら、この大褶曲が今回の終点となりました。でも、もし次回、沖縄へいく機会があれば、今度はぜひとも、写真の褶曲を見てみたいと考えています。
・ライフワーク・
月刊メールマガジン「大地を眺める」も、
今年で4年前に突入します。
この連載は、北海道地図株式会社さんとの共同で始めた企画です。
私は、自分の興味や研究上のために日本各地をめぐっています。
その研究成果は科学普及のためにも利用しています。
北海道地図さんから数値標高のデータを提供いただいて、
エッセイの内容をよりわかりやすくするために、
データ処理を行い地形や地質を示すようにして公開しています。
できれば、日本全国をもれなく、
地質や地形を紹介していくつもりでいます。
しかし、ホームページを見ていただくとわかるのですが、
全国を網羅することは未だにできていません。
まだまだ、道半ばです。
いつ完成するかわかりませんが、
気長にライフワークとして取り組んでいこうと思っています。
・沖縄行・
昨年春に、沖縄のバン岬に行きました。
沖縄は、私が住んでいる北海道からは遠いところです。
その時は、JALの直行便があったのですが、
いまでは、直行便がなくなり、乗り継がなければなりません。
少々、遠く感じるようになりました。
我が家の長男が乗り物に弱いため、
乗り継ぎでは、時間が余計にかかり
行くのを躊躇してしまいます。
今年の春休みもできれば行きたいのですが、
どうなるかは、まだ未定です。
2007-12-15
36 幌尻岳:石を愛でる楽しみ(2007.12.15)
Time:
9:25
●
Geologist
地質百選の中に、北海道の幌尻岳の七つ沼カールが選ばれています。今回は、幌尻岳を紹介します。幌尻岳は、私が地質学を目指したときに出会った山でもあります。
地質百選というものを御存知でしょうか。2007年10月に「日本列島ジオサイト地質百選」(ISBN978-4-274-20460-9 C3051)という本が出版されたので、目にされた方もおられるかもしれません。
もともとは、NPO地質情報整備・活用機構と(社)全国地質調査業協会連合会が、地質を中心とした自然で、保全、活用、災害防止、観光などの目的で、全国から「地質百選」を募集したものです。
この本の中で、北海道からは7箇所が選ばれています。知床半島、白滝(黒曜石)、神居古潭渓谷(変成岩)、夕張岳(蛇紋岩メランジェ)、夕張(石炭の大露頭)、有珠山・昭和新山、そして今回紹介する幌尻(ぽろしり)岳(七つ沼カール)です。
このエッセイは、行ったところを題材にしていますので、神居古潭渓谷と有珠山は、すでに紹介しました。しかし、知床半島、白滝、夕張岳、夕張はまだ行っていないので紹介できません。そのうち、行こうと思っています。
幌尻岳は、一度は登り、もう一度は近くの山から眺めたことがあります。ずいぶん前のことなので、記憶もはっきりしないので、取り上げることに躊躇していたものです。しかし、これからしばらく行くことはなさそうなので、今回思い切って取り上げることにしました。
私の幌尻岳への登山は、私自身の地質学や地質調査への目覚めの時期でもあります。私は大学2年生の夏に地質学を始めると決意して、N先生とA先生に連れられて、はじめて日高山脈に入りました。そのときが、私にとっては、はじめて本格的な沢登りによる地質調査でした。キャンプの道具や食料もすべての荷物を自分で背負って、わらじと地下足袋をはいて、新冠(にいかっぷ)川を遡上しながら調査をしていきました。私と同級生の友人が、二人の先生の野外調査に同行させてもらいました。2泊のキャンプをして、調査をしました。今思えば、同行というより、足手まといにすぎなかったでしょう。ただただ付いていくのがやっとでした。しかし、私にとっては、それまでに味わったことのない経験で、強烈に印象に残っています。
谷の合間から幌尻岳の白い山容が見えました。新冠川がどこまで行っても川は細ることなく、嶮しくなっていくだけでした。新冠川の源流が、日高の主峰ともいうべき幌尻岳でした。
3年生になって、夏に進級論文で数週間、学科の学生全員が定められた地域で、野外調査をしました。その野外実習の後の9月には、奥新冠ダムで先生の知り合いと先輩が調査に入っていたので、そのグループに、N先生とA先生、例の友人と私が、合流して調査に加わることになりました。一日を、幌尻岳の登山にあててもらいました。その時、はじめて幌尻岳の山頂に立ちました。しかし、もともと登山が目的でなかったため、あれよあれよというまに山頂に立ち、下山してきました。
新冠川は、幌尻岳の北東に位置する七つ沼カール源流とします。新冠川の支流の幌尻沢沿いに、幌尻岳の南側の登山道があります。そこを利用して、私は山頂に立ったわけです。
幌尻岳へは、他に北側の登山ルートが二つあります。ひとつは沙流川の支流の額平(ぬかびら)川から直接幌尻岳に登山するルート、もう一つは、同じく沙流川の支流の千呂露(ちろろ)川から戸蔦別(とったべつ)岳を経由する稜線のルートがあります。
4年生の夏に千呂露川のルートから、北戸蔦別岳から戸蔦別岳にいきました。私はその時期には、卒業論文で、新冠川より南にある静内川に野外調査のために入っていた。調査も一休みして、N先生といつもの同級生、そして下級生2名のチームに合流しました。戸蔦別岳の麓の水場でキャンプをして調査をしました。そのときも、N先生の調査に同行するのが、主な目的でした。
幌尻岳周辺のいずれの調査も、私自身は、先生や先輩の手伝いで、自分自身が、地質学的な目的をもった野外調査ではありません。ですから、石や石の出かた(産状といいます)を、いろいろ見るだけで、地質学的な研究をしていたわけではありませんでした。しかし、後で思い起こすと、実は重要なことを学んでいたのだと気づきました。
標高2052mの幌尻岳は、日高山脈の中でも最高峰で、山も奥深く、アプローチが長く、日帰り登山が不可能な山です。登山ルートはあっても、沢登りもしなければなりませんので、なかなか頂上を極めるのが大変な山です。その山を、登山ではなく、道なきところへ分け入り、調査する地質学者もいるわけです。同行したいずれの調査でも、先生や先輩たちは、真剣に野外調査に取り組んでいました。私が、登るのもやっとのような沢でも、彼らは、黙々として、そして喜々として調査をしてました。それをみて、地質調査、地質学、科学というものは、それほど面白く魅力的なのだということを、見せつけられた思いでした。
その頃からでしょうか。景色や自然をただ愛(め)でる楽しみより、石や地質を愛でる楽しみのほうが強くなったのは。私も、石と地質の魅力に引き込まれました。今では、若い頃のような体力はなく、多分これからは幌尻岳のようなところへは登れないでしょう。かといって、残念でもありません。頂上を目指すことが地質学ではなく、そこに調べたいものがあるから、調査をしにいく通過点にすぎないのです。たまたま頂上にも調べたいものがあるのなら、調査の一環として頂上に向かうでしょう。ただ、それだけのことです。
もし地質学者が頂上だけを目指すのであれば、それは趣味というべきでしょう。4年生の卒業論文で野外調査をしている時、調査地の近くにあったペテガリ岳や、少々遠いですがアポイ岳に、趣味として登っていました。これは地質調査ではなく、頂上だけを目指すことだけが目的でした。早くたどり着き、すぐに降りてくる。登ったという実績、経験だけが重要でした。まあ、あのころは体力があったので、そんなこともできたのですが。
最後になりましたが、幌尻岳周辺の地質を紹介しておきましょう。
日高山脈は、かつては大きな山脈ではなく、海に列島があっただけでした。列島の東側にも海がありました。列島の東側の陸地は、オホーツク古陸と呼ばれ、多くの堆積物を海に流し込んでいました。西側の陸から供給された堆積物も見つかっています。
海には沈み込み帯があり、今では日高山脈と平行に南北に伸びる白亜紀頃に形成された神居古潭帯と呼ばれる地域にあたります。その後(新生代中新世)、沈み込み帯が東にジャンプし、海洋地殻が列島の地殻にくっついて、両方ともめくれ上がってきました。それが日高山脈を形成したと考えられます。
日高山脈には、列島をつくっていた岩石(新生代中新世)と海洋底をつくっていた岩石(白亜紀)が見えています。日高山脈の伸びる方向に沿って、両岩石が並んで分布しています。海洋地殻をつくっていた岩石(オフィオライトと呼んでいます)が、現在の幌尻岳では、その様子が良く見えます。そのために、幌尻岳を中心として分布する海洋底の岩石は、ポロシリ・オフィオライトと呼ばれています。
N先生は、地殻下部からマントルの岩石(斑れい岩やカンラン岩)を、A先生は地殻下部の変成岩を、それぞれ調べておられたのです。今では、その調査の意味もわかっているのですが、当時の私は、日高山脈の雄大さと、初めての経験の連続で、地質学の内容を充分味わうことができませんでした。
日高山脈は、新しい時代にできた急峻な山並みです。北海道のような高緯度であったため、氷河期には、山岳氷河が山脈に形成されました。今では氷河は残っていませんが、氷河の痕跡が、日高山脈のあちこち残されています。
幌尻岳が地質百選に選べれた理由は、カールやモレーンなどの氷河地形が幌尻岳の周辺にはいくつもあるためです。戸蔦別岳の南東斜面には、七つ沼カールがあり、幌尻岳の北側には北カールがあります。カールには、どんなに雨が少ない時期でも、水場があり水が枯れることなく確保できます。そのカールに溜まった水を飲んで、私たちはキャンプや調査をしていたのです。
・83箇所・
地質百選には、全国から約400箇所の応募がありました。
今回83箇所が選ばれました。
関係自治体に通知して了承を得た後、
認定書を送付して公表されました。
地質学的な選定基準として
日本の地史として重要なもの、代表的な岩質(堆積岩、火成岩、変成岩)、
特殊な鉱物(ヒスイ)の産地、地質とかかわりの大きい地形、
地殻変動(褶曲や断層)、鉱山や人文遺跡、火山、防災
などから代表的なところが選定されました。
なぜ100箇所でないのか、不思議ですが、
これは、2007年5月現在の第一次選定の結果です。
残りの17箇所は、新たな立候補も受け付け
選定を続けるため余地を残されています。
是非にと考えておられるところがあれば、
応募されたらどうでしょうか。
・師走・
いよいよ今年も押し詰まってきました。
残り半月となりました。
北海道のわが町では、11月に降った雪が消えることなく、
昨日は大雪が降りました。
これで根雪になるのでしょうか。
そろそろ来年のことも考えるようになっていきました。
それより前に、今年にすべきことを、
終わらせるべきことを、
あせる時期になりました。
でも、考えてみると、いつもばたばたしている気がします。
落ち着いて何かをすることが、
最近なかなかできなくなったような気がします。
何かに追われながら、つぎつぎと仕事を
ただただ、こなしているような気がします。
これで、いいのだろうかと、ついつい考えてしまいます。
そんな悩みも、師走は吹き飛ばしてくれます。
地質百選というものを御存知でしょうか。2007年10月に「日本列島ジオサイト地質百選」(ISBN978-4-274-20460-9 C3051)という本が出版されたので、目にされた方もおられるかもしれません。
もともとは、NPO地質情報整備・活用機構と(社)全国地質調査業協会連合会が、地質を中心とした自然で、保全、活用、災害防止、観光などの目的で、全国から「地質百選」を募集したものです。
この本の中で、北海道からは7箇所が選ばれています。知床半島、白滝(黒曜石)、神居古潭渓谷(変成岩)、夕張岳(蛇紋岩メランジェ)、夕張(石炭の大露頭)、有珠山・昭和新山、そして今回紹介する幌尻(ぽろしり)岳(七つ沼カール)です。
このエッセイは、行ったところを題材にしていますので、神居古潭渓谷と有珠山は、すでに紹介しました。しかし、知床半島、白滝、夕張岳、夕張はまだ行っていないので紹介できません。そのうち、行こうと思っています。
幌尻岳は、一度は登り、もう一度は近くの山から眺めたことがあります。ずいぶん前のことなので、記憶もはっきりしないので、取り上げることに躊躇していたものです。しかし、これからしばらく行くことはなさそうなので、今回思い切って取り上げることにしました。
私の幌尻岳への登山は、私自身の地質学や地質調査への目覚めの時期でもあります。私は大学2年生の夏に地質学を始めると決意して、N先生とA先生に連れられて、はじめて日高山脈に入りました。そのときが、私にとっては、はじめて本格的な沢登りによる地質調査でした。キャンプの道具や食料もすべての荷物を自分で背負って、わらじと地下足袋をはいて、新冠(にいかっぷ)川を遡上しながら調査をしていきました。私と同級生の友人が、二人の先生の野外調査に同行させてもらいました。2泊のキャンプをして、調査をしました。今思えば、同行というより、足手まといにすぎなかったでしょう。ただただ付いていくのがやっとでした。しかし、私にとっては、それまでに味わったことのない経験で、強烈に印象に残っています。
谷の合間から幌尻岳の白い山容が見えました。新冠川がどこまで行っても川は細ることなく、嶮しくなっていくだけでした。新冠川の源流が、日高の主峰ともいうべき幌尻岳でした。
3年生になって、夏に進級論文で数週間、学科の学生全員が定められた地域で、野外調査をしました。その野外実習の後の9月には、奥新冠ダムで先生の知り合いと先輩が調査に入っていたので、そのグループに、N先生とA先生、例の友人と私が、合流して調査に加わることになりました。一日を、幌尻岳の登山にあててもらいました。その時、はじめて幌尻岳の山頂に立ちました。しかし、もともと登山が目的でなかったため、あれよあれよというまに山頂に立ち、下山してきました。
新冠川は、幌尻岳の北東に位置する七つ沼カール源流とします。新冠川の支流の幌尻沢沿いに、幌尻岳の南側の登山道があります。そこを利用して、私は山頂に立ったわけです。
幌尻岳へは、他に北側の登山ルートが二つあります。ひとつは沙流川の支流の額平(ぬかびら)川から直接幌尻岳に登山するルート、もう一つは、同じく沙流川の支流の千呂露(ちろろ)川から戸蔦別(とったべつ)岳を経由する稜線のルートがあります。
4年生の夏に千呂露川のルートから、北戸蔦別岳から戸蔦別岳にいきました。私はその時期には、卒業論文で、新冠川より南にある静内川に野外調査のために入っていた。調査も一休みして、N先生といつもの同級生、そして下級生2名のチームに合流しました。戸蔦別岳の麓の水場でキャンプをして調査をしました。そのときも、N先生の調査に同行するのが、主な目的でした。
幌尻岳周辺のいずれの調査も、私自身は、先生や先輩の手伝いで、自分自身が、地質学的な目的をもった野外調査ではありません。ですから、石や石の出かた(産状といいます)を、いろいろ見るだけで、地質学的な研究をしていたわけではありませんでした。しかし、後で思い起こすと、実は重要なことを学んでいたのだと気づきました。
標高2052mの幌尻岳は、日高山脈の中でも最高峰で、山も奥深く、アプローチが長く、日帰り登山が不可能な山です。登山ルートはあっても、沢登りもしなければなりませんので、なかなか頂上を極めるのが大変な山です。その山を、登山ではなく、道なきところへ分け入り、調査する地質学者もいるわけです。同行したいずれの調査でも、先生や先輩たちは、真剣に野外調査に取り組んでいました。私が、登るのもやっとのような沢でも、彼らは、黙々として、そして喜々として調査をしてました。それをみて、地質調査、地質学、科学というものは、それほど面白く魅力的なのだということを、見せつけられた思いでした。
その頃からでしょうか。景色や自然をただ愛(め)でる楽しみより、石や地質を愛でる楽しみのほうが強くなったのは。私も、石と地質の魅力に引き込まれました。今では、若い頃のような体力はなく、多分これからは幌尻岳のようなところへは登れないでしょう。かといって、残念でもありません。頂上を目指すことが地質学ではなく、そこに調べたいものがあるから、調査をしにいく通過点にすぎないのです。たまたま頂上にも調べたいものがあるのなら、調査の一環として頂上に向かうでしょう。ただ、それだけのことです。
もし地質学者が頂上だけを目指すのであれば、それは趣味というべきでしょう。4年生の卒業論文で野外調査をしている時、調査地の近くにあったペテガリ岳や、少々遠いですがアポイ岳に、趣味として登っていました。これは地質調査ではなく、頂上だけを目指すことだけが目的でした。早くたどり着き、すぐに降りてくる。登ったという実績、経験だけが重要でした。まあ、あのころは体力があったので、そんなこともできたのですが。
最後になりましたが、幌尻岳周辺の地質を紹介しておきましょう。
日高山脈は、かつては大きな山脈ではなく、海に列島があっただけでした。列島の東側にも海がありました。列島の東側の陸地は、オホーツク古陸と呼ばれ、多くの堆積物を海に流し込んでいました。西側の陸から供給された堆積物も見つかっています。
海には沈み込み帯があり、今では日高山脈と平行に南北に伸びる白亜紀頃に形成された神居古潭帯と呼ばれる地域にあたります。その後(新生代中新世)、沈み込み帯が東にジャンプし、海洋地殻が列島の地殻にくっついて、両方ともめくれ上がってきました。それが日高山脈を形成したと考えられます。
日高山脈には、列島をつくっていた岩石(新生代中新世)と海洋底をつくっていた岩石(白亜紀)が見えています。日高山脈の伸びる方向に沿って、両岩石が並んで分布しています。海洋地殻をつくっていた岩石(オフィオライトと呼んでいます)が、現在の幌尻岳では、その様子が良く見えます。そのために、幌尻岳を中心として分布する海洋底の岩石は、ポロシリ・オフィオライトと呼ばれています。
N先生は、地殻下部からマントルの岩石(斑れい岩やカンラン岩)を、A先生は地殻下部の変成岩を、それぞれ調べておられたのです。今では、その調査の意味もわかっているのですが、当時の私は、日高山脈の雄大さと、初めての経験の連続で、地質学の内容を充分味わうことができませんでした。
日高山脈は、新しい時代にできた急峻な山並みです。北海道のような高緯度であったため、氷河期には、山岳氷河が山脈に形成されました。今では氷河は残っていませんが、氷河の痕跡が、日高山脈のあちこち残されています。
幌尻岳が地質百選に選べれた理由は、カールやモレーンなどの氷河地形が幌尻岳の周辺にはいくつもあるためです。戸蔦別岳の南東斜面には、七つ沼カールがあり、幌尻岳の北側には北カールがあります。カールには、どんなに雨が少ない時期でも、水場があり水が枯れることなく確保できます。そのカールに溜まった水を飲んで、私たちはキャンプや調査をしていたのです。
・83箇所・
地質百選には、全国から約400箇所の応募がありました。
今回83箇所が選ばれました。
関係自治体に通知して了承を得た後、
認定書を送付して公表されました。
地質学的な選定基準として
日本の地史として重要なもの、代表的な岩質(堆積岩、火成岩、変成岩)、
特殊な鉱物(ヒスイ)の産地、地質とかかわりの大きい地形、
地殻変動(褶曲や断層)、鉱山や人文遺跡、火山、防災
などから代表的なところが選定されました。
なぜ100箇所でないのか、不思議ですが、
これは、2007年5月現在の第一次選定の結果です。
残りの17箇所は、新たな立候補も受け付け
選定を続けるため余地を残されています。
是非にと考えておられるところがあれば、
応募されたらどうでしょうか。
・師走・
いよいよ今年も押し詰まってきました。
残り半月となりました。
北海道のわが町では、11月に降った雪が消えることなく、
昨日は大雪が降りました。
これで根雪になるのでしょうか。
そろそろ来年のことも考えるようになっていきました。
それより前に、今年にすべきことを、
終わらせるべきことを、
あせる時期になりました。
でも、考えてみると、いつもばたばたしている気がします。
落ち着いて何かをすることが、
最近なかなかできなくなったような気がします。
何かに追われながら、つぎつぎと仕事を
ただただ、こなしているような気がします。
これで、いいのだろうかと、ついつい考えてしまいます。
そんな悩みも、師走は吹き飛ばしてくれます。
2007-11-15
35 白神山地:静寂の湖面に映りこむ動乱(2007.11.15)
Time:
9:24
●
Geologist
秋田県の白神山地の麓に十二湖というところがあります。多数の湖の中に青池と呼ばれる不思議が色をした池があります。その静寂に包まれた湖面に映る景色には、動乱が映りこんでいました。
今年の夏に、白神山地の近く出かけました。白神山地へ山登りをしたり、山奥まで入ったわけではありません。白神山地から少し外れた山麓に十二湖というところがあります。そこに出かけました。青森県深浦町にある十二湖に私が訪れた目的は、地滑りでできた湖沼群と日本キャニオンをみることでした。青池と呼ばれる池は、名前の通り青く透き通った不思議な色をしているそうなので、その池もみたいと思っていました。
地滑りは、1704年に起こったマグニチュード7の能代大地震によって、山が崩壊(山津波とも呼ばれるもの)したためだと起こったとされています。地滑りが、川をせき止め、多数の池を形成したと考えられています。池の数は、33(数え方によっては31)にのぼります。
日本キャニオンは、1953(昭和28)年、当時の国立公園審議委員で探険家でもあった岸衛が、その景観を見て、アメリカ合衆国にあるコロラド山地のグランドキャニオンに見立てて名づけたものです。これは、少々名前負けしていてスケールははるかに小さいものです。白い酸性凝灰岩(流紋岩から真珠岩質)が侵食されつつある崖が印象的です。この崖は海からも眺めることができ、昔から、海上通行の目標にもされていたようです。
白神山地には、秋田県と青森県にかけて広がるブナを中心とした原生林があります。1993年に、法隆寺や姫路城、屋久島とともに、白神山地は日本で最初に世界遺産に登録されました。世界遺産の指定地域にあたるのは、7割が青森県にあります。
世界遺産には、文化遺産と自然遺産、複合遺産(日本にはありません)がありますが、白神山地は屋久島と共に自然遺産に区分されます。白神山地は、世界遺産登録基準の9項の「陸上、淡水、沿岸および海洋生態系と動植物群集の進化と発達において進行しつつある重要な生態学的、生物学的プロセスを示す顕著な見本であるもの」にあたります。
人手のほとんど入っていないブナの原生林が白神山地の源流域にあます。その広さは、世界最大級といわれています。ブナ林の内には、多様な植物が共存し、それらの植生に依存した多様な動物がいます。ブナは木へんに無と書きます(漢字の第二水準にはありません)。ブナは落葉樹で、寒い地方では低地に、暖かい地方では高地に育ちます。北海道の黒松地方が北限といわれています。このような自然のままの生態系が今も手付かずのままで残っていたのです。
1万年前の最終氷河期が終わり、8000年前ころには、白神山地にはブナ林が形成されていたことがわってきました。現在の日本で、それも本州でブナの原生林が残っているのは、不思議な気がします。でも調べていくと、原生林が残ったのには、それなりに理由があったようです。
ブナは、大木になるのですが、シイタケ栽培や食器などの加工には利用されていたのですが、腐りやすく狂いが生じやすいので、建材として用いられることはあまりありませんでした。ですから昔から木なのですが木材として利用できないことから、「木へんに無」という漢字があてられたという説があります。建築用材に適さないことから、ブナは伐採を免れる条件があったのです。
ブナは寿命が短く200年程度とされています。ですから、ブナの生育に適した山を放置しておけば、比較的短い期間で倒木更新などの世代交代をする原生林となります。ブナの森には、ブナ自身の落ち葉や倒木が栄養となり、他の動植物の養分や住みかなどとして利用し、多様な生態系を生み出します。
白神山地は、焼く9800~6400万年前(白亜紀)の花崗岩類からできています。1600万年前~500万年前頃(中新世)の堆積岩(凝灰岩、泥岩、砂岩)とそれを貫く火成岩類(流紋岩、石英閃緑岩等)から構成されています。
このような白神山地の岩石類は、不安定で、そのうえ隆起が続いているため、崖崩れが起こりやすくなっています。伐採用の林道をつくっても、崖崩れのためにすぐに使えなくなってしまいます。また、この地域は冬には半年間も雪に埋もれるため、大規模な林道建設も難しく、開発が進みにくいところでもありました。
そのようないくつかの要因が組み合わさって、白神山地ではブナの原生林が残ったと考えられています。白神山地は、古来から行われてきた集団で狩猟をおこなうマタギだけが利用するの山となっていたのです。
十二湖付近は、奥の山地(東側)が中新世の火山岩類(玄武岩から安山岩)ができており、断層に境されて、西側には1000万年前の赤石層と呼ばれる堆積岩があります。主に黒色の泥岩(硬質頁岩と呼ばれています)からできていますが、下部に300mほどの厚さを持つ凝灰岩(十二湖凝灰岩部層と呼ばれています)があります。これら弱い岩石が崩れて、地滑りとなったと考えられます。
1970年代になると、ブナは楽器の材料として利用されるようになり、白神山地の原生林にも目がつけられました。1978年に白神山地の中央を通る林道が計画され、1982年に秋田県側から工事が開始されました。工事の直後から白神山地でひんぱんに崖崩れが起きはじめ、被害が出てきたため、林道建設反対運動が起こりました。その結果白神山地は、1990年には林野庁が森林生態系保護地域に指定、1993年12月11日には世界遺産に登録、2004年3月31日には国指定白神山地鳥獣保護区となりました。その結果、白神山地のブナの原生林と自然は守られるようになりましたが、この地のマタギの伝統がなくなってしまいました。
名前の通り青池は、透明で青く澄んだ不思議な色をしていました。湖面に映る木々の反射と、高い透明感で池に沈んでいる木々が見えることが、さらに神秘さを増しています。しかし、その静寂な景観の中には、地滑りという激しい歴史がありました。それの激しさを、静寂の湖面や日本キャニオンから感じている人はいるのでしょうか。
・十二湖・
青森県の津軽半島の青森県五所川原市(旧市浦村)に
十三湖というところがあります。
十二湖とは、文字の上では湖の一つ違いですが
十三湖は十三湊(とさみなと)が語源となっており、
直接の関連はありません。
・サンタランド・
深浦町ではサンタランド白神という施設に泊まりました。
名前の通りサンラクロースにちなんだ施設でした。
なぜ、青森でサンタなのか不思議に思いました。
これは、深浦町(旧岩崎村)が
フィンランド国ラヌア郡と姉妹都市協定を結んだためです。
ラヌア郡はサンタクロースの故郷とされているところなので、
姉妹都市の締結を記念して、サンタランドが建設されました。
私がいったは8月の一番暑い時期でしたが、
施設は運営されていて、コテージに泊まることができました。
今年の夏に、白神山地の近く出かけました。白神山地へ山登りをしたり、山奥まで入ったわけではありません。白神山地から少し外れた山麓に十二湖というところがあります。そこに出かけました。青森県深浦町にある十二湖に私が訪れた目的は、地滑りでできた湖沼群と日本キャニオンをみることでした。青池と呼ばれる池は、名前の通り青く透き通った不思議な色をしているそうなので、その池もみたいと思っていました。
地滑りは、1704年に起こったマグニチュード7の能代大地震によって、山が崩壊(山津波とも呼ばれるもの)したためだと起こったとされています。地滑りが、川をせき止め、多数の池を形成したと考えられています。池の数は、33(数え方によっては31)にのぼります。
日本キャニオンは、1953(昭和28)年、当時の国立公園審議委員で探険家でもあった岸衛が、その景観を見て、アメリカ合衆国にあるコロラド山地のグランドキャニオンに見立てて名づけたものです。これは、少々名前負けしていてスケールははるかに小さいものです。白い酸性凝灰岩(流紋岩から真珠岩質)が侵食されつつある崖が印象的です。この崖は海からも眺めることができ、昔から、海上通行の目標にもされていたようです。
白神山地には、秋田県と青森県にかけて広がるブナを中心とした原生林があります。1993年に、法隆寺や姫路城、屋久島とともに、白神山地は日本で最初に世界遺産に登録されました。世界遺産の指定地域にあたるのは、7割が青森県にあります。
世界遺産には、文化遺産と自然遺産、複合遺産(日本にはありません)がありますが、白神山地は屋久島と共に自然遺産に区分されます。白神山地は、世界遺産登録基準の9項の「陸上、淡水、沿岸および海洋生態系と動植物群集の進化と発達において進行しつつある重要な生態学的、生物学的プロセスを示す顕著な見本であるもの」にあたります。
人手のほとんど入っていないブナの原生林が白神山地の源流域にあます。その広さは、世界最大級といわれています。ブナ林の内には、多様な植物が共存し、それらの植生に依存した多様な動物がいます。ブナは木へんに無と書きます(漢字の第二水準にはありません)。ブナは落葉樹で、寒い地方では低地に、暖かい地方では高地に育ちます。北海道の黒松地方が北限といわれています。このような自然のままの生態系が今も手付かずのままで残っていたのです。
1万年前の最終氷河期が終わり、8000年前ころには、白神山地にはブナ林が形成されていたことがわってきました。現在の日本で、それも本州でブナの原生林が残っているのは、不思議な気がします。でも調べていくと、原生林が残ったのには、それなりに理由があったようです。
ブナは、大木になるのですが、シイタケ栽培や食器などの加工には利用されていたのですが、腐りやすく狂いが生じやすいので、建材として用いられることはあまりありませんでした。ですから昔から木なのですが木材として利用できないことから、「木へんに無」という漢字があてられたという説があります。建築用材に適さないことから、ブナは伐採を免れる条件があったのです。
ブナは寿命が短く200年程度とされています。ですから、ブナの生育に適した山を放置しておけば、比較的短い期間で倒木更新などの世代交代をする原生林となります。ブナの森には、ブナ自身の落ち葉や倒木が栄養となり、他の動植物の養分や住みかなどとして利用し、多様な生態系を生み出します。
白神山地は、焼く9800~6400万年前(白亜紀)の花崗岩類からできています。1600万年前~500万年前頃(中新世)の堆積岩(凝灰岩、泥岩、砂岩)とそれを貫く火成岩類(流紋岩、石英閃緑岩等)から構成されています。
このような白神山地の岩石類は、不安定で、そのうえ隆起が続いているため、崖崩れが起こりやすくなっています。伐採用の林道をつくっても、崖崩れのためにすぐに使えなくなってしまいます。また、この地域は冬には半年間も雪に埋もれるため、大規模な林道建設も難しく、開発が進みにくいところでもありました。
そのようないくつかの要因が組み合わさって、白神山地ではブナの原生林が残ったと考えられています。白神山地は、古来から行われてきた集団で狩猟をおこなうマタギだけが利用するの山となっていたのです。
十二湖付近は、奥の山地(東側)が中新世の火山岩類(玄武岩から安山岩)ができており、断層に境されて、西側には1000万年前の赤石層と呼ばれる堆積岩があります。主に黒色の泥岩(硬質頁岩と呼ばれています)からできていますが、下部に300mほどの厚さを持つ凝灰岩(十二湖凝灰岩部層と呼ばれています)があります。これら弱い岩石が崩れて、地滑りとなったと考えられます。
1970年代になると、ブナは楽器の材料として利用されるようになり、白神山地の原生林にも目がつけられました。1978年に白神山地の中央を通る林道が計画され、1982年に秋田県側から工事が開始されました。工事の直後から白神山地でひんぱんに崖崩れが起きはじめ、被害が出てきたため、林道建設反対運動が起こりました。その結果白神山地は、1990年には林野庁が森林生態系保護地域に指定、1993年12月11日には世界遺産に登録、2004年3月31日には国指定白神山地鳥獣保護区となりました。その結果、白神山地のブナの原生林と自然は守られるようになりましたが、この地のマタギの伝統がなくなってしまいました。
名前の通り青池は、透明で青く澄んだ不思議な色をしていました。湖面に映る木々の反射と、高い透明感で池に沈んでいる木々が見えることが、さらに神秘さを増しています。しかし、その静寂な景観の中には、地滑りという激しい歴史がありました。それの激しさを、静寂の湖面や日本キャニオンから感じている人はいるのでしょうか。
・十二湖・
青森県の津軽半島の青森県五所川原市(旧市浦村)に
十三湖というところがあります。
十二湖とは、文字の上では湖の一つ違いですが
十三湖は十三湊(とさみなと)が語源となっており、
直接の関連はありません。
・サンタランド・
深浦町ではサンタランド白神という施設に泊まりました。
名前の通りサンラクロースにちなんだ施設でした。
なぜ、青森でサンタなのか不思議に思いました。
これは、深浦町(旧岩崎村)が
フィンランド国ラヌア郡と姉妹都市協定を結んだためです。
ラヌア郡はサンタクロースの故郷とされているところなので、
姉妹都市の締結を記念して、サンタランドが建設されました。
私がいったは8月の一番暑い時期でしたが、
施設は運営されていて、コテージに泊まることができました。
2007-10-15
34 旭岳:山頂から謙虚さをみる(2007.10.15)
Time:
9:24
●
Geologist
9月下旬の3連休に、家族で旭岳に登ってきました。連休の間は、好天に恵まれて、絶好の登山日和となりました。そして北海道の最高峰に立つことができました。
旭岳は、大雪山の中にある北海道の最高峰(2290m)を誇ります。北海道で一番早く秋が訪れるところでもあります。私たちが登ったときは、もう紅葉が始まっていました。
旭岳の麓には、旭岳温泉として、ホテルや旅館などの宿泊施設がいくつもあります。旭岳温泉にはロープウエイの乗り場があり、ロープウエイを使えば4合目まで一気に登ることができます。ですから、北海道の最高峰でありながら、5合目あたりまで多くの観光客が訪れるところです。
私が地質調査をはじめる前は、山登りや山歩きが好きで、近くの山を一人で登っていました。山登りとはいっても、ピークハンターのように頂上を目指すのが目的ではなく、自然の中を歩き回ることがもっぱらでした。もちろん、いくつかの山頂には立ちましたが、それは余禄のようなものでした。
地質調査をするようになった頃は、山頂を目指すより、地質学の面白さを野外で満喫するようになっていました。調査のために沢に入ることが多く、今まで味わったことのない自然の趣を、沢登りを通じて味わっていました。そして自然の奥深さを感じていました。
若い頃もそうだったのですが、地質調査を始めてからは特に、頂上を目指すことにあまり意味を見出せませんでした。目的もなしに頂上に行くことは無駄だとすら思っていました。本格的な登山する人の足元にも及びませんが、気がつくと結構あちこちの山頂を極めていました。
家族で山に出かけるようになってもその考え方は変わらず、登頂は目的の一つにすぎません。子供や家内、自分自身の体力を考え、例え山頂を目指していても、無理はしなくなりました。今回の旭岳の登山も、長男が8合目でバテたので、家内と長男は下山させて、体力がまだ大丈夫であった次男と私が、登山を続けて、頂上に立ちました。
旭岳を訪れる多くの観光客は、頂上を目指すのではなく、高原の景観を味わうことが目的でしょう。9月の下旬は、旭岳のロープウエイの姿見駅を降りると、まだ森林限界を越えていませんので、紅葉が楽しめます。池越しに見る紅葉は美しいものです。
しかし、ロープウエイの駅付近でなんといっても目を引くのは、紅葉の向こう側に広がる景観とのコントラストです。山頂から急激に切れ込んだ谷(地獄谷と呼ばれています)は非常に荒々しいものです。
西側に開いた谷には、噴煙を上げている噴火口が、何箇所も見えます。旭岳が活動して火山であることは、誰の目にも明らかです。風向きによっては、硫化水素の匂いも漂ってきます。
旭岳を含む大雪山は、100万年間活動を続けている巨大な火山の集合体です。大雪山では、20個以上の火山体が確認されています。大雪山の中央部に直径2kmにもおよぶ大きなカルデラ(御鉢平カルデラと呼ばれています)があります。このカルデラは、約3万年前の大雪山ではもっとも大きな噴火でできたものです。
旭岳は、御鉢平カルデラの南西のはずれにあたります。2万~1万年前から活動をはじめて、約6500年前まで活発な噴火をしていました。安山岩のマグマが噴火したもので、活動初期には溶岩を何度も流しましたが、その後爆発的な噴火に変化して、降下スコリアや火砕流を出しました。このような火山噴出物が、旭岳の火山体をつくりました。
3000~2000年前ころに、水蒸気爆発によって山頂から西の山体が崩れて(岩屑なだれ)、現在の地獄谷ができました。この岩屑なだれや泥流の堆積物は、旭岳温泉にまで達しています。
1000年前以降に、現在、姿見の池と夫婦池になっているところで噴火が起こりました。さらに250年前以降にも、地獄谷で水蒸気爆発が2度にわたり起こりました。その時に、現在も活動中の火口群が形成されました。旭岳は、現在も活発な噴気活動を続けています。
旭岳の山頂から北東の方向を眺めると、御鉢平カルデラ周辺にある山々が見えます。残念ながら、御鉢平カルデラは、間宮岳が邪魔をしていて全貌を見ることができません。しかし、その巨大なカルデラさえ小さく見えるほど大雪山は大きいのです。
大雪山からは多くのピークが見えます。それらの多くが火山であることがわかります。旭岳の登山道は火山由来の岩石からできます。山頂から眺めだけで、大雪山が巨大な火山である証拠が、いくつも見つかります。
山頂から眺めると、大雪山は雄大なだけでなく、多様な自然や、神々しい景観を生み出していることが見えます。そんな雄大さと比べ、一つの山頂を極めただけで満足する人間の小ささを感じました。一つの山頂に達することが大切なのではなく、大雪山の偉大を感じることが大切なのでないでしょうか。自然の偉大さの前には、人は謙虚であるべきではないでしょうか。旭岳の山頂で、そんなことに思いを馳せました。
登山から帰った翌日の新聞をみると、旭岳のカラー写真が第一面を飾っていました。今年はじめての冠雪が観測されたというニュースでした。その新聞記事を読んで、数日初冠雪が早ければと登頂はできなかったと思います。今回は本当に天候に恵まれたと思えました。
北海道は、これから短い秋から、一気に冬に向かっていきます。
・ラッシュ・
昨年も同時期に旭岳温泉を登山のために予約をしようとしたら、
満員でどこにも泊まることできませんでした。
今年はなんとか予約をすることができました。
同じホテルに2泊して、丸一日を登山日にしました。
9月下旬は、北海道の高山では紅葉が始まる頃です。
今回の連休は、久しぶりの好天なので、
ロープウエイを使って多くの観光客が訪れていました。
私たちもロープウエイを使って登りました。
私たちが下山した午後2時ごろは、
ちょうどラッシュの真っ最中で、
1時間ほどロープウエイに乗るのに並ばねばなりませんでした。
疲れた体で行列をするのは大変でした。
北海道にいると都会を除いて混雑はほとんどないので、
こんな長蛇の列に並んだのは、珍しい経験でした。
・タフ・
今回の旭岳の登山で、我が家で一番体力のあるのは
小学校1年生の次男であることが判明しました。
次いで私で、小学校4年生の長男、家内と続きます。
本当は長男も体力があるはずなのですが、
すぐにあきらめてしまうところがあります。
長男が1、2年生の頃は、今の次男のように体力がありました。
なぜか、3年生になった頃から、急に体力がなくなりました。
あきらめ癖がついたのかもしれません。
一方、もともと次男は体力がある上に、
負けず嫌いな性格もあいまって、
少々のことでは弱音を吐きません。
登山途中はかなり苦しそうでしたが、
休めば体力はすぐに回復していました。
私は登山後、数日間、筋肉痛に悩まされました。
私の体力も衰えているのでしょうが、
今回の登山では、次男のタフさには驚かされました。
旭岳は、大雪山の中にある北海道の最高峰(2290m)を誇ります。北海道で一番早く秋が訪れるところでもあります。私たちが登ったときは、もう紅葉が始まっていました。
旭岳の麓には、旭岳温泉として、ホテルや旅館などの宿泊施設がいくつもあります。旭岳温泉にはロープウエイの乗り場があり、ロープウエイを使えば4合目まで一気に登ることができます。ですから、北海道の最高峰でありながら、5合目あたりまで多くの観光客が訪れるところです。
私が地質調査をはじめる前は、山登りや山歩きが好きで、近くの山を一人で登っていました。山登りとはいっても、ピークハンターのように頂上を目指すのが目的ではなく、自然の中を歩き回ることがもっぱらでした。もちろん、いくつかの山頂には立ちましたが、それは余禄のようなものでした。
地質調査をするようになった頃は、山頂を目指すより、地質学の面白さを野外で満喫するようになっていました。調査のために沢に入ることが多く、今まで味わったことのない自然の趣を、沢登りを通じて味わっていました。そして自然の奥深さを感じていました。
若い頃もそうだったのですが、地質調査を始めてからは特に、頂上を目指すことにあまり意味を見出せませんでした。目的もなしに頂上に行くことは無駄だとすら思っていました。本格的な登山する人の足元にも及びませんが、気がつくと結構あちこちの山頂を極めていました。
家族で山に出かけるようになってもその考え方は変わらず、登頂は目的の一つにすぎません。子供や家内、自分自身の体力を考え、例え山頂を目指していても、無理はしなくなりました。今回の旭岳の登山も、長男が8合目でバテたので、家内と長男は下山させて、体力がまだ大丈夫であった次男と私が、登山を続けて、頂上に立ちました。
旭岳を訪れる多くの観光客は、頂上を目指すのではなく、高原の景観を味わうことが目的でしょう。9月の下旬は、旭岳のロープウエイの姿見駅を降りると、まだ森林限界を越えていませんので、紅葉が楽しめます。池越しに見る紅葉は美しいものです。
しかし、ロープウエイの駅付近でなんといっても目を引くのは、紅葉の向こう側に広がる景観とのコントラストです。山頂から急激に切れ込んだ谷(地獄谷と呼ばれています)は非常に荒々しいものです。
西側に開いた谷には、噴煙を上げている噴火口が、何箇所も見えます。旭岳が活動して火山であることは、誰の目にも明らかです。風向きによっては、硫化水素の匂いも漂ってきます。
旭岳を含む大雪山は、100万年間活動を続けている巨大な火山の集合体です。大雪山では、20個以上の火山体が確認されています。大雪山の中央部に直径2kmにもおよぶ大きなカルデラ(御鉢平カルデラと呼ばれています)があります。このカルデラは、約3万年前の大雪山ではもっとも大きな噴火でできたものです。
旭岳は、御鉢平カルデラの南西のはずれにあたります。2万~1万年前から活動をはじめて、約6500年前まで活発な噴火をしていました。安山岩のマグマが噴火したもので、活動初期には溶岩を何度も流しましたが、その後爆発的な噴火に変化して、降下スコリアや火砕流を出しました。このような火山噴出物が、旭岳の火山体をつくりました。
3000~2000年前ころに、水蒸気爆発によって山頂から西の山体が崩れて(岩屑なだれ)、現在の地獄谷ができました。この岩屑なだれや泥流の堆積物は、旭岳温泉にまで達しています。
1000年前以降に、現在、姿見の池と夫婦池になっているところで噴火が起こりました。さらに250年前以降にも、地獄谷で水蒸気爆発が2度にわたり起こりました。その時に、現在も活動中の火口群が形成されました。旭岳は、現在も活発な噴気活動を続けています。
旭岳の山頂から北東の方向を眺めると、御鉢平カルデラ周辺にある山々が見えます。残念ながら、御鉢平カルデラは、間宮岳が邪魔をしていて全貌を見ることができません。しかし、その巨大なカルデラさえ小さく見えるほど大雪山は大きいのです。
大雪山からは多くのピークが見えます。それらの多くが火山であることがわかります。旭岳の登山道は火山由来の岩石からできます。山頂から眺めだけで、大雪山が巨大な火山である証拠が、いくつも見つかります。
山頂から眺めると、大雪山は雄大なだけでなく、多様な自然や、神々しい景観を生み出していることが見えます。そんな雄大さと比べ、一つの山頂を極めただけで満足する人間の小ささを感じました。一つの山頂に達することが大切なのではなく、大雪山の偉大を感じることが大切なのでないでしょうか。自然の偉大さの前には、人は謙虚であるべきではないでしょうか。旭岳の山頂で、そんなことに思いを馳せました。
登山から帰った翌日の新聞をみると、旭岳のカラー写真が第一面を飾っていました。今年はじめての冠雪が観測されたというニュースでした。その新聞記事を読んで、数日初冠雪が早ければと登頂はできなかったと思います。今回は本当に天候に恵まれたと思えました。
北海道は、これから短い秋から、一気に冬に向かっていきます。
・ラッシュ・
昨年も同時期に旭岳温泉を登山のために予約をしようとしたら、
満員でどこにも泊まることできませんでした。
今年はなんとか予約をすることができました。
同じホテルに2泊して、丸一日を登山日にしました。
9月下旬は、北海道の高山では紅葉が始まる頃です。
今回の連休は、久しぶりの好天なので、
ロープウエイを使って多くの観光客が訪れていました。
私たちもロープウエイを使って登りました。
私たちが下山した午後2時ごろは、
ちょうどラッシュの真っ最中で、
1時間ほどロープウエイに乗るのに並ばねばなりませんでした。
疲れた体で行列をするのは大変でした。
北海道にいると都会を除いて混雑はほとんどないので、
こんな長蛇の列に並んだのは、珍しい経験でした。
・タフ・
今回の旭岳の登山で、我が家で一番体力のあるのは
小学校1年生の次男であることが判明しました。
次いで私で、小学校4年生の長男、家内と続きます。
本当は長男も体力があるはずなのですが、
すぐにあきらめてしまうところがあります。
長男が1、2年生の頃は、今の次男のように体力がありました。
なぜか、3年生になった頃から、急に体力がなくなりました。
あきらめ癖がついたのかもしれません。
一方、もともと次男は体力がある上に、
負けず嫌いな性格もあいまって、
少々のことでは弱音を吐きません。
登山途中はかなり苦しそうでしたが、
休めば体力はすぐに回復していました。
私は登山後、数日間、筋肉痛に悩まされました。
私の体力も衰えているのでしょうが、
今回の登山では、次男のタフさには驚かされました。
2007-09-15
33 一ノ目潟:地球の覗き穴(2007.09.15)
Time:
9:23
●
Geologist
一ノ目潟は、地質学的非常に珍しい火山の噴火口です。一ノ目潟の火口は、地球を覗くための穴として重要な役割をもっています。
2007年8月1日と2日にかけて、男鹿半島にいきました。私は30年ほど前に友人と一緒に来たことがありますが、それ以来です。今回は、家族旅行をかねていましたが、調査も少ししました。
秋田空港からレンタカーで男鹿半島に向かいました。男鹿半島に向かう途中、付け根にある八郎潟(はちろうがた)を眺めました。八郎潟は、御存知のように干拓地として有名です。干拓は、戦後の食糧増産を目的としておこなわれた事業でした。1957年から干拓工事がはじまり、1977年に終わりました。
八郎潟は、もともとは琵琶湖について2番目に大きな湖(220km2)だったのですが、干拓後は約50km2の大きさになりました。湖とはいっても、海とつながった汽水でしたが、現在は干拓によって淡水化され、汽水湖時代の主力のシジミなどは採れなくなってきたようです。
男鹿半島は、もともと半島で陸続きであったのではなく、火山によってできた島でした。米代川と雄物川から運搬される土砂により、北と南で2つの砂洲で本州につながっていました。その砂洲の間にあったのが八郎潟でした。
もっと過去に遡れば、パレオジン(古第三紀とも呼ばれています)の初期(6200万年前ころ)には、大陸を構成するような花崗岩(正確にはアダメロ岩といいます)があります。この花崗岩は、男鹿半島の北西端の赤島付近の海岸に少しだけ顔を出しています。その後、火山活動が始まります。現在の日本海側では、ネオジン(新第三紀)の中新世を中心とする火山活動が活発に起こります。その多くは海底での火山活動でした。火山岩類やその火山砕屑岩類が、海底の熱水で変質をして、緑色になっていることから、グリーンタフ(緑色凝灰岩という意味です)と呼ばれています。そこから、グリーンタフとは、日本海側のネオジンに起こった一連の火山活動をさして使われています。同じようなグリーンタフの活動は、北海道の東部にも見つかっています。
火山活動とともに、火山の周囲には、海が繰り返し進入してきて、堆積岩が堆積していきます。それらの地層は、化石によって詳しく調べられ、詳細な時代区分がなされています。そのために、男鹿半島の地層は、日本海側の新生代の模式的な地層とされています。
一番最近の火山活動は、寒風山(かんぷうざん)と目潟火山です。
標高354mの寒風山は2万年以前に活動を開始し、大半の溶岩は2万年以降に噴出しました。初期の溶岩流は淡水の湖水に流れこみ、湖成層と複雑に互層しています。火山岩としては、安山岩が主で、少量の玄武岩を伴っています。一番新しい活動は2700年前の火砕流でしたが、これを最後にして、その後の地震や噴気の活動は起こっていません。
目潟火山は、更新世の最末期に活動しました。その活動は、男鹿半島の西にある丸い形の一ノ目潟(6万~8万年前)、二ノ目潟、三ノ目潟(2万~2万4000年前)という噴火口として残されています。目潟には、水が溜まり、池になっています。
目潟火山は、マールと呼ばれる火口が特徴です。マールは、マグマが水に接触して、マグマ水蒸気爆発を起こして形成されます。火砕サージが発生して、火口の周囲に低い環状の丘を形成します。
マールは、大抵は一回の噴火でできることが多いのですが、一ノ目潟は、2つの時期の活動があったとされています。最初の水蒸気爆発によってマールを形成したときに、火山泥流(ラハール)を発生させています。その後、ニノ目潟の形成と同時期に、水蒸気爆発を起こして、軽石を放出しています。
実は男鹿半島での私の調査の目的は、一ノ目潟に行くことでした。この一ノ目潟は、3つの目潟火山の中でも一番大きなマールとなっています。三ノ目潟は、玄武岩(正確には高アルミナ玄武岩と呼ばれています)のマグマです。一方、一ノ目潟とニノ目潟は、安山岩(正確にはカルクアルカリ安山岩と呼ばれています)のマグマで、三ノ目潟のものとは種類が違っています。
一ノ目潟では、マグマが通ってきた地下深部の岩石を捕獲して、マグマと一緒に地表に噴出しています。このような岩石を、捕獲岩といいます。一ノ目潟の捕獲岩は、地質学者には非常に有名で、男鹿半島に出かける地質学者の多くは、捕獲岩を採取をしようと考えています。一ノ目潟の捕獲岩には、マントルから上がってきたカンラン岩や、地殻深部にあったと考えられる斑れい岩や花崗岩などもあります。
捕獲岩をもたらす一ノ目潟のマールは、地球の覗き穴というべきものです。人間の、地下を探る技術は、まだまだ稚拙で、深く掘ろうとすると経費や手間が必要となります。ところが、火山は、地球深部の物質を、自然の力で地表まで持ってきてくれるのです。それが捕獲岩なのです。捕獲岩は、「地球の覗き穴」なのです。
私も、捕獲岩の採取が目的でした。しかし、それはかないませんでした。男鹿市の水源池というので柵がありましたが、ちょうど取水口の作業中なので、入れてもらって、写真だけをとりました。作業中でしたので、湖岸には下りませんでした。
もし、湖岸に降りられたとしても、採取をしていはいけなかったのです。なぜなら、2007年7月26日に「男鹿目潟火山群一ノ目潟」として、国の天然記念物に指定されたからです。その指定理由は、「マールの典型として、また単性火山群の典型として」貴重であるためです。これからは、一ノ目潟は、天然記念物として保護されることになりました。
私が訪れた時は、そのようなこと状況を知らず、掲示もありませんでした。試料を採らなくてよかったです。罪を犯すことになるのです。今後、一ノ目潟に入るには、文化庁もしくは県の許可が必要になるでしょう、地質学者も気軽に調査に入ることも、標本を採取することもできなくなるはずです。現在、地質学者で一ノ目潟の標本をお持ちの方は、大切にされるといいでしょう。もしかすると、これらかは、ほとんど手に入らない貴重な標本かもしれません。
一ノ目潟の捕獲岩は非常に有名で、男鹿半島を訪れた多くの地質学者が、採取にいったことがあるはずです。人気のあるのは、なんといってもマントルから上がってきたカンラン岩類です。二番人気は斑れい岩類で、次いで花崗岩類なります。その順に捕獲岩は採取されていきます。結果として、一ノ目潟の周囲の捕獲岩は、花崗岩が比較的多くなり、斑れい岩が少なくなり、カンラン岩にいたっては稀なものとなってきます。私が30年前にいったときも、カンラン岩は少なかったのですが、それでもがんばれば、いくつも見つけることはできました。今では、もっと少なくなっていたことでしょう。
これは、明らかに地質学者(あるいはそのタマゴの学生)による乱獲のためです。持ち帰られた標本の多くは、研究材料とすることなく、どこかに紛失してしまいます。ですから、いくら学生の勉強のためとはいえ、乱獲によって、貴重な試料がなくなるのは、人類にとっての大きな損失です。保護しなければなりません。それを憂えたため、今回の天然記念物への指定となったのでしょう。
貴重な自然物ですから、保護は必要だと思います。しかし、保護のせいで、研究がしづらくなるのも確かです。これからの地質学者を目指している学生や大学院生は、もう一ノ目潟の捕獲岩を研究テーマにすることは、なかなか難しくなりそうです。
せっかくの地球の覗き穴が、乱獲のために、閉じられてしまいました。科学発展と保護は、なかなか難しい問題です。
・処罰・
一ノ目潟は、国の史跡名勝 天然記念物になっていますので、
文化庁の管轄になります。
また、「文化財保護法」によって、
さまざまなことが法律で定められています。
もし、誰かが、無断で岩石を持ち帰ったら、
罰則規定が適用されるはずです。
もし私が資料を持ち帰って処分されるとすると、
「第196条 史跡名勝天然記念物の現状を変更し、
又はその保有に影響を及ぼす行為をして、
これを滅失し、き損し、又は衰亡するに至らしめた者」
とみなされたら、5年以下の懲役若しくは禁錮
又は30万円以下の罰金となります。
あるいは、犯罪の程度によって、
さまざまな罰金刑に処されることになります。
私が知らずに、日付入りで標本を採取したことを
このメールマガジンなどで公開したら、
処罰対象となっていことでしょう。
今思えば、少々、冷や汗ものでした。
・湖底堆積物・
目潟の湖底には、堆積物が溜まっています。
その堆積物をコアとして採取すると、
縞状の堆積物を採取することができます。
その堆積物は、花粉や生物の遺骸、化学成分などから、
気候の変動を読み取るための
タイムレコーダーとして利用されています。
・戸賀湾・
男鹿半島の西側に戸賀湾があります。
この戸賀湾の西が切れて海とつながっています。
しかし、もともとは非常に丸い形をしていたことがわかります。
目潟火山と同じようなマールではないかと思えるほどです。
しかし、どうもマールではないようです。
もちろん、火山の火口には違いがありません。
しかし、火山の活動年代が42万年前で、かなり古いものです。
さらに、活動したマグマも流紋岩です。
明らかに目潟の一連の火山とは別の活動によるものです。
2007年8月1日と2日にかけて、男鹿半島にいきました。私は30年ほど前に友人と一緒に来たことがありますが、それ以来です。今回は、家族旅行をかねていましたが、調査も少ししました。
秋田空港からレンタカーで男鹿半島に向かいました。男鹿半島に向かう途中、付け根にある八郎潟(はちろうがた)を眺めました。八郎潟は、御存知のように干拓地として有名です。干拓は、戦後の食糧増産を目的としておこなわれた事業でした。1957年から干拓工事がはじまり、1977年に終わりました。
八郎潟は、もともとは琵琶湖について2番目に大きな湖(220km2)だったのですが、干拓後は約50km2の大きさになりました。湖とはいっても、海とつながった汽水でしたが、現在は干拓によって淡水化され、汽水湖時代の主力のシジミなどは採れなくなってきたようです。
男鹿半島は、もともと半島で陸続きであったのではなく、火山によってできた島でした。米代川と雄物川から運搬される土砂により、北と南で2つの砂洲で本州につながっていました。その砂洲の間にあったのが八郎潟でした。
もっと過去に遡れば、パレオジン(古第三紀とも呼ばれています)の初期(6200万年前ころ)には、大陸を構成するような花崗岩(正確にはアダメロ岩といいます)があります。この花崗岩は、男鹿半島の北西端の赤島付近の海岸に少しだけ顔を出しています。その後、火山活動が始まります。現在の日本海側では、ネオジン(新第三紀)の中新世を中心とする火山活動が活発に起こります。その多くは海底での火山活動でした。火山岩類やその火山砕屑岩類が、海底の熱水で変質をして、緑色になっていることから、グリーンタフ(緑色凝灰岩という意味です)と呼ばれています。そこから、グリーンタフとは、日本海側のネオジンに起こった一連の火山活動をさして使われています。同じようなグリーンタフの活動は、北海道の東部にも見つかっています。
火山活動とともに、火山の周囲には、海が繰り返し進入してきて、堆積岩が堆積していきます。それらの地層は、化石によって詳しく調べられ、詳細な時代区分がなされています。そのために、男鹿半島の地層は、日本海側の新生代の模式的な地層とされています。
一番最近の火山活動は、寒風山(かんぷうざん)と目潟火山です。
標高354mの寒風山は2万年以前に活動を開始し、大半の溶岩は2万年以降に噴出しました。初期の溶岩流は淡水の湖水に流れこみ、湖成層と複雑に互層しています。火山岩としては、安山岩が主で、少量の玄武岩を伴っています。一番新しい活動は2700年前の火砕流でしたが、これを最後にして、その後の地震や噴気の活動は起こっていません。
目潟火山は、更新世の最末期に活動しました。その活動は、男鹿半島の西にある丸い形の一ノ目潟(6万~8万年前)、二ノ目潟、三ノ目潟(2万~2万4000年前)という噴火口として残されています。目潟には、水が溜まり、池になっています。
目潟火山は、マールと呼ばれる火口が特徴です。マールは、マグマが水に接触して、マグマ水蒸気爆発を起こして形成されます。火砕サージが発生して、火口の周囲に低い環状の丘を形成します。
マールは、大抵は一回の噴火でできることが多いのですが、一ノ目潟は、2つの時期の活動があったとされています。最初の水蒸気爆発によってマールを形成したときに、火山泥流(ラハール)を発生させています。その後、ニノ目潟の形成と同時期に、水蒸気爆発を起こして、軽石を放出しています。
実は男鹿半島での私の調査の目的は、一ノ目潟に行くことでした。この一ノ目潟は、3つの目潟火山の中でも一番大きなマールとなっています。三ノ目潟は、玄武岩(正確には高アルミナ玄武岩と呼ばれています)のマグマです。一方、一ノ目潟とニノ目潟は、安山岩(正確にはカルクアルカリ安山岩と呼ばれています)のマグマで、三ノ目潟のものとは種類が違っています。
一ノ目潟では、マグマが通ってきた地下深部の岩石を捕獲して、マグマと一緒に地表に噴出しています。このような岩石を、捕獲岩といいます。一ノ目潟の捕獲岩は、地質学者には非常に有名で、男鹿半島に出かける地質学者の多くは、捕獲岩を採取をしようと考えています。一ノ目潟の捕獲岩には、マントルから上がってきたカンラン岩や、地殻深部にあったと考えられる斑れい岩や花崗岩などもあります。
捕獲岩をもたらす一ノ目潟のマールは、地球の覗き穴というべきものです。人間の、地下を探る技術は、まだまだ稚拙で、深く掘ろうとすると経費や手間が必要となります。ところが、火山は、地球深部の物質を、自然の力で地表まで持ってきてくれるのです。それが捕獲岩なのです。捕獲岩は、「地球の覗き穴」なのです。
私も、捕獲岩の採取が目的でした。しかし、それはかないませんでした。男鹿市の水源池というので柵がありましたが、ちょうど取水口の作業中なので、入れてもらって、写真だけをとりました。作業中でしたので、湖岸には下りませんでした。
もし、湖岸に降りられたとしても、採取をしていはいけなかったのです。なぜなら、2007年7月26日に「男鹿目潟火山群一ノ目潟」として、国の天然記念物に指定されたからです。その指定理由は、「マールの典型として、また単性火山群の典型として」貴重であるためです。これからは、一ノ目潟は、天然記念物として保護されることになりました。
私が訪れた時は、そのようなこと状況を知らず、掲示もありませんでした。試料を採らなくてよかったです。罪を犯すことになるのです。今後、一ノ目潟に入るには、文化庁もしくは県の許可が必要になるでしょう、地質学者も気軽に調査に入ることも、標本を採取することもできなくなるはずです。現在、地質学者で一ノ目潟の標本をお持ちの方は、大切にされるといいでしょう。もしかすると、これらかは、ほとんど手に入らない貴重な標本かもしれません。
一ノ目潟の捕獲岩は非常に有名で、男鹿半島を訪れた多くの地質学者が、採取にいったことがあるはずです。人気のあるのは、なんといってもマントルから上がってきたカンラン岩類です。二番人気は斑れい岩類で、次いで花崗岩類なります。その順に捕獲岩は採取されていきます。結果として、一ノ目潟の周囲の捕獲岩は、花崗岩が比較的多くなり、斑れい岩が少なくなり、カンラン岩にいたっては稀なものとなってきます。私が30年前にいったときも、カンラン岩は少なかったのですが、それでもがんばれば、いくつも見つけることはできました。今では、もっと少なくなっていたことでしょう。
これは、明らかに地質学者(あるいはそのタマゴの学生)による乱獲のためです。持ち帰られた標本の多くは、研究材料とすることなく、どこかに紛失してしまいます。ですから、いくら学生の勉強のためとはいえ、乱獲によって、貴重な試料がなくなるのは、人類にとっての大きな損失です。保護しなければなりません。それを憂えたため、今回の天然記念物への指定となったのでしょう。
貴重な自然物ですから、保護は必要だと思います。しかし、保護のせいで、研究がしづらくなるのも確かです。これからの地質学者を目指している学生や大学院生は、もう一ノ目潟の捕獲岩を研究テーマにすることは、なかなか難しくなりそうです。
せっかくの地球の覗き穴が、乱獲のために、閉じられてしまいました。科学発展と保護は、なかなか難しい問題です。
・処罰・
一ノ目潟は、国の史跡名勝 天然記念物になっていますので、
文化庁の管轄になります。
また、「文化財保護法」によって、
さまざまなことが法律で定められています。
もし、誰かが、無断で岩石を持ち帰ったら、
罰則規定が適用されるはずです。
もし私が資料を持ち帰って処分されるとすると、
「第196条 史跡名勝天然記念物の現状を変更し、
又はその保有に影響を及ぼす行為をして、
これを滅失し、き損し、又は衰亡するに至らしめた者」
とみなされたら、5年以下の懲役若しくは禁錮
又は30万円以下の罰金となります。
あるいは、犯罪の程度によって、
さまざまな罰金刑に処されることになります。
私が知らずに、日付入りで標本を採取したことを
このメールマガジンなどで公開したら、
処罰対象となっていことでしょう。
今思えば、少々、冷や汗ものでした。
・湖底堆積物・
目潟の湖底には、堆積物が溜まっています。
その堆積物をコアとして採取すると、
縞状の堆積物を採取することができます。
その堆積物は、花粉や生物の遺骸、化学成分などから、
気候の変動を読み取るための
タイムレコーダーとして利用されています。
・戸賀湾・
男鹿半島の西側に戸賀湾があります。
この戸賀湾の西が切れて海とつながっています。
しかし、もともとは非常に丸い形をしていたことがわかります。
目潟火山と同じようなマールではないかと思えるほどです。
しかし、どうもマールではないようです。
もちろん、火山の火口には違いがありません。
しかし、火山の活動年代が42万年前で、かなり古いものです。
さらに、活動したマグマも流紋岩です。
明らかに目潟の一連の火山とは別の活動によるものです。
2007-08-15
32 京都と札幌:盆地の暑さと異常気象(2007.08.15)
Time:
9:23
●
Geologist
北海道は猛暑に襲われています。本州並みの暑さといわれていますが、私は故郷の京都を思い出しました。そんな暑さの中でこのエッセイを書いてます。
暑中お見舞い申し上げます。私は暑さのために少々夏バテ気味です。
私が住む江別市は、8月上旬は、7月の雨不足を補うかのように、雲りがちで雨の多い天気でした。日照不足が危惧されるほどの曇天でした。ところが8月中旬になると、一転して、30℃を越える、例年にない猛暑と高湿度に襲われました。このエッセイを書いているのも、その暑さの中でです。
この猛暑は、涼しい北海道の気候になれた人間には、たまらない日々となっています。私はもともと本州の京都の出身で、暑さには馴れているはずですが、北海道にしばらく住むと暑さには弱い体となってしまったようです。
さらに、北海道の家は、冬の雪対策や寒さへの暖房は完備されているのですが、暑さへの対策はなされていません。エアコンのある家も少なく、もちろん我が家にもありませんので、暑さにはまいっています。寒さ対策だけのはずが、我が家には、なぜか扇風機が2台あります。これは暖房の熱をかき混ぜるために買った冬用ですが、今年は、夏に活用しています。
特にここ数日は、夜も涼しくなることはなく、寝苦しい天気です。私の寝ている部屋は、風の通りがよくなく、窓を全開にしても蒸し暑さが消えることなく、扇風機で外の空気をいれなければ、寝ることもできないほどの暑さです。私は北海道に来て6年目ですが、こんなに暑い日が続くのは、初めての経験です。
大学の研究室は、もっとすごい状態です。朝の6時過ぎに来ても、部屋に入るとムットした熱気がよどんでいます。窓を開けても空気が流れません。同じフロアーの廊下の窓をいたるところを開けているのですが、それでも風が流れません。私の研究室は5階建ての5階にあります。南北に伸びる建物で、真ん中の廊下を挟んで両側に研究室があります。私の研究室は西側にあり、窓は西向きにあります。ですから、夏は午前中だけは日も差し込まず、涼しく仕事ができるのはずなのですが、この夏の暑さでは、朝からダメです。前日の西日によって暖められた部屋の熱が、暑い夜に冷やされることなく、そのまま留まっているます。
さらに、朝から天気がいいと、屋上を照らす太陽の熱が、最上階の研究室を直接暖めています。そして部屋の空気が流れませんので、ぐんぐん研究室の温度が上がっていきます。先ほど8時過ぎに、あまりの暑さにたまらなくなって、1階の自動販売機に冷たい飲み物を買いにいったのですが、1階の涼しさにほっとしました。5階との温度差は歴然としています。
まして研究室には熱源となる、サーバのパソコンが常時動いています。そのサーバには無停電装置が付いています。研究室に私がいるときは、メインのデスクトップのパソコン1台、それには4台のハードディスクがついています。さらにノートパソコン、プリンターが動いています。これらは、熱を発生し、室温を高めています。
風の通らない私の研究室は、まさに盆地の夏の暑さと同じです。そして研究室に多数の熱源があるということは、その盆地に都市があるというヒートアイランドと同じ効果が起こっています。
私が生まれ育った京都も、盆地でした。私の故郷は、京都の南部の城陽市というところです。京都盆地は、南の最奥部で山一つ隔てて奈良盆地へとつながります。その京都盆地の南の底に当たるところに城陽があります。
京都盆地の南端の城陽市は、空気の流れが悪く、夏は非常に暑いところになります。また交通の要所ともなっており、排気ガスもかなり多く、学生時代は光化学スモッグ注意報がでて、屋外の活動がストッなったこともたびたびありました。そんなところにわが故郷の町は位置していました。城陽市は、南西部の上野盆地からくる木津川の流れの出口でもあります。川の流れは、盆地をあまり涼しくはしてくれません。
京都盆地は、木津川だけでなく、北東にある琵琶湖から高瀬川として流れでて宇治川へと続く流れ、京都の北山から流れる加茂川、亀岡盆地に集まった流れが保津峡を通り桂川へなったもの、大きな河川がすべて集まるところでもあります。そんな流れの堆積物が埋めて平らになったのが京都盆地です。集まった川は、合流して天王山のある狭いところを出口として淀川となり海に流れていきます。
木津川の右岸に広がる城陽市は、東の山からの伏流水で地下水も豊富で水不足になることはありませんでした。しかし、山の開発が進み、地下水位も下がり、実家でも地下水の利用はだいぶ以前からできなくなりました。
木津川周辺は、水利がよく農耕には適した地でした。しかし、木津川は暴れ側で治水のために堤防を長年にわたって築いてきました。天井川とよばれる高い河床を持つところもあります。しかし、川は恵みももたらしてくれました。木津川周辺は肥沃な農耕地ともなっています。農耕地には、砂の多いところもあり、氾濫原であったことをうかがわせます。そのような砂地を利用して、サツマイモなのどの畑作に利用されてきました。
私は京都を離れて、30年ほどになります。母も兄弟、親族も京都にまだ大勢住んでいます。その間、何度も京都に帰省しています。しかし、法事などの特別な時以外は、夏にはほとんど帰省したことがありません。それは盆地の暑さが身にしみているので避けているからです。ここ数日の暑さは、京都の暑さを思い出させます。
例年にない気象、たとえば今回の暑さのような日々が続くと、こんな暑さは異常気象だといって騒ぐ人もいます。12日、13日の「日最高気温」は、両日とも札幌で34.0℃となっています。これは、大変異常なことのように思えます。
しかし、札幌の「日最高気温」の記録を調べてみると、1位が1994(平成6)年8月7日の36.2℃、2位1943(昭和18)年7月21日35.8℃、3位1924(大正13)年7月11日35.5℃、4位1978(昭和53)年8月3日35.2℃、5位1972(昭和47)年8月7日35.1℃となっています。ですから、暑いことに違いはありませんが、記録的ではないようです。3位1924年の例外とすれば、そのほかの記録はすべて昭和以降のものです。ですから、昭和以降、暖かい時期になっているといえます。
では、札幌の「日最低気温」もついでにみていきましょう。1位が1900(明治33)年7月8日5.2℃、2位1900(明治33)年7月14日5.3℃、3位1902(明治35)年8月27日5.3℃、4位1889年(明治32)8月7日5.6℃、5位1904(明治37)年7月3日5.8℃となっています。記録を見てわかるように、冷夏の時期は、明治後半に集中しています。そのころが寒い時期であったといえます。
このような地域の暑い寒いなどの変動は、周期性のある変動があることは確かです。ですから異常気象ではなく、自然の変動の幅の一つに過ぎません。
もしこの暑さが、地球温暖化であれば、周期性はなく一方的な変動となります。さて本当のところはどうでしょうか。江別の暑さの中で、これは最高記録ではないのだといって気休めを言っていますが、一向に涼しくはなりません。
・熱暴走・
今回のエッセイは、予定しているところのデータを
集めることができませんでした。
時間はあったのですが、暑さのためにハードディスクを
認識しないトラブルが何度かありました。
あまりムリをすると熱暴走して、
破損をすると大変なことになるので、
無理をしないことにしています。
ですから、手持ちのデータでささっと今回は書き上げました。
申し訳ありません。
・故郷の自然・
暑くなったら故郷を思い出すというのは、
少々まずい気がします。
もちろん、いろいろなきっかけで故郷を思い出すことがあります。
実家の周辺は帰るたびに変化に気づきます。
私の心の中の故郷の自然は、いずれも30年以上も前のものです。
その後の変化を私はほとんど知りません。
帰省している時に断片的に眺めていはいますが、
きっちりと心に焼き付けていることはありません。
ですから、古いままの自然が
いまだに私の心の故郷となっています。
暑中お見舞い申し上げます。私は暑さのために少々夏バテ気味です。
私が住む江別市は、8月上旬は、7月の雨不足を補うかのように、雲りがちで雨の多い天気でした。日照不足が危惧されるほどの曇天でした。ところが8月中旬になると、一転して、30℃を越える、例年にない猛暑と高湿度に襲われました。このエッセイを書いているのも、その暑さの中でです。
この猛暑は、涼しい北海道の気候になれた人間には、たまらない日々となっています。私はもともと本州の京都の出身で、暑さには馴れているはずですが、北海道にしばらく住むと暑さには弱い体となってしまったようです。
さらに、北海道の家は、冬の雪対策や寒さへの暖房は完備されているのですが、暑さへの対策はなされていません。エアコンのある家も少なく、もちろん我が家にもありませんので、暑さにはまいっています。寒さ対策だけのはずが、我が家には、なぜか扇風機が2台あります。これは暖房の熱をかき混ぜるために買った冬用ですが、今年は、夏に活用しています。
特にここ数日は、夜も涼しくなることはなく、寝苦しい天気です。私の寝ている部屋は、風の通りがよくなく、窓を全開にしても蒸し暑さが消えることなく、扇風機で外の空気をいれなければ、寝ることもできないほどの暑さです。私は北海道に来て6年目ですが、こんなに暑い日が続くのは、初めての経験です。
大学の研究室は、もっとすごい状態です。朝の6時過ぎに来ても、部屋に入るとムットした熱気がよどんでいます。窓を開けても空気が流れません。同じフロアーの廊下の窓をいたるところを開けているのですが、それでも風が流れません。私の研究室は5階建ての5階にあります。南北に伸びる建物で、真ん中の廊下を挟んで両側に研究室があります。私の研究室は西側にあり、窓は西向きにあります。ですから、夏は午前中だけは日も差し込まず、涼しく仕事ができるのはずなのですが、この夏の暑さでは、朝からダメです。前日の西日によって暖められた部屋の熱が、暑い夜に冷やされることなく、そのまま留まっているます。
さらに、朝から天気がいいと、屋上を照らす太陽の熱が、最上階の研究室を直接暖めています。そして部屋の空気が流れませんので、ぐんぐん研究室の温度が上がっていきます。先ほど8時過ぎに、あまりの暑さにたまらなくなって、1階の自動販売機に冷たい飲み物を買いにいったのですが、1階の涼しさにほっとしました。5階との温度差は歴然としています。
まして研究室には熱源となる、サーバのパソコンが常時動いています。そのサーバには無停電装置が付いています。研究室に私がいるときは、メインのデスクトップのパソコン1台、それには4台のハードディスクがついています。さらにノートパソコン、プリンターが動いています。これらは、熱を発生し、室温を高めています。
風の通らない私の研究室は、まさに盆地の夏の暑さと同じです。そして研究室に多数の熱源があるということは、その盆地に都市があるというヒートアイランドと同じ効果が起こっています。
私が生まれ育った京都も、盆地でした。私の故郷は、京都の南部の城陽市というところです。京都盆地は、南の最奥部で山一つ隔てて奈良盆地へとつながります。その京都盆地の南の底に当たるところに城陽があります。
京都盆地の南端の城陽市は、空気の流れが悪く、夏は非常に暑いところになります。また交通の要所ともなっており、排気ガスもかなり多く、学生時代は光化学スモッグ注意報がでて、屋外の活動がストッなったこともたびたびありました。そんなところにわが故郷の町は位置していました。城陽市は、南西部の上野盆地からくる木津川の流れの出口でもあります。川の流れは、盆地をあまり涼しくはしてくれません。
京都盆地は、木津川だけでなく、北東にある琵琶湖から高瀬川として流れでて宇治川へと続く流れ、京都の北山から流れる加茂川、亀岡盆地に集まった流れが保津峡を通り桂川へなったもの、大きな河川がすべて集まるところでもあります。そんな流れの堆積物が埋めて平らになったのが京都盆地です。集まった川は、合流して天王山のある狭いところを出口として淀川となり海に流れていきます。
木津川の右岸に広がる城陽市は、東の山からの伏流水で地下水も豊富で水不足になることはありませんでした。しかし、山の開発が進み、地下水位も下がり、実家でも地下水の利用はだいぶ以前からできなくなりました。
木津川周辺は、水利がよく農耕には適した地でした。しかし、木津川は暴れ側で治水のために堤防を長年にわたって築いてきました。天井川とよばれる高い河床を持つところもあります。しかし、川は恵みももたらしてくれました。木津川周辺は肥沃な農耕地ともなっています。農耕地には、砂の多いところもあり、氾濫原であったことをうかがわせます。そのような砂地を利用して、サツマイモなのどの畑作に利用されてきました。
私は京都を離れて、30年ほどになります。母も兄弟、親族も京都にまだ大勢住んでいます。その間、何度も京都に帰省しています。しかし、法事などの特別な時以外は、夏にはほとんど帰省したことがありません。それは盆地の暑さが身にしみているので避けているからです。ここ数日の暑さは、京都の暑さを思い出させます。
例年にない気象、たとえば今回の暑さのような日々が続くと、こんな暑さは異常気象だといって騒ぐ人もいます。12日、13日の「日最高気温」は、両日とも札幌で34.0℃となっています。これは、大変異常なことのように思えます。
しかし、札幌の「日最高気温」の記録を調べてみると、1位が1994(平成6)年8月7日の36.2℃、2位1943(昭和18)年7月21日35.8℃、3位1924(大正13)年7月11日35.5℃、4位1978(昭和53)年8月3日35.2℃、5位1972(昭和47)年8月7日35.1℃となっています。ですから、暑いことに違いはありませんが、記録的ではないようです。3位1924年の例外とすれば、そのほかの記録はすべて昭和以降のものです。ですから、昭和以降、暖かい時期になっているといえます。
では、札幌の「日最低気温」もついでにみていきましょう。1位が1900(明治33)年7月8日5.2℃、2位1900(明治33)年7月14日5.3℃、3位1902(明治35)年8月27日5.3℃、4位1889年(明治32)8月7日5.6℃、5位1904(明治37)年7月3日5.8℃となっています。記録を見てわかるように、冷夏の時期は、明治後半に集中しています。そのころが寒い時期であったといえます。
このような地域の暑い寒いなどの変動は、周期性のある変動があることは確かです。ですから異常気象ではなく、自然の変動の幅の一つに過ぎません。
もしこの暑さが、地球温暖化であれば、周期性はなく一方的な変動となります。さて本当のところはどうでしょうか。江別の暑さの中で、これは最高記録ではないのだといって気休めを言っていますが、一向に涼しくはなりません。
・熱暴走・
今回のエッセイは、予定しているところのデータを
集めることができませんでした。
時間はあったのですが、暑さのためにハードディスクを
認識しないトラブルが何度かありました。
あまりムリをすると熱暴走して、
破損をすると大変なことになるので、
無理をしないことにしています。
ですから、手持ちのデータでささっと今回は書き上げました。
申し訳ありません。
・故郷の自然・
暑くなったら故郷を思い出すというのは、
少々まずい気がします。
もちろん、いろいろなきっかけで故郷を思い出すことがあります。
実家の周辺は帰るたびに変化に気づきます。
私の心の中の故郷の自然は、いずれも30年以上も前のものです。
その後の変化を私はほとんど知りません。
帰省している時に断片的に眺めていはいますが、
きっちりと心に焼き付けていることはありません。
ですから、古いままの自然が
いまだに私の心の故郷となっています。
2007-07-15
31 角島:人と大地の架け橋(2007.07.15)
Time:
9:22
●
Geologist
山口県で有名な観光地として、カルスト地形の秋吉台があります。しかし、山口には他にもいくつか地質学的に面白い見所があります。山口県の北西の日本海側にある角島もその一つです。
響灘(島根県から山口県の日本海を指します)にある角島(つのしま)へは、学会の見学旅行で訪れました。それまで私は、この島の存在を知りませんでした。2005年公開された映画「四日間の奇蹟」という映画の舞台になって有名になったそうですが、私はその映画を知りません。私が訪れたのは、2002年の夏のことでしたたから。
角島は、4km2ほどの小さな島ですが、北長門海岸国定公園内に入っています。1965年に国定公園の指定を受けましたが、1997年に角島一帯が北長門海岸国定公園に編入されました。この国定公園は、響灘に面した複雑な海岸線がウリとなっています。海岸線の複雑さは、大地の生い立ちと、形成後の隆起や沈降、そして波による侵食によって形成されてきました。そのような複雑な生い立ちの縮図ともいうべきものが角島でも見られます。
鼓のような形をした島で、北西の夢ヶ崎と北東の牧崎の岬が、牛の角に似ていることから、角島と名付けられたそうです。角島は古くから知られており、万葉集にも詠まれています。
かつては、角島へは下関市豊北町から1.5kmほど離れているため、船で渡らなければなりませんでした。現在では、角島大橋ができ、車で渡れるようになっています。角島大橋は2000年に完成したもので、1780mもあり、離島への一般道にかけられた橋としては、日本でも2番目の長さを誇っています。橋は、きれいな曲線を描いており、長さだけでなくその優雅さもなかなか見事です。
橋を渡っていく途中に、鳩島という小さな島の脇を通ります。ここもなかなかの地質学的に見どことがあります。鳩島にはきれいな柱状節理を見ることができます。しかし、橋から鳩島は少し離れているので、見るだけで島に上がることはできません。
柱状節理をつくっているの岩石は火山岩です。残念ながら鳩島では、岩石に近づくことはできませんが、角島の橋の袂や、西部の海岸で手にすることができます。
角島は、北東側と南西側にふたつの高まりがあり、両地区を結ぶ中央部が低い地帯(本文では地峡部と呼びます)となっています。北東側を元山地区、南西側を尾山地区と呼んでいます。
角島は、今ではひとつの島ですが、地峡部をはさんで島の両地区の生い立ちが違っています。
島の大地の歴史は、3500万年前ころの火山の活動からはじまります。この火山活動によって、尾山地区を構成する主要な岩石である火山岩(下部が輝石安山岩で、上部が角閃石流紋岩)ができました。この火山岩は、田万川火山岩類と呼ばれています。
その後、地峡部に、3000万年前の砂岩や礫岩からなる地層(日置層群峠山累層)がたまります。
1600万~1500万年前には、元山地区の主な岩石である砂岩や泥岩の地層(油谷湾層群川尻累層)が堆積します。そして、地峡部に大きな断層ができます。断層は今も海岸で見ることができますが、元山地区が下がり尾山地区が上がるような活動をしました。この断層によってめくれ上がった岩石が今も少し顔を覗かせています。少し見える岩石から、尾山地区の、田万川火山岩類の下には、さらに古い(白亜紀)火山岩があることがわかっています。
1000万~800万年前になると、鳩島や元山地区の角島大橋の袂、尾山地区の西部にみられる玄武岩の火山活動が起こります。この火山でできた火山岩(アルカリカンラン石玄武岩と呼ばれます)は、山陰の周辺地域で広く活動した火山岩類(山陰火山岩類とも呼ばれています)の仲間です。
40万~10万年前には、尾山地区の中央部だけに、礫岩(チャートと呼ばれる礫を含む)や砂岩からなる地層(尾山礫層と呼ばれています)が堆積します。
断層によって形成された地峡部は低くなりました。両地区の結合部である地峡部の沿岸には、今では、砂浜があり海水浴場となっています。海岸の砂をよくみると、貝殻の破片をたくさん含んでいることに気づきます。これは、シェルサンドと呼ばれるもので、貝殻の破片を60~70%ほど含んでいます。海岸の一部の地域で貝殻が集まったような海岸は、局所的ならいくらでもあるのですが、これほど広域にシェルサンドがあるとろは、珍しいのではないでしょうか。日本のどこからにあるのかもしれませんが、私は知りません。もちろん、海外では、とんでもなくすごいシェルサンドはありますが。
このような砂地は、6000年前ころから、氷河期の海水面の変動と季節風によって砂丘として形成されたものです。尾山地区の中央の北岸にも同じような砂丘堆積物が少しみられます。
島の中央にできた断層は、2つのまったく違った生い立ちの違う大地を生みました。しかし、その断層によってめくれ上がった大地が、島の生い立ちのまったく違うことを教えてくれています。一つの島で、これほど違った地質を持つものは、珍しいのではないでしょうか。
地峡部の砂が、断層で境された島の両地区の架け橋となっています。さらに、鳩山と同じ火山岩が、尾山地区と元山地区の架け橋となっています。
火山岩や砂丘などの架け橋は、1000万年前から6000年前にかけて、地球の営みによってできたものです。そして砂の架け橋ができてから約8000年後に、人は、響灘に角島大橋という人のために架け橋を渡したのです。
角島は、人との大地との2つの架け橋が、みられるところなのです。
・にぎ女・
万葉集の巻16の3871番に、
角嶋之 迫門乃稚海藻者 人之共 荒有之可杼 吾共者和海藻
という歌ががあります。
現代文で書き下すと、
角島の
瀬戸(せと)の稚海藻(わかめ)は
人の共(むた)
荒かりしかど
我れとは和海藻(にきめ)
(詠人知らず)
となります。
この歌の最初にでてくるのが角島です。
万葉時代から
ここで「にきめ」とは、
新鮮なワカメの茎とツワブキのつくだ煮のことです。
地元では、にぎ女(にぎめ)と呼ばれていて、
今でも名産品となっています。
・響灘・
響灘(ひびきなだ)は、なかなか情緒のある言葉です。
響灘は、日本海の西の端にあたり、
島根県西部から、関門海峡付近を通り、
福岡県北部の沿岸付近までの海域のことをいいます。
しかし、その字をよく見ると、情緒があるなどと
いってはいれないような言葉です。
響とは、音や振動が、余韻をもって伝わることです。
灘とは、洋とも書かれることがありますが、
波が荒く、潮の流れも速いところのことです。
灘は、サンズイに難という字ですから、
古くから船で行くことが困難なところとされています。
響灘とは、どうも荒れ狂う海という意味合いで
使われていたのではないでしょうか。
響灘(島根県から山口県の日本海を指します)にある角島(つのしま)へは、学会の見学旅行で訪れました。それまで私は、この島の存在を知りませんでした。2005年公開された映画「四日間の奇蹟」という映画の舞台になって有名になったそうですが、私はその映画を知りません。私が訪れたのは、2002年の夏のことでしたたから。
角島は、4km2ほどの小さな島ですが、北長門海岸国定公園内に入っています。1965年に国定公園の指定を受けましたが、1997年に角島一帯が北長門海岸国定公園に編入されました。この国定公園は、響灘に面した複雑な海岸線がウリとなっています。海岸線の複雑さは、大地の生い立ちと、形成後の隆起や沈降、そして波による侵食によって形成されてきました。そのような複雑な生い立ちの縮図ともいうべきものが角島でも見られます。
鼓のような形をした島で、北西の夢ヶ崎と北東の牧崎の岬が、牛の角に似ていることから、角島と名付けられたそうです。角島は古くから知られており、万葉集にも詠まれています。
かつては、角島へは下関市豊北町から1.5kmほど離れているため、船で渡らなければなりませんでした。現在では、角島大橋ができ、車で渡れるようになっています。角島大橋は2000年に完成したもので、1780mもあり、離島への一般道にかけられた橋としては、日本でも2番目の長さを誇っています。橋は、きれいな曲線を描いており、長さだけでなくその優雅さもなかなか見事です。
橋を渡っていく途中に、鳩島という小さな島の脇を通ります。ここもなかなかの地質学的に見どことがあります。鳩島にはきれいな柱状節理を見ることができます。しかし、橋から鳩島は少し離れているので、見るだけで島に上がることはできません。
柱状節理をつくっているの岩石は火山岩です。残念ながら鳩島では、岩石に近づくことはできませんが、角島の橋の袂や、西部の海岸で手にすることができます。
角島は、北東側と南西側にふたつの高まりがあり、両地区を結ぶ中央部が低い地帯(本文では地峡部と呼びます)となっています。北東側を元山地区、南西側を尾山地区と呼んでいます。
角島は、今ではひとつの島ですが、地峡部をはさんで島の両地区の生い立ちが違っています。
島の大地の歴史は、3500万年前ころの火山の活動からはじまります。この火山活動によって、尾山地区を構成する主要な岩石である火山岩(下部が輝石安山岩で、上部が角閃石流紋岩)ができました。この火山岩は、田万川火山岩類と呼ばれています。
その後、地峡部に、3000万年前の砂岩や礫岩からなる地層(日置層群峠山累層)がたまります。
1600万~1500万年前には、元山地区の主な岩石である砂岩や泥岩の地層(油谷湾層群川尻累層)が堆積します。そして、地峡部に大きな断層ができます。断層は今も海岸で見ることができますが、元山地区が下がり尾山地区が上がるような活動をしました。この断層によってめくれ上がった岩石が今も少し顔を覗かせています。少し見える岩石から、尾山地区の、田万川火山岩類の下には、さらに古い(白亜紀)火山岩があることがわかっています。
1000万~800万年前になると、鳩島や元山地区の角島大橋の袂、尾山地区の西部にみられる玄武岩の火山活動が起こります。この火山でできた火山岩(アルカリカンラン石玄武岩と呼ばれます)は、山陰の周辺地域で広く活動した火山岩類(山陰火山岩類とも呼ばれています)の仲間です。
40万~10万年前には、尾山地区の中央部だけに、礫岩(チャートと呼ばれる礫を含む)や砂岩からなる地層(尾山礫層と呼ばれています)が堆積します。
断層によって形成された地峡部は低くなりました。両地区の結合部である地峡部の沿岸には、今では、砂浜があり海水浴場となっています。海岸の砂をよくみると、貝殻の破片をたくさん含んでいることに気づきます。これは、シェルサンドと呼ばれるもので、貝殻の破片を60~70%ほど含んでいます。海岸の一部の地域で貝殻が集まったような海岸は、局所的ならいくらでもあるのですが、これほど広域にシェルサンドがあるとろは、珍しいのではないでしょうか。日本のどこからにあるのかもしれませんが、私は知りません。もちろん、海外では、とんでもなくすごいシェルサンドはありますが。
このような砂地は、6000年前ころから、氷河期の海水面の変動と季節風によって砂丘として形成されたものです。尾山地区の中央の北岸にも同じような砂丘堆積物が少しみられます。
島の中央にできた断層は、2つのまったく違った生い立ちの違う大地を生みました。しかし、その断層によってめくれ上がった大地が、島の生い立ちのまったく違うことを教えてくれています。一つの島で、これほど違った地質を持つものは、珍しいのではないでしょうか。
地峡部の砂が、断層で境された島の両地区の架け橋となっています。さらに、鳩山と同じ火山岩が、尾山地区と元山地区の架け橋となっています。
火山岩や砂丘などの架け橋は、1000万年前から6000年前にかけて、地球の営みによってできたものです。そして砂の架け橋ができてから約8000年後に、人は、響灘に角島大橋という人のために架け橋を渡したのです。
角島は、人との大地との2つの架け橋が、みられるところなのです。
・にぎ女・
万葉集の巻16の3871番に、
角嶋之 迫門乃稚海藻者 人之共 荒有之可杼 吾共者和海藻
という歌ががあります。
現代文で書き下すと、
角島の
瀬戸(せと)の稚海藻(わかめ)は
人の共(むた)
荒かりしかど
我れとは和海藻(にきめ)
(詠人知らず)
となります。
この歌の最初にでてくるのが角島です。
万葉時代から
ここで「にきめ」とは、
新鮮なワカメの茎とツワブキのつくだ煮のことです。
地元では、にぎ女(にぎめ)と呼ばれていて、
今でも名産品となっています。
・響灘・
響灘(ひびきなだ)は、なかなか情緒のある言葉です。
響灘は、日本海の西の端にあたり、
島根県西部から、関門海峡付近を通り、
福岡県北部の沿岸付近までの海域のことをいいます。
しかし、その字をよく見ると、情緒があるなどと
いってはいれないような言葉です。
響とは、音や振動が、余韻をもって伝わることです。
灘とは、洋とも書かれることがありますが、
波が荒く、潮の流れも速いところのことです。
灘は、サンズイに難という字ですから、
古くから船で行くことが困難なところとされています。
響灘とは、どうも荒れ狂う海という意味合いで
使われていたのではないでしょうか。
2007-06-15
30 恵山:せめぎあいの恵み(2007.06.15)
Time:
9:22
●
Geologist
自然の中にはいろいろなせめぎあいがあります。火山と植物もせめぎあっています。火山が噴火すれば、植物は死滅します。しかし噴火がおさまれば、また植物が回復します。火山とはそんなせめぎあいの繰り返しがおきています。
今年2007年のゴールデンウィークは、4月下旬と5月上旬の2つの連休に分かれていました。私は、家族同伴で、後半の連休の3日間を利用して、恵山に出かけました。
恵山は、北海道の南部(道南)、渡島半島の東部にあたる亀田半島の東端にあります。私の住む江別市から恵山までは、350kmほどあり、高速道路を利用しても、5、6時間かかるところです。目的地に行くまでに1日仕事となります。連休の初日は天気もよく、高速道路の出口の料金所が渋滞していました。私は、今までゴールデンウィークによく出かけていましたが、北海道の郊外で、渋滞にあったのは、これがはじめての経験でした。
恵山は、活火山で、618mの標高を持ちます。中腹まで道路があり、登山自体は、半日ですんでしまいます。今回出かけたのは、私は恵山の調査だけが目的でした。かなり遠いので、自宅から恵山まで1日かけて行き、1泊して、翌日の午前中に登山をします。午後は周辺を観光します。そしてもう1泊して、またまた1日かけて帰宅するというものです。
恵山では、ツツジが名物となっています。エゾヤマツツジとサラサドウダンツツジ、エゾイソツツジなど、60万本ものツツジがあるとされています。それらが満開となる5月下旬から6月いにかけては、多くの観光客が集まります。しかし、ゴールデンウィークでは、まだツツジには早い時期なので、比較的すいていました。ですから、4月に突然思い立った調査なのですが、温泉旅館がとれました。
私が、恵山に行こうと思ったのは、道南の活火山をみるためです。本当は駒ヶ岳に行きたかったのですが、駒ケ岳は噴火の危険性があるので、現在は登山禁止となっています。ですから、恵山に登ることにしたのでした。
恵山は、現在も噴気を出している活発な火山で、こんもりとした山容(溶岩ドーム)をしています。このドームの西側は、大きくえぐられた形になっています。これは、もともとドーム状であったものが、2500年前の噴火で壊されたもので、その裾野は広く平坦に(火口原とよばれています)なっています。この火口原から火山の裾野にかけて、ツツジなどの植物が多数自生しています。
恵山の噴火の歴史をみていくと、安山岩マグマによる活動で、同じ活動を繰り返してきました。最初に火砕流をもとなう爆発的な噴火を起こし、その後溶岩ドームを形成するような激しい噴火を起こします。そして、ドームの崩壊を起こすような小噴火に変わっていき、穏やかな静穏期へと移っていきます。これがひとつの噴火サイクルとなっています。
溶岩ドームを形成するような激しい火山活動は、3~4万年前、2万年前、8000年前の3回が確認されています。その間、数千年から1、2万年ほどの静穏期の後、再度活動にはいるということを繰り返しているようです。現在は、8000年前に起こった活動の静穏期にあたると考えられます。しかし、完全に休止したわけではなく、大規模な噴火は減っていますが、5000年前、3000年前、2500年前、600年前、そして1846年と1874年に小規模な噴火が記録に残っています。
1846年の噴火では、溶岩ドームで水蒸気爆発を起こして、小さな火口が形成されました。この噴火で、火山による泥流が発生して、数十名の犠牲者がでたという記録が残されています。
恵山の海側は、ドームが海上に切り立ったようになっているため、急峻な地形となっています。海を巡る道路もありません。ドームの周辺には、集落が近接しています。もし噴火があれば、大きな被害を出す可能性があります。
しかし、そんな恵山周辺には、火山のおかげでいくつかの温泉があります。それぞれ泉質も趣きも違っているため、観光資源として利用されています。危険と観光のせめぎあいのなかで、人々は暮らしています。
恵山の火口原の標高300mあたりまで舗装された道路があり、火口原が行き止まりですが、駐車場が完備されています。そこから火口原の散策コースや登山コースが始まります。私の家族は、登山コースがたどり頂上を目指しました。険しいのぼりが続きますが、眺望が開けた景色、小さな噴気口、ドームの断面を眺める展望台、ドームをつくっている火山岩などを見ることができ、いろいろ楽しみながら、登ることができます。
子供たちは、頂上に行ったら、津軽海峡越しに、本州の青森が見たいといっていました。登山をした日は天気はよかったのですが、霞がかかっていて、空気が澄んでいませんでした。そのため、残念ながら、青森の下北半島は見ることができませんでした。
登山道の各所に、安山岩の溶岩がみることができました。その溶岩には、ガスが抜けた跡の穴が、マグマが流れた方向に長く伸びた流理模様を見ることができます。マグマの動きを物語る生々しさがありました。
登っている途中には、小さな噴気孔がいたるところにありました。現在も噴気を出しているところ、昔出していたが今は出していないところ、そこには黄色いイオウの結晶やその他の沈殿物の結晶などが形成されていました。また風向きが変わると、噴気のガスが流れてきて、イオウのにおいもしてきました。蒸気につつまれ熱さを感じることもありました。やはり、ここは活火山なのです。
恵山は低い山なので、頂上付近にも植生がありました。私が登った時は、まだ時期が早く、花は咲いていませんでしたが、花の季節なれば、さぞかしきれいだろうなと思いました。
しかし、山の全面が植生に覆われているわけではありません。静穏期に入っているとはいえ、火山の影響がいたるところに、色濃く残っています。噴煙がまだ出ているところや、崩落が続いているところ、土砂が流れているところでは、まだ火山の勢力が残っています。
恵山の最後の噴火は、1874年です。ですから、もう130年以上たちます。その間に、植生は回復しました。恵山は、北海道でも、道南に位置し、比較的穏やかな地域です。標高も高くないため、植生の回復には適していたのでしょう。130年前と同じかどうかはわかりませんが、今では植物がせめぎあいに勝っています。そして今では、ツツジの名所として、観光客を集めています。火山にはつきものの温泉も、麓にはいくつもあり、観光に一役買っています。
私たちが登った日は、晴れの暖かい日でした。しかし、風が強く、頂上でも岩陰に入らないと、体感温度が結構低くなっていました。ですから、あまり長居はできませんでした。風に背を圧されるように山頂を後しました。
登山をしている間、植生と火山のせめぎあいを、恵山では見ることができます。今は火山の活動も静穏期になっているので、火山と植物のせめぎあいも「恵み」となっている山なのでしょう。
・幻の温泉・
椴法華と書いて「とどほっけ」と読みます。
市町村合併以前は亀田郡椴法華村でしたが
現在では函館市椴法華となります。
恵山の北側の椴法華に水無海浜温泉があります。
海岸に湧いている温泉で、
コンクリートで枠が作られて、浴槽らしくなっています。
しかも、無料の温泉で自由に入れます。
私が行った時は、潮が引きはじめている時でした。
温泉に入ることできました。
私は、ただ見学していただけでしたが、
子供たちがは、足だけを温泉に浸かっていました。
私が訪れたときは、ただの海沿いの温泉でしたが、
この水無海浜温泉は、別名「幻の温泉」と呼ばれています。
それは、この温泉は少々変わっているためです。
満潮の時は、海水が温泉の中まで進入して、冷たくて入ることができません。
干潮で、潮が完全に引くと、今度は、
温泉の温度が50度ほどあるので、
熱くて入ることができません。
ですから、満潮と時は、温泉が消え、
干潮には熱くて入れないという温泉です。
入る時間が限られている「幻の温泉」なのです。
・はしか・
隣の大学ではしかの学生3名がでて、
14日から24日まで、キャンパスへの立ち入りは全面禁止となりました。
その間の大学祭は延期、
オープンキャンパスは中止となりました。
大学の教職員は免疫があるので通常通りの勤務するそうです。
もし、10日間の休みともなると、
いろいろなスケジュールも都合がつかないものも出てきます。
もしかすると、もう潜伏期間にはいっている学生がいるかもしれないと
想像すると、我が大学でもいつ感染するか戦々恐々としています。
無事、流行が収まることを祈っています。
今年2007年のゴールデンウィークは、4月下旬と5月上旬の2つの連休に分かれていました。私は、家族同伴で、後半の連休の3日間を利用して、恵山に出かけました。
恵山は、北海道の南部(道南)、渡島半島の東部にあたる亀田半島の東端にあります。私の住む江別市から恵山までは、350kmほどあり、高速道路を利用しても、5、6時間かかるところです。目的地に行くまでに1日仕事となります。連休の初日は天気もよく、高速道路の出口の料金所が渋滞していました。私は、今までゴールデンウィークによく出かけていましたが、北海道の郊外で、渋滞にあったのは、これがはじめての経験でした。
恵山は、活火山で、618mの標高を持ちます。中腹まで道路があり、登山自体は、半日ですんでしまいます。今回出かけたのは、私は恵山の調査だけが目的でした。かなり遠いので、自宅から恵山まで1日かけて行き、1泊して、翌日の午前中に登山をします。午後は周辺を観光します。そしてもう1泊して、またまた1日かけて帰宅するというものです。
恵山では、ツツジが名物となっています。エゾヤマツツジとサラサドウダンツツジ、エゾイソツツジなど、60万本ものツツジがあるとされています。それらが満開となる5月下旬から6月いにかけては、多くの観光客が集まります。しかし、ゴールデンウィークでは、まだツツジには早い時期なので、比較的すいていました。ですから、4月に突然思い立った調査なのですが、温泉旅館がとれました。
私が、恵山に行こうと思ったのは、道南の活火山をみるためです。本当は駒ヶ岳に行きたかったのですが、駒ケ岳は噴火の危険性があるので、現在は登山禁止となっています。ですから、恵山に登ることにしたのでした。
恵山は、現在も噴気を出している活発な火山で、こんもりとした山容(溶岩ドーム)をしています。このドームの西側は、大きくえぐられた形になっています。これは、もともとドーム状であったものが、2500年前の噴火で壊されたもので、その裾野は広く平坦に(火口原とよばれています)なっています。この火口原から火山の裾野にかけて、ツツジなどの植物が多数自生しています。
恵山の噴火の歴史をみていくと、安山岩マグマによる活動で、同じ活動を繰り返してきました。最初に火砕流をもとなう爆発的な噴火を起こし、その後溶岩ドームを形成するような激しい噴火を起こします。そして、ドームの崩壊を起こすような小噴火に変わっていき、穏やかな静穏期へと移っていきます。これがひとつの噴火サイクルとなっています。
溶岩ドームを形成するような激しい火山活動は、3~4万年前、2万年前、8000年前の3回が確認されています。その間、数千年から1、2万年ほどの静穏期の後、再度活動にはいるということを繰り返しているようです。現在は、8000年前に起こった活動の静穏期にあたると考えられます。しかし、完全に休止したわけではなく、大規模な噴火は減っていますが、5000年前、3000年前、2500年前、600年前、そして1846年と1874年に小規模な噴火が記録に残っています。
1846年の噴火では、溶岩ドームで水蒸気爆発を起こして、小さな火口が形成されました。この噴火で、火山による泥流が発生して、数十名の犠牲者がでたという記録が残されています。
恵山の海側は、ドームが海上に切り立ったようになっているため、急峻な地形となっています。海を巡る道路もありません。ドームの周辺には、集落が近接しています。もし噴火があれば、大きな被害を出す可能性があります。
しかし、そんな恵山周辺には、火山のおかげでいくつかの温泉があります。それぞれ泉質も趣きも違っているため、観光資源として利用されています。危険と観光のせめぎあいのなかで、人々は暮らしています。
恵山の火口原の標高300mあたりまで舗装された道路があり、火口原が行き止まりですが、駐車場が完備されています。そこから火口原の散策コースや登山コースが始まります。私の家族は、登山コースがたどり頂上を目指しました。険しいのぼりが続きますが、眺望が開けた景色、小さな噴気口、ドームの断面を眺める展望台、ドームをつくっている火山岩などを見ることができ、いろいろ楽しみながら、登ることができます。
子供たちは、頂上に行ったら、津軽海峡越しに、本州の青森が見たいといっていました。登山をした日は天気はよかったのですが、霞がかかっていて、空気が澄んでいませんでした。そのため、残念ながら、青森の下北半島は見ることができませんでした。
登山道の各所に、安山岩の溶岩がみることができました。その溶岩には、ガスが抜けた跡の穴が、マグマが流れた方向に長く伸びた流理模様を見ることができます。マグマの動きを物語る生々しさがありました。
登っている途中には、小さな噴気孔がいたるところにありました。現在も噴気を出しているところ、昔出していたが今は出していないところ、そこには黄色いイオウの結晶やその他の沈殿物の結晶などが形成されていました。また風向きが変わると、噴気のガスが流れてきて、イオウのにおいもしてきました。蒸気につつまれ熱さを感じることもありました。やはり、ここは活火山なのです。
恵山は低い山なので、頂上付近にも植生がありました。私が登った時は、まだ時期が早く、花は咲いていませんでしたが、花の季節なれば、さぞかしきれいだろうなと思いました。
しかし、山の全面が植生に覆われているわけではありません。静穏期に入っているとはいえ、火山の影響がいたるところに、色濃く残っています。噴煙がまだ出ているところや、崩落が続いているところ、土砂が流れているところでは、まだ火山の勢力が残っています。
恵山の最後の噴火は、1874年です。ですから、もう130年以上たちます。その間に、植生は回復しました。恵山は、北海道でも、道南に位置し、比較的穏やかな地域です。標高も高くないため、植生の回復には適していたのでしょう。130年前と同じかどうかはわかりませんが、今では植物がせめぎあいに勝っています。そして今では、ツツジの名所として、観光客を集めています。火山にはつきものの温泉も、麓にはいくつもあり、観光に一役買っています。
私たちが登った日は、晴れの暖かい日でした。しかし、風が強く、頂上でも岩陰に入らないと、体感温度が結構低くなっていました。ですから、あまり長居はできませんでした。風に背を圧されるように山頂を後しました。
登山をしている間、植生と火山のせめぎあいを、恵山では見ることができます。今は火山の活動も静穏期になっているので、火山と植物のせめぎあいも「恵み」となっている山なのでしょう。
・幻の温泉・
椴法華と書いて「とどほっけ」と読みます。
市町村合併以前は亀田郡椴法華村でしたが
現在では函館市椴法華となります。
恵山の北側の椴法華に水無海浜温泉があります。
海岸に湧いている温泉で、
コンクリートで枠が作られて、浴槽らしくなっています。
しかも、無料の温泉で自由に入れます。
私が行った時は、潮が引きはじめている時でした。
温泉に入ることできました。
私は、ただ見学していただけでしたが、
子供たちがは、足だけを温泉に浸かっていました。
私が訪れたときは、ただの海沿いの温泉でしたが、
この水無海浜温泉は、別名「幻の温泉」と呼ばれています。
それは、この温泉は少々変わっているためです。
満潮の時は、海水が温泉の中まで進入して、冷たくて入ることができません。
干潮で、潮が完全に引くと、今度は、
温泉の温度が50度ほどあるので、
熱くて入ることができません。
ですから、満潮と時は、温泉が消え、
干潮には熱くて入れないという温泉です。
入る時間が限られている「幻の温泉」なのです。
・はしか・
隣の大学ではしかの学生3名がでて、
14日から24日まで、キャンパスへの立ち入りは全面禁止となりました。
その間の大学祭は延期、
オープンキャンパスは中止となりました。
大学の教職員は免疫があるので通常通りの勤務するそうです。
もし、10日間の休みともなると、
いろいろなスケジュールも都合がつかないものも出てきます。
もしかすると、もう潜伏期間にはいっている学生がいるかもしれないと
想像すると、我が大学でもいつ感染するか戦々恐々としています。
無事、流行が収まることを祈っています。
2007-05-15
29 伊豆半島:時間スケール 2007.05.15
Time:
9:21
●
Geologist
伊豆は、関東の人からすると、手ごろな観光地です。がんばれば日帰りだってできます。観光地だけでなく、海の幸、山の幸、そして温泉もあります。そんな観光地の伊豆をみていきましょう。
私は、伊豆半島の付け根とも言うべき、湯河原(ゆがわら)に、1999年12月から2002年3月までの2年3ヶ月間、住んでいました。それ以前は、伊豆半島より少し北になりますが、小田原市の足柄(あしがら)平野の中に、4年間住んでいました。ですから。私は、6年間も、伊豆半島の近くに暮らしていたことになります。
伊豆半島の大部分は、静岡県に属しています。湯河原は神奈川県ですが、街の中を千歳川という川が流れています。その川向こうは静岡県熱海市になっています。ですから、静岡県の伊豆半島は非常に身近な存在でした。
湯河原は箱根の裏側にあたりますので、私にとって箱根はもちろん身近な存在ですが、箱根だけでなく、伊豆半島にも、身近なものでした。伊豆半島は、いろいろ見所があり、よく出かけたものです。
私は、伊豆半島でも地質学的に興味のあるところを見に行きました。伊豆半島は、地質学的な見所だけでなく、温泉や観光でもいろいろ見所があるのをご存知の方も多いと思います。ところが、地質の見所と観光名所は、別々のところではなく、共通していることが多いのです。言い換えると、地質学的に面白い現象がみられるところは、観光地としても人気があるところだということです。
伊豆半島には、いくつもの観光地がありますが、自然の景観が見所となっているところが多数あります。例えば、下田の爪木崎(つめきざき)では亀の甲羅のような不思議な岩場が、奥石廊崎や波勝岬、城ヶ岬海岸では嶮しい断崖絶壁、堂ヶ島では不思議なガケの模様や洞窟、天城の浄蓮の滝や河津の七滝(ななだる)では柱が並んだような岩からできた滝、達磨山や大室山ではなだらかで丸い山、天城山や矢筈山(やはずやま)は険しい山、一碧湖では丸い形の湖などなど、さまざまな景観があり、それぞれが観光地となっています。
伊豆半島の観光地は、山あり、川あり、海ありで、非常に多彩で、いろいろなタイプの自然の景観を見ることができます。伊豆半島を単に観光地として巡るとあまり気づかないのですが、地質学を学んだことがある人や石に詳しい人には、ある共通点があることに気づきます。
観光地の多く景観は、溶岩や火山噴出物、水中火山砕屑物がつくるものであったり、火山体自体や噴火口などのマグマの火山活動によってできたものなのです。もちろん、伊豆半島は、火山活動だけでなく、堆積岩からできている地層もあり、その中には化石が見つかることもあります。しかし、伊豆半島では多くの火山活動の痕跡を見ることができます。そして、伊豆半島は、今も活動中の火山地帯なのです。
伊豆半島周辺をみていくと、活火山は、伊豆半島より北側の富士山と箱根にあり、伊豆半島を飛ばして、伊豆大島にあります。伊豆半島に活火山というのは、ぴんと来ないかも知れません。しかし、かつてニュースにもなって記憶にも残っているかもしれませんが、手石海丘という海底での噴火がありました。
1989年7月13日、伊東市の沖3kmの海底で起こったこの噴火は、伊豆半島での2700年ぶりの火山噴火なのです。つまり、有史以来、初めての噴火となったのです。ですから、伊豆半島が火山地帯であるのを気づかなかったのも無理はないことなのです。
伊東周辺には大室山や小室山の丸い山があり、それは小さな火山であることがわかっています。地形図をみると、伊東周辺には、このような小さな火山がたくさんあることがわかります。気象庁は、手石海丘の噴火後、伊東周辺の小さな火山を総称して、伊豆東部火山群と呼びました。
地質学者は、伊豆東部には、60個ほどの火山があることを知っていましたので、東伊豆火山群と呼んでいました。また、火山は半島の陸上部だけでなく、手石海丘のように、伊豆半島と伊豆大島の間の海底にも40個ほどの火山があることがわかっていました。これらの海底火山は、東伊豆沖海底火山群と呼ばれています。
気象庁は、陸地と海底の火山を総称して、伊豆東部火山群と呼びました。つまり、伊豆東部火山群は、伊豆半島の東半分と伊豆大島まで続くほどの直径30kmにも達する広い範囲に及ぶ火山地帯だったのです。その規模は伊豆大島や箱根より広く、富士山に匹敵するほどだったのです。
伊豆東部火山群は、活動地域が富士山や箱根、伊豆大島と肩を並べるほどですが、火山の形や活動様式には大きな違いがあることがわかります。
富士山や箱根、伊豆大島は同じような場所で何度も火山活動を起こしています。ですから、火山自体が非常に大きく高い山となります。このような火山は、一度の活動で終わるのではなく、何度も繰り返し活動しています。ですから複成火山と呼ばれています。
一方、伊豆東部火山群は、大室山や小室山のように比較的小さい火山がほとんどです。古い時代の火山の形は、風化侵食で変わっていたり、マグマの種類によって形の様々ですが、小規模で一度の火山活動でできた火山であることがわかっています。このような火山を単成火山と呼んでいます。ですから、伊豆東部火山群を、地質学者は東伊豆単成火山群と呼んでいました。
手石海丘の噴火は有史以来はじめての記録でしたが、東伊豆単成火山群は、15万年前ころから活動をはじめました。
知られている最初の火山活動は、天城高原近くの遠笠山でした。13万年前には高塚山、長者原、巣雲山の3つの火山が活動しました。10万年前には伊東市南部でいくつもの火山が噴火し、一碧湖が噴火口として残っています。4万年前に鉢ノ山が、2万5000年前に登り尾南が噴火し河津七滝をつくる溶岩が出ました。1万7000年前に鉢窪山と丸山が噴火し、浄蓮の滝をつくっている溶岩が流れました。1万4000年前には小室山が噴火、4000年前には大室山が噴火し、城ヶ崎の溶岩をつくりました。3200年前に、天城山が噴火し、何度も軽石の噴出や火砕流が発生しました。2700年前に、天城山の北東斜面でいくつもの火山噴火が起こり、それ以降しばらく火山活動がおさまっていました。
そして、1989年の手石海丘の噴火になったのです。ほんの2700年ほど休止期間があっただけでの活動です。それ以前の火山活動には、もっと長い休止期がありました。
東伊豆単成火山群は、このような噴火の歴史をもっているのですが、人間の歴史には火山活動の記録は残されていませんでした。仕方がありません。地質学などない時代ですから、過去の火山活動を知ることはできませんでした。しかし現在では、火山活動が活発に起こっている地域であることがわかっています。ですから、伊豆東部火山群は、活火山に分類されています。
人間にとっては、手石海丘の噴火は、有史以来はじめての経験だったのですが、地質学的はたまたまここしばらく活動がなかっただけの時期にすぎなかったのです。人間の残した記録は、大地や自然の記録とは、時間スケールが違っています。ですから、大地や自然の見方も、大地や自然の時間スケールで見ていく必要があります。そんなことが、伊豆の観光地から垣間見ることができます。
・心の目・
北海道の私が住む町では、暖かくなり、今が桜の盛りです。
このような気候や花の変化が、季節の巡り教えてくれます。
季節の巡りは、もちろん自然の時間の流れです。
しかし、今回のエッセイでも示したように
非常にゆっくりとした万年、億年の時間の流れも自然にはあります。
自然はあまりに壮大です。
時間という見方をしても、
風の動きや天気の移り変わりのような秒や分、時の時間スケール
太陽や月の動きのような日や月の時間スケール
季節の星座の変化のよな月や年の時間スケール
火山活動のような100年や万年の時間スケール
大地の変動のような億年の時間スケール
など、あまりに多様です。
このような自然の多様なスケールを見るには
人ももっと多様なスケールをみる心の目が必要なのでしょうね。
私は、伊豆半島の付け根とも言うべき、湯河原(ゆがわら)に、1999年12月から2002年3月までの2年3ヶ月間、住んでいました。それ以前は、伊豆半島より少し北になりますが、小田原市の足柄(あしがら)平野の中に、4年間住んでいました。ですから。私は、6年間も、伊豆半島の近くに暮らしていたことになります。
伊豆半島の大部分は、静岡県に属しています。湯河原は神奈川県ですが、街の中を千歳川という川が流れています。その川向こうは静岡県熱海市になっています。ですから、静岡県の伊豆半島は非常に身近な存在でした。
湯河原は箱根の裏側にあたりますので、私にとって箱根はもちろん身近な存在ですが、箱根だけでなく、伊豆半島にも、身近なものでした。伊豆半島は、いろいろ見所があり、よく出かけたものです。
私は、伊豆半島でも地質学的に興味のあるところを見に行きました。伊豆半島は、地質学的な見所だけでなく、温泉や観光でもいろいろ見所があるのをご存知の方も多いと思います。ところが、地質の見所と観光名所は、別々のところではなく、共通していることが多いのです。言い換えると、地質学的に面白い現象がみられるところは、観光地としても人気があるところだということです。
伊豆半島には、いくつもの観光地がありますが、自然の景観が見所となっているところが多数あります。例えば、下田の爪木崎(つめきざき)では亀の甲羅のような不思議な岩場が、奥石廊崎や波勝岬、城ヶ岬海岸では嶮しい断崖絶壁、堂ヶ島では不思議なガケの模様や洞窟、天城の浄蓮の滝や河津の七滝(ななだる)では柱が並んだような岩からできた滝、達磨山や大室山ではなだらかで丸い山、天城山や矢筈山(やはずやま)は険しい山、一碧湖では丸い形の湖などなど、さまざまな景観があり、それぞれが観光地となっています。
伊豆半島の観光地は、山あり、川あり、海ありで、非常に多彩で、いろいろなタイプの自然の景観を見ることができます。伊豆半島を単に観光地として巡るとあまり気づかないのですが、地質学を学んだことがある人や石に詳しい人には、ある共通点があることに気づきます。
観光地の多く景観は、溶岩や火山噴出物、水中火山砕屑物がつくるものであったり、火山体自体や噴火口などのマグマの火山活動によってできたものなのです。もちろん、伊豆半島は、火山活動だけでなく、堆積岩からできている地層もあり、その中には化石が見つかることもあります。しかし、伊豆半島では多くの火山活動の痕跡を見ることができます。そして、伊豆半島は、今も活動中の火山地帯なのです。
伊豆半島周辺をみていくと、活火山は、伊豆半島より北側の富士山と箱根にあり、伊豆半島を飛ばして、伊豆大島にあります。伊豆半島に活火山というのは、ぴんと来ないかも知れません。しかし、かつてニュースにもなって記憶にも残っているかもしれませんが、手石海丘という海底での噴火がありました。
1989年7月13日、伊東市の沖3kmの海底で起こったこの噴火は、伊豆半島での2700年ぶりの火山噴火なのです。つまり、有史以来、初めての噴火となったのです。ですから、伊豆半島が火山地帯であるのを気づかなかったのも無理はないことなのです。
伊東周辺には大室山や小室山の丸い山があり、それは小さな火山であることがわかっています。地形図をみると、伊東周辺には、このような小さな火山がたくさんあることがわかります。気象庁は、手石海丘の噴火後、伊東周辺の小さな火山を総称して、伊豆東部火山群と呼びました。
地質学者は、伊豆東部には、60個ほどの火山があることを知っていましたので、東伊豆火山群と呼んでいました。また、火山は半島の陸上部だけでなく、手石海丘のように、伊豆半島と伊豆大島の間の海底にも40個ほどの火山があることがわかっていました。これらの海底火山は、東伊豆沖海底火山群と呼ばれています。
気象庁は、陸地と海底の火山を総称して、伊豆東部火山群と呼びました。つまり、伊豆東部火山群は、伊豆半島の東半分と伊豆大島まで続くほどの直径30kmにも達する広い範囲に及ぶ火山地帯だったのです。その規模は伊豆大島や箱根より広く、富士山に匹敵するほどだったのです。
伊豆東部火山群は、活動地域が富士山や箱根、伊豆大島と肩を並べるほどですが、火山の形や活動様式には大きな違いがあることがわかります。
富士山や箱根、伊豆大島は同じような場所で何度も火山活動を起こしています。ですから、火山自体が非常に大きく高い山となります。このような火山は、一度の活動で終わるのではなく、何度も繰り返し活動しています。ですから複成火山と呼ばれています。
一方、伊豆東部火山群は、大室山や小室山のように比較的小さい火山がほとんどです。古い時代の火山の形は、風化侵食で変わっていたり、マグマの種類によって形の様々ですが、小規模で一度の火山活動でできた火山であることがわかっています。このような火山を単成火山と呼んでいます。ですから、伊豆東部火山群を、地質学者は東伊豆単成火山群と呼んでいました。
手石海丘の噴火は有史以来はじめての記録でしたが、東伊豆単成火山群は、15万年前ころから活動をはじめました。
知られている最初の火山活動は、天城高原近くの遠笠山でした。13万年前には高塚山、長者原、巣雲山の3つの火山が活動しました。10万年前には伊東市南部でいくつもの火山が噴火し、一碧湖が噴火口として残っています。4万年前に鉢ノ山が、2万5000年前に登り尾南が噴火し河津七滝をつくる溶岩が出ました。1万7000年前に鉢窪山と丸山が噴火し、浄蓮の滝をつくっている溶岩が流れました。1万4000年前には小室山が噴火、4000年前には大室山が噴火し、城ヶ崎の溶岩をつくりました。3200年前に、天城山が噴火し、何度も軽石の噴出や火砕流が発生しました。2700年前に、天城山の北東斜面でいくつもの火山噴火が起こり、それ以降しばらく火山活動がおさまっていました。
そして、1989年の手石海丘の噴火になったのです。ほんの2700年ほど休止期間があっただけでの活動です。それ以前の火山活動には、もっと長い休止期がありました。
東伊豆単成火山群は、このような噴火の歴史をもっているのですが、人間の歴史には火山活動の記録は残されていませんでした。仕方がありません。地質学などない時代ですから、過去の火山活動を知ることはできませんでした。しかし現在では、火山活動が活発に起こっている地域であることがわかっています。ですから、伊豆東部火山群は、活火山に分類されています。
人間にとっては、手石海丘の噴火は、有史以来はじめての経験だったのですが、地質学的はたまたまここしばらく活動がなかっただけの時期にすぎなかったのです。人間の残した記録は、大地や自然の記録とは、時間スケールが違っています。ですから、大地や自然の見方も、大地や自然の時間スケールで見ていく必要があります。そんなことが、伊豆の観光地から垣間見ることができます。
・心の目・
北海道の私が住む町では、暖かくなり、今が桜の盛りです。
このような気候や花の変化が、季節の巡り教えてくれます。
季節の巡りは、もちろん自然の時間の流れです。
しかし、今回のエッセイでも示したように
非常にゆっくりとした万年、億年の時間の流れも自然にはあります。
自然はあまりに壮大です。
時間という見方をしても、
風の動きや天気の移り変わりのような秒や分、時の時間スケール
太陽や月の動きのような日や月の時間スケール
季節の星座の変化のよな月や年の時間スケール
火山活動のような100年や万年の時間スケール
大地の変動のような億年の時間スケール
など、あまりに多様です。
このような自然の多様なスケールを見るには
人ももっと多様なスケールをみる心の目が必要なのでしょうね。
2007-04-15
28 神居古潭:人が行き交う渓谷 2007.04.15
Time:
9:20
●
Geologist
渓谷は、急流があり、交通にとっては障害となります。しかし、交通の要所となる渓谷には、古くから人が行き交ってきた歴史があります。岩に穿たれた穴から、そんな歴史を、垣間見ることができます。
北海道の石狩川は、日本海に注ぐ、日本でも有数の大河です。石狩川は、河口から石狩平野を東に向かい、次に北に向きを変えます。本流からは、豊平川、千歳川、夕張川、空知川、雨竜川などの支流が分かれていきます。河口の石狩から江別、岩見沢、滝川、深川の町をへて、平野から渓谷に入ります。渓谷の先は、旭川がある広い上川盆地に抜けます。
旭川は大きな町ですし、北見やオホーツクに向かう山越えの交通路にもあたり、渓谷沿いは重要な役割を果たしています。この深川と旭川の間にある渓谷は、神居古潭(かむいこたん)渓谷と呼ばれています。
漢字で書かれていますが、アイヌ語に漢字をあてて地名としています。神居古潭のカムイとは「神」を意味し、コタンは「いるところ」という意味です。非常にうまく漢字をあてていると感心します。
アイヌ語の地名があるということは、古くから神居古潭周辺にはアイヌの人が住んでいたこということになります。神居古潭の近辺には、竪穴式住居跡やストーンサークルなどの遺跡があり、縄文時代から人が住んでいたことがわかります。
神居古潭は3kmほどの渓谷で、狭く急峻な地形です。そのため、重要な交通路でありながら、難所となっています。水上交通を利用していたアイヌの人だけでなく、鉄道や自動車を利用する現代人にとっても、神居古潭渓谷は、難所となっています。
現在でも渓谷の嶮しさは変わりませんが、トンネルを使って、この難所を通り抜けています。私は、自動車で高速道路や国道、JRでも神居古潭を通りぬけていますが、トンネルを通ることになります。ですから、難所と感じることなく通過しています。多分、多くの人もそうだろうと思います。
トンネルを通っている時は、岩石をみることはできませんが、旧道に入れば、渓谷を味わうことができます。旧道のドライブインのあるところから、石狩川にかかったつり橋を渡ることができます。このつり橋から、渓谷を眺めることができます。
つり橋を渡った対岸には、函館本線の旧線にあった神居古潭駅があります。現在は駅としては使われてませんが、公園として整備されていて、駅舎も休息所として利用でき、SLも展示されています。
神居古潭が渓谷となっているのは、固い岩石が出ているためです。どのような岩石がでているかというと、これがまた、なかなか面白い岩石なのです。
北海道の地形を見ると、南北に伸びる山脈が走っています。日高山脈から大雪山にいたる山脈が主稜線をつくっています。しかし、よく見ると、その西側に、見え隠れしながらもうひとつの山脈が平行してあることがわかります。日高山脈の西側では、わかりにくいのですが、山並みがあります。そして北には、夕張山地から手塩山地へと続く明瞭な山並みがあります。夕張山地と天塩山地のつなぎ目が、神居古潭渓谷にあたります。
日高山脈は変成岩や火成岩と堆積岩からできています。その西側は、神居古潭帯と呼ばれ、蛇紋岩と変成岩を主体とする岩石からできます。北海道の地殻変動は、プレートが東西方向にぶつかることでおこったため、大地の割れ目は、南北に伸びる方向に形成され、現在のような南北に伸びる山脈となったのです。これが日高山脈や神居古潭帯のでき方の概略です。
日高山脈や神居古潭帯の山並みをつくる岩石でありながら、その性質は両者では大きく異なっています。
神居古潭帯を構成する代表的な岩石は、蛇紋岩です。この蛇紋岩は、変わった岩石なのです。蛇紋岩は、濃い緑でテカテカとして、まだら模様となることがあり、文字通りヘビの紋のような見かけを示すことがある岩石です。
蛇紋岩は、もともとマントルを構成していた岩石(カンラン岩と呼ばれています)が、地殻変動により、水を含み蛇紋岩となり密度が小さくなり、上昇してきたものです。蛇紋岩は、水の含む程度によって岩石の性質や見かけが変わり、含まれる水が少なければ比較的しっかりとした岩石になります。しかし、水をたくさん含むと、すべすべとして滑りやすく、侵食されやすい岩石となります。
地下深部で蛇紋岩となった岩石が上昇する時、周囲にあった変成岩を取り込んで上がってくることがよくあります。これが神居古潭帯をつっている岩石の生い立ちです。
神居古潭帯の南部で明瞭な山脈をなさなかったのは、水をたくさん含む蛇紋岩となっているためです。手塩山地にかけて明瞭な山地があるのは、水が少なく比較的しっかりした蛇紋岩(塊状蛇紋岩とよばれています)であるためです。また、夕張山地は、柔らかい蛇紋岩からできているのですが、蛇紋岩に取り込まれた固い変成岩を多く含み、それが高まりになっているです。
水を含む蛇紋岩が出ているところは、崩れやすくトンネルも作りにくく、道路造成において、困難な工事となります。特に神居古潭帯南部や日高山脈では、北海道の東西の交通路をつくるとき、神居古潭帯の弱い蛇紋岩と日高山脈の高い山並みが、工事を困難にしています。
神居古潭は今も昔も交通の要所ですが、固い岩石がでているためにトンネルができ、スムースに通行することができるようになりました。しかし、旧道にでて、渓谷を眺めてみると、昔のままの石狩川がそこにあります。
つり橋や河岸から、川岸の石をよく見ると甌穴(おうけつ)と呼ばれるものが、たくさん見えます。甌穴とは、岩にあいた穴のことです。もともとは岩のくぼみであったのが、小さな石が水流のなかで回り、穴を深く掘りこんでいきます。このような現象が、長い時間かけて繰り返し起こると、固い岩でも深い穴が形成されていきます。
甌穴の起源について、アイヌの伝承(ユーカラ)として、つぎのようなものが残されています。
神居古潭には、ニッネカムイ(悪い神様という意味)が住んでいました。ニッネカムイは、ここを通るアイヌをおぼれさせようしてと、大きな岩を投げ込みました。いい神様であるヌプリカムイ(山の神様という意味)が、岩をよけようとして、ニッネカムイと争いになりました。その時、英雄サマイクルが、ヌプリカムイに加勢しました。形勢が悪くなったニッネカムイは逃げようとしたのですが、川岸の泥に埋まり、身動きができなくなりました。その時を逃さず、サマイクルがニッネカムイを切り殺しました。ニッネカムイが足を取られた跡が甌穴になったと伝えられています。周辺にはニッネカムイの首やサマイクルの砦とされる奇岩もあります。
このようなユーカラができるもの、神居古潭渓谷が、古くから交通の要所でもあり、難所でもあったため、よく観察さていたためでしょう。現在でも、トンネル工事では、岩石が詳しく調べられます。そして安全性を確認されます。しかし、そのを通行する人々は、多くの人が苦労して確保した安全な交通によって、その嶮しさを気づかずに通り過ぎていきます。
・昔ながらの景観・
このメールマガジンためのホームページを作成するために、
共同研究をしている北海道地図株式会社は、
旭川に本社があります。
神居古潭渓谷を抜けたすぐのところに、本社があります。
私は、何度か出かけているのですが、
そのたびに、国道のトンネルを通り抜けています。
交通の要所なのですが、トンネルのため、
トンネルの切れ目からちらりと渓谷が眺められるだけです。
トンネルができたおかげで、
渓谷自体には開発が入らず、昔のままの自然を残しています。
アイヌの人たちが見たのと同じような季節の移ろいを
今でも見ることができます。
そして、カムイのユーカラに思いはせてみるのもいいのではないでしょうか。
北海道は、これから春を迎えて、いい季節となります。
・新学期・
新学期です。春です。
私の職場(大学)も家庭(次男)でも、入学の季節となりました。
北海道は、桜にはまだ早いのですが、
フキノトウや春に咲く木の新芽などが見えてきました。
道路の雪やすべてとけ、雪捨て場や軒下などで、
ところどろこに雪が残るだけとなりました。
今年は大学で、新入生のゼミを担当することになりました。
2年間の担任も含んでいます。
創設2年目の新学科ですので、
初めてのことばかりも多く、
戸惑いもあります。
希望に燃えた若者と接するのは楽しいです。
それなりに気も使いますが。
北海道の石狩川は、日本海に注ぐ、日本でも有数の大河です。石狩川は、河口から石狩平野を東に向かい、次に北に向きを変えます。本流からは、豊平川、千歳川、夕張川、空知川、雨竜川などの支流が分かれていきます。河口の石狩から江別、岩見沢、滝川、深川の町をへて、平野から渓谷に入ります。渓谷の先は、旭川がある広い上川盆地に抜けます。
旭川は大きな町ですし、北見やオホーツクに向かう山越えの交通路にもあたり、渓谷沿いは重要な役割を果たしています。この深川と旭川の間にある渓谷は、神居古潭(かむいこたん)渓谷と呼ばれています。
漢字で書かれていますが、アイヌ語に漢字をあてて地名としています。神居古潭のカムイとは「神」を意味し、コタンは「いるところ」という意味です。非常にうまく漢字をあてていると感心します。
アイヌ語の地名があるということは、古くから神居古潭周辺にはアイヌの人が住んでいたこということになります。神居古潭の近辺には、竪穴式住居跡やストーンサークルなどの遺跡があり、縄文時代から人が住んでいたことがわかります。
神居古潭は3kmほどの渓谷で、狭く急峻な地形です。そのため、重要な交通路でありながら、難所となっています。水上交通を利用していたアイヌの人だけでなく、鉄道や自動車を利用する現代人にとっても、神居古潭渓谷は、難所となっています。
現在でも渓谷の嶮しさは変わりませんが、トンネルを使って、この難所を通り抜けています。私は、自動車で高速道路や国道、JRでも神居古潭を通りぬけていますが、トンネルを通ることになります。ですから、難所と感じることなく通過しています。多分、多くの人もそうだろうと思います。
トンネルを通っている時は、岩石をみることはできませんが、旧道に入れば、渓谷を味わうことができます。旧道のドライブインのあるところから、石狩川にかかったつり橋を渡ることができます。このつり橋から、渓谷を眺めることができます。
つり橋を渡った対岸には、函館本線の旧線にあった神居古潭駅があります。現在は駅としては使われてませんが、公園として整備されていて、駅舎も休息所として利用でき、SLも展示されています。
神居古潭が渓谷となっているのは、固い岩石が出ているためです。どのような岩石がでているかというと、これがまた、なかなか面白い岩石なのです。
北海道の地形を見ると、南北に伸びる山脈が走っています。日高山脈から大雪山にいたる山脈が主稜線をつくっています。しかし、よく見ると、その西側に、見え隠れしながらもうひとつの山脈が平行してあることがわかります。日高山脈の西側では、わかりにくいのですが、山並みがあります。そして北には、夕張山地から手塩山地へと続く明瞭な山並みがあります。夕張山地と天塩山地のつなぎ目が、神居古潭渓谷にあたります。
日高山脈は変成岩や火成岩と堆積岩からできています。その西側は、神居古潭帯と呼ばれ、蛇紋岩と変成岩を主体とする岩石からできます。北海道の地殻変動は、プレートが東西方向にぶつかることでおこったため、大地の割れ目は、南北に伸びる方向に形成され、現在のような南北に伸びる山脈となったのです。これが日高山脈や神居古潭帯のでき方の概略です。
日高山脈や神居古潭帯の山並みをつくる岩石でありながら、その性質は両者では大きく異なっています。
神居古潭帯を構成する代表的な岩石は、蛇紋岩です。この蛇紋岩は、変わった岩石なのです。蛇紋岩は、濃い緑でテカテカとして、まだら模様となることがあり、文字通りヘビの紋のような見かけを示すことがある岩石です。
蛇紋岩は、もともとマントルを構成していた岩石(カンラン岩と呼ばれています)が、地殻変動により、水を含み蛇紋岩となり密度が小さくなり、上昇してきたものです。蛇紋岩は、水の含む程度によって岩石の性質や見かけが変わり、含まれる水が少なければ比較的しっかりとした岩石になります。しかし、水をたくさん含むと、すべすべとして滑りやすく、侵食されやすい岩石となります。
地下深部で蛇紋岩となった岩石が上昇する時、周囲にあった変成岩を取り込んで上がってくることがよくあります。これが神居古潭帯をつっている岩石の生い立ちです。
神居古潭帯の南部で明瞭な山脈をなさなかったのは、水をたくさん含む蛇紋岩となっているためです。手塩山地にかけて明瞭な山地があるのは、水が少なく比較的しっかりした蛇紋岩(塊状蛇紋岩とよばれています)であるためです。また、夕張山地は、柔らかい蛇紋岩からできているのですが、蛇紋岩に取り込まれた固い変成岩を多く含み、それが高まりになっているです。
水を含む蛇紋岩が出ているところは、崩れやすくトンネルも作りにくく、道路造成において、困難な工事となります。特に神居古潭帯南部や日高山脈では、北海道の東西の交通路をつくるとき、神居古潭帯の弱い蛇紋岩と日高山脈の高い山並みが、工事を困難にしています。
神居古潭は今も昔も交通の要所ですが、固い岩石がでているためにトンネルができ、スムースに通行することができるようになりました。しかし、旧道にでて、渓谷を眺めてみると、昔のままの石狩川がそこにあります。
つり橋や河岸から、川岸の石をよく見ると甌穴(おうけつ)と呼ばれるものが、たくさん見えます。甌穴とは、岩にあいた穴のことです。もともとは岩のくぼみであったのが、小さな石が水流のなかで回り、穴を深く掘りこんでいきます。このような現象が、長い時間かけて繰り返し起こると、固い岩でも深い穴が形成されていきます。
甌穴の起源について、アイヌの伝承(ユーカラ)として、つぎのようなものが残されています。
神居古潭には、ニッネカムイ(悪い神様という意味)が住んでいました。ニッネカムイは、ここを通るアイヌをおぼれさせようしてと、大きな岩を投げ込みました。いい神様であるヌプリカムイ(山の神様という意味)が、岩をよけようとして、ニッネカムイと争いになりました。その時、英雄サマイクルが、ヌプリカムイに加勢しました。形勢が悪くなったニッネカムイは逃げようとしたのですが、川岸の泥に埋まり、身動きができなくなりました。その時を逃さず、サマイクルがニッネカムイを切り殺しました。ニッネカムイが足を取られた跡が甌穴になったと伝えられています。周辺にはニッネカムイの首やサマイクルの砦とされる奇岩もあります。
このようなユーカラができるもの、神居古潭渓谷が、古くから交通の要所でもあり、難所でもあったため、よく観察さていたためでしょう。現在でも、トンネル工事では、岩石が詳しく調べられます。そして安全性を確認されます。しかし、そのを通行する人々は、多くの人が苦労して確保した安全な交通によって、その嶮しさを気づかずに通り過ぎていきます。
・昔ながらの景観・
このメールマガジンためのホームページを作成するために、
共同研究をしている北海道地図株式会社は、
旭川に本社があります。
神居古潭渓谷を抜けたすぐのところに、本社があります。
私は、何度か出かけているのですが、
そのたびに、国道のトンネルを通り抜けています。
交通の要所なのですが、トンネルのため、
トンネルの切れ目からちらりと渓谷が眺められるだけです。
トンネルができたおかげで、
渓谷自体には開発が入らず、昔のままの自然を残しています。
アイヌの人たちが見たのと同じような季節の移ろいを
今でも見ることができます。
そして、カムイのユーカラに思いはせてみるのもいいのではないでしょうか。
北海道は、これから春を迎えて、いい季節となります。
・新学期・
新学期です。春です。
私の職場(大学)も家庭(次男)でも、入学の季節となりました。
北海道は、桜にはまだ早いのですが、
フキノトウや春に咲く木の新芽などが見えてきました。
道路の雪やすべてとけ、雪捨て場や軒下などで、
ところどろこに雪が残るだけとなりました。
今年は大学で、新入生のゼミを担当することになりました。
2年間の担任も含んでいます。
創設2年目の新学科ですので、
初めてのことばかりも多く、
戸惑いもあります。
希望に燃えた若者と接するのは楽しいです。
それなりに気も使いますが。
2007-03-15
27 大山:火山と人間の休止期の差 2007.03.15
Time:
9:20
●
Geologist
火山、長い休止期を経た後、活動することがあります。それは、人間には、なかなかマネのできないことです。今回は、長い休止期をもっている火山を紹介しましょう。
鳥取県中央部の山合いに三朝(みささ)温泉があります。三朝温泉は、倉吉市で海にそそぐ天神(てんじん)川の支流の三徳(みとく)川の上流域の三朝町にあります。そんな三朝町に、私は5年間住んでいました。
当時、大学の研究所が三朝温泉の少し下流側にあったのです。その研究所に、修士課程の学生として2年、しばらく間を置いて、博士課程終了後の研究生として1年、続けて学術振興会特別研究員の2年、あわせて5年いたことになります。後半の3年間は、特に集中して研究しました。
その後私は、転々と移転を繰り返していたのですが、移転と共に、研究テーマも変わっていきました。公務員でもあったので、研究所に行くことがなく、興味も移ってきました。その後、研究所は、改組や建物の増改築などもあり、大きく変わりしてしまいました。当時のスタッフたちは、まだ何人もおられますが、大きく変わったようです。
三朝に住んでいた時、大きな町は倉吉市でしたので、よく出かけていました。そんな時、町や日本海沿いでは、西の方に雄大で大きな山が見えました。大山でした。
大山と書いて、「だいせん」と読みます。大山周辺の山には、「山」を「せん」と読む地名があります。扇ノ山(おおぎのせん)、氷ノ山(ひょうのせん)、蒜山(ひるぜん、上・中・下の3つの頂上があります)、須賀ノ山(すがのせん)、那岐山(なぎせん)などがあります。
「せん」という読み方は、めずらしく感じますが、音読みとして、「さん」は漢音ですが、「せん」いう読み方が呉音としてあります。山岳宗教の影響もあると考えられていますが、中国地方に「せん」という山の名前が残っているのは不思議です。
大山は、出雲国風土記では「大神岳(おおかみのたけ)」と呼ばれ、奈良時代以降、山岳信仰の対象の山となっています。大山は、明治の廃仏毀釈までは、大山寺の寺領なっており、一般人の登山が禁止されていました。
大山は、富士山のような形をしている非常に雄大な山です。富士山のように見えることから、古くから、伯耆富士(ほうきふじ)、あるいは出雲富士(いずもふじ)と呼ばれています。
大山は、火山です。大山は、北側に広い裾野を持っている風格のある成層火山です。大山の北の裾野は日本海に達しています。国道も鉄道も、大山の裾野を通っています。ですから、これらの場所から、雄大な大山を眺めることができます。
成層火山は、溶岩や火山灰などの多様な火山噴出物からできます。裾野がなだらかなのは、火山噴出物が繰り返し堆積したためです。また、火山灰は、風化されば、肥沃な土壌になり、大山の裾野は、農耕地帯として田園風景が広がっています。
車窓から眺める大山の裾野には、田畑の中に、深く削られた谷筋を多数見ることができます。その谷は、大山の山頂に向かっているように見えます。
谷となっている深い溝は、侵食によるものです。溶岩は固いですが、火山灰などは、柔らかく侵食を受けやすいものです。新しい火山で現在も活動をしていれば、侵食されても火山噴出で堆積を繰り返すので、穏やかな裾野のままでいます。しかし、成層火山でも、活動を長くして休止しているものは、侵食だけが進みます。大山も、そのような火山です。
大山は、約180万年前から活動をはじめています。その間に数1000年から数万年の休止期をはさみながら、50万年前ころまでに、巨大なカルデラができたと考えられています。このようなカルデラをつくった活動を古期とされています。
そこに5万年から1万年前にかけて、新期の活動が起こります。新期の火山活動は、現在の山頂を構成している溶岩ドームと呼ばれるものを形成しました。大山をつくったマグマは、安山岩からデイサイトの性質を持つものがほとんどで、時には激しい噴火をしました。
5万年前のプリニー式とよばれる激しい噴火は、大量の火山噴出物を放出しました。このときの火山灰は、大山倉吉軽石(大山火山灰層とも呼ばれることがあります)とよばれており、大山周辺では数mほどの厚さがあり、鳥取県東部では1mから数10cmほどの厚さとなります。大山倉吉軽石は、遠くまで風にとって運ばれました。北陸、信州、北関東、遠くは福島まで確認されています。このような広域に広がっているの火山灰で時代のはっきりしているものは、広域テフラと呼ばれ、地層の時代区分に利用されています。大山倉吉軽石も広域テフラです。
2万年前に、激しい火山活動があり、大量の火砕流が流れ、溶岩ドームなどが形成されました。このときにできたのが、弥山(みせん、1709m)、三鈷峰(さんこほう、1516m)、烏ヶ山(からすがせん、1448m)の3つの溶岩ドームです。
弥山と三鈷峰は隣接していて、これら2つのドームが現在の大山の主稜線をつくっています。烏ヶ山は弥山からみると南東側にあたります。弥山の北東側に三鈷峰はあります。弥山から東に続く稜線は、一等三角点(1710.5m)を通り、最高点の剣ヶ峰(けんがみね、1729m)にいたり、そこから北に曲がって、三鈷峰に至ります。
大山の火山活動は、約1万年前で終わりました。それ以降、噴火記録の記録はありません。1万年前以降、火山活動をしていないため、大山は侵食を受け続けています。裾野では、柔らかな火山灰を、流水が侵食していったのです。裾野の深い谷は、そのような侵食の証拠なのです。
大山の主稜線を形づくっている弥山と三鈷峰の溶岩ドームでも侵食は進んでいます。その北側の裾野から、弥山の山頂までは、登山可能す。しかし、弥山から三鈷峰にいたる稜線は、急峻で侵食が激しく崩れやすく、現在、縦走が禁止されています。
稜線は特に南と北向き斜面での浸食が激しく、ふもとからみるとまるで切り立った壁のように見え、それぞれ南壁と北壁と呼ばれています。北壁の下は、元谷と呼ばれ、元谷の下流側には大神山神社の奥宮や大山寺があります。
地表のでっぱりが、侵食を受けるのは、自然の節理でもあります。特に、日本海側に面する山陰地方は、季節風や風雪により、浸食を受けやすい環境です。まして、1万年前から活動をしていない火山ですから、大山は激しく浸食を受けています。
大山は、遠目で見ると穏やかな山容にみえますが、山頂周辺の稜線が嶮しいのは、激しい侵食という理由があったのです。
ただ、1980年代から、大山への登山者の急増によって、登山ルート周辺が踏み荒らされ、緑がなくなり、雨水による浸食が激しくなりました。これらは、人為による自然破壊が起こっていると考えられています。そのため、「一木一石運動」が、官民協同して取り組まれました。その運動によって、登山者は、一つの石を持って登って浸食溝をうめたり、植物の苗を植えたり、木道を整備したりして、徐々にでありますが、自然が回復つつあるようです。
大山全体の侵食は、1万年間、活動をしていないためです。しかし、上でも述べましたように、大山は、数万年以上の長い休止期間の後に、再度火山活動を行ったことが知られています。ですから、大山がもう活動をやめた火山と見なすのは、危険なことです。
私が三朝の研究所にいた時は、ある元素の分析(鉛の同位体)を中心に研究をおこなっていました。その元素を、非常の微量でも化学的に抽出する手法や装置で分析する方法などを、いろいろ試行錯誤しながら、3年間で完成させていきました。今もその手法は、研究所で改善されて利用されています。
私は、三朝で行っていた研究は、転職後も続けるつもりでいました。しばらくは、環境が整わないので、その研究テーマは休止のつもりでいました。私は、別のことに興味を持ち出すと、そちらにのめり込んでしまうタイプです。ですから、現在ではその研究テーマは、休止から中止になってきました。
研究所を離れて早16年もたちました。しかし、研究所時代のことは、今も思い出します。当時は、若さにまかせて、強い目的意識に突き動かされながら、夜昼なく研究に没頭していました。その結果、非常に苦労して目的を達成したことは、その後の人生を送っていく時に、大きな自信を与えてくれました。
現在の私には、そのような分析から離れて、長い時間が過ぎ去りました。昨年秋、近くの大学にいる先輩から、当時私がやっていた元素の分析について話をしたいという連絡を受けました。私は、関連する資料を携えて先輩のいる大学に出かけました。彼も、ある故人の先輩から、その分析をすることが頼まれていたので、なんとか叶えたいということでした。大学院生が、その元素の分析ができるように、手助けをしてくれと頼まれました。私は引き受けたのですが、彼らも私も、どうも気力が湧かないようなので、分析はうやむやになってしまいました。
人間は、一度中止という気持ちを持つと、以前のような気持ちに再度高めるのはなかなか困難なようです。まして、今別のことに興味をもっているとなおさらです。私は、今の興味に活動中なのです。
・露天風呂・
三朝温泉街の三徳川に三朝大橋があります。
その橋の袂の川原には、「河原風呂」と呼ばれている
無料の露天風呂があります。
脱衣所は男女別にありますが、湯船は混浴です。
メインストリートのある橋から丸見えの露天風呂なので、
入るのにはなかなか勇気が要ります。
三朝に住んでいた時は、何度か入ったことがありますが、
数えるほどしかありません。
それは研究所内に職員用の温泉があったからです。
・甲子園の土・
甲子園球場のあるとことは、もともと砂地で、土も白っぽいところでした。
そのため、ボールが見にくいという問題がありました。
ボールを見やすくするために、
黒っぽい色の土を混ぜるということが考えられました。
当初は淡路島の土を混ぜていたのですが、
現在では、白砂は中国福建省のものを
黒土は、大山の火山灰を混ぜて使われています。
大山の火山灰の最上位層にあたる「黒ぼく」と呼ばれる土です。
季節の雨量と日差しの違いで、
春には砂を多く、夏には黒土を多くしているそうです。
鳥取県中央部の山合いに三朝(みささ)温泉があります。三朝温泉は、倉吉市で海にそそぐ天神(てんじん)川の支流の三徳(みとく)川の上流域の三朝町にあります。そんな三朝町に、私は5年間住んでいました。
当時、大学の研究所が三朝温泉の少し下流側にあったのです。その研究所に、修士課程の学生として2年、しばらく間を置いて、博士課程終了後の研究生として1年、続けて学術振興会特別研究員の2年、あわせて5年いたことになります。後半の3年間は、特に集中して研究しました。
その後私は、転々と移転を繰り返していたのですが、移転と共に、研究テーマも変わっていきました。公務員でもあったので、研究所に行くことがなく、興味も移ってきました。その後、研究所は、改組や建物の増改築などもあり、大きく変わりしてしまいました。当時のスタッフたちは、まだ何人もおられますが、大きく変わったようです。
三朝に住んでいた時、大きな町は倉吉市でしたので、よく出かけていました。そんな時、町や日本海沿いでは、西の方に雄大で大きな山が見えました。大山でした。
大山と書いて、「だいせん」と読みます。大山周辺の山には、「山」を「せん」と読む地名があります。扇ノ山(おおぎのせん)、氷ノ山(ひょうのせん)、蒜山(ひるぜん、上・中・下の3つの頂上があります)、須賀ノ山(すがのせん)、那岐山(なぎせん)などがあります。
「せん」という読み方は、めずらしく感じますが、音読みとして、「さん」は漢音ですが、「せん」いう読み方が呉音としてあります。山岳宗教の影響もあると考えられていますが、中国地方に「せん」という山の名前が残っているのは不思議です。
大山は、出雲国風土記では「大神岳(おおかみのたけ)」と呼ばれ、奈良時代以降、山岳信仰の対象の山となっています。大山は、明治の廃仏毀釈までは、大山寺の寺領なっており、一般人の登山が禁止されていました。
大山は、富士山のような形をしている非常に雄大な山です。富士山のように見えることから、古くから、伯耆富士(ほうきふじ)、あるいは出雲富士(いずもふじ)と呼ばれています。
大山は、火山です。大山は、北側に広い裾野を持っている風格のある成層火山です。大山の北の裾野は日本海に達しています。国道も鉄道も、大山の裾野を通っています。ですから、これらの場所から、雄大な大山を眺めることができます。
成層火山は、溶岩や火山灰などの多様な火山噴出物からできます。裾野がなだらかなのは、火山噴出物が繰り返し堆積したためです。また、火山灰は、風化されば、肥沃な土壌になり、大山の裾野は、農耕地帯として田園風景が広がっています。
車窓から眺める大山の裾野には、田畑の中に、深く削られた谷筋を多数見ることができます。その谷は、大山の山頂に向かっているように見えます。
谷となっている深い溝は、侵食によるものです。溶岩は固いですが、火山灰などは、柔らかく侵食を受けやすいものです。新しい火山で現在も活動をしていれば、侵食されても火山噴出で堆積を繰り返すので、穏やかな裾野のままでいます。しかし、成層火山でも、活動を長くして休止しているものは、侵食だけが進みます。大山も、そのような火山です。
大山は、約180万年前から活動をはじめています。その間に数1000年から数万年の休止期をはさみながら、50万年前ころまでに、巨大なカルデラができたと考えられています。このようなカルデラをつくった活動を古期とされています。
そこに5万年から1万年前にかけて、新期の活動が起こります。新期の火山活動は、現在の山頂を構成している溶岩ドームと呼ばれるものを形成しました。大山をつくったマグマは、安山岩からデイサイトの性質を持つものがほとんどで、時には激しい噴火をしました。
5万年前のプリニー式とよばれる激しい噴火は、大量の火山噴出物を放出しました。このときの火山灰は、大山倉吉軽石(大山火山灰層とも呼ばれることがあります)とよばれており、大山周辺では数mほどの厚さがあり、鳥取県東部では1mから数10cmほどの厚さとなります。大山倉吉軽石は、遠くまで風にとって運ばれました。北陸、信州、北関東、遠くは福島まで確認されています。このような広域に広がっているの火山灰で時代のはっきりしているものは、広域テフラと呼ばれ、地層の時代区分に利用されています。大山倉吉軽石も広域テフラです。
2万年前に、激しい火山活動があり、大量の火砕流が流れ、溶岩ドームなどが形成されました。このときにできたのが、弥山(みせん、1709m)、三鈷峰(さんこほう、1516m)、烏ヶ山(からすがせん、1448m)の3つの溶岩ドームです。
弥山と三鈷峰は隣接していて、これら2つのドームが現在の大山の主稜線をつくっています。烏ヶ山は弥山からみると南東側にあたります。弥山の北東側に三鈷峰はあります。弥山から東に続く稜線は、一等三角点(1710.5m)を通り、最高点の剣ヶ峰(けんがみね、1729m)にいたり、そこから北に曲がって、三鈷峰に至ります。
大山の火山活動は、約1万年前で終わりました。それ以降、噴火記録の記録はありません。1万年前以降、火山活動をしていないため、大山は侵食を受け続けています。裾野では、柔らかな火山灰を、流水が侵食していったのです。裾野の深い谷は、そのような侵食の証拠なのです。
大山の主稜線を形づくっている弥山と三鈷峰の溶岩ドームでも侵食は進んでいます。その北側の裾野から、弥山の山頂までは、登山可能す。しかし、弥山から三鈷峰にいたる稜線は、急峻で侵食が激しく崩れやすく、現在、縦走が禁止されています。
稜線は特に南と北向き斜面での浸食が激しく、ふもとからみるとまるで切り立った壁のように見え、それぞれ南壁と北壁と呼ばれています。北壁の下は、元谷と呼ばれ、元谷の下流側には大神山神社の奥宮や大山寺があります。
地表のでっぱりが、侵食を受けるのは、自然の節理でもあります。特に、日本海側に面する山陰地方は、季節風や風雪により、浸食を受けやすい環境です。まして、1万年前から活動をしていない火山ですから、大山は激しく浸食を受けています。
大山は、遠目で見ると穏やかな山容にみえますが、山頂周辺の稜線が嶮しいのは、激しい侵食という理由があったのです。
ただ、1980年代から、大山への登山者の急増によって、登山ルート周辺が踏み荒らされ、緑がなくなり、雨水による浸食が激しくなりました。これらは、人為による自然破壊が起こっていると考えられています。そのため、「一木一石運動」が、官民協同して取り組まれました。その運動によって、登山者は、一つの石を持って登って浸食溝をうめたり、植物の苗を植えたり、木道を整備したりして、徐々にでありますが、自然が回復つつあるようです。
大山全体の侵食は、1万年間、活動をしていないためです。しかし、上でも述べましたように、大山は、数万年以上の長い休止期間の後に、再度火山活動を行ったことが知られています。ですから、大山がもう活動をやめた火山と見なすのは、危険なことです。
私が三朝の研究所にいた時は、ある元素の分析(鉛の同位体)を中心に研究をおこなっていました。その元素を、非常の微量でも化学的に抽出する手法や装置で分析する方法などを、いろいろ試行錯誤しながら、3年間で完成させていきました。今もその手法は、研究所で改善されて利用されています。
私は、三朝で行っていた研究は、転職後も続けるつもりでいました。しばらくは、環境が整わないので、その研究テーマは休止のつもりでいました。私は、別のことに興味を持ち出すと、そちらにのめり込んでしまうタイプです。ですから、現在ではその研究テーマは、休止から中止になってきました。
研究所を離れて早16年もたちました。しかし、研究所時代のことは、今も思い出します。当時は、若さにまかせて、強い目的意識に突き動かされながら、夜昼なく研究に没頭していました。その結果、非常に苦労して目的を達成したことは、その後の人生を送っていく時に、大きな自信を与えてくれました。
現在の私には、そのような分析から離れて、長い時間が過ぎ去りました。昨年秋、近くの大学にいる先輩から、当時私がやっていた元素の分析について話をしたいという連絡を受けました。私は、関連する資料を携えて先輩のいる大学に出かけました。彼も、ある故人の先輩から、その分析をすることが頼まれていたので、なんとか叶えたいということでした。大学院生が、その元素の分析ができるように、手助けをしてくれと頼まれました。私は引き受けたのですが、彼らも私も、どうも気力が湧かないようなので、分析はうやむやになってしまいました。
人間は、一度中止という気持ちを持つと、以前のような気持ちに再度高めるのはなかなか困難なようです。まして、今別のことに興味をもっているとなおさらです。私は、今の興味に活動中なのです。
・露天風呂・
三朝温泉街の三徳川に三朝大橋があります。
その橋の袂の川原には、「河原風呂」と呼ばれている
無料の露天風呂があります。
脱衣所は男女別にありますが、湯船は混浴です。
メインストリートのある橋から丸見えの露天風呂なので、
入るのにはなかなか勇気が要ります。
三朝に住んでいた時は、何度か入ったことがありますが、
数えるほどしかありません。
それは研究所内に職員用の温泉があったからです。
・甲子園の土・
甲子園球場のあるとことは、もともと砂地で、土も白っぽいところでした。
そのため、ボールが見にくいという問題がありました。
ボールを見やすくするために、
黒っぽい色の土を混ぜるということが考えられました。
当初は淡路島の土を混ぜていたのですが、
現在では、白砂は中国福建省のものを
黒土は、大山の火山灰を混ぜて使われています。
大山の火山灰の最上位層にあたる「黒ぼく」と呼ばれる土です。
季節の雨量と日差しの違いで、
春には砂を多く、夏には黒土を多くしているそうです。
2007-02-15
26 羊蹄山:富士は数あれど 2007.02.15
Time:
9:19
●
Geologist
富士山が日本を象徴する山であるように、羊蹄山は北海道を象徴する山です。そんな羊蹄山を詳しく見ていくと、そこには代替ではない固有のモノがありました。
羊蹄山(ようていざん)は、北海道の南部にあります。成層火山です。周りの山から独立しているためた、より雄雄しく、そして気高く見えます。羊蹄山は、富士山と同じように、円錐形の非常にきれいな形をしています。そのため、蝦夷富士とも呼ばれています。北西にあるニセコの山並みがごつごつした山並みであるのと、羊蹄山は比べると非常に「たおやか」な山容に見えます。
私は羊蹄山に登ったことはないのですが、何度も見たことがあります。北海道の人が羊蹄山に対して抱く気持ちは、関東や東海、中部地方の人が富士山を見たときのものと同じです。私は、以前神奈川県の富士山が見えるところに住んでいたので、両方を見て感じたことです。
北海道で羊蹄山をみても、同じように感動します。富士山と同様に、羊蹄山も眺める対象として非常に優雅であります。それは、独立して存在する成層火山に共通するものかもしれません。
大きな成層火山の麓には、湧き水がいたるところにあります。羊蹄山の麓にも、名水として有名な京極の「ふきだし」公園をはじめてとして多数の湧水があります。湧水は年中枯れることなく湧き出しています。
また、羊蹄山の山麓には、畑が広がっています。それは、羊蹄山の火山噴出物が風化をして肥沃な土壌になっているからです。これも成層火山では役見られるものです。
同じ成層火山である羊蹄山と富士山は、一見すると似ていますが、よく見ると違いもあります。羊蹄山より富士山の方が、より「たおやか」に見えます。それは、気のせいでしょうか。多分それは、羊蹄山の方が傾斜が急で、険しいからです。富士山の高さに比べて裾野の広がりが広く、羊蹄山は裾野が狭くなっています。そのため、富士山の方が、たおやかにみえるのでしょう。
このような形は、火山をつくったマグマの性質を反映しています。富士山は玄武岩質のマグマでできているのですが、羊蹄山は安山岩質のマグマでできています。その違いが、このような山容の違いを生んでいます。
マグマの岩質の違いは、温度や化学成分の違いを表しています。そして、溶岩などのマグマに由来する噴出物の物理的な性質の違いを生みます。
マグマの温度が高いと流れやすくなります。物質の流れやすさを粘性と呼びます。粘性は、物質に力を加えてときに生じる物質内部の摩擦力の大きさで、新しいSI単位系ではパスカル秒(Pa・s)ですが、昔はポアズという単位が使われていました。1パスカル秒は10ポアズとなります。水でも0℃の時(0.018ポアズ)と100℃の時(0.003ポアズ)を比べますと、100℃の時の方が6分の1くらいの粘性しかありません。
また粘性は、化学組成によっても変化します。マグマの主要成分である珪酸(SiO2)は、普通のマグマでは重量で半分以上を占めます。この珪酸が少ないと粘性は小さく、多くなると粘性が大きくなります。これは珪素(Si)の酸素(O)の結びつきが多いほど粘性が大きくなるということです。珪酸が少ないと、他の元素(主に金属元素)が増え、珪素と酸素の結合を拒んでいるということになります。
さてこのような一般論をもとに、富士山と羊蹄山のマグマを考えていきましょう。富士山は玄武岩質マグマからできていました。一方羊蹄山は安山岩質マグマでした。温度で見ると、玄武岩質マグマは約1200℃、安山岩質マグマは1100℃ほどです。ですから、温度からすると玄武岩質マグマの方が粘性が低くなります。また、玄武岩の珪酸の含有量は、重量で50%程度で、安山岩では60%程度です。化学成分から見ても玄武岩の粘性は小さくなります。
以上のことから、富士山のマグマは粘性が小さく流れやすく、羊蹄山のマグマは粘性が大きく流れにくくなります。流れやすいマグマからできた富士山はなだらかな山容となり、富士山のマグマと比べれば流れにくいマグマからできた羊蹄山は、険しく見えます。このようなマグマの性質の違いが、山の姿の違いとして現われています。
考えてみると、非常に基本的な違いですが、マグマの化学成分や温度の違いが、火山の姿に個性を与えていることがわかります。さらに火山に個性を与えているのは、活動の履歴の違いです。羊蹄山には羊蹄山の個性があります。
その個性の一つとして、山麓の景観があります。その景観には、今まで知られていなかった火山の存在を解き明かす証拠がありました。
羊蹄山の山麓の地形図をみていると、ニセコ側、つまり西側にごつごつした地形が特徴的に見られます。数10mから数100m程度の小高い高まりが、不規則に散らばっています。これは、流山(ながれやま)地形と呼ばれているものです。
かつて羊蹄山が大噴火したときに、火山体を壊れたものが雪崩のように流れ下った(岩屑なだれと呼ばれています)と考えられています。この流山の高まりをつくっている岩石は、現在の羊蹄山をつくっている火山岩(ソレアイト質)とは、だいぶ違った性質のもの(カルクアルカリ質)であることが分かってきました。そのため、現在の羊蹄山より前に、タイプの違う火山活動によってできた火山があったと考えられています。
この古い火山は、「古羊蹄山」と呼ばれています。10万年前~5万年前に活動をして、今の羊蹄山よりやや小ぶりの火山をつくっていたと考えられています。そして、約4万5000年前に、古羊蹄山の西部が、噴火によって大規模に崩壊しました。それが、現在、西の山麓に広く分布している流山となっていると考えられています。
しかし、4万5000年前から1万年前にかけて、現在の羊蹄山(新羊蹄火山と呼ばれています)が活動を開始して、古羊蹄火山を完全に覆い隠してしまいました。ですから、現在では流山以外に、古羊蹄山の露頭はどこにも見ることができません。
1万年前以降は、山頂だけでなく、北側山麓でも噴火(側火山と呼ばれます)が起こりました。半月湖から巽(たつみ)にかけていくつかの火砕丘が見られます。一番最近の活動は、巽火砕丘で約6000年前のものです。それ以降、羊蹄山の活動は知られていません。
でも、火山学者たちは、一般的な火山の一生からみて、羊蹄山はまだ完全に成長しきっていない火山だと考えています。ですから、現在は活動は休止していますが、将来、新たに活動時期が訪れると考えています。
日本各地には、成層火山があり、○○富士と呼ばれています。それぞれの富士には、その富士固有の性質があります。その個性は、火山の姿や周囲の地形、岩石などから探ることができます。そして個性から、火山の生い立ちや履歴が解明されていきます。蝦夷富士には、蝦夷富士の生い立ちがあることがわかってきました。
・代替ではない・
実は羊蹄山は、今年の正月の話題にしようと考えていました。
ですが、連載の順番が北海道ではなく、本州の番だったので、
しかたなく、2月にまわしました。
私が本州から離れてもう5年近くたちます。
ですから、富士山を見る機会が少なくなりました。
かわりに蝦夷富士を見る機会が多くなりました。
でも考えれば、羊蹄山は富士山の代替品ではありません。
固有の生い立ちを持ち、固有の特徴をもっています。
だから、羊蹄山そのものを愛でるべきでしょう。
富士山には富士山のよさ、羊蹄山には羊蹄山のよさがあるはずです。
その個性を重んじて、個性を愛でるべきでしょう。
これは、人を見る時、人が生み出したものを評価する時に
持っているべき視点でしょうか。
・模様替え・
大学は一般入試も終わり、卒論発表会も終わり一段落です。
私は、来週には研究室の模様替えをしようと考えています。
今まで、不便だと考えていたことを解消しようというのが
今回の模様替えの目的です。
しかし、荷物が増えているために、すぐにはできません。
また、ロッカーなどは中身をすべて抜いても、
一人では動かせないものもあります。
ですから家内に応援を頼んで、半日がかりでやろうと考えています。
来週の早い時でないとだめです。
今週は予定がつまっているため、来週でないとだめです。
また、下旬や翌週になると3月早々締め切りの申請書があります。
ですから、来週早々でないとだめです。
その時はサーバーなどもすべての電源を切って
配線もしなおすつもりです。
早めに予定を入れて、大々的にやろうと考えています。
羊蹄山(ようていざん)は、北海道の南部にあります。成層火山です。周りの山から独立しているためた、より雄雄しく、そして気高く見えます。羊蹄山は、富士山と同じように、円錐形の非常にきれいな形をしています。そのため、蝦夷富士とも呼ばれています。北西にあるニセコの山並みがごつごつした山並みであるのと、羊蹄山は比べると非常に「たおやか」な山容に見えます。
私は羊蹄山に登ったことはないのですが、何度も見たことがあります。北海道の人が羊蹄山に対して抱く気持ちは、関東や東海、中部地方の人が富士山を見たときのものと同じです。私は、以前神奈川県の富士山が見えるところに住んでいたので、両方を見て感じたことです。
北海道で羊蹄山をみても、同じように感動します。富士山と同様に、羊蹄山も眺める対象として非常に優雅であります。それは、独立して存在する成層火山に共通するものかもしれません。
大きな成層火山の麓には、湧き水がいたるところにあります。羊蹄山の麓にも、名水として有名な京極の「ふきだし」公園をはじめてとして多数の湧水があります。湧水は年中枯れることなく湧き出しています。
また、羊蹄山の山麓には、畑が広がっています。それは、羊蹄山の火山噴出物が風化をして肥沃な土壌になっているからです。これも成層火山では役見られるものです。
同じ成層火山である羊蹄山と富士山は、一見すると似ていますが、よく見ると違いもあります。羊蹄山より富士山の方が、より「たおやか」に見えます。それは、気のせいでしょうか。多分それは、羊蹄山の方が傾斜が急で、険しいからです。富士山の高さに比べて裾野の広がりが広く、羊蹄山は裾野が狭くなっています。そのため、富士山の方が、たおやかにみえるのでしょう。
このような形は、火山をつくったマグマの性質を反映しています。富士山は玄武岩質のマグマでできているのですが、羊蹄山は安山岩質のマグマでできています。その違いが、このような山容の違いを生んでいます。
マグマの岩質の違いは、温度や化学成分の違いを表しています。そして、溶岩などのマグマに由来する噴出物の物理的な性質の違いを生みます。
マグマの温度が高いと流れやすくなります。物質の流れやすさを粘性と呼びます。粘性は、物質に力を加えてときに生じる物質内部の摩擦力の大きさで、新しいSI単位系ではパスカル秒(Pa・s)ですが、昔はポアズという単位が使われていました。1パスカル秒は10ポアズとなります。水でも0℃の時(0.018ポアズ)と100℃の時(0.003ポアズ)を比べますと、100℃の時の方が6分の1くらいの粘性しかありません。
また粘性は、化学組成によっても変化します。マグマの主要成分である珪酸(SiO2)は、普通のマグマでは重量で半分以上を占めます。この珪酸が少ないと粘性は小さく、多くなると粘性が大きくなります。これは珪素(Si)の酸素(O)の結びつきが多いほど粘性が大きくなるということです。珪酸が少ないと、他の元素(主に金属元素)が増え、珪素と酸素の結合を拒んでいるということになります。
さてこのような一般論をもとに、富士山と羊蹄山のマグマを考えていきましょう。富士山は玄武岩質マグマからできていました。一方羊蹄山は安山岩質マグマでした。温度で見ると、玄武岩質マグマは約1200℃、安山岩質マグマは1100℃ほどです。ですから、温度からすると玄武岩質マグマの方が粘性が低くなります。また、玄武岩の珪酸の含有量は、重量で50%程度で、安山岩では60%程度です。化学成分から見ても玄武岩の粘性は小さくなります。
以上のことから、富士山のマグマは粘性が小さく流れやすく、羊蹄山のマグマは粘性が大きく流れにくくなります。流れやすいマグマからできた富士山はなだらかな山容となり、富士山のマグマと比べれば流れにくいマグマからできた羊蹄山は、険しく見えます。このようなマグマの性質の違いが、山の姿の違いとして現われています。
考えてみると、非常に基本的な違いですが、マグマの化学成分や温度の違いが、火山の姿に個性を与えていることがわかります。さらに火山に個性を与えているのは、活動の履歴の違いです。羊蹄山には羊蹄山の個性があります。
その個性の一つとして、山麓の景観があります。その景観には、今まで知られていなかった火山の存在を解き明かす証拠がありました。
羊蹄山の山麓の地形図をみていると、ニセコ側、つまり西側にごつごつした地形が特徴的に見られます。数10mから数100m程度の小高い高まりが、不規則に散らばっています。これは、流山(ながれやま)地形と呼ばれているものです。
かつて羊蹄山が大噴火したときに、火山体を壊れたものが雪崩のように流れ下った(岩屑なだれと呼ばれています)と考えられています。この流山の高まりをつくっている岩石は、現在の羊蹄山をつくっている火山岩(ソレアイト質)とは、だいぶ違った性質のもの(カルクアルカリ質)であることが分かってきました。そのため、現在の羊蹄山より前に、タイプの違う火山活動によってできた火山があったと考えられています。
この古い火山は、「古羊蹄山」と呼ばれています。10万年前~5万年前に活動をして、今の羊蹄山よりやや小ぶりの火山をつくっていたと考えられています。そして、約4万5000年前に、古羊蹄山の西部が、噴火によって大規模に崩壊しました。それが、現在、西の山麓に広く分布している流山となっていると考えられています。
しかし、4万5000年前から1万年前にかけて、現在の羊蹄山(新羊蹄火山と呼ばれています)が活動を開始して、古羊蹄火山を完全に覆い隠してしまいました。ですから、現在では流山以外に、古羊蹄山の露頭はどこにも見ることができません。
1万年前以降は、山頂だけでなく、北側山麓でも噴火(側火山と呼ばれます)が起こりました。半月湖から巽(たつみ)にかけていくつかの火砕丘が見られます。一番最近の活動は、巽火砕丘で約6000年前のものです。それ以降、羊蹄山の活動は知られていません。
でも、火山学者たちは、一般的な火山の一生からみて、羊蹄山はまだ完全に成長しきっていない火山だと考えています。ですから、現在は活動は休止していますが、将来、新たに活動時期が訪れると考えています。
日本各地には、成層火山があり、○○富士と呼ばれています。それぞれの富士には、その富士固有の性質があります。その個性は、火山の姿や周囲の地形、岩石などから探ることができます。そして個性から、火山の生い立ちや履歴が解明されていきます。蝦夷富士には、蝦夷富士の生い立ちがあることがわかってきました。
・代替ではない・
実は羊蹄山は、今年の正月の話題にしようと考えていました。
ですが、連載の順番が北海道ではなく、本州の番だったので、
しかたなく、2月にまわしました。
私が本州から離れてもう5年近くたちます。
ですから、富士山を見る機会が少なくなりました。
かわりに蝦夷富士を見る機会が多くなりました。
でも考えれば、羊蹄山は富士山の代替品ではありません。
固有の生い立ちを持ち、固有の特徴をもっています。
だから、羊蹄山そのものを愛でるべきでしょう。
富士山には富士山のよさ、羊蹄山には羊蹄山のよさがあるはずです。
その個性を重んじて、個性を愛でるべきでしょう。
これは、人を見る時、人が生み出したものを評価する時に
持っているべき視点でしょうか。
・模様替え・
大学は一般入試も終わり、卒論発表会も終わり一段落です。
私は、来週には研究室の模様替えをしようと考えています。
今まで、不便だと考えていたことを解消しようというのが
今回の模様替えの目的です。
しかし、荷物が増えているために、すぐにはできません。
また、ロッカーなどは中身をすべて抜いても、
一人では動かせないものもあります。
ですから家内に応援を頼んで、半日がかりでやろうと考えています。
来週の早い時でないとだめです。
今週は予定がつまっているため、来週でないとだめです。
また、下旬や翌週になると3月早々締め切りの申請書があります。
ですから、来週早々でないとだめです。
その時はサーバーなどもすべての電源を切って
配線もしなおすつもりです。
早めに予定を入れて、大々的にやろうと考えています。
2007-01-15
25 隠岐:新旧の歴史の連結 2007.01.15
Time:
9:19
●
Geologist
日本海に浮かぶ隠岐は、古くから人が住みつき、長い歴史をもち、今も人々は歴史を刻み続けています。地質学的にもみても、隠岐は古い記録と新しい記録が残されている島です。それらの新旧の歴史が隠岐では連結して見えます。
隠岐は、日本海に浮かぶ大きな島です。さすがに佐渡や対馬と比べると、見劣りがしますが、隠岐の島後(どうご)の中にいると、そこが島であるということを忘れてしまうほどの大きさがあります。それは、海の見えない内陸で、田畑や山、森林などの日本の里山の景色があるためかもしれません。
私は1980年に一度訪れたのですが、その後、機会がなくいっていません。チャンスがあれば、また行きたいものです。
私が隠岐を訪れたのは、大学の修士課程の1年生の6月下旬でした。私の指導教官であるT先生が、隠岐で産出する捕獲岩(後述)の試料を採取するというので、そのお供として勉強のためについていきました。
当時、私は学生のいない大学院(当時は2年間で修了する修士課程だけしありませんでした)と研究者(教員)だけしかいない大学の研究所にいました。その研究所には、3つの専攻があったのですが、大学院生も少なく、総勢6名(内1名は研究生)しかいませんでした。そして同じ専攻には3人の修士課程1年生だけがしかいませんでした。T先生を指導教官としていたのは、私だけで、他の2人は違う先生を指導教官としていました。
そのころ私は、T先生と相談して修士論文のテーマを決めて、野外調査をする地域も選んで基礎的なデータを集めたり、論文を読んでいるところでした。7月になったら、長期の予定で野外調査に出かけるつもりでした。そんなころ、隠岐に出かけました。それは、T先生が一人で調査にいくのは大変だし、調査の準備や手伝をする必要があったからです。自分の修士論文のテーマとは違うのですが、別の地域で地質学的に有名な隠岐の地質を見聞することは勉強になります。そして、2泊3日の調査で、出会って間もないT先生と、親睦を深めることも重要な目的でした。
隠岐の島後は、日本列島でも非常に古い岩石が出ていることで有名です。その石は、隠岐片麻岩と呼ばれるものです。隠岐に見られる岩石は、約20億年前に地下深部で形成された非常に古いものであることがわかっています。中には30億年前にできた鉱物(ジルコンと呼ばれているものです)も見つかっています。片麻岩は変成岩の一種で、元になっている岩石は堆積岩や火成岩などいろいろな種類があります。片麻岩以外にも、一部溶けてできたミグマタイトと呼ばれる岩石もあります。
同じような一連の岩石は、中部地方の飛騨地域と韓半島で見つかっています。ですから、片麻岩のもととなった岩石ができた頃は、日本列島と韓半島、つまりユーラシア大陸とがつながっていたことになります。当時、日本海も日本列島もなく、そこはユーラシア大陸の東端にだったのです。
4000万年前から2000万年前にかけて、マグマの激しい活動によって、隠岐島後には直径12、3kmほどの環状のカルデラが形成されます。激しい火山活動とともに、大陸の東端に大きな亀裂が形成され海が進入しました。西南日本の研究から、1500万年前に、亀裂で切り離された大陸の切れ端(日本列島の原型)は、回転をはじめ、1300万年前にはほぼ現在の位置へたどり着いたと考えれられています。もしこの研究の結果が正しければ、日本海の形成は、200万年ほどの間に起こったことになります。
ところが、対馬海峡は第四紀まではユーラシア大陸とつながっていて、氷期と間氷期の繰り返しによって、浅い海峡は閉じたり開いたりを繰り返しながら現在のように開いていったと考えられています。
それは、火山が活動していた中新世(2500万~1100万年前)にたまった地層からわかります。地層には、火山灰含むものもありますが、珪藻土(海のプランクトンが集まってできたもの)や、海の生物(サメや魚)や淡水の生物(海や陸上植物)などの化石を含んでいます。このことから隠岐は、海水が入り込んだ時代(海進)や海水が引いて淡水だけの湖の時代(海退)が繰り返していたことがわかります。
これが隠岐の石が語る日本列島形成前後の歴史です。
隠岐には、その後の新しい時代に起こった激しい火山活動も記録されています。火山活動は、600万年前から300万年間にわたって続きました。その火山岩の中に捕獲岩が見つかります。
T先生のお供で捕獲岩をとりに行ったといいましたが、捕獲岩とはいったいどういうものでしょうか。捕獲岩とは、文字通り、捕獲されてきた岩石です。何に捕獲されてきたかというと、マグマです。マグマが上昇してきて地表に達したものが火山となります。火山の溶岩や噴出物の中には、マグマが上昇中に通り道にあった岩石を、取り込んで持ってくることがあります。そのため、マグマが固まった火山岩の中に捕獲岩が見つかることがあるのです。
もし、マントルのような深いところで形成されたマグマであれば、マントルを構成している岩石が捕獲岩として手に入れることができます。地上にいながらにして、マントルの岩石を手にできるのです。マントルの岩石は非常に貴重で重要です。
マントルまで岩石を掘りに抜くことは、まだできていません。ですから、マントルの岩石を直接調べることはまだ人類はできないのです。マントルの岩石がまくれ上がって出ている地域はありますが、それはもはや現在のマントルではなく、昔のマントルであったものです。現在あるマントルの岩石を手に入れることは、今のところ捕獲岩でしかできません。ですから、マントルの捕獲岩は非常に貴重な試料といえます。
マントルを構成する岩石は、カンラン岩と呼ばれています。カンラン岩は、名前の通り、カンラン石をたくさん含んでいます。他にも輝石や長石、スピネルなどを含むことがあります。このような捕獲岩からマントルの様子を詳しく探ることができます。
カンラン岩を調べた結果、そのカンラン岩のあった場所は深度30kmくらいいのことろだと考えられています。これは、地震波で調べた結果とも一致しています。ですから、その捕獲岩を取り込んできたマグマはもっと深いところで形成されたものであることになります。
どこでできたマグマでも、すべて地下の岩石の中を通り抜けてくるのですから、すべてのマグマで捕獲岩があってもいいのですが、必ずしもそうではありません。なぜなら、マグマに取り込まれた岩石も、長い時間マグマの中にあると溶けてしまったり、重ければマグマの底に沈んでしまいます。マグマだまりなどをつくって長く液体のままマグマとしてとどまると、岩石が沈んでしまいます。取り込まれた岩石がマグマの中で岩石のまま残っているためには、ある程度速いスピードで、地下にほとんど止まることなくマグマが上がってこなければなりません。一気に地表に噴出する必要があります。
マグマの上昇スピードが速くなるためには、マグマが大きな浮力を持っていなければなりません。その浮力は、ガスの多いマグマであれば得ることができます。マグマができたときにガスの成分が多いものあれば、ガスの浮力によって、マグマは速く地下を通り抜けていきます。そのまま地表に出てくれば、捕獲岩が溶けたり、沈むことなくマグマと一緒に上がってきます。
隠岐の玄武岩は、アルカリ玄武岩と呼ばれるもので、ガスの成分をたくさん含んでいるものです。
隠岐の島後は、島の半分ほどを火山岩に覆われています。新生代の中新世(600万年前)頃から、何度かの活動によって起こった多様な火山活動がありました。完全に隠岐が陸化して島となった後、最初に流紋岩や粗面岩と呼ばれるアルカリ岩質のマグマが活動します。その後、捕獲岩をともなう玄武岩のマグマの活動(西郷玄武岩と呼ばれます)に変化していきます。これらの玄武岩はアルカリ玄武岩と呼ばれるもので、日本海に面する山陰地方に多く見られるものです。
隠岐で見つかる流紋岩のなかには、黒曜石をたくさん含んでいます。その黒曜石は石器に利用され、山陰地方の縄文時代の遺跡からたくさん見つかっています。隠岐の黒曜石による石器は、東は能登半島、西は韓半島にまで見つかっています。縄文の人がそのころ広く交流していたことをうかがわせます。そして、大地の恵みの黒曜石が、当時の重要の道具の材料となっていました。
人間の歴史から見て、隠岐は古くから重要な役割を果たしていたことになります。しかし、隠岐の20億年以上におよぶ大地の歴史から見ると、黒曜石は新しい時代のできことです。地球の歴史の新旧と、人間の歴史の新旧が隠岐では連結しているように感じます。
・国境の島・
隠岐は、人の歴史によれば、
縄文や弥生時代から人が暮らしていた証拠があります。
大化の改新以前には億伎国造が、
すでに設置されと考えられています。
また、隠岐は、対馬と並んで、
韓半島の渤海や新羅との交渉の記録があります。
ですから、日本と韓半島との関係が緊張すると
隠岐にも影響があり、日本の前線基地がおかれたこともありました。
その緊張は今もたえることなく、
隠岐の北西にある竹島もその象徴となっています。
このような緊張感は、国境近くにある島の宿命なのかもしれません。
しかし、そのような激動の地にあることが、
隠岐の歴史の多様さを生み出しているのでしょう。
それはこれからも国家が存続し、
国境のある限り続くことなのかもしれません。
・知恵・
北海道は正月明けから冬らしくなってきました。
冷え込みも強くなり、雪も降るようになりました。
雪が少なく思っていましたが、
これのまま春といくとは誰も思っていないでのでしょうが、
やはり雪は北国の生活に不便と苦労を強いります。
でも、この雪こそが北海道や北国の個性であります。
そこに住み暮らす以上
それを風土、自然として受け入れなければなりません。
できればハンディをプラスにする工夫が必要ですが、
雪の夏の冷房への利用なども考えられています。
しかし、昔の知恵はなかったのでしょうか。
古くから北国で暮らしている人たちの知恵、
アイヌの人たち、縄文人達の生活から学ぶことがないでしょうか。
あるいは、遠くイヌイットやラップランドの人の暮らしからでも
他の生き物からでもいいかもしれません。
もしそのような知恵が見つかれば、
今の技術力をもってすれば、よりいいものにできると思います。
私は、いの一番に雪道で滑らない靴を早く開発していほしいものです。
でも、これだけ多くの人が苦労をしているのに、
いまだに万能のものはないです。
私たちの知恵は、まだまだなのですかね。
隠岐は、日本海に浮かぶ大きな島です。さすがに佐渡や対馬と比べると、見劣りがしますが、隠岐の島後(どうご)の中にいると、そこが島であるということを忘れてしまうほどの大きさがあります。それは、海の見えない内陸で、田畑や山、森林などの日本の里山の景色があるためかもしれません。
私は1980年に一度訪れたのですが、その後、機会がなくいっていません。チャンスがあれば、また行きたいものです。
私が隠岐を訪れたのは、大学の修士課程の1年生の6月下旬でした。私の指導教官であるT先生が、隠岐で産出する捕獲岩(後述)の試料を採取するというので、そのお供として勉強のためについていきました。
当時、私は学生のいない大学院(当時は2年間で修了する修士課程だけしありませんでした)と研究者(教員)だけしかいない大学の研究所にいました。その研究所には、3つの専攻があったのですが、大学院生も少なく、総勢6名(内1名は研究生)しかいませんでした。そして同じ専攻には3人の修士課程1年生だけがしかいませんでした。T先生を指導教官としていたのは、私だけで、他の2人は違う先生を指導教官としていました。
そのころ私は、T先生と相談して修士論文のテーマを決めて、野外調査をする地域も選んで基礎的なデータを集めたり、論文を読んでいるところでした。7月になったら、長期の予定で野外調査に出かけるつもりでした。そんなころ、隠岐に出かけました。それは、T先生が一人で調査にいくのは大変だし、調査の準備や手伝をする必要があったからです。自分の修士論文のテーマとは違うのですが、別の地域で地質学的に有名な隠岐の地質を見聞することは勉強になります。そして、2泊3日の調査で、出会って間もないT先生と、親睦を深めることも重要な目的でした。
隠岐の島後は、日本列島でも非常に古い岩石が出ていることで有名です。その石は、隠岐片麻岩と呼ばれるものです。隠岐に見られる岩石は、約20億年前に地下深部で形成された非常に古いものであることがわかっています。中には30億年前にできた鉱物(ジルコンと呼ばれているものです)も見つかっています。片麻岩は変成岩の一種で、元になっている岩石は堆積岩や火成岩などいろいろな種類があります。片麻岩以外にも、一部溶けてできたミグマタイトと呼ばれる岩石もあります。
同じような一連の岩石は、中部地方の飛騨地域と韓半島で見つかっています。ですから、片麻岩のもととなった岩石ができた頃は、日本列島と韓半島、つまりユーラシア大陸とがつながっていたことになります。当時、日本海も日本列島もなく、そこはユーラシア大陸の東端にだったのです。
4000万年前から2000万年前にかけて、マグマの激しい活動によって、隠岐島後には直径12、3kmほどの環状のカルデラが形成されます。激しい火山活動とともに、大陸の東端に大きな亀裂が形成され海が進入しました。西南日本の研究から、1500万年前に、亀裂で切り離された大陸の切れ端(日本列島の原型)は、回転をはじめ、1300万年前にはほぼ現在の位置へたどり着いたと考えれられています。もしこの研究の結果が正しければ、日本海の形成は、200万年ほどの間に起こったことになります。
ところが、対馬海峡は第四紀まではユーラシア大陸とつながっていて、氷期と間氷期の繰り返しによって、浅い海峡は閉じたり開いたりを繰り返しながら現在のように開いていったと考えられています。
それは、火山が活動していた中新世(2500万~1100万年前)にたまった地層からわかります。地層には、火山灰含むものもありますが、珪藻土(海のプランクトンが集まってできたもの)や、海の生物(サメや魚)や淡水の生物(海や陸上植物)などの化石を含んでいます。このことから隠岐は、海水が入り込んだ時代(海進)や海水が引いて淡水だけの湖の時代(海退)が繰り返していたことがわかります。
これが隠岐の石が語る日本列島形成前後の歴史です。
隠岐には、その後の新しい時代に起こった激しい火山活動も記録されています。火山活動は、600万年前から300万年間にわたって続きました。その火山岩の中に捕獲岩が見つかります。
T先生のお供で捕獲岩をとりに行ったといいましたが、捕獲岩とはいったいどういうものでしょうか。捕獲岩とは、文字通り、捕獲されてきた岩石です。何に捕獲されてきたかというと、マグマです。マグマが上昇してきて地表に達したものが火山となります。火山の溶岩や噴出物の中には、マグマが上昇中に通り道にあった岩石を、取り込んで持ってくることがあります。そのため、マグマが固まった火山岩の中に捕獲岩が見つかることがあるのです。
もし、マントルのような深いところで形成されたマグマであれば、マントルを構成している岩石が捕獲岩として手に入れることができます。地上にいながらにして、マントルの岩石を手にできるのです。マントルの岩石は非常に貴重で重要です。
マントルまで岩石を掘りに抜くことは、まだできていません。ですから、マントルの岩石を直接調べることはまだ人類はできないのです。マントルの岩石がまくれ上がって出ている地域はありますが、それはもはや現在のマントルではなく、昔のマントルであったものです。現在あるマントルの岩石を手に入れることは、今のところ捕獲岩でしかできません。ですから、マントルの捕獲岩は非常に貴重な試料といえます。
マントルを構成する岩石は、カンラン岩と呼ばれています。カンラン岩は、名前の通り、カンラン石をたくさん含んでいます。他にも輝石や長石、スピネルなどを含むことがあります。このような捕獲岩からマントルの様子を詳しく探ることができます。
カンラン岩を調べた結果、そのカンラン岩のあった場所は深度30kmくらいいのことろだと考えられています。これは、地震波で調べた結果とも一致しています。ですから、その捕獲岩を取り込んできたマグマはもっと深いところで形成されたものであることになります。
どこでできたマグマでも、すべて地下の岩石の中を通り抜けてくるのですから、すべてのマグマで捕獲岩があってもいいのですが、必ずしもそうではありません。なぜなら、マグマに取り込まれた岩石も、長い時間マグマの中にあると溶けてしまったり、重ければマグマの底に沈んでしまいます。マグマだまりなどをつくって長く液体のままマグマとしてとどまると、岩石が沈んでしまいます。取り込まれた岩石がマグマの中で岩石のまま残っているためには、ある程度速いスピードで、地下にほとんど止まることなくマグマが上がってこなければなりません。一気に地表に噴出する必要があります。
マグマの上昇スピードが速くなるためには、マグマが大きな浮力を持っていなければなりません。その浮力は、ガスの多いマグマであれば得ることができます。マグマができたときにガスの成分が多いものあれば、ガスの浮力によって、マグマは速く地下を通り抜けていきます。そのまま地表に出てくれば、捕獲岩が溶けたり、沈むことなくマグマと一緒に上がってきます。
隠岐の玄武岩は、アルカリ玄武岩と呼ばれるもので、ガスの成分をたくさん含んでいるものです。
隠岐の島後は、島の半分ほどを火山岩に覆われています。新生代の中新世(600万年前)頃から、何度かの活動によって起こった多様な火山活動がありました。完全に隠岐が陸化して島となった後、最初に流紋岩や粗面岩と呼ばれるアルカリ岩質のマグマが活動します。その後、捕獲岩をともなう玄武岩のマグマの活動(西郷玄武岩と呼ばれます)に変化していきます。これらの玄武岩はアルカリ玄武岩と呼ばれるもので、日本海に面する山陰地方に多く見られるものです。
隠岐で見つかる流紋岩のなかには、黒曜石をたくさん含んでいます。その黒曜石は石器に利用され、山陰地方の縄文時代の遺跡からたくさん見つかっています。隠岐の黒曜石による石器は、東は能登半島、西は韓半島にまで見つかっています。縄文の人がそのころ広く交流していたことをうかがわせます。そして、大地の恵みの黒曜石が、当時の重要の道具の材料となっていました。
人間の歴史から見て、隠岐は古くから重要な役割を果たしていたことになります。しかし、隠岐の20億年以上におよぶ大地の歴史から見ると、黒曜石は新しい時代のできことです。地球の歴史の新旧と、人間の歴史の新旧が隠岐では連結しているように感じます。
・国境の島・
隠岐は、人の歴史によれば、
縄文や弥生時代から人が暮らしていた証拠があります。
大化の改新以前には億伎国造が、
すでに設置されと考えられています。
また、隠岐は、対馬と並んで、
韓半島の渤海や新羅との交渉の記録があります。
ですから、日本と韓半島との関係が緊張すると
隠岐にも影響があり、日本の前線基地がおかれたこともありました。
その緊張は今もたえることなく、
隠岐の北西にある竹島もその象徴となっています。
このような緊張感は、国境近くにある島の宿命なのかもしれません。
しかし、そのような激動の地にあることが、
隠岐の歴史の多様さを生み出しているのでしょう。
それはこれからも国家が存続し、
国境のある限り続くことなのかもしれません。
・知恵・
北海道は正月明けから冬らしくなってきました。
冷え込みも強くなり、雪も降るようになりました。
雪が少なく思っていましたが、
これのまま春といくとは誰も思っていないでのでしょうが、
やはり雪は北国の生活に不便と苦労を強いります。
でも、この雪こそが北海道や北国の個性であります。
そこに住み暮らす以上
それを風土、自然として受け入れなければなりません。
できればハンディをプラスにする工夫が必要ですが、
雪の夏の冷房への利用なども考えられています。
しかし、昔の知恵はなかったのでしょうか。
古くから北国で暮らしている人たちの知恵、
アイヌの人たち、縄文人達の生活から学ぶことがないでしょうか。
あるいは、遠くイヌイットやラップランドの人の暮らしからでも
他の生き物からでもいいかもしれません。
もしそのような知恵が見つかれば、
今の技術力をもってすれば、よりいいものにできると思います。
私は、いの一番に雪道で滑らない靴を早く開発していほしいものです。
でも、これだけ多くの人が苦労をしているのに、
いまだに万能のものはないです。
私たちの知恵は、まだまだなのですかね。
2006-12-15
24 サロベツ原野:時間以上になくしたもの 2006.12.15
Time:
9:18
●
Geologist
湿原は、人が利用しづらい環境です。利用するために、いろいろ手を入れなければなりません。まして、北海道の北方の湿原ではなおさら困難です。そんな条件が、厳しくも美しい自然を、今に残すこととなったのです。
私は、サロベツ原野には2度行っています。一度目は30年近く前の大学生の頃です。6月初旬の花盛り頃にいきました。学生時代はお金がなったので、札幌から半日かけて鈍行列車で最寄の駅までいき、無人の駅舎で野宿をし、翌日徒歩でサロベツ原野に向かいました。徒歩のために、サロベツ原野の大きさや自然を身を持って感じました。2度目は、2004年の春に、海岸沿いを自家用車で走りぬけました。何箇所か止まりましたが、その止まったところだけが、サロベツ原野の点として、記憶に残ります。
若い頃は、口では「忙しい」といいながら、暇を見ては旅行に出かけました。今思い起こすと、よく旅に出てたものだと思います。授業をだいぶサボったのでしょう。それに、夏休みの冬休みのたくさんの時間がありました。それに今と比べれば、時間と体力はずっとあったので、強行軍で肉体的な旅行もできたのでしょう。もちろんお金はなかったので、安上がりに旅することが最優先すべきことでした。お金を節約するために、野宿やヒッチハイクをしながら旅行したものです。その頃は、目的地にたどり着くために、まさに旅行をしていたような気がします。
仕事に就き家族ができると、今度は時間に追われる生活となりました。金銭的に余裕があるのに、本当に「忙しく」て、自由に旅行ができなくなってしまったのです。最近の私の旅行は、目的地にいかに早くたどり着くか、そしていかに少ない時間で目的を遂げるか、というものになってきました。旅行とは、プロセスではなく、目的を満たすために時間と有効に使って行って帰ってくるのが最優先すべきこととなりました。それでも、今の私とっては、大切な旅行なのです。
道北の一級河川である天塩川は、天塩町で日本海に注ぎます。天塩川の河口近くで合流するサロベツ川は、天塩川の北側に広い湿原となった氾濫原をもちます。これが、サロベツ原野です。サロベツ原野は、東西5~8km、南北27kmの大きさを持ちます。東と西に丘陵が境となっています。
サロベツ原野の東側は、大曲断層の西に鮮新世の勇知(ゆうち)層と更新世の更別(さらべつ)層からなる丘陵があります。これらの地層は、海から内湾そして潟へと環境が変わりながらできたものです。現在のサロベツ原野は、かつて海が入り込んでいたことが地層からわかります。やがて、海から潟、そして淡水のサロベツ川の氾濫源となり、湿原へと変化していきます。
サロベツ原野の西側は、直接海になるではなく、砂丘があり、そこが湿原の境界となります。天塩から稚咲内(わっかさかない)の海岸は、日本海に沿って、まっすぐな海岸線となっています。海岸線に沿って南北に伸びる砂丘(完新世)が、何列かあります。砂丘の延長は35km、最大幅は2kmに達します。その砂丘群が、サロベツ原野の西端にあたります。砂丘と砂丘の間には、湿地や沼地が点在しています。一番奥まった砂丘との間にも、湿原があり、小さな沼があります。その砂丘を東に越えると、サロベツ川の湿原となります。湿原には、南から、パンケ沼、ペンケ沼、そしてサロベツ原野の一番北側には兜沼などがあります。
サロベツ原野が盆地状の地形になったのは、第三紀から第四紀にかけです。河川の堆積物の流入によって、堆積盆地は埋まっていきますが、盆地が沈降していたので、厚い堆積物が溜まることになります。ウルム氷期の海退の後、間氷期で暖かくなり、海水面が上昇し、海水の進入(海進)します。この頃(約1.2万年前)から今のような湿原となったことがわかります。7000~6000年前には海進が最大になり、大きな潟湖ができました。やがて、堆積物の堆積と海退によって、陸地化し、泥炭層の形成され、現在のサロベツ原野になったと考えられています。
サロベツ原野の湿原には、泥炭層が分布します。そのため泥炭地固有の植生が形成されています。水鳥たちも多数見られ、繁殖地や渡りの中継地となっています。湿原は開発に手間と費用がかかるため、自然状態のままあまり開発されれことがありませんでした。そのために本来の自然がよく保存されています。1974年9月20日に、利尻礼文サロベツ国立公園に指定されました。また、2005年11月には、サロベツ原野がラムサール条約に登録されています。
最初のサロベツ原野への旅行は、友人と2人でいきました。夕方駅にたどりつき、夕日を見に山の展望台まで歩いて登って時間をつぶしました。早い時間に最終電車が出た後、駅舎でラーメンつくり、焼酎を飲んで、ベンチで寝袋に包まって寝ました。翌日早朝、パンをほおばり、サロベツ湿原に向かって歩いていきました。初夏とはいえ、朝霧の中を歩く長い道のりは寒く、友人との会話も言葉少なくなってきました。そんな頃、ある牧場の前を通りかかると、一仕事終えたようで、その家の方から話しかけられました。立ち話をしていると、これから朝食だから、たいしたものはないが、食べて暖まっていきなさいといわれました。軽く朝食済ませていたのですが、暖かさに惹かれて言葉に甘えることにしました。かじかんでいた体には、ストーブの炊かれた暖かい部屋はありがたいものでした。出していたただいたのは、大き目に切ったバターをのせた白いご飯に、どんぶり一杯の味噌汁であった。当時の北海道では一般的に朝ご飯でした。大学の寮の朝食も似たようなものでした。そして絞りたての暖められた牛乳。どれもが、かじかんだ体を溶してしまいそうな暖かさでした。こんな過酷な自然の中で生き物を相手に生計を立ておられる方が、見知らない自分たちに親切にしてくさいました。その親切が、なによりも暖かく思えました。朝食頂いたあと別れを告げ、霧が薄らいだ湿原の中を、私たちはまた歩き出しました。
私たちは、当時の若者としては当たり前の旅行の仕方でした。その時間をかけて歩くという旅行をしたおかげで、こんな人の暖かさに触れる出会いがあったのです。その記憶は、何十年たった今でも、暖かいものとして忘れることなく、思い出されます。もしかすると、旅行の本当の醍醐味とは、こんな人との触れ合いなのではないでしょうか。
若いとき、お金がなく時間だけが自由に使えた時代は、じっくり時間かけて歩くことで、その地の人たちと同じ目線で、その地の自然に肌で触れることができました。そして時には、人とのふれあいが生まれます。これは、何事にも変えがたい経験、そして思い出となります。
今は、お金があるのに、時間がありません。するとどうしても、目的地まで速くて便利な移動手段を利用します。北海道では車を使えば、目的地まで速く楽に行けるようになりました。その代わり、人の暖かさに触れる機会もなくしたように思えます。仕事や家庭を持つようになって、時間なくなり、旅行も目的を満たすため、お金をかけるるようになりました。どうも私は、時間以上に旅行するという本質を見失ってしまったのかましません。
・湿原の回復・
サロベツとは、アイヌ語の「サル・オ・ペツ」から由来しています。
葦原を流れる川という意味です。
葦とは、低層湿原に群生している植物で、
まさににサロベツ湿原を表しています。
北海道には、釧路湿原がありますが、
サロベツ湿原北海道の最北端に広がる2万3000haにもなる湿原です。
広大な泥炭地は、酪農には不向きですが、
各地で大規模な農地開発が行われ、
泥炭地の排水やサロベツ川のショートカットなどで
湿原の水位が次第に低下しました。
しかし、これは、自然を変えることにつながりました。
国立公園内でも、泥炭地の乾燥化が起こり、西側にはササが侵入してきました。
公園の自然を復元するために1983年から
環境庁はサロベツ湿原保全事業をはじめれています。
さまざまな調査研究を通じて、湿原の回復を目指しています。
・記憶のサロベツ・
ここで述べた記憶は、だいぶ昔ことです。
しかし当時の写真をみると、当時の様子を、断片的ですが、
鮮明に思い出してしまいます。
石炭ストーブ匂い、夏だというの寒い駅舎。
暖かいタマネギとジャガイモの味噌汁、
駅舎で食べたインスタントラーメンの味。
バターの塩味、朝食の食パンにマヨネーズをかけて食べた味。
節くれだった牧夫の指、長髪でなまっちょろい自分。
貧しくても心豊かな人々、野望でぎろぎろした目の自分。
湿原の厳しさに耐えて咲く花々、寮の5人部屋の雑然さ。
すべてが過去のことです。
過去の記憶ですから、美化されているかもしれません。
しかし、そんな時代を生きてきた人、
そしてその人と関わった自分が記憶の中にはいます。
私の記憶のサロベツの湿原と数十年後車から眺めた湿原は、
同じようでもあり、違っているようにも見えました。
豊富、手塩中川、羽幌、近くには何度かいってますが、
サロベツ原野は、ここで紹介した2回だけしか訪れていません。
でも、今も30年前のサロベツ原野が私の記憶に生き続けています。
私は、サロベツ原野には2度行っています。一度目は30年近く前の大学生の頃です。6月初旬の花盛り頃にいきました。学生時代はお金がなったので、札幌から半日かけて鈍行列車で最寄の駅までいき、無人の駅舎で野宿をし、翌日徒歩でサロベツ原野に向かいました。徒歩のために、サロベツ原野の大きさや自然を身を持って感じました。2度目は、2004年の春に、海岸沿いを自家用車で走りぬけました。何箇所か止まりましたが、その止まったところだけが、サロベツ原野の点として、記憶に残ります。
若い頃は、口では「忙しい」といいながら、暇を見ては旅行に出かけました。今思い起こすと、よく旅に出てたものだと思います。授業をだいぶサボったのでしょう。それに、夏休みの冬休みのたくさんの時間がありました。それに今と比べれば、時間と体力はずっとあったので、強行軍で肉体的な旅行もできたのでしょう。もちろんお金はなかったので、安上がりに旅することが最優先すべきことでした。お金を節約するために、野宿やヒッチハイクをしながら旅行したものです。その頃は、目的地にたどり着くために、まさに旅行をしていたような気がします。
仕事に就き家族ができると、今度は時間に追われる生活となりました。金銭的に余裕があるのに、本当に「忙しく」て、自由に旅行ができなくなってしまったのです。最近の私の旅行は、目的地にいかに早くたどり着くか、そしていかに少ない時間で目的を遂げるか、というものになってきました。旅行とは、プロセスではなく、目的を満たすために時間と有効に使って行って帰ってくるのが最優先すべきこととなりました。それでも、今の私とっては、大切な旅行なのです。
道北の一級河川である天塩川は、天塩町で日本海に注ぎます。天塩川の河口近くで合流するサロベツ川は、天塩川の北側に広い湿原となった氾濫原をもちます。これが、サロベツ原野です。サロベツ原野は、東西5~8km、南北27kmの大きさを持ちます。東と西に丘陵が境となっています。
サロベツ原野の東側は、大曲断層の西に鮮新世の勇知(ゆうち)層と更新世の更別(さらべつ)層からなる丘陵があります。これらの地層は、海から内湾そして潟へと環境が変わりながらできたものです。現在のサロベツ原野は、かつて海が入り込んでいたことが地層からわかります。やがて、海から潟、そして淡水のサロベツ川の氾濫源となり、湿原へと変化していきます。
サロベツ原野の西側は、直接海になるではなく、砂丘があり、そこが湿原の境界となります。天塩から稚咲内(わっかさかない)の海岸は、日本海に沿って、まっすぐな海岸線となっています。海岸線に沿って南北に伸びる砂丘(完新世)が、何列かあります。砂丘の延長は35km、最大幅は2kmに達します。その砂丘群が、サロベツ原野の西端にあたります。砂丘と砂丘の間には、湿地や沼地が点在しています。一番奥まった砂丘との間にも、湿原があり、小さな沼があります。その砂丘を東に越えると、サロベツ川の湿原となります。湿原には、南から、パンケ沼、ペンケ沼、そしてサロベツ原野の一番北側には兜沼などがあります。
サロベツ原野が盆地状の地形になったのは、第三紀から第四紀にかけです。河川の堆積物の流入によって、堆積盆地は埋まっていきますが、盆地が沈降していたので、厚い堆積物が溜まることになります。ウルム氷期の海退の後、間氷期で暖かくなり、海水面が上昇し、海水の進入(海進)します。この頃(約1.2万年前)から今のような湿原となったことがわかります。7000~6000年前には海進が最大になり、大きな潟湖ができました。やがて、堆積物の堆積と海退によって、陸地化し、泥炭層の形成され、現在のサロベツ原野になったと考えられています。
サロベツ原野の湿原には、泥炭層が分布します。そのため泥炭地固有の植生が形成されています。水鳥たちも多数見られ、繁殖地や渡りの中継地となっています。湿原は開発に手間と費用がかかるため、自然状態のままあまり開発されれことがありませんでした。そのために本来の自然がよく保存されています。1974年9月20日に、利尻礼文サロベツ国立公園に指定されました。また、2005年11月には、サロベツ原野がラムサール条約に登録されています。
最初のサロベツ原野への旅行は、友人と2人でいきました。夕方駅にたどりつき、夕日を見に山の展望台まで歩いて登って時間をつぶしました。早い時間に最終電車が出た後、駅舎でラーメンつくり、焼酎を飲んで、ベンチで寝袋に包まって寝ました。翌日早朝、パンをほおばり、サロベツ湿原に向かって歩いていきました。初夏とはいえ、朝霧の中を歩く長い道のりは寒く、友人との会話も言葉少なくなってきました。そんな頃、ある牧場の前を通りかかると、一仕事終えたようで、その家の方から話しかけられました。立ち話をしていると、これから朝食だから、たいしたものはないが、食べて暖まっていきなさいといわれました。軽く朝食済ませていたのですが、暖かさに惹かれて言葉に甘えることにしました。かじかんでいた体には、ストーブの炊かれた暖かい部屋はありがたいものでした。出していたただいたのは、大き目に切ったバターをのせた白いご飯に、どんぶり一杯の味噌汁であった。当時の北海道では一般的に朝ご飯でした。大学の寮の朝食も似たようなものでした。そして絞りたての暖められた牛乳。どれもが、かじかんだ体を溶してしまいそうな暖かさでした。こんな過酷な自然の中で生き物を相手に生計を立ておられる方が、見知らない自分たちに親切にしてくさいました。その親切が、なによりも暖かく思えました。朝食頂いたあと別れを告げ、霧が薄らいだ湿原の中を、私たちはまた歩き出しました。
私たちは、当時の若者としては当たり前の旅行の仕方でした。その時間をかけて歩くという旅行をしたおかげで、こんな人の暖かさに触れる出会いがあったのです。その記憶は、何十年たった今でも、暖かいものとして忘れることなく、思い出されます。もしかすると、旅行の本当の醍醐味とは、こんな人との触れ合いなのではないでしょうか。
若いとき、お金がなく時間だけが自由に使えた時代は、じっくり時間かけて歩くことで、その地の人たちと同じ目線で、その地の自然に肌で触れることができました。そして時には、人とのふれあいが生まれます。これは、何事にも変えがたい経験、そして思い出となります。
今は、お金があるのに、時間がありません。するとどうしても、目的地まで速くて便利な移動手段を利用します。北海道では車を使えば、目的地まで速く楽に行けるようになりました。その代わり、人の暖かさに触れる機会もなくしたように思えます。仕事や家庭を持つようになって、時間なくなり、旅行も目的を満たすため、お金をかけるるようになりました。どうも私は、時間以上に旅行するという本質を見失ってしまったのかましません。
・湿原の回復・
サロベツとは、アイヌ語の「サル・オ・ペツ」から由来しています。
葦原を流れる川という意味です。
葦とは、低層湿原に群生している植物で、
まさににサロベツ湿原を表しています。
北海道には、釧路湿原がありますが、
サロベツ湿原北海道の最北端に広がる2万3000haにもなる湿原です。
広大な泥炭地は、酪農には不向きですが、
各地で大規模な農地開発が行われ、
泥炭地の排水やサロベツ川のショートカットなどで
湿原の水位が次第に低下しました。
しかし、これは、自然を変えることにつながりました。
国立公園内でも、泥炭地の乾燥化が起こり、西側にはササが侵入してきました。
公園の自然を復元するために1983年から
環境庁はサロベツ湿原保全事業をはじめれています。
さまざまな調査研究を通じて、湿原の回復を目指しています。
・記憶のサロベツ・
ここで述べた記憶は、だいぶ昔ことです。
しかし当時の写真をみると、当時の様子を、断片的ですが、
鮮明に思い出してしまいます。
石炭ストーブ匂い、夏だというの寒い駅舎。
暖かいタマネギとジャガイモの味噌汁、
駅舎で食べたインスタントラーメンの味。
バターの塩味、朝食の食パンにマヨネーズをかけて食べた味。
節くれだった牧夫の指、長髪でなまっちょろい自分。
貧しくても心豊かな人々、野望でぎろぎろした目の自分。
湿原の厳しさに耐えて咲く花々、寮の5人部屋の雑然さ。
すべてが過去のことです。
過去の記憶ですから、美化されているかもしれません。
しかし、そんな時代を生きてきた人、
そしてその人と関わった自分が記憶の中にはいます。
私の記憶のサロベツの湿原と数十年後車から眺めた湿原は、
同じようでもあり、違っているようにも見えました。
豊富、手塩中川、羽幌、近くには何度かいってますが、
サロベツ原野は、ここで紹介した2回だけしか訪れていません。
でも、今も30年前のサロベツ原野が私の記憶に生き続けています。
2006-11-15
23 木津川:剛より柔を 2006.11.15
Time:
9:18
●
Geologist
自然に対して人間は、剛で接しているように思います。しかし、私の故郷にある流れ橋から、柔の接し方があること教えてくれます。そんな私の思い出の川と橋の話です。
このメールマガジンの読者の方々は、故郷から離れて暮らしておられるのでしょうか。私は、19歳で故郷を出てから、日本各地を点々して、今では北海道に居を構えています。私の故郷は、京都府城陽市というところですが、そこには、今も母や弟そして親戚が住んでいます。北海道に住むようになってから、なかなか帰省することができなくなりました。
自宅を出て大学生として、ひとりで暮らしているころは、帰省すると京都や奈良など、今では観光地となっている歴史を持つ神社仏閣などの名跡をいろいろめぐっていました。その理由は、学生で時間があったこともさることながら、故郷をめぐる私の心情の変化があったためです。
私は京都で生まれ育ったのですが、その風土、風習が住んでいるときはあまり好きなれなかったのです。遠くの大学を選んだのも、故郷の呪縛から逃れたいということも、理由の一部となっていました。ところが故郷を離れて、自分の生まれ育った風土を冷静に見ることができ、嫌なことばかりではなく、いいところもたくさんあることが分かってきました。そのいいこと探しの最初として、故郷の歴史に注目したのでした。
ところが、仕事を持ち、家族ができてからは、私も忙しくなってきたので、なかなか時間がとれず、帰省しても親戚や知り合いに会って、出歩くことはなく、急いで帰ることが常となりました。最近、故郷の山野を見たいという気持ちがでてきました。それは、北海道の自然と私の故郷の自然の違いによるためだという気がします。
北海道の自然は、科学を志した後に接したもので、科学を通じて身近になってきたものです。そして現在は、その自然の中に暮らしています。北海道の自然を見るとき、ついつい自分の故郷の自然と比べている自分によく気づきます。故郷で子供時代を過ごし、故郷の自然が私にとって自然の原点となっています。
ところが、その故郷の自然は、子供頃から高校までの30年以上も前の記憶だけなのです。記憶の中の自然は、現実離れしているような気もするし、まだどこかにそのような自然が残されている気もします。現在の故郷の自然を直接感じたいという気がしています。原点が故郷の自然あるのに、長らく接していないという焦燥感の現われかもしれません。
私の故郷には、木津川という大きな川がありました。木津川の流域付近は農耕地が広がっていてました。現在は調整区域を除くと、宅地化が進んでいて、農耕地も私が育った頃と比べるとだいぶ減りました。
私が小学校低学年くらいの頃には、木津川で夏にだけオープンする水泳場があり、近鉄も臨時の駅ができ停車しました。両親に連れられて、そこで泳いだこと、水が冷たかったこと、昼食のカレーライスなどを覚えています。小学校の頃になると、自転車で木津川に遊びいきました。親戚いとこが木津川の堤防の脇に住んでいましたので、流れ橋付近ではよく遊びました。思えばこの頃の木津川が、私の川の原風景として、今も残されているようです。
流れ橋は、現在もあり、テレビと時々見かけるので、木津川はあまり変わりはないなと知ることができます。なぜテレビで見かけるかというと、時代劇の撮影場所として、流れ橋がよく利用されているからです。時代劇に大きな川と長い木橋は、大抵この流れ橋が使われています。京都の大覚寺と並んで時代劇のロケ地として有名です。
さてこの流れ橋ですが、川と人との付き合い方の一つの象徴ともいうべきものだと、昔も今も感じています。
木津川は、淀川の支流のひとつです。琵琶湖周辺の山々から集まった水が、琵琶湖になり、琵琶湖から瀬田川を経て宇治川になり、桂川と木津川が合流したとこから、淀川と呼ばれます。日本の河川と特徴として、急流であることがあげられますが、淀川はさらに特殊な状況があります。
琵琶湖の湖面の標高は84mありますが、宇治の平等院あたりで平野部に入りますが、標高は15mまで下がります。宇治川には、琵琶湖があり、平野部になる直前に天瀬ダムという大きなダムがあり、洪水を防いでいます。ところが、木津川には山奥の標高150mあたりにダムがありますが、そのより下流にはダムがありません。大雨が降ると、山地からの雨水は一気に木津川に流れ込むことになります。
淀川となって京都盆地を抜けるところに、天王山があります。天王山は枚方になり、南北から山地が狭まっていることろです。その天王山を抜けると、生駒山地の西側に広がる河内平野へとでます。河内平野は、縄文海進があった7000年前頃には、海が入り込み、河内湾となっていました。その後、海退と河川からの土砂の流入で埋まり、1600年前の弥生時代には河内湖となり、やがて湿地から平野へと変化してきました。
宇治川と木津川の間には、巨椋池(おぐらいけ)がありました。巨椋池は、周囲16km、面積7.94平方kmほどありましたが、水深は浅く90~120cmくらいしかなく、湿原のようなものでした。そして、地形から分かるように、しょっちゅう氾濫する地域であり、長らく湿地のままにされていました。
淀川の本流である宇治川の明治時代に治水が進み、巨椋池には宇治川からの水の流入が減ってきました。そのため、藻が多くなり、水質が悪化し、漁獲量が減少し、またマラリアも発生し、米不足による食料増産が求められていました。
そのような社会情勢から、1931(昭和6)年に干拓事業が承認され、1933年着工、1941年に完成しました。その時、多くの韓国朝鮮人労働者が強制的に動員されました。今でも付近には在日コリアンがたくさん住んでいます。私が子供の頃にも在日コリアンの家族が近所におられ、一緒に遊んだ記憶があります。
淀川流域には、京都や大阪の市街地が平野部にあります。ですから、治水には古くから取り組まれてきました。しかし、約30年の間に10回もの大出水を記録するなど、つねに洪水の危険にさらされてきました。1953年の台風13号では淀川水系に大洪水をもたらし、最近では1972(昭和47)年の台風20号で、私の町でも洪水がありました。現在では、木津川と宇治川の合流からの下流域では、スーパー堤防をつくり、洪水から町を守ろうときう事業が進められています。
さて、流れ橋です。流れ橋は、八幡の石清水八幡宮に参拝する人たちや地域の住民のために渡し舟があったのですが、1953(昭和28)年に橋がかけられました。延長356.5m、幅3.3mの木造橋です。戦後のことなので予算がなく、安くするために、木で流れ橋がつくらました。木津川は洪水が頻繁にあり、木の橋では、洪水なるたびに、すぐに流されてしまいます。そこで考案されたのが、流れ橋でした。
流れ橋とは、橋が流れるということですが、この橋はもともと、川が氾濫したときに流れてもいいように設計されています。どういうことかといいますと、橋が洪水で流されるのは、次のような状況があるためです。
橋脚は、川の流れと平行になり、水流によってもそれほどの抵抗は受けません。ところが、橋板まで水位が上がると、流れに対して抵抗が強くなり、流木などが絡まると、さらに抵抗を増し、やがては壊れてしまいます。
流れ橋は、橋脚も橋板も木で出ています。そして、橋板は、ワイヤで結ばれていますが、橋脚の上に載せられいるだけです。橋板は幅20cmほどの板が、全長を8分割されてワイヤで連結され、そのワイヤの端はそれぞれ橋脚につながれています。なぜこのような安易が構造なのかというと、流れうるのが前提として作られているためです。
洪水が橋板までくると、木の橋板は水にい浮きます。そして流れていきます。しかし、ワイヤでつながれ、その端が橋脚につながれていますから、洪水の中を橋板が浮いているわけです。このような構造で、橋板も流出することなく、回収可能となっています。
流れ橋は、平成になってからも6回以上流されていますが、そのたびごとに、復旧されています。流れ橋は、苦肉の策だったのかもしれませんが、智恵が絞られています。そして、柔よく剛を制すということわざがぴったりかもしれません。西洋風のコンクリートの「剛」で自然に抵抗する方法と、まったく違った方向性をもっています。それも、地域の川の性質をよく知った上での対処です。自然の力に対して、「剛」ではなく、「柔」という対処があることを教えて組くれます。
私の少年時代の木津川は、高度成長期には、川砂利の採取が盛んになりました。採取跡には深い水溜りが各所にでき、そこで水難事故がありました。そのために、学校から、木津川では遊ばないようにいわれ、かわりに近所の小川や山が、私の遊び場となりました。
それ以降、私の木津川の記憶の糸がそこで切れています。もちろん、電車や車から木津川を眺めることありましたが、自然を感じることができません。新たな記憶を取り戻すために、木津川にいってみたいものです。そして柔の橋、流れ橋を渡ってみたいものです。
・子供と川・
私の子供たちは、神奈川で生まれているのですが、
その地の記憶は、ほとんどのないようです。
彼らの自然の原点は、北海道の自然になるでしょう。
彼らの川の原点は、どんな川になるのでしょうか。
私は自然の川に接してあげたいと、思っているのですが、
大きな川への立ち入りが難しく、
自然の川原がなかなかみつかりません。
近くになる石狩川で、自然の川原のあるところへは
長年探してきたのですが、まったく近づけません。
せっかく近く石狩川があるのに、
コンクリートの川原しか子供たちは知りません。
そんな川しか知らない息子たちは、大きくなったとき、
川とはどのようなものだと思うでしょうか。
川遊びなど知らない子供にはしたくないと、
せっせと自然の川原を探しては出かけています。
多くの川では、剛の管理がされています。
しかし、子供と川とは、柔での接し方があっていいのではないでしょうか。
・母・
母は、今、畑に精を出しています。
もともと我が家は農家なのですが、
祖父が主に農業をしていました。
そして両親は自宅で下請けの仕事をしていました。
しかし、父が死んでから、母は隠居だといって、なぜか農業を始めました。
それが、今では、まさに生きがいとなっています。
年々その意気は上がり、冬場でないと、長い休みは取れないようです。
私たち家族が北海道に来たばかりのころは、
呼べばいつでもきていました。
そして1週間から10日ほど滞在してました。
ところが、最近では、畑が忙しい春から秋にかけては、
1週間も明けられないといって、来なくなりました。
ですから、最近では、一番暇になる、
年の暮れに来て、1月1日に帰ります。
今年もそのスケジュールです。
我が家で、簡素の正月して、飛行場へ送っていきます。
そして故郷で、弟夫婦となど親戚が来る正月をしています。
母が来たら、温泉を毎日のように、行くことにしています。
こんな関係が長く続くことを願っています。
このメールマガジンの読者の方々は、故郷から離れて暮らしておられるのでしょうか。私は、19歳で故郷を出てから、日本各地を点々して、今では北海道に居を構えています。私の故郷は、京都府城陽市というところですが、そこには、今も母や弟そして親戚が住んでいます。北海道に住むようになってから、なかなか帰省することができなくなりました。
自宅を出て大学生として、ひとりで暮らしているころは、帰省すると京都や奈良など、今では観光地となっている歴史を持つ神社仏閣などの名跡をいろいろめぐっていました。その理由は、学生で時間があったこともさることながら、故郷をめぐる私の心情の変化があったためです。
私は京都で生まれ育ったのですが、その風土、風習が住んでいるときはあまり好きなれなかったのです。遠くの大学を選んだのも、故郷の呪縛から逃れたいということも、理由の一部となっていました。ところが故郷を離れて、自分の生まれ育った風土を冷静に見ることができ、嫌なことばかりではなく、いいところもたくさんあることが分かってきました。そのいいこと探しの最初として、故郷の歴史に注目したのでした。
ところが、仕事を持ち、家族ができてからは、私も忙しくなってきたので、なかなか時間がとれず、帰省しても親戚や知り合いに会って、出歩くことはなく、急いで帰ることが常となりました。最近、故郷の山野を見たいという気持ちがでてきました。それは、北海道の自然と私の故郷の自然の違いによるためだという気がします。
北海道の自然は、科学を志した後に接したもので、科学を通じて身近になってきたものです。そして現在は、その自然の中に暮らしています。北海道の自然を見るとき、ついつい自分の故郷の自然と比べている自分によく気づきます。故郷で子供時代を過ごし、故郷の自然が私にとって自然の原点となっています。
ところが、その故郷の自然は、子供頃から高校までの30年以上も前の記憶だけなのです。記憶の中の自然は、現実離れしているような気もするし、まだどこかにそのような自然が残されている気もします。現在の故郷の自然を直接感じたいという気がしています。原点が故郷の自然あるのに、長らく接していないという焦燥感の現われかもしれません。
私の故郷には、木津川という大きな川がありました。木津川の流域付近は農耕地が広がっていてました。現在は調整区域を除くと、宅地化が進んでいて、農耕地も私が育った頃と比べるとだいぶ減りました。
私が小学校低学年くらいの頃には、木津川で夏にだけオープンする水泳場があり、近鉄も臨時の駅ができ停車しました。両親に連れられて、そこで泳いだこと、水が冷たかったこと、昼食のカレーライスなどを覚えています。小学校の頃になると、自転車で木津川に遊びいきました。親戚いとこが木津川の堤防の脇に住んでいましたので、流れ橋付近ではよく遊びました。思えばこの頃の木津川が、私の川の原風景として、今も残されているようです。
流れ橋は、現在もあり、テレビと時々見かけるので、木津川はあまり変わりはないなと知ることができます。なぜテレビで見かけるかというと、時代劇の撮影場所として、流れ橋がよく利用されているからです。時代劇に大きな川と長い木橋は、大抵この流れ橋が使われています。京都の大覚寺と並んで時代劇のロケ地として有名です。
さてこの流れ橋ですが、川と人との付き合い方の一つの象徴ともいうべきものだと、昔も今も感じています。
木津川は、淀川の支流のひとつです。琵琶湖周辺の山々から集まった水が、琵琶湖になり、琵琶湖から瀬田川を経て宇治川になり、桂川と木津川が合流したとこから、淀川と呼ばれます。日本の河川と特徴として、急流であることがあげられますが、淀川はさらに特殊な状況があります。
琵琶湖の湖面の標高は84mありますが、宇治の平等院あたりで平野部に入りますが、標高は15mまで下がります。宇治川には、琵琶湖があり、平野部になる直前に天瀬ダムという大きなダムがあり、洪水を防いでいます。ところが、木津川には山奥の標高150mあたりにダムがありますが、そのより下流にはダムがありません。大雨が降ると、山地からの雨水は一気に木津川に流れ込むことになります。
淀川となって京都盆地を抜けるところに、天王山があります。天王山は枚方になり、南北から山地が狭まっていることろです。その天王山を抜けると、生駒山地の西側に広がる河内平野へとでます。河内平野は、縄文海進があった7000年前頃には、海が入り込み、河内湾となっていました。その後、海退と河川からの土砂の流入で埋まり、1600年前の弥生時代には河内湖となり、やがて湿地から平野へと変化してきました。
宇治川と木津川の間には、巨椋池(おぐらいけ)がありました。巨椋池は、周囲16km、面積7.94平方kmほどありましたが、水深は浅く90~120cmくらいしかなく、湿原のようなものでした。そして、地形から分かるように、しょっちゅう氾濫する地域であり、長らく湿地のままにされていました。
淀川の本流である宇治川の明治時代に治水が進み、巨椋池には宇治川からの水の流入が減ってきました。そのため、藻が多くなり、水質が悪化し、漁獲量が減少し、またマラリアも発生し、米不足による食料増産が求められていました。
そのような社会情勢から、1931(昭和6)年に干拓事業が承認され、1933年着工、1941年に完成しました。その時、多くの韓国朝鮮人労働者が強制的に動員されました。今でも付近には在日コリアンがたくさん住んでいます。私が子供の頃にも在日コリアンの家族が近所におられ、一緒に遊んだ記憶があります。
淀川流域には、京都や大阪の市街地が平野部にあります。ですから、治水には古くから取り組まれてきました。しかし、約30年の間に10回もの大出水を記録するなど、つねに洪水の危険にさらされてきました。1953年の台風13号では淀川水系に大洪水をもたらし、最近では1972(昭和47)年の台風20号で、私の町でも洪水がありました。現在では、木津川と宇治川の合流からの下流域では、スーパー堤防をつくり、洪水から町を守ろうときう事業が進められています。
さて、流れ橋です。流れ橋は、八幡の石清水八幡宮に参拝する人たちや地域の住民のために渡し舟があったのですが、1953(昭和28)年に橋がかけられました。延長356.5m、幅3.3mの木造橋です。戦後のことなので予算がなく、安くするために、木で流れ橋がつくらました。木津川は洪水が頻繁にあり、木の橋では、洪水なるたびに、すぐに流されてしまいます。そこで考案されたのが、流れ橋でした。
流れ橋とは、橋が流れるということですが、この橋はもともと、川が氾濫したときに流れてもいいように設計されています。どういうことかといいますと、橋が洪水で流されるのは、次のような状況があるためです。
橋脚は、川の流れと平行になり、水流によってもそれほどの抵抗は受けません。ところが、橋板まで水位が上がると、流れに対して抵抗が強くなり、流木などが絡まると、さらに抵抗を増し、やがては壊れてしまいます。
流れ橋は、橋脚も橋板も木で出ています。そして、橋板は、ワイヤで結ばれていますが、橋脚の上に載せられいるだけです。橋板は幅20cmほどの板が、全長を8分割されてワイヤで連結され、そのワイヤの端はそれぞれ橋脚につながれています。なぜこのような安易が構造なのかというと、流れうるのが前提として作られているためです。
洪水が橋板までくると、木の橋板は水にい浮きます。そして流れていきます。しかし、ワイヤでつながれ、その端が橋脚につながれていますから、洪水の中を橋板が浮いているわけです。このような構造で、橋板も流出することなく、回収可能となっています。
流れ橋は、平成になってからも6回以上流されていますが、そのたびごとに、復旧されています。流れ橋は、苦肉の策だったのかもしれませんが、智恵が絞られています。そして、柔よく剛を制すということわざがぴったりかもしれません。西洋風のコンクリートの「剛」で自然に抵抗する方法と、まったく違った方向性をもっています。それも、地域の川の性質をよく知った上での対処です。自然の力に対して、「剛」ではなく、「柔」という対処があることを教えて組くれます。
私の少年時代の木津川は、高度成長期には、川砂利の採取が盛んになりました。採取跡には深い水溜りが各所にでき、そこで水難事故がありました。そのために、学校から、木津川では遊ばないようにいわれ、かわりに近所の小川や山が、私の遊び場となりました。
それ以降、私の木津川の記憶の糸がそこで切れています。もちろん、電車や車から木津川を眺めることありましたが、自然を感じることができません。新たな記憶を取り戻すために、木津川にいってみたいものです。そして柔の橋、流れ橋を渡ってみたいものです。
・子供と川・
私の子供たちは、神奈川で生まれているのですが、
その地の記憶は、ほとんどのないようです。
彼らの自然の原点は、北海道の自然になるでしょう。
彼らの川の原点は、どんな川になるのでしょうか。
私は自然の川に接してあげたいと、思っているのですが、
大きな川への立ち入りが難しく、
自然の川原がなかなかみつかりません。
近くになる石狩川で、自然の川原のあるところへは
長年探してきたのですが、まったく近づけません。
せっかく近く石狩川があるのに、
コンクリートの川原しか子供たちは知りません。
そんな川しか知らない息子たちは、大きくなったとき、
川とはどのようなものだと思うでしょうか。
川遊びなど知らない子供にはしたくないと、
せっせと自然の川原を探しては出かけています。
多くの川では、剛の管理がされています。
しかし、子供と川とは、柔での接し方があっていいのではないでしょうか。
・母・
母は、今、畑に精を出しています。
もともと我が家は農家なのですが、
祖父が主に農業をしていました。
そして両親は自宅で下請けの仕事をしていました。
しかし、父が死んでから、母は隠居だといって、なぜか農業を始めました。
それが、今では、まさに生きがいとなっています。
年々その意気は上がり、冬場でないと、長い休みは取れないようです。
私たち家族が北海道に来たばかりのころは、
呼べばいつでもきていました。
そして1週間から10日ほど滞在してました。
ところが、最近では、畑が忙しい春から秋にかけては、
1週間も明けられないといって、来なくなりました。
ですから、最近では、一番暇になる、
年の暮れに来て、1月1日に帰ります。
今年もそのスケジュールです。
我が家で、簡素の正月して、飛行場へ送っていきます。
そして故郷で、弟夫婦となど親戚が来る正月をしています。
母が来たら、温泉を毎日のように、行くことにしています。
こんな関係が長く続くことを願っています。
2006-10-15
22 根室半島:昔の火山列がつく半島 2006.10.15
Time:
9:17
●
Geologist
納沙布(ノッサプ)岬は、北方四島を望む北海道の東端にあります。その納沙布岬を有する根室半島の起源をみていきましょう。
北海道はいくつかの半島があります。半島の先端には岬があります。岬にはそれぞれの個性があります。その個性は、気象や天候などの日々変わるものから、大地自身の起源に端を発するものもあります。
北海道の最東端は、根室半島の納沙布(のさっぷ)岬です。納沙布岬は、北方四島返還の最前線として、「北方館」や「平和の塔」などがあり、強い個性を持っています。
道東は霧がよく出るところです。私は、今年のゴールデンウィークに出かけましたが、天気が悪く小雨と霧の寒い日でした。これが道東の天気だというかのような日でした。私には納沙布岬は「霧の岬」という印象があります。
知床半島は世界遺産に選ばれたことから、現在も多くの観光客を集めています。納沙布岬も有名な観光地ですから、ゴールデンウィークで多くの観光客がいるかと思いきや、予想外に少なく、驚きました。道東の知床以外の観光地も、さびしく感じたの気のせいでしょうか。
納沙布岬に以前にも訪れていますが、そのときは晩秋の、風の強い寒い日でした。ですから、私の納沙布岬の印象は、残念ながら、冷たく暗いものです。しかし、土産屋の中ではストーブが炊かれ、そこですするラーメンの暖かさは、一層おいしく感じました。
さて、納沙布岬あるいは根室半島は、なぜ出っ張っているのでしょうか。こんな素朴な疑問を探ることが、大地の生い立ちを教えてくれます。大地をつくっている石をみれば、その答えが分かります。
先ほども述べましたが知床半島にはたくさんの活火山があります。ですから、知床半島は、現在活動中の火山列が半島をつくっているわけです。ところが、根室半島には活火山はありません。しかし、根室半島には、マグマの活動でできた火成岩がたくさんあります。そのマグマは海底で堆積していた地層の中や海底で活動しました。マグマの活動は現在は終わっています。つまり、根室半島は、昔の火山列だったのです。
マグマの活動時代は、地層の中から見つかる化石や放射性元素の年代測定から知ることができます。マグマの活動時期は、白亜紀後期だと考えられています。溜まっていた地層は、白亜紀後期から古第三紀に形成された根室層群と呼ばれるものです。根室層群の堆積初期の地層の中に、マグマが上昇してきました。
マグマが海底まで噴出すると、海水にふれて急激に冷却されます。しかし、後からもまだマグマが続いて上がってきます。すると固まった表面を破ってマグマが海水中に噴出します。ねり歯磨きを押し出したようにマグマが出てきます。マグマは、やはり海水に触れて急冷されすぐに固まります。繰り返し起きます。その結果、枕を並べたようなマグマの積み重なりができていきます。このような状態の岩石を、枕状溶岩と呼びます。
枕状溶岩の断面がみえるところでは、自転車のスポークのように放射状の割れ目が形成されています。納沙布岬の少し東南東の花咲では、直径1mから3mほどの枕状溶岩がたくさん海岸に出ています。大きなものでは、7.5mにも達します。花咲では、枕状溶岩が特に目立つので、車石と呼ばれて、天然記念物になっています。このような枕状溶岩が根室半島のいたるところにあります。
マグマが海底に噴出せずに、地層の間に分け入ることもあります。貫入と呼びます。地層中に貫入したマグマは、地層の触れた部分はすぐに冷えますが、中のマグマは急激に冷えることはなく、ゆっくりと冷えてきます。すると大きな結晶へと成長する岩石ができます。根室半島の貫入岩には、厚さ150mもあるものが見つかっています。
マグマがゆっくり冷えると、結晶ができて成長していきます。結晶はマグマとの密度の差によって浮いたり沈んだりします。結晶の移動に伴ってマグマの組成が変化していきます。すると新たな組成のマグマになり、違った性質の結晶が出てきます。冷えながらマグマが成分を変化させ、溜まった結晶が岩石として、層状に重なっていきます。最終的には、層状の貫入岩となっていきます。このような火成岩を、層状分化岩体と呼んでいます。
結晶の違いや、岩石の化学成分の違いによって、層状分化岩体にはいろいろな岩石が形成されます。急激に冷えた上下の部分は、貫入してきたマグマがそのまま急に冷えた玄武岩になり、内部には重力の影響で、下から上に向かって黒っぽい岩石から白っぽい岩石(アルカリドレライトからモンゾニ岩、閃長岩)へと変化していきます。
本来であれば、このような層状貫入岩体は地下深部にしかありません。しかし、根室半島では、マグマが深部でどのようにして変化し、多様な岩石が形成されるかが、地表で見ることとができるのです。非常に面白い岩石です。層状分化岩体は、根室半島では8ヶ所知られています。また、層状分化岩体は、根室半島より先の歯舞諸島にも連続していることが知られています。
知床半島の火山活動と根室半島の火山活動は、時代の違いと、陸上か海中かの環境の違いだけではありません。他にも、マグマの性質が違っています。
知床半島の火山は、日本列島でみられる典型的なマグマ(カルクアルカリ・マグマと呼ばれています)の活動でできています。しかし、根室半島のマグマは、アルカリ玄武岩と呼ばれているものです。少々変わったマグマです。海洋の真ん中にある海山や海洋島を形成するマグマに見られるタイプです。それが、陸の堆積物がたくさん流れ込んでくるような場で、活動しているのです。
古い時代の地層とマグマからできた火成岩が、根室半島から千島四島まで延びる火山列をつくったのです。そんな過去の列島が、現在も残されているのです。
根室半島を構成しているアルカリ玄武岩という不思議なマグマの成因は、まだ完全には解明されていません。このようなアルカリ玄武岩マグマの活動は、根室半島より先の歯舞諸島にも連続しています。マグマの活動には、もちろん国境などないのです。
・納沙布岬・
私は7年ほど前の秋にも納沙布岬を訪れました。
そのときも寒く霧が出ていました。
いずれも冷たく、暗い天気だったので、
どうしても納沙布岬は暗い印象が残っています。
天気いい日に行けば、印象は違ったのでしょうが、
根室半島は冷たく、霧のかかったところの印象が強かったです。
層状分化岩体とじっくり見たかったのですが、
天気に恵まれず、海岸も一箇所しか降りれなくって、
十分な調査ができませんでした。
また別の機会としましょうか。
・紅葉・
北海道は、日本ハムファイターズのリーグ優勝に沸いています。
野球の話題で盛り上がっています。
我が家では、次男が野球のルールも分からないのに、
ファイターズの応援をしています。
でも、熱いのは北海道の野球周辺だけで、
北海道はここ数日で一気に寒くなってきました。
冬の訪れを感じさせる日ですが、
我が家も朝夕は暖房も炊くようになりました。
コートも着て、手袋もつけました。
ただ心残りは、北海道らしい紅葉をまだ見てないことです。
紅葉越しに見る突き抜けた青空は格別です。
できれば、雪が降る前に紅葉を見ておきたいものです。
北海道はいくつかの半島があります。半島の先端には岬があります。岬にはそれぞれの個性があります。その個性は、気象や天候などの日々変わるものから、大地自身の起源に端を発するものもあります。
北海道の最東端は、根室半島の納沙布(のさっぷ)岬です。納沙布岬は、北方四島返還の最前線として、「北方館」や「平和の塔」などがあり、強い個性を持っています。
道東は霧がよく出るところです。私は、今年のゴールデンウィークに出かけましたが、天気が悪く小雨と霧の寒い日でした。これが道東の天気だというかのような日でした。私には納沙布岬は「霧の岬」という印象があります。
知床半島は世界遺産に選ばれたことから、現在も多くの観光客を集めています。納沙布岬も有名な観光地ですから、ゴールデンウィークで多くの観光客がいるかと思いきや、予想外に少なく、驚きました。道東の知床以外の観光地も、さびしく感じたの気のせいでしょうか。
納沙布岬に以前にも訪れていますが、そのときは晩秋の、風の強い寒い日でした。ですから、私の納沙布岬の印象は、残念ながら、冷たく暗いものです。しかし、土産屋の中ではストーブが炊かれ、そこですするラーメンの暖かさは、一層おいしく感じました。
さて、納沙布岬あるいは根室半島は、なぜ出っ張っているのでしょうか。こんな素朴な疑問を探ることが、大地の生い立ちを教えてくれます。大地をつくっている石をみれば、その答えが分かります。
先ほども述べましたが知床半島にはたくさんの活火山があります。ですから、知床半島は、現在活動中の火山列が半島をつくっているわけです。ところが、根室半島には活火山はありません。しかし、根室半島には、マグマの活動でできた火成岩がたくさんあります。そのマグマは海底で堆積していた地層の中や海底で活動しました。マグマの活動は現在は終わっています。つまり、根室半島は、昔の火山列だったのです。
マグマの活動時代は、地層の中から見つかる化石や放射性元素の年代測定から知ることができます。マグマの活動時期は、白亜紀後期だと考えられています。溜まっていた地層は、白亜紀後期から古第三紀に形成された根室層群と呼ばれるものです。根室層群の堆積初期の地層の中に、マグマが上昇してきました。
マグマが海底まで噴出すると、海水にふれて急激に冷却されます。しかし、後からもまだマグマが続いて上がってきます。すると固まった表面を破ってマグマが海水中に噴出します。ねり歯磨きを押し出したようにマグマが出てきます。マグマは、やはり海水に触れて急冷されすぐに固まります。繰り返し起きます。その結果、枕を並べたようなマグマの積み重なりができていきます。このような状態の岩石を、枕状溶岩と呼びます。
枕状溶岩の断面がみえるところでは、自転車のスポークのように放射状の割れ目が形成されています。納沙布岬の少し東南東の花咲では、直径1mから3mほどの枕状溶岩がたくさん海岸に出ています。大きなものでは、7.5mにも達します。花咲では、枕状溶岩が特に目立つので、車石と呼ばれて、天然記念物になっています。このような枕状溶岩が根室半島のいたるところにあります。
マグマが海底に噴出せずに、地層の間に分け入ることもあります。貫入と呼びます。地層中に貫入したマグマは、地層の触れた部分はすぐに冷えますが、中のマグマは急激に冷えることはなく、ゆっくりと冷えてきます。すると大きな結晶へと成長する岩石ができます。根室半島の貫入岩には、厚さ150mもあるものが見つかっています。
マグマがゆっくり冷えると、結晶ができて成長していきます。結晶はマグマとの密度の差によって浮いたり沈んだりします。結晶の移動に伴ってマグマの組成が変化していきます。すると新たな組成のマグマになり、違った性質の結晶が出てきます。冷えながらマグマが成分を変化させ、溜まった結晶が岩石として、層状に重なっていきます。最終的には、層状の貫入岩となっていきます。このような火成岩を、層状分化岩体と呼んでいます。
結晶の違いや、岩石の化学成分の違いによって、層状分化岩体にはいろいろな岩石が形成されます。急激に冷えた上下の部分は、貫入してきたマグマがそのまま急に冷えた玄武岩になり、内部には重力の影響で、下から上に向かって黒っぽい岩石から白っぽい岩石(アルカリドレライトからモンゾニ岩、閃長岩)へと変化していきます。
本来であれば、このような層状貫入岩体は地下深部にしかありません。しかし、根室半島では、マグマが深部でどのようにして変化し、多様な岩石が形成されるかが、地表で見ることとができるのです。非常に面白い岩石です。層状分化岩体は、根室半島では8ヶ所知られています。また、層状分化岩体は、根室半島より先の歯舞諸島にも連続していることが知られています。
知床半島の火山活動と根室半島の火山活動は、時代の違いと、陸上か海中かの環境の違いだけではありません。他にも、マグマの性質が違っています。
知床半島の火山は、日本列島でみられる典型的なマグマ(カルクアルカリ・マグマと呼ばれています)の活動でできています。しかし、根室半島のマグマは、アルカリ玄武岩と呼ばれているものです。少々変わったマグマです。海洋の真ん中にある海山や海洋島を形成するマグマに見られるタイプです。それが、陸の堆積物がたくさん流れ込んでくるような場で、活動しているのです。
古い時代の地層とマグマからできた火成岩が、根室半島から千島四島まで延びる火山列をつくったのです。そんな過去の列島が、現在も残されているのです。
根室半島を構成しているアルカリ玄武岩という不思議なマグマの成因は、まだ完全には解明されていません。このようなアルカリ玄武岩マグマの活動は、根室半島より先の歯舞諸島にも連続しています。マグマの活動には、もちろん国境などないのです。
・納沙布岬・
私は7年ほど前の秋にも納沙布岬を訪れました。
そのときも寒く霧が出ていました。
いずれも冷たく、暗い天気だったので、
どうしても納沙布岬は暗い印象が残っています。
天気いい日に行けば、印象は違ったのでしょうが、
根室半島は冷たく、霧のかかったところの印象が強かったです。
層状分化岩体とじっくり見たかったのですが、
天気に恵まれず、海岸も一箇所しか降りれなくって、
十分な調査ができませんでした。
また別の機会としましょうか。
・紅葉・
北海道は、日本ハムファイターズのリーグ優勝に沸いています。
野球の話題で盛り上がっています。
我が家では、次男が野球のルールも分からないのに、
ファイターズの応援をしています。
でも、熱いのは北海道の野球周辺だけで、
北海道はここ数日で一気に寒くなってきました。
冬の訪れを感じさせる日ですが、
我が家も朝夕は暖房も炊くようになりました。
コートも着て、手袋もつけました。
ただ心残りは、北海道らしい紅葉をまだ見てないことです。
紅葉越しに見る突き抜けた青空は格別です。
できれば、雪が降る前に紅葉を見ておきたいものです。
2006-09-15
21 足摺岬:岬の先端に不思議な石がある 2006.09.15
Time:
9:17
●
Geologist
昨年秋に足摺岬に調査に行きました。変わった石が出るのですが、その起源はまだ謎のままなのです。
四国は、長方形のそれぞれの角が、南北にでっぱったような形をしています。南西側のでっぱりが、足摺岬になり、南東側が室戸岬です。私は、足摺岬には2度行ったことがあります。しかし、残念ながら室戸岬にはいったことがありません。一度目の足摺岬は30年近く前の春であまり記憶にありません。2度目は1年前の9月でした。いずれも急ぎ足での見学となりました。
足摺岬を訪れたのは、観光ではありません。地質学的に面白い石が見られるからです。
足摺岬と室戸岬にある石は、花崗岩や斑れい岩と呼ばれるものです。花崗岩や斑れい岩は、マグマが地下深部でゆっくりと冷え固まったものです。花崗岩と斑れい岩の違いは、マグマの性質の違いにより、花崗岩は白っぽい岩石で斑れい岩は黒っぽい岩石です。室戸岬は斑れい岩を主としています。足摺岬は花崗岩と斑れい岩が混在してあります。
花崗岩や斑れい岩は、特別な岩石ではなく、どこにでもある、ありふれた岩石です。しかし、ある場所が問題なのです。足摺岬や室戸岬では、南過ぎるのです。その理由を説明しましょう。
現在の日本列島でマグマが活動しているのは、火山フロント(前線)と呼ばれるところです。東日本では、北海道千島列島から知床半島、大雪から、道南の渡島半島、下北半島、奥羽山地、関東山地、富士山、伊豆半島、伊豆諸島から小笠原諸島へと続く東日本火山列があります。一方西日本では、大山などの中国地方の日本海側の火山から、九州の九重、阿蘇、霧島、桜島からトカラ列島に続く西日本火山帯があります。
この火山帯では、マグマの活動が盛んです。火山だけでなく、地下にはマグマがゆっくりと冷え固まった深成岩も形成されているはずです。このような深成岩が見えるようになるためには、長い時間かかって風化侵食を受けてた地下深部の岩石が見えるようにならなければなりません。
これらの火山列は、東日本では、太平洋プレートの沈み込みによって形成されています。西日本では、フィリピン海プレートの沈み込みによるものです。
沈み込みによるマグマの形成とは、沈み込んだ海洋プレートからしぼりだされた水分が、列島の下のマントルに供給されてできます。水分がしぼりだされる深さが、プレートの沈み込む状態で決まっています。それに対応して火山のできる位置も海溝(西日本ではトラフと呼ばれます)からある一定の距離が離れたところに決まってきます。ですから、火山フロントより海側では、マグマの活動が起こることはありません。
ところが、足摺岬にはマグマの活動でできた花崗岩があります。不思議です。
もちろん、この花崗岩は最近活動したマグマによるものではなく、1400万年前ころ(新生代中新世中期)に活動したものです。そのころ、足摺岬のあたりに火山フロントがあったのでしょうか。どうもそうではなさそうです。
日本は、もともと大陸のふちにあり、常に海洋プレートの沈み込みに伴う堆積物(付加体と呼ばれています)が集積をしているところでした。ところが、中新世には、大陸の縁から日本海が開き始めて、列島となっていく時期にあたっています。付加体の位置ではあるのですが、日本海の拡大に伴って、日本列島が海側に押し出される時期になります。
さらに、この中新世には、フィリピン海プレートの一部である四国海盆が沈みこんでいく時期に当たっています。四国海盆は海嶺をもっているできたての小さい海洋地殻(縁海と呼ばれています)であったと考えられています。この四国海盆は中新世(前期から中期にかけて)に海底が拡大してすぐに、西日本に沈み込んでいきました。
西日本を広く見ると、1400万年前頃に起こったマグマ活動の痕跡が、フロントより海側のいたるところにみられます。紀伊半島の潮岬、熊野地域、四国の室戸岬に足摺岬、沖ノ島、少し海から離れますが高月山、九州でも大崩山、屋久島などに、火山岩や深成岩がまとまって分布しています。
中新世の頃の西日本が普通の列島と違う点は、沈み込む海洋プレートができたての若くて暖かいものだったことです。このような地質学的特異な状況では、どのようなマグマのでき方をし、どのようなマグマの性質になるでしょうか。
マグマの性質には、いろいろなものがあることがわかっています。そのようないろいろなマグマを作るには、いろいろ材料物質やいろいろな融けるメカニズムが必要になります。それにはいろいろな起源がり、その起源に関する説もいろいろあり、また研究中のテーマとなっています。
一つは、海嶺の活動していたマグマが、そのまま付加体の中に噴出したものがあります。室戸岬や潮岬の玄武岩類がこれに相当します。
海嶺から離れた活動ですが、海洋でのマグマの活動(オフ・リッジ火山活動と呼ばれています)によってできたものがあります。それは、紀伊半島の高草山など見つかっている玄武岩です。
沈み込む海洋地殻が融けて(スラブ・メルティングと呼ばれています)できたマグマがあります。このような仕組みでできた岩石は、紀伊半島から四国東部の瀬戸内地方にある火山岩(瀬戸内火山岩と呼ばれています)です。ただしこれには異説があり、沈み込む海洋プレートの上に溜まっている堆積物が融けてできる可能性も指摘されています。
また、四国海盆の海嶺できたいマグマが、付加体を融かしてできた大量の花崗岩マグマもあります。熊野地域に広がる大量の花崗岩質マグマによる火成岩類が、その典型だと考えられています。
では、足摺岬の火成岩は、どのようにしてできたのでしょうか。本当のところは、まだ定説がありません。とにかく足摺岬の岩石は変わっています。
足摺岬には、アルカリ花崗岩、閃長岩などカリ長石に富む花崗岩類があります。この花崗岩の中に、日本では非常に珍しいものがあるのです。
アルカリ長石(淡いピン色に見える鉱物)が斜長石(白い鉱物)によって取り囲まれているものです。長石が丸み(ピタライトと呼ばれます)を持っています。このような花崗岩は、珍しいもので、ラパキビ花崗岩と呼ばれています。石材として日本ではよく見かけますが、13~17億年前に形成された大陸地域の岩石にラパキビ花崗岩があります。ラパキビ花崗岩は、日本では足摺岬にしかありません。本家のラパキビ花崗岩の起源も、よくわかっていません。
足摺岬の道は、風化した花崗岩がつくるのっぺりとした地形の道でした。岬へ向かう道は尾根にあるのに、どことなく山奥の尾根道のように感じました。これは、花崗岩は、日本では列島の古い岩石のある脊梁山脈地帯によくみられる岩石だからでしょうか。花崗岩が風化すると、のっぺりとして、ところどこの丸みのある花崗岩が残されたような地形となります。足摺岬では、唐人駄馬巨石群と呼ばれるところがあります。そこは、風化で残された花崗岩がつくる景観です。そんな地形が岬に向かう尾根で見れるのです。
そんなことをつらつらと考えながら、観光はせずに急いで帰途に着きました。
・ラパキビ花崗岩・
ラパキビ花崗岩は、スカンジナビア半島、ロシア、北アメリカなどの
大陸地域に広く分布する岩石です。
赤っぽい石材として日本各地で見ることができます。
ラパキビ花崗岩は、13~17億年前という非常に古い時代に形成されたものです。
足摺岬花崗岩類のように1400万年前ほどの若いものは非常に珍しいものです。
足摺岬の岩石だけでなく、
西日本の火山フロントより海側の火成岩類は
まとめてその成因が解明されつつあります。
ですから、本家のラパキビ花崗岩の起源も
日本で明らかにされるかもしれません。
ちなみにラパキビとは、フィンランド語です。
ラパは「もろくて崩れやすい」、キビは「石」という意味です。
地質学のラパキビ花崗岩の特徴より、
花崗岩そのものの性質をあわしている言葉です。
・ジレンマ・
足摺岬は、室戸岬と共に、台風情報を聞くときによく耳にする地名です。
観光地でもあるのですが、観光目的でない人間にとっては、
なかなか足を伸ばしにくいところです。
遠方からの訪問者にとっては、ついつい急ぎ足にみてしまうものです。
私は急ぎ足の旅行は苦手です。
年のせいか、疲れやすくなったもの理由の一つです。
興味あるところとだと、もう一度行きたくなります。
ですから、2度手間となることがよくあるからです。
できるだけじっくりとと思っているのですが、
なかなかそうもできなくなりました。
金銭的問題より、時間的問題です。
若いときは、体力も時間もあったのですが、お金がなくて、困っていました。
今では体力と時間がありません。
ですから、体力のいるところは、できるだけ早めに見ておきたいものです。
でも、それをする時間がままならないのです。
ジレンマですね。
四国は、長方形のそれぞれの角が、南北にでっぱったような形をしています。南西側のでっぱりが、足摺岬になり、南東側が室戸岬です。私は、足摺岬には2度行ったことがあります。しかし、残念ながら室戸岬にはいったことがありません。一度目の足摺岬は30年近く前の春であまり記憶にありません。2度目は1年前の9月でした。いずれも急ぎ足での見学となりました。
足摺岬を訪れたのは、観光ではありません。地質学的に面白い石が見られるからです。
足摺岬と室戸岬にある石は、花崗岩や斑れい岩と呼ばれるものです。花崗岩や斑れい岩は、マグマが地下深部でゆっくりと冷え固まったものです。花崗岩と斑れい岩の違いは、マグマの性質の違いにより、花崗岩は白っぽい岩石で斑れい岩は黒っぽい岩石です。室戸岬は斑れい岩を主としています。足摺岬は花崗岩と斑れい岩が混在してあります。
花崗岩や斑れい岩は、特別な岩石ではなく、どこにでもある、ありふれた岩石です。しかし、ある場所が問題なのです。足摺岬や室戸岬では、南過ぎるのです。その理由を説明しましょう。
現在の日本列島でマグマが活動しているのは、火山フロント(前線)と呼ばれるところです。東日本では、北海道千島列島から知床半島、大雪から、道南の渡島半島、下北半島、奥羽山地、関東山地、富士山、伊豆半島、伊豆諸島から小笠原諸島へと続く東日本火山列があります。一方西日本では、大山などの中国地方の日本海側の火山から、九州の九重、阿蘇、霧島、桜島からトカラ列島に続く西日本火山帯があります。
この火山帯では、マグマの活動が盛んです。火山だけでなく、地下にはマグマがゆっくりと冷え固まった深成岩も形成されているはずです。このような深成岩が見えるようになるためには、長い時間かかって風化侵食を受けてた地下深部の岩石が見えるようにならなければなりません。
これらの火山列は、東日本では、太平洋プレートの沈み込みによって形成されています。西日本では、フィリピン海プレートの沈み込みによるものです。
沈み込みによるマグマの形成とは、沈み込んだ海洋プレートからしぼりだされた水分が、列島の下のマントルに供給されてできます。水分がしぼりだされる深さが、プレートの沈み込む状態で決まっています。それに対応して火山のできる位置も海溝(西日本ではトラフと呼ばれます)からある一定の距離が離れたところに決まってきます。ですから、火山フロントより海側では、マグマの活動が起こることはありません。
ところが、足摺岬にはマグマの活動でできた花崗岩があります。不思議です。
もちろん、この花崗岩は最近活動したマグマによるものではなく、1400万年前ころ(新生代中新世中期)に活動したものです。そのころ、足摺岬のあたりに火山フロントがあったのでしょうか。どうもそうではなさそうです。
日本は、もともと大陸のふちにあり、常に海洋プレートの沈み込みに伴う堆積物(付加体と呼ばれています)が集積をしているところでした。ところが、中新世には、大陸の縁から日本海が開き始めて、列島となっていく時期にあたっています。付加体の位置ではあるのですが、日本海の拡大に伴って、日本列島が海側に押し出される時期になります。
さらに、この中新世には、フィリピン海プレートの一部である四国海盆が沈みこんでいく時期に当たっています。四国海盆は海嶺をもっているできたての小さい海洋地殻(縁海と呼ばれています)であったと考えられています。この四国海盆は中新世(前期から中期にかけて)に海底が拡大してすぐに、西日本に沈み込んでいきました。
西日本を広く見ると、1400万年前頃に起こったマグマ活動の痕跡が、フロントより海側のいたるところにみられます。紀伊半島の潮岬、熊野地域、四国の室戸岬に足摺岬、沖ノ島、少し海から離れますが高月山、九州でも大崩山、屋久島などに、火山岩や深成岩がまとまって分布しています。
中新世の頃の西日本が普通の列島と違う点は、沈み込む海洋プレートができたての若くて暖かいものだったことです。このような地質学的特異な状況では、どのようなマグマのでき方をし、どのようなマグマの性質になるでしょうか。
マグマの性質には、いろいろなものがあることがわかっています。そのようないろいろなマグマを作るには、いろいろ材料物質やいろいろな融けるメカニズムが必要になります。それにはいろいろな起源がり、その起源に関する説もいろいろあり、また研究中のテーマとなっています。
一つは、海嶺の活動していたマグマが、そのまま付加体の中に噴出したものがあります。室戸岬や潮岬の玄武岩類がこれに相当します。
海嶺から離れた活動ですが、海洋でのマグマの活動(オフ・リッジ火山活動と呼ばれています)によってできたものがあります。それは、紀伊半島の高草山など見つかっている玄武岩です。
沈み込む海洋地殻が融けて(スラブ・メルティングと呼ばれています)できたマグマがあります。このような仕組みでできた岩石は、紀伊半島から四国東部の瀬戸内地方にある火山岩(瀬戸内火山岩と呼ばれています)です。ただしこれには異説があり、沈み込む海洋プレートの上に溜まっている堆積物が融けてできる可能性も指摘されています。
また、四国海盆の海嶺できたいマグマが、付加体を融かしてできた大量の花崗岩マグマもあります。熊野地域に広がる大量の花崗岩質マグマによる火成岩類が、その典型だと考えられています。
では、足摺岬の火成岩は、どのようにしてできたのでしょうか。本当のところは、まだ定説がありません。とにかく足摺岬の岩石は変わっています。
足摺岬には、アルカリ花崗岩、閃長岩などカリ長石に富む花崗岩類があります。この花崗岩の中に、日本では非常に珍しいものがあるのです。
アルカリ長石(淡いピン色に見える鉱物)が斜長石(白い鉱物)によって取り囲まれているものです。長石が丸み(ピタライトと呼ばれます)を持っています。このような花崗岩は、珍しいもので、ラパキビ花崗岩と呼ばれています。石材として日本ではよく見かけますが、13~17億年前に形成された大陸地域の岩石にラパキビ花崗岩があります。ラパキビ花崗岩は、日本では足摺岬にしかありません。本家のラパキビ花崗岩の起源も、よくわかっていません。
足摺岬の道は、風化した花崗岩がつくるのっぺりとした地形の道でした。岬へ向かう道は尾根にあるのに、どことなく山奥の尾根道のように感じました。これは、花崗岩は、日本では列島の古い岩石のある脊梁山脈地帯によくみられる岩石だからでしょうか。花崗岩が風化すると、のっぺりとして、ところどこの丸みのある花崗岩が残されたような地形となります。足摺岬では、唐人駄馬巨石群と呼ばれるところがあります。そこは、風化で残された花崗岩がつくる景観です。そんな地形が岬に向かう尾根で見れるのです。
そんなことをつらつらと考えながら、観光はせずに急いで帰途に着きました。
・ラパキビ花崗岩・
ラパキビ花崗岩は、スカンジナビア半島、ロシア、北アメリカなどの
大陸地域に広く分布する岩石です。
赤っぽい石材として日本各地で見ることができます。
ラパキビ花崗岩は、13~17億年前という非常に古い時代に形成されたものです。
足摺岬花崗岩類のように1400万年前ほどの若いものは非常に珍しいものです。
足摺岬の岩石だけでなく、
西日本の火山フロントより海側の火成岩類は
まとめてその成因が解明されつつあります。
ですから、本家のラパキビ花崗岩の起源も
日本で明らかにされるかもしれません。
ちなみにラパキビとは、フィンランド語です。
ラパは「もろくて崩れやすい」、キビは「石」という意味です。
地質学のラパキビ花崗岩の特徴より、
花崗岩そのものの性質をあわしている言葉です。
・ジレンマ・
足摺岬は、室戸岬と共に、台風情報を聞くときによく耳にする地名です。
観光地でもあるのですが、観光目的でない人間にとっては、
なかなか足を伸ばしにくいところです。
遠方からの訪問者にとっては、ついつい急ぎ足にみてしまうものです。
私は急ぎ足の旅行は苦手です。
年のせいか、疲れやすくなったもの理由の一つです。
興味あるところとだと、もう一度行きたくなります。
ですから、2度手間となることがよくあるからです。
できるだけじっくりとと思っているのですが、
なかなかそうもできなくなりました。
金銭的問題より、時間的問題です。
若いときは、体力も時間もあったのですが、お金がなくて、困っていました。
今では体力と時間がありません。
ですから、体力のいるところは、できるだけ早めに見ておきたいものです。
でも、それをする時間がままならないのです。
ジレンマですね。
2006-08-15
20 アポイ岳:マントル散策 2006.08.15
Time:
9:16
●
Geologist
日高山脈の南西のはずれに、アポイ岳はあります。1000mに満たない山なのですが、植生や眺望からは高山です。そんなアポイ岳から眺めた景観を紹介しましょう。
アポイ岳は、北海道の脊梁である日高山脈の南に位置して、脊梁から少し西に外れたところあります。2006年8月3日にアポイ岳に登りました。でも、頂上へは行きませんでした。一番眺めのいい馬の背という7合目まで登りました。
アポイ岳へは、30年前に登ったきりで、今回が2回目となります。周辺の沢筋にも、何度も来ているのですが、アポイ岳へは登っていませんでした。今回は、このアポイ岳への道で少々変わった地質と、その地質を象徴する自然を見ることが目的でした。
山頂は眺めが良くなく、馬の背から頂上へと続く尾根が景色がよく見えます。ですから馬の背付近で、じっくりと景色を見ることができればと思っていました。アポイ岳周辺は、国の特別天然記念物の指定を受けているので、登山道からはずれることはできません。登山道からの観察でした。
当日、頂上には常にガスがかかった状態で、最後まで頂上をくっきりと見ることができませんでした。しかし、頂上以外は、ガスもかかることなく、景色も少々かすみはありましたが、遠くまで眺めることができました。午前中はうす曇の状態で、暑くなく登ることできました。昼過ぎの下山途中に太陽が出てきましたが、そのとたんに暑くなり、これも低山の証拠です。私は、涼しい状態で登れたのは幸運でした。
さて、前置きはこれくらいにして、アポイ岳の地質を紹介しましょう。
日高山脈は、南は太平洋に突き出した襟裳岬からはじまり、北の狩勝峠まで、幅50kmで、南北に150kmほどの長さで伸びています。アポイ岳周辺は日高山脈襟裳国定公園に入っています。北部には2052mの幌尻岳やピパイロ岳(1917m)、戸蔦別岳(1959m)など2000m級の山があり、その周囲にはカールなどの氷河地形があります。
日高山脈の地形は、全体として概観すると、東側で急傾斜で、西に緩い傾斜となっています。
日高山脈の東側は断層による急な崖になっています。十勝側からみると、日高山脈は、平野に立ち上がって連なる急峻な山並みとして見えます。カールなどの氷河地形は主稜線の東側にはあります。日高山脈の東では、急峻な地形の山地を削りながら流れた川は、平野にでると大きな扇状地を形成します。それが十勝平野で、集まった川が十勝川です。
一方西側では、河川は広い平野を持つことなく、海に流れ込んでいます。そして、山並みを眺めると、何段かの階段状の断層による山並みを形成しながら海に達します。東側と比べると西側は比較的傾斜が緩やかになっています。
さて日高山脈の稜線を北から南に追いかけていくと、南端部分で稜線が乱れます。様似の幌満川あたりで西に広がったような地形になります。これは、幌満川周辺の地質が変わっているためです。アポイ岳の南側には幌満川があり、アポイ岳も幌満川流域の地質と同じです。
アポイ岳周辺はカンラン岩という岩石からできています。カンラン岩とは、地球ではありふれた岩石ですが、地表では稀な岩石です。地球深部のマントルという非常に広大な部分を、このカンラン岩が占めています。ですから地球規模でみると、カンラン岩はありふれた岩石となります。ところが、地表付近の地殻は、マントルとは違う岩石からできています。地殻をつくる岩石は、花崗岩や玄武岩、堆積岩、そしてそれらの変成岩など多様な岩石からできています。その中にはカンラン岩はほとんど含まれていません。ですから、稀な岩石となります。
稀であってもカンラン岩が地表に出ているところは、アポイ岳周辺でなくてもあります。もちろん日本にもあります。しかし、地表に出ているカンラン岩のほとんどは、蛇紋岩という岩石に変わってしまっています。マントルにあったときのままのカンラン岩が、地表付近で見ることができるのは、非常に珍しいものとなります。アポイ岳周辺では、カンラン岩が蛇紋岩にほとんどなることなく、マントルのあったときのまま、広く分布しています。ですから、世界的にも非常に有名なカンラン岩の産地となっています。アポイ岳周辺のカンラン岩は、「幌満カンラン岩体」と呼ばれて、世界的に有名なものとなっています。
カンラン岩は、カンラン石という鉱物が主要構成鉱物となっています。カンラン岩には、ほとんどカンラン石からできている岩石もあります。カンラン石はオリーブ色の淡い透明感のあるきれいな鉱物です。カンラン岩には、その他にも、単斜輝石や斜方輝石、スピネルなどの鉱物が、さまざまな割合で含まれています。マントルを構成する鉱物はいずれも密度が大きく、カンラン岩は重みを感じる岩石となります。
カンラン石は、風化すると黄色から茶色っぽい色になります。カンラン石以外の鉱物は比較的風化に強く、山の崖でカンラン岩が風化を受けると、岩石の中で鉱物のつくる模様が、そのまま風化の模様として現れます。幌満のカンラン岩では、鉱物が縞状なった層構造をもっています。このような縞状構造は、マントルの岩石の構造が、そのまま残されていることになります。
アポイ岳の登山道沿いでもカンラン岩の層構造をみることができます。マントルの構造が風化面としてよく観察することができます。これは、マントルの中の構造を見ていることになります。アポイ岳は、地表にいながらにして、マントルの中を散策しながら観察できる貴重な場所なのです。
ではなぜ、このような地下深部の岩石が地表に上がってきたのでしょうか。
現在の日高山脈の西側には、もともと広い海があったと考えれています。海の両側には陸地があり、東側には大量の堆積物を供給した陸地があり、オホーツク古陸と呼ばれています。一方、西側の古陸から供給された堆積物があることもわかっています。両古陸の間にあった海は、海洋地殻を持ったれっきとした海でした。
ところがその海は、沈み込みによってすべて消えてしまいました。その沈み込み帯が、日高山脈と平行に南北に伸びる神居古潭帯とよばれる地域です。神居古潭帯は、白亜紀頃に形成されました。一方日高山脈は、神居古潭帯の沈み込みより新しい時代(新生代)にできたもので、海洋地殻が列島の地殻にくっついて、両方ともめくれ上がって形成されたと考えられます。
中でも幌満カンラン岩体は、列島の地下にあったマントルがめくれ上がったものであると考えられています。この幌満周辺では、列島の地下の岩石が広く分布していることになります。アポイ岳周辺は、列島の地下深部の岩石がめくれ上がっているところを、地表にいながらにして見ることができるわけです。
アポイ岳に登る前日、幌満川で川原の岩石を少し見ました。きれいな構造を持った岩石がたくさんありました。上流にいけば、水もきれいです。そしてなによりも、日高山脈をつくっている列島の深部の岩石を、眺めることができるのです。川原の石ころも、風化を受けますが、川で常に風化面を削り取られていますから、風化を受けていない新鮮な状態で岩石を見ることができます。
アポイ岳ではマントルの中を歩き、幌満川では列島の地殻やマントルの標本を眺めることができました。これはもしかしたら、どんな博物館よりすごいものを見ているのではないでしょうか。そんな気がしました。
・マントル・
幌満川の下流沿いにはカンラン岩を
砕石として切り出しているところがあります。
数年前にいったときの砕石場所は、もう閉鎖され、緑化がされていました。
今では、さらに上流側が砕石がされていました。
その砕石所はカンラン岩を採掘しています。
実は、我が家の近くにある石垣がカンラン岩でできます。
50cmから1mほどもある大きな石がたくさん使われています。
これほどの風化をうけていないカンラン岩は幌満のものです。
ですから重い多数のカンラン岩を
幌満からわざわざ運んできたものでしょう。
流通等はすごいものです。
すぐ近くにマントルのかけらがあったのです。
その砕石所では、カンラン岩の加工もしており、
文鎮や花瓶などにして商品化しています。
私も文鎮をひとつ購入しました。
実は、マントルのかけらは今では、私の机にのっているのです。
・マムシ・
登山前日、ビジターセンターにいって登山道の様子を聞きました。
すると熊が出没しているという情報と、マムシの情報を聞きました。
ヒグマは北海道のどこにでもいるのですが、マムシには驚きました。
北海道では道南にしかいないと思っていたからです。
調べてみると北海道に広くいるようです。
アポイ岳周辺にもマムシがいたのです。
ビジターセンターの人が脱皮の皮を確認しているので確実です。
その場所を詳しく聞いて、注意していました。
アポイ岳は、北海道の脊梁である日高山脈の南に位置して、脊梁から少し西に外れたところあります。2006年8月3日にアポイ岳に登りました。でも、頂上へは行きませんでした。一番眺めのいい馬の背という7合目まで登りました。
アポイ岳へは、30年前に登ったきりで、今回が2回目となります。周辺の沢筋にも、何度も来ているのですが、アポイ岳へは登っていませんでした。今回は、このアポイ岳への道で少々変わった地質と、その地質を象徴する自然を見ることが目的でした。
山頂は眺めが良くなく、馬の背から頂上へと続く尾根が景色がよく見えます。ですから馬の背付近で、じっくりと景色を見ることができればと思っていました。アポイ岳周辺は、国の特別天然記念物の指定を受けているので、登山道からはずれることはできません。登山道からの観察でした。
当日、頂上には常にガスがかかった状態で、最後まで頂上をくっきりと見ることができませんでした。しかし、頂上以外は、ガスもかかることなく、景色も少々かすみはありましたが、遠くまで眺めることができました。午前中はうす曇の状態で、暑くなく登ることできました。昼過ぎの下山途中に太陽が出てきましたが、そのとたんに暑くなり、これも低山の証拠です。私は、涼しい状態で登れたのは幸運でした。
さて、前置きはこれくらいにして、アポイ岳の地質を紹介しましょう。
日高山脈は、南は太平洋に突き出した襟裳岬からはじまり、北の狩勝峠まで、幅50kmで、南北に150kmほどの長さで伸びています。アポイ岳周辺は日高山脈襟裳国定公園に入っています。北部には2052mの幌尻岳やピパイロ岳(1917m)、戸蔦別岳(1959m)など2000m級の山があり、その周囲にはカールなどの氷河地形があります。
日高山脈の地形は、全体として概観すると、東側で急傾斜で、西に緩い傾斜となっています。
日高山脈の東側は断層による急な崖になっています。十勝側からみると、日高山脈は、平野に立ち上がって連なる急峻な山並みとして見えます。カールなどの氷河地形は主稜線の東側にはあります。日高山脈の東では、急峻な地形の山地を削りながら流れた川は、平野にでると大きな扇状地を形成します。それが十勝平野で、集まった川が十勝川です。
一方西側では、河川は広い平野を持つことなく、海に流れ込んでいます。そして、山並みを眺めると、何段かの階段状の断層による山並みを形成しながら海に達します。東側と比べると西側は比較的傾斜が緩やかになっています。
さて日高山脈の稜線を北から南に追いかけていくと、南端部分で稜線が乱れます。様似の幌満川あたりで西に広がったような地形になります。これは、幌満川周辺の地質が変わっているためです。アポイ岳の南側には幌満川があり、アポイ岳も幌満川流域の地質と同じです。
アポイ岳周辺はカンラン岩という岩石からできています。カンラン岩とは、地球ではありふれた岩石ですが、地表では稀な岩石です。地球深部のマントルという非常に広大な部分を、このカンラン岩が占めています。ですから地球規模でみると、カンラン岩はありふれた岩石となります。ところが、地表付近の地殻は、マントルとは違う岩石からできています。地殻をつくる岩石は、花崗岩や玄武岩、堆積岩、そしてそれらの変成岩など多様な岩石からできています。その中にはカンラン岩はほとんど含まれていません。ですから、稀な岩石となります。
稀であってもカンラン岩が地表に出ているところは、アポイ岳周辺でなくてもあります。もちろん日本にもあります。しかし、地表に出ているカンラン岩のほとんどは、蛇紋岩という岩石に変わってしまっています。マントルにあったときのままのカンラン岩が、地表付近で見ることができるのは、非常に珍しいものとなります。アポイ岳周辺では、カンラン岩が蛇紋岩にほとんどなることなく、マントルのあったときのまま、広く分布しています。ですから、世界的にも非常に有名なカンラン岩の産地となっています。アポイ岳周辺のカンラン岩は、「幌満カンラン岩体」と呼ばれて、世界的に有名なものとなっています。
カンラン岩は、カンラン石という鉱物が主要構成鉱物となっています。カンラン岩には、ほとんどカンラン石からできている岩石もあります。カンラン石はオリーブ色の淡い透明感のあるきれいな鉱物です。カンラン岩には、その他にも、単斜輝石や斜方輝石、スピネルなどの鉱物が、さまざまな割合で含まれています。マントルを構成する鉱物はいずれも密度が大きく、カンラン岩は重みを感じる岩石となります。
カンラン石は、風化すると黄色から茶色っぽい色になります。カンラン石以外の鉱物は比較的風化に強く、山の崖でカンラン岩が風化を受けると、岩石の中で鉱物のつくる模様が、そのまま風化の模様として現れます。幌満のカンラン岩では、鉱物が縞状なった層構造をもっています。このような縞状構造は、マントルの岩石の構造が、そのまま残されていることになります。
アポイ岳の登山道沿いでもカンラン岩の層構造をみることができます。マントルの構造が風化面としてよく観察することができます。これは、マントルの中の構造を見ていることになります。アポイ岳は、地表にいながらにして、マントルの中を散策しながら観察できる貴重な場所なのです。
ではなぜ、このような地下深部の岩石が地表に上がってきたのでしょうか。
現在の日高山脈の西側には、もともと広い海があったと考えれています。海の両側には陸地があり、東側には大量の堆積物を供給した陸地があり、オホーツク古陸と呼ばれています。一方、西側の古陸から供給された堆積物があることもわかっています。両古陸の間にあった海は、海洋地殻を持ったれっきとした海でした。
ところがその海は、沈み込みによってすべて消えてしまいました。その沈み込み帯が、日高山脈と平行に南北に伸びる神居古潭帯とよばれる地域です。神居古潭帯は、白亜紀頃に形成されました。一方日高山脈は、神居古潭帯の沈み込みより新しい時代(新生代)にできたもので、海洋地殻が列島の地殻にくっついて、両方ともめくれ上がって形成されたと考えられます。
中でも幌満カンラン岩体は、列島の地下にあったマントルがめくれ上がったものであると考えられています。この幌満周辺では、列島の地下の岩石が広く分布していることになります。アポイ岳周辺は、列島の地下深部の岩石がめくれ上がっているところを、地表にいながらにして見ることができるわけです。
アポイ岳に登る前日、幌満川で川原の岩石を少し見ました。きれいな構造を持った岩石がたくさんありました。上流にいけば、水もきれいです。そしてなによりも、日高山脈をつくっている列島の深部の岩石を、眺めることができるのです。川原の石ころも、風化を受けますが、川で常に風化面を削り取られていますから、風化を受けていない新鮮な状態で岩石を見ることができます。
アポイ岳ではマントルの中を歩き、幌満川では列島の地殻やマントルの標本を眺めることができました。これはもしかしたら、どんな博物館よりすごいものを見ているのではないでしょうか。そんな気がしました。
・マントル・
幌満川の下流沿いにはカンラン岩を
砕石として切り出しているところがあります。
数年前にいったときの砕石場所は、もう閉鎖され、緑化がされていました。
今では、さらに上流側が砕石がされていました。
その砕石所はカンラン岩を採掘しています。
実は、我が家の近くにある石垣がカンラン岩でできます。
50cmから1mほどもある大きな石がたくさん使われています。
これほどの風化をうけていないカンラン岩は幌満のものです。
ですから重い多数のカンラン岩を
幌満からわざわざ運んできたものでしょう。
流通等はすごいものです。
すぐ近くにマントルのかけらがあったのです。
その砕石所では、カンラン岩の加工もしており、
文鎮や花瓶などにして商品化しています。
私も文鎮をひとつ購入しました。
実は、マントルのかけらは今では、私の机にのっているのです。
・マムシ・
登山前日、ビジターセンターにいって登山道の様子を聞きました。
すると熊が出没しているという情報と、マムシの情報を聞きました。
ヒグマは北海道のどこにでもいるのですが、マムシには驚きました。
北海道では道南にしかいないと思っていたからです。
調べてみると北海道に広くいるようです。
アポイ岳周辺にもマムシがいたのです。
ビジターセンターの人が脱皮の皮を確認しているので確実です。
その場所を詳しく聞いて、注意していました。
2006-07-15
19 桜島:益と害 2006.07.15
Time:
9:16
●
Geologist
火山は、日本人にとっては欠くことのできない存在で、長く付き合ってきました。火山は日本の風土として重要な要素ともなっています。そんな火山との付き合いを、桜島から考えてみました。
鹿児島県の錦江湾(鹿児島湾ともいいます)にある桜島は、典型的な日本の活火山のひとつです。現在も噴気を上げていて、何度も噴火を繰り返しています。時には、激しい噴火も起こっています。私は、桜島の噴気を4回ほど見ました。桜島からは2度、鹿児島市内から錦江湾ごしに2度、眺めています。そんな都会から間近に眺める桜島は、火山と人の生活の関係を考えさせられます。
桜島という名前をもっているのに、島でなく大隈半島側の垂水市で陸続きとなっています。ですから、「島」という名称がついていることに、奇異な感じを持ちます。もともと桜島は名前の通り、錦江湾に浮かぶ島だったのです。ところが1914(大正3)年の噴火によって、流れ出た溶岩によって間にあった海峡が埋められたため、陸続きとなりました。
桜島は、単独の火山のように見えますが、姶良(あいら)カルデラ(南北17km、東西23km)の南端にできた成層火山です。カルデラは錦江湾の北半分の丸みをもった部分です。そのカルデラは巨大な火山の活動によってできたものです。その一連の火山活動の一部として、桜島の火山があります。カルデラの北側に鹿児島の市街地があるのです。
桜島は、直径10kmほどで東西に延びた楕円形(南北12.2km、東西9.5km)をしています。最高峰は北岳(1117m)、次いで中岳(1060m)があります。いずれも火山活動によってできた山です。その他にも権現山、鍋山、引ノ平などの側火山があり、山腹や海底での火山活動も起こっています。
現在、噴煙を出しているのは南岳(1040m)で、北岳の山腹にあります。桜島の火山活動は、3つの時期があります。北岳が2万2000年前から2000年ほど活動して最初の成層火山(古期北岳)となりました。その後しばらく活動はなく、1万1000年前から4500年前までの長い期間にわたって、北岳で活動(新期北岳)が起こりました。そして4000年前ころから南岳の活動がおこり、現在に至っています。桜島の活動によって多くの火山灰が東側の大隈半島につもっています。
南岳の活動時期となってから、噴火の記録が人の手によって残されていくようになります。最古の記録は708(和銅元)年ですが、764(天平宝字8)年、1471(文明3)年、1779(安永8)年、1914(大正3)年、1946(昭和21)年に大規模な噴火が起こっています。現在の火山活動は、1955(昭和30)年10月からはじまった噴火が現在も継続しています。1999年や2000年などに噴火を起こし、噴出物や爆発時の空振、土石流などにより被害を出しています。現在でも、南岳山頂火口から2km以内は立ち入り禁止となっています。
桜島は、60万人を越す人口が密集する鹿児島市の南、ほんの10kmほどのところにある非常に活発な活火山です。風向きによっては、火山灰が市内に降ることもあります。2004年には、11回の噴火により、市役所での1平方メートル当たり124gの降灰がありました。
そんな市街地に近接しているため、桜島は、常時厳重な監視体制がとられています。多数の地震計(5地点)や震度計(1地点)、空振系(4地点)、GPS(3地点)傾斜計(1地点)、望遠カメラ(2地点)による観測がなされています。
私が見たときも桜島は噴気を出していました。噴気の規模は時々によって様々ですが、火山活動を目の当たりにすることができます。その噴気を眺めていると、時々刻々変化していることがわかります。そんな火山噴火をみていると、日本人と火山との共存についつい思い至ります。
南九州、とくに鹿児島はシラスと呼ばれる白っぽい火山灰や細粒の軽石などで覆われています。その火山灰は、姶良カルデラの大噴火によるとされています。火山灰の起源は、桜島より前の2万5000年前に発生した姶良カルデラの入戸火砕流によるものだと考えられています。その量は約200立方kmに達し、日本全国にも飛んでいます。このような火山灰は広域テフラと呼ばれ(姶良Tn)、約150立方kmと見積もられています。鹿児島周辺ではシラスの厚さは数十mにも達しています。
シラスは軽くてもろく、水に流れやいため、侵食をうけ、シラス台地という特有の地形をつくっています。シラス台地では、水が浸透しやすく、栄養分も乏しく、稲作にはてきしていません。しかし、シラスのようなところでもよく育つサツマイモや桜島大根などが主要な農産物となっり、全国にその名を知られる名産品となりました。
人間は、智恵を使って、火山と共存してきたことが、鹿児島をみていると感じます。害と思われるようなことでも、智恵で益となしたのです。
日本列島とは、古い大地の上に、火山活動が起こるような地質学的位置に常におかれていました。日本列島は火山活動によって常に変化を受けているところといえます。人類が登場してからも、火山活動は続いています。日本人は古くから火山とは付き合ってきたのです。そして日本に住む限り、未来も火山と付き合っていかねばなりません。
今も昔も、火山は自然災害として、恐怖の存在です。でも、火山は人にとって悪いことばかりではなく、風光明媚な景観や温泉など、現在では重要な観光資源も与えてくれます。また特有の土壌を生かした農業製品をも生み出し、名産品としています。ですから火山は、人にとって益と害の両面を持っているのです。
活火山とはいえ、被害を与えるような噴火はめったにあることではなく、静穏な状態が長く続きます。激しい火山活動の時間と平穏な時期とを比べると、明らかに平穏が時間の方が長くなります。ですから、観光資源として考えると、一時的な訪問をする人にとっては、火山とは危険性はほとんどなく、恵みだけを与えてくる存在といえます。
ところが住んでいる人には、数10年に一度の噴火でも、脅威の存在となります。もし、噴火による火山放出物や降灰によって、家財や田畑を奪われるかもしれません。時には命の危険すらあるわけです。
ですから、噴火に備えて防災というものを常に意識することになります。かつて科学が発達していないときは、いつ起こるとも知れない火山噴火に対処しようがありませんでした。あきらめるしかない自然災害となったのです。火山災害とは、自然災害の中でもっとも諦観がともなうものかもしれもしれません。
現在では、噴火予知の水準はよくなりました。また予知が不完全でも、防災対策は以前と比べものにならないほどよくなりました。近年では、予知と防災によって、命や財産のすべてを失うようなことは、あまりなくなりました。最悪の事態は免れるようになったのです。
観光資源として火山を考えると、同じ火山列島に住む日本人は、火山の恐ろしさを熟知しています。ですから、いったん噴火が起こったり、噴火の危険性があるときは、観光客が寄り付かなくなります。しかし、日本人は温泉好きです。火山活動が治まると、火山の恵みである温泉を味わいに戻ってきます。火山の恐ろしさを知っているからこそ、平穏な時期の恵みを味わおうとしているのかもしれません。
・監視カメラ・
気象庁では、活火山を観測網の一つとして、監視カメラを設置しています。
その画像は、インターネットで公開されています。
桜島の画像も公開されています。
URLは次のところです。
http://www.seisvol.kishou.go.jp/vo/32.php?kansokuten=SKRTARvvi&mode=0&cmd=write(改行で切れているところをつないで入力してください)
この画像は、気象庁ではなく、
国土交通省九州地方整備局大隅河川国道事務所による監視カメラ画像です。
このような情報公開によって、
火山活動を自宅から、眺めることができるわけです。
もちろん、インターネットですから、
日本だけでなく世界上からこの画像を見ることは可能です。
世界の火山のライブ映像も見ることができます。
なにも火山だけでなく、
日本も含め、名所や都会にはインターネットで公開されている
ライブ映像が多数あります。
ですから、ライブ映像だけで世界の名所旧跡を巡ることも可能なのです。
そんな時代になったのですね。
でも、温泉は行かなくては味わいません。
これだけは、今も昔も変わらないことでしょう。
・シラス・
シラスとは、南九州の方言で白い砂を意味しています。
姶良カルデラの火山活動は、二酸化ケイ素分が多く(酸性マグマとよばれる)、白っぽく見えるます。
これが、シラスの白い理由です。
シラスのような火山灰は、日本中に似たようなものがありますが、
鹿児島のような大規模なものは少ないです。
それほど鹿児島は、火山と密着していることになります。
シラスでつくられたサツマイモを食べさせて豚は
特有の風味を持つ黒豚として全国的に有名になりました。
実は鹿児島は、肉牛の生産も日本一だそうです。
鹿児島県の錦江湾(鹿児島湾ともいいます)にある桜島は、典型的な日本の活火山のひとつです。現在も噴気を上げていて、何度も噴火を繰り返しています。時には、激しい噴火も起こっています。私は、桜島の噴気を4回ほど見ました。桜島からは2度、鹿児島市内から錦江湾ごしに2度、眺めています。そんな都会から間近に眺める桜島は、火山と人の生活の関係を考えさせられます。
桜島という名前をもっているのに、島でなく大隈半島側の垂水市で陸続きとなっています。ですから、「島」という名称がついていることに、奇異な感じを持ちます。もともと桜島は名前の通り、錦江湾に浮かぶ島だったのです。ところが1914(大正3)年の噴火によって、流れ出た溶岩によって間にあった海峡が埋められたため、陸続きとなりました。
桜島は、単独の火山のように見えますが、姶良(あいら)カルデラ(南北17km、東西23km)の南端にできた成層火山です。カルデラは錦江湾の北半分の丸みをもった部分です。そのカルデラは巨大な火山の活動によってできたものです。その一連の火山活動の一部として、桜島の火山があります。カルデラの北側に鹿児島の市街地があるのです。
桜島は、直径10kmほどで東西に延びた楕円形(南北12.2km、東西9.5km)をしています。最高峰は北岳(1117m)、次いで中岳(1060m)があります。いずれも火山活動によってできた山です。その他にも権現山、鍋山、引ノ平などの側火山があり、山腹や海底での火山活動も起こっています。
現在、噴煙を出しているのは南岳(1040m)で、北岳の山腹にあります。桜島の火山活動は、3つの時期があります。北岳が2万2000年前から2000年ほど活動して最初の成層火山(古期北岳)となりました。その後しばらく活動はなく、1万1000年前から4500年前までの長い期間にわたって、北岳で活動(新期北岳)が起こりました。そして4000年前ころから南岳の活動がおこり、現在に至っています。桜島の活動によって多くの火山灰が東側の大隈半島につもっています。
南岳の活動時期となってから、噴火の記録が人の手によって残されていくようになります。最古の記録は708(和銅元)年ですが、764(天平宝字8)年、1471(文明3)年、1779(安永8)年、1914(大正3)年、1946(昭和21)年に大規模な噴火が起こっています。現在の火山活動は、1955(昭和30)年10月からはじまった噴火が現在も継続しています。1999年や2000年などに噴火を起こし、噴出物や爆発時の空振、土石流などにより被害を出しています。現在でも、南岳山頂火口から2km以内は立ち入り禁止となっています。
桜島は、60万人を越す人口が密集する鹿児島市の南、ほんの10kmほどのところにある非常に活発な活火山です。風向きによっては、火山灰が市内に降ることもあります。2004年には、11回の噴火により、市役所での1平方メートル当たり124gの降灰がありました。
そんな市街地に近接しているため、桜島は、常時厳重な監視体制がとられています。多数の地震計(5地点)や震度計(1地点)、空振系(4地点)、GPS(3地点)傾斜計(1地点)、望遠カメラ(2地点)による観測がなされています。
私が見たときも桜島は噴気を出していました。噴気の規模は時々によって様々ですが、火山活動を目の当たりにすることができます。その噴気を眺めていると、時々刻々変化していることがわかります。そんな火山噴火をみていると、日本人と火山との共存についつい思い至ります。
南九州、とくに鹿児島はシラスと呼ばれる白っぽい火山灰や細粒の軽石などで覆われています。その火山灰は、姶良カルデラの大噴火によるとされています。火山灰の起源は、桜島より前の2万5000年前に発生した姶良カルデラの入戸火砕流によるものだと考えられています。その量は約200立方kmに達し、日本全国にも飛んでいます。このような火山灰は広域テフラと呼ばれ(姶良Tn)、約150立方kmと見積もられています。鹿児島周辺ではシラスの厚さは数十mにも達しています。
シラスは軽くてもろく、水に流れやいため、侵食をうけ、シラス台地という特有の地形をつくっています。シラス台地では、水が浸透しやすく、栄養分も乏しく、稲作にはてきしていません。しかし、シラスのようなところでもよく育つサツマイモや桜島大根などが主要な農産物となっり、全国にその名を知られる名産品となりました。
人間は、智恵を使って、火山と共存してきたことが、鹿児島をみていると感じます。害と思われるようなことでも、智恵で益となしたのです。
日本列島とは、古い大地の上に、火山活動が起こるような地質学的位置に常におかれていました。日本列島は火山活動によって常に変化を受けているところといえます。人類が登場してからも、火山活動は続いています。日本人は古くから火山とは付き合ってきたのです。そして日本に住む限り、未来も火山と付き合っていかねばなりません。
今も昔も、火山は自然災害として、恐怖の存在です。でも、火山は人にとって悪いことばかりではなく、風光明媚な景観や温泉など、現在では重要な観光資源も与えてくれます。また特有の土壌を生かした農業製品をも生み出し、名産品としています。ですから火山は、人にとって益と害の両面を持っているのです。
活火山とはいえ、被害を与えるような噴火はめったにあることではなく、静穏な状態が長く続きます。激しい火山活動の時間と平穏な時期とを比べると、明らかに平穏が時間の方が長くなります。ですから、観光資源として考えると、一時的な訪問をする人にとっては、火山とは危険性はほとんどなく、恵みだけを与えてくる存在といえます。
ところが住んでいる人には、数10年に一度の噴火でも、脅威の存在となります。もし、噴火による火山放出物や降灰によって、家財や田畑を奪われるかもしれません。時には命の危険すらあるわけです。
ですから、噴火に備えて防災というものを常に意識することになります。かつて科学が発達していないときは、いつ起こるとも知れない火山噴火に対処しようがありませんでした。あきらめるしかない自然災害となったのです。火山災害とは、自然災害の中でもっとも諦観がともなうものかもしれもしれません。
現在では、噴火予知の水準はよくなりました。また予知が不完全でも、防災対策は以前と比べものにならないほどよくなりました。近年では、予知と防災によって、命や財産のすべてを失うようなことは、あまりなくなりました。最悪の事態は免れるようになったのです。
観光資源として火山を考えると、同じ火山列島に住む日本人は、火山の恐ろしさを熟知しています。ですから、いったん噴火が起こったり、噴火の危険性があるときは、観光客が寄り付かなくなります。しかし、日本人は温泉好きです。火山活動が治まると、火山の恵みである温泉を味わいに戻ってきます。火山の恐ろしさを知っているからこそ、平穏な時期の恵みを味わおうとしているのかもしれません。
・監視カメラ・
気象庁では、活火山を観測網の一つとして、監視カメラを設置しています。
その画像は、インターネットで公開されています。
桜島の画像も公開されています。
URLは次のところです。
http://www.seisvol.kishou.go.jp/vo/32.php?kansokuten=SKRTARvvi&mode=0&cmd=write(改行で切れているところをつないで入力してください)
この画像は、気象庁ではなく、
国土交通省九州地方整備局大隅河川国道事務所による監視カメラ画像です。
このような情報公開によって、
火山活動を自宅から、眺めることができるわけです。
もちろん、インターネットですから、
日本だけでなく世界上からこの画像を見ることは可能です。
世界の火山のライブ映像も見ることができます。
なにも火山だけでなく、
日本も含め、名所や都会にはインターネットで公開されている
ライブ映像が多数あります。
ですから、ライブ映像だけで世界の名所旧跡を巡ることも可能なのです。
そんな時代になったのですね。
でも、温泉は行かなくては味わいません。
これだけは、今も昔も変わらないことでしょう。
・シラス・
シラスとは、南九州の方言で白い砂を意味しています。
姶良カルデラの火山活動は、二酸化ケイ素分が多く(酸性マグマとよばれる)、白っぽく見えるます。
これが、シラスの白い理由です。
シラスのような火山灰は、日本中に似たようなものがありますが、
鹿児島のような大規模なものは少ないです。
それほど鹿児島は、火山と密着していることになります。
シラスでつくられたサツマイモを食べさせて豚は
特有の風味を持つ黒豚として全国的に有名になりました。
実は鹿児島は、肉牛の生産も日本一だそうです。
2006-06-15
18 野付半島:景観に流れる時間 2006.06.15
Time:
9:15
●
Geologist
北海道の道東にある野付半島と野付湾は、2005年11月8日第9回ラムサール条約締約国会議において、水鳥の生息地として国際的に重要な湿地として登録されました。そんな野付半島を見てきました。
今年のゴールデンウィークに北海道の東部(道東)を訪れました。観光では以前1度いったことがあるのですが、調査では初めてとなります。北海道でも札幌近郊に住んでいると、道東へは移動距離が長く、なかなか訪れにくいところです。しかし、北海道の海岸線の調査を完成するためには、道東は避けることができません。今回、満を持して出かけることにしました。
今年のゴールデンウィークは5日間の連休でしたので、行くまでに1日、帰るのに1日かかるので、正味3日間が調査の予定でした。野付半島は、2日目の午後に訪れました。
以前野付半島を訪れたのは、北海道に住む前のことです。風が強い秋の平日で、外を少し見たら寒くて土産物屋に逃げ込んだ記憶があります。観光客もまったくみかけられず、土産物屋では私たち家族だけがストーブにあたっていたという記憶があります。
今回は、ラムサール条約の締結後、最初のゴールデンウィークということもあって、多くの観光客が訪れていました。また、ネイチャーセンターも2002年5月にできていて、周辺の案内もされていました。
私が今回訪れた目的は、砂嘴(さし)というものを、もう一度、見て、歩いて、感じるためでした。砂嘴とは自然が砂で作り上げたものです。砂の楼閣のように、砂嘴も時の流れでたやすく変化してきます。そんな変化を考えてみたかったのです。
砂嘴の「嘴」とは難しい字ですが、「くちばし」という意味の漢字です。鳥のくちばしのような形をしていることから、砂嘴という名称がつけられています。
砂嘴は、大きなものとしては、アメリカのフロリダ半島の先端にあるキーウェストが有名ですが、日本では天橋立が有名です。いずれも行ったことがあるのですが、地域ごとにその風情は違ってきます。その風情の違いは、そこに流れている大地の営みのスピードによるもののような気がします。そして、その営みがスピードからかもし出される時間の流れが違うように感じます。その違いは、地形や植生として垣間見ることができると思っています。
日本最大の砂嘴は、今回訪れた北海道東部にある野付半島です。標津町と別海町にある野付半島は、全長約26kmもある砂の堆積によってできた地形です。
江戸時代の中頃までは、トドマツ・エゾマツ・ハンノキ・カシワなどの原生林がありました。現在の半島部は、砂浜の草原と湿地帯となっています。それは、半島の地盤沈下によって、砂嘴の中に海水が浸入し、原生林が枯れてしまったからです。
トドワラというところがあるのですが、もとはトドマツの原生林があったところで、ナラワラはミズナラ・ダケカンバ・ナナカマド・エゾイタヤなどの林があったところです。トドマツやミズナラの枯れ木林が、原生林の面影を残しています。
砂嘴は、海岸で内湾となったところに、沿岸を流れる海流が堆積物を運んできてできます。湾の先端に当たる海岸や岬に、海流の方向に沿って堆積物がたまることがあります。すると岬が砂浜として延びていきます。波の作用には浸食する作用もあります。ですから、堆積する速度が波の侵食の速度より大きければ、堆積物がたまり、砂嘴が成長してきます。これが砂嘴のでき方です。もちろん、周辺の川から海へ十分な堆積物を運んで来る必要があります。
野付半島では、内湾に当たるところが野付湾で、別名尾岱沼(おだいとう)とも呼ばれています。摩周湖から斜里岳をへて知床半島にまで連なる火山列に端を発する川が、根室海峡に多数流れ込みんでいます。これらの川が、砂嘴の砂の供給源となります。特に標津川が野付半島の北側付け根にあり、重要な供給源と考えられます。その砂は大部分が安山岩の起源ものです。
海流のオホーツク海から知床半島と国後島の間の根室海峡を通り抜けてきた海流によって、砂が運ばれて、砂嘴が発達しています。
海流のいたずらで、野付湾に向かって砂嘴が枝を出したようになっています。まるで、エビの尻尾のような形にいくつかの岬(尖岬と呼びます)ができています。9個の分岐があります。これは、内側のものが古い砂嘴で、外側に向かって新しい砂嘴ができることによって、このようま地形ができたと考えられています。
そして外海沿っている高い堤上の砂の列(砂堤列と呼びます)があります。現在の外海に面するものと、尖岬のものの2方向あります。このような砂嘴を複合鉤状砂嘴と呼びます。
野付半島付近では、北から北西の風がよく吹きます。この風が国後島に当たり、南西へ向かう海流を発生させます。この海流が、野付半島より北側の海岸を浸食していきます。しかし、野付半島付近では海流が曲がり流れがゆるくなります。そのため海岸線を削ってきた堆積物を堆積しはじめます。
砂嘴の堆積物を調べると、内側の尖岬は、3000年前の摩周起源の火山灰が見つかっています。ですから、この砂嘴の一部は、3000年前には形成されていたことがわかります。その後2500年前次の2つの尖岬が、1000年前にさらに3つの尖岬、最後に500年前に一番外側の尖岬が形成され、その成長は現在も続いていると考えられています。1970年代まで砂嘴の東部の海に面してる部分(竜神岬)が50mほど削られ、内側に巻き込まれた部分(ナカシベツ)が50mほど成長しています。現在も野付半島の砂嘴は、変化しているのです。
海流や砂の供給源に変化があれば、野付半島の砂嘴の姿は、これからも変わっていくでしょう。野付半島の砂嘴は、見れば見るほど、その形が不思議で、自然の妙を感じます。
砂嘴がエビの尻尾の形をしているといいましたが、野付湾では、6月から7月上旬、そして10月中旬から11月上旬にかけて、ホッカイシマエビ漁がおこなわれています。そのとき、白い三角帆の打瀬舟(うたせぶね)で漁をしますが、これがなかなか風情がある光景となっています。残念ながら、私が行ったときは、漁期ではなく、白い帆の打瀬舟を見ることはできませんでした。
この野付半島と人間とのかかわりは、かなり古く、擦文時代の堅穴式住居があることから、1000年ほど前から野付半島には、人が生活をしていたことがわかっています。江戸時代後期までは、北方領土や千島列島での交易や漁業の拠点として、集落がありました。現在もそれらの遺跡が残っています。
標津川の河口流域では、かつては幅5kmほどもある湿原ありました。標津湿原として知られていたのですが、現在では、灌漑による耕作地化によって、湿地が排水されました。野付半島の変化は、砂の重要な供給源である標津川の変化も反映することでしょう。
砂嘴が発達すると海流が当たる北側の海岸の砂は侵食を受けます。そしてその砂は砂嘴の先端の成長に使われることになります。野付半島の成長によって海流が影響を受けたのでしょうか、標津川の灌漑のためでしょうか、それとも経年変化のたためでしょうか、砂州からの砂の流出が起こり、砂嘴がなくなっていくのではないかと危惧する声もあります。
自然は変化をします。大地の変化は、一般には、ゆっくりと長い時間をかけて起こります。しかし、時には短い時間で起こることもあります。上で述べたように、砂嘴の変化も短時間で起こります。砂嘴の形成、消失には、海流が重要な働きをします。ですから、海流の変化が起これば、砂嘴の変化はかなり早く起こります。野付半島の砂嘴のように、古くから人間が住んでいるところでも、見慣れていると思っている風景も、実は時と共に変化しているのです。人間の営為なのか、自然の営為なのか分かりませんが、自然は時々刻々変化しています。そんな自然の変化を、野付半島では感じることができました。
・あごかエビか・
野付「のつけ」とは、アイヌ語で「あご」を意味するそうです。
半島の先端が陸地側に向って大きく湾曲しているのが
人のあごに似ているところから名付けられているようです。
しかし、私には、あまりあごには見えませんね。
アイヌの人が見ると、野付半島はアゴに見えたかもしれませんが、
私にはエビの尻尾にみえますが、これは、時間による変化によって、
今私が見ていると野付半島の形と、
アイヌの人たちが見てい名前を付けた時とは
実は違った形をしていたためかもしれませんね。
もしそうなら面白いことになりますね。
・四角い太陽・
野付湾は、冬特に2月頃に「四角い太陽」が見えることで有名です。
四角い太陽は、空気の温度差によってできる蜃気楼の一種です。
地表付近の大気の温度がマイナス20度以下になり、
上空に暖かい空気があることが条件となります。
2月の寒い頃の特別な気象状態になったときだけに見られるものです。
四角い太陽だけでなく、時には六角形や
ワイグラスのよう見えることもあるようです。
私がいったのは春ですから、そのような太陽は見えるはずもないのですが、
泊まった温泉旅館のご主人が写真を撮られているらしく、
館内に置かれたいるアルバムには、
不思議な太陽の写真がたくさん収められていました。
宿を立つときに好きな写真をどうぞと、
不思議な太陽の写真を頂きました。
写真で見ても、不思議なのですから、
現実に見るともっと心打たれるものなのでしょうね。
でも、寒いのが難ですね。
今年のゴールデンウィークに北海道の東部(道東)を訪れました。観光では以前1度いったことがあるのですが、調査では初めてとなります。北海道でも札幌近郊に住んでいると、道東へは移動距離が長く、なかなか訪れにくいところです。しかし、北海道の海岸線の調査を完成するためには、道東は避けることができません。今回、満を持して出かけることにしました。
今年のゴールデンウィークは5日間の連休でしたので、行くまでに1日、帰るのに1日かかるので、正味3日間が調査の予定でした。野付半島は、2日目の午後に訪れました。
以前野付半島を訪れたのは、北海道に住む前のことです。風が強い秋の平日で、外を少し見たら寒くて土産物屋に逃げ込んだ記憶があります。観光客もまったくみかけられず、土産物屋では私たち家族だけがストーブにあたっていたという記憶があります。
今回は、ラムサール条約の締結後、最初のゴールデンウィークということもあって、多くの観光客が訪れていました。また、ネイチャーセンターも2002年5月にできていて、周辺の案内もされていました。
私が今回訪れた目的は、砂嘴(さし)というものを、もう一度、見て、歩いて、感じるためでした。砂嘴とは自然が砂で作り上げたものです。砂の楼閣のように、砂嘴も時の流れでたやすく変化してきます。そんな変化を考えてみたかったのです。
砂嘴の「嘴」とは難しい字ですが、「くちばし」という意味の漢字です。鳥のくちばしのような形をしていることから、砂嘴という名称がつけられています。
砂嘴は、大きなものとしては、アメリカのフロリダ半島の先端にあるキーウェストが有名ですが、日本では天橋立が有名です。いずれも行ったことがあるのですが、地域ごとにその風情は違ってきます。その風情の違いは、そこに流れている大地の営みのスピードによるもののような気がします。そして、その営みがスピードからかもし出される時間の流れが違うように感じます。その違いは、地形や植生として垣間見ることができると思っています。
日本最大の砂嘴は、今回訪れた北海道東部にある野付半島です。標津町と別海町にある野付半島は、全長約26kmもある砂の堆積によってできた地形です。
江戸時代の中頃までは、トドマツ・エゾマツ・ハンノキ・カシワなどの原生林がありました。現在の半島部は、砂浜の草原と湿地帯となっています。それは、半島の地盤沈下によって、砂嘴の中に海水が浸入し、原生林が枯れてしまったからです。
トドワラというところがあるのですが、もとはトドマツの原生林があったところで、ナラワラはミズナラ・ダケカンバ・ナナカマド・エゾイタヤなどの林があったところです。トドマツやミズナラの枯れ木林が、原生林の面影を残しています。
砂嘴は、海岸で内湾となったところに、沿岸を流れる海流が堆積物を運んできてできます。湾の先端に当たる海岸や岬に、海流の方向に沿って堆積物がたまることがあります。すると岬が砂浜として延びていきます。波の作用には浸食する作用もあります。ですから、堆積する速度が波の侵食の速度より大きければ、堆積物がたまり、砂嘴が成長してきます。これが砂嘴のでき方です。もちろん、周辺の川から海へ十分な堆積物を運んで来る必要があります。
野付半島では、内湾に当たるところが野付湾で、別名尾岱沼(おだいとう)とも呼ばれています。摩周湖から斜里岳をへて知床半島にまで連なる火山列に端を発する川が、根室海峡に多数流れ込みんでいます。これらの川が、砂嘴の砂の供給源となります。特に標津川が野付半島の北側付け根にあり、重要な供給源と考えられます。その砂は大部分が安山岩の起源ものです。
海流のオホーツク海から知床半島と国後島の間の根室海峡を通り抜けてきた海流によって、砂が運ばれて、砂嘴が発達しています。
海流のいたずらで、野付湾に向かって砂嘴が枝を出したようになっています。まるで、エビの尻尾のような形にいくつかの岬(尖岬と呼びます)ができています。9個の分岐があります。これは、内側のものが古い砂嘴で、外側に向かって新しい砂嘴ができることによって、このようま地形ができたと考えられています。
そして外海沿っている高い堤上の砂の列(砂堤列と呼びます)があります。現在の外海に面するものと、尖岬のものの2方向あります。このような砂嘴を複合鉤状砂嘴と呼びます。
野付半島付近では、北から北西の風がよく吹きます。この風が国後島に当たり、南西へ向かう海流を発生させます。この海流が、野付半島より北側の海岸を浸食していきます。しかし、野付半島付近では海流が曲がり流れがゆるくなります。そのため海岸線を削ってきた堆積物を堆積しはじめます。
砂嘴の堆積物を調べると、内側の尖岬は、3000年前の摩周起源の火山灰が見つかっています。ですから、この砂嘴の一部は、3000年前には形成されていたことがわかります。その後2500年前次の2つの尖岬が、1000年前にさらに3つの尖岬、最後に500年前に一番外側の尖岬が形成され、その成長は現在も続いていると考えられています。1970年代まで砂嘴の東部の海に面してる部分(竜神岬)が50mほど削られ、内側に巻き込まれた部分(ナカシベツ)が50mほど成長しています。現在も野付半島の砂嘴は、変化しているのです。
海流や砂の供給源に変化があれば、野付半島の砂嘴の姿は、これからも変わっていくでしょう。野付半島の砂嘴は、見れば見るほど、その形が不思議で、自然の妙を感じます。
砂嘴がエビの尻尾の形をしているといいましたが、野付湾では、6月から7月上旬、そして10月中旬から11月上旬にかけて、ホッカイシマエビ漁がおこなわれています。そのとき、白い三角帆の打瀬舟(うたせぶね)で漁をしますが、これがなかなか風情がある光景となっています。残念ながら、私が行ったときは、漁期ではなく、白い帆の打瀬舟を見ることはできませんでした。
この野付半島と人間とのかかわりは、かなり古く、擦文時代の堅穴式住居があることから、1000年ほど前から野付半島には、人が生活をしていたことがわかっています。江戸時代後期までは、北方領土や千島列島での交易や漁業の拠点として、集落がありました。現在もそれらの遺跡が残っています。
標津川の河口流域では、かつては幅5kmほどもある湿原ありました。標津湿原として知られていたのですが、現在では、灌漑による耕作地化によって、湿地が排水されました。野付半島の変化は、砂の重要な供給源である標津川の変化も反映することでしょう。
砂嘴が発達すると海流が当たる北側の海岸の砂は侵食を受けます。そしてその砂は砂嘴の先端の成長に使われることになります。野付半島の成長によって海流が影響を受けたのでしょうか、標津川の灌漑のためでしょうか、それとも経年変化のたためでしょうか、砂州からの砂の流出が起こり、砂嘴がなくなっていくのではないかと危惧する声もあります。
自然は変化をします。大地の変化は、一般には、ゆっくりと長い時間をかけて起こります。しかし、時には短い時間で起こることもあります。上で述べたように、砂嘴の変化も短時間で起こります。砂嘴の形成、消失には、海流が重要な働きをします。ですから、海流の変化が起これば、砂嘴の変化はかなり早く起こります。野付半島の砂嘴のように、古くから人間が住んでいるところでも、見慣れていると思っている風景も、実は時と共に変化しているのです。人間の営為なのか、自然の営為なのか分かりませんが、自然は時々刻々変化しています。そんな自然の変化を、野付半島では感じることができました。
・あごかエビか・
野付「のつけ」とは、アイヌ語で「あご」を意味するそうです。
半島の先端が陸地側に向って大きく湾曲しているのが
人のあごに似ているところから名付けられているようです。
しかし、私には、あまりあごには見えませんね。
アイヌの人が見ると、野付半島はアゴに見えたかもしれませんが、
私にはエビの尻尾にみえますが、これは、時間による変化によって、
今私が見ていると野付半島の形と、
アイヌの人たちが見てい名前を付けた時とは
実は違った形をしていたためかもしれませんね。
もしそうなら面白いことになりますね。
・四角い太陽・
野付湾は、冬特に2月頃に「四角い太陽」が見えることで有名です。
四角い太陽は、空気の温度差によってできる蜃気楼の一種です。
地表付近の大気の温度がマイナス20度以下になり、
上空に暖かい空気があることが条件となります。
2月の寒い頃の特別な気象状態になったときだけに見られるものです。
四角い太陽だけでなく、時には六角形や
ワイグラスのよう見えることもあるようです。
私がいったのは春ですから、そのような太陽は見えるはずもないのですが、
泊まった温泉旅館のご主人が写真を撮られているらしく、
館内に置かれたいるアルバムには、
不思議な太陽の写真がたくさん収められていました。
宿を立つときに好きな写真をどうぞと、
不思議な太陽の写真を頂きました。
写真で見ても、不思議なのですから、
現実に見るともっと心打たれるものなのでしょうね。
でも、寒いのが難ですね。
2006-05-15
17 種子島:共通性と地域性 2006.05.15
Time:
9:15
●
Geologist
種子島はプレート境界で形成される付加体という地質体からできています。その付加体の一般的な性質は日本列島共通のものでありながら、地域ごとの個性を生むものでもありました。そんな共通性と地域性をみていきましょう。
私は北海道に住んでいますので、冬になると雪が積もり、道が埋もれ、石が埋もれて、川や山に入れなくなり、野外の調査ができなくなります。でも、私は地質を調べたり地形を眺めたりするのが好きなので、冬でも野外調査にでたくなります。でも、やはり冬の北海道ではだめです。そこで冬休みには、本州の雪のないところを調査をすることにしています。
2005年の冬休みは、種子島に出かけました。効率的に見るために、屋久島から種子島へと順番にみてきました。屋久島については以前(04 屋久島:自然に流れるさまざまな時間(2005.04.15))紹介しましたので参考にしてください。
面積で見ると屋久島(500平方km)も種子島(453平方km)も同じほどですが、屋久島は周囲約130kmの丸い形をしているのに対して、種子島は細長く南北に伸びた(幅5~12km、長さ72km)形をしています。屋久島の宮之浦岳は標高1936mもあり最高峰で九州でも一番の高さを持ちますが、種子島は最高でも標高282mしかない、のっぺりとした平たい島です。屋久島を先に訪れたせいでしょうか、種子島が異様に平らで長い島だというのが第一印象でした。
しかし、そんな種子島でもよく見ると起伏があることがわかります。特に海岸へは急な坂を降りるような地形になっています。このような両島の違いは、それぞれの島の地質と大地の営みの違いを反映しているのです。
屋久島は中央の大部分を花崗岩が占めていて、周辺に堆積岩が少しあるという岩石の構成になっています。一方、種子島の大地は、ほとんど堆積岩からできています。この花崗岩の有無が、両島の地形を違いを生んでいます。
屋久島の主体を成す花崗岩は、マグマが地下深部でゆっくりと冷え固まったものです。その花崗岩が隆起をし、上にあった地層が侵食されて、地表に顔を出したものです。そのため屋久島では、花崗岩の周辺にもともとあった地層が少し残っているだけで、あとは花崗岩の高い山となりました。そして山が高く雨が多い地域に当たるため、侵食が続き、屋久島は険しい山岳の地形となっています。
地層は土砂が固まったもので、花崗岩と比べれば軟らかく、浸食を受けやすい岩石です。ですから、堆積岩からできてる種子島は侵食を受け、高まりは削られ平らになっているのです。
さらに、一般に、堆積岩でも新しい時代にできたものは、古い時代のものに比べて軟らかく、侵食に弱い岩石となります。関東から西に琉球列島まで続く日本列島(西南日本といいます)では、太平洋側の海に近い(外帯と呼びます)ほど、地層の形成された時代は新しくなります。したがって、屋久島より太平洋側に位置する種子島の地層のほうが新しく、軟らかくなるので、侵食も早く進んでいくことになります。
実際に両島の堆積岩を比べてみますと、両島の地層は四万十層群に属する一連の地層で、似たような性質の岩石からできています。一番古い地層は屋久島も種子島も熊毛層群(古第三紀中期)と呼ばれている地層です。熊毛層群は、頁岩と砂岩からできていて、褶曲やたくさんの断層が形成されています。
屋久島では熊毛層群だけでしたが、種子島では熊毛層群だけではなく、より新しい時代の地層も出ています。中央から南半部にかけて熊毛層群を不整合という関係でおおう茎永層群があります。茎永層群は、新第三紀中新世と呼ばれるより新しい時代に形成された礫岩、砂岩、シルト岩が繰り返す地層(互層といいます)からできています。
茎永層群をおおって上中層と呼ばれる鮮新世の地層があり、さらに上には第四紀という一番新しい時代にたまった地層や、ローム層が分布しています。第四紀の地層は、それほど固まっておらず、主に石英砂からできています。そして、その中には砂鉄もたくさん含まれています。
四万十層群は、西南日本の外帯に連続的に分布する地層で、陸と海溝の間で形成されたものです。海溝とは、海洋プレートが大陸プレートの下に沈み込む場所です。海溝の陸側では、陸から河川などよって運ばれて堆積物が大陸棚にたまっています。その堆積物が、海洋プレートに押されて列島の下に押し込まれます。さらに、海溝に沈みこめなっかた海の岩石の破片も、陸側に付け加わることがあります。このように海溝と大陸棚の間、つまり海洋プレートと大陸プレートも境界でできた堆積物全体を付加体と呼んでいます。四万十層群は、付加体からできています。
付加体でできる地層には特徴があります。海洋プレートの沈み込みに引きづられて、刺身のようにちぎれた地層が、次から次へと陸側にもぐり込みながら付け加わります。そして、地層の刺身は沈み込みと同じよう角度で、新しいものが下側になって付け加わっていきます。
紀伊半島、四国、九州には、列島の地殻があり、陸となっています。ところが大隈半島から南の薩摩諸島から琉球列島までは、点々と島はありますが陸地が連続しているわけではありません。この地域には列島の地殻が十分成長していないのです。たとえ四万十層群があっても、まだ完全な陸にはなっていのないのです。
海底にたまっている地層が陸になるためには、持ち上げる作用が必要となります。屋久島では、花崗岩の上昇がその作用を担いました。では、種子島では、そのような作用が起こっているのでしょうか。
日本列島の海沿いには、海岸段丘のような海岸特有の地形が形成されます。陸地に残された海岸段丘などを調べることから、その地の隆起の程度を読み取ることができます。日本列島ではこのような調査から、新しい時代の変動の特徴が調べられています。
西南日本の太平洋岸には、海岸沿いに30~50kmも続く段丘地形よく見られます。そこでは地震に伴う地殻変動がよく起こっていることがわかっています。種子島では、平均すると1000年で1m以上も隆起するような、とっても激しい変動地域に区分されています。これら海洋プレート(フィリピン海プレーと呼ばれています)が大陸プレート(ユーラシアプレートと呼ばれています)を押しながらもぐりこんでいるためだと考えられます。ちなみに屋久島は、1000年で0.5~1mという、種子島より遅い隆起速度の地帯に区分されています。
隆起が激しく起こっているとこでは、岩石が持ち上げられる時に、壊れるところができます。岩石が壊れるということは、断層ができるということです。最近隆起しているということは、活動的な断層つまり活断層があるということになります。
種子島には、現在4つの活断層があることがわかっています。いずれも種子島を北西-南東に切るように断層が形成されています。北から順番に、花里崎-田之脇断層、平鍋-中山断層、下田-油久断層、阿高磯断層と名づけられています。これらの断層は、たびたび地震の原因となり、今後も地震が起こる可能性があります。最近では、1996年9月9日に、断層によるマグニチュード5.7の地震が発生しています。
種子島では、第三紀層を削っている海食台地があることから、段丘の形成は第三紀の終わりからとなります。何段かの段丘の面があることから、現在まで、段丘地形が形成されるような大規模な隆起運動が何度かあったことがわかっています。
西南日本の外帯では、もともと海底でできた地層が陸地に出ているのは、上昇するための仕組みとして、海洋プレートが沈み込んで大陸プレートを押し上げているのです。ただし、薩摩諸島や琉球列島では、海洋プレートの衝突の方向が斜めでずれているために、上昇させる力が十分でなく、部分的にしか働かないようです。
種子島で活断層があり海岸段丘がつくる坂道があるのは、プレート境界にできる地質体であるという、西南日本外帯に共通する地質学的性格のためです。しかし、種子島がこのようなのっぺりとした地形としてここに存在するのは、九州の南部の海溝に近い位置にあり、断層の上昇運動のこの地に集中したという種子島がたどった地域固有の歴史のためです。
海岸へ降りるときの坂道は、のっぺりとした種子島にも、大地の変動の歴史が深く刻まれていることを教えてくれているのです。
・これも種子島・
種子島は、鉄砲伝来の地として有名ですが、
私にはロケットの打ち上げ基地としての印象が強くあります。
種子島を訪れたのは、もちろん地層を見るのが主とした目的ではありますが、
やはり種子島宇宙センターを訪れることも、忘れていませんでした。
残念ながら、打ち上げが近かったので、
センター全体を見学することはできませんでしたが、
巨大なロケットの部品が公道を通るのに出くわしました。
着々と打ち上げ準備が進んでいることを
肌で感じることができました。
このとき準備されたいたのは
H-IIAロケット7号機で、2005年2月26日に、無事打ち上げられました。
このロケットには運輸多目的衛星新1号(MTSAT-1R)という
長ったらしい名前の衛星が搭載されていました。
この衛星は、「ひまわり6号」と名付けられ、現在活躍中です。
1999年11月15日の後継機の打ち上げが失敗のために、
「ひまわり5号」が無理やり寿命を延ばして使っていたのですが、
それも限界すぎました。
アメリカからレンタルで「ゴーズ9号」が使われていました。
しかし、打ち上げ成功で2005年6月28日から
後継衛星である「ひまわり6号」が気象観測を開始し、
日本が晴れて自前の衛星を持つことができたのです。
・砂鉄・
種子島は堆積岩でできているせいでしょうか、
浜辺ごとに砂の様子が違っています。
砂鉄が波の作用で濃集しているようなところがいくつもありました。
鉄浜(かねはま)海岸という地名があり、
そこでは砂鉄をとっていたため、このような名前がついているようです。
種子島では、砂鉄が多いことは昔知られていたのですが
昭和32年の調査で砂鉄資源が多く、200万トン以上あると推定されました。
そのため、九州でも有数の砂鉄を産地となっており、
昭和40年代では、種子島は鹿児島県内でも一番の産出量を誇っていました。
種子島の砂鉄では、鉄だけでなく、
チタンの含有量も多かったため採取していました。
ただ、現在では採鉱はされていません。
採鉱されなくなって時間がたちますから、たくさんの砂鉄が濃集しています。
もちろん、私は、鉄浜海岸で砂鉄を採取しました。
私は北海道に住んでいますので、冬になると雪が積もり、道が埋もれ、石が埋もれて、川や山に入れなくなり、野外の調査ができなくなります。でも、私は地質を調べたり地形を眺めたりするのが好きなので、冬でも野外調査にでたくなります。でも、やはり冬の北海道ではだめです。そこで冬休みには、本州の雪のないところを調査をすることにしています。
2005年の冬休みは、種子島に出かけました。効率的に見るために、屋久島から種子島へと順番にみてきました。屋久島については以前(04 屋久島:自然に流れるさまざまな時間(2005.04.15))紹介しましたので参考にしてください。
面積で見ると屋久島(500平方km)も種子島(453平方km)も同じほどですが、屋久島は周囲約130kmの丸い形をしているのに対して、種子島は細長く南北に伸びた(幅5~12km、長さ72km)形をしています。屋久島の宮之浦岳は標高1936mもあり最高峰で九州でも一番の高さを持ちますが、種子島は最高でも標高282mしかない、のっぺりとした平たい島です。屋久島を先に訪れたせいでしょうか、種子島が異様に平らで長い島だというのが第一印象でした。
しかし、そんな種子島でもよく見ると起伏があることがわかります。特に海岸へは急な坂を降りるような地形になっています。このような両島の違いは、それぞれの島の地質と大地の営みの違いを反映しているのです。
屋久島は中央の大部分を花崗岩が占めていて、周辺に堆積岩が少しあるという岩石の構成になっています。一方、種子島の大地は、ほとんど堆積岩からできています。この花崗岩の有無が、両島の地形を違いを生んでいます。
屋久島の主体を成す花崗岩は、マグマが地下深部でゆっくりと冷え固まったものです。その花崗岩が隆起をし、上にあった地層が侵食されて、地表に顔を出したものです。そのため屋久島では、花崗岩の周辺にもともとあった地層が少し残っているだけで、あとは花崗岩の高い山となりました。そして山が高く雨が多い地域に当たるため、侵食が続き、屋久島は険しい山岳の地形となっています。
地層は土砂が固まったもので、花崗岩と比べれば軟らかく、浸食を受けやすい岩石です。ですから、堆積岩からできてる種子島は侵食を受け、高まりは削られ平らになっているのです。
さらに、一般に、堆積岩でも新しい時代にできたものは、古い時代のものに比べて軟らかく、侵食に弱い岩石となります。関東から西に琉球列島まで続く日本列島(西南日本といいます)では、太平洋側の海に近い(外帯と呼びます)ほど、地層の形成された時代は新しくなります。したがって、屋久島より太平洋側に位置する種子島の地層のほうが新しく、軟らかくなるので、侵食も早く進んでいくことになります。
実際に両島の堆積岩を比べてみますと、両島の地層は四万十層群に属する一連の地層で、似たような性質の岩石からできています。一番古い地層は屋久島も種子島も熊毛層群(古第三紀中期)と呼ばれている地層です。熊毛層群は、頁岩と砂岩からできていて、褶曲やたくさんの断層が形成されています。
屋久島では熊毛層群だけでしたが、種子島では熊毛層群だけではなく、より新しい時代の地層も出ています。中央から南半部にかけて熊毛層群を不整合という関係でおおう茎永層群があります。茎永層群は、新第三紀中新世と呼ばれるより新しい時代に形成された礫岩、砂岩、シルト岩が繰り返す地層(互層といいます)からできています。
茎永層群をおおって上中層と呼ばれる鮮新世の地層があり、さらに上には第四紀という一番新しい時代にたまった地層や、ローム層が分布しています。第四紀の地層は、それほど固まっておらず、主に石英砂からできています。そして、その中には砂鉄もたくさん含まれています。
四万十層群は、西南日本の外帯に連続的に分布する地層で、陸と海溝の間で形成されたものです。海溝とは、海洋プレートが大陸プレートの下に沈み込む場所です。海溝の陸側では、陸から河川などよって運ばれて堆積物が大陸棚にたまっています。その堆積物が、海洋プレートに押されて列島の下に押し込まれます。さらに、海溝に沈みこめなっかた海の岩石の破片も、陸側に付け加わることがあります。このように海溝と大陸棚の間、つまり海洋プレートと大陸プレートも境界でできた堆積物全体を付加体と呼んでいます。四万十層群は、付加体からできています。
付加体でできる地層には特徴があります。海洋プレートの沈み込みに引きづられて、刺身のようにちぎれた地層が、次から次へと陸側にもぐり込みながら付け加わります。そして、地層の刺身は沈み込みと同じよう角度で、新しいものが下側になって付け加わっていきます。
紀伊半島、四国、九州には、列島の地殻があり、陸となっています。ところが大隈半島から南の薩摩諸島から琉球列島までは、点々と島はありますが陸地が連続しているわけではありません。この地域には列島の地殻が十分成長していないのです。たとえ四万十層群があっても、まだ完全な陸にはなっていのないのです。
海底にたまっている地層が陸になるためには、持ち上げる作用が必要となります。屋久島では、花崗岩の上昇がその作用を担いました。では、種子島では、そのような作用が起こっているのでしょうか。
日本列島の海沿いには、海岸段丘のような海岸特有の地形が形成されます。陸地に残された海岸段丘などを調べることから、その地の隆起の程度を読み取ることができます。日本列島ではこのような調査から、新しい時代の変動の特徴が調べられています。
西南日本の太平洋岸には、海岸沿いに30~50kmも続く段丘地形よく見られます。そこでは地震に伴う地殻変動がよく起こっていることがわかっています。種子島では、平均すると1000年で1m以上も隆起するような、とっても激しい変動地域に区分されています。これら海洋プレート(フィリピン海プレーと呼ばれています)が大陸プレート(ユーラシアプレートと呼ばれています)を押しながらもぐりこんでいるためだと考えられます。ちなみに屋久島は、1000年で0.5~1mという、種子島より遅い隆起速度の地帯に区分されています。
隆起が激しく起こっているとこでは、岩石が持ち上げられる時に、壊れるところができます。岩石が壊れるということは、断層ができるということです。最近隆起しているということは、活動的な断層つまり活断層があるということになります。
種子島には、現在4つの活断層があることがわかっています。いずれも種子島を北西-南東に切るように断層が形成されています。北から順番に、花里崎-田之脇断層、平鍋-中山断層、下田-油久断層、阿高磯断層と名づけられています。これらの断層は、たびたび地震の原因となり、今後も地震が起こる可能性があります。最近では、1996年9月9日に、断層によるマグニチュード5.7の地震が発生しています。
種子島では、第三紀層を削っている海食台地があることから、段丘の形成は第三紀の終わりからとなります。何段かの段丘の面があることから、現在まで、段丘地形が形成されるような大規模な隆起運動が何度かあったことがわかっています。
西南日本の外帯では、もともと海底でできた地層が陸地に出ているのは、上昇するための仕組みとして、海洋プレートが沈み込んで大陸プレートを押し上げているのです。ただし、薩摩諸島や琉球列島では、海洋プレートの衝突の方向が斜めでずれているために、上昇させる力が十分でなく、部分的にしか働かないようです。
種子島で活断層があり海岸段丘がつくる坂道があるのは、プレート境界にできる地質体であるという、西南日本外帯に共通する地質学的性格のためです。しかし、種子島がこのようなのっぺりとした地形としてここに存在するのは、九州の南部の海溝に近い位置にあり、断層の上昇運動のこの地に集中したという種子島がたどった地域固有の歴史のためです。
海岸へ降りるときの坂道は、のっぺりとした種子島にも、大地の変動の歴史が深く刻まれていることを教えてくれているのです。
・これも種子島・
種子島は、鉄砲伝来の地として有名ですが、
私にはロケットの打ち上げ基地としての印象が強くあります。
種子島を訪れたのは、もちろん地層を見るのが主とした目的ではありますが、
やはり種子島宇宙センターを訪れることも、忘れていませんでした。
残念ながら、打ち上げが近かったので、
センター全体を見学することはできませんでしたが、
巨大なロケットの部品が公道を通るのに出くわしました。
着々と打ち上げ準備が進んでいることを
肌で感じることができました。
このとき準備されたいたのは
H-IIAロケット7号機で、2005年2月26日に、無事打ち上げられました。
このロケットには運輸多目的衛星新1号(MTSAT-1R)という
長ったらしい名前の衛星が搭載されていました。
この衛星は、「ひまわり6号」と名付けられ、現在活躍中です。
1999年11月15日の後継機の打ち上げが失敗のために、
「ひまわり5号」が無理やり寿命を延ばして使っていたのですが、
それも限界すぎました。
アメリカからレンタルで「ゴーズ9号」が使われていました。
しかし、打ち上げ成功で2005年6月28日から
後継衛星である「ひまわり6号」が気象観測を開始し、
日本が晴れて自前の衛星を持つことができたのです。
・砂鉄・
種子島は堆積岩でできているせいでしょうか、
浜辺ごとに砂の様子が違っています。
砂鉄が波の作用で濃集しているようなところがいくつもありました。
鉄浜(かねはま)海岸という地名があり、
そこでは砂鉄をとっていたため、このような名前がついているようです。
種子島では、砂鉄が多いことは昔知られていたのですが
昭和32年の調査で砂鉄資源が多く、200万トン以上あると推定されました。
そのため、九州でも有数の砂鉄を産地となっており、
昭和40年代では、種子島は鹿児島県内でも一番の産出量を誇っていました。
種子島の砂鉄では、鉄だけでなく、
チタンの含有量も多かったため採取していました。
ただ、現在では採鉱はされていません。
採鉱されなくなって時間がたちますから、たくさんの砂鉄が濃集しています。
もちろん、私は、鉄浜海岸で砂鉄を採取しました。
2006-04-15
16 石狩川:ゆく河の流れは絶えずして 2006.04.15
Time:
9:14
●
Geologist
私にとって身近な大河を紹介しましょう。その大河にも、変化の歴史と、人との歴史もあります。
私が住む街には、街の中を流れる大河があります。石狩川です。我が町で見る石狩川は、多くの水をたたえながら、とうとうとして流れています。雨が降ると、水かさが増え、茶色くにごりますが、どこかに雄大さが感じられます。まさに大河と呼ぶにふさわしいものだと思います。
石狩川の源流は、北海道の中央に位置する大雪山系の石狩岳(標高1967m)にあります。大雪山の南東にある石狩岳から、大雪山を反時計回りに、旭川をへて深川まで巡っていきます。川の流れの方向は、大雪山という火山の高まりを迂回するためです。石狩川は、深川から石狩平野を南下します。石狩平野は平坦なため蛇行しながら流れています。そして、江別市で西に流れを変えて、石狩市で日本海の石狩湾に注ぎます。
しかし、現在見られるこのような石狩川の流れは、昔からこのような流れであったわけではなく、さまざまな変遷をしてきました。洪水で蛇行がまっすぐになるような変化もありました。洪水が起きると、そこには土砂が溜まり、新たな大地として更新されます。また、石狩平野は硬い大地ではなく、湿地帯としての履歴も持ちます。
現在の石狩平野にあたるところは、もともと低い地域で、石狩低地帯と呼ばれています。日本海側の石狩市から、太平洋側の苫小牧市まで70km以上に渡って20から30kmほどの幅で低地帯は続いています。石狩低地帯の地下をボーリングして調べて見ると、そこには海に住む貝化石を含むような地層が見つかります。そのような海で溜まった地層の厚さは、200m以上になることがあります。この海は、東が夕張山地、西には火山地帯であったので、狭い海で石狩海峡と呼ばれています。
石狩海峡は、リス氷河期の終わり(約10万年前)ころから急激に浅くなり、リス-ウルム間氷期(約7万年前)にはなくなり、陸化しました。そのため、石狩川は、海峡の跡を通って、今の苫小牧あたりから太平洋に注いでいました。平坦な平野を流れていた石狩川は、蛇行や氾濫を繰り返していました。そのため石狩低地帯は湿地帯となり、泥炭がたまるような場所や河川の氾濫によって土砂が溜まるような環境となりました。最後の氷河期であるウルム氷期が訪れると海が後退して、広い湿地帯が広がりました。
海の後退と同じ頃、3.2万から2.9万年前に、支笏カルデラをつくった火山は、非常に激しい活動をして、周辺にも大量の火山噴出物を放出しました。千歳から苫小牧かけて、大量の火山堆積物が溜まりました。石狩川はせき止められて、太平洋に流れ込むことができなくなりました。その結果、石狩川は、現在のように日本海へと流れ込むようになりました。
やがて氷河期が終わると、海水が増加して、海が低い陸地に進出して広がってきました。1万年前から6000年前までの縄文時代の最初のころには、石狩湾が大きく陸地に入り込んできました。そのため、札幌市内からクジラの骨や、海の貝の化石が見つかることがあります。石狩川は、流路を太平洋から日本海へ変えても、氾濫や蛇行を繰り返していました。
石狩川と人間のかかわりは、本州と同じ縄文時代からでした。本州では縄文時代の後は、農耕文化の弥生時代が始まるのですが、北海道では、続縄文時代と呼ばれる時代(察文時代とも呼ばれます)が続きました。ついでアイヌの先祖の時代となります。
続縄文時代を継承しつつ、オホーツク文化や本州の文化を吸収して、13世紀には、アイヌ文化が成立しました。アイヌの人たちは、石狩川流域で、狩猟採取の生活をしていた。
1869(明治2)年7月に蝦夷開拓使が設置され、石狩川と十勝川の沿岸に入殖が進められ、開拓の歴史がはじまります。本州から多くの人が農耕のために入植しました。そして本州では見られないような、大規模な西洋式の農業形態が導入されてきました。石狩平野の農耕は、石狩川の治水が重要な課題として取り組まれてきました。
そんな人間の営みを無にするような洪水を、自然は時として起こします。1898(明治31)年、1904(明治37)年7月、1932(昭和7)年8月、戦後になっても1961(昭和36)年7月、1962(昭和37)年8月、1975(昭和50)年8月、1981(昭和56)年8月、さらに近年の2001(平成13)年9月にも台風15号による大雨で洪水を起こしています。
蛇行する河川に大水が流れると、蛇行の外側を削っていきます。つまり堤防があっても削っていきます。そこに増水が加われば、堤防の決壊という事態がおきます。蛇行をなくし流れをまっすぐにすると、水はスムースに流れていきます。
開拓がはじまって以来、石狩川の治水工事とは、蛇行をなくし、まっすぐにショートカットさせていくものでした。そして川の両側には、大きな堤防が設けられました。増水があっても堤防を越えたり壊したりすることなく、すぐに海に水を流してしまうという方法です。
このような治水の結果、もともと356kmあった石狩川の長さは、100km近く短くなり、268kmになりました。それでも現在、日本で第2位の長さを誇っています。
石狩川は平坦な石狩平野を蛇行しながら、何度も流路を変えてきました。その記録は、川の周辺にある三日月湖からもうかがい知ることができます。そもそも、石狩川の語源としては、イ・シカラ・ペツから由来しているという説が有力です。イ・シカラ・ペツとは、曲がりくねった川という意味のアイヌ語です。先住民のアイヌの人も、石狩川が特別に曲がりくねっているということを、よく知っていたのです。
私は、自然のままの川が好きです。しかし、災害はもちろん起こらないほうがいいに決まっています。現在ももともとあった三日月湖や蛇行をまっすぐにして人工的に作られた三日月湖が、石狩川周辺には点在しています。しかし今後、人間が石狩川を治水している限り、三日月湖は自然にはできないのだろうなと、ふと寂しさを覚えてしまうのは私だけなのでしょうか。
・知恵と堤防・
石狩平野の石狩川の堤防は、他の川の堤防と高さは同じなのですが、
勾配が緩やかで広い裾野を持つ巨大なものになっています。
堤防の断面を見ると、まるで丘陵のように見えます。
このような堤防を、丘陵堤と呼んでいます。
石狩平野の堤防が、このような丘陵堤になっているのは、
石狩平野は泥炭が厚く堆積している湿地帯で、
地盤が非常に軟弱であるためです。
経済的効率を考えて、この工法がとられています。
石狩川の丘陵堤は、今もまだ工事がなされています。
入植から100年以上たっても、まだ川と人の戦いは続いているのです。
もちろん、洪水の被害から人や田畑、財産を守らなければなりません。
ですから治水工事は、必要なことです。
しかし、知恵を使っても、
もう少し自然の川の姿を残した方法は取れないのでしょうか。
今の技術をもってすれば、多分、お金さえかければ、
思うがままのものが作ることができるのでしょう。
自然を守ることと安全をお金に換算して、
安い方を選択するのはいかがなものでしょうか。
いろいろ難しい問題があるのでしょうが、
もう少し、知恵は絞って、いいものを作る方法はないのでしょうかね。
・春の到来・
皆さんの町では、桜や入学式も終わり、春たけなわでしょうか。
札幌では雪解けが宣言されたようですが、
北海道は、まだ花の季節に少し早いようです。
4月に入っても、何度も雪が降りました。
わが町では、まだ雪もあちこちに残っています。
桜はまだまだで5月になりそうですが、
遅いながらも、北国の春は少しずつはじまっています。
平地部の雪解けはほとんど終わり、
田畑の作業も各地ではじまっています。
これからが、一番良い季節となります。
つらい雪の季節を耐えたからこそ味わえる春の到来です。
私が住む街には、街の中を流れる大河があります。石狩川です。我が町で見る石狩川は、多くの水をたたえながら、とうとうとして流れています。雨が降ると、水かさが増え、茶色くにごりますが、どこかに雄大さが感じられます。まさに大河と呼ぶにふさわしいものだと思います。
石狩川の源流は、北海道の中央に位置する大雪山系の石狩岳(標高1967m)にあります。大雪山の南東にある石狩岳から、大雪山を反時計回りに、旭川をへて深川まで巡っていきます。川の流れの方向は、大雪山という火山の高まりを迂回するためです。石狩川は、深川から石狩平野を南下します。石狩平野は平坦なため蛇行しながら流れています。そして、江別市で西に流れを変えて、石狩市で日本海の石狩湾に注ぎます。
しかし、現在見られるこのような石狩川の流れは、昔からこのような流れであったわけではなく、さまざまな変遷をしてきました。洪水で蛇行がまっすぐになるような変化もありました。洪水が起きると、そこには土砂が溜まり、新たな大地として更新されます。また、石狩平野は硬い大地ではなく、湿地帯としての履歴も持ちます。
現在の石狩平野にあたるところは、もともと低い地域で、石狩低地帯と呼ばれています。日本海側の石狩市から、太平洋側の苫小牧市まで70km以上に渡って20から30kmほどの幅で低地帯は続いています。石狩低地帯の地下をボーリングして調べて見ると、そこには海に住む貝化石を含むような地層が見つかります。そのような海で溜まった地層の厚さは、200m以上になることがあります。この海は、東が夕張山地、西には火山地帯であったので、狭い海で石狩海峡と呼ばれています。
石狩海峡は、リス氷河期の終わり(約10万年前)ころから急激に浅くなり、リス-ウルム間氷期(約7万年前)にはなくなり、陸化しました。そのため、石狩川は、海峡の跡を通って、今の苫小牧あたりから太平洋に注いでいました。平坦な平野を流れていた石狩川は、蛇行や氾濫を繰り返していました。そのため石狩低地帯は湿地帯となり、泥炭がたまるような場所や河川の氾濫によって土砂が溜まるような環境となりました。最後の氷河期であるウルム氷期が訪れると海が後退して、広い湿地帯が広がりました。
海の後退と同じ頃、3.2万から2.9万年前に、支笏カルデラをつくった火山は、非常に激しい活動をして、周辺にも大量の火山噴出物を放出しました。千歳から苫小牧かけて、大量の火山堆積物が溜まりました。石狩川はせき止められて、太平洋に流れ込むことができなくなりました。その結果、石狩川は、現在のように日本海へと流れ込むようになりました。
やがて氷河期が終わると、海水が増加して、海が低い陸地に進出して広がってきました。1万年前から6000年前までの縄文時代の最初のころには、石狩湾が大きく陸地に入り込んできました。そのため、札幌市内からクジラの骨や、海の貝の化石が見つかることがあります。石狩川は、流路を太平洋から日本海へ変えても、氾濫や蛇行を繰り返していました。
石狩川と人間のかかわりは、本州と同じ縄文時代からでした。本州では縄文時代の後は、農耕文化の弥生時代が始まるのですが、北海道では、続縄文時代と呼ばれる時代(察文時代とも呼ばれます)が続きました。ついでアイヌの先祖の時代となります。
続縄文時代を継承しつつ、オホーツク文化や本州の文化を吸収して、13世紀には、アイヌ文化が成立しました。アイヌの人たちは、石狩川流域で、狩猟採取の生活をしていた。
1869(明治2)年7月に蝦夷開拓使が設置され、石狩川と十勝川の沿岸に入殖が進められ、開拓の歴史がはじまります。本州から多くの人が農耕のために入植しました。そして本州では見られないような、大規模な西洋式の農業形態が導入されてきました。石狩平野の農耕は、石狩川の治水が重要な課題として取り組まれてきました。
そんな人間の営みを無にするような洪水を、自然は時として起こします。1898(明治31)年、1904(明治37)年7月、1932(昭和7)年8月、戦後になっても1961(昭和36)年7月、1962(昭和37)年8月、1975(昭和50)年8月、1981(昭和56)年8月、さらに近年の2001(平成13)年9月にも台風15号による大雨で洪水を起こしています。
蛇行する河川に大水が流れると、蛇行の外側を削っていきます。つまり堤防があっても削っていきます。そこに増水が加われば、堤防の決壊という事態がおきます。蛇行をなくし流れをまっすぐにすると、水はスムースに流れていきます。
開拓がはじまって以来、石狩川の治水工事とは、蛇行をなくし、まっすぐにショートカットさせていくものでした。そして川の両側には、大きな堤防が設けられました。増水があっても堤防を越えたり壊したりすることなく、すぐに海に水を流してしまうという方法です。
このような治水の結果、もともと356kmあった石狩川の長さは、100km近く短くなり、268kmになりました。それでも現在、日本で第2位の長さを誇っています。
石狩川は平坦な石狩平野を蛇行しながら、何度も流路を変えてきました。その記録は、川の周辺にある三日月湖からもうかがい知ることができます。そもそも、石狩川の語源としては、イ・シカラ・ペツから由来しているという説が有力です。イ・シカラ・ペツとは、曲がりくねった川という意味のアイヌ語です。先住民のアイヌの人も、石狩川が特別に曲がりくねっているということを、よく知っていたのです。
私は、自然のままの川が好きです。しかし、災害はもちろん起こらないほうがいいに決まっています。現在ももともとあった三日月湖や蛇行をまっすぐにして人工的に作られた三日月湖が、石狩川周辺には点在しています。しかし今後、人間が石狩川を治水している限り、三日月湖は自然にはできないのだろうなと、ふと寂しさを覚えてしまうのは私だけなのでしょうか。
・知恵と堤防・
石狩平野の石狩川の堤防は、他の川の堤防と高さは同じなのですが、
勾配が緩やかで広い裾野を持つ巨大なものになっています。
堤防の断面を見ると、まるで丘陵のように見えます。
このような堤防を、丘陵堤と呼んでいます。
石狩平野の堤防が、このような丘陵堤になっているのは、
石狩平野は泥炭が厚く堆積している湿地帯で、
地盤が非常に軟弱であるためです。
経済的効率を考えて、この工法がとられています。
石狩川の丘陵堤は、今もまだ工事がなされています。
入植から100年以上たっても、まだ川と人の戦いは続いているのです。
もちろん、洪水の被害から人や田畑、財産を守らなければなりません。
ですから治水工事は、必要なことです。
しかし、知恵を使っても、
もう少し自然の川の姿を残した方法は取れないのでしょうか。
今の技術をもってすれば、多分、お金さえかければ、
思うがままのものが作ることができるのでしょう。
自然を守ることと安全をお金に換算して、
安い方を選択するのはいかがなものでしょうか。
いろいろ難しい問題があるのでしょうが、
もう少し、知恵は絞って、いいものを作る方法はないのでしょうかね。
・春の到来・
皆さんの町では、桜や入学式も終わり、春たけなわでしょうか。
札幌では雪解けが宣言されたようですが、
北海道は、まだ花の季節に少し早いようです。
4月に入っても、何度も雪が降りました。
わが町では、まだ雪もあちこちに残っています。
桜はまだまだで5月になりそうですが、
遅いながらも、北国の春は少しずつはじまっています。
平地部の雪解けはほとんど終わり、
田畑の作業も各地ではじまっています。
これからが、一番良い季節となります。
つらい雪の季節を耐えたからこそ味わえる春の到来です。
登録:
投稿 (Atom)